只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

暑い折、お身体をお大事にしてください

2016-08-16 09:53:13 | 日記
何度、観てもあきがきません。
玄関口で可愛いらしく花実を付けています。




よく言われることの中に、「これは(禍わざわい)だ!」ということがあります。
つまり災難にあったということでしょうね。

ですから、誰でも禍(災難)は避けたいものです。
しかし禍(災難)は避けることが出来るものでしょうか?

そのまま禍(災難)を観てみると、それはその人の「心」
なんですね。

例えば、宝クジを買いに行って事故にあったとすると、
「これは禍(災難)だ!」と言われる方がいます。

これは禍(災難)ではなく「事故にあった」のですね。
ですから禍(災難)は禍(災難)を創り出す
その人の「心」なのです。

事実は一瞬、一瞬、一瞬で他はありません。
同じく事実は今、今、今で他はありません。

禍(災難)が「在る」とする自我は
幻想と言う事になります。

「わからないから、幻想でもいいじゃないか」と
言われる方がいらっしゃいますが、
それはそれでいいのです。

しかし、幻想世界は苦悩の世界であると
いうことだけは忘れないように…。

苦悩の世界からの脱出は簡単でも難しくも
ありません。

今、今、今の“只なる実践”から明かになります。


只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

・・この自然の摂理はその種の様子ですから
煩悩とは言わないのです。…前回まで

  『ところが心と身が「隔たる」と全てと相対関係になり、
  全ての様子が気になってしまうのです。対立していますから、
    常に心意識・念想観が錯綜して混濁し惑乱する、
   これが囚われる様子です。つまり認める者が有るからです。
        それが自己《自我》です
。』

いかがでしょう。
腑に落とされたでしょうか?
心と身が「隔たる」とは思考していると
いうことです。

例えば、月を見て『綺麗だな~』と思えば
心が月に行っている、身から離れているということです。

あの人が憎いと思えば、心が「憎い」に行き
身から離れているということです。

すべて思い考えれば、そこに飛ぶということですね。
そして心は解決は持たないのですから、
悩ましいことであれば苦悩するということです。

“心身一体”とは思考していないということです。
“心身一体”は一心であり無心であり、
心が動きませんので心意識・念想観が
止まったままということです。

問題がまったく無い、涅槃寂静の世界です。
その様子は弛まぬ“只なる実践”で現れてきます。

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