百歳の巨人 

2009年09月08日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
 ときにエッセイなど書いています。

 以下は先だって「東京人」に書いたもの。



昨年、音楽界ではカラヤンと朝比奈隆という二人の指揮者が生誕百年を迎えた。二人の特別番組が放送され、未発表のCDやDVDの発売もあいついだ。生前から朝比奈さんを取材していた私も、やっと秋に評伝を出版できた。二人は最後のカリスマという点で共通だが、音楽的にはまったく対極にあった。
 
今年は小説家松本清張、太宰治、埴谷雄高の生誕百年である。彼らもまた同年でありながら、なんと異質な文学の金字塔を打ち立てたことか。このなかで埴谷さんは私にとって忘れ得ない人である。そもそも昭和20年代に新聞の文芸時評欄で埴谷さんの文章にたびたび接していた私の父は、その雄雄しく高貴なる精神を連想させる名がたいそう気に入って、男の子が生まれたら雄高とつけようと決めていたらしい。ところが生まれてきたのは女の私であった。

そんなところから縁が始まっていたとは思えないが、私は1990年から埴谷さんの主催している囲碁の会、一日会のメンバーとなった。同時代の文学者たちを追悼し続けなければならなかった埴谷さんは、一日会でも碁敵を失ってきていた。ともかく下手な碁打ちを探せとの命を受けた幹事は、まだ囲碁のいろは段階にある私に声をかけた。埴谷さんは勝つことが好きだったのだ。そして、物書きとして海のものとも山のものとも知れない私が、足の弱った埴谷さん付きのような形となって、会の当日にはタクシーで送り迎えすることになったのである。

碁会は昼から始まって深夜のバーに終わる。夜行性の埴谷さんは深夜におよぶほど弁舌が冴え渡る。共産党の崩壊と文学の可能性、宇宙人と単細胞生物、宦官の分布から不可思議な体毛論まで口角泡を飛ばしながら、実際に豆など飛ぶこともあり、私が横からナプキンなど出すと、あなた、文学はいつどかんとくるかわからない、とさらに語気は強まる。帰途のタクシーはあたかも遠くアンドロメダをめざす宇宙船かと錯覚することもあった。

今なにを書いているのかと問われ、詩とも小説ともいえない一編を差し出すと、あなた、批評家だけにはわかるように書きなさいと言う。これは「死霊」が十分な批評を受けていないことへの不満なのか。自著のエッセイ「橄欖と塋窟」など売れないことを願うかのように意図的に難解な署名をつけたのではなかったか。

私が音楽家斎藤秀雄伝を執筆中だというと、東京音楽学校卒の姉が斎藤と面識があるから紹介するという。驚いたことに姉の前での埴谷さんは常に従順な弟だった。初代さんの収入によって般若家(埴谷の本名)は家作を得、豊は思索に徹することができたのか。

尊敬する多くの人々が逝ってしまった。寝床のなかでふと覚醒するときがある。こんなとき死者と交信できる電話があればいいのにと思う。あなたを先導する、精神のリレーは可能だ、文学の永久革命者であった埴谷さんの言葉が暗闇で舞い続ける。(「東京人」2009年7月号巻頭エッセイ)



埴谷さんのエッセイの書名読めましたか。
「カンランとカタコム」です。難解ですなあ。
ちなみに埴谷さんの実家般若家は神官です。
無宗教の埴谷さんでしたが、吉祥寺の居間には神棚が置かれていました。納骨は青山墓地で、そのときはすべてご親戚、子供のいなかった埴谷さんだったので、姉の初代さんのご長男によって神式でとりおこなわれました。あれから十年があっという間にたちました。
埴谷さんが生きていたらなあ・・・・とよく思います。

朝比奈せんせも生きていたら、いっしょにおいしい酒がのめたのになあ、と思います。合掌