寝ても覚めてもインド。 <トムソーヤと冒険>

20年想いそして念じ続けてようやくたどりついたインド。私の「それから」インド日記。

ラジブ・ガンジー暗殺の罪について考える

2014年02月27日 | 日記

1991年ラジブ・ガンジーが南インドタミルナドゥ州シュリペルンバッドールという町で選挙活動中に自爆テロにより暗殺された。犯人は、スリランカ反政府組織LTTEメンバー。

 

その暗殺犯のコアメンバーは一旦死刑判決を受けるのだが執行直前に赦免のための審査が認められる。それから時は流れ流れて、2014年2月18日、終身刑に減刑。減刑された理由は、赦免の嘆願審査に時間が(11年)かかりすぎたから…らしい。そして裁判所は、終身刑への減刑の決定と共にタミルナドゥ政府へその権限内で受刑者の釈放することを検討するよう命令した。それを受けて州政府は「釈放」を閣議決定した、というニュース速報(多分この理解で間違っていないと思う…)


ちょっと待った!



暗殺された時点でラジブ・ガンジーが既に首相の座にはいなかった、としても暗殺はいわば「インドの魂」への攻撃だ、シン首相は中央政府として釈放中止を最高裁に請願し、その審査を待ち…という現在位置。


 この暗殺の背景は少しこみいった民族の歴史がある。


 スリランカはイギリスから独立した当時から70%を占めるシンハラ人と20%弱のタミル人の間に常に抗争があった。タミル人、というのはその多くが英国植民地時代にお茶とゴムのプランテーションのためにタミルナドゥ州から連れてこられた人たちでスリランカの北(ジャフナ)から東海岸地域に多く居住していた。

 が、しかし英国から独立後、多数派であるシンハラ人がその支配権を持ち、タミル人は公民権も選挙権も失い、果ては政府による反タミル人キャンペーンが始まる。そして民族浄化の名の下にスリランカ人民解放戦線が創設されタミル人殺戮が繰り返される。

 この動きに対抗しタミル人社会にタミル分離独立を主張する武装集団ができ、暴動、テロ、暗殺など闘争が激化していくのである。

1987年4月、LTTEによるコロンボのセントラルバスターミナル爆破。この時、パリの日本食レストランで仕出し弁当のバイトで同僚のタミル系スリランカ人と朝刊を見て絶句した思い出がある。数ヶ月前、ここで私はバックパッカー姿でバスを待っていた…

 

インド(当時ラジブガンジー首相)は、スリランカ政府との和平交渉に乗り出しつつもタミル武装集団LTTE =Liberation Tigers of Tamil Eelamも支援する、という駆け引きをする。そして、隣国の和平の名のもとにインド平和維持軍を進駐させるがここらへんからLTTEとの関係が悪化していく。


 

その後、ラジブガンジーは一旦政府スキャンダルが主因で総選挙に破れるのだが次期選挙で復活を狙って選挙活動を展開する。もし彼が当選すればスリランカ政府を支援する、というような兆しがあったようだ。そんな中、武装集団から間接的に「身の危険」を予告されていたにもかかわらず、ガンジーはタミルナドゥ州へ遊説に出る。


 

そこで彼に、支持者を装ったテロリストの女性が近づく。彼女の胴体には爆薬が仕掛けられていた。彼女は、歓迎の花輪をガンジーにかけ、最敬礼の足に触れるお辞儀をして爆弾のスイッチを入れた。


 




暗殺は重大な犯罪ではあるのだが、タミルナドゥ州の「釈放」閣議決定にはタミル民族人権擁護のための犯罪行為だったというセンチメントが大きく影響していたのではないかとも思う。しかし…ほかの要素=実行犯は首謀者の計画にのっとり遂行した駒でしかなかった兵士であったことや赦免審査に11年と長い月日がかかったことやすでに23年間服役しているとはいえ…暗殺犯が自由の身になる国ってどうなんだろう。


 

当然だが他の暗殺犯、死刑判決の事例などを取り上げてTVで大討論会が展開中。勿論、そのほとんどはこの釈放の動きに断固反対の姿勢なのだが…この事件をベースに作られた映画「Madras Cafe」は非常に参考になった。


ボリウッドスター、ジョン・エイブリハムの代表作になるだろうと言われるほどすごい熱演。


この成り行きに最注目しつつ、インドの司法制度について少々お勉強中なのだ。


慈しみ深き <お見送り>

2014年02月18日 | 日記

1月末。

チェンナイのお母さんが他界されて1年半年。

遂にお母さんがお父さんを迎えに来られた。最後にお父さんとお目にかかった昨年11月「お母さんの迎えを待っているんだけどねぇ」と微笑んでいたその顔が今も浮かぶ。眠るように亡くなられた。

 

愛し合う二人…というテーマでこの二人に並ぶ人たちはいなかった。50年前に日本からはるばるインドに嫁いでこられたお母さん、そのお母さんと子供達を生涯かけて守ってこられたお父さん。

 

 

いつもいつも互いを尊び、慈しみ…深く、太い絆で結ばれていたお二人。

 

 

遺言で本来は土葬でケララから来られたお父さんの親戚が驚かれていたのだが(旅先で亡くなられ)火葬になってしまったお母さんの遺灰と一緒にしてほしいと言い残されていたのだとか。

 

 

遺族代表として挨拶した弟のそのくだりに心の底から嗚咽した。それは別れの悲しみではなく、お二人の愛にただただ圧倒されたから。もっともっと長生きをしてお二人の思い出話を聞きたかった。

 

インド滞在残り1日の我が娘と共にチェンナイでお見送りをする運命になったのが不思議でしかたなかった…


今年のバレンタインデーは何月何日だ?

2014年02月17日 | 日記

…とは番長らしい迷問。

 

インドに来た3年前、ムンバイでバレンタインデーに男女が腕を組んで歩いていると警察に殴られる…なんていうニュースを見てひっくり返ったものだが…若者で賑わうショッピングモールは、ラブ全開。

商売、商売…である。

 

何でも段取りちゅうもんがあろうに…オンラインショッピングサイトやレストランはバレンタインの当日、ガンガンとSMSやメールでプロモーション広告を送ってくる。「あなたの特別なあの人に贈ろう!」って届くのに1週間はかかるだろ、とメールを削除しながら1人つっこむ。

 

エンタメ劇場のKingdom of Dreamsも…

 

まあ、日本以外は互いに贈り物をしたり、二人きりでご飯を食べたり、というのが当たり前だが、これアジア圏ではどちらかというと男性が女性に何かしてあげる方が常識であるよう。特に私が長年暮らした香港だと男が女に大きな花束を贈るのがフツーで、しかもそれをオフィスに届けさせる。そして女性は同僚のより自分の花束が小さいと男に文句を言う(知らんがな)という男性にとっては審判が下る厳しい日。

                                                                                                                                

さてと…インドのうちのアパートへ朝からお花屋さんが大きな花束をいくつもリヤカーに乗せてデリバリー。多分、ご近所のご主人方から主婦をしている奥様方に、という心遣いではないかしら…

 

ボスや同僚たちもHappy Valentines Day!とか言っていつもよりやや早めにオフィスを去る…

 

いや、私も例にもれずオフィスを出て番長宅へ。昨年手術したもう片方の膝手術したばかりの番長母を見舞い、しばしお話をして約束のあの場所へ、いざ!

 

今夜はここ!(というか今夜も…である)

 

私らの通称「デブの店」(正式にはNational Dhaba @Connaught Place Outer Circle)

 

 

デブの店主。

 

手前は鶏胸肉カレー、あちらは鶏の臓物カレー。真ん中にあるのは玉葱スライスと秘伝チャツネ。もう…美味いのなんの…という品。

 

「おい、ゆっくり食べろよ」

「そんじゃ何か喋ってちょうだいよ」

「チャパティもう一枚いくか、グレービーのおかわりどうだ」

 

 

残念ながら店の前で残飯を待ち受ける野良犬衆には何も無し。

 

デザートは隣のアイスクリーム屋。新登場の南インドコーヒーフレーバーでしめる。

この食堂のこのカレー、実は「どうしてもここでなければいけなかった」思い出深い二人の原点メニュー。向い合ってかっ喰らうのだけで幸せ全開なのだ。


週末パリ 私の歩いた道、そしてThe way forward...

2014年02月11日 | 旅行

過去に娘を何度かパリに連れて旅行をした。

 

 

それは灼熱の夏や、霙舞う冬だったり、花咲く春の日だったり。足が痛いとむずがる3歳の娘をおんぶして美術館や博物館や公園を歩いたこともあった。

 

 

 

ビーチリゾートと違って幼子には酷な場所のような気がしたけれど自分が歩いた道を、食も音楽も美術も確かな本物を見せておきたいと願ったから。ま、それが作用して算数よりも芸術に興味を持って美大に進むきっかけになったかどうか知らないけど。

 

今回、(当初は同行する予定なく)娘の面倒見てよね、と頼んでいた私の友人達と娘の会話が興味深かった。写真を撮るふりをして少し離れた場所で聞いていたその会話の中で娘の成長を感じた。まだまだ右に左に揺れながらも確実に前へ前へと進もうとする23歳の若き女性がそこにいた。

 

お母さんはパリにいるとき(娘の今の年齢と同じ23歳)何を考えていたの?

 

ん…これからどうしようかと迷っていたよ

 

お母さんにもそんな時があったんだ…


(娘を授かった瞬間から迷っていられなくなった…)

 

 

 

イザベルからアートで生きて行く喜びと苦しみと覚悟を聞いていた…

 

 

ルイスとケリーから自分から制限をつけることなく、いつもドアを開いたままで行きなさいと、やりたいことがあるなら何でもやってみるといいと。

 

 

美男兄さんたちからは、男も服も上等なもの、本物を知りなさい、楽しむために人生ある、ビンボーはダメよ、と。

 

 Pont Des Artsが愛の願掛け橋になっていて私はビックリ…

 

     

 

 

そして最後に私の人生の岐路になったあの場所で23歳の娘を撮った。

 

 


週末パリ 思い描いていた道を歩いている?

2014年02月10日 | 旅行

新風景を求めて出る旅があれば、懐かしい場所へ戻る旅がある。これ、男女関係と同じでスッパリ切れていれば振りかえりもしないけれど、はっきりしないうちに足が遠のいた「関係」は、勝手にいいところだけを脳裏にとどめておいて都合のいいときだけ取り出して憶いに耽る…みたいな。私にとってのパリはそういう存在なのだ。

 

 

インド滞在100日を経て娘がローマへ発ち、さらにそこからパリへ移動するタイミングで私もパリに降り立った。そもそも友人たちに(娘に)泊まり場所を提供してよ、ご飯ごちそうしてやってよ、とコンタクトするうちに「私も行くわ…」になった。

 

イタリアから時間差で到着する娘を到着ターミナルで待つ。

 

あの日、あの場所がなければ今日ここにはいなかっただろうと思うことがある。円形のパリCDG空港第一ターミナルの円軸部分にガラス管のようにエスカレーターが行き交う。到着旅客は下り、出発旅客は上っていく。

 

 

1987年5月初旬、足掛け3年のパリ滞在を終えてこのエスカレーターを上った。何度も振りかえり、いつかここに両手一杯の自信を持って来てやる、と心に誓った。

 

留学、というほどの大した学歴でもなく、のらりくらりと学校へ通ううちに生活費稼ぎにアルバイトを始め、結局勉学は副業になり、終いには何を目的に行きているのか分からなかった頃。情けない気分でパリを後にした。

 

それから15年経ち、両手一杯の仕事を抱えて出張でパリに降り立ち、このエスカレーターでロビーに下りてきた時、会心のリベンチだ、そんな気がした。

 

もう仕事でパリを往復するチャンスはないのだけれど、あのスタートレックの宇宙船に通じているようなエスカレーターにのって到着ロビーに向うたびに、思い描いていた道を今歩いているか、と自問する。

 

そして…イタリアから到着した娘とまずは一晩目、ヴェルサイユに住む友人宅へ…

 

あの日々がなければこの子は存在していないわ、と母親が自信を持って言う青年がいる。25年来の親友で子供を持つことなど考えていなかった(らしい)カップルの家に事情あって妊娠7ヶ月の私が転がり込んだ。結局、出産して私が仕事に復活するまでほとんど同居生活。その半年近い時間に子供の誕生というドラマに立ち会い、心を動かされ、我が娘の誕生からほぼ一年後にこの青年を授かった。

 

そして友人は二人目、三人目…と授かる。

いつもいつも子供をはさんで同じ思い出話。幼い頃にはポカンとして聞いていた子供たちも20歳を越え、私たちの「あの頃」の年齢にもう数年で到達。ティーンエイジャーの頃には「またその話?」なんて冷めて聞いていた娘、息子もその晩は珍しく思い出話を催促した。

 

 

思い描いていた以上の素敵な人生だわ!