聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

長岡京、平安京遷都と桓武天皇の謎

2018年11月19日 | 日本書紀の謎


桓武天皇は、平城京を離れ、784年に長岡京を造営し始めます、しかしわずか10年足らずの794年には平安京に遷都したとされます。しかし遷都なんてしていません。これは聖武天皇と同様に、この桓武天皇も秦氏、藤原氏が関係する秦氏の王であるのです。

「聖武天皇の謎」のところで書きましたが、同様に桓武天皇は天皇であり、遷都したというのは秦氏、藤原氏の主張に他ならない。桓武天皇は王ではない。その王ではない人物の都は本来の都ではない。
平城京(奈良京)には本来の正統な大王がいました。

この桓武天皇の時代には多くの怨霊が発生しました。系譜の改竄箇所を怨霊による祟りのという側面から考えてみます(^o^)丿

怨霊というとまず思い浮かぶのは、今は天神さんとして祀られている菅原道真ですよね。
この道真と対立していたのも藤原氏です。それは道真の母親が藤原氏と長年対立してきた大伴氏、伴真成の娘だからです。
桓武天皇の時代の多くの怨霊もまた、藤原氏の対抗勢力の人物たちである。この時代は藤原氏の間でも権力争いがあったようですが、怨霊の多くは王家に関わる人物である。

古代の歴史は何度か変更されている。蘇我氏や藤原氏は自らを王家に繫ぐ改竄をしている。
そして天智系天皇もまた系譜を改竄する必要がありました。それは天智は渡来人と関係し本来の王ではないからです。これら系譜の改竄とは、天智天皇を王家に繫ぐ改竄であり、王家の人物を天智の系譜に取り込む改竄である。

この天智系天皇とは桓武天皇である。天武系天皇が断裂し天智系天皇に移りました。
これが事実なら大問題である。桓武天皇は、お母さんが渡来人ということで問題視されることがありますが、天智天皇から繋がる父系に関しても問題がある。
本来の大王家である天武の後胤を暗殺し、大王家を滅ぼしたのは渡来人である天智と藤原である(~_~メ)凸

天武系天皇と天智系天皇の争いにより、天智系天皇が勝利したということになっていますが、そうではないように思います。
王家とは天武から繋がる天武系以外はありません。そして天武と天智は兄弟ではありません。天智と天武を兄弟にしたのは天智系天皇である桓武天皇です。天智を天武に繋げて自らの即位の正統性を述べる必要があったのです。

つまり天智系天皇なんて本当は存在しません。それは、天智が天皇に即位していたとされるのは、この桓武天皇による改竄だからです。
桓武天皇は自らの即位を正当化するため、歴史を変える必要があり新たに歴史書を作成しました。
この歴史書というのが「日本書紀」や「続日本紀」です。王家の系譜に秦氏、藤原の王を組み入れたのです。

この桓武天皇の大きな問題は、百済からの渡来人である秦氏と関係する天智系の人物であり、お母さんは百済からの渡来人である、高野 新笠ということは、古代の王家とは非常に繋がりが薄く、百済渡来人と深くつながる秦氏、藤原氏の王である。本来は王に即位できる身分ではなかったのです。

天智天皇が定めたとされる「不改常典」は、天智が作ったものではなく、この桓武天皇により作られ、続日本記に記述されたものである。これ、天智が定めたという記述がなされているのは、つまり天智の皇統の方が正統だと主張しているような法です。

桓武天皇が、この「不改常典」を作らなければならない理由は、天智は天皇ではなかったからです。天智が天皇に即位していなければ、この桓武は全く王になれる人物ではないのです。天智は天皇に即位していたとし、桓武は自身の皇位継承が正統なものだとする必要があったのです。


聖武天皇と同様に、この桓武天皇もまた秦氏、藤原氏側の王である。つまり、本来の大王は他にいる。
平安京は権力を握った藤原の都である。
「聖武天皇の謎」において述べてきましたが、聖武天皇が恭仁京や紫香楽宮に遷都したということと同様に、平安京の方が本来の都であるというのは藤原の主張に他ならない。この時代、奈良の都も存在していました。そして本来の大王もいました。しかし権力を握っていたのは王家ではなく秦氏、藤原氏であるのです。

桓武天皇の都である平安京は、三方を山に囲まれ四神相応の地とされますが、もとは秦氏が関わる土地である。
これはもちろん、天智天皇はこの秦氏と関わるからです。そして藤原氏もまた秦氏と関わります。ですので天智系天皇である桓武天皇は、本来の王家の都である奈良の都を離れ秦氏の支配地に移ったのです。大きな権力を持つ藤原の王は、平安京に遷都したのです。そしてこの平安京の方が本来の都であると改竄したのです。没落した本来の王家より、秦氏の王の方が優位に立ったわけです。


あまり言いたくはないところであるので詳しくは書いてきませんでしたが、朝鮮半島では新羅が統一し、百済復興はならなかったのですが、日本において百済の関係する王が誕生したということです。つまり平安京は日本における百済国であり、秦氏の都である。
これは、この桓武天皇の妃たちを見ればわかります。百済に関係する藤原氏の女性たちや、百済王の娘など多くの渡来人関係の女性で占められています。

そして、平安京側の天智天皇の大津京もまた百済国でした。もちろん大津に都を移していたというのも、この桓武天皇による改竄です。天智天皇は王ではありません。つまり大津京なんて存在しません。秦氏の支配地に移っただけです。
これはもちろん、白村江の戦いに敗れ奈良の都にいることが出来なくなったからです。天智は天皇であり、大津に遷都したというのはこの桓武天皇による改竄です。
大津京もまた渡来人である秦氏の都でもあり、近江地方は藤原氏が関係する土地である。

日本書紀にも記述があるように、朝鮮半島が戦乱の時期、特に百済滅亡時に多くの亡命渡来人が移り住んだのがこの近江地方です。そしてこの亡命渡来人が、百済復興の協力を求めたのが、すでに倭国内で地盤を築き、大きな勢力となっていた、もとは百済からの渡来人である秦氏です。天智天皇はこの秦氏の王子です。

壬申の乱のおいて、本来の王家、天武系の大王たちが王座を得ていました。この壬申の乱とは、大王家と百済渡来人の争いです。
しかし残念ながら最終的には、王座は渡来人である天智系天皇の手に落ちました。
最後に歴史を改竄したのは、この桓武天皇である。それは天智は天皇でく本来の王ではなかったからです。天智系天皇である桓武天皇は百済からの渡来人である秦氏の王である。


今回は天智系天皇である桓武天皇に繋がる、そして桓武天皇から繋がる系譜の改竄箇所を考えてみます。
秦氏の王である桓武天皇は、自身の即位の正統性を主張するため、天智を天皇に即位していたとする必要があったのです。そして本来の王家と繫げるため天智と天武を兄弟にしたのです。桓武天皇は本来の王ではない。王家の系譜を利用して桓武自信を系譜の中に組み入れている。


桓武天皇の時代には多くの怨霊が発生しました。系譜の改竄箇所を怨霊による祟りのという側面から考えてみます。

ウイッキペディア、御霊信仰・・・
政争や戦乱の頻発した古代期を通して、怨霊の存在はよりいっそう強力なものに考えられた。
怨霊とは、政争での失脚者や戦乱での敗北者の霊、つまり恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。怨霊は、その相手や敵などに災いをもたらす他、社会全体に対する災い(主に疫病の流行)をもたらす。古い例から見ていくと、藤原広嗣、井上内親王、他戸親王、早良親王などは亡霊になったとされる。
こうした亡霊を復位させたり、諡号・官位を贈り、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって「御霊」として霊は鎮護の神として平穏を与えるという考え方が平安期を通しておこった。これが御霊信仰である。最初の御霊会で、崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子、伊予親王の母)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂)、観察使(藤原仲成もしくは藤原広嗣) の六人が祭られた。
後に、井上皇后(井上内親王。光仁天皇の皇后)、他戸親王(光仁天皇の皇子)、火雷天神(下御霊神社では6つの霊の荒魂であると解釈している

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ここにある井上内親王、他戸親王、早良親王、伊予親王、藤原大夫人 、橘大夫は桓武天皇に関係する怨霊であり、藤原氏の対抗勢力だった人物たちです。しかしこの怨霊の中に藤原氏の人物がふくまれるのが桓武に関する謎を解く鍵になるように思います。
藤原氏間でも権力争いが起きたのです。

まず秦氏の王である桓武天皇の後胤が後につながるということについての改竄について・・・本来の大王たちを秦氏、藤原の王である桓武の子供たちだとしている。桓武天皇の系譜入れている、・・・というか桓武天皇を王家の系譜に組み入れている。

藤原氏や渡来人が多く関わる桓武天皇の后たち、なんかおかしいように思います。本来の大王の后を、桓武天皇の后として改竄している。藤原乙牟漏、酒人内親王、藤原旅子 、藤原吉子の系譜に関して・・・。


桓武天皇の皇后について・・・
桓武の后のひとりの酒人内親王に関してですが、お父さんの光仁天皇と皇后である井上内親王の娘であるこの酒人内親王は、桓武天皇とは異母兄妹ということになります。すると、本来は、天皇と皇后の娘であり王家の女性ということで、桓武の后の中では最も位が高く桓武天皇の皇后になるはずですよね?

ところが何故か藤原の娘、藤原乙牟漏が桓武の皇后になっています。この藤原乙牟漏は、お父さんは藤原式家の藤原良継であり、お母さんは阿倍粳蟲の娘の阿倍古美奈とされます。すると王家の娘ではなく、彼女が皇后になるのは本来はおかしいですよね。

これは、乙牟漏の子供たちが天皇に即位したからともいえますが、長男の安殿親王(平城天皇)が立太子される以前から皇后になっているのでやはりおかしい。この藤原乙牟漏に関しても問題ある。藤原宮子や光明子と同様に、藤原氏の力により本来は皇后になれない藤原の娘が皇后になっているともいうのでしょうか?本当に、後に続く天皇は、藤原の娘の子供達なのだろうか?

この奇妙な名を持つ乙牟漏の祖父の阿倍粳蟲は(本当はぬかむしなんて名じゃなかったと思います)、阿部氏、阿倍広庭かその子の阿倍嶋麻呂の子供ではないのかとされます。その娘が乙牟漏の母の阿倍古美奈です。

桓武の皇后である藤原乙牟漏は、藤原式家の藤原良継の娘であることからも判断できますが、この式家が藤原氏の中でも優位な立場にいて王家と関わっていました。そして式家の藤原種継のお母さんは秦氏の娘なのです。

これが真実なら藤原乙牟漏は、嵯峨天皇のお母さんであるのですが、平城天皇は、この藤原乙牟漏と桓武天皇の子供ではない。桓武天皇を王家の系譜に入れるための改変である。

もう、これまでに何度も記述してきましたが、阿倍広庭は孝徳大王の時に右大臣だった阿倍御主人の子です。阿部氏は藤原氏のライバルであり、娘が対立していた藤原氏に嫁ぐのはおかしい。お母さんは阿部氏の娘なのに、本当にに藤原氏の娘である藤原乙牟漏なのだろうか?藤原氏はこの阿部氏が関係する王もまたを消し去っている。それは長屋親王が阿部氏の関わる大王だからです。

つまり、この藤原乙牟漏のお母さんは、阿倍氏の女性である阿倍古美奈ではない。この平城天皇のお母さんである阿部の女性の名が消されている。あるいは、藤原乙牟漏は阿部乙牟漏だとすると、 阿倍古美奈は藤原良継の妻ではなく、この阿倍古美奈の夫の名が消されている。こちらの方が真実であるかな?藤原乙牟漏は、本来は阿部氏の関わる阿部乙牟漏である。

藤原乙牟漏であるなら桓武の后であり、皇子は嵯峨天皇である。阿部乙牟漏だとすると、皇子は平城天皇であるのですが、桓武の后ではない。これは平城天皇の王子である阿保親王の名からも推測できます。キトラ古墳のある阿部氏の領土ともいえる阿部山は元は阿保山だったといわれます。

万葉集 巻十 1867
阿保山の 桜の花は 今日もかも 散り乱ふらむ 見る人なしに
                          作者未詳
この万葉集にある、阿保山は通説では、奈良市法蓮東垣内町にある不退寺近くの丘陵なのではとされます。ですが、ここは阿保山なんて呼ばれていたということはないようです。おそらく間違っているように思うのですが?万葉集にある阿保山は、いまの阿部山のことであり、阿保親王の名の阿保はこの地名由来である・・・かな?


本来の大王である平城天皇は 、阿部氏の関わる王であり、桓武天皇は秦氏、藤原氏の王である。桓武天皇を王家の系譜に組み入れたため、王家の人物が桓武の後胤となっている。藤原の王である桓武天皇と藤原氏の後胤が後に繋がるとして系譜を改変している。この平城天皇と、淳和天皇のお父さんは誰なのかということに関しても消されている。

この消された本来の王家の大王とは誰なのか推測してみます。

そして、桓武天皇の夫人とされる二人の藤原の娘たち、藤原旅子と藤原吉子に関してもおかしい?藤原旅子のお母さんもまた、藤原氏、藤原百川の娘とされますがそうではないのでは?

この藤原旅子の系譜の改竄については、容易に推測できます。それは、息子であり、天皇に即位したとされる淳和天皇の諱が大伴だからです。つまり大伴氏が関係する名である。藤原旅子は大伴旅子であるはずです。系譜を改変しているのですが、名前を変更していない。

この大伴氏こそ藤原と対立していた古くから王家と関わる名門氏族である。

これも名前からの推測になります、・・・でも単純な推測ではない。
大伴旅人の息子であり、万葉集の編纂に関わったとされる大伴家持の娘が旅子であると思うのですが・・・?
そうでないと、息子の名が「大伴」だという説明がつかない。藤原の娘の子供が対立する大伴氏の名を付けるとは考えられない。
この大伴家持は、橘奈良麻呂の乱や氷上川継の乱へに関与した反藤原の人物である。大伴氏の娘だとすると、この大伴家持の娘としか考えられない。

この大伴家持は、後に起きる藤原種継暗殺事件において、既に亡くなっていたにも拘らず、本来の首謀者とされ官位を剥奪されています。それは、この大伴旅子は大伴家持の娘であり、早良親王の后であるからでもあります。この早良親王は大王に即位していました。消された大王とはこの早良大王である。この藤原種継暗殺事件とは、藤原氏と対立する大伴氏など反藤原の豪族との争いに王家、早良大王を巻き込む事件である。藤原旅子は大伴旅子であり、早良大王の后である。そしてこの事件は大伴家持を暗殺したために起きた事件でもある。

阿部氏と大伴氏の娘たちは対立する藤原の王である桓武天皇の后であるはずはない。桓武天皇の皇子たちとされる、後の平城天皇、そして淳和天皇は桓武天皇の子供たちではない。それはこの平城天皇、淳和天皇の後胤が後に続かないことからも推測できる。藤原の王である桓武天皇を、王家の系譜に組み入れるため、そして後の天皇を桓武の後胤とするための改変である。

さらに、藤原是公の娘とされる藤原吉子に関しても、息子の伊予親王とともに謀反の疑いをかけられ殺されていて怨霊となっています。伊予親王の子供たちもまた流罪となっています。藤原の王であるといえる桓武天皇が藤原の娘、そして自分の子供を殺すはずはない。藤原吉子も藤原ではなく、桓武の后ではない。

これも今までと同様に、藤原氏の対抗勢力である王家の人物なのでは?
彼らもまた怨霊となり上御霊神社や下御霊神社などに祀られ、この藤原吉子は藤原大夫人と尊称されるとされます。

この尊称はもちろん後に付けられたものであり、本当に、藤原の女性なのだろうか?この上御霊神社や下御霊神社など祀られていいる人々は、藤原氏に対抗して殺された人物ばかりである。その中に藤原の女性がいるのは奇妙に感じるのですが・・・?

桓武の后とされる、藤原旅子そして藤原吉子は藤原の娘ではなく、王家の女性である。しかも桓武の后ではない。皇后とされる藤原乙牟漏も阿部氏の娘、阿部乙牟漏であり早良大王の皇后である。藤原吉子に関しては、改竄の一番わかりやすい箇所です。殺害した王家の人物を自らの系譜に取り込んでいる。
怨霊となっているのは藤原氏と対立して殺された人物である。

酒人内親王も、同様に光仁天皇の娘ではなく、桓武の后ではない。酒人内親王は、お母さんの井上内親王や弟の他戸親王を殺したともいえる桓武天皇に嫁いでいるとされるのはおかしい。そして酒人内親王や、藤原旅子そして藤原吉子は藤原の娘でなく桓武の后でもない。

彼女たち、阿部乙牟漏、大伴旅子、藤原?吉子、酒人内親もまた本来の王家の后たち、怨霊と恐れられた早良大王の后だったのでは?王家の系譜の中に桓武天皇を組み入れている。





この桓武天皇の即位に関する謎、そして上御霊神社や下御霊神社などで御霊 として祀られている人々について・・・

781年に即位した桓武天皇は、3年後に長岡京に遷都したとされます。その10年後の794年に平安京に遷都しました。

どうして、桓武天皇は平城京を離れ、長岡京や平安京に都を移したのでしょうか?これは聖武天皇の不思議な遷都と同様です。平安京に都を移したというのは藤原氏の主張に他ならない。都は平城京のままであり、平城京には本来の王がいたのです。

天武天皇ー刑部親王ー山前王ー葦原王
天武天皇ー新田部親王ー塩焼王ー川継

この天武から繋がる、葦原王、氷上川継二人の人物が本来の王位継承者である。
氷上川継の乱
平城京には藤原氏と対立する本来の大王候補がいたのです。天武天皇の曾孫のである葦原王、やこの氷上川継である。
これまで同様に謀反の疑いをかけられ流罪となっています。氷上川継の乱とされます。

この氷上川継のお父さんは氷上塩焼王であり、お母さんの不破内親王は、聖武天皇と県犬養広刀自とされますが、そうではなくこの県犬養広刀自は阿部広刀自である。藤原氏と対立する阿部氏の女性であり、井上内親王の同母の妹になります。そして、阿部広刀自は聖武天皇の后ではなく鈴鹿王の妃であるのでは?


これまで何度も書いてきましたが、桓武天皇は本来の王家の人物ではない天智天皇の後胤であり、お母さんが渡来人であるということは、あたりまえだけど本来は王には即位できるはずもない身分です。

ところが、桓武天皇が即位に至るまでの経緯において、実に桓武に都合のよい事件が起きています。それが、光仁天皇の皇后である井上内親王による呪詛事件と早良親王が関係したとされる藤原種継暗殺事件です。

これらの事件については、もちろん桓武天皇、藤原側の主張であるわけです。

桓武天皇のお父さんである、白壁王こと光仁天皇は天智系天皇です。この光仁天皇の時に、天武系天皇から天智系天皇に王座は戻ったとされますが、そうではない。この光仁天皇は、本当に天皇に即位していたのでしょうか?天智は天皇に即位していた、そして王家の人物であるというのは桓武天皇による後の改竄です。天智天皇は秦氏の王子です。

お父さんの白壁王が天皇に即位していたということに関しても同様、天智系天皇である桓武による改竄です。つまり、桓武天皇は最初の天智系天皇である。桓武天皇は天皇に即位する正統性を述べるためには、天智が天皇に即位している必要があったのです。お父さんの光仁天皇も同様です。

桓武天皇以前の天智系天皇は、本来の王ではない。天智に繫ぐ系譜の改竄が桓武天皇によってなされている。

つまり、天智天皇以降、桓武天皇までの天智系天皇とされる天皇は、天智の後胤ではない。天智の血を大王家に入れる操作がなされている。

それでは、どのようにして天智の後胤として改竄したのでしょうか?それは天智の娘たちを王系に繫ぐ操作、そう天智の4人娘たちを本来の王家の王である天武の后にしたという不思議な話です。

本来の王家の人物を天智の後胤として改変している。最後に系譜を改竄したのは桓武天皇、藤原氏である。
この桓武天皇による系譜の改竄を推測してみます。

古事記、日本書紀は原本は存在しません。それは何度も書き換えているからです。今残っている日本書紀の写本はこの平安時代のものです。それは桓武天皇や藤原氏によって書き換えられたために以前のものとは内容が異なるためです。写本ではなく改竄本であるわけです。つまり偽書である。


山部親王(桓武天皇)が皇太子の座に就いたとされる、772年に起きた井上内親王の廃后と他戸親王廃太子という不思議な事件について・・・

光仁天皇の皇后は井上内親王とされます。本来はこの皇后の子である、他戸親王が、渡来人の母に持つ山部親王(桓武)より皇位継承においては上位です。しかし、夫である光仁天皇を何故か呪詛したとして皇后を廃され、子供の他戸親王もまた皇太子を廃され、山部親王が立太子されたということになっています。何の理由があって呪詛したかは不明です。別に呪詛なんかしなくても王位はこの他戸親王のはずですよね。

そして、この結果により本来は王に即位できないはずの渡来人の母に持つこの山部親王が天皇に即位したとされます。桓武天皇です。

桓武天皇にとっては全く都合の良い事件ばかりであり、不思議な話ですよね。こんなの私には信じられません。

いままで何度も何度も述べてきましたが、殺した人物が王家の人物であるとできないので系譜の改竄をしている。
それは真実を書けば大王殺しの大逆罪となるからです。

殺された井上内親王は、光仁天皇の皇后ではない。他戸親王は本来の王家、つまり天武から繋がる王位継承者である。だから殺されてのです。そして、井上内親王と他戸親王は怨霊となりました。

それでは、この他戸親王は本当は誰の子供だったのでしょうか?本当の王は誰だったのでしょうか?難しい推測ですが、推測はできます。なぜなら藤原氏によって天武系の王たちは何人も殺されているからです。

それは本来の王家である天武の後胤を何人も殺してきているからです。ですので残っている王位継承者はそう多くはないのです。
天武ー高市ー刑部ー長屋王ー鈴鹿王
刑部ー山前ー葦原王
長屋王の王子たち膳夫王、桑田王、葛木王、 鉤取王。、安宿王、 黄文王など沢山の王家の人物を殺害しています。
ですので弟の鈴鹿王が大王に即位していました。

井上内親王は、天武の次男である刑部大王の後胤であり、葦原王の皇后だったのではないのか?

これも名前からも推測できます。
他戸親王は、(おさべしんのう)です。で、・・・「おさべ」ではなく「おさかべ」だったのではないのか?
この他戸親王は刑部神として祀られていたのではないのかという伝説もあります。

天武の王子である、刑部親王の後胤ではないのか?つまり、刑部大王の王子である山前王の子供の葦原王と井上内親王と子供が他戸親王だったのでは?

他戸親王の母さんである、井上内親王は聖武天皇と、県犬養広刀自との娘とされます。この系譜もまた改竄されているように思います。
この広刀自は、藤原氏が関わる県犬養の娘とされますがそうではない。広刀自は阿倍広庭の娘、阿部広刀自である。
そして阿部広刀自は、本来の大王である長屋王の弟である鈴鹿王の后であるのでは?鈴鹿王は、聖武天皇時本来の大王だった人物です。

鈴鹿大王と阿部広刀自の娘が井上内親王である。王家の女性が、天智の後胤の白壁王(光仁天皇)の皇后であるわけない。

井上内親王と不破内親王は、長屋親王の弟である鈴鹿王と阿部広刀自の娘たちであり、王家の女性たちである。そしてこの井上内親王は、刑部大王の後胤の葦原王の妃である。つまり、他戸親王は本来の王家の人物である。

この天武天皇の曾孫である葦原王もまた続日本記などでは悪く書かれている。
悪く書かれているのは、つまり藤原と対立していた人物である。

葦原王は761年に種子島に配流(おそらく暗殺されている)となったとされます。この年に他戸親王が生まれたとされます。これが実にあやしい。他戸親王の生年はこの761年とされますが、お母さんの井上内親王の45歳の時の子供となり不自然だとされます。
つまり、本来は他戸親王の生年は761年以前であるのですが、葦原王の王子であるとしたくないために、配流したとされる761年まで生年を伸ばしている。そのために、この時代ではありえないような井上内親王の高齢出産となっている。系譜の改変により年齢など矛盾する箇所がでてきている。


井上内親王は鈴鹿王と、阿倍広庭の娘である阿部広刀自との娘であり、葦原王の妃である。彼女もまた藤原氏と対立する阿部氏が関わる女性である、その子供である他戸親王は本来の王家の人物でありこの時代の王位継承において筆頭である。だから殺している。
「白鳳-朱鳥-朱雀-大宝・・・九州年号の謎」のところで書きましたが、天武の息子であり、高市大王の弟である刑部皇子もまた大王に即位している。

天武ー高市大王ー刑部大王ー長屋王ー鈴鹿王、阿部広刀自ー葦原王、井上内親王ー長男が早良親王、次男が他戸親王

この早良親王は、奈良の都で大王に即位していたのではないのか?
桓武天皇の時代の消された本来の大王とはこの早良大王である。

藤原種継暗殺事件・・・
早良親王は桓武天皇の同母弟になります。後に追称され崇道天皇とされます。しかし、皇位継承の事実がないために歴代の天皇には数えられていません。でもそうなのだろうか?本当に大王ではなかったのか?

怨霊として最も恐れられたということは、長屋王と同様にこの早良親王も大王だったのではないだろうか?身分的に高い人物、そして藤原氏の敵対勢力、つまり本来の王家(天武系天皇)の人物、大王だったのでは?

この藤原種継暗殺事件も実に不思議な事件です。何故に実の弟が桓武の反対勢力側にいたと思われたのでしょうか?藤原種継を暗殺する理由なんて何もない。今までと同様の捏造事件です。

藤原種継暗殺事件というのも、藤原氏とこれに対立する勢力、つまりこれまでと同様に藤原氏と王家との争いではないのか?そして複雑になっているのはこの藤原氏間での権力争いが加わったからです。藤原不比等の4人の息子達が興した藤原氏の四つの家、藤原南家、北家、式家、京家が後に権力闘争をおこします。これは王家の誰を担ぐかによって争いは起きました。藤原種継は式家の人物であり、この時代は式家が優位な立場にあったと推測できます。そして秦氏と関りがあるのがこの式家の藤原種継である。

しかし後に藤原氏間で権力闘争が起きました。それはこの式家の祖とされる藤原広嗣が怨霊とされていることかも推測できます。

早良親王というのは、桓武天皇の同母弟ではなく、本来の王家の人物であり、皇位継承の最上位にありました。平城京(奈良京)にいた本来の大王とはこの早良親王である。

権力を握っていた、式家の藤原種継はこの早良大王を、いまだ反藤原勢力が多く残る奈良の都から離して本拠地近くの長岡京において藤原の操る王とするつもりでした。それは本来の大王だったからです。しかしこれは、反藤原の豪族との争いに発展し失敗することになります。これが、藤原種継暗殺事件の真相です。
その後藤原氏は、天智の後胤であり、藤原良継の娘の藤原?乙牟漏の夫である桓武を王にしたのです。この藤原種継のお母さんは秦氏、秦朝元の娘であり、天智も秦氏に関係する人物である。

桓武天皇は、藤原と秦氏の力により王になった秦氏、藤原氏の王ともいえます。
長岡京を造ろうとしていたのは式家の藤原種継です。桓武を担ぎ長岡京、平安京に遷都したのはこの藤原種継が秦氏と関わるからです。
そして山背国は、秦氏が切り開いた支配地だったからです。

ですので、この早良親王もまた光仁天皇の子供ではなく、葦原王と井上内親王との子供である。長男が早良親王、次男が他戸親王である。桓武を王家の系譜に入れる操作をして、桓武の弟としているのです。早良親王も他戸親王も正統な大王候補の人物である。

葦原王と子供の早良親王も大王に即位していました。この早良大王の都はもとの平城京(奈良京)でした。しかし、藤原氏は当初この早良大王を藤原の王として藤原側に取り込もうとしていました。それが長岡京です。奈良の都から大王を移したため、反藤原の豪族との争いがおこったのです。


早良親王は、殺されたのちに怨霊として祟り、祟り神として御霊神社に祀られています。何故に祟るのでしょうか?何故に祟ったのは早良親王だと思われたのでしょうか?桓武天皇は何故に実の弟を恐れたのでしょうか?そうそれは無実の罪で殺したからです。こんなの怨霊だと思って恐れるのは、自らが犯人だって言っているようなものです。犯人は権力を握っていた秦氏、藤原氏である。

もちろん早良親王は実の弟なんかではありませんし、桓武天皇は藤原氏の力で天皇に即位した秦氏の王である。長らく藤原氏に協力していたのは、この地で基盤を築いていた秦氏である。今の天皇家は、この秦氏の王であるといえます。

この藤原氏が対立していたのは本来の王家であり、早良親王はこの王家の人物であり実際に奈良の都で大王に即位していました。

怨霊となっているのは、藤原氏に対抗してきた人物であり、桓武天皇の兄弟、そして藤原の娘の人物ではない。

桓武天皇は、平安京に遷都する前には長岡京に遷都していました。しかし、短期間で長岡京を離れ、平安京に
遷都しました。早良親王の怨霊により長岡京を離れたとされます。

早良親王は、藤原種継暗殺事件に関与していたとされますが事実かどうかは不明とされます。これまでの手口、つまり長屋王や有間皇子の暗殺と同じです。つまり反乱を起こそうとした悪者としての話に書き換えられている。
実際は逆であり、この早良親王が王であり、王家と藤原氏の争いです。反乱を起こそうとしたのは藤原氏の方です。虚偽の事実によって反乱の筋書きを捏造しているのです。

つまり早良親王は、本来は桓武天皇の実弟ではなく、藤原氏の対抗勢力であった王家の人物だったのでは?この早良親王もまた怨霊となり桓武天皇を苦しめたとされ、追称して崇道天皇としたとされます。それは本来の大王だったからです。

早良親王、他戸親王そして井上内親王もまた怨霊として恐れられ祀られています。怨霊だと思われていたということは、彼らを無実の罪で殺したのは私たちだと言ってているようなものです。そして怨霊となるには身分の高いものが不幸な死に方をした場合に怨霊となるわけです。

この時代は藤原間でも争いがありました。対立の構図は、桓武天皇以降は権力を握った藤原氏間の争いに王家を巻き込むことになります。平安京と平城京の対立である。藤原の都には桓武天皇、そして平城京(奈良京)にも本来の大王がいたのです。
桓武天皇以降もまた、この争いが続きます。

平城天皇と、嵯峨天皇の争いです。つまりこの二人は兄弟ではありません。そうすると大問題なのですが、・・・。嵯峨天皇は桓武天皇の子供であるのですが、平城天皇は王家の人物である。

これは、この桓武天皇の後の不思議な皇位継承に関するところからも推測できます。桓武天皇の3人の息子で天皇に即位したのは、長男の安殿親王(平城天皇)。次男の神野親王(嵯峨天皇)、三男は大伴親王(淳和天皇)です。

しかし、長男の平城天皇には、阿保親王や高岳親王など4人の皇太子がいます。本来はこの阿保親王や高岳親王が平城天皇の次の天皇候補なわけですが、何故か桓武天皇以降は兄弟相続になっています。
本来はこれはおかしいわけです。
嵯峨天皇の血統だけこの後に繋がっているという、不思議な話からも分かるように、桓武天皇の息子はこの神野親王(嵯峨天皇)だけであり、安殿親王(平城天皇)、大伴親王(淳和天皇)は桓武の息子ではないのかも?そう推測できるように思うのですが・・・?どうなのだろう?

安殿親王(平城天皇)と大伴親王(淳和天皇)は本来の大王、早良大王と阿部乙牟漏、大伴旅子との子供たちである。
それじゃー、藤原乙牟漏が阿部乙牟漏であるなら、この神野親王(嵯峨天皇)のお母さんは誰なのでしょうか?おそらく彼女こそ藤原の娘であるはずです。すると候補は一人しかいない。桓武の后でもう一人夫人とされる、藤原小屎ではないのだろうか?長男が嵯峨天皇こと、この安殿親王であり、二歳違いの次男が万多親王であるのでは?

それは、この藤原小屎は藤原北家の藤原鷲取の娘だからです。嵯峨天皇の即位後、藤原北家の藤原冬嗣が台頭しはじめることからも推測できます。藤原による王家乗っ取りを隠蔽している(~_~メ)凸

そするとこの後起こった戦乱についても容易に説明できる。藤原氏間の権力争い、それが、薬子の変です。これは天皇家内の皇位継承の問題ではなく、藤原と本来の王家との争いです。そして複雑なのはこれに藤原氏間の権力争いも絡んできているからです。

藤原種継の長男である、藤原 仲成や妹である薬子は藤原式家の人物です。この薬子の変 (平城太上天皇の変)以降、式家は没落し北家は隆盛を極めます。そして彼らは怨霊となります。そして式家の祖である藤原広嗣もまた怨霊となり祀られることになります。それはこの式家の祖とされる藤原広嗣が怨霊とされていることかも推測できます。
藤原氏間の権力争いでは、この北家が勝利し、その後この北家嫡流が藤原氏の氏長者となり、最高職とされる摂政関白職も藤原北家が独占します。嵯峨天皇の後胤が後に繋がるということになるのも、藤原北家が関係するからです。それはこの嵯峨天皇のお母さんは藤原北家の藤原鷲取の娘、藤原小屎だからです。

桓武天皇は秦氏の王です。その桓武天皇と藤原の娘の後胤が後に繋がるということは、今の天皇家は古代から繋がるとされる本来の王家とはほぼ繋がりがありません。書きたくはないところですが仕方ありません(ノД`)・゜・。



平城天皇は発病し譲位したとされます。皇太子には平城天皇の三男である高岳親王が立てられました。平城上皇は旧都である平城京へ移るることになり、二所朝廷といわれる対立が起こるったとされます。

しかしそうではない、もともと平城天皇は奈良の都にいました。この奈良の都こそ本来の都であり、平安京に都が移ったとされるのは藤原氏の主張に他ならない。

平城天皇、そして 淳和天皇は、本来の王家の人物であり、嵯峨天皇から繋がるのが藤原の王である。藤原と王家の戦いにより、この嵯峨天皇の系譜が後に繋がることになります。嵯峨天皇は、息子の正良親王(仁明天皇)ではなく、弟の大伴親王に王位を譲ったの云うのは、桓武の系統を王家の系譜に組み入れているからです。
嵯峨天皇、息子の仁明天皇、その息子の文徳天皇に繋がるのが桓武天皇系の藤原氏の天皇である。

早良親王と、大伴旅子との子供が大伴親王こと淳和天皇であり、本来は、この淳和天皇の息子の、恒貞親王が本来の正統な後継者である。しかし、この後起こった承和の変 により、恒貞親王は皇太子の座を廃されたとされます。この事件も藤原と王家との争いであり、これに藤原氏間の権力争いが加わり複雑になります。橘氏、橘 逸勢が怨霊となったのもこの事件です。もちろんこの承和の変というのも捏造事件である。

古代から王家と関わってきたこの大伴氏もまたは、この後起こった応天門の変で没落していきます。
これも藤原にとっての大きな対抗勢力だった大伴氏追い落としの陰謀である。

次回に続きます・・・今回は前回から続き藤原宮子と有間皇子に関することを書くつもりが、桓武天皇から書き始めたため、長文になってしまいました。



写真は、ならまち、奈良市西紀寺町にある、早良親王を祀っている崇道天皇社。すぐそばにある井上神社。そして、井上内親王と早良親王、他戸親王を祀る奈良県五條市霊安寺町にある、御霊神社です。この地名の「五條」もまた条坊制のおける五条とは関係がなく、「御霊」からの転訛であろうと推測されています。

この地で、井上内親王と他戸親王は幽閉され亡くなったとされます。
これはもちろん暗殺されということに他ならない。
この暗殺された地に、早良親王も共に祀られていることからも推測できますが、早良親王もまた井上内親王の子供であり大王に即位していました。もともとは、井上内親王と他戸親王が祀られていたのですが、後に早良親王が暗殺された時に共に祀られるようになったのです。
本殿に井上内親王、そして子供たち、南脇社殿に他戸親王 、北脇社殿に早良親王が祀られています。

早良親王は、光仁天皇の第二皇子で、生母は百済帰化人系の高野新笠とされます。つまり山部親王、後に即位したとされる桓武天皇の同母兄弟ということになります。しかしそうではなく、大王である早良親王を桓武の系譜に取り込み改竄している。

お父さんの、白壁王は、なんと六十二歳で皇位に就き光仁天皇となりました。しかし、これも真実ではありません。桓武天皇は、自らの皇位継承の正統性を述べるために、お父さんの白壁王を光仁天皇として即位したと変更したのです。本来は天皇に即位なんてしていません。お父さんの白壁王もそして桓武自身も、本来は秦氏の王です。

早良親王は、十一歳で出家し僧侶となる道に進みます。大安寺や東大寺に住持し、父の白壁王の即位により、親王禅師と呼ばれたとされます。

桓武天皇即位後は、僧の身分から還俗し、皇太子となりました。僧だったので、后はなく子供もいなかったとされますがそうではない。
本来の大王である早良親王の後胤を消すために、僧だったとしているのです。僧だったとすると、早良親王に后がなく子供がいないという理由が説明できます。

桓武天皇は、后27人に、実に16人の皇子と19人の皇女があるとされますが、これは早良大王の后を桓武の后として取り込んでいるからです。
上記した藤原旅子、藤原吉子、酒人内親王の他にも、たとえば、夫人とされる多治比真宗も早良大王の后かな?これは、藤原種継暗殺事件において、多治比氏、多治比浜人が処罰されていることからも推測できる。多治比氏は大伴氏などとともに反藤原の豪族である。その多治比氏の娘が桓武天皇の后であるはずはない。
多治比真宗は、本来の大王である早良大王の后である。

長男である葛原親王は、桓武平氏の祖とされています。つまりこれは、この葛原親王の後胤が臣籍降下しているということであり、このことからも推測できるように思うのですが?

つまり、桓武平氏ではなく、本当は早良平氏である。本来の王家の血が繋がるのは天皇家ではなく、この平氏の方である。

同様に后の藤原河子もまた藤原氏の娘ではない。これもまた子供の名、紀内親王から推測できる。藤原河子は紀氏の娘、紀河子である。紀氏もまた、藤原種継暗殺事件に関しては反藤原氏の豪族であり、紀白麻呂が処罰されています。酒人内親王が河子の娘である、安勅内親王と交流があり養子にしようとしていたことからも推測できる。酒人内親王や紀河子はともに早良大王の后である。

本来の王家の早良親王の後胤を桓武の後胤として変更しているのです。桓武の後胤が後に続き、桓武は王家の人物だったと系譜を変えたからです。早良親王は光仁天皇の子供ではなく、葦原王と井上内親王との子供である。長男が早良親王、次男が他戸親王である。

本来の大王、そう、消された王とはこの早良親王である。聖武天皇と県犬養広刀自との娘が井上内親王とされますが、そうではなく、鈴鹿大王と、阿部広刀自の娘が井上内親王であり、刑部大王後胤の葦原王の后がこの井上内親王である。
長男が早良親王、次男が他戸親王であり共に王家の人物である。この系譜を改竄している。


それで、どうして短期間で長岡京から平安京に移ったのでしょうか?長岡京は何故に、この早良親王の怨霊の都として考えらえるようになったのか?

それは、もとはこの長岡京は藤原氏が王家を取り込むための都、そう早良大王の都であったからです。

藤原氏は権力を握りますが、奈良の都には、藤原氏に対抗する勢力がまだ存在していました。藤原氏は聖武天皇と同様にこの早良大王を、担いで藤原の王とするつもりでした。それは、もちろん本来の王家の人物、大王だったからです。

奈良の都を離れ、新たに長岡に都を造り、聖武天皇と同様に早良大王を藤原の操る大王にしようとしたのです。長岡京は、本拠地に近く地理的にも好条件でした。藤原氏は、この長岡に都をつくり、早良大王を奈良の都から移し新たな都としたのです。

これに、大伴氏など反藤原の豪族が反発し対立が起きたのです。
藤原種継暗殺事件というのは、藤原氏と、王家、大伴氏など反藤原の勢力との戦争でした。残念ながら藤原の勝利になり、反藤原側についた早良大王も暗殺されることになりました。結局、藤原氏は王家とは関係が薄い人物、山部親王を担ぐことになります。桓武天皇です。
つまり、桓武天皇が王に即位したのは、早良大王崩御後の、786年以降であるともいえます。早良大王は大王であり、桓武天皇は、本来は蘇我の王の呼称である「天皇」の呼称を使用して歴史を改竄している。本来の呼称は、もちろん「大王 おおきみ」です。

そして、怨霊の都として恐れられた長岡京を離れ、短期間で平安京に都を造ることになります。長岡京が、早良親王の怨霊の都として恐れられたということは、この長岡京はもとは早良親王の都であり、早良親王は大王に即位していたということ以外考えられません。

桓武天皇が遷都した平安京、この平安の地である山城は、秦氏が開拓した領地であり本拠地です。
桓武天皇は、藤原氏によって王座に据えられた秦氏の王です。

                         










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