講演<対極の音楽家-斎藤秀雄と朝比奈隆>

2009年06月30日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
朝日カルチャーの「工学院大学・朝日カレッジ」主催で、つぎの日程で講演をします。
以下、チラシによる。

<対極の音楽家ー斎藤秀雄と朝比奈隆>

内容 対極の音楽家ー斉藤秀雄と朝比奈隆

 世界的な指揮者小澤征爾さんらを育てた名教育者で指揮者の斉藤秀雄(1902-1974)と、93歳まで現役でタクトを振った指揮者朝比奈隆(1908-2002)。ともに日本の西洋音楽の草創期を歩きながら、めざす音楽、その方法論も、そして性格も、まったく対極にありました。朝比奈本人はもとより、200人を超える関係者を取材し、ふたりの評伝をものにしている講師が、文字にできなかった多くの秘話も交え名k柄2人の生涯に迫ります。

日時 7月4日土曜日 13時から15時

場所 工学院大学新宿キャンパス 中層棟5階(学内赤エレベーターをご利用ください)新宿駅下車 西口すぐ京王プラザホテル手前


<講師紹介>中丸美繪(なかまるよしえ)

ノンフィクション作家 茨城県生まれ。慶応義塾大卒。1997年「嬉遊曲、鳴りやまずー斉藤秀雄の生涯」で、第45回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。2008年「オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練」(文藝春秋)ほか、「杉村春子ー女優として女として」(文春文庫)などの著書があり、「杉村春子」は、米倉涼子主演でテレビ映画化されている。





聖教新聞

2008年12月07日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記

すっかりご無沙汰してしまっています。

 

というのも、姑のがん問題で、いろいろばたばたとしておりました。

 

 

退院してほぼ一ヶ月がすぎようとしています。

 

がんも末期であると、介護保険が適用されるとの医師の助言で、その申請やらヘルパーさんとの打ち合わせ、訪問看護士、往診の医師などとの連絡、さらに義母は、最期はホスピスで過ごしたいとのことで、そちらへも・・・。しかし、都内のホスピスはどこも満杯です。

 

空いているのは、超高級の聖路加国際病院・・・・・・。

 

そこでいいから、と義母。

 

いやはや・・・・。

 

まあ、このへんを書き出すときりがありません。

 

 

まずは、朝比奈伝のその後のご紹介を・・・

 

 

先日、聖教新聞のインタビューを受けました。

 

朝比奈さんは、民音が1967年に第1回の指揮者コンクールをスタートさせて以来、審査委員としてかかわり続け、後に審査委員長を務めています。

 

1983年には、聖教新聞の日曜鼎談にも登場。

 

自身の生き方について、「才能じゃない。人より先に『休もうか』と言わないだけ」と語っています。

 

 

その言葉は、彼がいかに努力してきたかということを語っていますよね。

ブラームスや、ベートーヴェン、ブルックナーの作品を自分なりに読み込んでものにしていった。

 

そして、人生の最期まで楽譜に向きあった努力家で、リハーサルも本番も、すべてテープに録って、全部聞き直してくる。並の心構えではできることではありません。

楽団員の人たちも、そういう朝比奈を見ているから、「それほど音楽を愛しているのだったら、自分たちも……」とやる気になり、燃えたのでしょう。

 

 

掲載はいつになりますか。

 

 


東京新聞・中日新聞 <自著を語る>「苦難が鍛えたカリスマ」(10月24日)

2008年11月23日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
「嬉遊曲、鳴りやまず」で、小澤征爾の師斉藤秀雄の生涯を描いたあと、私は朝比奈隆を書きたいと考えるようになった。二人は同時代の指揮者だったが、その人柄、指揮法など、すべてが対極にあった。

こうして私は1998年から二年半あまり、朝比奈にインタビューを重ね、リハーサルに同行した。親類や関係者ら80人余名の協力も得た。

朝比奈は関西風にいうと、「ええ格好しい」のところがあり、語り口は豪快洒脱である。しかし、その生涯は出自から複雑で、病気がちな少年時代は孤独だった。そんな彼の心を唯一癒したのが音楽であり、朝比奈は「音楽は孤独から生まれる」と言ったこともある。

京都帝国大学出のエリートが、困難な音楽家の道を選んだのはなぜか。朝比奈の生涯に私は「四つの試練」を見たのだが、人生とは必然と符号に満ちているものである。

複雑な出自、戦時中の満州では甘粕大尉に重用されたが、終戦と同時に逃亡生活を余儀なくされ引き揚げを経験。大阪の焼け野原で関西交響楽団を結成するが、NHKとの確執から資金繰りに苦しんだ。晩年には、大阪フィルに音楽大学卒の若い楽員が入団してきて、朝比奈の独裁に対抗して組合を結成した。-それらの試練がすべて朝比奈を鍛えたのだ。

朝比奈には「よきにはからえ」と楽員たちが名づけた不思議な指揮法があった。それは典型的なアンチ斉藤メソッドであり、彼にとって指揮とは技術でなかった。

朝比奈は大阪フィルを「自分のオーケストラ」と終生豪語しつづけた。93歳で亡くなったカリスマの最後の言葉は、「引退するには早すぎる」。54年間一つの楽団の長をつとめた例は、世界の音楽史にも類をみないのである。


朝日新聞書評 松本仁一(ジャーナリスト)「希代の指揮者の並はずれた情熱」

2008年11月18日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
01年10月24日、朝比奈隆は93歳で指揮台に立ち、大阪フィルハーモニーを指揮した。指揮台にあがれず、団員の肩を借りた。タクトはほとんど動かなかったが、演奏はすばらしかった。その年の暮、朝比奈は死んだ。

大阪フィルを育て、54年にわたってそれを指揮してきた男の評伝である。

朝比奈は音楽学校を出ていない。京都大学法学部卒、もう一度入りなおして文学部である。京大オーケストラでたいしてうまくないバイオリンを弾いていた。音楽歴はそれだけだ。

その男が大阪フィルを創設し、ベルリン・フィルなど欧米の交響楽団を指揮し、世界的な指揮者となっていく。それはなぜなのか。著者は8年にわたって本人を追い続け、80人を超す関係者と会い、その経緯を明かしていく。

約70年前、日本の西洋音楽は黎明期で、アマチュアでも参加できる世界だった。意欲さえあれば技術なんてあとからついてくる。そんなダイナミックさがあった。

その時期、オーケストラに並外れた情熱をそそぐ人間がいた。それが朝比奈だった。情熱がそのまま実績となった時代ー。

日本のオーケストラ史の扉を開いた人物を書くことで、著者は時代のダイナミズムをいごとに描き出している。

「週刊新潮」11月13日号 <TEMPO BOOKS>

2008年11月08日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記

「オーケストラ、それは我なり」中丸美繪著 文藝春秋1800円

『嬉遊曲、鳴りやまずー斎藤秀雄の生涯』の著者が挑んだ、指揮者・朝比奈隆の本格的評伝。93歳の最期まで現役を貫いた執念の源を辿ることで、異端とも言えるその音楽人生から内面の葛藤までを、赤裸々に描き出した。巨匠の生誕100年を記念する一冊となろう。

茨城新聞 10月20日 青澤敏明(音楽評論家)評 「指揮者朝比奈隆の軌跡」

2008年11月08日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
朝比奈隆という指揮者がいる、この夏百歳を迎えた、と書けないのが残念だ。現役として聴衆の前に立ち続けた彼は93歳で亡くなった。そのうち54年間、一つのオーケストラを率いたが、これは世界でもまれだ。

1947年に自ら新編成した関西交響楽団は後に改組され大阪フィルハーモニー交響楽団になるが、朝比奈は常任指揮者、音楽監督としてここを本拠に内外の楽団に客演を続けた。現代のある指揮者は「オーケストラと指揮者が幸福な関係にあるのは最初の数週間」と語ったたが、ならばこの挑戦は奇跡的と言えよう。

「引退するには早すぎる」。朝比奈最後の言葉は、「一日でも長く生きて、一回でも多く舞台に立て」という恩師メッテルの教えと響きあう。年月が問題なのでなく、音楽という芸術を瞬間瞬間に新しく築き、同志と劇場に刻み続けていくのが肝要だ。限られた作品に集中した朝比奈晩年の演奏を聴けば、その新年が巨大な存在感をもって交響楽をうたっていたことが分かる。

さて本格的な評伝がこうして生誕百年に登場したのは、長年の音楽愛好家だけでなく時代にとっても待望というべきだろう。本書は、朝比奈隆や家族、友人、音楽関係者を含む80余人への綿密な取材を精妙に結実させている。

晩年に神格化もされた芸術家を、改めて一人の人間として描きだすのは、冷静な距離感と透徹した視点による丹念な構成の力だろう。斎藤秀雄、杉村春子の評伝も先に著した中丸美繪の筆は、ここでもバランスよく目を光らせ、たんたんとした記述を積み重ねていく。

「隠された出自」から「指揮者とは何か」に至る「四つの試練」は、音楽の4楽章構成を思わせるが、簡潔な筆致で端正に語られてきただけに終結部がたたえる孤独の残響はかえって深い。ハーモニーの中には不協和音もあるが、朝比奈という交響楽を全体として鳴らす書法にも細部の意味付けにも確実な手応えがある。後は本書を楽譜に、読者が朝比奈という人物を演奏してみる番だ。


産経新聞11月2日 牧野節子評「朝比奈隆の生涯を描く」

2008年11月07日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
「一日でも長く生きて、一回でも多く指揮をせよ」
 若いときに師事したロシア人指揮者、エマヌエル・メッテルの言葉を胸に抱き、93歳、神に召されるその年まで、現役の指揮者として活躍した朝比奈隆。

本書は彼の生涯を描いたノンフィクションである。

4章で構成されており、「第一の試練・隠された出自」では彼の複雑な生い立ちと指揮者になるまでのいきさつが、「第二の試練・上海の栄光と満州引き揚げ」では戦争を背景に、上海やハルビンで指揮棒を振り、帰国後、関西交響楽団を結成するまでが綴られる。

「第三の試練・NHK大阪中央放送局との確執」ではさまざまな裏事情や人間関係を克明に描き、オーケストラ運営の苦悩を伝える。音楽学校の出身ではない彼を「大阪の田舎侍」と評した音楽評論家もいた。

だが、苦難のエピソード以上に心に残るのが、朝比奈が指揮者、フルトヴェングラーと出会い、ブルックナーについてアドバイスを受けるシーンだ。作曲家、ブルックナーの眠る棺があるオーストリアの聖堂で、朝比奈率いる大阪フィルがブルックナーの交響曲を演奏する場面もじつに感動的だ。

「第四の試練・指揮とは何か」からは彼の音楽への真摯な思いが伝わってくる。それは晩年になっても衰えることはなかったのだ。

生前の朝比奈本人と彼のまわりの人たちへの丹念な取材により綴られたこの評伝からは、偉大であり、かつ人間くさいマエストロ・朝比奈隆の姿がくっきりと浮かび上がってくる。

本書を読んだあと、家にある朝比奈のDVDを再生してみた。彼が90歳のときに指揮したブルックナーの交響曲第5番である。

彼がひきだす音の力強さ、そして指揮する姿の神々しさにあらためて感じ入った。試練は人を強く、美しくするのだと。それは試練に耐え、乗り越えたものだけに与えられる褒美だろう。クラシックファンだけでなく、多くの人に読んでほしい本だ。特にいま、試練にさらされている人に。


小学館「サピオ」 11月12日号 川本三郎評「見たり読んだり」

2008年10月31日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記

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カラヤンが逝き、バーンスタインも逝き、偉大なる指揮者の時代は終わったといわれる。

 

2001年に93歳で死去した大阪フィルの名指揮者、朝比奈隆は最後の大指揮者といっていいだろう。

 

中丸美繪「オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆4つの試練」は、老いていよいよ名声が高まったマエストロの生涯を描いた評伝の力作。

 

東京生まれ。東京高校から京大へ。音楽学校で学んでいなかったため、長く正当に評価されず「偉大なるアマチュア」といわれていた。東京ではなく大阪を根拠地としていたため、地方楽団の一指揮者と低く見られてもいた。

 

実際、朝比奈隆の名が広く知られるようになったのは、80歳を過ぎてからだろう。とくにブルックナーを日本で広めたのは朝比奈の功績といっていい。

 

演奏会はいつも満員となり何度もカーテンコールに応えるのが恒例となった。著者がいうように「晩年に絶頂をむかえた幸せな指揮者である」

 

指揮者に必要なのはなんといってもオーラだろう。指揮台に立っただけで楽団員に「この人のために最高の演奏をしよう」と思わせる威厳を持たなければならない。

 

年を重ねてからの朝比奈隆にはそれがあった。みごとな白髪、日本人としては立派な体格。年齢から来る堂々たる風格。まさに「老年の朝比奈の容姿には重厚な威厳がそなわっていた」

 

86歳でアメリカの名門シカゴ・フィルで指揮をした。以前、この時の模様をNHKテレビで見たことがある。はじめアメリカの演奏家たちは「日本から来た指揮者」と多少みくびっている様子がうかがえた。しかし、ひとたび朝比奈が指揮棒をとるや、たちまち緊張が走った。まさにオーラだった。

 

若い世代の指揮者、外山雄三は自分たちと巨匠たちとの違いを的確に表現する。自分たちにとってオーケストラは同僚だが、朝比奈隆にとってはフルトヴェングラーやカラヤンと同じように、オーケストラは指揮者のものだった、と。まさに最後の大指揮者である。

 

その一方で、私生活では若い楽団員に「オッサン」と親しまれ、彼らと気さくに大阪の庶民的な酒場で飲むのを楽しみにしていたというのが面白い。大変な猫好きで庭に野良猫のための小屋まで作ったという。

 


宇野功芳評「丹念な取材が描きだす、巨匠の実像魅力」文春図書館(週刊文春10月30日号)

2008年10月26日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記

週刊文春  10月30日号 文春図書館<今週の必読>

 

    宇野功芳評 1930年東京生まれ。音楽評論家、指揮者。
               『指揮者朝比奈隆』ほか著書多数 


 

 

『嬉遊曲、鳴りやまずー斎藤秀雄の生涯』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した中丸美繪が、今度は朝比奈隆に挑んだ。


朝比奈に関する音楽論は数多く出ているが、その生涯については通りいっぺんのことしか知られていない。


中丸は1998年から死の年まで三年弱の間、朝比奈本人をはじめとして徹底的な取材を行ない、この指揮者の光と影のすべてを映し出す本格的な評伝を発表した。

 

 中丸が斎藤にひかれたのは、「欠点の多い、生身の人間」だったからだが、同じことが朝比奈にもいえる。


自分の才能のなさに自信を失い、出世した後輩に嫉妬し、新人をいじめ、家族に当り散らし、息子千足に父親らしいことを何一つしなかった彼。

 

その半面、音楽への献身は人並みはずれ、「蝶々夫人」を指揮するときはぼろぼろ涙を流して楽員をおどろかせた。


とくに日本にブルックナーを定着させ、その真価を伝えた功績は計り知れない。まさに偉大さと俗っぽさを併せ持った英雄であった。 

 

90歳以降の朝比奈は癌のつぎつぎの転移によってとても指揮ができる状態ではなかったという。

白内障と緑内障で左眼は見えず、最後の一年間は毎日37度5分以上の熱があり、排尿障害がひどく、やがて食べ物ものどを通らなくなる。


それでも彼は驚異的な意志の力で仕事をつづけた。もちろん病気のことは本人にも町子夫人にもかくされていたが。 

 

以上のような芸術家の修羅については、73年以降、積極的に朝比奈を支持し、親しくおつき合いをしたぼくもまるで気がつかなかった。


それどころか、この本に書かれているほとんどのことが初耳だ。

 

小島家に生まれ、朝比奈家の養子になったというが、実父は渡辺嘉一という人で、彼が長崎の芸者に生ませた子ではないか、と中丸は推理する。


だが、著者は朝比奈が強運の人であり、人を惹きつけてやまない人間的な魅力の持主だったと結論づけている。

 

ファン必読の力作だ。

 

 


「オーケストラ、それは我なりー朝比奈隆 四つの試練」発刊

2008年09月27日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
朝比奈隆伝が発刊となります。上記タイトルにて・・・。本書について、八月十三日に文藝春秋本社にて、作曲家千住明さんと対談しました。[ 「本の話」10月号です。 ご興味のあるかたはhttp://www.bunsyun.co.jp 八月は校閲作業やら、姑の入院やらでばたばたしました。大好きなスポーツ観戦・・・オリンピックもあまり見られず・・・・。 これから朝比奈伝取材について書いていきますね。

朝比奈隆 生誕100年記念演奏会

2008年07月28日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
すっかりご無沙汰してしまいました。姑の病気のことでばたばた・・先日は連休中の夜中に腹痛をうったえて呼び出しをうけ、結局朝、入院。診断は感染性腸炎でした。


さて、七月九日は朝比奈隆生誕100年でした。しかし、わたしはチケットを手に入れたものの、それもな、なんと、一列めのど真ん中のかぶりつき席をリクエストしたのでしたが、上記に似たり寄ったりの家庭の事情がその日もできてしまって、参れなかったのでした。

当日のザ・シンフォニーホールでの演奏会のことは、ホルンの近藤望さんから聞くことができました。
曲目はブルックナーの9番。

指揮は大植さん。
指揮台にはスコアのかわりに、朝比奈の写真が置いてあり、燕尾服のポケットにも朝比奈先生の写真をひそませていることを、カーテンコールのときに明かしたそうです。

その態度は朝比奈先生への深い敬愛の気持をしめしていた・・・。
ま、なかにはそういうアピールの仕方をやりすぎと感じるひともいるでしょう。しかし、舞台人というのは、そんなことでもなんでもぐいと押し出して、押しの強いタイプでないと成功しないものです。

朝比奈先生へのインタビューで私が感じたのも、そういうぐいぐいという押しの強さ。
大植=朝比奈のようなことは、朝比奈=山田耕筰にもいえるのです。
朝比奈は山田耕筰のことを、とっても大切に思っていたということを、私に強くアピールしましたし、実際周辺取材でもその接し方は検証できました。

アピールのためのアピールでなく、尊敬する気持の表現の仕方が、普通でない、と考えればわかりやすい。

演奏についての近藤氏の指摘でおもしろかったのは、大植さんの演奏は朝比奈先生とくらべると「すっきり、くっきり」という感じでラムネと日本酒ほどの味わいの違いがあったとおっしゃっていたこと。
どちらがすきかといわれれば、印象の深さにおいて「朝比奈」だとおっしゃいました。

大植さんが大フィルの指揮者になってから、大フィルの音が変わってきたとはいわれることですが、これをやはり近藤さんも感じたということです。

すなわち管楽器の音色が決定的に違っていたこと・・・・

ミスは少なくなっていたけれど、音量が圧倒的に不足している・・・

近藤氏はそれについては、聞いていてイライラするほどだったと感想を述べていました。

近藤氏は「バタ臭くて重厚な個性」を失ってほしくない、と結びんでいます。

含蓄があります。

これだけでも、朝比奈の演奏の特徴がよおおおおく解るのです。



朝比奈先生はのんびりとバカンス気分だった

2008年04月18日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
林先生はたいへんに機転の利く若者だったようだ。
ソ連が参戦して、満州に攻め込んできたということは朝比奈は情報として得ていなかったようだ。
それはヤマトホテルという超高級のホテル住まいをしていたせいで、どうやら戦争という危機感があまりなかったからかもしれない。ハルビンに住んだ人々は、総じてこの危機感をもちあわせていなかった。

戦中、ハルビンには空襲もなかった。奉天では民衆によるバケツリレーの訓練などもあり、空襲にそなえて危機感が高まっていたが、ハルビンにはこれがまったくない。
ロシアの伝統のもとに街づくりがおこなわれていたせいもあるのだろうか。
ハルビンには、戦争の気配はまったくなかった。

1945年8月15日その日、朝比奈夫人と息子千足は、バカンス中であった。既にソ連の参戦も民衆には伝わっていたようだが、どうも朝比奈はこれも察知していなかった可能性がある。朝比奈はその朝、バカンス先から練習場に出かけて、お昼の放送をきけといわれ、それで知ったというのんびりした状態だった。

「関東軍250万がいるから満州は安泰」といわれ満州に移住した朝比奈は、それを信じ続けていたようである。

まもなくヤマトホテルはロシア人の将校クラスが出入りするところとなる。
それでも朝比奈一家は、まだホテルに残っていた。
ちまたでは、日本男子がつぎつぎとシベリア送りになりつつあったのである。




林元植先生

2008年04月16日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
わたしがホリデーインに宿泊しているというと、林先生はそのホテルにはよく行くといった。
なんのへんてつもないホテルである。しかし、「そこにある中華がおいしいんですよ」
ちなみに先生は日本語がぺらぺらである。それも栃木弁なまりということで、茨城出身の私に近い言葉でありましょう。日本が韓国を併合していた時代の産物で、なんとも私としては、つらい気持になるのだったが、林先生は語学の達人なのだろう。現在の北朝鮮にちかいところの生まれで、母国語はもちろん、中国語、ロシア語、それに戦後になってニューヨークのジュリアードに留学したために英語もできる。それに機転も利くから、朝比奈御大を敗戦後のどさくさのハルビンで身を隠すようにれ誘導することもできたのである。

林先生は「わたしはキムチが苦手なんですよ」と韓国人らしからぬことを言う。
辛いのがだめなんだそうで、このホテルの中華がおいしいので、しょっちゅうくるのだという。それで注文なさったものが、ジャージャー麺であった。
その日は、ソウルから一時間ばかり車でいった○○市で、演奏会のリハーサルがあるという。それで道々話を聞きながら、わたしもリハーサルに同行することに。

このとき私ははじめてソウルを訪れた。見るもの、聞くもの、珍しい限りだった。
ソウルの道路はとても広く、横断歩道がない。すべて地下通路でむこうの道路に横断しなければならない。
それで私は「これは戦争になったときに、防空壕がわりにするためでしょうか。道路もとても広い。ドイツは戦争になったときには、アウトバーンを滑走路がわりにするというが、韓国もそういうことを考えて道幅を広く、地下通路をもうけているのでしょうか」などと、まったく関係のない質問をするのだった。
「そういうこと、考えてもみなかったけど・・・」
「でもそうとしか考えられないですよね」と、わたしは曲げない。

と、そんな話からはじまって、ハルビンで朝比奈の身を案じて自分の部屋にかくまった話などをはじめた。


 


朝比奈の弟子、林元植をソウルに訪ねた

2008年04月06日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
朝比奈隆の「お別れの会」では、数人の指揮者が大フィルとともに音楽を献奏した。その指揮者は外山雄三、若杉弘、岩城宏之、朝比奈千足、そして、朝鮮人の林元植だった。
 
林は、みずから「朝比奈の弟子」といっている指揮者である。楽屋での記者会見のあと、私は林先生からソウルの連絡先を聞くことができ、それからまもなくソウルに飛んだのだった。

それは朝比奈がなくなった翌年2002年の春で、サッカー日韓ワールドカップが行われる年だった。林は韓国では文化勲章にあたる賞を朝比奈よりも早く受賞しており、また芸術院会員にも若くしてなっていた。さらにサッカーが好きなこともあって協会の理事でもあり、ワールドカップ直前ということもあって、ともかく多忙をきわめて、携帯電話がしょっちゅう鳴っていた。このころはいまほど携帯は普及していなかったはずで、私はまったく驚嘆したのである。
80歳を越えてもそれほど活動的に人間はなれるものだと・・・・。
朝比奈も東京ではリラックスした雰囲気だったが、大阪フィルの本拠地での取材では、電話がかかることしばしば、こちらも落ち着いて取材できなかった。
元気な老人たちだった。

さて、私がホリデーインに宿泊しているというと、「ではそこのホテルで昼食をまず食べましょう」と林先生はいい、ソウルに着いた翌昼に先生と会うことになった。その翌日も・・・。

つづく

朝比奈伝の装丁

2008年04月05日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記
大フィルに岡さんというフルート奏者がいた。
朝比奈は豪快にみえるが、大フィルではすべての楽員とわいわいやっていたわけではない。お気に入りの楽員はいたのである。女性にかぎらず男性でも。

たとえば、男性なら日名弘見だ。彼のことはまた後日。
それで岡さんである。岡さんへの取材で、わたしはその部屋の壁に不思議なものを見つけた。
「あれは?」
「あれは朝比奈先生の指揮を絵に書いたものなのよ」

それはいま明確にどのようなという説明ができない。もうそれを見たのが何年にも前になるからだ。朝比奈がどういう指揮ぶりなのか、音楽の楽譜の上にその指揮の絵が描いてあったように思う。なんでも朝比奈にある絵描きさんがくれたものだそう。それを朝比奈が岡さんにプレゼントしたのだ。

それは額装されていた。
私はあれを本のカバーかなにかに使えないかと、そのときから考えていた。
「そう、じゃ、いついらっしゃる?」

日時を約束した。
「じつはきょう(四月四日)は、わたしの誕生日なの」
と岡さん。
「大フィル時代の思い出を書いた本をつくって、きょうのコンサートでみなさんにお配りしようと思うの」
彼女は阪神間でリラックスコンサートを主催している。
「朝比奈先生の指揮の悪口なんかもたくさん書いてあるのよ」
「読みたいですね。岡さんがいってらした大フィルの扇町時代の楽しい雰囲気が出ている本なのでしょう」
「え? ええええ!! そうね、そう。出ているかもしれない。いらっしゃるの楽しみにしているわ」
どんな絵だったか、わたしいまからわくわくしている。