◆『恐怖なしに生きる』
J. クリシュナムルティが、さまざまな時、さまざまな場所で語った、「恐怖」についての教えを通読すると、恐怖についてだけではなく、クリシュナムルティの教えのエッセンスがおのずと理解できる構成になっている。そしてクリシュナムルティという孤高の透明な精神の魅力が、読むものの心に深い印象を残す。
彼は、恐怖について語りながら、人間の一切の苦悩の根元である「思考」(分別意識)について語っている。では恐怖をもたない状態はいかにして可能なのか。それは、「‥‥全的な注意力、つまりすべての思考、すべての言葉、すべてのふるまいへの自覚があるときにかぎって可能なのです。精神は言葉という障碍物がないとき、解釈や正当化や非難がないときに注意深くいられるのです。そのような精神はそれ自身を照らし出す光です。そしてそのような光である精神だけが恐怖をもたないのです。」
「光である精神」は、おそらく恐怖だけではなく、人間の一切の苦悩を一掃するのであろう。それ(恐怖や苦悩や怒り等々)を抱きつづけ、それから離れようとせず、それを抑圧したり超越しようとしたり、ただひたすら見るということ。
J. クリシュナムルティが、さまざまな時、さまざまな場所で語った、「恐怖」についての教えを通読すると、恐怖についてだけではなく、クリシュナムルティの教えのエッセンスがおのずと理解できる構成になっている。そしてクリシュナムルティという孤高の透明な精神の魅力が、読むものの心に深い印象を残す。
彼は、恐怖について語りながら、人間の一切の苦悩の根元である「思考」(分別意識)について語っている。では恐怖をもたない状態はいかにして可能なのか。それは、「‥‥全的な注意力、つまりすべての思考、すべての言葉、すべてのふるまいへの自覚があるときにかぎって可能なのです。精神は言葉という障碍物がないとき、解釈や正当化や非難がないときに注意深くいられるのです。そのような精神はそれ自身を照らし出す光です。そしてそのような光である精神だけが恐怖をもたないのです。」
「光である精神」は、おそらく恐怖だけではなく、人間の一切の苦悩を一掃するのであろう。それ(恐怖や苦悩や怒り等々)を抱きつづけ、それから離れようとせず、それを抑圧したり超越しようとしたり、ただひたすら見るということ。