紀尾井ホールで興奮!MOSTLY KOICHIRO

2014年02月03日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
2014年1月31日。
紀尾井ホールにMOSTLY KOICHIROをききにいく。
ヴァイオリンの新鋭神尾真由子が実行委員長をつとめるとかいうことはつゆ知らずに出かけた。原田幸一郎氏やチェロの原田禎夫氏、ヴィオラの川本嘉子さんが出演するから、ぜひ聞きたかったのだ。両原田さんの演奏は、昨年夏のサイトウキネンフェスティバルで聴いて、感動!の極みだったからだ。原田禎夫ファンになってしまった。
ピッチカートが絶品なのである。

紀尾井ホールの話にもどる。
その日、出かけたのは、原田幸一郎さんの門下生の演奏会だ、ということである。

わたしは斎藤秀雄の評伝『嬉遊曲、鳴りやまずー斎藤秀雄の生涯』(新潮社)をだいぶ前に書いた。
それは数年を要したもので、わたしにとっては忘れられない一冊。
このときの取材は、小澤征爾さんや、アイザック・スターン、井上道義ら、ほかにもちろんチェロ門下の堀了介、原田禎夫、堤剛さんやら、ヴァイオリン、ヴィオラ、かつてのN響関係者、桐朋関係者、桐朋学園前のラーメン屋さんや、広島の自称斎藤信者の大畠さんやら、世界ぐるりと130人以上取材したのだ。

そのなかで、原田幸一郎さんが、斎藤先生から言われたという「13使徒の一人になってくれるか」という言葉が印象に残っている。
つまり、日本の音楽界を発展させるため、斎藤秀雄は寸暇を惜しんで教育にはげんだが、自分の跡を継いでくれ、とキリストの13使徒になぞらえて門下生に託したのだ。

原田幸一郎さんは、斎藤がまさに教師として日本に音楽を広げてほしいと託した音楽家なのである。

原田さんは、もうひとりの原田さんと、こちらは禎夫さんーと東京クヮルテットを率いてきた。
その弦楽四重奏団は、日本初の国際的に活躍するアンサンブルとなった。
ところが、世界を駆け巡って演奏旅行をする日々につかれ、その後、幸一郎さんは引退。
桐朋学園で教育を始めたのである。

いったいどういう演奏家を育ててきたのか!
これが見事!!!!というほかない。
斎藤門下は、サイトウキネンオーケストラだけ、というのはちがうううううう!!!!

斎藤の水脈、いや血脈といっていいその門下生は、さらに門下生を広げているという事実を、まざまざと見せつけられたのである。
ああ、その日、斎藤秀雄が出現したのである。
幸一郎さんが弦楽合奏団の前で指揮する姿が斎藤にみえてしまった!!!!
斎藤という人は、こういう形で教育をしてきたのだ!!!!
サイトウキネンフェスティバルを最初にきいたときよりも、感動してしまった。
つまり、教育という概念が明らかに生きている。
演奏活動のためでなく、教育がそこにあったのだ。

世界各地でコンサートマスターをつとめる幸一郎さんの弟子たち、日本の各オーケストラで活躍する弟子たち。ソリストとしてチャイコフスキーコンクールを制覇した弟子やら、もうこれはこれは・・・・それはまさに斎藤秀雄がやったことと同じなのである!!!
そして、先生を尊敬して集って演奏会を開いたということ。

ああ、この興奮は三日たってもおさまらないのである!!!!

猫はある日、玄関で足をそろえてまっていました。

2010年11月08日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
なんだか、すっかりご無沙汰しております。
ヨーロッパにいってました。
バルセロナ近郊の避暑地、シッチェス。
そして、イギリスのノッチンガム。
なんだか、マイナーなところですよね。
わたしは長いことためてきたマイレージをやっとつかうことができたのです。
全日空。機材はボーイング777。飛行機にはうるさいですが、これはまたの機会に。

写真などを整理しておりましたら、うちの猫がまだ小さいころの写真が出てきました。
うちの猫三匹はいずれも外からはいってきた猫でした。
と、その関連で、猫の本について書評を書いたのを思い出しました。それをちょっとUPしてみますね。

産経新聞 2010年5月23日

「こんな病院で臨終迎えたい」のタイトルで、以下の本の書評を書きました。


『オスカー 天国への旅立ちを知らせる猫』デイヴィッド・ドーサ著、栗太さつき訳(早川書房)
                            
 うちの庭先にときどき来ていた猫が、ある日いつのまにか家のなかに入っていた。まだ子猫で、それまでは距離感のあるつきあいをしていたが、初めて私は手を伸ばして子猫の頭を撫でた。そのうちに出て行くのだろう。そうおもって、ガラス戸を少しあけたまま家の雑事に追われていた。 
 気がつくと姿が見えなくなっていたので、私は戸締りをして外出した。夜もふけて帰宅して玄関をあけると、猫が足をそろえて私を迎えるではないか。それ以来この猫はうちの猫になった。その後、さらに二匹の猫を飼うことになったのだが、それぞれの猫の個性と能力の違いには驚く。私が悲しい思いそてい布団にもぐりこむと、いつもはそんなことはしないのに、一番猫は枕元でじっと私の顔をみるのだ。こちらの心理を読んでいるような瞳である。
 本書のカバー写真の猫と副題「天国への旅立ちを知らせる猫」を目にしたとき、こんな猫は絶対いると確信して、私はページを繰りはじめた。
 そこには老年医学が専門の医師からみたアメリカ東海岸にある介護施設の詳細な日常が記されていた。自宅に近い時間をすごしてもらおうという方針で営まれているこの施設には、それぞれの階にオスカーをはじめ数匹の猫も住んでいる。驚きである。最近、日本でも保育所と介護施設を同敷地内につくり、幼児らが老人を訪ねるというニュースを見た。
 アニマルテラピーとして犬を連れて行くケースもあるようだが、猫を施設に飼って自由に病室を行き来させているというのは初めてである。オスカーは臨終を迎える患者さんをかぎ分けて、だれもいない病室にはいっていき、ベッドにひょいと乗って患者さんを見守るのだ。
 私はこんな病院で臨終を迎えたいな、と思う。孤独死が叫ばれているが、病院でだって逝くときにはそばにだれもいないこともある。ここにはそんな家族の姿も描かれていて、立ち会うことができなかった子供らは、オスカーへの感謝の気持ちを惜しまない。じっと見つめる猫の瞳は死の向こう側まで見据えている。




百歳の巨人 

2009年09月08日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
 ときにエッセイなど書いています。

 以下は先だって「東京人」に書いたもの。



昨年、音楽界ではカラヤンと朝比奈隆という二人の指揮者が生誕百年を迎えた。二人の特別番組が放送され、未発表のCDやDVDの発売もあいついだ。生前から朝比奈さんを取材していた私も、やっと秋に評伝を出版できた。二人は最後のカリスマという点で共通だが、音楽的にはまったく対極にあった。
 
今年は小説家松本清張、太宰治、埴谷雄高の生誕百年である。彼らもまた同年でありながら、なんと異質な文学の金字塔を打ち立てたことか。このなかで埴谷さんは私にとって忘れ得ない人である。そもそも昭和20年代に新聞の文芸時評欄で埴谷さんの文章にたびたび接していた私の父は、その雄雄しく高貴なる精神を連想させる名がたいそう気に入って、男の子が生まれたら雄高とつけようと決めていたらしい。ところが生まれてきたのは女の私であった。

そんなところから縁が始まっていたとは思えないが、私は1990年から埴谷さんの主催している囲碁の会、一日会のメンバーとなった。同時代の文学者たちを追悼し続けなければならなかった埴谷さんは、一日会でも碁敵を失ってきていた。ともかく下手な碁打ちを探せとの命を受けた幹事は、まだ囲碁のいろは段階にある私に声をかけた。埴谷さんは勝つことが好きだったのだ。そして、物書きとして海のものとも山のものとも知れない私が、足の弱った埴谷さん付きのような形となって、会の当日にはタクシーで送り迎えすることになったのである。

碁会は昼から始まって深夜のバーに終わる。夜行性の埴谷さんは深夜におよぶほど弁舌が冴え渡る。共産党の崩壊と文学の可能性、宇宙人と単細胞生物、宦官の分布から不可思議な体毛論まで口角泡を飛ばしながら、実際に豆など飛ぶこともあり、私が横からナプキンなど出すと、あなた、文学はいつどかんとくるかわからない、とさらに語気は強まる。帰途のタクシーはあたかも遠くアンドロメダをめざす宇宙船かと錯覚することもあった。

今なにを書いているのかと問われ、詩とも小説ともいえない一編を差し出すと、あなた、批評家だけにはわかるように書きなさいと言う。これは「死霊」が十分な批評を受けていないことへの不満なのか。自著のエッセイ「橄欖と塋窟」など売れないことを願うかのように意図的に難解な署名をつけたのではなかったか。

私が音楽家斎藤秀雄伝を執筆中だというと、東京音楽学校卒の姉が斎藤と面識があるから紹介するという。驚いたことに姉の前での埴谷さんは常に従順な弟だった。初代さんの収入によって般若家(埴谷の本名)は家作を得、豊は思索に徹することができたのか。

尊敬する多くの人々が逝ってしまった。寝床のなかでふと覚醒するときがある。こんなとき死者と交信できる電話があればいいのにと思う。あなたを先導する、精神のリレーは可能だ、文学の永久革命者であった埴谷さんの言葉が暗闇で舞い続ける。(「東京人」2009年7月号巻頭エッセイ)



埴谷さんのエッセイの書名読めましたか。
「カンランとカタコム」です。難解ですなあ。
ちなみに埴谷さんの実家般若家は神官です。
無宗教の埴谷さんでしたが、吉祥寺の居間には神棚が置かれていました。納骨は青山墓地で、そのときはすべてご親戚、子供のいなかった埴谷さんだったので、姉の初代さんのご長男によって神式でとりおこなわれました。あれから十年があっという間にたちました。
埴谷さんが生きていたらなあ・・・・とよく思います。

朝比奈せんせも生きていたら、いっしょにおいしい酒がのめたのになあ、と思います。合掌


中丸三千繪サントリーホールで三枝成彰の新作オペラだが

2008年04月06日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
きのうの君が代の説明をもう少しします。

その前日がほとんど徹夜で、疲労困憊していたので、眼をしょぼつかせながら書いておりました


まず君が代の歌詞を書いてみます。



君が代は/千代に八千代に/細石の巌となりて/苔の生すまで



あらためて書くと、本当にこの国歌は短い。短くて淋しいくらいですね。まあ、簡単でいいという声もあるかもしれません。

/で区切ったところが、一応意味上の節の区切りになるわけですね。

本来歌にはもりあがりがあるものですが、この場合、みなさんでしたら、音楽的な最高潮をどこにもっていきますか?
この国歌だとちょっと難しい気がします。
まあ「苔の生すまで」に作曲家は最後の盛り上がりをもっていったわけですが、あまりにも曲が短いために、あっという間に収束させました。

最初のもりあがりが、ほぼ真ん中にある「さざれええええええ、石の」ですよね。(文字で書いてみると、ここで音楽が途切れるのはおかしいとはっきりしますね)。
ときには「さざれえええええ」でブレスしてしまう人々、ときにはプロフェッショナルな歌手もいます。ここでのブレスはぜったいにいけません。意味がわからなくなります。

で、つぎの「巌となりて」からまた新しく低い音から始まります。








中丸三千繪サントリーホールで三枝成彰の新作オペラだが

2008年04月05日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
昨日、妹に会いに行った。いまじつは療養中である。練習が長時間になりすぎて(普通歌う時間はせいぜい二、三時間でしょう。ところが8時間も歌わされるのだそう)
来週の火曜日サントリーホールで上記のオペラ「悲嘆」が初演されるが、なんとこのオペラ、超現代曲らしい。
その台本と演出は、日本でも文学座の木村光一演出で評判となった「キッチン」のアーノルド・ウェスカー。
彼が来て演出をしているが、英語の台本に日本人の作曲家でなかなかこれがたいへきみんらしい。

音楽に詳しい読者ならわかるだろうが、「君が代」の「さざれ、いしの」なのだそうである。
言語と音楽の関係は深く、君が代はドイツ人の作曲家の手になったためか、本来なら「さざれ石」なのに、「さざれえええ、石の」になってしまう。これだと聞いていてわからないのですよね、意味が。
このオペラの英語でもそういうことが起こっていて、歌手は英語がいいにくいは、だから覚えるのがたいへんで、作家も音楽と言語があわないとぶつぶつ・・・。
作家と作曲家のつなひきのため、延々と練習がつづくのだとか。


そして強靭な声もとうとういっとき出なくなったらしい。

わたしはまだ聞いていないが、妹がどうしても明日見てきてという。
わたしが見に行ってもしようがないとおもうのだが、「おもしろいからきてよ」などといっている。

まあ、いってみるかなあ。
世田谷のスタジオであした初めてオーケストラとあわせるという。

杉村春子講座

2007年04月03日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
四月七日土曜日に朝日カルチャー立川で一時から講座をもつのだが、朝日のほうにコマ・プロダクションから連絡がはいった。

この10月20日から新宿コマ地下のシアター・アップルで「杉村春子物語」という芝居を上演するというのである。

それに関して私に連絡をとりたいとのことだったらしい。

明日は杉村春子の命日である。没後10年となる。
そもそも杉村を書きたいと思って文学座に連絡をとってもらったとき、杉村は体調をくずして入院してしまったということだった。
それから三ヶ月して、杉村は逝ってしまった。

葬儀に参加することによって、わたしは杉村を書く決意をしたといっていい。
きょうのような小雨の日、1300人におよぶファンの人々が青山葬儀場前に整然とした列をつくっていた。

場内に入れないファンは、傘をさして杉村への弔辞を聞き、献花を待った。
遺影は「華々しき一族」の華麗な衣装をまとっていた。

こんな雨の四月は杉村を思い出す。
あんな女優、いない。けっして綺麗でないのに、杉村ほど舞台上で美人だった女優もいない。


 






杉村春子没後10年

2007年03月22日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
今年は、杉村春子没後10年にあたる。「女の一生」「欲望という名の電車」「華岡青洲の妻」「鹿鳴館」など、杉村ほど多く当たり役をもつ女優はほかにない。

映画監督の小津安二郎は「杉村は僕の映画の4番バッター」といい、黒澤明、成瀬巳喜男らの作品でも欠かすことのできない女優でした。

実の父母を知らない出生の秘密、「女の一生」の作者森本薫との恋愛、三島由紀夫や福田恒存との確執から起きた上演中止意見、文学座の分裂・・・。GHQの恋人。その人生は毀誉褒貶相半ばし、波乱万丈のものでした。

四月四日が命日です。

明日は、白河郡山「マイタウン白河」にて19時より、立教志塾主催の文化講演会で同様のものを行います。
昨年は桜井よし子さんが講演をしたそうです。この団体はかつて藩校であった「立教館」から名称をとった地域振興を促進するための推進役となっている白河の団体です。地域の暮らしをどうやったら発展させることができるか・・・などなど。くわしくは以下のほーむページで。
http://www.shirakawa.ne.jp/~rikkyou/menu.htm







幽閉者

2007年03月06日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
わたしの年上の友人に、赤軍派の重信房子と高校時代に弁論大会で一、二を競ったという女性がいる。
この人、とっても面白い。
彼女自身は人生を縦横に、左寄りでなく、右に左に(!)と謳歌している人物である。
この彼女は、重信房子が逮捕された直後、赤軍派になる前の高校時代の重信房子を「文藝春秋」に書いた。

その彼女とともに、岡本公三がモデルという映画「幽閉者」を見た。
最初の出だしはテルアビブで乱射するシーンだが、これは抽象化されていて、なかなか面白かった。しかし、その後逮捕されてから延々とつづく拷問に観客には席をたつ人もあった。

ちょっと長すぎるのでは。ここでは岡本という名前も、赤軍という名前も出てこない。イスラエルということもなく、イスラエル風の国旗とか、パレスチナ風のものとか、すべてが明らかにされないのである。

拷問が主題だったのかと思うほどだが、本来ならパレスチナ解放をめざす爽やかさなどが示されるべきだったのでは、と思う。

獄中の重信は、この映画が黒字になること、儲かることをねがっているようである。
男が解放され、キャンプにもどると、そこには重信風の女性がまっていて、これが荻野目慶子だった。「あら、シゲに似てる」とわたしの脇で、重信の友人がささやく。

映画館は80席ほどのユーロスペースであるが、十名もはいっていなかった。
これではあまりだとおもったが、封切り後はもうすこし入りはよかったらしいよ、重信さん!


途中、埴谷雄高の小説やら評論やらの文章が用いられているようである。それも果たしてこの男の内奥をしめすのかどうか。
どうもわたしとしては、これは映画としてはあまり感心できない。

もうちょっとなんとかならないものか。
時代を代表する人物なのだから、それに直接彼をしっている人が監督なのだから、実在の彼を浮かび上がらせて欲しかった。もうすこし、彼らの時代を知らないわれわれに迫る実在人物を造型してほしかったと思うのである。




蟻の兵隊

2006年08月08日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
渋谷のイメージフォーラムにて「蟻の兵隊」を見る。

終戦のとき中国の山西省にいた日本軍のうち2600人が国民党系の軍閥に合流して、その後4年間も国共内戦で共産党軍と死闘をつづけた。生き残った人々は昭和29年になって帰国したが、かれらは自分たちが残留したのは、日本軍の命令によるものだったと主張して日本政府に補償をもとめる訴えを起こす。しかし、裁判ではポツダム宣言に違反するためか(終戦後も戦争をつづけたという事実を政府は認めたくないから)退けられたままである。

 カメラは80歳半ばになる奥田和一氏を追う。奥田は、当時の日本軍の司令官が戦犯追及を逃れるために軍閥の将軍と密約をかわして部下を売り、自分は偽名で日本に帰国したという証拠を探すために、中国の役所、公文書館などを訪れる。かつての戦場では、当時のみずからの体験を振り返る。
彼の口から語られる言葉は重い。陸軍での訓練、彼らの行動を見ていた中国人、はては強姦された女性自身による回顧もある。この老年の中国人女性の顔の、なんと穏やかで美しいことよ。奥田自身の戦争体験、戦争犯罪も語られ、このドキュメンタリー映画にひとかたならぬ感銘を受けた。

この映画と日本の戦争を風化させてはならない・・・という思いを抱く。

わたしは映画館よりチラシを持ち帰って、近所にある街の掲示板に張りまくってしまった。
どうしても見て欲しい映画である。

三池 

2006年07月30日 | 読書、そして音楽と芝居と映画
ポレポレ東中野に炭鉱を撮ったドキュメンタリー「三池ー終わらない炭鉱の物語」を見に行く。これはアンコール上映もなされた。
私は、「君に書かずにはいられない」で炭鉱も描いた。その主人公ともいうべき篠島秀雄は昭和のはじめ、三菱鉱業に勤務し、筑豊の炭鉱に配属されたためである。

篠島は労務係であり、炭鉱で働きたい少年との出会いを恋人への手紙に書いている。拙著には、その全文をのせ、少年とのやりとりもくわしく書いたが、少年は三菱という大企業の安定した、労働条件のいい働き口を求めて応募してきた。しかし、篠島はまだ10代の少年働くところではない、と取り合おうとはしなかった。そのとき少年は涙ぐんで、働かせてください、と懇願するのである。


この映画は、まず基礎知識として炭鉱労働の厳しさをまず伝える。地元に存在する数々の施設が映される。また当時働いていた人々へインタビューもある。炭鉱には労働の厳しさとともに、日本のエネルギー産業の最前線、最重要企業をになったという自負も見え、当時の人々は懐かしむ口調で喋っているのである。

事故により障害をもった人々も映し出される。
石油の出現によって、合理化を迫られる資本家側。労働組合に1700人の解雇が宣言されると、そこから三池闘争がはじまる。とき安保闘争の時代である。

ストライキは長引き、全国の支援者などが駆けつけて、単なる一企業の闘争ではなくなったころ、第二組合が出現。当時の両組合などへの取材もはいっているが、これが監督の意図というものが見え見えで、不快であった。どうしても第二組合と会社側とのつながりをあばきたいという監督の意図がある。

なにもそのようにしなくても、もっと自然にインタビューをつなげることによって、引き出すことによって、結論をつけてほしいとおもうのであるが、監督は性急に迫る。

結局は、三池は消滅するのである。労組の対立はそれほど簡単に描けるものではなく、ことはもうちょっと複雑である。前半と後半が結びついていない。

観客は圧倒的に老年の人々である。若い人もちらほらいたが、わたしのような中途半端な年齢の人間はいない。
なくなってしまった炭鉱、それは栄華と地獄をそなえた夢のごとき、激烈の人生だったということか。監督の切り口がぶれていたところが、難点か。
いずれにしろ多くの観客を集めていたのは喜ばしいことである。

女相続人

2006年04月14日 | 読書、そして音楽と芝居と映画

きょうは、俳優座でヘンリー・ジェームズ原作「女相続人」を見てきた。舞台は朝倉摂。いっぱい舞台につくられたニューヨークの金持ちの家の居間。それはそれで小道具はよい。しかし、あの壁のアクリルはなんだ。そこに唐草模様というのか、大柄な模様がはいっていて、これはうるさい。役者よりも、目立っている。芝居よりも、主張してくるのだ。溶け込まないのね、芝居の内容に。普通にやれないものだろうか。

俳優たちも、最初どういう人格の人々なのか、わからない。神経症なのか、内気なのか、ビョウキなのか・・・・。父親が医者という設定なだけに、娘がビョウキかと疑うじゃないか。実際は、内気なためにちょっと神経質になっているだけ。。。というのがわかってくるのだが。

まあ、新劇らしい、がっちりとした骨組みの芝居。それはそれでとっても戯曲を楽しめた。しかし、日本人が演じるとなると、あくまでしょうゆ味になってしまう。もう少し灰汁の強いカンジが欲しい。井口恭子がバタ臭さを出していてよかった。

 


「憂国」つづき

2006年03月28日 | 読書、そして音楽と芝居と映画

 映画の冒頭の「憂国」という文字自体が三島の自筆によるものである。白い手袋をした手が、和紙の巻紙を繰ってゆく。そこにキャストなどが書かれている。音楽はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が流れていだけ、無言劇である。
 能舞台ですべてがおこなわれる完全に様式化されたかたちである。
 三島の扮した陸軍中尉は立派な肉体。三島はこのために筋肉トレーニングをつづけたのかもしれない。だいぶ小柄だが、白いふんどし姿は堂々としている。麗子役の鶴岡淑子は、美形ではけっしてない。のっぺりとした顔である。その文、三島のぎろりとした目が引き立つ。
 切腹シーンでは三島の汗が額、全身に広がっていく。この汗は霧吹きで作ったらしい。汗の分布がよい。大きな汗、小さな汗・・・。
 そして、切られた腹。麗子へカメラが移る。
 つぎには、三島へカメラが。するとそこには切り裂かれた腹から出てくるはらわたがある。これが生生しい。新潮社の三島全集担当の伊藤尭氏と映画終了後はなしたが、これは豚の内臓だそうである。撮影は二日間でおこなわれたが、この臭い匂いが立ち込めてたいへんだったらしい。
 三島の熱演である。映画としても美しい。「素人の作ったポルノ」という意見が、アートシアターの委員会であったそうだが、なんの絡みもないに等しい。
 大満足の映画だった。
 三島夫人が、どうしてこの映画を嫌がっていたのか。わたしにはわからない。映画や演劇を愛し、夫が懸命に演じた映画は、わたしだったら愛おしい。愛おしいゆえに、人に見せたくないというならわかる。フィルムを焼き捨てろ、というのが納得できなかった。


憂国

2006年03月18日 | 読書、そして音楽と芝居と映画

昨日、三島由紀夫原作・脚本・製作・監督の「憂国」を試写会で見た。これは四月に新潮社と東宝より発売されるDVDのためのものだ。三島の「憂国」は夫人の意向で、三島の死後、すべてフィルムが焼却されたが、夫人没後、自宅の茶箱のなかから、ネガフィルムが発見され、35年ぶりに劇場公開の運びとなる。
 昨日は、当時製作を担当した藤井浩明氏が上映前に壇上にあがり、この映画(25分)がアートシアターで上映されることになった経緯について話した。
 当時は、淀川長治らが委員で、上映か否かは会議の投票で決められていたようである。芸術映画というものが、まだ一般的でない時代のことである。
 会議の日、心不安にして藤井氏は、部屋の外でまちかまえていた。
 淀川氏出てくるや、「切腹のところね、僕だったら、はらわたでなくて、花を出すね」といったそうである。会議では「素人のつくった際物」という意見も出たそうだが、投票で上映が決まったらしい。25分の短編のために、ブニュエルの「小間使い・・・」との同時上映だったが、2館上映で7万人の人を動員したという。それはもっぱら三島作品の人気だった。この映画と大島渚の「忍者武芸帖」のおかげで、低予算でも芸術性の高い映画ができるということで、アートシアターの隆盛があった。(つづく・・・息切れ状態)