曲がり角で みつけたもの

思秋期になり曲がり角に差し掛かってきました。その中で感じた事、見つけたものを記事にしていきます。

父の命日

2012年11月04日 | 生きる道

今日は実家の父の命日。13回忌になります。

父が亡くなってしばらくは、父の事が頭を離れず、人がいる時には普段と変わらず、すごす事が出来ましたが、台所にいる時、車を運転している時など、1人になると、涙がとめどなく出てきてしまって、しばらく、そうですね、三回忌ぐらいまでは、そんな日が続きました。

最近は、父の事を想ってあるいは思い出して泣くのは、あまりなくなってきましたが、やはり、今日は父親の事を想って、涙が出てきてしまいます。

父は腹膜に出来る癌(腹膜嚢腫)であることが分かって、丁度1年で亡くなりました。

その、数年前から癌から来る様々な症状が現れていましたが、腹膜に癌があることがわかった時にはもう末期癌になっていて、余命2週間と言われましたが、癌を告知するかと言われ、その前の苦しみが尋常ではなかったので、告知はしないことを選択しました。

けれども、2週間と言われた命は、丁度1年経って、ついにつきました。

その、闘病についてはいずれ、記事にしたいと思いますが、今日は命が尽きた最後の時の事を、書きたいと思います。

最後の入院はその前の自宅療養は丸1年だったのに、入院したその晩に急変し、夜中に病院からの呼び出しがありました。そして、それからわずか1週間で亡くなってしまいました。

最後の1週間は、私か母親がいないと、混乱し暴れてしまうのと、痛みが強いための混濁とで、24時間の付き添いが必要になっていました。

私は夜中を担当し、朝の5時に母親と交代。私は当時高校球児だった息子の朝食(6時)とお弁当作り。家事をして、パートに行き、昼過ぎ母親と交代して付き添い。夕方5時に母親と交代し、9時過ぎに練習から帰る息子に夕飯を出してから病院に駆けつけると言う生活でした。

父の亡くなる前日に、母のお姉さん亡くなり、そのお通夜に弟が行き、そのまま夜中に私と交代してくれました。私は母親を伯母さんのお葬式に行かせるため、日中に病院に行きました。痛みをとるために強い薬に変えられ、最後の日はずっと目を開けず、それまでの苦しみが嘘のように、静かに寝たままでした。

まず、朝、弟と交代しようと病室のドアを開けた時にもう、匂いが違いました。

父親は静かに上を向いたまま、今までの苦しそうな息ではなく、静かな寝息を立てていました。

でも、尿は出ていないし、紫斑があちこちに出ていました。今まで、何もなかったのにです。

先生はまだまだ2ヶ月ぐらいは大丈夫ですよ、なんて気楽な事を言いましたが、私も、弟も、もしかしたら、今日が最後かもしれない。なんとか、母親が帰ってくるまでもってほしいと思いました。

父の事は心配せずちゃんと伯母さんとお別れしてきてと、言っておいたのに、母親はお葬式が終わると七日の祓いの席につかずに、帰ってきてしまいました。そして、そのまま病院に直行してきました。その時にはまだ父親はこの日1度も眼を覚ますことなく、静かに寝ていました。

今晩は弟と私と二人で看るから、今晩はお母さん家でゆっくり寝てと家に帰し、弟が髭をあたってやるかと、久しぶりに髭を綺麗にしてくれました。

じゃあ今度は私が顔を拭いてあげようかと顔を見ると、目に一杯目やにがついていました。

目やにをとりながら「ごめんごめん、これじゃあ目が開けなかった訳だよねえ」と、話しかけると、目をぱっちり開けました。

「そうかあ、ごめんね、気がつかなくて。目薬さそうね。」と言うと、大きなため息をつきました。

「いやあ、お父さん、そんな大きなため息つかなくたって…」と笑いかけて、目に光がないのと、息が止まったのに気がつき、あわててナースコールで「息が止まった!」と叫んでいました。

看護師さんが、痰を吸引したりしてくれましたが、それ以外に特別な処置もせずDr.が来て死亡宣告。

前日まで、父親と話も出来ていましたが、この日はついに何も話さないまま、亡くなってしまいました。

前日までの苦しみを思えば最後の日が苦しまないでいてくれたのはよかったのか…。

最後の瞬間は母親は入れなかったけれど、直前には顔が見れたんだから…。

最後に姉弟で綺麗な顔に出来たんだから…。

ちゃんと、見送ることが出来たんだから…。

そう思いながらも、でも、それは、自分に言い聞かせる事であって、あの時、ちゃんと癌の宣告をし、出来るだけの治療を受けさせた方が良かったのではないか。

いや、その前にいろんな症状が出た時にもっとちゃんと、他の病院に掛かるとか、調べるとかすれば良かったとか、いろんな後悔がぐるぐるしてくるのです。

末期癌の宣告=余命2週間と言われてからの1年は、本人は最後まで末期癌であったことはわからないまま逝ったのですが、母親もそうだったと思いますが、日々切り刻まれるような苦しみの日でした。癌であることを悟られてはいけないと隠し続けていたからです。本人はよくなって退院できたと思っていて、自分で車を運転して、母親を連れて、出かけていました。 趣味の無線も続け、無線仲間と山の上の電波の届きやすいところに出かけてなんてこともしていました。

辛い癌治療をせずに、医者からは見はなされていたのに1年、楽ではなかったけれど、充実して過ごせたんだから。

だから、父親は幸せだったんだと思います。

 

父親が亡くなった時の顔は、本当にやすらかな顔でした。

それまで、土気色だった顔色がピンクになり、最後の日にあちこち出ていた紫斑も見えるところは綺麗になり、前日まで苦しんでいた人とは思えない顔でした。

それは、私たちにとってとても救いでした。

それがなかったら、後悔だけのだったでしょう。

でも、それでも、いまだに、告知しない、癌の治療をしないという、選択は正しかったんだろうか。

との思いが頭をめぐるのです。

 

12年前と今ではだいぶ考えが変わって、ほとんどが本人への告知になっているようです。

もちろん、治療もだいぶ変わっているでしょうし、緩和ケアや、最後は自宅でと言うようにもなってきていますが、本当に難しい問題です。

 

自分が癌になった時、私は告知に耐えられるだろうか。どこまでの治療を選択したらいいのだろうか。

家族の苦しみも本人以上に(もちろん、痛みは本人が一番ですが)あるかもしれないと思うと、考えは堂々巡りになります。

 

現実に戻って、さてさて、13回忌、無事に済むのだろうか。

人が亡くなるって、亡くなってからもいろいろあるんだなあ…。