我が家の猫

2010年11月15日 | ぐうたら日記

うちの猫は、ちい子、金太と花です。

ちい子が一番先にきた猫。

そして一年後に金太、と花がきました。

その間に、プリンちゃんという子がいましたが、これはちい子が激しい嫉妬をして、飼うのをあきらめました。

いろいろドラマがありました。

 


猫はある日、玄関で足をそろえてまっていました。

2010年11月08日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
なんだか、すっかりご無沙汰しております。
ヨーロッパにいってました。
バルセロナ近郊の避暑地、シッチェス。
そして、イギリスのノッチンガム。
なんだか、マイナーなところですよね。
わたしは長いことためてきたマイレージをやっとつかうことができたのです。
全日空。機材はボーイング777。飛行機にはうるさいですが、これはまたの機会に。

写真などを整理しておりましたら、うちの猫がまだ小さいころの写真が出てきました。
うちの猫三匹はいずれも外からはいってきた猫でした。
と、その関連で、猫の本について書評を書いたのを思い出しました。それをちょっとUPしてみますね。

産経新聞 2010年5月23日

「こんな病院で臨終迎えたい」のタイトルで、以下の本の書評を書きました。


『オスカー 天国への旅立ちを知らせる猫』デイヴィッド・ドーサ著、栗太さつき訳(早川書房)
                            
 うちの庭先にときどき来ていた猫が、ある日いつのまにか家のなかに入っていた。まだ子猫で、それまでは距離感のあるつきあいをしていたが、初めて私は手を伸ばして子猫の頭を撫でた。そのうちに出て行くのだろう。そうおもって、ガラス戸を少しあけたまま家の雑事に追われていた。 
 気がつくと姿が見えなくなっていたので、私は戸締りをして外出した。夜もふけて帰宅して玄関をあけると、猫が足をそろえて私を迎えるではないか。それ以来この猫はうちの猫になった。その後、さらに二匹の猫を飼うことになったのだが、それぞれの猫の個性と能力の違いには驚く。私が悲しい思いそてい布団にもぐりこむと、いつもはそんなことはしないのに、一番猫は枕元でじっと私の顔をみるのだ。こちらの心理を読んでいるような瞳である。
 本書のカバー写真の猫と副題「天国への旅立ちを知らせる猫」を目にしたとき、こんな猫は絶対いると確信して、私はページを繰りはじめた。
 そこには老年医学が専門の医師からみたアメリカ東海岸にある介護施設の詳細な日常が記されていた。自宅に近い時間をすごしてもらおうという方針で営まれているこの施設には、それぞれの階にオスカーをはじめ数匹の猫も住んでいる。驚きである。最近、日本でも保育所と介護施設を同敷地内につくり、幼児らが老人を訪ねるというニュースを見た。
 アニマルテラピーとして犬を連れて行くケースもあるようだが、猫を施設に飼って自由に病室を行き来させているというのは初めてである。オスカーは臨終を迎える患者さんをかぎ分けて、だれもいない病室にはいっていき、ベッドにひょいと乗って患者さんを見守るのだ。
 私はこんな病院で臨終を迎えたいな、と思う。孤独死が叫ばれているが、病院でだって逝くときにはそばにだれもいないこともある。ここにはそんな家族の姿も描かれていて、立ち会うことができなかった子供らは、オスカーへの感謝の気持ちを惜しまない。じっと見つめる猫の瞳は死の向こう側まで見据えている。