聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

長屋大王と吉備天皇 「長屋親王」出土木簡

2020年01月27日 | 日本書紀の謎


正史とされる、古事記は712年、日本書紀は720年に編纂されました。この時代、大王として統治していたのは長屋大王です。

記紀は長屋大王が編纂した歴史書です。この功績が変更されている。

秦氏、藤原氏が王座を簒奪した時代、秦氏の王である桓武天皇の時代に記紀は改竄されました。
なぜにこういう歴史になってしまっているのだろうか・・・日本書紀、古事記、そして続日本紀は、秦氏、藤原氏によって改竄された偽書です。

長屋王家とされる場所から多数の木簡が出土しています。木簡は貴重な歴史資料です。
今回はこの木簡の話ですが、これら正史とされる歴史書とは矛盾する記述がある木簡が多数出土しています(*^▽^*)
いうまでもありませんが、木簡の方が一次資料ともいえ真実を語っています。
歴史書とは勝者の歴史であり、勝者の都合で変更されています。


もうすでに何度も記述してきたところですが、本当に容易な推測ですよ。もうそろそろ改竄された日本の歴史を見直す時期に来ています。

真の歴史、そして本来の大王たちは誰なのか?
なぜにこういう歴史になってしまっているか許せません

問題は、今の天皇家に関係することになります。皇統は途切れることなく二千年以上続いていて、それが私たちの誇りでもありました。残念ながらそうではありません。現天皇家は百済王家です。


長屋王は、天武天皇の第一王子である、太政大臣であったとされる高市皇子の長男です。その官位は正二位・左大臣です。
ところが木簡の記述が私たちに語るのは、長屋王は大王だということです。大王だとしか推測できないのです。つまり歴史が変わります。

「長屋王はひそかに左道を学びて国家を傾けんとしている。」・・・
長屋王の変とされますが、そうではなく、渡来人である秦氏や藤原氏による国家転覆のクーデターです。

大王である長屋王を殺害したのは、渡来人である秦氏や藤原氏です。

古事記や日本書紀は、渡来人であり天智系天皇(秦氏)である桓武天皇により改竄されている偽書である。それは古代から続く大王家から王座を簒奪したからです。

一次資料といえる木簡から、「長屋親王」との記述がある木簡が発見されました。これはこれまでの歴史が変わる世紀の大発見です。
今の天皇家に関わりますので、歴史が変わるどころか、いままでの価値観が変わります。
長屋王家とされる所からは、多くの木簡が出土しています。もうすでに記紀などの書物の記述と矛盾する記述の木簡が多数出土しています。

親王とはお父さんか、兄弟が天皇(王)でないと付けられない呼称とされます。この「親王」とは「大王」の「王子」(天皇の皇子)という意味です。次の王位継承者、皇太子ということです。父親である高市王子が大王に即位していなければ、「親王」と呼称されることはありません。
つまり高市皇子は大王でした。長屋王も大王に即位していました。
この高市大王や、長屋大王と対立していたのは藤原氏です。しかし、藤原氏は対立していていて死に追いやった長屋王を大王であるとできないために系譜を改竄して、歴史書を作成したのです。

日本書紀の記述通りなら、長屋王が「長屋親王」と呼称されることはありえません。

この木簡が出土したかぎり、古事記、日本書紀の、そして続日本紀を方を疑わなければならないはずです。
ところがそうはなっていません。現天皇家と関係してくるからです。

長屋王は大王だったとする証拠の木簡は他にも沢山あります。木簡の記述においては、長屋王は明らかに大王です。

以下はもうすでに問題あるとの指摘がされているところを、私の意見を書いています。

木簡から推測では歴史が変わります。

*最も衝撃的な記述は「長屋親王宮」です。長屋親王と表記があります。この「親王」と呼称されるのは、父親か、兄弟が天皇(王)でないと付けられない呼称とされます。
高市皇子は第一王子ですし、もちろん兄弟に誰も天皇に即位した人物はいません。
つまり、父親である高市皇子は大王でした。これ以外は考えられません。
長屋王も、もちろん大王に即位していました。長屋王が大王に即位したときに、この「長屋親王宮」は、「奈良宮」と呼称されたということです。

この長屋王を殺害したのが、渡来人である秦氏や藤原氏です。本来は国家転覆の大逆罪です。藤原氏には都合の悪い事跡です。
藤原氏は系譜を改竄し、高市大王や長屋王が大王だったことを消し去る必要があったのです。

高市大王や長屋大王が大王だとすると、この時代に天皇だったとされる、持統天皇や元明天皇は本来の王ではないのです。
「天皇」と「大王」は異なります。「天皇」とは、もとは蘇我の王のことであり、後に女帝の呼称になりました。

そして、持統天皇、元明天皇に関しては天皇に即位していたという事実も疑わしいように思う。それは、この持統から藤原に関する天皇に繋がるからです。

持統天皇の系譜を辿れば容易に推測できます。

天武天皇と持統天皇の子供は草壁皇子です。この草壁皇子と、天智の娘であり、持統天皇の妹である、元明天皇との子供が、聖武天皇の父親である文武天皇です。文武天皇の后は藤原不比等の娘である藤原宮子とされます。
そして聖武天皇の后も藤原氏、不比等の娘である光明子です。

藤原が関係した天皇は持統天皇から繋がります。藤原氏は持統天皇を天武の皇后にしたい理由です。
そして、持統や元明を天智の娘として、天智の血を王家に入れる操作がなされている。持統天皇は天智の娘ではなく孝徳大王の娘である。
つまり、持統は天皇だったと改竄している可能性もある。

長屋王が大王に即位していたということを消すためには、父親である高市王子が大王に即位していなかったとすることです。
天武大王の第一王子であるのに、高市王子が大王に即位していないとするには、母親の身分を下げることです。胸形徳善女の尼子娘という地方豪族の娘ということに変更されている。藤原氏による系譜改竄箇所です。

天武の本来の王后は額田王です。天皇とは王后(皇后)の呼称である。
つまり額田天皇です。額田王は大王家の女性です。采女や巫女などの低い身分の女性ではありません。
天武大王と額田天皇の子供が、「市」の文字が共通する、高市王子、十市皇女です。
長屋王の父親である高市王子は、天武の第一王子であり、当然のことですが大王に即位していました。

*「吉備内親王大命」という記述の木簡も出土しています。この「大命」とは大王(天皇)の命令を表します。長屋王の王后に「大命」という言葉が使われていることからも、長屋王が大王であったとの推測は容易です。

そして重要なところであり「天皇」の呼称に関係するところなのですが、長屋王が大王に即位した時には、吉備内親王は「天皇」に即位した可能性がある。つまり吉備天皇だったということです。

重祚したという女帝。寶女王は皇極天皇として即位し後に重祚し斉明天皇として即位したとされます。
しかしこれは事実ではないということが、大安寺伽藍縁起并流記資材帳における、白雉元年(650年)に難波宮にいる袁智天皇との記述から矛盾点が暴かれています。難波宮は孝徳大王の宮です。
孝徳大王の宮にいる袁智天皇、つまり孝徳大王の王后のことです。

大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」

この袁智天皇とは、持統天皇の母親であるとされる遠智娘のことです。
しかしこの系譜が改竄されています。蘇我氏の娘、蘇我遠智娘ではなく、阿部氏の娘である阿部遠智娘です。孝徳政権時に左大臣だった阿倍内麻呂の娘です。
孝徳天皇の王后であり、持統天皇はこの孝徳大王の娘です。「天皇」とは王后の呼称だという証拠の文章です。

秦氏、藤原氏による系譜改竄に関して重要なことは、渡来人、秦氏の王子である天智を大王家の系譜に組み入れることです。本来の大王である天武と、渡来人天智を兄弟にし、天智の血を系図に入れるため、娘4人を天武の后にしたという不思議な話が改竄箇所です。

*長屋王は、大宝4年(704年)無位から正四位上に直叙され、そして、霊亀2年(716年)には正三位に叙せられるとされます。つまり、高市大王の長男であるのに長屋王は臣籍降下しているという記述です。

これは、もちろん殺害した藤原氏による変更です。殺害した人物が大王だったとできないわけです。

しかし、木簡はこれがおかしいと主張しています。木簡からの推測では長屋王は大王です。

以下も決定的な証拠といっていいものです。

長屋王家木簡には、従三位の家政機関にはあたえられない「大書吏」と「小書吏」の記述のある木簡が出土しています。さらに、「家扶」と「家従」といった従者がいたとの記述もあります。
これが長屋王の身分からは矛盾するのです。令の規定においては、これらの従者が仕えるのは、親王や内親王らの「二品」の皇族のみとされます。臣下に下った長屋王家にはありえない人事ということになります。

さらに木簡の記述においては、臣下にあたえられるはずの「資人」は登場しなく、親王や内親王らの従者を表す「帳内」の文字が頻繁にあらわれるそうです。もちろん、これは木簡の記述通り、「長屋親王」だからです。
父親である高市王子も大王だったということです。

記紀や続日本紀の記述の方を疑いもせずに真に受けて、長屋王が特別な扱いを受けていたのでは?とする学者も多くいますが、そんなことあるわけありません。続日本紀なんて、藤原氏が権力を握った時代の書物です。

これらも問題の箇所とされます。それは、日本書紀に記述されている内容とはことなるからです。ですが、こんなの問題でもなんでもない。
簡単なことです。木簡の記述どおり、父親である高市王子は大王であり、長屋王は親王だったからに他なりません。

そして、記紀や続日本紀は偽書ということです。
これ以外、ありえません。

*「長屋親王宮鮑大贄十編」、この 大贄とは、天皇の食物を表す言葉だそうです。
もちろんこれは、父親である高市王子が大王だったことに他ならない。
長屋王も、もちろん大王に即位することになります。

木簡に記述になる、長屋王家に配達された食料に関しては・・・

地元である大和やその周辺に広大な田や菜園を所有していました。
なんと木簡による荷札から、実に三十九か国からの広範囲から、食材がもたらされていることがわかっています。「御田」、「御薗」との記述もあります。この時代の大王の食生活がうかがい知れます。

興味深いことに、なんと氷室を所有し、夏に食していた事が判明しています。氷室とは夏まで氷を保存する貯蔵庫です。
「牛乳持参人」の木簡、牛乳は大変貴重な食材とされます。牛乳配達人にお米を支給した木簡も見つかっています。

他にも鯖、鰯、水母、若海藻などの海産物、柿、橘、伊知比古(イチゴ)などの果物も各地から運ばれてきているようです。
この「鰯」という文字なのですが、実はこの「鰯」の文字は本家である中国にはない漢字で、日本で作られた和製漢字であり、最古のものであるそうです。木簡は当時の貴重な情報を知らせてくれます。

木簡は非常に貴重な歴史資料ですよね。

*長屋王の言葉に「勅旨」が使わています。勅旨とは、律令制における天皇の命令書である勅書の一種である公文書とされます。
長屋王の言葉に「勅旨」が使われているのは、もちろん大王の言葉だからです。これも王位についていた証拠です。
何度も言いますが、これ以外は考えられません。

*「長屋王」と「吉備内親王」の子供達が「二世王」の待遇を受けています。これは長屋王が、親王の時代のもであり、天武の第一王子であった高市王子が大王に即位していたことに他なりません。これ以外ありえません。
子供たちは長屋王の次の大王候補ですが、藤原は彼らも殺害しています。

渡来人である、秦氏や藤原氏は長屋大王の王后である、吉備内親王とその子供たち、膳夫王、桑田王、葛木王、鉤取王など、本来の大王家の直系の子孫たちを殺害している。

藤原によって改竄された歴史のままでいいのか。
渡来人秦氏の王である桓武天皇の后たち、ほとんど藤原の娘か渡来人の娘たちばかりです。私は許せません( `ー´)凸

つまり古代から続く大王家を滅ぼしたのが、現天皇家、渡来人たちである。

*木簡には、長屋王と吉備内親王の子供である、膳夫王は、「膳若翁」と表記されています。この「若翁」は「わかみふたり」と読まれ、長屋王の子供たちの呼称に使われています。
「円方若翁」、「忍海若翁」、「紀若翁」などです。いずれも母親は不明となっていますが、藤原氏と対立していた長屋王側の地方豪族の娘の子供たちです。この「若翁 わかみふたり」は、大王の子供たちを表す言葉だったともされます。長屋王と王后である吉備内親王の長男である膳夫王は、本来は次の大王候補でした。
藤原氏は長屋王の変において(本来は藤原氏の起こしたクーデタです)、長屋王や王子のこの膳夫王も殺害している。

*長屋王の后は、わかっているだけですが、吉備内親王、安倍大刀自、そして藤原不比等の娘の藤原長娥子がいます。
木簡からあともう一人、石川夫人という女性が后とされます。桑田王の母親ともされます。文献においては、「本朝後胤紹運録」には長屋王の子であり、母親は石川虫丸女と記されています。
この桑田王の子孫が高階氏です。高市皇子を祖とする氏族であり本来の王家の血が繋がる氏族です。

木簡においても、吉備内親王、安倍大刀自は登場します。しかしながら文献にあるので長屋王の后とされる、藤原不比等の娘とされる、藤原長娥子の名のある記述の木簡は出土していません。子供たちである安宿王・黄文王・山背王(藤原弟貞)・教勝の名の記述のある木簡も出土していません。

以前に書きましたが、藤原の娘、つまり渡来人の娘が敵対する本来の大王である長屋王に嫁ぐことはありえないように思う。これは藤原氏を大王家に繋ぐ操作でしょうか?
後に長娥子の子供である安宿王も、高階真人姓を賜ったとされますので、長娥子の子供とされているのは、石川虫丸女の子供ではないのか?

藤原不比等の娘とされる、五人の女性、宮子、 長娥子、光明子、多比能、殿刀自は全て不比等の娘ではない。
これらは、渡来人、藤原氏を大王家に繋ぐ操作である。

*728年に新たに「中衛府」が設けられました。この「中衛府」とは大王を護衛する親衛隊です。この「中衛府」の兵士が長屋王邸を守っていたのが不思議なことだとされますが、それはもちろん本当の大王だったからです。そしてこの場所は本来の宮である「奈良宮」だからです。
渡来人との争いが激化したための警備の強化の処置です。
残念ながら渡来人秦氏、藤原氏によるクーデターは翌年の729年におき長屋王やその子供たちは殺害されました。


*「白鳳-朱鳥-朱雀-大宝・・・九州年号の謎」のところで記述しましたが、木簡の話であるのと重要なのでもう一度書きます。

大化の改新についてですが、・・・
ウイッキベディア・・・
『日本書紀』によれば、大化の改新(645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされる。

藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』のこの部分は編纂に際し書き替えられていることが明確と
なったとされている

発掘結果から「評」と表現される地方行政組織が存在したとは確実であるが、『日本書紀』や『万葉集』では一貫して「郡」となっており「評」については一切記されていない。『日本書紀』や『万葉集』では故意に「評」を「郡」に置き換えてあることが明らかになったがその目的や理由については判っていない。
   ****************************

「評」を「郡」に置き換えた目的や理由については、判っていないとされますが、大宝は長屋王の年号であり、長屋王が大王に即位していて、大宝律令はこの長屋王の時代に制定された律令だとすると、こんなの謎でも何でもないですよね。 

秦氏、藤原氏は、乙巳の変において蘇我氏を滅ぼし、改革を行ったとしたいわけです。天智天皇や藤原鎌足によって、新たな政治改革が行われたという功績を作りたかったわけです。
秦氏、藤原氏の時代の始まりとしてこの「大化」を日本最初の元号とし。また日本という国号、天皇の称号の使用が始まったとしたのです。

本来は、秦氏、藤原氏と対立していた長屋王や忍壁大王の大宝律令時の改革の功績を、取り込んだということに他ならない。養老律令に関しても同様である。その改竄が、木簡などからばれちゃっただけです。それだけです。

日本書紀は偽書です。この箇所だけでなく他にもたくさんあります。後世の潤色だらけです。つまり歴史を改竄したのは、王家と対立していた秦氏、藤原氏です。

天智天皇は大化の改新と呼ばれる改革を断行したとされます。しかし、そうではないとの木簡が出土しました。
「評」から「郡」に変更されているはずなのに使用されている。
つまり、改革を行ったのは長屋大王だということになります。大化の改新ではなく、本来は、長屋大王や忍壁大王が行った「大宝の改革」ということになります。
701年は長屋王が大王に即位した年です。大宝律令はこの年に制定されました。この年以降に「評」を「郡」に変更したのです。

孝徳の年号は「大化」ではなく、本来は「大和」ではなかったのか?これはこの時代の新羅の年号が「大和」だということから推測できます。
新羅は同盟の証として、孝徳大王の年号である「大和」を使用している。

大化の改新なんてなかったわけです。この「大化」との記述のある木簡も発見されていません。これは、乙巳の変のクーデターのあと、秦氏の皇子である天智と中臣鎌足が改革を行ったとして、本来の年号である「大和」を、天智系天皇や藤原氏によって、乙巳の変以降の年号を「大化」の年号に変更して改革を行ったと改竄しているのです。
天智系天皇である、渡来人桓武天皇の時代に記紀は改竄されている。
いま現存する最古の日本書紀は、この桓武天皇の時代のものです。古事記に至っては14世紀のもです。

*何度も記述していますが、奈良は「那羅」、「寧楽」、「及楽」、「平城」などとも表記されているとされますが、「平城」は「なら」とは読めない。平城の地が都にふさわしいと記述されているのは続日本紀においての記述です。
この続日本紀は藤原氏が権力を握った時代の書物であり、藤原氏の主張に他ならない。
長屋王家木簡においては、長屋王の邸宅を「奈良宮」と呼称した木簡が発見されています。本来の大王はこの長屋王であり、本来の都の名称はもちろん「奈良京」です。「奈良京」と「平城京」は異なります。「平城宮」は藤原が主張する都の名称です。「藤原宮」も同様です。
万葉集
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほうがごとく 今盛りなり

*藤原宮(本当は高市大王の香久山宮)は、わずか16年ほどで、平城宮(これも本当は長屋大王奈良宮)に移転したしたのが謎だともいわれますが、これも謎でもなんでもない。長屋王が大王に即位したので、宮が長屋王の宮である奈良宮に移っただけです。木簡に記述のある「北宮」とは、高市大王の宮である香久山宮の真北に位置する「奈良宮」のことです。

*高市大王の宮は、万葉集、柿本人麻呂の挽歌にあるように「香久山宮」です。木簡からの推測においても高市王子はもちろん大王に即位していました。
本来の宮の名は、「香久山宮」です。
「藤原宮」なんて、宮の名に臣下の名である「藤原」を付けるはずありません。「藤原宮」というのは藤原氏の宮のことで、本来の大王家の宮ではありません。これは変更すべきです。

この「香久山宮」の真北の位置、にあったのが、長屋王の「奈良宮」です。


「奈良京遷都と平城京遷都の謎」のところで詳しく書いていますが、・・・
香久山宮(藤原宮)は、下ツ道、中ツ道の中央に位置します、同様に、王子である長屋王の宮、奈良宮も、東西は下ツ道、中ツ道の間、その中央に位置していたのです。「北宮」との記載されている木簡が出土していますが、
これはもちろん香久山京の真北に長屋王の奈良京のことです。
平城宮と奈良宮もまた異なります。平城宮は藤原の宮です。


*木簡は荷札に使用されることが多くあります。これら木簡が出土したところは長屋王家とされますが、そうではありません。
様々な荷物の集配場所ともいえるように思います。長屋王の宮である、「奈良宮」の西側に位置する、西方官衙とされる場所です。

今邸宅跡とされる場所は、宮の西側の地域になります。木簡は荷札に使用されることが多くあるようです。木簡の宛先の記述で多いのは、「務所」だそうです。
奈良務所、奈良宮務所、務所、政所、司所、などの記述です。どれも「つかさどころ」と読むようです。奈良宮の行政機関です。

出土した木簡の記述通り、奈良宮の務所、行政の実務をおこなう官庁があったところです。宛先が「務所」だとされているのに、何故に長屋王邸と治定されるのでしょうか?おかしいでしょうに。

*長屋王邸宅には多くの技術者や工人が働いていたとの記述があります。「鍛冶」「鋳物師」「轆轤師」「椅子作」「木履作人」「矢作」「弓作」「太刀作」「要帯師」「染女」「縫殿女」「障子作画師」など・・・これらの人々が長屋王宮(奈良宮)傍に居住していました。。
「春日旦臣米半升受宿奈女」「式部省人米一升受宿奈女九月十四日綱万呂」

この「式部省」に「兵部省」の記述のある木簡も発見されています。
そして彼ら役人は、なぜか長屋王邸宅において食料の供給を受けてるとされますが、そうではありません。いま長屋王邸宅と推測されている場所は、長屋王邸ではなく、木簡の記述通り、宮の西側の地域にあたる奈良宮の務所、行政機関です。ここで食料の供給を受けているのです。
この式部省や兵部省のあった場所もこの、西方官衙とされる場所です。


*高市大王の香久山宮(持統の藤原宮)は、中央、北から内裏、大極殿、そして、朝堂院が配置される形です。東側、西側には、それどれ東方官衙、西方官衙 (これは仮称のようですが)、様々な官庁が存在していたとされます。
宮は、この東西官衙の中央に内裏、大極殿、朝堂院が存在する形である。
長屋王の奈良宮は、この高市大王の香久山宮と同様の作りである。



写真は高市大王の香久山宮(藤原宮)です。宮の西南部部にあるのが西方官衙とされる行政機関の建物が会った場所です。長屋王の奈良宮はこの高市大王の香久山宮(藤原宮)と同様の作りであり、今長屋王邸宅とされている場所はこの行政機関の建物があったところです。
今に残る「東院庭園」の東側に本来の大王である長屋王の内裏が存在していました。その南にはもちろん大極殿も建てられていたのですが、移築されている。それが第一次大極殿とされている大極殿です。藤原氏が権力を握った時代に、藤原氏の宮(平城宮)として、下ツ道を中心にして、宮をつくり変えている。その時に大極殿も移築されている。

*新たに「長屋皇宮」という木簡も見つかっています。
この「長屋皇宮」の名称からも推測できることですが、「皇宮」でしょう。「皇」の文字が使用されていますよね。
長屋王の皇后(王后)である、吉備天皇の宮という意味です。
皇后である吉備内親王の宮であり、吉備内親王は天皇に即位していたということです。

吉備天皇であり、天皇とは女帝のことであり、つまり皇后のことです。この吉備天皇の宮が「「長屋皇宮」ということです。
ここも詳しくは「平城京遷都と大極殿再建の謎」のところで書いてきましたが、これこそ平城宮の第二次大極殿のあったとされる場所にあった宮のことです。
藤原氏の宮である、平城宮は本来は奈良宮の一部ということです。つまり、これ「長屋皇宮」というのが本来の呼称である。
長屋王の王后(皇后)である、吉備天皇の住まいであると推測できます。
「西宮」というのがこの「長屋皇宮」のことであり、「東宮」というのが「奈良宮」のことです。

平城宮の第一次大極殿と、第二次大極殿の治定が逆です。第二次大極殿というのが、最初に造られた大極殿であり、この時内裏、大極殿が、古墳を壊して造られたのです。
ここは治定が逆だという、私の推測通りなのですが、第二次大極殿あとから、奈良時代前半の遺構が発見されていますv(*^▽^*)v
この遺構の場所が、「長屋皇宮」であり、もとは元明天皇の宮であるのですが、後に娘の吉備天皇の宮になったのです。

本来は、北から南に内裏、大極殿、そして、朝堂院が配置される形になるはずです。高市大王の香久山宮(藤原宮)もこの並びになっています。
ですが、平城宮の第一次大極殿の方が最初に造られたとするとこうはなりません。内裏の西側に大極殿が存在した形になりおかしい。
これは宮の形としてありえません。間違っています。



写真は、平城宮跡歴史公園MAPのパンフレットです。
ブラウン色、第一次大極殿から、朱雀門が平城宮の中心とされます。
しかし、本来、宮は北から南に内裏、大極殿、そして、朝堂院が配置される形です。第一次大極殿の北側に内裏が存在していなければならないはずです。奈良宮と平城宮は異なります。この平城宮は渡来人の宮です。
そして、平城宮は香久山宮(藤原宮)のように、東西に「東方官衛」、「西方官衛」とされる、政治を行う役所などの施設がありません。これもありえることではない。平城宮は本来の宮ではないとの証拠です。

この本来の宮である長屋大王の奈良宮には、「東方官衛」、「西方官衛」が存在していました。木簡の出土されている場所は、奈良宮の「西方官衛」の側にあるゴミ捨て場です。
いま長屋王邸宅とされている場所は、この「西方官衛」と呼ばれる場所です。長屋王邸宅、つまり奈良宮の内裏ではありません。

しかしながら、本来の奈良宮の内裏の場所の推定は容易です。それは父親である高市大王の「香久山宮」と同規模と思われるからです。
今に残る東院庭園の東側に内裏はありました。この東院庭園は奈良宮の内裏の庭園です。長屋大王が曲水の宴を催したのはこの庭園です。



木簡に記述のある、本来の宮である長屋大王の「奈良宮」の位置に関して・・・
奈良市役所東の交差点付近が、南北に通る下ツ道と中ツ道の中間地点になります。黒い線で囲っているのが、およそですが本来の宮である長屋大王の奈良宮です。
父親である高市大王の香久山宮(藤原宮)もまた、下ツ道と中ツ道の中間地点に造られています。
王子である長屋王の奈良宮もまた、下ツ道と中ツ道の中間地点が中心地となり、その規模も父親である香久山宮(藤原宮)と同規模の宮である。ですので奈良宮の位置と、宮の規模や造りは容易に推測できます。


パンフレットの写真のグリーン色が、「長屋皇宮」であり、木簡にある「西宮」のことであり、東側には本来の宮、奈良宮があったのです。この内裏が、元明天皇崩御後に「長屋皇宮」となったのではないのかな?吉備内親王は草壁皇子と元明天皇の娘です。ただし元明は天皇だったかはあやしいように思います。

「吉備内親王大命」との記述がある木簡が出土しているわけですので、長屋皇宮とは長屋王の王后であった吉備内親王の住まいのように思います。
吉備内親王の言葉が、王の言葉である「大命」が使われていることからも推測できると思いますが「吉備天皇」であったのでは?
これは、「長屋皇宮」の記述からも「吉備天皇」であったとの推測ができます。「吉備天皇」であるので、「皇宮」であるわけで、「天皇」の呼称は皇后のことである

「天皇」とは蘇我の王のことだったのですが、後に女帝の呼称になりました。皇后のことです。
母親である元明天皇?の後はこの吉備天皇であったということを推測していますが、本来は元明は天皇ではなく娘の吉備内親王が天皇に即位したのだと思います。
長屋王は大王でした、この事実を変更したのは藤原氏です。同様に、長屋王の王后だった、吉備内親王が天皇に即位した事実も変更している。

*平城京遷都は710年(和銅三年)です。平城宮(本当は奈良宮)の第一次大極殿院の南回廊の敷地内から、この年号、「和銅三年正月」と記述された木簡が発見されています。
「続日本紀」には、この年に元明天皇は大極殿に出御したとの記述があります。大極殿が完成しているのなら、同じ年、「和銅三年」の年号のある木簡が地下から出土するわけないのです。矛盾します。
つまり、元明天皇が出御したという大極殿は、この第一次大極殿ではありえないということです。

何度も記述しますが、いま第一次大極殿とされる大極殿は最初に造られた大極殿ではないということです。第一次大極殿と第二次大極殿の治定が逆です。
第二次大極殿とされる大極殿が最初に造られた大極殿であり、元明が出御したという大極殿はこの第二次大極殿とされる方です。これが長屋皇宮です。元明天皇は、707年に天皇に即位したとされますが、これは真実ではないように思います。
つまり、710年に大極殿に出御したという人物は、この吉備天皇のように思います。
藤原氏は、殺害した長屋大王の王后である、この吉備内親王が天皇に即位したことを消している。
奈良宮の西側、木簡にある「西宮」こそ長屋皇后である。

大極殿は長屋大王の奈良宮の大極殿、この長屋皇宮の大極殿、そして後の時代の聖武天皇の大極殿と三つ造られている。この長屋大王の奈良宮の大極殿は取り壊されている。
聖武天皇が恭仁京から戻り、長屋大王の大極殿を取り壊して移転したのが、第一次大極殿である。
長屋大王の弟である鈴鹿大王が崩御した745年以降に、奈良宮を平城宮として作り変えている。

*「平城京遷都と大極殿再建の謎」で記述しましたが、・・・
平城京の第一次大極殿が、恭仁京に移築されたとするなら、平城京には大極殿がなかったはずです。ですので、そこに建て直したらいいわけです。なのに、何故に、第二次大極殿は、中心地、つまり、第一次大極殿から南の朱雀門までが宮の中心であるのに、第二次大極殿は、宮の中心を外して東側に建設したのでしょうか?おかしいですよね?

第一次大極殿跡地に建物がないのなら、そこに建てなおしたらいいわけですよね。
ここが宮の中心であるわけです。それがどうして、古墳のあった場所、そして中央から外れる位置に建て直さなければならないのか?
朱雀門は、平城宮の正門です。大極殿から朱雀門、その中心位置を外して何故に東側に再建する必要があったのでしょうか?何らかの理由があったとでもいうのでしょうか?治定が間違っています。

最初に、長屋王の奈良宮(木簡にある「長屋親王宮」)の大極殿が造られ、710年には、長屋皇宮の大極殿(第二次大極殿)が完成し、745年、藤原氏が権力を握る時代になって、下ツ道を中心にして宮を作り変えた時に奈良宮の長屋大王の大極殿は移築されたのです。
これが平城宮であり、第一次大極殿というのは、奈良宮、長屋大王の大極殿を移築したものである。
平城宮は渡来人の宮であり、本来の宮ではありません。

*長屋大王の奈良宮は、後に藤原の関係する聖武天皇の時代、藤原氏の宮(平城宮)として、下ツ道を中心にして、宮をつくり変えているのです。そして、こちらの方が本来の宮であると改竄しているのです。本来は平城宮は奈良宮の一部ということです。
対立していた長屋王を本来の大王としたくないため、地位を落とし宮の存在も消し去っている。これが理解できていないため大極殿の治定も間違ったものになっていて、矛盾だらけになっている。
しかし日本書紀の記述の嘘を暴く木簡が多数出土しています。平城宮は本来の宮ではありません。
いま平城宮跡には、大王家を滅ぼしたこの渡来人の宮を再現しようとしています。
もう千年以上も、正史とされる記紀や、続日本紀などの歴史書により騙され続けている。
歴史は権力者の都合により変更される。

木簡からの推測では長屋王や父親である、高市大王はもちろん大王でした。するとその時代に天皇だったとされる、持統天皇や元明天皇は本来の王ではないのです。おそらくこの二人は天皇にも即位していない。
本来は天武大王の王后である額田天皇に、長屋大王の王后である吉備天皇である。
これが大問題でもあります。歴史が変わります。

藤原氏は系譜を改竄するとき、この天皇の呼称を、そして持統天皇を利用しました、それは藤原が関係する人物はこの持統天皇から繋がるからです。
持統を天智の娘としたのはこれが理由です。これも何度も書いていますが、持統天皇の母親である、袁智天皇こと遠智娘は、蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘である阿倍遠智娘であり孝徳大王の后です。
持統天皇は本来の大王である孝徳天皇の娘である。藤原氏はこの敵対していた阿部氏の系譜を消し去っている。

持統天皇からの系譜を見れば容易な推測です。藤原氏が関わる聖武天皇に繋がるからです。聖武天皇の皇后は藤原不比等の娘の光明子です。

*万葉集・・・巻二(一九九)柿本人麻呂 高市大王への挽歌

我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや・・・ 

わが大王(高市大王)が、万年の世までと考えお作りになった「香具山の宮」は、万年の世を過ぎてもなくなることは考えられない。

天武大王が新たに造り始め、後に王子である高市大王が受け継ぎ造りはじめた宮を、「香具山の宮」と表現しているでしょう?
あたりまえだけど、「藤原宮」なんて、宮の名を臣下の名で呼んでいたはずはない。ありえません。
この「香具山の宮」は高市大王の宮であり本来の宮です。都城の名を宮の名からとるのであれば、 「香具山京」です。
持統天皇が天皇に即位したという「藤原宮」とは、藤原不比等の邸宅のことです。

万葉集・巻一(二八)
春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山
                 持統天皇
有名な持統天皇の歌です。
この「天の香具山」とは、高市大王の宮である「香具山宮」のことです。春が過ぎ夏に備えて、夏用の衣を宮中にて洗濯して干している情景を歌ったものです。神の山である香具山に衣を干すわけありません。

*本来曲水の宴は、王が催したわけです。このことからも長屋王が大王だったということがわかります。
長屋王は大王に即位していました。つまり長屋王邸というのは、都の中心である奈良宮の内裏のことです。
平城宮は四角い形ではなく、東側に出っ張りがある、あるは東南部分が欠けたような不思議な形状であるとされます。これも本来はありえません。
これはこの部分(東院庭園部分も含む)が長屋王の宮の北西部分だったからです。曲水の宴が行われたのはこの庭園です。

奈良宮の内裏、長屋王邸は、奈良市役所の北、「東院庭園」の東側の地域です。この庭園は長屋王邸の庭園です。
これは今に残る「東院庭園」の不思議な形状(池を鑑賞するのではなく、塀を鑑賞するような作りになっている。正面が塀なのです。)からも推測できます。本来は塀なんてありませんでした。塀の向こうにも庭園があり池があったのです。
これ誰も疑問に思わないのでしょうか?不思議としかいいようがありません。

東院庭園の東側にも庭園があり、さらにこの庭園の向こう側、つまり東側が長屋大王の宮、内裏です。
長屋王の宮である、本来の宮、奈良宮もまた壊されている。

*天武の後、持統天皇が藤原京に遷都、その後、元明天皇が平城京に遷都したということと同様で、聖武天皇の遷都の謎も藤原氏の主張でしかない。持統天皇、元明天皇は王家の女性ですが天皇には即位していない。藤原氏に関係する天皇は持統天皇から繋がります。

*いつの日にか変更されるまで、何度も書いてやる・・・
都の表記において、現在と同様の「奈良」の文字が記されている木簡が発見されています。「奈良務所」、「奈良宮」、そして「自奈良京申」という木簡も見つかっています。長屋王の屋敷を奈良宮と表していて、都の呼称を「奈良京」と表しています。長屋王は大王です。

木簡の記述通り、本来の都の名称は「奈良京」です。「平城」は、渡来人の主張する都の名称であり「なら」とは読めません。
「奈良京」と「平城京」は異なります。
「藤原宮」も同様です。藤原氏の宮の名称です。特にこの藤原の名そのままの「藤原宮」の名称が気に入りません。本来の宮の名称は万葉集にあるように、「高市大王の香久山宮」です。

今、平城宮跡地に新たに再現しようとしているのは、この渡来人の宮の方である。記紀は正史であるということで、矛盾する記述があっても、記紀の主張を採用しているため、とんでもないことになっている。本来の大王家を滅ぼした渡来人の宮を再現しようとしています。




写真は、長屋王とその后である吉備内親王のお墓です。
高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎のところでも書きましたが、・・・
高松塚古墳の被葬者は高市大王であり、キトラ古墳は、后の阿部明日香のお墓です。高松塚古墳は、高市皇子を大王としたくないために、元は八角墳墓だけど、円墳に作り直されていると思う。

このふたりは長屋王の両親です。「聖なるライン」上にあり、王家の墓域とされます。
ですので、高市大王の王子である長屋王のお墓も、本来はこのライン上、高松塚古墳のそばにあったはずです。

天武大王ー高市大王ー長屋大王である。
天武大王が新たに造り始め、王子である高市大王が受け継いでつくった宮は、柿野本人麻呂の挽歌にあるように「香久山の宮(藤原宮)」です。
この「香久山の宮(藤原宮)」のほぼ南の位置にあるのが、天武大王陵である檜隈大内陵です。檜隈大内陵の南にあるのが、高市大王の高松塚古墳。
高松塚古墳の傍、北に位置すのがこの中尾山古墳であり聖なるライン上にあります。

高松塚古墳傍にあり、本来は八角墳とされる中尾山古墳こそ高市皇子の王子である長屋王の本来のお墓ではなかったのか?
長屋王が祟り、藤原四兄弟は亡くなります。祟った後に、長屋王の遺骨は怨霊封じのために焼かれ、さらにこの地から追放される形で移葬されたのではないだろうか?

写真は中尾山古墳です。この時代の大王家の墳墓である八角墳です。
被葬者は第42代天皇の文武天皇だとする説が有力らしいのですが、聖武天皇の父親である、この文武天皇は王家の人物ですが、本来の大王ではありません。
文武天皇が天皇に即位していたというのは事実ではない。藤原氏の主張に他ならない。聖武天皇が天皇だと主張するには、父親であるこの文武も天皇に即位していたとする必要があったのです。聖武天皇も、もちろん本来の王ではありません。
この時代の本来の大王は、高市大王、長屋大王、鈴鹿大王です。




実は、私の地元、和歌山県有田市初島町(現在はENEOS和歌山製油所の敷地内)に、長屋王のお墓だという伝説のお墓、椒古墳が存在します。小型の前方後円墳であり、およそ5世紀頃の古墳だとされます。

この伝説に関しては、平安時代の仏教話集である「日本霊異記」において、紀伊国椒村(現初島町)に葬りなおしたという記述があるからです。
藤原氏に祟った後に、この中尾山古墳から追放する形で遠方に葬りなおしている。

ですのでこの記述から、この前方後円墳が、長屋王のお墓ではないのだろうかと考えられているのです。
しかし築造時代が異なるこの古墳ではありません。
沖合に地の島、沖ノ島とうい二つの島があります。藤原氏に祟った長屋王の遺骨は、中尾山古墳から島流しにあっている。


仏教説話集 日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)

聖武天皇が元興寺で大法会を行った時に、長屋親王が、僧侶に食事を捧げる役割を受けます。その時にみすぼらしい姿の僧侶の頭を象牙の笏をもって打ちました。その後、僧侶は長屋王が謀反を企てているとの密告をすることになります。これが聖武天皇の怒りに触れ長屋王は一族共々に自害することになります。
親王の骨は土佐の国に流されたが、親王の霊気により多くの百姓が亡くなるという事態が起きます。聖武天皇は、霊気を都に近づけないようにするため紀伊国海部郡椒の奥ノ島に遺骨を遷しました・・・たとえどのようなみすぼらしい姿をしていても尊敬しなければ仏法の報いを受けるという仏教説話です。
     ********************
平安時代初期の説話集とされる、この日本霊異記に記述されていることは事実ではありません。事実は渡来人秦氏、藤原氏による、長屋大王殺害、国家転覆の大逆罪です。そして長屋王は、藤原氏に祟ります。

藤原氏はこの長屋王や、その父親である高市大王、天武大王、山代大王(山背大兄王)、押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)などに対しても怨霊封じを行っている。高松塚古墳など彼らが葬られているお墓が暴かれている。そして彼らを祀る法隆寺も怨霊封じのお寺になってしまっています。
ですので、長屋王のお墓を暴き、遺骨を遠方に遷したということに関しては事実のように思うのですが・・・?

写真、よく散歩に出向く初島港から、右が地の島、左が遺骨を遷したとされる沖ノ島です。


下の写真にある生駒郡平群町の長屋王のお墓は、直径15m、高さ1.5m程の小さな円墳とされます。こんな小さな円墳が、長屋王のお墓であるというのは疑問です。お墓の規模や、大王家の埋葬地とはかけはなれた場所からも推測できるように思います。藤原氏により本来の大王家の埋葬地から移葬されています。長屋王の王后や子供たちの可能性はありますが、この小さなお墓が本来の大王である長屋王のお墓であるわけない。







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