紀尾井ホールで興奮!MOSTLY KOICHIRO

2014年02月03日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
2014年1月31日。
紀尾井ホールにMOSTLY KOICHIROをききにいく。
ヴァイオリンの新鋭神尾真由子が実行委員長をつとめるとかいうことはつゆ知らずに出かけた。原田幸一郎氏やチェロの原田禎夫氏、ヴィオラの川本嘉子さんが出演するから、ぜひ聞きたかったのだ。両原田さんの演奏は、昨年夏のサイトウキネンフェスティバルで聴いて、感動!の極みだったからだ。原田禎夫ファンになってしまった。
ピッチカートが絶品なのである。

紀尾井ホールの話にもどる。
その日、出かけたのは、原田幸一郎さんの門下生の演奏会だ、ということである。

わたしは斎藤秀雄の評伝『嬉遊曲、鳴りやまずー斎藤秀雄の生涯』(新潮社)をだいぶ前に書いた。
それは数年を要したもので、わたしにとっては忘れられない一冊。
このときの取材は、小澤征爾さんや、アイザック・スターン、井上道義ら、ほかにもちろんチェロ門下の堀了介、原田禎夫、堤剛さんやら、ヴァイオリン、ヴィオラ、かつてのN響関係者、桐朋関係者、桐朋学園前のラーメン屋さんや、広島の自称斎藤信者の大畠さんやら、世界ぐるりと130人以上取材したのだ。

そのなかで、原田幸一郎さんが、斎藤先生から言われたという「13使徒の一人になってくれるか」という言葉が印象に残っている。
つまり、日本の音楽界を発展させるため、斎藤秀雄は寸暇を惜しんで教育にはげんだが、自分の跡を継いでくれ、とキリストの13使徒になぞらえて門下生に託したのだ。

原田幸一郎さんは、斎藤がまさに教師として日本に音楽を広げてほしいと託した音楽家なのである。

原田さんは、もうひとりの原田さんと、こちらは禎夫さんーと東京クヮルテットを率いてきた。
その弦楽四重奏団は、日本初の国際的に活躍するアンサンブルとなった。
ところが、世界を駆け巡って演奏旅行をする日々につかれ、その後、幸一郎さんは引退。
桐朋学園で教育を始めたのである。

いったいどういう演奏家を育ててきたのか!
これが見事!!!!というほかない。
斎藤門下は、サイトウキネンオーケストラだけ、というのはちがうううううう!!!!

斎藤の水脈、いや血脈といっていいその門下生は、さらに門下生を広げているという事実を、まざまざと見せつけられたのである。
ああ、その日、斎藤秀雄が出現したのである。
幸一郎さんが弦楽合奏団の前で指揮する姿が斎藤にみえてしまった!!!!
斎藤という人は、こういう形で教育をしてきたのだ!!!!
サイトウキネンフェスティバルを最初にきいたときよりも、感動してしまった。
つまり、教育という概念が明らかに生きている。
演奏活動のためでなく、教育がそこにあったのだ。

世界各地でコンサートマスターをつとめる幸一郎さんの弟子たち、日本の各オーケストラで活躍する弟子たち。ソリストとしてチャイコフスキーコンクールを制覇した弟子やら、もうこれはこれは・・・・それはまさに斎藤秀雄がやったことと同じなのである!!!
そして、先生を尊敬して集って演奏会を開いたということ。

ああ、この興奮は三日たってもおさまらないのである!!!!

金太が吐いた

2012年01月15日 | お猫さま日記
金太が吐いた。
獣医先生からは、「吐いていませんか」といわれたときには、「いいえ」といったのだが、大丈夫だろうか。

このところ毎日家で点滴をしている。
点滴をすると、冷えているようなので、湯たんぽをしてあげる。そして、そこでコバルジンをのませる。
最近はスポイトで強引にのませていたが、どうも喉のところに、気管かのどの奥にひっかかかるのか、ゲホゲホいうので、「そんなんじゃ、だめだ。気管にはいったらどうするのか!!!」と夫にいわれ・・・。グスン。
そういえば、わたし自身も気管につまって、一年くらいまえには、救急で診察にいったのだった。

それで、今度は薬袋から直接、口をあけさせて、無理やり飲ませるという方法となった。
コバルジンを飲ませると、調子がよいようだからだ。
すると、こちらのほうが、金太の負担はすくなかったのである。

そのあとで、ビオフェルミンとオリゴ糖を水でまぜ、そこにスープ状のえさ、あるいは総合栄養食をまぜて、与えている。これでなんとか体重を保っている状態。

ときどき妙に外に出たがる。寒いので「
駄目」というが、ときにいうことをきかず「出してくれ。ちょっとでいいから出してくれ」
というので、三日前と、本日、外に出した。

だんだん食が細くなってきているが、人間らしく、ではない、猫らしく、動物らしく、外遊びが好きだった金太の楽しみを全部、とってしまうのはしのびないから・・・・。




金太の食事療法

2012年01月07日 | お猫さま日記
金太は13歳でした!
おかあさん(わたしのこと)がわかっていないなんて。失格ねえ。年末に浅野家としょくじかいをしたときにシモンくんが、「ぼくより3歳下だとおもった」といい、わたしが「今、何歳になった?」と尋ねると「16歳」ということだった。
「弟ができたみたに思っていたから覚えているよ」とシモンくん。
そのとしは、金太の前に生まれたプリンちゃんがいて、それを浅野家がうちからもらっていったのだった。

あれから13年がたつのか。感慨深い。

ところで、金太は一週間入院しました。
三日ぐらいといわれたが、点滴によって血液検査の結果がよくなるなら、もっと点滴を・・・という先生の診断によって長引いたのでした。
毎日見舞いにいきましたが、だんだんストレス大きくなっているのがわかる。

面会室が設定されていて、どういうところで寝泊まりさせてもらっているのかはわからないが、
いろいろな動物の悲鳴が聞こえてきて、わたしでもノイローゼになりそうであった。

しかし、まあ体調のほうはだいぶよくなり、退院。家での点滴を勧められおこなっています。

ともかく体重を増やす為に、食事をなんとかしないといけないのだが、病院からだされた腎臓食がまったく食べず。
わたしは味見をしてみたが、(はじめて猫のえさの味見をした。いつも食べているわけではありません)想像したほどまずくはなかった。それよりもけっこう脂っぽい。

最初は好物のマグロの刺身なんかを食べさせていたのだが、そのうちにこれもたべなくなり、けっきょくもともとの缶詰へ。そのうちこれまでの缶詰もだめになり、いまは高齢猫用のかんづめに。それもそのままではあまり食もすすまなそうで、水分ばかり欲しているようで、というのもやはり脱水症状があるのですね。それで缶詰に少し水をまぜて、ミキサーでジュース状にして与えています。

これでなんとか体重を4キロにたもっているじょうたい。
家に病人がいると、家がくらくなりますね。

猫の腎不全

2011年12月27日 | ぐうたら日記
うちの金太、12歳が突然数日にして激やせしました。

もともと太りすぎていたので、最初はちょっとは健康にいいだろう、ぐらいに思っていたのだが、朝、起きて「おはよう」というと、わたしの目をじっとみて、「ミャアー」と力なく訴えるではありませんか。
これはただごとでない、と思い、獣医さんに連れていきました。

血液検査をすると、BUNが140、クレアチニンが7.7。
脱水がひどく進んでいるから、点滴が必要だということで即入院となってしまいました。
これまで病気といえば、近所の五郎ちゃんと喧嘩したときにできた傷ぐらい、
とうとう金太もそんな病気になってしまったかと、日頃あまりに元気なために・・・おもわず涙が・・・。
それにしてもやはり食生活が悪かった。猫のものを食べていればよいものを、わたしが食事をしていると、伸び上がって手をのばして、「くれ、くれっ! うまそうなもの食べているじゃないか。僕にもちょうだい」と言うので、つい、あげてしまうという日々でした。
もともと野良猫ちゃんだった生後すぐから、エビなんて人間の食べるものをたべてしまってたのね。
(この話をはじめると長くなる)

やはり塩分がよくなかったねえ。干物とか好きだったよね。鳥も、牛しゃぶしゃぶも食べるし、羊や豚肉まで
腎臓が片方がまったく機能せず、もうひとつも小さくなっているというのが、エコー検査でわかった。


金太頑張って!

我が家の猫

2010年11月15日 | ぐうたら日記

うちの猫は、ちい子、金太と花です。

ちい子が一番先にきた猫。

そして一年後に金太、と花がきました。

その間に、プリンちゃんという子がいましたが、これはちい子が激しい嫉妬をして、飼うのをあきらめました。

いろいろドラマがありました。

 


猫はある日、玄関で足をそろえてまっていました。

2010年11月08日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
なんだか、すっかりご無沙汰しております。
ヨーロッパにいってました。
バルセロナ近郊の避暑地、シッチェス。
そして、イギリスのノッチンガム。
なんだか、マイナーなところですよね。
わたしは長いことためてきたマイレージをやっとつかうことができたのです。
全日空。機材はボーイング777。飛行機にはうるさいですが、これはまたの機会に。

写真などを整理しておりましたら、うちの猫がまだ小さいころの写真が出てきました。
うちの猫三匹はいずれも外からはいってきた猫でした。
と、その関連で、猫の本について書評を書いたのを思い出しました。それをちょっとUPしてみますね。

産経新聞 2010年5月23日

「こんな病院で臨終迎えたい」のタイトルで、以下の本の書評を書きました。


『オスカー 天国への旅立ちを知らせる猫』デイヴィッド・ドーサ著、栗太さつき訳(早川書房)
                            
 うちの庭先にときどき来ていた猫が、ある日いつのまにか家のなかに入っていた。まだ子猫で、それまでは距離感のあるつきあいをしていたが、初めて私は手を伸ばして子猫の頭を撫でた。そのうちに出て行くのだろう。そうおもって、ガラス戸を少しあけたまま家の雑事に追われていた。 
 気がつくと姿が見えなくなっていたので、私は戸締りをして外出した。夜もふけて帰宅して玄関をあけると、猫が足をそろえて私を迎えるではないか。それ以来この猫はうちの猫になった。その後、さらに二匹の猫を飼うことになったのだが、それぞれの猫の個性と能力の違いには驚く。私が悲しい思いそてい布団にもぐりこむと、いつもはそんなことはしないのに、一番猫は枕元でじっと私の顔をみるのだ。こちらの心理を読んでいるような瞳である。
 本書のカバー写真の猫と副題「天国への旅立ちを知らせる猫」を目にしたとき、こんな猫は絶対いると確信して、私はページを繰りはじめた。
 そこには老年医学が専門の医師からみたアメリカ東海岸にある介護施設の詳細な日常が記されていた。自宅に近い時間をすごしてもらおうという方針で営まれているこの施設には、それぞれの階にオスカーをはじめ数匹の猫も住んでいる。驚きである。最近、日本でも保育所と介護施設を同敷地内につくり、幼児らが老人を訪ねるというニュースを見た。
 アニマルテラピーとして犬を連れて行くケースもあるようだが、猫を施設に飼って自由に病室を行き来させているというのは初めてである。オスカーは臨終を迎える患者さんをかぎ分けて、だれもいない病室にはいっていき、ベッドにひょいと乗って患者さんを見守るのだ。
 私はこんな病院で臨終を迎えたいな、と思う。孤独死が叫ばれているが、病院でだって逝くときにはそばにだれもいないこともある。ここにはそんな家族の姿も描かれていて、立ち会うことができなかった子供らは、オスカーへの感謝の気持ちを惜しまない。じっと見つめる猫の瞳は死の向こう側まで見据えている。




百歳の巨人 

2009年09月08日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
 ときにエッセイなど書いています。

 以下は先だって「東京人」に書いたもの。



昨年、音楽界ではカラヤンと朝比奈隆という二人の指揮者が生誕百年を迎えた。二人の特別番組が放送され、未発表のCDやDVDの発売もあいついだ。生前から朝比奈さんを取材していた私も、やっと秋に評伝を出版できた。二人は最後のカリスマという点で共通だが、音楽的にはまったく対極にあった。
 
今年は小説家松本清張、太宰治、埴谷雄高の生誕百年である。彼らもまた同年でありながら、なんと異質な文学の金字塔を打ち立てたことか。このなかで埴谷さんは私にとって忘れ得ない人である。そもそも昭和20年代に新聞の文芸時評欄で埴谷さんの文章にたびたび接していた私の父は、その雄雄しく高貴なる精神を連想させる名がたいそう気に入って、男の子が生まれたら雄高とつけようと決めていたらしい。ところが生まれてきたのは女の私であった。

そんなところから縁が始まっていたとは思えないが、私は1990年から埴谷さんの主催している囲碁の会、一日会のメンバーとなった。同時代の文学者たちを追悼し続けなければならなかった埴谷さんは、一日会でも碁敵を失ってきていた。ともかく下手な碁打ちを探せとの命を受けた幹事は、まだ囲碁のいろは段階にある私に声をかけた。埴谷さんは勝つことが好きだったのだ。そして、物書きとして海のものとも山のものとも知れない私が、足の弱った埴谷さん付きのような形となって、会の当日にはタクシーで送り迎えすることになったのである。

碁会は昼から始まって深夜のバーに終わる。夜行性の埴谷さんは深夜におよぶほど弁舌が冴え渡る。共産党の崩壊と文学の可能性、宇宙人と単細胞生物、宦官の分布から不可思議な体毛論まで口角泡を飛ばしながら、実際に豆など飛ぶこともあり、私が横からナプキンなど出すと、あなた、文学はいつどかんとくるかわからない、とさらに語気は強まる。帰途のタクシーはあたかも遠くアンドロメダをめざす宇宙船かと錯覚することもあった。

今なにを書いているのかと問われ、詩とも小説ともいえない一編を差し出すと、あなた、批評家だけにはわかるように書きなさいと言う。これは「死霊」が十分な批評を受けていないことへの不満なのか。自著のエッセイ「橄欖と塋窟」など売れないことを願うかのように意図的に難解な署名をつけたのではなかったか。

私が音楽家斎藤秀雄伝を執筆中だというと、東京音楽学校卒の姉が斎藤と面識があるから紹介するという。驚いたことに姉の前での埴谷さんは常に従順な弟だった。初代さんの収入によって般若家(埴谷の本名)は家作を得、豊は思索に徹することができたのか。

尊敬する多くの人々が逝ってしまった。寝床のなかでふと覚醒するときがある。こんなとき死者と交信できる電話があればいいのにと思う。あなたを先導する、精神のリレーは可能だ、文学の永久革命者であった埴谷さんの言葉が暗闇で舞い続ける。(「東京人」2009年7月号巻頭エッセイ)



埴谷さんのエッセイの書名読めましたか。
「カンランとカタコム」です。難解ですなあ。
ちなみに埴谷さんの実家般若家は神官です。
無宗教の埴谷さんでしたが、吉祥寺の居間には神棚が置かれていました。納骨は青山墓地で、そのときはすべてご親戚、子供のいなかった埴谷さんだったので、姉の初代さんのご長男によって神式でとりおこなわれました。あれから十年があっという間にたちました。
埴谷さんが生きていたらなあ・・・・とよく思います。

朝比奈せんせも生きていたら、いっしょにおいしい酒がのめたのになあ、と思います。合掌


講演<対極の音楽家-斎藤秀雄と朝比奈隆>

2009年06月30日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
朝日カルチャーの「工学院大学・朝日カレッジ」主催で、つぎの日程で講演をします。
以下、チラシによる。

<対極の音楽家ー斎藤秀雄と朝比奈隆>

内容 対極の音楽家ー斉藤秀雄と朝比奈隆

 世界的な指揮者小澤征爾さんらを育てた名教育者で指揮者の斉藤秀雄(1902-1974)と、93歳まで現役でタクトを振った指揮者朝比奈隆(1908-2002)。ともに日本の西洋音楽の草創期を歩きながら、めざす音楽、その方法論も、そして性格も、まったく対極にありました。朝比奈本人はもとより、200人を超える関係者を取材し、ふたりの評伝をものにしている講師が、文字にできなかった多くの秘話も交え名k柄2人の生涯に迫ります。

日時 7月4日土曜日 13時から15時

場所 工学院大学新宿キャンパス 中層棟5階(学内赤エレベーターをご利用ください)新宿駅下車 西口すぐ京王プラザホテル手前


<講師紹介>中丸美繪(なかまるよしえ)

ノンフィクション作家 茨城県生まれ。慶応義塾大卒。1997年「嬉遊曲、鳴りやまずー斉藤秀雄の生涯」で、第45回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。2008年「オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練」(文藝春秋)ほか、「杉村春子ー女優として女として」(文春文庫)などの著書があり、「杉村春子」は、米倉涼子主演でテレビ映画化されている。





聖教新聞

2008年12月07日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記

すっかりご無沙汰してしまっています。

 

というのも、姑のがん問題で、いろいろばたばたとしておりました。

 

 

退院してほぼ一ヶ月がすぎようとしています。

 

がんも末期であると、介護保険が適用されるとの医師の助言で、その申請やらヘルパーさんとの打ち合わせ、訪問看護士、往診の医師などとの連絡、さらに義母は、最期はホスピスで過ごしたいとのことで、そちらへも・・・。しかし、都内のホスピスはどこも満杯です。

 

空いているのは、超高級の聖路加国際病院・・・・・・。

 

そこでいいから、と義母。

 

いやはや・・・・。

 

まあ、このへんを書き出すときりがありません。

 

 

まずは、朝比奈伝のその後のご紹介を・・・

 

 

先日、聖教新聞のインタビューを受けました。

 

朝比奈さんは、民音が1967年に第1回の指揮者コンクールをスタートさせて以来、審査委員としてかかわり続け、後に審査委員長を務めています。

 

1983年には、聖教新聞の日曜鼎談にも登場。

 

自身の生き方について、「才能じゃない。人より先に『休もうか』と言わないだけ」と語っています。

 

 

その言葉は、彼がいかに努力してきたかということを語っていますよね。

ブラームスや、ベートーヴェン、ブルックナーの作品を自分なりに読み込んでものにしていった。

 

そして、人生の最期まで楽譜に向きあった努力家で、リハーサルも本番も、すべてテープに録って、全部聞き直してくる。並の心構えではできることではありません。

楽団員の人たちも、そういう朝比奈を見ているから、「それほど音楽を愛しているのだったら、自分たちも……」とやる気になり、燃えたのでしょう。

 

 

掲載はいつになりますか。

 

 


東京新聞・中日新聞 <自著を語る>「苦難が鍛えたカリスマ」(10月24日)

2008年11月23日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
「嬉遊曲、鳴りやまず」で、小澤征爾の師斉藤秀雄の生涯を描いたあと、私は朝比奈隆を書きたいと考えるようになった。二人は同時代の指揮者だったが、その人柄、指揮法など、すべてが対極にあった。

こうして私は1998年から二年半あまり、朝比奈にインタビューを重ね、リハーサルに同行した。親類や関係者ら80人余名の協力も得た。

朝比奈は関西風にいうと、「ええ格好しい」のところがあり、語り口は豪快洒脱である。しかし、その生涯は出自から複雑で、病気がちな少年時代は孤独だった。そんな彼の心を唯一癒したのが音楽であり、朝比奈は「音楽は孤独から生まれる」と言ったこともある。

京都帝国大学出のエリートが、困難な音楽家の道を選んだのはなぜか。朝比奈の生涯に私は「四つの試練」を見たのだが、人生とは必然と符号に満ちているものである。

複雑な出自、戦時中の満州では甘粕大尉に重用されたが、終戦と同時に逃亡生活を余儀なくされ引き揚げを経験。大阪の焼け野原で関西交響楽団を結成するが、NHKとの確執から資金繰りに苦しんだ。晩年には、大阪フィルに音楽大学卒の若い楽員が入団してきて、朝比奈の独裁に対抗して組合を結成した。-それらの試練がすべて朝比奈を鍛えたのだ。

朝比奈には「よきにはからえ」と楽員たちが名づけた不思議な指揮法があった。それは典型的なアンチ斉藤メソッドであり、彼にとって指揮とは技術でなかった。

朝比奈は大阪フィルを「自分のオーケストラ」と終生豪語しつづけた。93歳で亡くなったカリスマの最後の言葉は、「引退するには早すぎる」。54年間一つの楽団の長をつとめた例は、世界の音楽史にも類をみないのである。


朝日新聞書評 松本仁一(ジャーナリスト)「希代の指揮者の並はずれた情熱」

2008年11月18日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
01年10月24日、朝比奈隆は93歳で指揮台に立ち、大阪フィルハーモニーを指揮した。指揮台にあがれず、団員の肩を借りた。タクトはほとんど動かなかったが、演奏はすばらしかった。その年の暮、朝比奈は死んだ。

大阪フィルを育て、54年にわたってそれを指揮してきた男の評伝である。

朝比奈は音楽学校を出ていない。京都大学法学部卒、もう一度入りなおして文学部である。京大オーケストラでたいしてうまくないバイオリンを弾いていた。音楽歴はそれだけだ。

その男が大阪フィルを創設し、ベルリン・フィルなど欧米の交響楽団を指揮し、世界的な指揮者となっていく。それはなぜなのか。著者は8年にわたって本人を追い続け、80人を超す関係者と会い、その経緯を明かしていく。

約70年前、日本の西洋音楽は黎明期で、アマチュアでも参加できる世界だった。意欲さえあれば技術なんてあとからついてくる。そんなダイナミックさがあった。

その時期、オーケストラに並外れた情熱をそそぐ人間がいた。それが朝比奈だった。情熱がそのまま実績となった時代ー。

日本のオーケストラ史の扉を開いた人物を書くことで、著者は時代のダイナミズムをいごとに描き出している。

「週刊新潮」11月13日号 <TEMPO BOOKS>

2008年11月08日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記

「オーケストラ、それは我なり」中丸美繪著 文藝春秋1800円

『嬉遊曲、鳴りやまずー斎藤秀雄の生涯』の著者が挑んだ、指揮者・朝比奈隆の本格的評伝。93歳の最期まで現役を貫いた執念の源を辿ることで、異端とも言えるその音楽人生から内面の葛藤までを、赤裸々に描き出した。巨匠の生誕100年を記念する一冊となろう。

茨城新聞 10月20日 青澤敏明(音楽評論家)評 「指揮者朝比奈隆の軌跡」

2008年11月08日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
朝比奈隆という指揮者がいる、この夏百歳を迎えた、と書けないのが残念だ。現役として聴衆の前に立ち続けた彼は93歳で亡くなった。そのうち54年間、一つのオーケストラを率いたが、これは世界でもまれだ。

1947年に自ら新編成した関西交響楽団は後に改組され大阪フィルハーモニー交響楽団になるが、朝比奈は常任指揮者、音楽監督としてここを本拠に内外の楽団に客演を続けた。現代のある指揮者は「オーケストラと指揮者が幸福な関係にあるのは最初の数週間」と語ったたが、ならばこの挑戦は奇跡的と言えよう。

「引退するには早すぎる」。朝比奈最後の言葉は、「一日でも長く生きて、一回でも多く舞台に立て」という恩師メッテルの教えと響きあう。年月が問題なのでなく、音楽という芸術を瞬間瞬間に新しく築き、同志と劇場に刻み続けていくのが肝要だ。限られた作品に集中した朝比奈晩年の演奏を聴けば、その新年が巨大な存在感をもって交響楽をうたっていたことが分かる。

さて本格的な評伝がこうして生誕百年に登場したのは、長年の音楽愛好家だけでなく時代にとっても待望というべきだろう。本書は、朝比奈隆や家族、友人、音楽関係者を含む80余人への綿密な取材を精妙に結実させている。

晩年に神格化もされた芸術家を、改めて一人の人間として描きだすのは、冷静な距離感と透徹した視点による丹念な構成の力だろう。斎藤秀雄、杉村春子の評伝も先に著した中丸美繪の筆は、ここでもバランスよく目を光らせ、たんたんとした記述を積み重ねていく。

「隠された出自」から「指揮者とは何か」に至る「四つの試練」は、音楽の4楽章構成を思わせるが、簡潔な筆致で端正に語られてきただけに終結部がたたえる孤独の残響はかえって深い。ハーモニーの中には不協和音もあるが、朝比奈という交響楽を全体として鳴らす書法にも細部の意味付けにも確実な手応えがある。後は本書を楽譜に、読者が朝比奈という人物を演奏してみる番だ。


産経新聞11月2日 牧野節子評「朝比奈隆の生涯を描く」

2008年11月07日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
「一日でも長く生きて、一回でも多く指揮をせよ」
 若いときに師事したロシア人指揮者、エマヌエル・メッテルの言葉を胸に抱き、93歳、神に召されるその年まで、現役の指揮者として活躍した朝比奈隆。

本書は彼の生涯を描いたノンフィクションである。

4章で構成されており、「第一の試練・隠された出自」では彼の複雑な生い立ちと指揮者になるまでのいきさつが、「第二の試練・上海の栄光と満州引き揚げ」では戦争を背景に、上海やハルビンで指揮棒を振り、帰国後、関西交響楽団を結成するまでが綴られる。

「第三の試練・NHK大阪中央放送局との確執」ではさまざまな裏事情や人間関係を克明に描き、オーケストラ運営の苦悩を伝える。音楽学校の出身ではない彼を「大阪の田舎侍」と評した音楽評論家もいた。

だが、苦難のエピソード以上に心に残るのが、朝比奈が指揮者、フルトヴェングラーと出会い、ブルックナーについてアドバイスを受けるシーンだ。作曲家、ブルックナーの眠る棺があるオーストリアの聖堂で、朝比奈率いる大阪フィルがブルックナーの交響曲を演奏する場面もじつに感動的だ。

「第四の試練・指揮とは何か」からは彼の音楽への真摯な思いが伝わってくる。それは晩年になっても衰えることはなかったのだ。

生前の朝比奈本人と彼のまわりの人たちへの丹念な取材により綴られたこの評伝からは、偉大であり、かつ人間くさいマエストロ・朝比奈隆の姿がくっきりと浮かび上がってくる。

本書を読んだあと、家にある朝比奈のDVDを再生してみた。彼が90歳のときに指揮したブルックナーの交響曲第5番である。

彼がひきだす音の力強さ、そして指揮する姿の神々しさにあらためて感じ入った。試練は人を強く、美しくするのだと。それは試練に耐え、乗り越えたものだけに与えられる褒美だろう。クラシックファンだけでなく、多くの人に読んでほしい本だ。特にいま、試練にさらされている人に。


小学館「サピオ」 11月12日号 川本三郎評「見たり読んだり」

2008年10月31日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記

images

カラヤンが逝き、バーンスタインも逝き、偉大なる指揮者の時代は終わったといわれる。

 

2001年に93歳で死去した大阪フィルの名指揮者、朝比奈隆は最後の大指揮者といっていいだろう。

 

中丸美繪「オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆4つの試練」は、老いていよいよ名声が高まったマエストロの生涯を描いた評伝の力作。

 

東京生まれ。東京高校から京大へ。音楽学校で学んでいなかったため、長く正当に評価されず「偉大なるアマチュア」といわれていた。東京ではなく大阪を根拠地としていたため、地方楽団の一指揮者と低く見られてもいた。

 

実際、朝比奈隆の名が広く知られるようになったのは、80歳を過ぎてからだろう。とくにブルックナーを日本で広めたのは朝比奈の功績といっていい。

 

演奏会はいつも満員となり何度もカーテンコールに応えるのが恒例となった。著者がいうように「晩年に絶頂をむかえた幸せな指揮者である」

 

指揮者に必要なのはなんといってもオーラだろう。指揮台に立っただけで楽団員に「この人のために最高の演奏をしよう」と思わせる威厳を持たなければならない。

 

年を重ねてからの朝比奈隆にはそれがあった。みごとな白髪、日本人としては立派な体格。年齢から来る堂々たる風格。まさに「老年の朝比奈の容姿には重厚な威厳がそなわっていた」

 

86歳でアメリカの名門シカゴ・フィルで指揮をした。以前、この時の模様をNHKテレビで見たことがある。はじめアメリカの演奏家たちは「日本から来た指揮者」と多少みくびっている様子がうかがえた。しかし、ひとたび朝比奈が指揮棒をとるや、たちまち緊張が走った。まさにオーラだった。

 

若い世代の指揮者、外山雄三は自分たちと巨匠たちとの違いを的確に表現する。自分たちにとってオーケストラは同僚だが、朝比奈隆にとってはフルトヴェングラーやカラヤンと同じように、オーケストラは指揮者のものだった、と。まさに最後の大指揮者である。

 

その一方で、私生活では若い楽団員に「オッサン」と親しまれ、彼らと気さくに大阪の庶民的な酒場で飲むのを楽しみにしていたというのが面白い。大変な猫好きで庭に野良猫のための小屋まで作ったという。