8月13日、名古屋市博物館の「第4回はくぶつかん講座」を聴講。
暑い暑い、日差しが痛い。博物館の入口まで熱風にまとわり付かれる。
講座中は冷房効きすぎて痛い。終了が外に出たらまた日差しで痛い。
講座名は「紺紙に隠れた文書」ですが、当初講座名を見たとき内容が良く呑み込めず、ただ博物館や寺院の宝物館などで見かける紙が紺色で、金色や銀色で書かれた経典について何か聞けるのかと思い出かけてみました。
博物館の講座案内には副題として 最新技術で新発見! 隠れた文字が浮かび上がる とありました。
これを知らなかったのはチェックミス。
会場にパネルがあり写真に撮りましたが小さくて読めないか?
そこで、博物館の学芸員(課長)鳥居和之氏の講演レジュメの冒頭の概要写し掲載しました。
“「紺紙金字法華経」は濃い紺色に染められているので、強い光に透かしても、文字が隠されているかどうか判別できません。昨年、南知多町円増寺の法華経八巻のうち、巻一(全17紙)の巻頭から5紙に、文書が隠れていることが判明しました。それらは鎌倉時代の文書で、内容は東大寺七重塔の再建や都介氷室(つげひむろ)などの文書でした。中央の役所に提出された文書が、どのような経緯で法華経に使われたのかを考えます。”
さて、一切経は約6000巻ありそれを写す1万枚の紙が必要になるそうだ。
中尊寺の一切経(紺紙金字経)は現在京都国立博物館に保管され、調査されてきたが途中で赤外線照射したところ、その下から文書や印塔やマーク出てきた。
それまで赤外線を照射した例がなく、突然文書が出てきたところから、研究が始まったとのこと。
要は、役所などで使い古された文書が不要になったものを再利用していることが判明。
円増寺の法華経も巻頭から5枚目までの文書は全く脈絡なく適当に不要文書が使われている。
そもそも、円増寺にどうして紺紙金字法華経があるのか経緯を調べると、建長4年(1252)書写、藤原氏ゆかりの寺社に奉納 → 尾張国海東群報恩図禅寺で修復、伊勢奉納 → 文禄5年(1596)修復、最上千宝子丸の長寿福を祈願。ここまでは判明したがそれ以降円増寺に至るまでの経緯不明のようだ。
その昔、不要になった文書の紙を紺紙にする職業があったようだ。
今も紺紙はあるが、実際に書いてみると金・銀・白は書いても分かるが他の色は書いても沈んで読めない。
不要文書を紺紙にすると誰にも元の文書は分からず、経典を金字で書くことで荘厳となり畏敬の念を込めて装飾したりできる。
金字は書くとき粘りがあり良く紺紙に乗る。(鳥居氏が紺紙に書いた実物を回覧、色が沈んでいた)
実際に赤外線で出てきた文書を展示されたが、元々古文書であり文字が読めないが濃い墨の文字がハッキリ浮き出ている。金字銀字で書かれた経文は薄く出ている。
この写真も分かりにくいですが上段が通常撮影、中断が赤外線撮影、下段が補正撮影(文書)。
今後、多くの紺紙金字経典が赤外線透視されることによって、思わぬ歴史的資料が発見される可能性が期待できる。
次回は「江戸から明治 名古屋の上下水道」講座を聴講するつもり。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます