聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

纏向の朱砂王

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
この時代は、大陸に近い九州地方が中心地のはずです。ですが、畿内が発展していきます。それは、人々が集まったからだともいえます。まさに水銀ラッシュと言えると思います。これは、この辰砂(水銀)が、中国との交易に使われからだと思います。中国における辰砂の、主な産地は呉の国ということもあり、中国側、特に魏は日本産の辰砂をほしがったのでは?辰砂との交易品のひとつとして、魏は鏡を製造したのではないでしょうか?中国との交易により発展していき、また人間が集まり畿内が中心地となったのだと思います。それで大きな墓を作ることが可能になったのだと思います。纏向には運河が作られています。この地から運びだされた辰砂(水銀)は、瀬戸内海をとおり北部九州まで運ばれ、そして中国との交易が行われたのだと思います。つまりこの交易により畿内から北部九州までの連合体が成立したわけです。それでこの交易の恩恵にあずかれなかったのが、南部九州の狗奴国です。ですので、争いになったのです。この南部九州の狗奴国と直接争ったのは、北部九州の倭国です。この争いにより、交易がしづらくなったため、畿内の卑弥呼と九州の倭国の王が、魏に朝貢したのです。倭人伝において、倭女王は卑弥呼ですが、倭王とは九州倭国の王です。ですから魏の使者は、九州の倭国にしか行っていない。それで・・・その後、この九州は狗奴国主体に統一されたんだと思います。この統一九州王国こそ大王家です。この統一九州王国が、その後東進します。これが応神・仁徳王朝です。この狗奴国こそ大王家です。 (写真は大神神社、一の鳥居と、天香具山です。)

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