銀河夜想曲   ~Fantastic Ballades~

月が蒼く囁くと、人はいつしか海に浮かぶ舟に揺られ、
そして彼方、海原ワインのコルクに触れるを夢見、また、眠りにつく……

父と子 ~ ライプツィヒのJ.S.バッハのサークル

2015年05月18日 18時38分21秒 | クラシック音楽
バッハからクレープス、アーベルへとつながる18世紀ドイツの音楽を、世界各地・各誌で高い評価を得ているヘレン・カルスが演奏。ヴィオラの豊かでコクのある音色を程良い残響が活かしていて、その伸びやかに深く呼吸する奏法が胸の奥へと沁み渡ります。そしてチェンバロの溌剌とした表情がまた実に清々しく、単純な伴奏に留まらずに主張が明白な点も特色。バッハのヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタはどれも活力ある演奏で、とりわけ第3番の第2楽章は楽曲の内容と演奏の質が見事なまでに合致していて、深く深く心の根元まで旋律が降りてきます。クレープスとアーベルの2作品はカルスによる編曲ですが、特に前者は必聴中の必聴!! これ程までに儚くもしなやかで美しい、闇も光も混在した陽炎の如き世界はバッハをも凌駕する凄みと慰めがあります。作品の襞に秘められた滂沱の涙が、聴く者の魂を揺さぶります!!


ヘレン・カルス(ヴィオラ)/リュック・ボーセジュール(チェンバロ)
Analekta
AN29879




孤独

2015年05月12日 23時44分48秒 | 散文(覚書)
私達は別れる瞬間に固く握手した
強く握手をした
吹き付ける風雨が彼のがっしりとした手を
老いて尚若々しい手を
更に大きく見せる

タクシーは何かに拐われるように
私の知らぬ地へと走り去った

雨は容赦なく靴を濡らし
風は瞬く間に髪を逆立てる
生乾きの靴下を履くよりマシではあっても
胸のシャツが濡れゆくのは唾液を垂らした幼児のようで
私のこともいっそ何者かが拐ってくれればと
雨に紛れながら思うのだ

人は影のように私の前を
その後ろを静かに過ぎ去る
激しく降る雨の音だけが
先までの会食の記憶を呼び起こす

しかしそれもまた夢か
ひしゃげたポケットに彼との大切な会話をしまいこんだのに
もうどこかへ消えてしまった
たくさんの
たくさんの勇気をもらったはずなのに

左手に傘の全体重がのしかかる

孤独は所詮
自分のものでしかない
空の右手が虚空に浮かぶように

それでも私は風雨を睨みつけ
再び彼と会うのだと
一歩ずつ駅へと向かった
孤独が所詮
自分のものだけであったとしても



BWV.853

2015年04月27日 03時45分14秒 | 散文(覚書)
揺れるロウソクの向こうに
ピアノを弾くあなたの影が見える
二時を過ぎても眠れぬ私のために
あなたは俯いたまま
バッハを奏でてくれる

吐息は月を隠し
群青やら青紫色に縁どられたメロディーが
静けさを嘆くように
仄かに香る

旋律は幾重ものカーテンとなって
あなたと私とを遠ざけては
また透かしてみせる

揺らめく炎はあなたの影を刻み
その心臓に
音を失ったメトロノームを植え付ける
バッハだけがこの部屋の看守なのだ

古の旋律の行方は泉の中でも
月の昇った丘の上でもない
楽譜と共に
作曲した主の森へと帰るだけだ

バッハを弾き終えたあなたは楽譜を開いたまま
ピアノもそのままに立ち去った
何かの焦げる気配だけが鍵盤を滑る

馬車が迎えに来たのだ
彷徨い人を乗せた馬車が
森を燃やしながら迎えに来たのだ

風に楽譜がはためいて
ロウソクの炎が移っていた
私の瞳に
あなたの影法師が写っていた




無題

2015年04月25日 22時35分10秒 | 散文(覚書)
叫ぶしかない
思い描いた夢が敗れたのなら
豪雨とともに叫ぶしかない
天に轟く拳でもって
叫ぶしかない

瞑るしかない
思い描いた恋が破れたのなら
霧雨とともに瞑るしかない
濡れ布団から海へ落ちる鳥を想い
瞑るしかない


無題

2015年04月25日 20時55分08秒 | 散文(覚書)
面倒臭いな何もかも
このまま全て打っ棄って
ただただ海に浮かびたい
お前らにはほとほと疲れたよ

仰向けになって空見上げ
背中に広がる海面の
ぴたぴた鳴る音だけに耳澄まし
空と海との広がりに
どれだけの差があるのかを
その度合いだけを知ってみたい

羊の数を数えるように
お前らの言葉に付き合ってられない
下らぬ喧騒にも
時間は待ってはくれぬのだ

鼓膜に届く潮騒に
子どもの頃の夢が届く
何もかもが遠いのだ
ぴたぴた頬打つ漣も
古の人の漕いだ舟

あの時流れた雲がまた流れ
光る星をまた隠す
姿こそ違えども
雲もまた流転して
光と闇とを創り出す
流されていることには気付かずに

何もかもが面倒臭い
仰げば大地など無かったのだ

紙一重の中に宿住まいして
空が胸に覆い被さる妄想に
ただただ耽るばかり

もし天使がいるのなら
その羽だけを毟り取り
海に蓋をして下さい




時計

2015年04月25日 00時04分12秒 | 散文(覚書)
微笑みの中に
花時計がある

母体の奥に
日時計がある

まばたきの一瞬に
砂時計がある

生きている証に
腕時計がある

孤独の行方に
水時計がある

温もりの名残に
懐中時計がある

夢の転生に
振り子時計がある

生き変わるために
目覚まし時計がある

星に還るために
体内時計がある



産毛の野原で

2015年04月23日 02時18分29秒 | 散文(覚書)
寝静まったあの子のほっぺたは
どこまでも続く産毛の野原
オレンジの光に照らされて
あなたが来るのを待っています

そっと口づけをしてみたら
きっと一緒に揺られます
三日月のハンモックに揺られます

風が心を吹き抜けて
心がほっぺに抱っこします
野原でかけっこしましょうね



ヒンデミット:様々な楽器とピアノのためのソナタ集

2015年04月18日 01時54分38秒 | クラシック音楽
アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)/イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)、他


アルトホルン・ソナタの第4楽章冒頭では、『ポストホルン』と題された対話形式の詩を両奏者が朗読し、その後ピアノの小気味良い流れに乗って非常に爽快な旋律が流れるのが印象的。ヴァイオリン・ソナタは、透明度の高い内容を有した佳品。イザベル・ファウストの音色は一聴して彼女と分かる艶と伸びがあり、線画を描くようなメロディーを上手く引き立たせています。白眉はチェロ・ソナタで、第2楽章のスケルツォ風の旋律が軽妙で大変面白く、第3楽章も渦巻く情念のようなモチーフに圧倒されます。チェロとピアノの丁々発止は必聴!! メルニコフのピアノは、どのソナタにおいてもタッチのきめ細やかさと打鍵の強弱に留意していて、各楽器とピアノとが対等な対位法で書かれたこれらの作品において見事なまでに存在感を打ち出しています。全体的にやや晦渋さが漂うアルバムですが、聴き込むほどに各ソナタの性格の違いを存分に味わえます!


harmonia mundi / HMC905271

グエルチーノ展

2015年04月09日 20時28分59秒 | 美術
国立西洋美術館で開催中の、グエルチーノ展に行ってきた。

最初に、『東京・春・音楽祭』の一環として行われた記念コンサート(14:00~)を聴く。美術館内の講堂で、国立西洋美術館主任研究員の方の話を聞いている途中で具合が悪くなってしまったが、薬を飲みながら必死に耐えて、最後まで座席で音楽に触れた。途中退席すべきかもとも思ったが、せっかく購入したチケットを無駄にはしたくない。
そんな状態だったので、音楽の細かなニュアンスやメロディーラインの美しさなどに集中できなかったが、江崎浩司さんや宮崎容子さん、永谷陽子さんの楽しげな演奏は充分に伝わってきた。普段なかなか聴くことのできない、珍しい楽曲を耳にできて幸せだ。できることなら、もう一度聴きたい。

演奏後は具合も少し良くなったので、展示そのものを観て回った。巨大なキャンバスに巨大な人物や天使、鳩や犬などの動物が堂々とした趣で描かれていて、とにかく圧倒された。存在感、というか実在感が迫って来る感じ。陰影が深いものもあれば、鮮やかな色合いの作品まであり、特に『サモスの巫女』という作品ではラピスラズリを使った青いマントが鮮やか且つ艶やかで、見惚れる人も多いような気がする。一番気に入ったのは、トップ画像にもある『聖母被昇天』。クレオパトラが自分の胸に毒蛇を噛ませて自害する絵も興味深かった。
ざっと観終えた作品をもう一度鑑賞し直そうと入り口付近へ戻ると、先のコンサートを終えたばかりの宮崎容子さんがヴァイオリンを背負いながら1人で展示を観ていた。話しかけたい衝動に駆られたが、静かに絵の世界を堪能したい事だろうと思えたので、そのまま彼女の後ろ姿を見送った。

久し振りに西洋美術を鑑賞した。
図録は、あとでゆっくり見ることにしよう。



わたしたちの

2015年04月09日 02時20分53秒 | 散文(覚書)
「わたしが神様だったらこんな世界にしなかった」だって?
冗談言っちゃいけないよ
世界は十分に広い
世界は十分に美しい
世界は十分に奥ゆかしい



慎み深くならなければならないのは
わたしたちの手先口先だ
思慮深くならなければならないのは
わたしたちの眼差し影法師



神様は敏捷に
具(つぶさ)に
世界を描いている
絵筆に取り残されているのは
わたしたちの方だ



自らの色挿しに
その行方ばかりに気を取られるな



無題

2015年04月07日 02時10分14秒 | 散文(覚書)
とおくのほうで ちらちらゆれる
ちいさな ろうそくの ほのおのなかに
あめに うたれた まどべがうつる

まどの まわりに
おひさまのくれた おはながたくさん さいたのに
わるいうわさが さらっていった

ねぇ
カタカタ ふるえているよ
きっと ゆめも みられないんだ

ちろちろゆれる ひのかけらを 
このてに あつめて
はなを また うえるんだ

まくらのなかに しゃぼんだま つめこんで
ぎゅっと まくらに だかれたまま
そっちへとんで ゆきたいよ




レモンティーの夕べ

2015年04月02日 00時27分03秒 | 散文(覚書)
揺り椅子に微睡むと
咥えた煙草が子守唄になる
黄昏も朝焼けも
全てが心の淵に暮れなずんでゆく

誰もいない奥のテーブルには
背もたれの高い椅子がぽつんと佇み
夢時間でも待っているのやら
時折風に吹かれて微かな音を立てる

背もたれの後ろには光が斜めに差し
朝も夕方も混じったような色を投げかけて
紅茶にレモンを浮かべた

小さな遊園地のようなレモンの輪は
爽やかな懐かしい香りを立てながら
少しずつ
ゆっくりと
時を遡るようにカップへ沈んでゆく

星が瞬き始めた空の下
小さくなったレモンの上に砂糖をふりかけ
その暮れゆく世界に雨を降らしたら
あなたはようやくやって来た

恥ずかしそうな微笑を口に目元に湛えて
もう風なんか吹いていやしないのに
髪を整える真似なんかをして

洗いたての白いシャツに月は照り
子どもに返ったあなたは
硬い背もたれに文句を言いいつつも
紅茶を愛おしそうに飲んだ
いつしか湯気の立ち昇った
レモンの思い出を

幼子の
母に抱きつくときに萌えるレモンの香りは
ずっとここから消えない

あなたが取り戻した生きる力を
決して忘れはしない
揺り椅子に微睡んだ煙草が
夜を灯し続けるように
決して
忘れはしないよ

いつかまた一緒に
小さな遊園地へ出かけよう
子どもであった日の
あなたと私とで



ヴィルサラーゼ(1975年)

2015年03月30日 00時25分46秒 | クラシック音楽
1975年、今から40年前のヴィルサラーゼの演奏動画。

Haydn - Piano Concerto in D major (Hob.XVIII:11), 2nd movement
Mozart - Rondo in A minor, K. 511
Shostakovich - Prelude & Fugue in D-flat major, Op. 87, No. 15
Schumann - Carnaval, Op. 9


1942年9月14日生まれだから、この時は32歳か33歳。非常に貴重な映像。
モーツァルトのロンドを弾いている時の表情が、特にいい。




2015年03月26日 01時51分03秒 | 散文(覚書)
1年前のことを思い出すと
つい昨日だったと叫んでしまう

10年前のことを思い出すと
懐かしさがじんわりこみ上げる 

20年前のことを思い出すと
あの頃に帰りたいとしんみり思う

50年前のことを想ってみると
セピア色のカーテンが舞っている

100年前のことを想ってみると
酔い覚めの水で再び酩酊する

1000年前のことを夢見てみると
胸の内に星の瞬きが聴こえてくる

10000年前のことを夢見てみると
どんな数式も宙へとねじれこむ



1秒前のすべては
もうここにはいない
巨きなものに根こそぎ拐われる陽炎か
遠雷の後をひたすらに追う幻影となって
どこぞの記憶の糸に
ただ縋るだけ

彷徨うのであれば
忘却の彼方のまた彼方

戻らぬことは厳然たる摂理
それでもいつか帰ってくることがあるのなら
どうぞ花を手向けて
巡る涙を枯らさぬように




ナウシカという人

2015年03月25日 12時31分51秒 | 宮崎駿、その人と作品
 『風の谷のナウシカ 』~『鳥の人』
You Tubeにupされたこの動画、映像の編集が非常に素晴らしい。
『ナウシカ』という作品を愛しているのが、とてもよく伝わってくる。



宮崎駿作品の中で何が1番好きかよく聞かれるが、順番は付けない。あえて付けない事にしている。
ただ、やはり『ナウシカ』は原作漫画も含め特別な作品。ナウシカこそ、実在して欲しい人物だからかもしれない。
もし今どこかに彼女がいるのなら……昼夜を問わず話を交わしたい、と。



鳥の人『ナウシカ組曲』より ~エレクトーン演奏~

Nausicaä of the Valley of the Wind ~『久石譲 in 武道館 宮崎アニメと共に歩んだ25年間』より~


以前twitterにも書いたが、『もののけ姫』におけるアシタカとサン。彼等の間にできた子どもの、ずっとずっと先の子どもがナウシカかもしれない、と夢想してやまない。きっと、いや、必ずやそうなのだろうと、自分の中では確信に近い思いでいる。

アシタカとサン………そうして生まれた子がナウシカ…