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聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録決定・・・へ(^o^)丿

2019年05月21日 | 日本書紀の謎


大仙古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されるだろうということ
になりました。
しかし「仁徳天皇陵」として登録することに関しては賛成できない。
日本最大の巨大な古墳の被葬者が、誰かも定かでないということ自体本来は
おかしいわけです。
天皇家の先祖が祀られているとしますが、そうではありません。
いまの天皇家は古代の大王家とは関係ありません。

ここの被葬者が仁徳天皇なんて呼ばれていたわけありません。だいたいに「天皇」
なんてよばれていませんし被葬者も定かではない。
この地域で「大山古墳」(「大仙」ではなく「大山」、仙の字は最近のもの)と
呼ばれているのであるなら「大山古墳」でいいのではないのか?

日本一巨大ともされる大きなお墓の被葬者が誰かわからないということは本来ありえません。
謎なのは天皇家のお墓ではないからです。
皇統が2000年も続くというのは、残念ながら真実ではありません。
そう、これら巨大な古墳は古代の王家のお墓であり、今の天皇家のご先祖のお墓ではありません。
それどころか、敵対していた本来の王家のお墓です。
ですので被葬者が謎になっているのです。


「百舌鳥・古市古墳群」のなかの大きな古墳は、倭の五王とされる大王たちの時代の
お墓だろうと考えられますので、その築造時期から推測はできますが・・・。
今回は、この大山古墳と誉田御廟山古墳の被葬者の謎を考えてみます・・・しかしこんなの築造時期と
古墳の大きさからの推測しかできないのではないのか((+_+))


大きな古墳であるので大王のお墓であるのは間違いありませんが、天皇家のお墓ではない。権力を握った
蘇我氏や藤原氏により古代の古墳の被葬者は消されている。

考古学的におかしいとも指摘されているのに、頑なに宮内庁が、これら古墳の調査を行いわないのは、
調べると日本書紀の嘘がバレるからです。そう勘繰りたくもなる、日本書紀は偽書だということが
わかり信用できないということに繋がるからです。いまさら変更できないということでしょうか・・・。

特に重要なことは、古墳の被葬者の矛盾から古代の王たちは今の天皇家に繋がらないということが
わかりますから。物的証拠が出土する可能性があるからです。
記紀を基にした「万世一系」の主張にも影響がでるからです。

ですが被葬者が判明しないまま、そして異なるままで本当にいいのか?
古代の大王たちが泣いているよ。

古事記、日本書紀は歴史を変えるための改竄本である。
これら歴史書によって私たちはずっと騙され続けている。




古代の王家と対立してきたのは権力を握った蘇我氏と藤原氏である。
まず、古代のお墓の被葬者は蘇我馬子によって変更されています。
それは蘇我の歴史書ともいえる天皇記・国記においてである。古代の王家とは後の物部氏だからです。
物部に関係する王たちが、大きな古墳に眠ることを変更している。
そして藤原氏もこの蘇我氏によって変更されたものを基に改竄している。

蘇我氏、蘇我馬子はどう改竄したかは、天皇家系図をみれば簡単に解かりますから・・・(^o^)丿

それでは被葬者は誰なのでしょう?こんなの古墳内部の調査も出来ない。
参照する文献もいい加減なものでは、被葬者の特定に関してはもうどうしようもない((+_+))

ただ、中国の文献にある倭の五王とされる、大王達の時代であるのではと推測できるかな・・・?
内部を調べても名前が書いてるわけでもありませんが、周辺部だけの調査では正確な築造年代は
でてこないのですがおおよその時代はわかります。

推測するしかありません・・・以下はもちろん私の推測です。
これらの古墳は、倭の五王とされる大王たちの時代のお墓だろうと考えられます。
仁徳天皇もこの倭の五王の一人だと考えられています。

倭の五王の比定においては、倭王武という人物が雄略天皇だというのが有力な比定だとされます。

私はこの大山古墳は、倭王武こと雄略天皇(武烈天皇も同一人物)ワカタケル大王のお墓では
ないのか?・・・と思っています。

大山古墳は仁徳天皇陵とされます、仁徳天皇の時代以降の出土物もあるのに、築造時期の想定を
この仁徳天皇の時代に合わせているとようにも思うのですが・・・?
もう少しだけ遅い時期の築造であり、この倭王武の在世中に造られた寿陵であると思うのですが?
ともかく、この倭王武の古墳は大きなものでないとおかしい。


雄略天皇は、諱は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)です。
はつせの名から、そして稲荷山古墳出土鉄剣の銘文からの「斯鬼宮」から推測できますが、
この地域は古代からの中心部であり、物部系の大王です。

蘇我氏と関係する葛城氏を滅ぼしたのがこの雄略天皇とされます。
この物部、つまり本来の大王家と対立していたのは蘇我氏です。
雄略天皇の後胤と争っていたのは、蘇我氏、蘇我稲目である。

この倭王武は非常に重要な大王であること解かります。

ウイッキペディア・・・

478年には武が上表文を奉り、これに対して順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・
秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に叙すことを詔したとする

自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國
         ******************
倭王武が即位した時の上表文から、倭王武の時代には、朝鮮半島にまで影響をもたらしている
重要な王だとわかります。朝鮮半島の前方後円墳(5世紀後半から6世紀前半)もこの倭の五王の
時代のものと考えられています。
5世紀後半から6世紀前半の前方後円墳ということは、まさにこの倭王武の時代である。

任那に拠点を置き、朝鮮半島のこれらの国を支配下に置いていた、その事実を渡来人により消されている。
前方後円墳が造られるいうことは影響下にあったということです。
この任那、加耶といわれる地域に拠点に朝鮮半島南部を支配下に置いていたのは、邪馬台国、
台与の時代以降である。おそらく百済も支配下にあったと推測しています。
(ここは重要ですのでいづれ書きます(*^▽^*))


倭王武は非常に重要な大王ですが、何故か彼が眠る古墳は、その活躍に比さない小さな古墳です。
前方後円墳でもありません。これはありえません。

雄略天皇とされる大王の眠るお墓の治定が正しくない。これは意図的に変更されている。
そして、この変更された文献を基に治定されている。

ウイッキペディア・・・
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市島泉8丁目にある丹比高鷲原陵(たじひのたかわしの
はらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
遺跡名は「島泉丸山古墳(高鷲丸山古墳)」・「島泉平塚古墳(高鷲平塚古墳)」で、直径75メートルの円墳・
一辺50メートルの方墳の2基からなる(古墳2基を合わせて治定)。
   ************************
雄略天皇の陵墓は、丹比高鷲原陵に治定されていますが、記述のように古墳2基かなる小さな古墳で
前方後円墳ではありません。
間違っているだろうと誰もが思うわけで、「河内大塚山古墳」ではともされますが、この古墳も
築造時期に問題あるようです。

あまりにもおかしいので、近くの大きな前方後円墳の方ではないのか?というのもいい加減な治定である。
これ継体天皇陵に関しても同様で、治定されている古墳の築造時期が合わないので近くの古墳の方では
ないのか?とするのもよくない。

明らかにおかしいのは意図的に変更しているからです。つまり彼のお墓は巨大古墳だったからです。
本来の大王家、物部系の象徴的な偉大な大王だったからです。
万葉集においてもこの雄略天皇の歌から始まっています。
この冒頭の歌は雄略天皇が実際に詠ったものとは考えられていません。おそらく編纂したと考えられている
藤原氏と対立していた大伴氏、大伴家持の作った歌だと思うのですが、平安時代においてさえ重要な大王だと
思われていたのです。・・・この万葉集の謎に関してもいずれ書きます。

ウイッキペディア・・・延喜式
平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡
にあり、「兆域東西八町。南北八町。五烟。」と記述されている。
    ***********************
延喜式は平安時代のものであり、大王家と対立し滅ぼしたともいえる藤原氏もまた古代から繋がる
本来の王家の歴史を改竄している、蘇我馬子により改竄された天皇記・国記を基にして歴史を変更している。
これは蘇我馬子によって変更されたままの記述である。


「神武天皇と応神天皇の謎と倭の五王」ところで記述しましたがもう一度。

ウイッキペディア・・・
仁徳天皇・・・
日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、
この記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。

日本書紀
大鷦鷯天皇、譽田天皇之第四子也。母曰仲姬命、五百城入彥皇子之孫也。

   *****************************

これ、日本書紀によれば、五百城入彦皇子の孫は、仁徳天皇だということですよね。
そして、五百城入彦皇子の皇子は、品陀真若王ということです。皇子は彼しかいないですよね。
つまり、品陀眞若王の皇子が仁徳天皇ということですよね。


そして、この歌(これは大雀(仁徳天皇)が七支刀を佩刀している姿を歌ったものだとも言われますよね。
その通りのように思います。この歌も「品陀」としているわけです。

品陀(ほむた?ほむだ?ほんだ)ひの御子(みこ) 大雀(おおさざき) 大雀(おおさざき)佩(は)かせる
大刀(たち) 本(もと)つるぎ 末(すえ)ふゆふゆ木(き)のすからが下樹(したき)のさやさや

七支刀の銘文・・・
それで、七支刀の裏面の文字の問題の箇所
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

だから、この「倭王旨」の「旨」は「眞」の略字であって、品陀 眞 若王の皇子が仁徳天皇であり、
この「旨」は王の名前なのでは?

この七支刀は、大王だった品陀眞若王に贈られた刀であり、その刀を王子である 仁徳天皇が佩刀している。

ウイッキペディア・・・
*それ故に、倭王が百済王に賜われた「旨」を元にこの刀を「造」った。

*それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。

* そこで倭王の為に嘗(はじ)めて造った
   **************************
この七支刀の裏面の「故為倭王旨造」の解釈ですが、漢文の読みとしては「賜われた「旨」」と読むのはおかしい。
ですので、「倭王の為に嘗(はじ)めて造った 」と解釈していますがこれもなんか不自然。

だって記紀には、こんな文字「旨」を持つ天皇はいないですものね。でも記紀は倭の五王のことも無視して
いるわけですよね。倭王武も、「武」と一字ですよね。仁徳天皇の名で登録するのは良くない。

「故に「倭王旨」の為に造る。」と「旨」を倭王の名とする方が漢文の読みとしては自然ではないので
しょうか?この時代倭王の名を一字で表している。
「旨」は「眞」の略字であって、品陀 眞 若王が本来の大王である。

歌にも大雀のお父さんは 品陀としています。この品陀とは品陀眞若王のことであり、応神天皇ではない。
蘇我馬子による改竄個所である。

ウイッキペディア・・・七支刀
『日本書紀』によれば、神功皇后52年九月丙子の条に、百済の肖古王(生年未詳 - 214年)が日本の使者、
千熊長彦に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。
孫の枕流王(生年不詳 - 385年)も『日本書紀』の中に出てくる。
    **************************
この七支刀が神功皇后の時代に贈られたとされるのは、魏志倭人伝において卑弥呼が刀や鏡を
賜ったとの記述があったからです。

この時代において卑弥呼のことがわからなかったということはありえません。
これも意図的に変更されている。卑弥呼を神功皇后として、蘇我に関係する応神天皇のお母さんとして
変更し時代も魏志倭人伝にある邪馬台国の時代に変更したからです。
卑弥呼を蘇我氏に関係する人物に取り込んでいる。

神功皇后の伝承は倭人伝の卑弥呼(台与)の伝承を基にして描かれている。

ですので、銘文の冒頭の「泰■四年」の文字の解釈についても、時代的には東晋の「太和四年」(369年)と
する説がいいように思います。高句麗と対立していた、百済が倭国と同盟関係を結ぶために贈ったものである。

七支刀銘文
泰■四年十■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供供侯?王■■■■作

先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

もとはこの年、(東晋の「太和四年」(369年))に東晋で作られ、百済王にこの七支刀が下賜されていたのです。
(百済王がこの刀を作ったというような記述ですが、百済に独自の年号がなかったことからも百済で作られた
ものではないことがわかる。)
その七支刀を、同盟関係を結ぶために後に倭国に献上する時に、裏面の文字は刻字されたのです。
ですので実際に百済から倭国に献上されたのは、この「太和四年」(369年) より少し後、好太王碑に
ある399年頃のことである。
高句麗が百済に攻め入り窮地に追い込まれていた時です。百済は倭国に助けを求めたのです。


応神天皇は誉田別命なのですが、品陀和気命や誉津別命は別人だということと、応神天皇は架空の人物
だということです。
仁徳天皇に繋がる品陀真若王を、蘇我の王である応神天皇に変更したため、七支刀の裏面の解釈が謎になっている。

七支刀は、石上神宮に伝来していた鉄剣であるということからも、倭の五王とされる大王たちは
物部系の大王だということが容易に推測できます。


倭の五王・・・実際は倭の七王である。
葛城系・・・
武内宿禰―平群木菟宿禰―履中天皇「讃」・反正天皇「珍」

物部系・・・
品陀眞若王「倭王旨」―兄の菟道稚郎子皇子「贊」・弟の仁徳天皇「彌」―允恭天皇「済」―
安康天皇「興」―雄略天皇「武」

倭の五王・・・実際は倭の七王である。


 梁書・・・
晉安帝時、有倭王贊。贊死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。興死、立弟武。・・・

梁書が語るのは、この倭王「武」の、物部系の系図。宋書倭国伝が語るように、讃と珍とは兄弟ですが、
済とは兄弟ではないとし、さらに宋書倭国伝と梁書、どちらも間違って記述されていないとしたら、二系統になる。  
万世一系だとして考えるから矛盾する。

実際は倭の七王である。「讃」と「贊」、「珍」と「彌」は同一人物ではない。
記紀に倭の五王に関する記述がないのは物部系の大王たちであり、蘇我馬子が系譜を改竄したため矛盾する
ところがあるためです。 

この葛城系の王家を滅ぼしたのが、雄略天皇こと倭王武。蘇我氏はこの葛城系の葛城氏と関係する。
しかしこの権力争いは蘇我氏、蘇我稲目によって続けられている。 

 
「百舌鳥・古市古墳群」の大きな前方後円墳は倭のこの五王とその関係者の古墳だと推測するのが妥当ですよね。

この仁徳天皇こと倭王「彌」が巨大な古墳(大山古墳)の被葬者されるのは、蘇我馬子は蘇我氏を本来の王家に
繫ぐ時にこの仁徳天皇に繋げたからです。蘇我の人物として取り込んだからです。
ですがもちろん倭の五王の一人であり大きな古墳に埋葬されているはずです。

これ系図をみればわかります、もう何度も記述してきました応神天皇というのは架空の天皇で、
これ蘇我氏の王であり、神武天皇(武内宿禰は)と神功皇后(卑弥呼、卑弥呼も蘇我氏の人物として
取り込もうとしていた)の子供が応神天皇だと記述されていた。

この蘇我の王である応神天皇を本来の大王に繫いだ、この応神天皇の子供としたのが倭王「彌」
この仁徳天皇である。
このあと葛城系の王が即位したそれが「讃」と「珍」である。この葛城系の王を「彌」に繋げたのです。
履中天皇と反正天皇は仁徳天皇のこどもたちではない。この葛城系の王家を滅ぼしたのが雄略天皇である。

仁徳天皇の本来の皇子は倭王「済」こと允恭天皇である。
允恭天皇や雄略天皇(武烈天皇)が悪く書かれているんのはこれが理由。

葛城系の履中天皇「讃」の子供の市辺押磐皇子の皇子である仁賢、顕宗たちが即位した不思議な話は真実
ではありません。仁賢、顕宗は、本来は王に即位していません。

欽明天皇のお母さんは、この仁賢天皇の娘の手白香皇女です。簡単な改竄です。
仁賢、顕宗を王に即位していたとし、手白香皇女を継体天皇の皇后して、その王子である欽明の方が正統で
あるとしたのです。

欽明は継体の子供であるのですが、安閑、宣化 はそうではなく、本来の王家、この倭王武こと
雄略天皇の王子たちである。この雄略天皇の王子たちと争ったのが、蘇我氏である。

欽明天皇は蘇我稲目のふたりの娘を后としました。堅塩媛は推古のお母さんであり、稲目の時代から
物部と蘇我氏の争いは始まっています。

物部系の王たちは悪い王だったので、継体で王朝が変更したしたのです。
そして継体天皇を5世孫として蘇我の王である応神天皇に繋げたのです。

蘇我馬子は、仁賢、顕宗のお父さんであり、手白香皇女の祖父である市辺押磐皇子を、
葛城系の履中天皇に繋げている。

応神天皇ー仁徳天皇ー履中天皇ー市辺押磐皇子 ー仁賢天皇 ー手白香皇女

雄略天皇は悪く書かれているのは、葛城氏を滅ぼしたからです。
この葛城氏と蘇我氏は深い関係にあったとされます。

蘇我馬子により倭王武の眠るお墓は変更されている。

それとは逆に蘇我氏が関係する王のお墓を大きなお墓に変更している。それは彼らは本来の大王ではないからです。
推古のお父さんの欽明、そのお父さんの継体天皇は本来の王ではありません。
大王に即位したとして、そのお墓も大きなものに変更している。王家と対立していた藤原氏もまた、
蘇我馬子のよって変更していたそのままに変えていない。

どう変更したかはすでに「聖徳太子御陵、見瀬丸山古墳」において、 記述してきましたが・・・
この蘇我氏が関係する欽明天皇や継体天皇のお墓が解かり易い。
それはこの欽明天皇や継体天皇は蘇我氏の王だからです。
この欽明天皇から今の天皇家は繋がるとされます。蘇我馬子は蘇我氏を葛城系の王家に繫いだのです。

欽明天皇の梅山古墳の傍に吉備姫王(吉備島皇祖母命)のお墓があります。吉備姫王のお墓は、
この梅山古墳の陪塚とされます。当然、吉備姫王の夫である茅渟王のお墓であるのですが、
蘇我馬子によって変更されている。

押坂彦人大兄皇子、日十大王の子供である、この茅渟王は当然大王でした。
この茅渟王の子供が孝徳大王である。孝徳大王と対立していたのは、天智や藤原氏などの渡来人である。
ですので、蘇我馬子によって変更されたままの治定になっている。

蘇我の王であり、初代天皇ともいえる推古天皇、蘇我氏を古代の王家に繫ぐ操作をしている。
そして蘇我の王たちの方が正統な血を受け継ぐとの操作をしている。
推古のお父さんである欽明を対立する物部の大王より正統だと変更している。
そして、なんとお墓も変更している。大きなお墓はもちろん王のお墓であるからです。
王であることを消した人物が大きな古墳に眠っているのでは都合が悪いからです。
「大山古墳」の被葬者を変更したのは蘇我氏や藤原氏である。

倭王武は、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣、 江田船山古墳 の銀錯銘大刀の銘文から、
「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)は、雄略天皇だとされます。
九州から関東にまで及ぶ地域を勢力下にし朝鮮半島の国々まで影響力のあった大王であると推測できます。


雄略天皇(倭王武)憎しの蘇我馬子は、この倭王武のお墓を小さな古墳に、蘇我氏を王家に繫いだ
仁徳天皇を、この地域、百舌鳥古墳群 で一番大きな大山古墳に格上げしている。
本来は上石津ミサンザイ古墳が仁徳天皇こと「倭王彌」のお墓ではないのか?

もう一人悪く書かれている雄略天皇のお父さんである允恭天皇も、同様に格下げしている。
古市古墳群で最も大きな誉田御廟山古墳が、この倭王武のお父さんである、允恭天皇「倭王済」の
お墓であるとするのが私の推測です。

允恭天皇陵は恵我長野北陵に治定されていますが、築造想定時期とあわないために、古市古墳群の
津堂城山古墳が候補地になっています。
古代の大王の古墳の被葬者は変更されている。古墳の治定のため参照している今に残る文献が
いかにいい加減なものかわかります。

大王のお墓だとされる大きな古墳のほぼすべての治定に問題がある。


古墳の規模と築造時期を考えながらの治定が唯一の方法になってしまっている。
調査できないならこれ以外ないのですが・・・。




誉田御廟山古墳の被葬者とされる応神天皇は、蘇我の初代王ともいえる架空の人物である。
蘇我氏は武内宿禰を祖としますが、この武内宿禰こと神武天皇と神功皇后との子供が応神天皇だとして
蘇我氏の歴史書を作成した。
それが天皇記・国記である。この改竄された蘇我氏の歴史書を基に藤原氏も歴史を改竄している。

この時に蘇我馬子によって蘇我の関係する王たちを大きな古墳に変更している。
それは敵対していた本来の大王たちのお墓だったからです。

この応神天皇や継体天皇(応神天皇の五世孫)、継体天皇皇后手白香皇女 、欽明天皇などのお墓は
大きなものに変更されている。
蘇我氏を繫いだ仁徳天皇や葛城系の王である、履中天皇、欽明天皇、手白香皇女のお墓もまた
大きな古墳に変更している。

これが、蘇我家の系図である・・・
応神天皇ー仁徳天皇ー履中天皇ー市辺押磐皇子 ー仁賢天皇 ー手白香皇女

継体天皇の皇后はこの手白香皇女であり、皇子が欽明天皇、その娘が推古天皇である。
この欽明天皇が、今日まで長く続く皇室の祖となり、手白香皇女は皇統の危機を救い、男系ではないものの、
直系の血筋を後世に受け継がせた・・・とされます。
ですが、そうなるように蘇我馬子によって系譜が変更されたわけです。
蘇我氏の王たちの方が正統な血を引くと改竄しているわけです。
これが、蘇我馬子が編纂した天皇記・国記にある蘇我家、つまり天皇家の系譜である。

天皇家とは本来蘇我家である。本来の蘇我家のお墓は方墳であり、前方後円墳は天皇家のお墓ではない。

ウイッキペディア・・・
市辺押磐皇子
『播磨国風土記』に「市辺天皇」とあり、皇統譜には記載されていないが、実質的にあるいは実際に天皇に
即位していた可能性が指摘されている。
    ***************************
「市辺天皇」と呼ばれていたとされます。そして履中天皇の皇女、またはこの市辺押磐皇子の王女とされる
飯豊青皇女もまた、「飯豊天皇」とも呼ばれ天皇だったともされます。

そう天皇でいいのですよ、彼らは蘇我氏の王である天皇である。大王家と天皇家はことなる。
天皇とは蘇我の王の呼称である。
もちろんこれらは蘇我の歴史書である天皇記・国記編纂時に遡って付けられた呼称である。
つまり本来の初代天皇は推古天皇である。
そして本来の王家の系譜は、桓武天皇で断裂している。



「天皇記」・「国記」は620年に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされます。
この時代において、すでに天皇の呼称は使用されていますよね。
でも天皇の呼称が実際に使用されたのは天武天皇からだとされます。

じゃー何故に、蘇我馬子は620年の段階で「天皇記」と天皇の呼称を使用したのでしょうか?
おかしいですよね
万葉集では、天武天皇も、王子の高市皇子も大王と呼ばれているのに・・・。
ですので本来は「大王記」だったものを「天皇記」に後に変更したとされます。
まーぁ、こうとしか説明できないですものね。

この天皇記・国記の編纂時に大王だったのは推古ですよね。
ところが、隋からの使者が王に謁見して、男の王であり、「おおきみ」と呼ばれているとの記述ですよね。
ですので、推古の代わりに蘇我馬子が謁見したというトンデモ説がありますが、中国の使者に、
本来の王でないものが謁見するわけないでしょうに。

つまり、本来の王である大王(押坂彦人大兄大王)と、蘇我の王である天皇(推古天皇)が存在した
ということです。

蘇我氏と藤原氏による系譜改竄の謎のところで書きましたが、日本書紀にある蘇我馬子や、
推古天皇の歌にも矛盾する記述があります。

「天皇」の文字は「船氏王後墓誌」のが最古のものとされます。
この「船氏王後墓誌」において天皇の記述があることからも天皇とは蘇我の王のことだと判断できる。
この渡来人である船王後の墓誌は後の時代の追納された可能性があるとの指摘あるので、
なんともあやしいものですが、すでに「天皇」は存在していた。船王後が仕えたのは推古天皇である。
渡来人である船王後は、蘇我氏側の氏族である。

ですので蘇我馬子と聖徳太子が編纂した、歴史書は「天皇記」・「国記」でいいのですよ。
「天皇」は蘇我の王の呼称であり女帝の呼称でもあったのですが、それを天智は使用して
王家と対立したのです。
渡来人である天智天皇は天皇ですが、大王ではなく本来の王ではない。
天皇は王の呼称であり天智はその王に即位していたと改竄したのは桓武天皇である。
天武以前に既に、大王と天皇が存在したのです、初代天皇は推古天皇であり天皇とは蘇我の王の呼称である。
このときの大王は隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある日十大王こと、押坂彦人大兄大王である。

推古は天皇であり大王ではない。天皇は蘇我の王の呼称であるのですが、本来は女帝の呼称でもある。

蘇我馬子と聖徳太子(推古の息子の竹田皇子)が編纂した、この歴史書は大王家の歴史書ではなく、
蘇我家の歴書である。天皇の呼称は本来は蘇我の王の呼称である。


そして蘇我馬子は改竄した系譜において、蘇我氏が関係する人物を大きなお墓に変更している。

同様のことをしているのが、この「船氏王後墓誌」である。
私たちの感覚ではご先祖のお墓を変更するなんてありえないのだけど、これ渡来人だからで
しょうか・・・?大きな古墳に変更しようとしているように思う。
さすがに蘇我馬子が変更した、古市古墳群のお墓にはできないため、近辺のお墓を祖先のお墓に
しようとしている。

「船氏王後墓誌」においての記述は松岳山上に埋葬されたという記述です。その松岳山上というのは、
やはりこの松岳山古墳のことを指すように思います。ですが、もちろんこの「船氏王後墓誌」は
この松岳山古墳から出土したものではない。文献によって改竄している。


この松岳山古墳群は、古墳時代前期の古墳群です。ですのでありえないのですが、蘇我馬子の改竄を
真似たようにい思います。

「船氏王後墓誌」の銘文の謎はウイッキペディアの記述から謎解ける。

ウイッキペディア・・・
西琳寺は、7世紀前半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏により
創建されたとみられる

王辰爾・・・ 渡来系氏族である船氏の祖 欽明天皇14年(553年)勅命を受けた蘇我稲目によって
派遣され、船の賦(税)の記録を行った。この功績によって、王辰爾は船司に任ぜられるとともに、
船史姓を与えられた

鈴木靖民や加藤謙吉によると、『日本書紀』の王辰爾の伝承は船氏が西文氏の王仁の伝説をまねて
創作されたものだという。田中史夫は、王辰爾が中国系の王氏の姓を持っていることに着目しており、
鈴木靖民によると、実際は王辰爾の代に新しく渡来した中国南朝系百済人だという
   **************************
船王後は、この王辰爾の孫です。そして蘇我の王である欽明に仕え蘇我稲目によって派遣されたとされる
事からもわかりますが、王辰爾は蘇我氏側の人物である。
この「船氏王後墓誌」は、蘇我氏の歴史書である天皇記・国記を基にして書かれたものである。
船氏による自家の格上げ改竄墓誌である。

つまり蘇我氏と同様に、船氏はお墓を大きな古墳に変更しているということ。

ですので「天皇」の呼称を使用している。後においては蘇我氏は、秦氏とは対立するようになるのですが、
蘇我氏はこれら渡来人を勢力下にし台頭してきたのです。

ですので、「天皇記」でいいのです。「大王記」ではありません。

本来は新しく来た渡来人であろうとされますが、それがゆえに、本来は全く関係のないのですが、
大きなお墓を祖先のお墓としたかったのでしょうか?

この「船氏王後墓誌」は国宝だそうですが、こんなの国宝にしたらダメです。江戸時代に出土し、
西琳寺に所蔵されているとされますが、最初から西琳寺にあったものでしょうね。
蘇我馬子が巨大な古墳(誉田御廟山古墳)を、蘇我の王ともいえる応神天皇陵と変更したことと
同様のことをしている。改竄墓誌である。






以下は百舌鳥、古市古墳群の大きな古墳の被葬者の私の推測です。
おそらく物部系の大王のお墓・・・大きさと築造時期(これとて確かなことではない)からという
何とも根拠に乏しい想像ですが・・・雄略天皇のお墓が明らかにおかしく意図的に小さな古墳変更されている。
これは、つまり本来は、倭王武は大きな前方後円墳古墳に埋葬されていたからです。

品陀眞若王「倭王旨 仲ツ山古墳 」―兄の菟道稚郎子皇子「贊 墓山古墳」・
弟の仁徳天皇「彌 上石津ミサンザイ古墳」―允恭天皇「済 誉田御廟山古墳」―
安康天皇「興 土師ニサンザイ古墳 」―雄略天皇「武 大山古墳」

大山古墳も誉田御廟山古墳も、ともに倭王武の時代、つまり倭王武によってお父さんと自身の大きなお墓が
造られたものではないのかな?と推測するのですが?兄の興は即位して間もなく崩御のためそれほど大きな古墳ではない。

中国に朝貢した記録から在位期間が推測できます。
倭王武は477年に即位し、この年にに初めて朝貢、最期の朝貢の記録は502年であり、
おそらく崩御年は506年である。
この大山古墳は亡くなってから作られたものではなく、自身の権力を誇示するため在世中に造られた
寿陵であるとすると築造時期に問題はない。

古墳築造のためには大きな労力が必要なのですが、この倭の五王の時代には多くの渡来人が
倭国に渡って来ている。古墳が巨大になった一つの理由のように思います。
特に朝鮮南部や百済から渡来している。

応神天皇に時代、つまり倭王旨の時代に、秦氏や倭漢氏などの祖先たちが「百二十県の人民」や
「十七県のともがら」を率いてやってきたとの記述があります。この渡来人たちが古墳築造の労働力になっている。

百舌鳥古墳群の、地名の百舌鳥は本来は百済(もず)である。
この地名に関しては、渡来人由来の地名も多くあるので、地名から名付けることに関しては注意が必要です。
これでは百済に関係する古墳のような印象を受けてしまう。百舌鳥古墳群の名称についても賛成できない。

この渡来人たちを使って古墳築造の労働力にしたため、この地に多くの百済からの渡来人が居住していたのです。
百済村ということです。地名から名付けることに関しても慎重に考えなければいけません。

古墳築造の労働力にするために、百済から多くの人々を倭国に移住させたのです。
つまり、この時代百済は倭国の支配下にあったということです。

朝鮮南部の国々や、この百済が倭国の支配下にあった事実を、後に渡来人により改竄されている。

これら百済渡来人とは、後に対立するようになるのですが、渡来人を勢力下にし台頭してくるのが蘇我氏である。

宋書倭国伝に記載のある倭王武の上表文からも推測できますが、朝鮮半島の国々をも支配下にした
偉大な大王たちである。


ウイッキペディア・・・好太王碑

*399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の
救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
*400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、
これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

*404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

     ***********************

朝鮮半島の国々、高句麗、新羅、百済、任那・加羅、中でも、高句麗は特に大きな領土を持ち抜けた存在でした。
朝鮮半島はこの時代においても、この高句麗の南下政策により戦乱の中でした。この戦乱を逃れるために
多くの渡来人が海を渡って倭国に来たのです。そして倭国に協力を求めたのです。
広開土王碑にあるように、倭国は朝鮮に遠征し高句麗と戦ったのです。

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した・・・これが七支刀が贈られた時である。
碑文においては、倭の攻撃を受けていた新羅が救援を求めてきた・・・というような記述ですが、
これは高句麗側の視点?とも考えられ、高句麗が南下してきたために、倭国は朝鮮半島に遠征し
高句麗と戦ったのです。
もちろんこの時を好機と考え、朝鮮半島全体を支配下にするため、まず新羅を支配下において、
高句麗と戦ったとも考えられますが?

好太王碑はもちろん、高句麗側の碑文であるので、高句麗が倭国の軍を退却させたという記述ですが、
新羅、百済、任那・加羅が高句麗の勢力下にないことからも高句麗の南下を倭国が防いだということです。

この時の王は、七支刀にある倭王旨である。この後以降、倭王武の上表分にあるように 高句麗を除く
これらの国々、新羅、百済、任那・加羅は、倭国の勢力下にいたともいえます。
倭国と高句麗は、これら朝鮮半島南部の国々の支配権をめぐって争っていたのです。
これは、倭王武の上表分からも推測できます。

そして朝鮮半島に前方後円墳が造られたのです。前方後円墳が造られたということは倭国の影響下に
あったということ以外は考えられません。

朝鮮半島のこれら諸国から多くの人々を渡来させ、巨大な古墳を造る労働力にしたのです。

大山古墳の築造時期は寿陵であるとすると、倭王武のお墓として問題ない時期に造られている。
5世紀中頃以降の築造であるとされます。

これら巨大な大王墓が、奈良の盆地内ではなく河内の地に造られたのは、倭王たちによる
自身の権力を内外に誇示するためのものである。

ボストン美術館にある、大仙陵古墳からの出土品とされる銅鏡や環頭大刀は5世紀後半から
6世紀はじめ頃のものだとされます。
今想定されている築造時期より、もうすこし後の可能性もある。
大山古墳は、倭王武が即位したと思われる477年以降に造り始められたように思います。







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