寝ても覚めてもインド。 <トムソーヤと冒険>

20年想いそして念じ続けてようやくたどりついたインド。私の「それから」インド日記。

目にとまった二つの記事。

2012年08月28日 | インド女性

ムンバイの11日間の出張は一旦終わり、数日間デリーに戻ってきた。ムンバイはやっぱり違うなあ、と思うのは人がとにかくよく働く。政治の町デリーと違ってねえ。仕事で知り合ったさまざまな職業の人たちとお喋りしてると「デリーなんかで仕事していて…大変でしょ!?」そういうムンバイ人。東京と同じで多くの人が地方から出て来て競争に勝ち抜くべく必死にやる感はある。しかし、これもインドあれもインド。

帰りの飛行機で新聞を広げて二つの記事に目がとまる。

IN THE LAND OF WOMEN: 未亡人の村

(Oneparagraphaswarsより)

さかのぼれば独立以来何度にも渡り戦争が起こり、未だにパキスタンとの国境争いで緊張が続くインド・カシミール地方。ここの山間、まさに軍事境界線にDardporaダルドポラという村がある。その名は、皮肉にも「苦痛」という意味らしい。

この村の男たちはテロの犠牲になり、また軍による攻撃に巻き込まれ殺された。貧しく、そして無知故にテロ組織に洗脳を受け、国境を越えてテロリストのトレーニングを受け、村へ帰るその途中で(インド側)軍の銃弾に倒れた。

今その村にいるのは250人ほどの未亡人(半未亡人=生存する可能性ゼロだが遺体が見つからない)とその子供や孤児たち。その人たちを危険から守り、養う大人の男たちがいないから女たちは週2~3回近くの町に出て乞食をして施し物を受けるか…あるいは性を売る人もいるのだとか。70-80人の子供たちは野生児のようで中には草を茹でたもので食いつないでいる。成長した女の子はテロに拉致され、男の子はテロ戦士として採用されるなど悲惨な状況。

(Great Kashimir.comより)

インド独立以来、終わりなき抗争が続くこの地域の問題に、NGOも人権擁護団体からも救済の動きはない。今やメディアも単純に男性も入ることができない中、カシミール出身の映画監督Ashok Panditがドキュメンタリーを作った。今後、これを海外の映画祭に出展したり、また今後フィクションフィルムを作り発表することで世界中にこの問題を知らしめるために動いているという記事。

児童労働:14歳以下の子供を雇用すると3年までの禁固刑か50000ルピーの罰金

2001年の国勢調査でインドに1260万人の児童労働者がいると分かった。就学率は上がっているとはいうものの子供の数は激増しているわけだから絶対数は1260万人よりは増えている気はする。この児童労働に制限を加える法律ができる見通し。そしてさらに14歳~18歳の危険有害労働も規制されるという話。底辺にいるこういう話の対象になる子供は、出生記録が実は曖昧だ。自己申告みたいなもの。多くが病院で生まれている訳ではないし、聞くところによると実際の年齢より数歳上だったりする。自分の誕生日を知らない。なんかそんなことでこの法律はとても意味のあることなのだけれど義務教育も更には出生登録も整備すべきことが山ほどあるんだけどね。

まあ、そんなインド。


やっぱり何かあるアラビア海

2012年08月25日 | 日記

ムンバイ8日目。

よく遊び、よく仕事の一週間の終わり。出張先での長時間労働…というか仕事段取りvs.脳の拘束時間が長く結構しんどいけれど何だか体調はすこぶるよし。勝負ごとで負ける気がしない…感じ。

  

デリーと違って海の景色を目にしない日はない。それが湾であったり海上高速道路だったりビーチ沿いだったり…「水が流れる」場所にいるのが体調に好影響を与えているのだと思う。更にそれがアラビア海であるということは大きい。アラビア…ですよ。

これはJuhu Beach。

海の向こうにはオマーン、イエメン、中東の国々。その先はアフリカ大陸ソマリア。今年3月に訪れたグジャラート州ロータルの遺跡でも見たインダス文明の頃からアフリカとの交易の船が行き来した海だ。アラビア海の地図を見るだけでぞくぞく、実際に海に向かって立つと不思議なエネルギーを感じるんだな。

午後、出かけようと身支度して部屋のドアノブに手をかけて、何気なく後ろを振り返った。この景色を置いて私一体どこへ行こうとしてるんだろ…外出中止。ルームサービスでコーヒーを注文し、窓ぎりぎりに椅子を移動し、どっぷり座り、読書に没頭。

 

客室に備え付けのすばらしいTata家の歴史本やっぱすごい。もらっていいかとたずねよう。

読書の合間に時折顔をあげて海をぼんやり眺める…そしてあることを思い出した…

若い頃(20代)、異なる国で異なる民族の占い師に見てもらった。ぞっとしたのがいずれにも「水難の相があるので水遊びにはくれぐれも気を付けるように」と強く言われたこと。

その中の1人、中国人の占い師がこんな風に説明してくれた…

火のサインを持って生まれてきた私なのだが、30歳半ばまで四方八方を水に囲まれ、激流の川を揺れながら流れていく細い灯篭の火。だから水のそばには近づかないこと。穏やかな海もあなたが船を漕ぎ出した途端に波が荒れ、船がひっくり返りあなたは海の底に沈むでしょう、と。前世で何度も何度も同じように30歳頃までに水死した…つまりこの世でも起こる可能性大。ただし、年齢と共に水は引き、やがては水があなたのバランスを保つ重要な要素になってくるだろう。

もともと海に対して恐怖心があった。香港のビクトリアハーバーのたった15分ほどのスターフェリーも乗った途端に手に油汗をかいていた。占い師に言われてえらく納得した。それで海にはなるべく近づかないようにしていた。

30歳後半になり、40歳越え始めたころからの住居は、川が流れるのが望めるとか、テラスから飛び込める近さにプールがあるとか、海が遠くに見えるとか、今のカラカラ荒野のグルガオンでの住まいも引っ越してからプールが眼下に見えることに気が付いてホッとした。

まあ、そんなことで年齢と共に妙に水と相性がよくなり、自分にとって「流れる水」はVitalになってきた。

ああそして、この海を見ているとその遥か彼方にあるイスラム世界にも心を掻き立てられる。ことあるごとにジャーママスジッドに行くのはそんなイスラム教に対する妙な感情。…寺院入るとやけに心が落ち着き、アザーンの音を聞くと言い知れぬ懐かしさがこみあげてる。ミナレットからアッラーフ・アクバルが聞こえてくると感極まって声を詰まらせる私は一体何者だったのだろうかと思いをはせる。

SRK宅前もランしてきました。全くファンではないです。


ムンバイで箸休め(ま、普段から大して箸握ってないんだが…)

2012年08月22日 | 日記

ムンバイは何でも食べ物が美味しい…と私は思う。

それがボンベイグリルサンドイッチ(ミントチャツネとジャガイモ&野菜のトースト)だったり、

(何とイギリスではボンベイサンドイッチの「素」的スプレッドが売ってる。単なるコリアンダー&ミントのチャツネだ。)

キチュリ―だったり(インドのお粥。北にもあるけどムンバイのが断然美味しい!)、(東西)南インド料理も結構美味しいレストランがあるし、海沿いではBBQしただけの海鮮も美味しい…美味しい気がするのかな。

北ではチャイニーズでもマサラな味がするけどここは違うんだな…「あばたもエクボ」なのかしらね。イタリアンもさ、ここだとなーんか本場とまではいかなくてもそこそこレベルが高いし、加えて値段も手頃な気もするんだなあ。値段と味が見合ってるというべきかな。

オベロイホテル(ナリマンポイント)Vetro。ランチ2皿コース+デザートで1200ルピー++。


Poor Little Rich Slum

2012年08月20日 | 日記

ムンバイにはスラムが点在する。1300万の人口のうちおよそ60%の900万人の人がスラムに住んでいると言われている。デリーにもコルカタにも人口密集するスラム街はあるけれどムンバイの規模にはかなわない。その中で最大級のスラムがDhavari。ムンバイって元々島や洲でできておりDhavariはその昔は漁師の住む「島」だった。ともかく漁業がすたれグジャラート州あたりからの移住者で人口が増え続け1.7キロ平米に60万~100万人が住む巨大スラムになった。

1893年頃のムンバイの地図(ウィキペディア)

少し前に読んだこの本はそのDhavariの現実…貧しき人々…というよりはそこから生まれているビジネスのこと、子供たちの夢のこと、そこで戦う人のことが綴られている。

ダンスシューズ屋さんの話は感動した。工場の下働きをしていた少年があるとき、靴工場で靴作りを習得し、ついには靴をデザインするまでになる。彼の(ダンス)靴が評判を呼びボリウッドスター達の御用達になる、でも自分の原点であるDhavariで靴を作り続けるという話。このスラムの散策ツアーの旅行会社の話も。南米でスラムと言えばブラジル、そこから海を渡ってやってきたミュージシャンの話とか。

ちなみに…スラムと言えど社会の最底辺ではない。上水も下水もほぼ整備されていないがバラックの屋根屋根にはTVのアンテナも立つし、TVもDVDもPCもあるし、フェイスブックにもアクセスする。自営業もいるし通勤列車でムンバイに通う会社員もいるのだ。


やっぱりムンバイのこの感じ…

2012年08月19日 | 日記

今週末はイスラム教のラマダン明けの祝日で3連休。私より1年早く3年前にインド(ムンバイ)駐在になった友人に会う目的でムンバイへ。…んなこと言ってたらムンバイでの仕事が入り計10日間ほどの滞在になる気配。

ひつこいようだが私はムンバイが好きだ。前にも書いたように25年前、町のど真ん中で転んで足を骨折し、バックパック&松葉杖姿の自分とその時に親切にしてもらった人々のことをここに来るといつも想う。特にムンバイの南へ来ると当時の情景が鮮明に甦ってくる。

アラビア海に面した海沿いの道を走ると16年暮らした香港と同じ「汚染と磯の香り」も懐かしい。へばりつくような湿気とバケツをひっくり返したような雨もうっとうしいよりは心落ち着く。

3年振りで再会した友人とお喋りしながらあちこち歩く。

まずはマハトマ・ガンジーのムンバイでの住居(1917年~34年)で今は記念館になっているMani Bhavan。

 

ガンジーの写真や書を見ると「喝ッ」入れられる。何冊も読んだけど「ここでしか買えません」という受付のおじさんのセールストークに説得され名言集を購入。手漉きの紙が使われている。

そこからMalabar Hillの友人宅のそばの公園を散歩。

 

次に坂を下りて海岸へ。陽が沈むのをしばし眺める。

長年日本に住んでいた彼女の家は超ジャポネスク。日本に住み畳の生活に慣れることをフランス人は「Tatamiser タタミゼ」(畳からできた造語)というが彼女はそれを超えている。漆の膳やら提灯やら…。心から日本を愛してやまない。

公園を散歩しているときにいきなり「これさ、菖蒲みたいでしょう?」

海岸の風景にはいつも伊豆を思い出して泣きたくなる」という。

夕飯は日本食でどう?と提案されたが和食が今一つ好きではない旨伝える。「変な日本人ねえ」「というあなたは変なフランス人よ」と互いに首を傾げ…折衷案でフュージョン料理を食べに行った。

翌朝は雨の中ラン。なかなか気持ちよい。

 

夜はタタ・シアターでヒングリッシュ(Hindi+English)劇を観る。

  

ミッドライフクライシスを描いたコメディーTwo to Tango, Three to Jive!

 

ヒンディー語の理解度は低いのだけれどまあまあ適当に話の流れを読み…笑って楽しんだ。「デリー人」茶化す、というのがかなり笑えた。会場も爆笑の渦。観劇後は、シアター裏のAmadeusで日・仏・印の女3人で夜更けまで飲んで食べて…いいなあこの感じ。