「思考自我」を知って、それを相手にしない、
そして離れて観て行くことが“只なる実践”の持続です。
そうすると、私(思考)は良いものは失いたくない、悪い
ものは早く離れたいと観えてきます。
ですから、頭の中に善悪の観念がしっかりあるということ
ですね。
しかし事実には、善いも悪いもありません。
繰り返し述べていますが、頭の中の判断で行動して行く癖が
迷いとなって行くのです。
身体は誕生してから、間違いなく事実のまま動いているから、
迷うことなどまったくありません。
ですから心というものが“無心”にあれば、心身一体となり
あるがままに過ごせるのです。
ですが強大なエネルギーの「思考自我」は、そんなことなど
一瞬にしてひっくり返すのです。
それはなぜか?・・・ですが、“無心”には幻想は浮かんで
来れないということです。
幻想は、今まで事実の自分としているからです。
幻想で無ければ、「死」に直結すると判断するのです。
ですから、頭の中で一度死んでみてくださいと言って
いるのです。(笑)
そうしたら必ず事実に甦ってきます。
頭の中での幻想の「死」は、汚れの無い“空っぽ”です
から爽やかな空間とも言えるのですね。
それが訪れるまで弛まぬ“只なる実践”の持続です。
そして離れて観て行くことが“只なる実践”の持続です。
そうすると、私(思考)は良いものは失いたくない、悪い
ものは早く離れたいと観えてきます。
ですから、頭の中に善悪の観念がしっかりあるということ
ですね。
しかし事実には、善いも悪いもありません。
繰り返し述べていますが、頭の中の判断で行動して行く癖が
迷いとなって行くのです。
身体は誕生してから、間違いなく事実のまま動いているから、
迷うことなどまったくありません。
ですから心というものが“無心”にあれば、心身一体となり
あるがままに過ごせるのです。
ですが強大なエネルギーの「思考自我」は、そんなことなど
一瞬にしてひっくり返すのです。
それはなぜか?・・・ですが、“無心”には幻想は浮かんで
来れないということです。
幻想は、今まで事実の自分としているからです。
幻想で無ければ、「死」に直結すると判断するのです。
ですから、頭の中で一度死んでみてくださいと言って
いるのです。(笑)
そうしたら必ず事実に甦ってきます。
頭の中での幻想の「死」は、汚れの無い“空っぽ”です
から爽やかな空間とも言えるのですね。
それが訪れるまで弛まぬ“只なる実践”の持続です。
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