小学館「サピオ」 11月12日号 川本三郎評「見たり読んだり」

2008年10月31日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記

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カラヤンが逝き、バーンスタインも逝き、偉大なる指揮者の時代は終わったといわれる。

 

2001年に93歳で死去した大阪フィルの名指揮者、朝比奈隆は最後の大指揮者といっていいだろう。

 

中丸美繪「オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆4つの試練」は、老いていよいよ名声が高まったマエストロの生涯を描いた評伝の力作。

 

東京生まれ。東京高校から京大へ。音楽学校で学んでいなかったため、長く正当に評価されず「偉大なるアマチュア」といわれていた。東京ではなく大阪を根拠地としていたため、地方楽団の一指揮者と低く見られてもいた。

 

実際、朝比奈隆の名が広く知られるようになったのは、80歳を過ぎてからだろう。とくにブルックナーを日本で広めたのは朝比奈の功績といっていい。

 

演奏会はいつも満員となり何度もカーテンコールに応えるのが恒例となった。著者がいうように「晩年に絶頂をむかえた幸せな指揮者である」

 

指揮者に必要なのはなんといってもオーラだろう。指揮台に立っただけで楽団員に「この人のために最高の演奏をしよう」と思わせる威厳を持たなければならない。

 

年を重ねてからの朝比奈隆にはそれがあった。みごとな白髪、日本人としては立派な体格。年齢から来る堂々たる風格。まさに「老年の朝比奈の容姿には重厚な威厳がそなわっていた」

 

86歳でアメリカの名門シカゴ・フィルで指揮をした。以前、この時の模様をNHKテレビで見たことがある。はじめアメリカの演奏家たちは「日本から来た指揮者」と多少みくびっている様子がうかがえた。しかし、ひとたび朝比奈が指揮棒をとるや、たちまち緊張が走った。まさにオーラだった。

 

若い世代の指揮者、外山雄三は自分たちと巨匠たちとの違いを的確に表現する。自分たちにとってオーケストラは同僚だが、朝比奈隆にとってはフルトヴェングラーやカラヤンと同じように、オーケストラは指揮者のものだった、と。まさに最後の大指揮者である。

 

その一方で、私生活では若い楽団員に「オッサン」と親しまれ、彼らと気さくに大阪の庶民的な酒場で飲むのを楽しみにしていたというのが面白い。大変な猫好きで庭に野良猫のための小屋まで作ったという。

 


宇野功芳評「丹念な取材が描きだす、巨匠の実像魅力」文春図書館(週刊文春10月30日号)

2008年10月26日 | 指揮者 朝比奈隆伝 取材日記

週刊文春  10月30日号 文春図書館<今週の必読>

 

    宇野功芳評 1930年東京生まれ。音楽評論家、指揮者。
               『指揮者朝比奈隆』ほか著書多数 


 

 

『嬉遊曲、鳴りやまずー斎藤秀雄の生涯』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した中丸美繪が、今度は朝比奈隆に挑んだ。


朝比奈に関する音楽論は数多く出ているが、その生涯については通りいっぺんのことしか知られていない。


中丸は1998年から死の年まで三年弱の間、朝比奈本人をはじめとして徹底的な取材を行ない、この指揮者の光と影のすべてを映し出す本格的な評伝を発表した。

 

 中丸が斎藤にひかれたのは、「欠点の多い、生身の人間」だったからだが、同じことが朝比奈にもいえる。


自分の才能のなさに自信を失い、出世した後輩に嫉妬し、新人をいじめ、家族に当り散らし、息子千足に父親らしいことを何一つしなかった彼。

 

その半面、音楽への献身は人並みはずれ、「蝶々夫人」を指揮するときはぼろぼろ涙を流して楽員をおどろかせた。


とくに日本にブルックナーを定着させ、その真価を伝えた功績は計り知れない。まさに偉大さと俗っぽさを併せ持った英雄であった。 

 

90歳以降の朝比奈は癌のつぎつぎの転移によってとても指揮ができる状態ではなかったという。

白内障と緑内障で左眼は見えず、最後の一年間は毎日37度5分以上の熱があり、排尿障害がひどく、やがて食べ物ものどを通らなくなる。


それでも彼は驚異的な意志の力で仕事をつづけた。もちろん病気のことは本人にも町子夫人にもかくされていたが。 

 

以上のような芸術家の修羅については、73年以降、積極的に朝比奈を支持し、親しくおつき合いをしたぼくもまるで気がつかなかった。


それどころか、この本に書かれているほとんどのことが初耳だ。

 

小島家に生まれ、朝比奈家の養子になったというが、実父は渡辺嘉一という人で、彼が長崎の芸者に生ませた子ではないか、と中丸は推理する。


だが、著者は朝比奈が強運の人であり、人を惹きつけてやまない人間的な魅力の持主だったと結論づけている。

 

ファン必読の力作だ。