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聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

「親魏倭王」卑弥呼の謎

2019年12月17日 | 魏志倭人伝の謎


7世紀、隋が滅び、この唐という巨大な統一国家が出現したことで、地続きにある朝鮮半島は戦乱時代になります。この戦乱が倭国にも影響することになります。

卑弥呼の時代もそうです。大陸での紛争ですが、島国である倭国にも影響を及ぼしている。
景初二年(238年)に、卑弥呼は魏に朝貢します。魏志倭人伝においては、何故この年に朝貢したのかの記述はされていません。
主な理由と思われる、魏が建国した年なので、朝貢したわけではありません。卑弥呼が王に即位した年であるので朝貢したということでもありません。

何故に卑弥呼は魏に朝貢したのかを推測するのは、魏志倭人伝の謎を解くことにおいては重要なことです。
卑弥呼が朝貢した時期は、倭はどういう状況下におかれていたかを考慮しなければ、魏志倭人伝の謎を解くことはできません。

この時代、朝鮮半島で勢力を誇っていたのは、遼東地方を本拠地とし、楽浪郡や帯方郡を支配下においていた公孫氏です。
魏書 東夷伝韓条において、韓や倭はこの帯方郡に帰属したと記述されています。

卑弥呼が朝貢した年、景初二年の238年に、この公孫氏と魏の争いが戦争に発展します。結果、この遼東公孫氏は滅亡しました。
卑弥呼が朝貢した時期には、公孫氏は本拠地の遼東の地で籠城し瀕死の状態でした。
遼東地方と帯方郡は遠く離れていますので、倭が帰属していた帯方郡はもうすでに魏の支配下にあったと推測できます。魏は倭国についてはあまり詳しくは知らなかったようなのですが、帰属していという帯方郡には倭に関する情報がありました。
魏は倭国を味方にしようとしたのです。


三国志、魏書 東夷伝韓条・・・是後倭韓遂屬帶方

倭国は公孫氏に帰属していたとされます。当然ながら交流もあるわけで、公孫氏は、帯方郡に命じて倭国の調査をしているはずです。
この推測ができれば、魏志倭人伝の謎ときも難しいものではありません。
魏志倭人伝は卑弥呼朝貢後の魏の使者たちの紀行文と、それ以前に帯方郡が倭国(北部九州)を調査した時の文献が参照されている。
この時代が異なる文献を、時代の変化を考慮せずに一つに纏めたため矛盾するものになっている。

公孫氏の領地、朝鮮半島の北西部は魏が治めることになりました。もちろん倭が帰属していた帯方郡も魏の支配下になったということです。
魏は戦争に勝利し、領土を広げることができる結果となりましたが、それによって新たな問題が生じました。

朝鮮半島における他の国々、高句麗や南の韓の国々と領土を接することになり、軋轢が生じます。
三国時代、魏、呉、蜀のうち、蜀漢は衰退していましたが呉はまだ健在です。この呉は、公孫氏が滅んだ後になってはしまいましたが援軍を送り、魏と争っています。呉はこの時期に遼東半島を占拠しています。
敵の敵は味方になります。遠交近攻という戦法です。

魏もこの戦法を用いたのです。朝鮮半島を手中にするため、魏は倭国を味方にしようとしたわけです。朝鮮半島南部の韓の国々の反乱を抑え支配下にするために、倭を利用しようとしたわけです。

卑弥呼が朝貢した理由、それは・・・「お前たち倭は我ら魏の支配下になったわけであるので朝貢に来い」・・・という、いわば命令があったので、卑弥呼は朝貢したのです。卑弥呼の朝貢はこの朝鮮半島での戦乱が関係する。

卑弥呼が朝貢し、魏から親魏倭王の金印や銅鏡100枚などが送られています。
「親魏倭王」とあるように、魏は倭と同盟関係を結すぼうとしたわけです。倭が韓の国と手を結ぶことになると魏にとっては厄介な問題になるからで、先手を打ったともいえる良い判断です。
「親魏倭王」の「倭」の文字は卑弥呼の「卑」の字と同じく悪字ともされまが、人偏であるのでそうとも言えないともされます。
この倭国とは、もとは西暦107年に後漢に朝貢した北部九州にある筑紫平野を統一した帥升の国のことです。

そして後に、黄幢(軍旗)も送られていることからも判断できますが、これは朝鮮に出兵しろとの命令なわけです。

卑弥呼は南の狗奴国との戦いを報告しますが、これは狗奴国との戦いがあるので朝鮮に出兵ができませんとの言い訳です。
結局、卑弥呼(台与)は出兵することになるのですが・・・(*^▽^*)
魏志倭人伝の謎はいづれ書きます。




280年、魏から政権を引き継いでいた晋(西晋)は呉を滅ぼし統一王朝が誕生することになります。しかし不安定な状態が続き、この西晋は滅びました。その後、東晋として復活するのですが、華北地帯は、五胡十六国時代の戦乱の時代となります。

この時代に、晋の弱体化により朝鮮半島において台頭してきたのが高句麗です。高句麗は、勢力を広めるため南下します。楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も手中にします。

4世紀になり、馬韓諸国のなかの伯済国を母体として百済が、辰韓諸国の地においては新羅が台頭してきます。

高句麗の南下政策により、これらの国々、百済や新羅と対立するようになります。
広開土王碑文にあるように、特に百済とは4世紀後半から5世紀にかけて激しく争います。百済が救援を求め、それに応じたのが倭です。

倭の五王の時代には、倭国は朝鮮に出兵しています。百済は倭の支配下にあったといってもいいくらいです。百済渡来人により改竄された日本書紀が、倭の五王を無視するのはこれが理由のように思います。

475年高句麗の攻撃により、百済は滅亡します。

弱体化していた百済が復興することができたのは、倭国の力です。滅んだ百済を復興したのは倭国です。ですので、復活百済は倭国の一部です。

倭の五王の上表文、朝鮮半島における前方後円墳の出現、任那日本府の問題からも推測できます。倭国の墓制である、前方後円墳が作られていることからも、卑弥呼の時代以降は、朝鮮半島南部は倭の支配下にあったのです。
復活百済は、朝鮮半島における倭国といってもいいくらいです。
この百済が滅んだ時期に、渡来してきたのが秦氏である。

ウイッキペディア・・・
『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされる。
   ***************************
「弓月」の朝鮮語の音訓が、百済の和訓である「くだら」と同音・同義であることから、「弓月君」=「百済君」と解釈できるという説は決定的な論拠といっていいと思います。

弓月君は、百済の120県の人民を率いて帰化したと、日本書紀に記述されています。この表現は、広範囲の地域からの、かなり多数の亡命渡来人であったと思われ、まるで国そのものが渡来してきたような記述です。
これは国が滅ぶ時期にしかありえないように思います。

日本書紀は卑弥呼の時代、卑弥呼を神功皇后として描いているので応神天皇の時代は3世紀になっていますが、本来はもう少し後、倭の五王の時代、高句麗の南下政策により、百済が滅亡の危機にあった時、475年頃の話です。


この秦氏が、勢力を拡大し、そして新たな渡来人を取り入れ大きな勢力になっていたのです。
この秦氏の本拠地が、「やましろ」の地です。この「やましろ」に都を移した、天智系天皇である、桓武天皇は秦氏の人物です。

渡来人、秦氏の本拠地である、「やましろ」に使用されている文字の記述は、古事記では、「山代」、日本書紀では、「山背」に統一されています。そして794年に「山城」に変更されたとされます。

この「やましろ」は、本来は奈良盆地の山の向こう側の意味であり、「やまのうしろ」の「の」の文字が取れ、「やまうしろ」から「やましろ」に転化しとされます。本居宣長の説であり、そのとおりのように思います。

つまり、本来は「山背」、山の背後の意味が本来のものであると思えます。
これは、奈良側からの視点の言葉であり、渡来人側からすればよい言葉ではありません。

ですので変更しているのですが、変更したため矛盾がおきている。

実はこの3つ中で、一番良い文字といえるのは、「山代」なのです。
「山代」・・・古代、王が統治することを、シラス、シロス、シロシメスとい言葉が使われています。
この「山代」という文字は、王が統治している土地であるという意味になり、渡来人が権力を握り王座を簒奪し、この「やましろ」の地を都とした時代に書き換えられた文字である。
渡来人たちは本拠地の呼称を、「やまのうしろ」からの転化ではなく、初めから「やましろ」だったとしたいわけです。

古事記は、712年に編纂されました。日本書紀は720年です。
たった八年で、文字が変わっているのもおかしいですが、ふつうは後に良い文字に変更すると思われるからです。
古い古事記の方に、「山代」の文字が使われていて、日本書紀に「山背」の文字が使われているということは本居宣長の説とは矛盾します。
つまり、どういうことかというと、本来は古事記が最後に作られているという可能性があるということが推測できます。意図的に変えている。

古事記は、続日本紀において古事記への言及がないことが疑問視されていて、古事記偽書説があります。
古事記は、続日本紀(797年編纂)よりも後の時代に編纂された可能性があるとの指摘です。一番古い古事記にこの「山代」の文字が使われているにはおかしいともいえます。

私は、古事記、日本書紀、続日本紀はほぼ同じ時期に編纂されているよう思う。
それは、歴史を改竄したからです。変更した内容を矛盾しないように統一しなければならないからです。

続日本紀が797年編纂されています。これは藤原の時代、藤原の都合で書かれた、藤原の主張する歴史書ともいえます。
この藤原の歴史書に合わせて、まず日本書紀を改竄し、その後に古事記も内容を変更している。

文武天皇以降、大王家を滅ぼし藤原が天下を取った時代のものです。ですので、歴史書を作る必要があったのです。

我々の方が正統であると主張している、この藤原の歴史書の内容に合わせる
必要があるからです。藤原の関係する人物の方が正統であると改竄している。

この続日本紀の編纂時に、これら3つの書の内容が矛盾しないように、日本書紀や古事記も同じ時期に編纂、・・・ではなく改竄している。

797年に、続日本紀を編纂し、その内容に合わせるように日本書紀を改竄し、おそらく最後に古事記を改竄したと思います。


794年に「山城の文字に変更されたとさえますので、続日本紀の後なら、「山城」を使えばいいのですが、そうすると後の改竄がばれてしまうので使えません。ですので、「山背」を使えばよかったのですが、本来は「山代」だという主張をしたかったのだと思いますが、古事記にこの「山代」を使ったばっかりに矛盾することになっている。

続日本紀を作りながら、日本書紀や古事記に矛盾する箇所がないように編纂しなおしている。
編纂したのは、渡来人である秦氏や藤原氏である。

現存する古事記は、14世紀のものであり、この平安時代に、秦氏、藤原氏の手で作られたものを参照して編纂されている。古事記もまた偽書です。

聖徳太子の王子である、山背大兄王は、いうまでもなく、本来は山代大兄王です。山代大兄王に関しては、悪い文字の方に変更しています。
聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子の王子であり、同じ名前をもつ山代王のことです。
山背大兄王暗殺を、蘇我入鹿のせいにしたのは、対立していた、秦氏、藤原氏である。暗殺したのは、秦氏、藤原氏である。
この押坂彦人大兄皇子こと、日十大王の後胤と対立し、王座を簒奪したのが渡来人である、秦氏や藤原氏である。

今回は、「殺戮の時代・・・丙辰の乱」、「談山神社創建の謎と中臣鎌足」から続いての話、大王家と渡来人との争いの予定でしたが、長くなるの次回に書きます。



写真は、国営平城宮歴史公園です。
第一次大極殿(本当は第二次)や朱雀門はすでに再現されていますが、この平城宮跡は、国営平城宮歴史公園として新たに整備しなおしています。

しかし、今再現しようとしている宮は、渡来人である藤原氏の方の宮です。
無能な歴史学者のせいでとんでもないことになっている。
本来の大王家の宮は、平城宮ではなく奈良宮です。

奈良宮は長屋大王の宮である、平城宮とは対立する藤原氏の宮である。ですので、呼称に関してもこの都を平城京と呼ぶのは良くない。
本来はもちろん、奈良京です。
藤原の宮である平城宮は、奈良宮の一部であり、本来の王の住まいではない。

「藤原宮」と「平城宮」は、大王家と対立していた藤原氏の宮である。
この呼称は使用すべきでない。
なんども書いていますが、王の宮を臣下の名である「藤原」なんて名付けるはずはありません。
改竄された日本書紀や古事記を正史とする限り真実は見えてこない。

本来の大王の宮ではない、そして大王家を滅ぼしたといえる藤原氏の宮である、平城宮を復元しようとしています。
「藤原宮」の名称で世界遺産に登録しようともしています。間違っています。

本来の「奈良宮」の場所にはもうずでに多くの建物が立ち復元は不可能な状態です。

長屋王邸とされる場所から出土した木簡の内容をみると、長屋王は大王であったとの推測は容易です。木簡の「長屋親王」の記述は、長屋王の父親である高市王子は大王に即位していたとの記述です。もちろん長屋王も大王でした。

高市大王や長屋大王が王だとすると、この時代に天皇だとされる持統天皇や元明天皇は本来の王ではありません。

持統天皇の宮である、藤原の宮、元明天皇や聖武天皇の宮である平城宮は本来の大王の宮ではなく藤原氏の宮です。
本来は、万葉集、柿野本人麻呂の挽歌にあるように高市大王の香久山宮です。

長屋王の宮は、もちろん奈良宮です。

万葉集 巻三(328)
    あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり
「奈良京」と書かれた木簡が発掘されています。 
奈良は「那羅」、「寧楽」、「及楽」、「平城」などと表記されているとされますが、「平城」は「なら」とは読めません。

この長屋大王と対立し、殺害したのは渡来人である藤原氏である。藤原氏にとっては都合の悪い事柄です。大王家を乗っ取ったため歴史を変える必要があったわけです。歴史は勝者の歴史です。残念ながら最終的な勝者は藤原氏です。
もうずっと藤原氏によって改竄された歴史によって騙され続けている。

藤原氏により改竄された、偽書である日本書紀・古事記を正史として扱ってきたためとんでもないことになっています。
現天皇家と関わることになりますので、いまさら間違っていたとはできないかもしれませんが。

古代の大王家を滅ぼし、歴史を変えた秦氏、藤原氏を私は許しません( ̄ー ̄)凸

撮った写真を投稿しやすいかと思いTwitter始めました。
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卑弥呼と神功皇后の謎

2016年08月02日 | 魏志倭人伝の謎


日本書紀においては、この神功皇后は卑弥呼だろうという記述の仕方をしています。
しかし、神功皇后では時代が異なるともいわれます。でもそうではありません。

記紀編纂時において、卑弥呼に関することは伝説として伝えられていたのだと思います。
しかし、卑弥呼は天皇家の人物ではなかった。蘇我氏と対立する王家の娘だったのです・
本来は、卑弥呼は誰がかわかっていた。そして、応神天皇のお母さんとしての神功皇后では
なく、また息長氏の人物でもなかった。
有名な神功皇后の三韓征伐の話も、もちろん史実を基に描かれている。
これ、魏志倭人伝の謎を解くのに重要な箇所です。
そう、卑弥呼である台与は魏の要請に応じ朝鮮に出兵していたのです。
ですので、この三韓とは、新羅、百済、高句麗ではなく、本来は馬韓、弁韓、辰韓の三国です。
魏は公孫氏に服属していた、これら朝鮮半島南部の国々を討つために倭に協力を求めたのです。
卑弥呼が朝貢した景初二年は、魏はこの公孫氏と戦乱中でした。

今回から、改めて、魏志倭人伝、、卑弥呼の謎を考えていきます。この魏志倭人伝、卑弥呼
の謎は古代史最大の謎ともされますが・・・。

実は、この神功皇后の謎にも、ふたりの聖徳太子が関わります。
神功皇后が息長氏の人物であるのは、天武天皇が皇祖とする祖父の押坂彦人大兄皇子のお母
さんが息長真手王の娘の広姫だからです。天武は、卑弥呼を、息長氏の人物としてえがいた
のです。そして、過去の歴史を改竄した、天皇記・国記は、蘇我馬子と、もうひとりの聖徳
太子こと推古天皇の息子の竹田皇子が編纂したものです。


まず、神功皇后は卑弥呼であり、この卑弥呼とは台与である。

ウイッキペディア・・・
『日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝
泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、晋書の倭の女王についての記述が引用さ
れている。このため、江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかし、
この年は西暦266年であり、卑弥呼は既に死去しており、この倭の女王は台与の可能性が
高いとされている・・・

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
     ******************************

これね、日本書紀は台与が卑弥呼だって言っている訳ですよ。勿論、そのとおりだと思う。
倭人伝の謎を解くのに重要な箇所です。卑弥呼が亡くなったのは、247年でも248年でもな
いということ。景初二年に朝貢し、親魏倭王の金印を授けられたのは、台与だということで
す。
では、どうして卑弥呼は魏に朝貢しにいったのでしょうか?
それは、魏から朝貢に来るように命令があったからです。魏は倭を見方に取り込み、いまだ
混乱のある朝鮮半島に出兵させようとしたのです。卑弥呼が親魏倭王として厚く遇せられた
のはこれが理由です。魏の軍旗である黄幢を授けて魏軍の傘下にいれようとしたのです。

この後の何回かの朝貢は、朝鮮半島出兵を断るためのものです。
卑弥呼は狗奴国との争いを理由に断りの朝貢をします。
しかし、魏は使者を送り魏の軍旗である黄幢を授け、出兵の催促にきます。張政を派遣した
のは朝鮮半島に出兵を促すためです。そう、このあと台与は九州にまで出向き朝鮮半島に出
兵したのです。その伝説がいまも九州北部に残っている神功皇后伝説です。

ここ、魏志倭人伝の謎を解くのに重要な箇所です。

卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時
殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與。
  ********************************

台与が共立された話を、朝貢の記事の後に持っていったので、混乱しているのです。
魏志倭人伝の問題の箇所のひとつです。
魏はいつ張政らを派遣したかの記述はありませんが、話の内容からしてすぐに遣わされたと
考えられるわけです。で、張政らがあったのは台与だったわけですよね。
だから、卑弥呼は正始8年の朝貢の後、つまり247年か248年頃に亡くなったとされるわ
けです。
すると、狗奴国との紛争中に、邪馬台国内での内乱が生じたわけですよね。にもかかわらず
巨大なお墓も造ったということですよね。
無理な話で、おかしいですよね。おかしいというのは誰でもわかるので問題箇所とされてい
るところです。

張政があったのは台与であるため、台与の共立の話を、朝貢の記事の後に、記述したため、
混乱している箇所です。詳しくは、また後に書き込みます。

魏志倭人伝の後、どうなったのでしょうか?魏が張政らを派遣したのは、朝鮮半島に出兵させ
るためです。その命令に応じ、卑弥呼・台与は朝鮮半島に出兵したのだと思います。
その伝説が伝えられている。

九州北部に伝えられる豊の国、いまも地名として伝わるこの豊とは、もちろん台与の国とい
うことです。卑弥呼の台与です。

そして、この台与を神功皇后として息長氏の人物として描いたのは天武天皇です。
本来は。応神天皇のお母さんではなく、垂仁天皇の皇子である、凡牟都和希王に繋げていた
のです。なぜなら、本来は、天皇記・国記において、継体天皇はこの凡牟都和希王から繋が
りがあるとして、主張・改竄して記述されていたからです。

そして、この神功皇后・・・
天武は、息長氏を継体天皇に繋げていた。それは、継体はこの垂仁天皇の皇子の凡牟都和希
王からつながると主張していたからです。
だから、凡牟都和希王のお母さんを神功皇后とし、彼女を息長氏の人物として描き、卑弥呼で
はないのだろうかとしたわけです。本来は物部系の王女なのです。

前回に記述しましたが、12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇は架空の天皇であり、
紀作成時に組み込まれたものです。

崇神天皇―垂仁天皇―景行天皇―成務天皇―仲哀天皇―応神天皇
崇神天皇―垂仁天皇―誉津別命

この三人(景行天皇・成務天皇・仲哀天皇)をとれば、垂仁天皇の皇子の位置にくるのは、
応神天皇でしょう。


日本書紀、神功皇后条、冒頭・・・
氣長足姬尊、稚日本根子彥大日々天皇之曾孫、氣長宿禰王之女也、母曰葛城高顙媛。
   *****************************

日本書紀、神功皇后条の冒頭の問題とされている箇所です。
神功皇后は、孝元天皇の子である開化天皇の曾孫とされています。
これは、12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇は架空の天皇を記紀編纂時に組み入れ
たのに、訂正し忘れている箇所です。帝紀・旧辞に記述されていた箇所です。
つまり、本来は、この垂仁天皇の皇子である、凡牟都和希王に繋げていたわけです。
前回に記述しましたが、この三人(景行天皇・成務天皇・仲哀天皇)をとれば、垂仁天皇の
皇子の位置にくるのは、応神天皇でしょう。

本来は正しい位置に卑弥呼をおいていたのです。

開化天皇―崇神天皇―垂仁天皇―景行天皇―成務天皇―仲哀天皇―応神天皇
開化天皇―崇神天皇―垂仁天皇―凡牟都和希王

おそらく、本来は、崇神天皇の皇女、豊鍬入姫命が、倭人伝の卑弥呼こと台与であり、凡牟
都和希王のお母さんとして描かれていたのように思うのですが・・・?
後に、息長氏の人物だとして改竄されたのです。

開化天皇の皇子である彦坐王と、息長水依比売との皇子が息長宿禰王であり、その娘が息長
帯比売命であるとし、凡牟都和希王のお母さんとしての神功皇后として描かれており。
彼女が卑弥呼だろうとしていたのです。

開化天皇―彦坐王と、息長水依比売―息長宿禰王―息長帯比売命(開化天皇の曾孫)

開化天皇―彦坐王と、息長水依比売―山代之大筒木真若王―迦邇米雷王―息長宿禰王―息長
帯比売命
(この二人(山代之大筒木真若王、迦邇米雷王)は、応神天皇に繋ぐために追加された人物
であり、記紀作成時に追加された架空の人物。

これ、記紀編纂時に加えられた人物たちだということ。加えたのに、訂正し忘れているのが、
日本書紀の神功皇后条の冒頭の記述。
開化天皇の曾孫なら、仲哀天皇の后になるのはおかしいわけです。男と女が逆ならありえな
いことでもないかしれませんが、2世代前の人物で、しかも女性ですよね。


彦坐王と、息長水依比売の子供が、息長宿禰王であり、その子供が神功皇后こと息長帯比売
命。

記紀以前、そう帝紀・旧辞においてはこう記述されていたのです。
開化天皇の曾孫なら、世代的には、凡牟都和希王と同世代ですが、女性ですので、凡牟都和
希王のお母さんであっても不思議ではないのです。でも、後付の、架空の人物なので関係な
いですが、本当は、崇神天皇の皇女であり、初代斎宮の豊鍬入姫命の位置に神功皇后をおい
て、彼女が卑弥呼(台与)なのでは?としていように思うのですが・・・?
だから、誰が卑弥呼(台与)なのかっていうのはわかっていたとは思うのですが?

つまり、天武が編纂しようとしていた「帝紀・旧辞」においては、垂仁天皇の皇子の凡牟都
和希王のお母さんが神功皇后とされていたのです。記紀編纂時に三世代増やしたのに、訂正し
忘れたために矛盾が生じた箇所です。


邪馬台国、卑弥呼こと台与は、物部氏の王女です。邪馬台国は後の物部氏です。
なぜなら、この物部氏は非常に広範囲に分布するからです。これはいうまでもなく広範囲の
勢力地を保持していたということにほかなりません。天皇家なんて存在しません。

物部系
開化天皇・伊香色謎命―崇神天皇―垂仁天皇―五十瓊大雀命敷入彦命―五百城入彦皇子―
品陀眞若王―菟道稚郎子皇子―仁徳天皇・大雀命―允恭天皇―雄略天皇




写真は、崇神天皇の皇女 とされる、豊鍬入姫命 が、天照大神を祭ったとされる檜原神社 です。
元伊勢 ともいわれます。倭の笠縫邑の有力な候補地とされます。この神社も大神神社と同様に、
三輪山をご神体とします。
私のお気に入りの場所でもあるのですが、是非訪れてください。ここからの景色は素晴らしいです。
それは、三輪山山麓の北西部の高台に位置するからです。この台地を降りた位置に纏向遺跡があります。

この場所に立てば、祭祀に関係する卑弥呼の宮がこの位置に造られるだろうと容易に想像できます。
巻向を見渡せる絶好の位置にあります。倭人伝の卑弥呼こと台与の宮です。
この巻向周辺は、三輪山への祭祀のための場所であり、中心地は纏向を見渡せる位置ににある、
この高台の場所です。

この、崇神天皇の皇女 とされる、豊鍬入姫命 が、倭人伝にでる台与のことであり、魏に朝貢したのは
卑弥呼の宗女とされるこの豊鍬入姫命です。
開化天皇妃とされる、伊香色謎命が初代の卑弥呼であり、倭人伝の、魏に朝貢した卑弥呼とは、この豊鍬入姫命です。
初代卑弥呼の宮は、いまの大神神社のある場所であり、台与の宮はこの檜原神社の場所なのではないでしょうか?
この豊鍬入姫命のお墓は、ホケノ山古墳とされますが、ここ改竄されていて、箸墓古墳が、倭人伝の台与の
お墓であり。ホケノ山古墳が初代卑弥呼のお墓です。ともにこの檜原神社の高台のそばに位置し纏向遺跡内の古墳です。

箸墓古墳の被葬者は、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命とされ、 ホケノ山古墳の被葬者は、崇神天皇の
皇女の豊鍬入姫命ともされます。古墳の築造時期の推定から考えれば逆であり、箸墓古墳の被葬者こそ、物部姫
であり倭人伝の台与こと豊鍬入姫命との伝説が変更されている。
一枚目の写真は、檜原神社そばの池からの三輪山です。二枚目の写真は箸墓古墳であり、高台に位置するために、
纏向周辺を見渡せます。また、六枚目の写真にあるように西側遠方には二上山が見え眺望が素晴らしいです。


















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魏志倭人伝の謎

2014年11月17日 | 魏志倭人伝の謎
倭人伝の謎もそーむつかしくないよ。しばらく書き込んでいなかった
のですがこれから解いていきますね。

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遠交近攻

2013年01月06日 | 魏志倭人伝の謎


正始8年248年に卑弥呼は、狗奴国との紛争を報告に行っていますよね。
定説では、これ魏に援助を求めに行ったと云われています。本当にそうでしょうか?

これ間違っていると思う・・・
これは、まったく逆ですよ。朝鮮半島に出兵しろとの魏からの命令に、狗奴國との争いが大
変で、もうこれ以上出兵できませんって言い訳しにいったわけ。
朝鮮半島での紛争の経過からしてもこうなる。

この時代、まだ戦乱時代ですよね。魏は倭国に軍隊を送る余裕なんてあったのでしょうか?
中国が軍事支援なんてするでしょうか?そんなことするわけない。

この時代は言うまでもなく魏、呉、蜀三国の戦乱時代です。
蜀は衰えてはいましたが、呉は健在です。呉は周辺の異民族と手を結ぼうとしました。
これが遠交近攻です。「遠きと交わり近きを攻める」です。

まず、呉は公孫淵と同盟を結び遼東で反乱がおきました。
魏は公孫氏を滅ぼして帯方郡を支配下にしましたが、次に反乱をおこしたのは朝鮮半島の
国々です。これらの国々は必ずしも服属したとはいえませんでした。
特に重大なのは、朝鮮半島の大国、高句麗の反乱です。高句麗は魏に朝貢していましたが、
水面下では呉と結んでいました。

この高句麗の反乱を抑えるために、魏は大軍を正始5年244年と正始6年245年に送らな
ければなりませんでした。
また同正始6年に嶺東へ遠征して東濊を討っています。帯方郡太守の弓遵はこの時戦死して
います。
この年です、黄幢を賜ることになったのは。この黄幢は軍旗。
つまり、魏軍傘下に組み込れようとしていたわけです。

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卑弥呼の刀

2012年11月25日 | 魏志倭人伝の謎


東大寺山古墳の副葬品である「中平」鉄刀は卑弥呼の刀。
東大寺山古墳は、石上神宮の神宝を管理したとされる、春日市河のお墓。

石上神宮の神様は刀剣ですよね。で、この東大寺山古墳の中平の紀年銘を持つ
鉄刀というのは、この石上神宮に祀られていた、布都御魂大神刀じゃないの?
もちろん、ここは想像でしかないですけど、この刀が卑弥呼の刀です。

石上神宮は卑弥呼が魏から賜った2つの剣を祭るために造られた神社。


崇神天皇七年に、物部の伊香色雄を神班物者(神に捧げ物を分つ役)に任じたとされてい
ます。祭祀をとりおこなったって言うことは、こんなの、わたしには、この人物が王だと
いっているようにしかかんがえられないんだけど・・・?彼が卑弥呼の男弟ですよ。
で、この年、石上布留の高庭に布都御魂大神を祀ったのがはじまりとされています。

日本書紀では、・・・垂仁天皇三十九年、イニシキ皇子が1000口の太刀を作って、忍坂
に所蔵した。後に忍坂邑からこの石上神宮に移した(これが仁徳時代?)。
この時、神が乞うて「春日臣の族で、名は市河に納めさせよ」といった。・・・・この市河
がいまの物部首の祖。
物部連が今に至るまで、石上の神宝を治めるのはこれが起源である。
神武天皇が、物部氏の宇摩志麻治尊にこの布都御魂の神剣を授けた・・・これらはウソだ
よ。はじめから物部の宝。だいたい、七支刀が物部の氏神にあるっていうのもおかしいん
じゃないの?

石上神宮旧記・・・
「素戔鳴尊 の蛇を斬りたまひし十握剣、名を天羽 々斬と曰す。・・・・・メンドイので省
略」

素盞嗚尊が大蛇を切った剣である十握剣が、仁徳天皇の時代に、吉備神部のもとからこ
こに移され、この時、物部首市川臣(布留連の祖)が神主となったとされます。
で、ここにはもともとあった、布都御魂の剣が祀られていて、あらたに素盞嗚尊の剣であ
る、布都斯魂大神の十握剣とともに石窟に納められ祀られているとされている。

つまり、ややこしいんだけど・・・布都御魂の剣と布都斯魂大神の剣の二つの剣が祀られ
てあったわけ。この2つの剣こそ卑弥呼の刀。
そのうちの1刀を春日市河が所持していて、亡くなった時に一緒に埋葬された。

で、明治7年に拝殿の奥の聖地が調べられた時に発見された剣は、ボロボロに錆びた鉄剣
1振りだけでした。2本なかったわけ。
この発見された剣は、おそらく布都斯魂大神の剣で、東大寺山古墳(たぶん春日市河のお
墓)の中平の紀年銘を持つ鉄刀が、布都御魂の剣じゃないの?


そう、・・・倭人伝にある、卑弥呼が魏から賜った「五尺刀二口」のうちのひとつ。
七支刀がそうであるように、宝物として祀られるからには、よほど重要な刀なわけでしょ
う?卑弥呼の時代に、国産の刀が宝物になるわけないだろうし・・・?
宝物とされる刀はそんなに数多くはない。
当然、倭人伝にある「五尺刀二口」は宝物とされるはずでしょう。

そんで、この中平の年号が刻まれた鉄刀が卑弥呼の刀でないと考えられる大きな理由は、
魏が後漢の年号の入った刀を倭に下賜するなんて考えづらいっていうとこですよね。
年代も異なるし・・・。でもこれ、今の感覚のような気もする・・・。

魏からは、倭人伝に記述されているように、この刀と同じ位のサイズの刀が下賜されたの
は事実。しかも2刀と数まで同じじゃないですか。

この時代、倭なんて絶域の蛮国の扱いだし・・・
帯方郡にあった公孫氏から奪った刀を、下賜品とした・・・とするよりも、・・・
ここ重要なんだけど・・・後漢と魏の首都はともに洛陽なわけですから(後漢から魏へと
国が変わっても宝物が廃棄されるわけでない)、洛陽の宝物庫に後漢時代の刀剣があって、
それを下賜品とした・・・っていう可能性は十分考えられるんじゃないの?
とーいうかーもうこんなのこうとしか考えられないじゃないですか。


石上神宮は卑弥呼が魏から賜った刀を奉るために造られた神宮です。
この石上神宮は、もちろん物部氏の氏寺であり、邪馬台国とは物部国です。
何故かって理由は簡単。この部族は広範囲にわたり分布されているからです。
もちろんこれは広範囲の勢力地であったということです。
この時代に天皇家っていうのが存在するのなら、この部族の支配地は
いったいどこなのでしょうか?どこにもないじゃないですか?
いまの「天皇」という感覚で考えてはなにも解決しない。


     





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豊の国

2011年10月01日 | 魏志倭人伝の謎


畿内から瀬戸内海を通り、九州に上陸すんときね、最短に位置するのが、ポッコリ丸く突
き出た国東半島ですよね。半島の上部の付け根のとこにあるのが宇佐神宮です。

豊国とは畿内の政権が九州全体を支配下に治めるために建てた国。いま、豊の国として云
われるほどには当時はそう広大なものではなかったでしょうけど、この地域を拠点として
九州を治めた。この豊とはもちろん台与のこと。

この九州豊国の王が、景行天皇とされる伊香色雄命の長男建膽心大祢命。
(屋主忍男武雄心命、タケイココロ。)子供が武内宿禰。
神武天皇というのはこの二人の武ちゃん。ヤマトタケルは武内宿禰。
なぜかってうと、蘇我氏はこの武内宿禰を始祖とするから。

倭人伝・・・
「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王」・・・

この倭王とは、九州豊国の王の建膽心大祢命。この後の倭王もそう九州の王。

邪馬台国は卑弥呼の弟の伊香色雄命王国。
大和、近江、山城、丹波など畿内一帯を治めたのが、崇神天皇、彦坐命として描かれている三男大新河命。
台与の時の畿内の王。
もちろん、伊香色雄命は本当の名ではない。

天孫本記はこの大新河命と、物部としての十千根命のふたつの系図をかたりますが、・・・
記紀が王とするのが、・・・
九州豊国の王の、長男の建膽心大祢命の後胤。


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ホケノ山古墳の画文帯神獣鏡

2011年09月19日 | 魏志倭人伝の謎


ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡は楽浪地域でつくられたもので、この鏡は中国国
内ではほとんど出土しない。
おそらく卑弥呼の鏡である三角縁神獣鏡も、魏の支配下となった後に楽浪地域でつくられ
たものだろうと推測できる。
畿内の政権は、景初二年の朝貢以前には、すでに楽浪郡を支配していた公孫氏と繋がりを
持っていたということ。

それと、九州からはこれら画文帯神獣鏡などの楽浪鏡の出土はほとんどない。
つまり卑弥呼の時代には、すでに畿内の政権が北部九州の国を支配下にいれていたとい
うこと。
畿内説の問題点に、畿内から九州におよぶ広大な地域をこの時代に治めることができたのか?
というのがありますが、おだやかな瀬戸内海の内海を航海できるので、畿内の政権が九州北部を
支配下に入れていたとしても問題ない。倭人伝の問題を考えるときは地形のわかる地図をみながら
考えると謎とける。
この大きな原因は、九州が南北で戦乱状態にあったということ。畿内の政権は北に加担し、北部
九州は畿内の政権の支配下になった。ゆるやかな連合体などではない。
南の勢力はもちろん狗奴国。この北部九州の国を女王国よよんだ。

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卑弥呼の墓はホケノ山古墳

2011年09月04日 | 魏志倭人伝の謎


もーーーー、ホケノ山古墳か、箸墓しかないんじゃないの?他ないでしょう?
そんで、・・・わたしもはじめは箸墓が卑弥呼の墓で、ホケノ山古墳が台与の墓だと思って
いました。
でも古墳に関しては余り詳しくわからないわたしでも、もうこれは、もー無理やないの?
って思うのだけど?どうなのでしょう?

それは、・・・このホケノ山古墳の内部が調査されたからです。
このホケノ山古墳は3世紀中葉の最古の前方後円墳であると発表されたわけでしょう?

倭人伝みるとね・・・
卑弥呼は正始8年(247年)に狗奴国との紛争を報告しているわけですよね。
それで、魏の使者の張政が来倭時には、もう亡くなっていたようですよね。
だから、卑弥呼は247年か248年に亡くなったとされているわけですよね。
まーこれ、よくいわれる説ですよね。

ところが、卑弥呼が亡くなってから、男王が立ったけどどうもうまくいかず、同じ王権
内で内紛があったわけでしょう。
それで、もちろん狗奴国との争いもあったわけでしょう。そんななかで卑弥呼の墓が作ら
れてわけですよね。で、魏の使者である張政がこの墓を実際に見ての「徑百餘歩」の記述
なら、たとえ造作中だとしても、それなりの大きさだったわけでしょう。

やっぱり、おかしいやないの?無理やないの?ここおかしいって誰もが思っているところ
でしょう?どうなのでしょう?

これは、二つの可能性がある・・・
一つは・・・景初二年(三年のあやまりでしょうけど・・・)に朝貢して金印もらった
倭の女王とは、すでに卑弥呼の台与だった可能性。。
つまり、倭人伝の最後の方に記述されているけど、卑弥呼が亡くなって後に争いがあって、
台与が共立されたのが、この朝貢以前の話なんじゃないの?
卑弥呼というのは役職名でしょう。台与も卑弥呼の名で朝貢したとすると間違う可能性あ
ると思うけど?
もう一つの可能性は、卑弥呼は景初三年か正始 元年になくなったという可能性。
つまり魏の使者が倭国を訪れて、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた年。
この倭王は卑弥呼ではないでしょう?
だとすると、ホケノ山古墳に卑弥呼の鏡である三角縁神獣鏡が埋葬されていなかったと
しても説明が付くでしょう。



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短里使用の可能性。

2011年06月07日 | 魏志倭人伝の謎


魏の使者が倭国にきたから、倭人伝の行程記述はこの使者のものだといわれていますが、
これは、ちがうでしょう。
短里は周の時代に使用されたともいわれてますよね。
で、秦の始皇帝によって度量衡の統一されたわけでしょう。つまりそれ以前は短里と長里が存在していた可能性があるということでしょう。

それで、あくまで可能性ですけど・・・

三国志魏書の辰韓伝・・・
辰韓在馬韓 之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。
有城柵。其言語不與馬韓同、名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴。相呼皆為徒、有 似
秦人、非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人。
今有名之為秦韓者。始有六國、稍分為十二國。

戦国時代から秦の始皇帝の戦乱期までには、多くの中国人が朝鮮半島に移住したと考えられるわけでしょう。辰韓伝でも、祖先の人々は秦の時代に労役から逃れてきたと記述されています。
つまり朝鮮半島の三韓の国々では、短里が使用され続けていた可能性があるのでは?


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「倭國者、古倭奴國也。倭國之極南界也。

2010年10月18日 | 魏志倭人伝の謎



何度もいっているとこですが、大きな平野に大きな国が出現するはずです。
北部九州の地形だったら、大陸との位置関係を考えても筑紫平野(佐賀平野も含む)
と福岡平野ですよね。
それで、倭人伝において、福岡平野の大国は奴国としたらですよ、筑紫平野は何国なの
でしょうか?
記述がないのが不思議なのですよ。九州説なら問題ないのですが・・・

つまり九州に「倭國」という国が存在したのでは。

「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」

この大国の倭国と奴国で、倭奴國。その他の小国も含めるので、倭國王帥升等になると
考えています。ですので生口も多いわけです。
もちろん金印も「倭奴國王」。多分この時(57年)には、すでに北部九州の国々は倭国
の勢力下に統一されていたのだと思うのですが?

倭人伝・・・女王國より以北~の国名だけの小国の情報は、おそらくこの57年の倭奴國の朝貢時のもの考えています。
「建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。」

北部九州の国だろうと考えられる、対海国、一大国、末盧国、奴国、不弥国の
副官は四カ国とも卑奴母離です。つまり同じ勢力下にあると考えられますよね。
(官名の記載ない末盧国はもとから倭国の支配下にあった国)

わたしは、もともとは官だけで、副なんてなかったのだと思います。
支配する側が、これらの国々の行政に介入する目的で設置した官だと思うのです。
奴国には卑奴母離がおかれているので、支配される側だと考えています。
それで、伊都国にはもちろん一大率ですよね。わたしは、軍隊だと思うんですよ。
この一大率は、主に大国の奴国に対するものだと考えています。

『北史』、『隋書』 倭国伝・・・
「安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國」

『旧唐書』倭国・日本国伝・・・
「倭國者、古倭奴國也。」(倭国とは、古の「倭奴国」なり)

この「倭國王帥升」の王の名前は“帥”で、升は尊称だと考えています。北部九州筑紫平
野にあった倭国の王。ですから帥升等で問題ないわけです。
七支刀の銘文にある「倭王旨」や、「倭の五王」といわれる漢字一字の王も、遣使の記録が、
記紀に見られないように、もしかすればこれらの王は九州倭國の王だという可能性が
あるのではないでしょうか?すべて畿内の政権からの朝貢じゃないような・・・?
好太王の碑文にあるように、この時期朝鮮半島に進出していたのは九州の倭国で、
畿内の政権ではないと考えています。

「倭」という文字は「ヤマト」とはよめません。これは畿内の王権が、中国や朝鮮の文献
にある九州の「倭」と畿内の「ヤマト」との呼称はもちろん事績を統一するために、倭を
ヤマトと読ませた。もともとは日本列島全体を指すものではなかった。

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短里は帯方郡の韓人の尺度

2010年10月18日 | 魏志倭人伝の謎


九州島内だろうと考えられる、不彌國までの行程記述で、問題視されているのは
ここですよね・・・
「東南陸行五百里、到伊都國」

で、末盧國が、唐津で、伊都國が前原だとすると、方角が違うし、地形から判断しても、
また、伊都国で滞在するのなら、ここまで船できたらいいわけですよね。
陸行とは考えられないわけですけど、陸行とされています。

そんで、筑紫平野の倭国と、福岡平野の奴国が対立していたら、倭国が、中国にむかう時、
北部九州西側の複雑な地形を考えると、当然、この末盧國から東南の佐賀平野に出る道
は存在していたようにわたしは思います。

で、この行程が魏の使者の報告によるものとしたら、梯儁と張政の二人の報告書
が、存在するわけですよね。

そんで、問題はこの・・・「郡使往來常所駐」だろうと思うのです。

つまり使者が来た時は、いつもここに滞在するというわけでしょう。
で、梯儁は倭国にいって倭王に会っています。
「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、・・・倭王因使
上表答謝恩詔」

するとね、一方(梯儁)が、伊都国に寄らず、末盧國から東南に貫けるこのルートを
佐賀平野まで、陸行していたとしても、間違っている?と判断するの可能性があるのでは?

それで、張政は、倭王にあっていませんよね。「黄幢」を難升米に渡しています。
おそらく伊都国から出ていないように考えています。

倭王に面会した梯儁は、末盧国に上陸してから東南に陸行して佐賀平野にはいり倭王の
宮にむかった。この「東南陸行五百里」までと「自郡至女王國萬二千餘里」は短里。
この短里ですが・・・
中国で使用例がない?もちろん倭では使われていないとすると、この短里は、おそらく
韓人の使用していた尺度という可能性があるのでは?

標準里では説明できない箇所・・・「始度一海、千餘里至對馬國」・・・など。
韓伝においても・・・「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。」
などがあるように思います。漢、魏尺の一里は、およそ435m、千里は435kmにも
なります。
もちろん、中国の文献に短里が使用されている例があるのなら、問題ないので
すが・・・。

伊都国のところに・・・・「郡使往來常所駐。」こう記述されています。
おそらく帯方郡からの使者は、彼ら魏の使者が来る以前から往来があった。
この使者は韓人。短里は韓人が使用していた尺度なのでは?
魏の使者は、帯方郡にあるこれら韓人が集めた倭国にたいする情報をとりこんで、
報告書として纏めた可能性があるのでは?

さらに、官名や戸数、方角も全て韓人が集めていた情報なのでは?
島の面積、(対馬國の方四百余里ばかり。一大國方三百里ばかり。)などや、
倭の地・・・周施五千余里ばかりなり。などは、魏の使者が訪れたときに計測したとは
到底思われない。戸数についても調べられるはずはない。
ですので、倭に関することに事前に調べてあった資料が帯方郡に存在したのでは?

魏が帯方郡をおいたときから、朝鮮半島の東南に位置する島(日本列島)の「倭」につい
ては調べられていたはずです。また魏から倭国へ使いを出すにあたっては、当然、帯方郡
に、倭国まで案内するように命令があったはずですし、随行して倭国まで案内したのは属
国でもある、海を挟んで九州島と近距離に位置する韓の国々の人々なのではないでしょう
か。

この時代、朝鮮半島南部の国々は大きく、馬韓、辰韓、弁韓の三韓に分けられて
いました。三韓の一つの弁韓国は鉄の産地であり倭との交流も多くあったようです。
当然これらの国々は、倭についての情報を多く持っていたはずです。帯方郡も彼らから
多くの倭についての情報を得ていたのでは?
この情報のうちの1つに、末盧國(唐津)から、・・・「東南陸行五百里、・・・」という行程情報が
存在していたように思うのですがどうでしょうか?





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夷人不知里數、但計以日

2010年04月13日 | 魏志倭人伝の謎


郡より女王國に至ること萬二千余里と記述されています。帯方郡から伊都国までの行程距
離を合計すると一万五百里とされています。すると残り千五百里あまりです。
魏志倭人伝の記載で考えると、九州から出ることはないですよね。
ですから陳寿の云うところの女王國は九州です。

でも陳寿は女王国と云っているわけで、邪馬台国とは記述されていません。
不彌國までの行程記述と、投馬國と邪馬台国との記述の仕方が異なりますよね。
記述から判断すると、残りの千五百里あまりを、「水行10日・陸行一月」もかけわけ
ないですから、この「女王国」は「邪馬台国」ではないということですよね?

つまり、魏の使者は畿内の邪馬台国までは行っていない。
それで、この邪馬台国までの行程記述の「水行10日・陸行一月」ですが、
こんなのどう考えたって、魏の使者の行程記述なんかじゃないでしょう?
魏の使者は畿内の邪馬台国までは行っていないでしょうに。むかったのは九州
倭国(女王国)の王都、佐賀平野。吉野ヶ里かな???

隋書倭国伝・・・「夷人不知里數、但計以日。」こう記述されているでしょう。
つまりこの邪馬台国までの行程記述「水行10日・陸行一月」は、こちらから朝貢
した時の情報。魏の使者のよる行程記述ではない。
卑弥呼に関する情報もこちらからの伝聞によるもの。
倭人伝・・・
其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王。名曰卑彌呼。
事鬼道能惑衆。年已長大、無夫壻。有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍。
唯有男子一人給飮食傳辭出入。居處宮室・樓觀・城柵嚴設、常有人持兵守衞。

卑彌呼以死。大作冢。徑百餘歩、徇葬者百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當
時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。

これらも、朝貢時や、秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとされた時の情報。
魏の使者による邪馬台国においての紀行文ではない。


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魏志倭人伝2

2009年10月15日 | 魏志倭人伝の謎


魏志倭人伝・・・三国志の著者の陳寿は、もちろん倭国には来ていない。当然地理も知らないと考えられるわけです。
ですからなんらかの文献・情報を参考にしてこの魏志倭人伝を書いただろうと想像できます。いまの時代のように簡単に情報を得ることはできません。ですから当然、間違いがあると考えられます。陳寿が間違っているんじゃないだろうか?と言うことについてはあまり議論されていないように思います。
よくいわれる文献至上主義というものです。私は、陳寿が勘違いしていると思うところは、“時間の経過と変化”についてことです。
倭国王帥升の国が、東進して、この時期にはすでに、北部九州から畿内に及ぶ連合体が存在していたと言うことです。
そして時間の経過とともに、政治的な中心地が畿内にある邪馬台国に移動している。この連合体の代表として、魏への朝貢は畿内の邪馬台国の卑弥呼がおこなっていますが、狗奴国と直接争ったのは、北部九州の倭国です。ですから魏の使者は九州の倭国に行っています。この倭国を女王国としたのが混乱の元です。
倭国といえばこの九州の倭国でもあり、連合体でもあるわけです。また女王国とは邪馬台国でもあり連合体のことでもあるわけです。ですから間違いではないのですが・・・。私たちは女王国というと、邪馬台国だと勘違いする訳です。

陳寿がおもに参照したと思われる文献は・・・
*後漢書の孝安帝紀東夷伝にある、倭国王帥升等が謁見を請うた時の情報。
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」

*正始元年に、太守弓遵、建中校尉梯儁等が倭国に行った時の報告書。
「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。」

*正始八年に、張政等が詔書・黄幢を難升米にわたした時の報告書。
「その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。」

*秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとされた時の情報などです。
倭人伝には、卑弥呼の墓は「径百余歩」とされています。大きな墓だと考えられ、築造には年数がかかったと想像できます。
卑弥呼没年は248年頃と考えられ、、魏の使者の張政等もその頃来たとされています。卑弥呼没後、混乱があったわけですから、この大きな墓がすぐに完成したとは考えらません。ですので、卑弥呼の墓等についての事は、この朝貢時の情報のように思います。
あるいは張政等が帰国した後、卑弥呼が亡くなり、その後台与が女王になった時に再び張政が遣わされたという説です。張政が2度来たという説です。これなら矛盾なく説明できますがどうなのでしょう?
これ以外にもあるかもしれませんが、私は主に正始元年の建中校尉梯儁等が倭国に行った時の報告書を基にしていると考えています。この時、倭国に行って倭王に会っていますが、伊都国から九州倭国の王都までの、距離や方角などの行程記述はありません。
伊都国近隣の、奴國や不彌國は、倭国(九州説の邪馬台国)までの行程途中にある国ではないように思います。
それで、この倭国の王都はどこなのでしょうか?、博多湾沿岸地域が奴国だとすると、有明海に面する九州最大平野、筑紫平野以外には考えられないと思いますが・・・。すると王都は吉野ヶ里なのでは?

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