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ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

ふと思い出す あの人この人

2025-07-12 13:29:59 | あの頃
 5月のブログに『探しもの・・!どこ?』と題して、
認知症の初歩ではないかと疑われる体験を記した。
 実に不安である。

 「認知症であっても、わりと昔のことはよく覚えている」
と聞いたことがある。
 私は、何か切っ掛けがあると、古い出来事が鮮明に蘇る。
「そんなことまで、よく覚えているね」
 しばしば驚かれる。

 それが「認知症からなのかどうか・・」は別にして、
ふとしたことで思い出す旧友たちがいる。
 それが、時として私の大切な清涼剤になっている。


 ▼ 5月になってから、今年もゴルフを再開した。 
いつも家内と2人のラウンドだ。

 しかも、愛車のトランクにキャディーバックを2つ積み、
足元はゴルフシューズ、頭はゴルフキャップで自宅を出発。
 
 10分少々で、クラブハウスに到着。
駐車と受付を済ませて、ゴルフカートに向かう。
 ほんの数分待ちで、「スタートOK!」の知らせが届く。

 自宅を出てから、20分足らずでラウンド開始だ。
こんな贅沢なゴルフに慣れてはいけないといつも思う。

 「手軽にゴルフができるからと、
プレーが雑になってはいけない」
そう自分に言い聞かせながら、一打一打スイングする。

 さて、なんとかグリーンにボールが載って、パッティングに移る。
パターを握り、いつものルーティーンでカップをねらう。
 その時に、よくSさんを思い出す。

 ゴルフ友だちの中で、彼とは1番多くラウンドしている。
私よりもキャリアも腕前も上である。

 私のパッティングがショートすると、
いつも彼は静かな口調で言った。
 「カップをオーバーする場合にはインすることもあるけど、
ツカちゃん、ショートしたら絶対に入らないんだよ」。

 だから、カップを超えるような強さでパッティングするよう心がける。
ときに、それが功を奏し、見事カップに吸い込まれる。

 しかし、先日も変わらずカップに届かないパッティングの多かったこと。
そのたびに、「ツカちゃん、ショートしたら・・」の静かな声が聞こえてきた。


 ▼ 有名ラーメンチェーン店なのに、
家内は、そこでラーメンではなく「あんかけ焼きそば」を食べた。
 私は、それに抵抗があり、
店の看板メニューのラーメンを注文した。 
 
 ある日、「一度は同じものを」と食べてみた。
以来、私も「あんかけ焼きそば」になってしまった。

 「あんかけ焼きそば」2つに「餃子」1つ。
それが、私たちの定番になって数年になる。
 店員さんにも「いつもの」で通じるように・・・。

 さて、一緒に注文する餃子についてだ。 

私が餃子を知ったのは、東京に行ってからである。
 それまで、メニュー名では知っていたが、
口にしたことがなかった。

 新米教師として勤務した小学校には、
同期が2人いた。
 男2人女1人、独身3人でよく夕食を囲んだ。
 
 今で言う「街中華」に、3人初めて入った時だ。
確か、私はチャーハンにした。
 2人は何にしたか忘れた。

 その時、餃子も注文しようとAちゃんが言った。
それに女性のYさんも賛成した。
 私は、餃子を「食べたことがない」と言った。

 Aちゃんは驚きながらも
「でも、美味しいから食べようよ」。
 3人前を追加注文した。

 その餃子が、先に来た。
2人は、小皿にたれをつくった。
 手を動かしながら、私に作り方を教えてくれた。
初めてラー油に酢と醤油を混ぜてたれを作った。
 その分量も2人に真似た。

 目の前のAちゃんが、箸で餃子をつかみ、
たれにつけてから食べた。
 美味しそうな顔が印象的だった。

 彼は食べながら、私に勧めた。
「ツカちゃんも食べてみな。美味しいから」 
 半信半疑だったが、
Aちゃんをまねて、たれをつけてから一口で食べた。
 初めての美味しさだった。

 食べながら何度もAちゃんを見た。
若干肥満気味だったAちゃんは、
額に汗を浮かべながら、やっぱり美味しそうな顔だった。

 あれから、何度あの街中華で3人で食べただろう。
餃子を欠かしたことはなかった。
 Aちゃんは、いつも美味しそうな顔だった。

 今回も、家内と向き合い、小さな皿にたれをつくりながら、
Aちゃんを思い出した。

 「餃子を教えてくれたのは、Aちゃんなんだ」
家内には何度も言った気がする。
 でも、美味しそうなあの顔がまた蘇ってくるのだ。
そして、半世紀も前の
「ツカちゃんも食べてみな。美味しいから」
が聞こえてくるのだ。 


 ▼ 4月に軽いギックリ腰をしてからは、
朝ランどころか、散歩もしなくなった。

 それに代わって、
ほとんど毎朝30分程度のストレットをしている。
 ゆっくりと時間をかけて、
それぞれの部位を意識して伸ばしていく。

 特に痛めた腰の辺りは、丁寧に無理しないで、
ゆっくりとストレッチ。
 これが、徐々に効果が上がってきているよう・・・。
まだ、ランニングまでにはいかないが、
期間を空ければゴルフだってできる。

 さて、そのストレッチにふくらはぎと一緒に、
アキレス腱の伸縮運動を2種類入れている。
 それをしていると、Zさんをよく思い出す。

 30歳代のころ、彼と同じ学校にいた。
年齢も同じで、気兼ねなく付き合っていた。
 よく一緒にお酒も飲んだ。

 毎年、互助会が主催する学校対抗戦があった。
あの頃は、テニスとバレーボール、卓球の試合があった。

 対抗戦が近づくと仕事に一区切りをつけ、
5時半頃から練習をした。
 
 彼も私も、体を動かすことが好きだった。
その上、汗をかいた後の「一杯」が何より楽しみだった。
 なので、練習には率先して参加し、
試合以上に楽しんだ。

 その日、バレーボールの練習を始めてすぐだった。
準備運動とサーブ練習の後、それぞれのポジションについた。
 サーブを入れて貰って、レシーブ、トス、アタックを始めたばかりの時だった。

 9人制の後衛にいた彼が、レシーブと同時に転んだ。
そして、そのままうずくまってしまった。
 「駄目だ。立てない」と言う。

 退勤前だった保健室の先生を呼んだ。
「アキレス腱を痛めたようです」と。

 体育館は3階だった。
比較的大柄な彼を交代交代で、おぶって1階に降ろした。

 「きっと入院になります」
保健の先生の声に。
 「じゃ、自宅近くの病院がいい」

 彼の希望する病院に診察をお願いし、
私が同伴し、タクシーで向かった。
 奥さんに連絡がつき、
その病院で落ち合うことになった。

 病院に着くと、すでに奥さんがいた。
彼は痛めた足をかばいながら、
私の肩をかりてタクシーを降りた。

 駆け寄った奥さんが、彼に言った。
「アキレス腱だって! ねぇ、痛くないの?」
それまでの彼とは違った。
小さく弱々しい声だった。
 「痛いよ」

 「そこで、待ってって。
車いすを借りてくるからね」
 奥さんは、小走りで病棟へ向かった。

 バレーコートで転んでから、
「痛くない?」と次々と訊いても、
 彼は「大丈夫!」とだけ言っていた。
それが、奥さんには「痛いよ!」と弱々しいのだ。

 私は、車椅子がくるまで彼に肩を貸しながら、
何も言えなかった。
 やっと奥さんに弱音を言った彼。
私たちには、それを押し黙り通した彼。

 私は、羨ましいような、寂しいような気持ちのまま、
車いすの彼と奥さんの後ろ姿が、病棟に消えるまで見届けた。


  【お知らせ】
 『goo blog』のサービスが11月18日で終了します。
 従って、私のブログも他のブログサービスに引っ越すことにしました。
 今後は『はてなブログ』に引っ越しを考えています。
 来週は、その引っ越し作業にチャレンジしてみます。
 なので、1週お休みし、
 7月26日(土)からは、『はてなブログ』からの発信を予定しています。
 『ジューンベリーに忘れ物 はてなブログ』で検索し、
 訪問して下さい。




       収穫目前 麦畑  
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喰わず嫌い 『ソフトクリーム』編

2025-03-08 10:55:33 | あの頃
 このブログに、喰わず嫌い『のりの佃煮』編を載せたのは、
2015年1月だった。
 それから「喰わず嫌い」シリーズは、『ウナギ』編、『貝』編、
『イタリアン』編、『兎鍋』編、『くだもの』編、
『きのこ』編、『初めて』編と、
途切れ途切れだが、2018年2月まで続き、
その後は休止状態になった。

 なんと7年ぶりになるが、
このシリーズの復活を思いついた。
 と言っても、継続への自信はない。
まずは、『ソフトクリーム』編を書いてみることにした。

 本題に入る前に、水道水について少々触れる。
朝食前のルーティーンとして、サプリメントを2種類飲んでいる。
 当地に移る前からなので、もう20年も続いている。
私の健康の秘訣と信じ込んでいる。
 1カプセルと3粒の錠剤だが、
改めて言うことでもないが、
コップに入れた水道水で一気に飲むのだ。

 つい先日、それを見ていた家内が、
「普通のことのように、水道の水で飲むようになったね。
 前は、絶対に水道水では飲まなかった人なのにね!」

 「東京の水が合わなかった」
と言えばそれまでだが、
水道水などの生水は口にしなかった。
 体に合わなかった。
少量の水でもすぐにお腹にきた。

 だから、以前はサプリメントでも風邪薬でも
お湯で湧かした麦茶を冷やし、それで飲んでいた。

 ところが、当地に来てからは、
水道水が飲めるようになった。
 いくら飲んでも、お腹にくることがない。
実に不思議だ。

 さて、若い頃から今も、変わらないのが牛乳である。
これには、本当に困った。
 
 何を隠そう。
現職時代の学校給食である。
 給食の献立には、毎日必ず牛乳がついた。

 給食指導の大事なポイントは、
「好き嫌いをしないで残さず食べること」。
 それを指導する私が、牛乳が飲めずに残すのだ。

 まだ『食物アレルギー』と言うことが、
浸透していないかった。
 「先生は、牛乳を飲むとお腹を壊すので飲みません」
それが、子ども達に中々理解されなかった。
 だから、無理して飲んだ。
休み時間には、急いでトイレに駆け込んだ。

 そんな有り様だから、
それに関連した乳製品も「同じく!」だった。
 まず、アイスクリームがダメ。

 コースメニューで出てくるデザートの
少量のアイスクリームならまだいい。
 だが、市販のカップの量は無理。

 当然、ソフトクリームは一口程度ならOKだが、
コーンカップの全量など食べた事がなかった。

 ところが、当地に来てから、 
水道水が飲めるようになった。
 多少はチャレンジ精神が芽生えた。

 夏のある日、家内に付き合って観光物産館に買い物に行った。
館内のコーナーには、
当地の牛乳を原料にしたソフトクリームがあった。 
 テーブル席で、それを美味しそうに食べている人を見た。
 
 「うまそう!
少しでいいから、食べてみたい!
 残りは、あげるから1つ買おう!」
家内に言って、ソフトクリームを手にした。

 予想通り、清涼感のある美味しさだった。
でも、半分も食べずに家内に渡した。
 お腹に変化はなかった。

 その美味しさが脳裏に刻まれた。
次は、必ず完食してみようと決めた。

 そして、遂にその時が来た。
やはり同じシチュエーションで、
物産館のソフトクリーム売り場へ。

「今日はソフトクリーム、2つ!
 1つずつ食べようよ!」
「えっ! 大丈夫なの?」
家内はすかさず言った。

 「きっと! 1個を食べられる」
何となく、自信があった。

 初めてソフトクリームを全て食べ終えた。
満足した。
 しかも、お腹を壊すこともなく。
美味しさも加わり、嬉しさが倍増した。
 少し浮かれた。

 すると、どこへ出かけても、
ソフトクリームの看板が目に入るようになった。
 「ここにもソフトが! 食べたい!」
そのフレーズがよく飛び出すようになった。

 特に、新千歳空港のお土産売り場はすごい。
土産店の至るところに、ソフトクリームがあった。

 東京へ行く時、誰かの送り迎えの時、
ついソフトクリームに目が行った。
 
 雪印パーラー、わかさいもやルタオの土産店、
そして、きのとやの札幌農学校クッキー売場など、
色々とソフトクリームを食べた。

 店によって味が違った。
どれも惹かれた。 

 昨年夏だったろうか
『新千歳空港ソフト・アイスクリーム総選挙2024』
と銘打ったイベントがあった。
 その結果、濃厚部門の1位は、
きのとやの「極上牛乳ソフト」だった。
 その味を思い出し、納得した。

 そろそろ、結びにしよう。
大沼公園まで遠出をした時だ。
 駅前の食堂に、ジャージー牛のソフトクリームがあった。

 初めてのソフトだった。
一口食べて、すぐにつぶやいた。
 「これは嫌い!」

 食べ残しを家内に渡した。
「美味しいのに!」
 家内は不満顔をした。

 実は、今も練乳が苦手だ。
あの濃厚なミルク味が、好きになれない。
 それと同じ味のソフトクリームだった。

 まだまだ好きになれないものがありそうだ!


 

      ジューンベリーの 今  
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あの頃のお金事情

2025-02-22 11:27:51 | あの頃
 ▼ 家内とは学生時代に知り合った。
なので、年に何回かはあの頃のことが話題になる。
 「男子寮」「女子寮」と言うだけで、
そこがどんなところだったかも、すぐにわかり合える。

 学生食堂のあった「厚生会館」も、
そこのメニューも、そこの面倒見のいいおばさんも・・・。

 つきあい始めたのは、
私が3年で家内が2年の夏から。
 だから、私が1年目2年目の頃の多くを家内は知らない。
その頃のことを、朝食後の茶飲み話にした。

 ▼ 入学を果たしたものの、
学生生活のプランがないまま、
それよりも一人暮らしの心構えがないまま、
学生寮での生活が始まった。

 男子寮は、木造の薄汚い平屋が3棟、
渡り廊下で繋がっていた。
 これも床の歪んだ食堂を兼ねた暗いホールが1つあり、
どう言う訳か卓球台が置いてあった。

 20畳くらいの大部屋に4人で寝泊まりした。
私の部屋は、3年生と2年生2人に1年生の私だった。
 3人の先輩はそろって口が重く、暗かった。

 食事の時間も洗濯場も聞くことさえできなかった。
寮内をウロウロして、
1週間以上もかかって寮の全体が分かった。
 
 持ってきた下着の着替えがすぐになくなった。
洗濯の仕方が分からず困った。
 洗濯場で洗っている人を見て、やり方が分かった。
洗剤を買って、初めて手洗いをした。
 
 先輩3人との会話がない生活が、すごく不気味だった。
誰もラジオさえ聞かなかった。
 いつの間にか押し入れから布団を出し
それぞれ無言のまま寝た。
 そんな暮らし方が寮生活なのだと思ったが、
全然馴染めなかった。

 ▼ やがて、同期の友だちができた。
Y君は、同じ研究室だった。
 卓球部にいて、寮ではなく4畳半のアパート住まいだった。
部活が終わると、自分で夕食を作って食べていた。

 私が寮のご飯は冷たくて不味いとよく言うので、
時々、「一緒に食べないか」とアパートに誘ってくれた。
 小さな折りたたみのテーブルに向かい合い、
フライパンのジンギスカンを食べた。

 熱くて美味しかった。
食べながら、ラジオからのお喋りに2人で声を上げて笑った。

 いつまでもそうしていたかった。
寮に戻るのがいやだった。
 時には「泊まっていくか?」と言ってくれた。
一緒に一枚の布団で寝た。

 続いて、T君だが、
どうして仲良くなったのか思い出せない。

 高校生の頃に、麻雀を覚えた。
なので、T君の下宿で雀卓を囲むようになった。

 下宿のおばさんは、
「大声を出さなければいいよ」と、
徹夜の麻雀も許してくれた。
 
 さほど麻雀には夢中になれなかったが、
寮に戻らず居られるのならと、
T君から誘われると喜んで徹夜麻雀に加わった。

 下宿暮らしのT君には、朝と夕方に温かい食事が出た。
「テレビを見ながら食べるんだ」と聞いた。

 次第にY君やT君の暮らしに憧れた。
でも、奨学金とわずかな仕送りで、
それ以外に収入がなかった。
 寮を出ての暮らしは考えられなかった。

 ▼ 1年が過ぎた。
私は、痩せた。
 学食のおばさんが、
「ちゃんと食べてないんでしょ」と、
昼食時間に厨房の皿洗いをすることを条件に、
残ったメニューを無料で食べさせてくれた。

 それでも、少しずつ体調が悪くなった。
大学の保健室へ行き、相談した。
 「寮生活ではなく、しっかり食事ができる生活をしないと」
保健室の先生から助言があった。

 連休を利用して、帰省した。
無理を言って、大学へ行った。
 父や兄に、嫌な寮生活を口にできなかった。
でも、母は直感したようだ。

 「どうしたの。何かあったの」
と言ってくれた。
 寮を出て、友だちと同じ下宿で暮らしたい。
それには、お金が足りないことを伝えた。

 母は「そう、困ったね。困ったね」を何度もくり返した。
そして、翌日だった。

 誰もいないところで母は小声で
「みんなには内緒よ。
私の臍繰りから、お金を上げるから、
友だちと一緒の下宿に移りなさい。
 絶対に言ったら駄目だよ」

 白い紙に小さくたたんだお札を包み、
私の手に握らせた。
「これは3か月分ね。
 夏休みには、またあげるから」。

 嬉しさより、ホッと安堵した。
「これで寮から出られる!」
 気持ちが軽くなった。

 大学に戻るとT君の下宿に行った。
タイミング良く、4畳半の1人部屋が空いていた。

 6畳に2人暮らしだったT君が、
「俺の方がまだ金があるから、
4畳半に移るよ」と言ってくれた。
 私はその好意に甘えた。

 下宿のおばさんが
「塚原さん、いい友だちを持ったね」
と言った。
 「はい!」
久しぶりに明るい返事ができた。

 その後、次第に元気を取り戻した。
家庭教師のアルバイトを探した。
 冬休みには、郵便配達のアルバイトもした。
できるだけ、母の臍繰りを当てにしないように努めた。




      氷上にて 陽春をうけ  
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現職の頃に書き記したこと

2025-01-25 11:00:16 | あの頃
 教職を去る時に、それまでに書き記したものをまとめた。
久しぶりにそのページをめくってみた。
 忘れかけていた大切なものを、揺り動かしてくれた。
その中から、3つを転記する。


     試行錯誤

 長年にわたり話題となっているテレビドラマの一つに、
『三年B組金八先生』があります。
 何度かそれがシリーズものとして繰り返されてきたので、
世代を越えてこのドラマをご覧になった方も少なくないように思います。

 確か数年前だったでしょうか、
もう50数歳になった姿の金八先生が放映されたようですが、
残念ながら私はそれを見る機会を逃してしまいました。

 しかし、もう20年以上も前になるでしょうか、
私はこのドラマのある場面を決して忘れることなく今もいます。

 それは、今で言う「学校の荒れ」を取り上げていたのですが、
非行グループが学校間抗争をくり返し、
その上、校内では暴力事件を頻繁に起こす。
 そのような状況の打開策を、
教職員と保護者が話し合うのですが、
「そんな非行グループは警察に任すしか方法はない」
と主張する保護者に対して、金八先生は異を唱えるのでした。

 果たしてその異が正しいのかどうか、
実際にそのような状況になったなら、
その判断はきわめて難しいところですが、
しかし彼が言った言葉は強く私を捉えました。

 それは、
「子供というのは大人と違うんです。
 だから毎日毎日いろいろと間違ったことをする。
間違った考えを持つ。
 それが子供なんです。
その間違いを私たち大人が、
それは間違いだと教えてやる。
 時にはそれを叱る。
それで子供はその間違いに気付くんです。
 それでも、また子供は間違うもんなんです。
そしたら、また大人が、それは間違いだと教えるのです。
 そうやって子供は少しずつ大人になっていくんです。
間違わなくなるんです。
 それを私たち大人が止めてしまったら、
子供はどうやって大人になるんですか。」

 確かにその通りだと、私は今も納得しています。
「これが正しい道だよ。
その道は間違っているよ。」
 そう教える時には、分かりやすく諭すような伝え方も、
場合によっては叱るような方法もあるでしょう。
 子供はそんな大人の教えを聞きながら、
毎日毎日、一人一人その子なりの試行錯誤をくり返し、
そして、その子らしい生き方を選択していくのだと思います。


     その子への理解を
                      
 ある研究会で講師をされた大先輩の校長先生が、
私にとってとても衝撃的な発言をしたことを書きます。

 それは、
「人は30年も40年もあるいはそれ以上長く生きてくると、
幼いときから今日までの間に、
どなたも1、2度は大きな失望や挫折感に支配され、
自らの命を断とうと思われたことがあるはずです。

 だけどそうしないで、今こうしているのは何故でしょうか。
それはきっとそんなことをしたら、
『間違いなくあの人だけは心から悲しむ、
もしかしたら、今の自分以上に落胆するに違いない。
 そうだ、そんな思いをさせてはいけない。』

 そう思ったからこそ立ち直り、
死を選ばず、今を生きているのではないでしょうか。
 つまり、生死は別として、
人は自分のことを心から理解してくれる存在があれば、
それを力にして、自らエネルギーを発揮し、生きていくのです。」
と言うのです。

 私は、体験的に大いに納得すると共に、
確かに人間は誰でも自分を理解してくれる存在を求めているし、
その存在があればこそ、自らのエネルギーをかきたてて、
毎日を生きていくのだと思います。

 子どもたちは、当然、性格や持ち味、能力、特性など
どの子として同じではありません。
 その一人一人を理解し、「よく理解している」ことを
その子に伝えながら触れ合うことは、難しい教育活動の一つです。
 しかし、『教育は児童理解に始まり、児童理解に終わる』の言葉通り、
それこそが自ら進んで学習に取り組む子供の姿を、
保障する基本になると思います。


   「ごめんなさい」が言える

 作・内田麟太郎さん、絵・降矢ななさんの
絵本「おれたち ともだち」シリーズから、
その第四巻『ごめんね ともだち』を紹介しようと思います。

 おかしな思いつきから、
キツネは「ともだちや」と言う商売を始めます。
 その商売が切っ掛けとなって、
なんとキツネはオオカミと大の仲良しになるのです。

 しかし、ある日、ダーツをやっても、けん玉をしても、トランプをしても、
オオカミはキツネにことごとく負けてしまいます。
 負けて悔しくてたまらないオオカミは、
「お前がズルしたからに違いない。インチキ。」
と、キツネの椅子を蹴飛ばし、
その上「インチキはこの家から出て行け。」
とどしゃ降りの雨の中、
傘も持たせずにキツネを追い出してしまいます。
 キツネはずぶぬれになりながら帰っていきます。

 それを見て、オオカミはすぐに家の中でしょげてしまいます。
オオカミはつぶやきます。
 「俺の言い過ぎだった。
あいつはインチキなんか絶対にしていない。」

 ですからオオカミは、次の日いつもの散歩道に出かけ、
キツネに会ったら「ごめんな」と謝るつもりでした。
 しかし、翌日、キツネには会えたものの、
いざとなると「ごめんな。キツネ。」とは言えませんでした。

 キツネの方も「オオカミさん」と声をかけたかったのですが、
ぷいとそっぽを向いてしまいます。

 オオカミとキツネに限らず、
誰にでも一度や二度このような経験があるのではないでしょうか。

 オオカミは、この絵本の冒頭でこう言っています。
「俺、オオカミ。俺の苦手な言葉、知ってるか。
ごねんね。ごめん。ごめんなさい。
 難しいんだ。
心の中なら簡単なのに、その簡単がなぜだか言えない。」

 このことは、オオカミだけでなく、キツネも同じでした。
あの時、散歩道でそっぽを向いたりしなければと、
オオカミに「ごめんね」と言いたくて、
でも、それが言い出せません。

 このお話では、なかなか「ごめんなさい」が言えない不甲斐なさから、
キツネが思わずこぼした涙で、小さなアリがぬれてしまいます。
 その時、キツネがとっさに、
アリに言った「ごめん」が切っ掛けとなり、
オオカミとキツネは、互いに「ごめんね」と言い合い、
そして以前よりももっと仲のよい二人になるのでした。

 さて、このお話をどう読み取りますか。
オオカミとキツネ同様、
私たちはつい自分の思いや言い分だけを考え、
トラブルになることがあります。
 そんな時、自分の至らなさや勝手さに気付いても、
このお話のように、なかなか「ごめんなさい」が言えないことがあります。

 私たちの歩む道には、
それこそ「ごめんなさい」と言い合わなければならない機会が、
たくさんあると思います。

 謝りたいのはオオカミだけではなっかたのです。
キツネも同じ気持ちだったのです。
 だとしたら、なかなか言えない「ごめんなさい」という言葉も、
簡単ではないにしろ、言えるのではないでしょうか。

  これからの時代は、ますますスピードが求められ、
人々の生活も忙しさを増し、
社会は複雑化に拍車がかかることでしょう。
 だからこそ、間違いを素直に謝ると言ったことが、
極めて大切になる時代だと私は思えてなりません。




      積雪0の 真 冬
                  ※ 次回のブログ更新予定は、2月8日(土)です
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給食でしか・・無性に食べたく

2024-10-19 10:37:08 | あの頃
 就寝前のひと時、テレビのチャネルを回していたら、
バラエティー番組で学校給食が話題になっていた。

 「某居酒屋のメニューにある『チリコンカン』は、
学校給食で食べた懐かしい味だ」と言う。
 急に興味がわいた。

 「チリコンカン・・・?」
私の記憶にはない献立名だった。
 どうやら豆料理のようで、
牛肉、大豆、玉ねぎなどをトマトと一緒に煮込んだものらしかった。
 
 番組では、それを美味しそうに食べる居酒屋の場面が
紹介されていた。
 少しお酒がまわったお客さんが、
チリコンカンを前に言う。

 「これ、給食でしか出たことがなかったけど、
昔、よく学校で食べました。
 人気がありましたよ。
あの頃も美味しかったし、今も時々食べたくなります!」。

 さて、私の給食体験だが、小学校4年から始まった。
当時は、いつもコッペパンと牛乳(脱脂粉乳だったかも)、
それにおかずが1品ついた。
 給食が美味しかったイメージはない。
でも、いつもみんなと同じ物を食べることができた。
 それがすごく嬉しかった。

 教職についてからは、ずっと給食のお世話になってきた。
ふと、テレビ番組のあの彼のように、
「給食でしか食べたことがなかったものってあっただろうか?
今も食べたくなる給食ってあるだろうか?」
 現職の頃に想いを巡らせてみた。

 
  ① 給食でしか食べたことがなかったもの

 まず上げたいのは、『ミネストローネ』だ。
最初に食べたのは、ベテラン教員になってからだ。

 「ミネストローネ」と献立表にあっても、
どんな物か想像できなかった。
 気さくな栄養士さんだったので、前の日に訊いてみた。 
 
 すると、イタリア料理で綺麗な色のスープだと言った。
その日の朝、同じ説明を子ども達にし、
「楽しみだね」と言った。
 本当は、私が一番楽しみにしていた。

 トマトの色だとも知らずに、
具だくさんの赤いスープの美味しさに驚いた。

 今は、たまたま入ったレストランで、
本日のスープが「ミネストローネ」だったりすると、
宝くじにでも当たったような気分になる。

 次は、デザートとして出てきた果物、『ビワ』である。
長野県や千葉県が主な生産地らしいが、
それまで見たことのないフルーツだった。

 きっと知識として、名前は知っていたと思うが、
ビワとの初対面は、担任をしていた教室でだった。
 どうやって食べるのか、知らなかった。

 子ども達が、手で器用に皮をむくのを見て、
真似してむいた。
 その後も盗み見て、食べ方を知った。

 食べ慣れずに、果汁がこぼれ落ちそうになり、
子ども達に気づかれないようにと緊張して食べた。

 真ん中に予想外に大きな種があった。
慌てて、私のだけだろうかと子ども達の種を見回した。
 そんなことがあったけど、上品な甘さが一度で好きになった。

 今は、当地でも春にスーパーのフルーツコーナーに、
箱入りのものが並ぶ。
 高価な値が付いている。

 「これじゃ、この辺りの学校では、
給食に出ることはないだろう」
と思いつつ、私も素通りしている。

 最後は、冷凍みかんだ。
冬を迎える頃から春まで、よく普通のみかんが出た。
 時季的には珍しいことではなかった。

 しかし、いつからだろうか。
みかんの前に、冷凍みかんの日が時々あった。

 給食の配膳をしている間に、冷凍が徐々に解けだした。
給食のお盆が濡れ、パンにその水が浸みることがあり厄介だった。
 
 皮は柔らかくてむきやすい。
一房一房も食べやすかった。
 でも、どうして冷凍みかんが出るのか不思議だった。
 
 時折、思い出してスーパーで探してみたが、
冷凍みかんが人気商品だとは思えなかった。
 今も、やっぱり不思議なまま冷凍食品のケースを覗くことがある。


  ② 今も食べたくなる給食

 ネットに、こんな触れ込みのアンケート調査があった。
『ときどきふと思い出して、無性に食べたくなる給食ってありますよね。
なかでも特に好きだったメニューが人それぞれあるかと思うので、
みんなの “推し” をアンケートで調査してみました』。

 そのベスト3は、1位『揚げパン』、2位『わかめごはん』、
3位『カレーライス』であった。
 どれも、十分に納得できた。
その1つ1つは、私にとっても『今も無性に食べたくなる給食』である。

 他にも食べたくなる給食がある。
その中から、2つを記す

 1つ目は、『煮込みうどん』である。
特に低学年の場合だが、
給食の配膳を子どもだけに任せることができないメニューであった。
 煮込みうどんは、担任が給仕しても大変だった。

 苦労してやっと全員に取り分けて、食べ始めるのだが、
いつ食べても、このうどんは本当に美味しかった。

 学校によって、またその時々によって、
煮込みの具材も味付けも違った。
 それでも、具だくさんでその味がよくうどんにしみ込んでいた。
給食でしか食べられないうどんだった。

 ある時、あまりにも美味しかったので、
栄養士さんに、どこの製麺所のものか尋ねた。
 返ってきた答えは、
「普通の業務用冷凍うどんです」。
 これには、ビックリした。

 2つ目は、『おでん』だ。
 これも、配膳が難しかった。
何種類もの具を均等に取り分けるのだが、うまくいかない。
 だから、「だいたい同じにするけど、全部は同じにならないよ」
と、納得させてから給仕した。

 高学年になると、みんなが何度も当番を経験していたので、
その苦労がわかっていた。
 不満を言う子などいなくなった。

 このおでんだが、煮込みうどんと同様で、
色々な具の旨みがしみて、実に美味しいのだ。

 特に、大根は思い出すだけで、唾液がでてしまう。
どこのおでん屋にも負けない美味しさだった。

 もう一品、忘れられないのが昆布だ。
固く結んだ昆布だがすごく柔らかく、
普段は好まない具材だが、喜んで食べた。
 ご飯まで、いつも以上に美味しかった。




     牧草ロール 着々と冬支度 
コメント
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