宇野功芳評「丹念な取材が描きだす、巨匠の実像魅力」文春図書館(週刊文春10月30日号)

2008年10月26日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記

週刊文春  10月30日号 文春図書館<今週の必読>

 

    宇野功芳評 1930年東京生まれ。音楽評論家、指揮者。
               『指揮者朝比奈隆』ほか著書多数 


 

 

『嬉遊曲、鳴りやまずー斎藤秀雄の生涯』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した中丸美繪が、今度は朝比奈隆に挑んだ。


朝比奈に関する音楽論は数多く出ているが、その生涯については通りいっぺんのことしか知られていない。


中丸は1998年から死の年まで三年弱の間、朝比奈本人をはじめとして徹底的な取材を行ない、この指揮者の光と影のすべてを映し出す本格的な評伝を発表した。

 

 中丸が斎藤にひかれたのは、「欠点の多い、生身の人間」だったからだが、同じことが朝比奈にもいえる。


自分の才能のなさに自信を失い、出世した後輩に嫉妬し、新人をいじめ、家族に当り散らし、息子千足に父親らしいことを何一つしなかった彼。

 

その半面、音楽への献身は人並みはずれ、「蝶々夫人」を指揮するときはぼろぼろ涙を流して楽員をおどろかせた。


とくに日本にブルックナーを定着させ、その真価を伝えた功績は計り知れない。まさに偉大さと俗っぽさを併せ持った英雄であった。 

 

90歳以降の朝比奈は癌のつぎつぎの転移によってとても指揮ができる状態ではなかったという。

白内障と緑内障で左眼は見えず、最後の一年間は毎日37度5分以上の熱があり、排尿障害がひどく、やがて食べ物ものどを通らなくなる。


それでも彼は驚異的な意志の力で仕事をつづけた。もちろん病気のことは本人にも町子夫人にもかくされていたが。 

 

以上のような芸術家の修羅については、73年以降、積極的に朝比奈を支持し、親しくおつき合いをしたぼくもまるで気がつかなかった。


それどころか、この本に書かれているほとんどのことが初耳だ。

 

小島家に生まれ、朝比奈家の養子になったというが、実父は渡辺嘉一という人で、彼が長崎の芸者に生ませた子ではないか、と中丸は推理する。


だが、著者は朝比奈が強運の人であり、人を惹きつけてやまない人間的な魅力の持主だったと結論づけている。

 

ファン必読の力作だ。

 

 


「オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練」発刊

2008年09月27日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
朝比奈隆伝が発刊となります。上記タイトルにて・・・。本書について、八月十三日に文藝春秋本社にて、作曲家千住明さんと対談しました。[ 「本の話」10月号です。 ご興味のあるかたはhttp://www.bunsyun.co.jp 八月は校閲作業やら、姑の入院やらでばたばたしました。大好きなスポーツ観戦・・・オリンピックもあまり見られず・・・・。 これから朝比奈伝取材について書いていきますね。

朝比奈隆 生誕100年記念演奏会

2008年07月28日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
すっかりご無沙汰してしまいました。姑の病気のことでばたばた・・先日は連休中の夜中に腹痛をうったえて呼び出しをうけ、結局朝、入院。診断は感染性腸炎でした。


さて、七月九日は朝比奈隆生誕100年でした。しかし、わたしはチケットを手に入れたものの、それもな、なんと、一列めのど真ん中のかぶりつき席をリクエストしたのでしたが、上記に似たり寄ったりの家庭の事情がその日もできてしまって、参れなかったのでした。

当日のザ・シンフォニーホールでの演奏会のことは、ホルンの近藤望さんから聞くことができました。
曲目はブルックナーの9番。

指揮は大植さん。
指揮台にはスコアのかわりに、朝比奈の写真が置いてあり、燕尾服のポケットにも朝比奈先生の写真をひそませていることを、カーテンコールのときに明かしたそうです。

その態度は朝比奈先生への深い敬愛の気持をしめしていた・・・。
ま、なかにはそういうアピールの仕方をやりすぎと感じるひともいるでしょう。しかし、舞台人というのは、そんなことでもなんでもぐいと押し出して、押しの強いタイプでないと成功しないものです。

朝比奈先生へのインタビューで私が感じたのも、そういうぐいぐいという押しの強さ。
大植=朝比奈のようなことは、朝比奈=山田耕筰にもいえるのです。
朝比奈は山田耕筰のことを、とっても大切に思っていたということを、私に強くアピールしましたし、実際周辺取材でもその接し方は検証できました。

アピールのためのアピールでなく、尊敬する気持の表現の仕方が、普通でない、と考えればわかりやすい。

演奏についての近藤氏の指摘でおもしろかったのは、大植さんの演奏は朝比奈先生とくらべると「すっきり、くっきり」という感じでラムネと日本酒ほどの味わいの違いがあったとおっしゃっていたこと。
どちらがすきかといわれれば、印象の深さにおいて「朝比奈」だとおっしゃいました。

大植さんが大フィルの指揮者になってから、大フィルの音が変わってきたとはいわれることですが、これをやはり近藤さんも感じたということです。

すなわち管楽器の音色が決定的に違っていたこと・・・・

ミスは少なくなっていたけれど、音量が圧倒的に不足している・・・

近藤氏はそれについては、聞いていてイライラするほどだったと感想を述べていました。

近藤氏は「バタ臭くて重厚な個性」を失ってほしくない、と結びんでいます。

含蓄があります。

これだけでも、朝比奈の演奏の特徴がよおおおおく解るのです。



姑が癌に

2008年06月08日 | ぐうたら日記
5月の連休直後に、姑が癌だということがわかった。
そのためすっかりブログの更新が停滞してしまっている。

姑が体調が悪くなり、近所の医者でCTなどとってもらったものの、セカンドオピニョンのつもりで癌研へ。

そのフィルムをすぐみて、外科の医師は「これはもう手術できません」と断言。
「原発不明の腹部転移」であり、年齢が76歳のため、はたして抗がん剤が有効かどうか、というのである。医師はまったくそれを勧めない。

義母は聞くはずでなかったことも口にする。
「先生、あとどのくらい生きるでしょうか」
「お義母さん、そんなこときいていいんですか。聞くはずではなかったでしょう」
 初診の問診表で、義母は「がんだった場合、あなたは告知をのぞみますか」の問いに、「現状だけを知りたい」に○をして、「余命も知りたい」はそのままにしておいたのである。「これはいいわね」といいながら。

しかし、土壇場で義母は質問をなげかけた。
「あと三年ぐらいでしょうか」
「・・・・。年単位ではむずかしいでしょう」
「それじゃ、あと数ヶ月ですか」
「なにかしたいことはないですか」医師も質問にダイレクトに答えることは避けたかったようだ。

 その日の詳細についてはまた改めて書きたいが、義母が近所に越してくることになった。そもそもその提案をしたのも、自分でも驚くが、私であった。

 この数日後には、蓮見ワクチンを摂取するために義母の初診、マンションの下見をしておいて義母とともに見学・・・とやつぎばやにことをはこんでしまった。。。。

 まったくまっとうな嫁業に、はじめてといっていいくらい追いまくられる日々である。

 さて、朝比奈伝のほうは10月出版である。

 この夏はオリンピック。。。。読書の秋の出版である。

 先日、大阪フィルハーモニー交響楽団のOB会があった。それに行きたいなどともいっていたのに、それもそんなこんなでかなわなかった。


 関西交響楽団時代にいた白井修三、虎谷迦悦氏らにも朝比奈伝のためには取材している。

 さて、昨日、日本バレー男子の出場も決まった。私自身、スポーツを見るのが好きである。
 サッカーも、ワールドカップ出場キップはまだ手に入れていない。そういえば、あの中田くんはいったいどうなっているのか。予選の日に、「中田プレゼンツ」なんてことをするっていうのは・・・。
若いときの彼は好きだった。しかし、最近の彼は理解不能・・・。

義母の介護とオリンピック、暑い夏がきそうである。




朝比奈先生はのんびりとバカンス気分だった

2008年04月18日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
林先生はたいへんに機転の利く若者だったようだ。
ソ連が参戦して、満州に攻め込んできたということは朝比奈は情報として得ていなかったようだ。
それはヤマトホテルという超高級のホテル住まいをしていたせいで、どうやら戦争という危機感があまりなかったからかもしれない。ハルビンに住んだ人々は、総じてこの危機感をもちあわせていなかった。

戦中、ハルビンには空襲もなかった。奉天では民衆によるバケツリレーの訓練などもあり、空襲にそなえて危機感が高まっていたが、ハルビンにはこれがまったくない。
ロシアの伝統のもとに街づくりがおこなわれていたせいもあるのだろうか。
ハルビンには、戦争の気配はまったくなかった。

1945年8月15日その日、朝比奈夫人と息子千足は、バカンス中であった。既にソ連の参戦も民衆には伝わっていたようだが、どうも朝比奈はこれも察知していなかった可能性がある。朝比奈はその朝、バカンス先から練習場に出かけて、お昼の放送をきけといわれ、それで知ったというのんびりした状態だった。

「関東軍250万がいるから満州は安泰」といわれ満州に移住した朝比奈は、それを信じ続けていたようである。

まもなくヤマトホテルはロシア人の将校クラスが出入りするところとなる。
それでも朝比奈一家は、まだホテルに残っていた。
ちまたでは、日本男子がつぎつぎとシベリア送りになりつつあったのである。




林元植先生

2008年04月16日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
わたしがホリデーインに宿泊しているというと、林先生はそのホテルにはよく行くといった。
なんのへんてつもないホテルである。しかし、「そこにある中華がおいしいんですよ」
ちなみに先生は日本語がぺらぺらである。それも栃木弁なまりということで、茨城出身の私に近い言葉でありましょう。日本が韓国を併合していた時代の産物で、なんとも私としては、つらい気持になるのだったが、林先生は語学の達人なのだろう。現在の北朝鮮にちかいところの生まれで、母国語はもちろん、中国語、ロシア語、それに戦後になってニューヨークのジュリアードに留学したために英語もできる。それに機転も利くから、朝比奈御大を敗戦後のどさくさのハルビンで身を隠すようにれ誘導することもできたのである。

林先生は「わたしはキムチが苦手なんですよ」と韓国人らしからぬことを言う。
辛いのがだめなんだそうで、このホテルの中華がおいしいので、しょっちゅうくるのだという。それで注文なさったものが、ジャージャー麺であった。
その日は、ソウルから一時間ばかり車でいった○○市で、演奏会のリハーサルがあるという。それで道々話を聞きながら、わたしもリハーサルに同行することに。

このとき私ははじめてソウルを訪れた。見るもの、聞くもの、珍しい限りだった。
ソウルの道路はとても広く、横断歩道がない。すべて地下通路でむこうの道路に横断しなければならない。
それで私は「これは戦争になったときに、防空壕がわりにするためでしょうか。道路もとても広い。ドイツは戦争になったときには、アウトバーンを滑走路がわりにするというが、韓国もそういうことを考えて道幅を広く、地下通路をもうけているのでしょうか」などと、まったく関係のない質問をするのだった。
「そういうこと、考えてもみなかったけど・・・」
「でもそうとしか考えられないですよね」と、わたしは曲げない。

と、そんな話からはじまって、ハルビンで朝比奈の身を案じて自分の部屋にかくまった話などをはじめた。


 


朝比奈の弟子、林元植をソウルに訪ねた

2008年04月06日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
朝比奈隆の「お別れの会」では、数人の指揮者が大フィルとともに音楽を献奏した。その指揮者は外山雄三、若杉弘、岩城宏之、朝比奈千足、そして、朝鮮人の林元植だった。
 
林は、みずから「朝比奈の弟子」といっている指揮者である。楽屋での記者会見のあと、私は林先生からソウルの連絡先を聞くことができ、それからまもなくソウルに飛んだのだった。

それは朝比奈がなくなった翌年2002年の春で、サッカー日韓ワールドカップが行われる年だった。林は韓国では文化勲章にあたる賞を朝比奈よりも早く受賞しており、また芸術院会員にも若くしてなっていた。さらにサッカーが好きなこともあって協会の理事でもあり、ワールドカップ直前ということもあって、ともかく多忙をきわめて、携帯電話がしょっちゅう鳴っていた。このころはいまほど携帯は普及していなかったはずで、私はまったく驚嘆したのである。
80歳を越えてもそれほど活動的に人間はなれるものだと・・・・。
朝比奈も東京ではリラックスした雰囲気だったが、大阪フィルの本拠地での取材では、電話がかかることしばしば、こちらも落ち着いて取材できなかった。
元気な老人たちだった。

さて、私がホリデーインに宿泊しているというと、「ではそこのホテルで昼食をまず食べましょう」と林先生はいい、ソウルに着いた翌昼に先生と会うことになった。その翌日も・・・。

つづく

中丸三千繪サントリーホールで三枝成彰の新作オペラだが

2008年04月06日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
きのうの君が代の説明をもう少しします。

その前日がほとんど徹夜で、疲労困憊していたので、眼をしょぼつかせながら書いておりました


まず君が代の歌詞を書いてみます。



君が代は/千代に八千代に/細石の巌となりて/苔の生すまで



あらためて書くと、本当にこの国歌は短い。短くて淋しいくらいですね。まあ、簡単でいいという声もあるかもしれません。

/で区切ったところが、一応意味上の節の区切りになるわけですね。

本来歌にはもりあがりがあるものですが、この場合、みなさんでしたら、音楽的な最高潮をどこにもっていきますか?
この国歌だとちょっと難しい気がします。
まあ「苔の生すまで」に作曲家は最後の盛り上がりをもっていったわけですが、あまりにも曲が短いために、あっという間に収束させました。

最初のもりあがりが、ほぼ真ん中にある「さざれええええええ、石の」ですよね。(文字で書いてみると、ここで音楽が途切れるのはおかしいとはっきりしますね)。
ときには「さざれえええええ」でブレスしてしまう人々、ときにはプロフェッショナルな歌手もいます。ここでのブレスはぜったいにいけません。意味がわからなくなります。

で、つぎの「巌となりて」からまた新しく低い音から始まります。








朝比奈伝の装丁

2008年04月05日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
大フィルに岡さんというフルート奏者がいた。
朝比奈は豪快にみえるが、大フィルではすべての楽員とわいわいやっていたわけではない。お気に入りの楽員はいたのである。女性にかぎらず男性でも。

たとえば、男性なら日名弘見だ。彼のことはまた後日。
それで岡さんである。岡さんへの取材で、わたしはその部屋の壁に不思議なものを見つけた。
「あれは?」
「あれは朝比奈先生の指揮を絵に書いたものなのよ」

それはいま明確にどのようなという説明ができない。もうそれを見たのが何年にも前になるからだ。朝比奈がどういう指揮ぶりなのか、音楽の楽譜の上にその指揮の絵が描いてあったように思う。なんでも朝比奈にある絵描きさんがくれたものだそう。それを朝比奈が岡さんにプレゼントしたのだ。

それは額装されていた。
私はあれを本のカバーかなにかに使えないかと、そのときから考えていた。
「そう、じゃ、いついらっしゃる?」

日時を約束した。
「じつはきょう(四月四日)は、わたしの誕生日なの」
と岡さん。
「大フィル時代の思い出を書いた本をつくって、きょうのコンサートでみなさんにお配りしようと思うの」
彼女は阪神間でリラックスコンサートを主催している。
「朝比奈先生の指揮の悪口なんかもたくさん書いてあるのよ」
「読みたいですね。岡さんがいってらした大フィルの扇町時代の楽しい雰囲気が出ている本なのでしょう」
「え? ええええ!! そうね、そう。出ているかもしれない。いらっしゃるの楽しみにしているわ」
どんな絵だったか、わたしいまからわくわくしている。









中丸三千繪サントリーホールで三枝成彰の新作オペラだが

2008年04月05日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
昨日、妹に会いに行った。いまじつは療養中である。練習が長時間になりすぎて(普通歌う時間はせいぜい二、三時間でしょう。ところが8時間も歌わされるのだそう)
来週の火曜日サントリーホールで上記のオペラ「悲嘆」が初演されるが、なんとこのオペラ、超現代曲らしい。
その台本と演出は、日本でも文学座の木村光一演出で評判となった「キッチン」のアーノルド・ウェスカー。
彼が来て演出をしているが、英語の台本に日本人の作曲家でなかなかこれがたいへきみんらしい。

音楽に詳しい読者ならわかるだろうが、「君が代」の「さざれ、いしの」なのだそうである。
言語と音楽の関係は深く、君が代はドイツ人の作曲家の手になったためか、本来なら「さざれ石」なのに、「さざれえええ、石の」になってしまう。これだと聞いていてわからないのですよね、意味が。
このオペラの英語でもそういうことが起こっていて、歌手は英語がいいにくいは、だから覚えるのがたいへんで、作家も音楽と言語があわないとぶつぶつ・・・。
作家と作曲家のつなひきのため、延々と練習がつづくのだとか。


そして強靭な声もとうとういっとき出なくなったらしい。

わたしはまだ聞いていないが、妹がどうしても明日見てきてという。
わたしが見に行ってもしようがないとおもうのだが、「おもしろいからきてよ」などといっている。

まあ、いってみるかなあ。
世田谷のスタジオであした初めてオーケストラとあわせるという。

朝比奈伝はまだか

2008年04月04日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
大阪の演奏家から電話があった。
「朝比奈さんの伝記はまだですか。そろそろ出版されると聞いていたのですが」
 この種の電話が何本か最近かかってきた。
「ブログ見ているんですけれど、ずっと朝比奈伝執筆中固まっていて、どうなったかと思って」
 お恥ずかしくて答えるすべがありません。
 周辺の取材にたいへん手間取っていたのです。それに私が取材をして朝比奈御大本人から聞いた話と、調べていくと異なることが、ざっくざっく。そんなわけで一行書くにも一カ月二ヶ月ということがざらでした。


大阪では朝比奈生誕100年ということで徐々に盛り上がってきているようです。
六月にはラジオに元大阪フィルハーモニー在籍者による演奏会と、トークが開かれるようです。楽しみです。
御大ほどの人はなかなかいません。
私も取材をして、あれほど話の面白い指揮者に会ったことはありません。
「話、けっこう面白いでしょ」
ホテルオークラでの最初の取材のとき、別れぎわに朝比奈は、私にそんな言葉を残した。

指揮者朝比奈隆伝 執筆のきっかけ

2008年04月03日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
私が朝比奈隆伝を書きはじめたきっかけは・・・・・


 1998年のある日、梶本音楽事務所の朝比奈先生担当の磯貝さんより、お電話をいただいた。
「じつは出版社が朝比奈伝を出したいといっているのですが、中丸さんは書く気がないでしょうか?」
 そのころまだ朝比奈御大はご生存。指名を受けたとなって、断る作家はいるだろうか。まして私のようなノンフィクションで書く場合、本人の了解が得られたということは大きい。ただ「御用作品」にならないようにしなければならない、と私は自分自身に戒めたものだ。すでに「嬉遊曲、鳴りやまずー斉藤秀雄の生涯」を読んでいた朝比奈は、私のスタンスを知っていた。

 そもそも私が朝比奈と最初に会ったのが、その「嬉遊曲、鳴りやまずー斉藤秀雄の生涯」の執筆時だ。朝比奈は、斉藤秀雄がN響を去ったときの様子の一部を再現してくれた。
 面白いのはそのあとのことである。
 斉藤に関するインタビューのあと、「もし時間があったら、わたしはそこでいっぱいやるんだが、どうか」と、朝比奈はいい、私はオークラのバーに誘われたのだった。午後三時か四時ぐらいで、バーにはほとんど人はいなかった。
 朝比奈は常連のようで、入っていくとすぐにバーテンダーが愛想のいい挨拶を返してきた。

 そこでの朝比奈の話は、フルトヴェングラー、朝比奈指揮のオペラの演出をした武智鉄二、11代片岡仁左衛門(現仁左衛門のお父さんだね)
、桂米朝と、朝比奈の人生が多くの人々との出会いと彩りに満ちていることを物語っていた。
朝比奈は自分の人生を書いてほしいと思っているのだと、私は感じていた。


それから数年のときがたち、私は光栄にも朝比奈からの指名によって伝記をかくべく取材を開始することになった。
 そのとりもちをしてくれたのは、梶本の磯貝氏だった。磯貝氏の朝比奈への愛情をいつも感じた。

 朝比奈氏が東京へくるたびに取材の時間が確保され、またリハーサルの見学も許され、わたしは御大滞在のホテルオークラへ出向いたものだ。朝比奈は演奏会の翌日でも疲れをみせず、元気に(というか元気すぎるほどで)いつも時間オーバーでこちらが心配するほどたっぷりと講談めいた話をしてくれたものだ。
 
 朝比奈は座談の名手である。これは朝比奈の人生の厚みを物語っている。
 わたしはますます朝比奈の人生に興味をもった。
「言論の自由ですから。どうぞなんでも調べてください」と御大は鷹揚だった。
 というか、美辞麗句だけでは、伝記はできないことなど、御大はとうに知っていた。偶像は人々を感動させないこともわかっていたし、人々が伝記のどういうところに感動できるかも知っていた。 

 朝比奈から数十時間にわたって話を聞いた。朝比奈の弟さん、甥のかたがたまで、朝比奈御大は紹介してくれた。

 


                   つづく




工事中

2007年11月28日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
工事中


朝比奈隆伝・・・・執筆中。


朝比奈取材旅行へ

2007年09月27日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
いまから関西に向かいます。
朝比奈隆伝の最終取材。
いろいろ秘話が出てきたなあ。
このまえの講演会で、つい斉藤秀雄の話にもなったが、彼がピアニスト井口基成らと「子供のための音楽教室」を創設して、子供たちで弦楽合奏を始めたとき、「大人に相手にされなかったから子供を相手にオーケストラをつくろうとしている」などと、陰口をたたかれていたのだが、朝比奈をしらべていくと、まあ、オーケストラをまとめるということのたいへんなこと!

斉藤が子供相手に・・なんていわれたのも、納得してしまった。
教師、教育志向の斉藤がオーケストラをボイコットされた話は、私の本の「嬉遊曲、鳴りやまずー斉藤秀雄の生涯」にくわしいが、朝比奈だからこそ、50年もひとつのオーケストラに君臨できたのだろう、と思った次第。


いやはや。オーケストラをまとめられれば、一国の総理がつとまるのでは、とつくづく思いますよ。

第43回府中市市民芸術文化祭 文化講演会

2007年09月19日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記

 第43回府中市市民芸術文化祭  

   文化講演会

 「小澤征爾の受けた教育」

日時  9月23日 (日曜日 祝日)

  午後1時30分より3時30分 

場所  京王線駅府中駅ビル内 グリーンプラザ大会議室

主催  府中市民芸術文化祭 実行委員会

主管 府中市文学研究会


ということで、講演をします。


この府中市文学研究会の代表は、わたしが現在執筆中の朝比奈隆の弟さんの奥様小島さんです。

朝比奈隆は、じつは小島家の人間だったのですが、生後まもなく朝比奈家にもらわれていったのです。本人は朝比奈家の長男だと中学になるくらいまで知らずに育ってきました。小島家は近所であり、実の弟小島義彦とは小学生のころからよく遊んでいたそうです。
「たかちゃん」「よっちゃん」と呼び合い、朝比奈がはじめてレコードを聴いたのも小島家のよっちゃんの家でした。

よもやふたりが実の兄弟だったとは。幼い朝比奈も小島義彦も知らなかったのです。


そんなことに始まる取材を小島さんからさせていただきました。
朝比奈の音楽の原点がわかります。

今度講演する府中に小島さんは在住しております。府中には市民交響楽団がありますが、そのオーケストラをつくったのは、朝比奈の母校京都大学のオーケストラに所属した北岡徹さんでした。北岡さんは京大オーケストラで朝比奈の指揮で演奏をしたこともあります。私の本にも、当時のお話や写真などで協力してくださいます。
そんなこんな、いろいろなご縁が府中とできました。
当日は、小島さんほか、北岡さん、オーケストラの方々などおみえになるとのこと。質疑応答の時間もあるので、小澤さんの受けた教育をはなれ、日本の音楽界の話などにもおよぶかもしれませんね。