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4月22日 親鸞聖人、蓮如上人、石山合戦について

2014-04-22 00:42:28 | 日記
4月22日 親鸞聖人、蓮如上人、石山合戦について

今、NHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」に石山合戦(西暦1570年~1580年)が登場していますが、これについて、真宗信者のの立場から私見を述べます。

まず、親鸞聖人(西暦 1173年~1262年)の話から始めます。(以下年齢は満年齢で記します。)

親鸞聖人は、20年にわたる比叡山での天台宗の修行の後、天台の教えは自身にとって有縁の法ではないと感じて下山され、法然上人の下で、西暦1204年の承元の法難まで(28歳から34歳まで)研鑽された。この法難で法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪になられた。4年の後流罪を許され法然上人は、東山に戻られたが翌年逝去された。法然上人の教えを咀嚼しつつ、自身の信心の明証を得るべく努めることの方を優先され、越後で得られた、厳しい生活の中で生きる民衆に、念仏と共に生きる生活のを喜び分かち合う生活に、ヒントを得られ、新しい関東の地に更に布教をすべく、京都の師の所へは戻られなかった。法然上人の教えは常に親鸞聖人の心の中にあったから、それよりは、自身の信心の明証を得るには、自身で研鑽に努める以外に方法はないと考えられたと思う。親鸞聖人51歳の頃に、代表作品の「教行信証」の草稿本が完成されたという説があるが、この説によれば、自身の信心の明証を得られたのは、このころであると考えられる。それは法然上人との邂逅から23年たっていることになる。真宗門徒の妙好人の伝記でも、30年以上経って開眼している人が多いことを考えれば、頷けることです。61歳の頃から逝去されるまで、京都に住まわれた。

蓮如上人(西暦 1414年~1499年)が、本願寺(この頃の本願寺は現在の知恩院の傍の青蓮院に隣接してあった300坪の敷地の中に、御堂と住持の居宅が建つ小規模なお寺であった。)を継がれたのは、42歳の時であった。その時には、真宗教学については、「教行信証」、「浄土真要鈔」「六要鈔」等により、父の本願寺7世存如、叔父の常楽台空覚の下で、仏教全般については、奈良教団の実力者で興福寺大乗院の経覚の下で、研鑽され、既に自身の信心の明証を得られていたらしい。以後自身の深い学識と確たる明証、500年に一度という酷い飢饉、応仁の乱による下剋上の乱世、惣荘の発達と経済的向上、地侍、地主による惣荘の自治能力の発達、などなどのお蔭で、念佛信仰は、燎原の火の様に広がっていった。しかし、仏教の信心はそう簡単には明証を得られない。大多数はの門徒は烏合の衆であり、僧である地侍の中にも政治的野心を持つものが多く、一向一揆はこのような僧が中心になって起こされていった。蓮如上人は常に一揆を禁止され、首謀者は破門にすると,掟を出されたが、効果がなかった。また年貢や税はきちんと納める様に掟には記された。自身は常に争いを避け、外に出られて布教に専念された。比叡山延暦寺や為政者からの反発も酷く、常にも住むところを焼かれ、蓮如上人は、その活動の拠点を、本願寺、堅田、大津、吉崎、山科と居を移さざるを得なかった。しかし最後に山科に築かれた山科本願寺は、240,000坪もの敷地を持つお寺となった。
しかし上人は、次の様に言われている。

「諸国から沢山の門徒衆が参詣して、仏法繁昌の様に見えるが、本当に信心を得た人はまれで、みな人まねばかり、世間の付き合いで参詣していてまことに悲しいことである。特に門徒の手本となるべき坊主分の人が、まったく信心に無関心のありさまは、嘆かわしいことである。あまつさえ、門徒衆が信心して聴聞にはげんでいる姿を見て、坊主がそれを批判する
ということさえみられ、全く言語道断である。信心を得ていない人は、「幾たびも人にたずねて他力の安心をば治定すべし」」

河出書房新社編集の「蓮如」によれば、「15世紀の日本は、傑出した人物が少ないが、蓮如上人は、この世紀の最も偉大な人物である」としている。

蓮如上人は本願寺第8世であり、石山合戦の時の顕如上人(西暦1543年~1592年)は第11世だが、世代的には4世代目であり、蓮如上人の時代からさらに信心の点では荒廃していると想像される。従って石山合戦の始まりの時には、顕如上人は未だ27歳であり、またこの頃の本願寺家老(下間(しもずま))を務めた取り巻きの方々も蓮如上人の言われる政治的野心を持った者が多かったと思われ、顕如上人は荒木村重が和睦を提案してきたときも、下間と相談するといって座を立たれている。親鸞聖人や蓮如上人であったなら、自身の信心に照らして、人を殺戮する戦いをされる筈はなく、一揆自体も起こっていないと思います。仏道を行じる人が、人を殺戮することなど考えられないのです。

ヒンズー教徒のマハトマ・ガンジーが非暴力でインドをイギリスから独立させたことを考えて見てください。

親鸞聖人や蓮如上人ならば、あのような大きな一揆は決して起こらなかったでしょう。
もし、この時代の日本にも、マハトマ・ガンジーの頃の情報機関があれば、親鸞聖人や蓮如上人ならば、自身の命を賭しても、一揆を防がれたと思います。

合掌
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
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2 コメント

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Unknown (前場敏位)
2014-07-30 17:04:48
ご無沙汰しています。石山合戦については全くの同感です。一番欲を望んだのは僧侶だったのかも。鑑真や隠元禅師を呼んだのは何のためだったのかと思います。その後300年後の大塩平八郎の乱の時の寺もひどいもんでしたね。明治の神仏分離令の折、多くの寺が壊されたのは、そんなこともあったのでしょうか。
後藤住職とも話すのですが、今の仏教は葬式仏教になっている。今なんとかしないと、とは思いますが非常に難しいことですね。
この春、加西市で浄土真宗なんだけど、法名一文字2万円で5文字付けなさいと言われ、葬式当日30万円と法名代10万円で40万円支払った、あといくらかかるか心配だと知人が言ってました。ちょっと信じられないが嘘をつくような人ではないので本当だと思います。
こんなことを続けているようでは、葬式仏教も危うくなってくるように思います。
イスラムやキリストと違い、素晴らしいこの日本仏教なのに残念なことです。
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前場様への返信 (宗円)
2014-07-31 22:21:29
blogを見て戴き、光栄です。
貴殿の様に熱心な仏教徒の方は、非常に少なくなっているのが残念です。またお会いできる日を楽しみにしています。

合掌
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