私(思考)は、“只、歩く”ことができません。(笑)
なぜでしょうか?
それは私と言う「思考自我」だからです。(笑)
私もすべての人も、思い考える幻想人だからです。
この幻想世界では、思考が無ければうまく生きていけません。
ですから最小限の思考を使うほどでいいのです。
例えば、知識を必要とする職業の人を除いて、
1日トータル約30分も使えば十分です。
後は、すべて“本能”にお任せしてお気楽のまま流れて
いけばいいのですね。
こんなに簡単なことなのに、私(思考)はいつの間にか
「苦の世界」を創り上げて、「楽」を追い求めるという
相対になったのです。
残念ながら、相対が頭脳に「在る」かぎり、ひとりでに
離れていくということはありません。
しかし、幼少のころまでは相対など無かったのですから、
今まで培った知識等はそのままにして、相対する心を
忘じていけば離れていくのです。
それが伝家の宝刀である“只なる実践”です。
“何も無い”只のところから離れないのが
“只なる実践”で、思考を使わないということです。
また私(思考)という、私心から遠く離れることが
“只なる実践”で、「思考癖」を切り捨てることです。
“只、歩く”あるいは、“只、やる!”ことに没頭する
ことが“絶対安心”の境地になることでしょう。
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