只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

キュウイも栽培します

2015-12-16 09:18:35 | 日記
あるがまま、そのままを観るのが事実です。

私(思考)が観るのは、知能で観ているのです。
そのままを思考するから、事実ではなく逆(幻想)となります。
言うならば私(思考)は、すべて知能で観ているのです。
ですから本当の事はないのです。(笑)

この事実に99%の人が、気が付かないのです。
気が付かないというか、この幻想を
事実と思っているからです。
この事に大きな問題があるのです。

「まさか幻想だなんてバカなことを言うんだ!」と
怒る人も出てきそうですね。(笑)
「ちゃんと目で見ているのだ!」と言われるのが本当です。

が、しかし目で見ているのは私(思考)です。
正確に言うと私(思考)でなく、
純粋に『目が見ている』のですね。
ですからそこには私も思考もありません。
問題などまったく存在しないのです。

綺麗な花は私(思考)が観ているのです。ですから
幻想となります。そこには汚い花の相対も付いています。

花を『目が見ている』となれば私(思考)は関係ありませんね。
これを言葉で言えば“只見る・純粋に見る”です。
これが紛れも無い“真実”ですね。


只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。
分別心が起こらなければ、心は存在をやめる… 前回

  『主体である心が消え去れば、対象も消え去るように
        想いの対象が消えれば、思う主体も消え去る』

いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
主体も対象も同じで“ひとつ”ということです。

思考と無思考のことを表現されています。
思考しなければ、無思考になります。
無思考には思考がありません。

例えば、「りんご」があります。
無思考になると「りんご」が消え去ります。
「りんご」が無いと「りんご」という思考もありません。
当たり前のことをいっているのですね。

このブログに“無いものは無い”のですと、
タイトル補助しているのと同じです。
それに『無いものを在る』とするのは思考ということです。


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