聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

聖武天皇の謎

2018年05月12日 | 日本書紀の謎


「青丹よし寧楽の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」

この歌は大宰府に赴任した小野老朝臣が奈良の京を懐かしんで詠んだ歌とされ、
この当時の奈良の都の繁栄が想像できます。

しかし、奈良朝は、華やかで活気に満ちた貴族社会を想像しますが、
この時代は多くの政変、戦乱が起きました。
王家と藤原氏、そして藤原氏同士での権力争いがおきたのです。

今回は、この聖武天皇の謎についてです。藤原氏によって改竄されていた
真実の歴史・・・藤原氏は、高市王子や長屋王、その子供たちなど多くの
王家の人物を殺害し、王座を簒奪しました。

藤原氏は天下をとりました。権力を握るということは、それまで権力を保持して
いた勢力に対抗して倒したわけです。
その藤原氏の対抗勢力というのは、本来の王家ということです。

王家を滅ぼした憎き藤原氏、その悪逆をここに暴いてやる凸(~_~メ)

古事記、日本書紀、そして続日本記。もう千年以上も、藤原氏によって改竄された
歴史書によって騙され続けている。
我々は王家と対立していて、その王家の大王や王子たちを何人も殺害し王座を
簒奪しました・・・ってそんなこと書けないわけです。だからこれら書物によって歴史を
改竄していている。でも私は騙されないよ(^o^)丿


聖武天皇は、お母さんが藤原不比等の娘の宮子であり、皇后も不比等の
娘の光明子の ということもあり、藤原の天皇というべき人物です。
この聖武天皇も本来の王ではなかったのです。
聖武天皇が王だっとする主張は藤原氏のものである。
そして聖武天皇のお父さんである文武天皇も王ではありませんでした。

元明天皇や聖武天皇の立太子、即位を保証したという「不改常典」。
この天智天皇の「不改常典」というのは、天智朝に作られたものではなく、
続日本記の作成時に藤原氏によって
作られたものです。
本当に直系の子孫であれば、わざわざこういうものを持ち出す、あるいは
作る必要はありません。
つまり、聖武天皇は本来は王に即位するには少し遠い存在だったのです。
そう、聖武天皇は男系では繋がらず女系の王だったのです。

それは王位継承権を持つ天武の子孫が多く残っているからです。
天武から繋がるのが、本来の王家です。
聖武天皇は、王位継承において、本来の大王だった高市大王、長屋大王の王子たち
と比べると王位継承権の
順序おいては劣るのです。ですので、藤原氏は、彼らを抹殺する必要があったのです。

残念ながら勝ち残ったのは天智系天皇や藤原氏です。

天智系天皇は天武系天皇と同等にするために、系譜を改竄する必要があったのです。
天智と天武は兄弟ではありません。

藤原氏は、持統の孫の文部天皇に藤原宮子、その子の聖武天皇(首皇)に藤原光明子
を嫁がせ天皇の外戚となって権力を保持したとされます。
聖武天皇の後宮には藤原氏の関係者の女性で占められていて、聖武天皇は藤原氏の天皇
であり、傍系の天皇です。そして藤原氏に利用された人物であるともいえます。


この聖武天皇は多くの謎があります、何故か平城京を離れ何度か遷都を繰り返した
とされることが大きな謎とされます。
「朕、思うところによりしばらく関東に赴く」・・・およそ五年間、平城京から
離れ恭仁京、難波京、紫香楽京に遷都したとされ、謎の行動ともされます。

何故こういう不可解な行動をしたかについて考えてみます。
それは、もう何度も記述してきましたが、天皇は本来大王でなかったことに関係します。

つまり、遷都したというのは藤原の主張に他ならないとうことです。
遷都なんてしていません。都は奈良京のままでした。そして奈良宮には本来の大王が
いました。天皇は王だという主張も藤原氏のものです。本来は大王です。

聖武天皇は本来は王座に就ける人物ではなかったのです。その系譜を改竄して
歴史を変えたのが藤原氏です。王家と対立していたのは藤原氏です。歴史とは勝者の記録です。

これらの聖武天皇の遷都の謎も、高市皇子や長屋王は大王だったとすると、
謎でもなんでもない。
今まで記述してきましたが、天武の後、持統天皇が藤原京に遷都、その後、
元明天皇が平城京に遷都したということと同様で、聖武天皇の遷都の謎も藤原氏の
主張でしかない。本来は遷都なんかしていません。都は奈良京のままです。

一級資料といえる木簡から、「長屋親王」との記述がある木簡が発見されました。
親王とはお父さんか、兄弟が天皇(王)でないと付けられない呼称とされます。
つまり高市皇子は大王でした。長屋王も大王に即位していました。
この高市大王や、長屋大王と対立していたのは藤原氏です。しかし、藤原氏は
対立していていて死に追いやった長屋王を大王であるとできないために系譜を改竄して
、歴史書を作成したのです。
作成した大きな理由は王家と対立し、何人も王たちを殺してきたからです。

歴史書なんかよりこの木簡の方が史料価値があるわけです。記紀の記述と
矛盾することが、これら木簡や、また他の資料などからもうかがえる。
正史であるから間違いはないという姿勢ではとんでもないことになる。
藤原の時代の歴史書なんて信用できない。

聖武天皇は平城京を離れ遷都を繰り返したとされるのは、政権を握っていた
藤原四兄弟が亡くなり、藤原氏が弱体化したからに他ならないように思うのですが?

不比等の四人の息子たちは、それぞれ武智麻呂の南家、房前の北家、
宇合の式家、麻呂の京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となり藤原氏は隆盛を極めます。
しかし、737年の天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死することになり、
藤原氏は弱体化しふたたび王家との権力争いが勃発したのです。


今まで述べてきましたが、本来、奈良京は長屋王の都でした。
藤原の王ともいえる聖武天皇は、この奈良京を離れ難波京に宮を建設して移る予定でした。
難波京は都の場所としてはふさわしい場所です。

ところが、この難波宮が既に完成していただろう時期に何故か恭仁京や紫香楽京
などの周囲が山に囲まれていて平野部が少ないような場所に遷都することになります。
おかしいですよね。紫香楽京なんて山奥ですよ。
ここに大仏を造立するということなら解りますが、都の中心地となるような場所ではない。

そして、どちらも宮殿と思われる建物以外の施設は建設していないでしょう。
周辺には政治を行うための施設や貴族の住居などはなく、また奈良盆地からは遠く
離れているため政治を行えるような場所ではない。
どうしてこんな不便な場所に遷都したのでしょうか?

聖武天皇が遷都したわけではない、そして遷都なんかしていません。

奈良京(平城京)と比べてみてください。この時代にそんなところに遷都なんか
するはずはないでしょうに。
あきらかにおかしいでしょう。これら遷都したとする主張は藤原氏であり、遷都なんかではない。


唐の国家体制を目指したもの、壮大な国家体制・・・らしいそうですが、まったく
意味不明のトンデモ説です。もうずっと騙され続けている。
記紀や続日本記は藤原氏によって手を加えられた偽書です。


藤原四兄弟が亡くなり、再び王家と藤原氏との争いが勃発したのです。
それで、奈良京を離れただけです。聖武天皇が遷都したのではない。
簡単な話です。弱体化した藤原氏、聖武天皇は奈良の都を追い出されたのです。
恭仁京や紫香楽京などに遷都したとするのは、藤原氏の主張です。


ですので、長屋王の奈良京は、長屋王の変以降も存在しています。
そして大王も存在しています。聖武天皇は大王ではありません。遷都したとされるのは藤原氏の主張です。

長屋王や王子たちを死に追いやり、藤原の天下になっていたのですが、ふたたび本来の王家の人物が王に
即位したのです。
大王候補はまだいました。舎人親王や新田部親王、そして長屋王の実弟である鈴鹿王です。

本来の正統な王家の人物である高市大王の次男であり、長屋王の実弟である鈴鹿王が
この時代の大王です。
藤原系の王ではなく、本来の王家が再び権力を握ったのです。この鈴鹿王は、知太政官事
という最高職の地位にあったとされますが、長屋王没時、王位継承者である長屋王の王子たち、
そして舎人親王や新田部親王、多くの大王候補が殺されたために、彼が大王に即位していました。

もちろん続日本記には彼が大王に即位していたとは記述されていません。
聖武天皇が、恭仁京や紫香楽京に遷都したときに都の留守役だったとされますが、
もちろんそうではなく奈良京の大王でした。
残念ながら、この鈴鹿大王崩御(745年)後に、王座はふたたび藤原系の王のものになったのです。
つまり745年以降に藤原の時代になったともいえます。

聖武天皇は、この時に天皇、本来の王になったともいえます。745年に再び平城京に
遷都されとされますが、そうではなく、はじめて平城京に遷都されたのが745年です。
それまでは、長屋王とこの鈴鹿大王の都である奈良京でした。平城京は奈良京を造り変えたものです。


藤原四兄弟が亡くなり、藤原氏は弱体化し、対立は激化し聖武天皇は、不比等の娘である
光明皇后の異父兄弟にあたる橘諸兄の勢力地に逃げただけです。ですので、この橘諸兄の
本拠地である、恭仁京に遷都ということになったのです。聖武天皇が遷都したわけではないし、
本来の遷都ではない。

さらに、戦いが激化し奥地ともいえる紫香楽に避難していただけです。
聖武天皇が滞在していたからそこが宮であり遷都したという主張は藤原氏の主張である。

いままで、紫香楽宮跡地とされていたところは、甲賀寺の跡地だということになり、
北部にある宮町遺跡が有力とされています。
もうどちらでもいいですが、宮が完成していただろうと思われる難波宮を都とするという
のならわかりますが、こんな山奥に都を造るはずはありません。

難波宮に移る予定だったのが、大王である鈴鹿王が崩御し、元の奈良京に移ったのです、
その後この奈良京を平城京に造りかえている。
この745年というのが平城京遷都年です。この時、聖武天皇は王に即位したともいえます。

この橘諸兄は、母は橘三千代で、聖武天皇の皇后である光明子(光明皇后)は異父妹に
あたり、あきらかに藤原側の人物といえます。
それは、このお母さんの橘三千代こと県犬養 三千代は、元は敏達天皇の後裔の美努王に嫁ぎ、葛城王(後の橘諸兄)
を生み、その後、藤原不比等の妻となって光明子を生みました。


ウイッキベディア・・・藤原広嗣の乱
藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)は、奈良時代に起きた内乱。藤原広嗣が政権への不満から九州の
大宰府で挙兵したが、官軍によって鎮圧された。
   
天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで死去した。
代って政治を担ったのが橘諸兄であり、また唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、
藤原氏の勢力は大きく後退した。
天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、
大宰府に赴任した。広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。
        ****************************
737年、藤原四兄弟が亡くなり、藤原氏は弱体化しました。この後、代って政治を担ったのが
この橘諸兄とされますが、そうではありません。
高市大王や忍壁大王、そして長屋王の王子たちがまだ健在でした。
本来の王家の人物、長屋王の実弟である鈴鹿王が大王に即位していたのです。
聖武天皇が放浪している期間に留守役だったとされる、この鈴鹿王が本来の大王であり、
吉備真備や玄昉を重用し側近に置いたのは、この鈴鹿王です。奈良京は存在していました。

そして、藤原宇合の長男である藤原広嗣は、この橘諸兄に対して不満を持って反乱を
おこしたとされます。吉備真備や玄昉を除こうとしたとされます。これは通説ですが
間違っているように思います。

藤原広嗣と橘諸兄は対立していたとされます。たしかに藤原氏間でも権力争いはあったでしょうが、
藤原四兄弟が亡くなり弱体化しているときに、どうして藤原同士で争うのでしょうか?おかしいですよね?
矛盾するように思うのですが・・・?
この時期に藤原同士で争うのはおかしい。この乱に関しては違うように思うのですが?

そうではなく、藤原広嗣を、九州大宰府においやったのは、この大王である鈴鹿王です。
ですので、藤原広嗣は不満を持って反乱をおこしたのです。
奈良京にて大王に即位していたのは、この高市大王の王子であり長屋王の弟の鈴鹿王です。

そして、この乱の最中に、聖武天皇は突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め
平城京に戻らないまま恭仁京へ遷都を行うという謎の行動をすることになります。
ですが、これらの行動も謎でも何でもないですよね。わかりやすくいえば、藤原氏、
藤原広嗣が九州で反乱をおこしたため、争いが激化し、藤原の天皇である聖武天皇は危険を感じ
奈良京を離れたのです。
反乱は鎮圧されたため奈良京には戻れなくなってしまったのです。
つまり、藤原の王である聖武天皇は奈良の都から追い出された状態にあったともいえます。

しかし、藤原氏側の主張では、聖武天皇は王であり、王のいる場所は都であるので、
遷都したとしているわけです。

本来の大王である、高市大王の王子である鈴鹿王が本来の正統な王です。
天武大王ー高市大王ー忍壁大王ー 長屋大王ー鈴鹿大王

草壁、持統から繋がる、聖武天皇のお父さんである文武天皇は傍系の人物です。
それは、持統のお父さんである天智に問題があるのです。天智の出自に関しては、
渡来人の血が入っていて王になるのは遠い存在でした。
系譜を、大王ではなく天皇の呼称を用いて改竄したのです。

聖武天皇のお父さんである文武天皇は、天武と持統の王子である、草壁皇子と元明天皇との皇子です。
藤原氏が関わったのはこの聖武天皇です。
この聖武天皇のお父さんである文武天皇も、王ではありませんでした。
文武天皇が天皇だったという主張もまた藤原氏のものです。

天武の本来の皇后は額田王なのですが、持統を皇后として系譜を改竄したのです。
聖武天皇のお父さんの文武は王ではないのです。
さらに母さんが、王家の女性ではない藤原宮子(藤原不比等の娘ではないとの伝説も
語られています)であるため、本来は聖武天皇は、王に即位するのには遠い存在でした。

そのため、天武の皇后を持統にする必要があったのです。さらに持統のお父さんである、
天智の出自を変更し天皇に即位していたとする必要があったのです。
本来は皇后である額田王の王子、高市皇子が王位継承の筆頭であり、実際に大王として即位していました。
この高市大王の王子の長屋王もまた大王でした。しかし彼らと対立し殺害したため、彼らは大王だったとは
出来ないのです。

744年、聖武天皇の第二皇子である安積親王が急死することになります。
聖武天皇と光明皇后との間に産まれた基親王は既に亡くなっていて、藤原系の王は男王は
この安積親王だけです。暗殺されたともいわれます。

ですのでふたたび王家と藤原氏の対立が激化したのではないのだろうか?

そして、745年、高市皇子の王子であり、本来の大王である鈴鹿王の崩御します。
744年安積親王が急死し、翌年今度は鈴鹿王が亡くなる。どちらも殺害された可能性もあるのでは?

たしかに安積親王は、聖武天皇と県犬養広刀自との皇子であり、藤原の血が流れていません。
ですので、藤原氏による暗殺説がありまが、そうではなく、敵対する鈴鹿王側により暗殺された?
藤原氏はそう感じていたのではないのか?

それは、光明皇后は県犬養橘三千代の娘であり、橘 諸兄もまた県犬養橘三千代の息子であるからです。
県犬養氏は藤原側の氏族だからです。安積親王が殺害された?(少なくともそう思っていた)ため、
藤原氏、橘奈良麻呂は鈴鹿王を殺害したのではないのか?

この鈴鹿王の崩御後に、藤原の時代になったともいえます。
そしてこの後もまた、藤原氏は、長屋王変の時と同様にに次期王座に就くことが出来る、
将来のの藤原氏に敵対することになるであろう王家の人物を何人も殺害します。

ですが、藤原氏は本来の王家の大王や王子たちを、何人も殺害したとは書けないのです。
我々は王家と対立していて、その王家の王や王子たちを何人も殺害し王座を簒奪しましたとはできません。

その王家に対するクーデターが、この橘奈良麻呂の乱ではないのか?
この乱に関しても、長屋王の変・・・長屋王は国家を傾ける陰謀や謀反を企てたという嫌疑をかけらられ
死に追いやられたということと同様の、藤原氏による陰謀ではないのか?そう、橘奈良麻呂の乱ではなく、
橘奈良麻呂の変である。つまりクーデターです。


ウイッキベディア・・・橘 奈良麻呂
奈良麻呂は聖武天皇の唯一の皇子で自らの縁戚にあたる安積親王の擁立を目指していた。
しかし、天平16年(743年)安積親王が急逝してしまい聖武天皇の皇子がいなくなる状況下で、
翌天平17年(744年)9月に聖武天皇が行幸中の難波宮で病気に倒れると、
阿倍内親王を皇嗣と認めない奈良麻呂は事変の発生を予想し、多治比国人・多治比犢養・小野東人・佐伯全成ら
を勧誘して黄文王を皇嗣に擁立する動きを見せている。

     ****************************
長屋王は国家を傾ける陰謀や謀反を企てたという嫌疑をかけらられ死に追いやられたということと、
同様の藤原氏による陰謀ではないのか?

鈴鹿王の崩御はこの744年の9月です。橘奈良麻呂は、安積親王の急死をこの鈴鹿王の仕業と考えていた
のではないのか?
また聖武天皇が病気に倒れるということもあり、危機を感じ鈴鹿王を襲ったのではないのか?

橘諸兄は藤原の人物であり、息子である橘奈良麻呂も同様に藤原の人物です。聖武天皇をかくまっていた
ともいえるのがこの橘諸兄であり、聖武天皇側の人物です。
奈良麻呂は黄文王を皇嗣に擁立する動きを見せたことから、阿倍内親王を皇嗣と認めないとされます。
これも定説ですが、間違っているのでは?

それは、この時の王は聖武天皇ではなく鈴鹿王だからです。阿倍内親王を皇嗣と認めないということでの
擁立ではないのです。
それは何度も云っていますが、「天皇」と「大王」は異なるということです。阿倍内親王は天皇にはなれます
が大王にはなれないということです。「天皇」は本来女帝の名称です。

推古天皇 ー皇極天皇ー 袁智天皇 (遠智娘)ー斉明天皇ー持統天皇ー元明天皇 ー元正天皇ー 孝謙天皇(称徳天皇)

初代天皇は推古天皇です。そして、孝謙、称徳天皇以降は女帝の名称ではなく、王の名称に変わったのです。

光明皇后は藤原不比等と県犬養橘三千代との娘です。 そして橘諸兄もまた美努王と、お母さんが同じく
橘三千代(県犬養三千代)です。橘 諸兄にとって光明皇后は異父妹になります。
その聖武天皇と光明皇后との娘である阿倍内親王が王座に就くことを、橘 諸兄の息子である橘奈良麻呂が
反対するわけありません。また、安積親王は聖武天皇と、県犬養広刀自との皇子です。

橘奈良麻呂が対立していたのは、この時の大王である鈴鹿王です。つまり鈴鹿王はこの橘奈良麻呂によって
殺害されたのではないのか?

この後、つまり鈴鹿崩御後に藤原氏王の時代になります。つまり聖武天皇が王に即位したのは、745年であり、
この時初めて平城京に遷都したのです。この時に、藤原政権が確立したことになります。


しかしまだ藤原氏に対抗する勢力は残っていました。長屋王の王子たちもまだ健在でした。


ウイッキベディア・・・
橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は、奈良時代の政変。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、
天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。
    ********************
この奈良麻呂は橘諸兄の 子供です。そして藤原仲麻呂は、武智麻呂の次男です。
ですので藤原氏の本流です。この乱に関しても、どちらも藤原同士であり争うのはおかしいですよね。
よくある手口です無実の罪で殺せませんですからね。そして未遂に終わったとされるように、実際に乱なんか
おこっていませんよね。藤原氏の陰謀でありまたも無実の罪をきせようとしています。

藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てた・・・こう推測されていますが、そうではない。

橘奈良麻呂の乱とされますが、次の王座を争う王家と藤原氏の戦争でありここが改竄個所です。
王家を滅ぼしたとは書けないのです。橘奈良麻呂の乱ではなく、これもまた「藤原の変」で
ありクーデターです。

この橘奈良麻呂の乱は作り話です。藤原氏と王家の次期王座をめぐる争いです。
本来反乱を起こしたのは藤原氏であり、争いのきっかけ作りの反乱計画であり改竄個所で
はないのだろうか?

反乱を起こそうとしたというのは、藤原氏の言いがかりです。解かり易い例は長屋王の変、
有馬皇子の謀反計画ですかね。
長屋王の変は、多くの学者先生が語るように藤原氏の陰謀ですが、この橘奈良麻呂の乱に関して同じことが
いえるのではないのか?

そう感じるのは、この争いによって藤原氏に対抗する勢力は一掃されている。
橘奈良麻呂の乱を、謀反とか反乱とか言っているのは藤原氏の主張です。実際に反乱なんておきていません。
それは、王家の人物を何の理由もなく処罰し殺害できないからです。

それが証拠に首謀者とされる橘奈良麻呂は、結局どう処分されたかは不明です。
反乱の首謀者である橘奈良麻呂が何ら処罰されていないということはありえません。
藤原氏の人物である、藤原南家の右大臣・藤原豊成や息子の乙縄も事件に関係したとして、
大宰員外帥に左遷されとされますが・・・のちに復権しています?

結果だけ見ると、これによって藤原氏に対抗する勢力は一掃されている。ですので、
橘奈良麻呂の乱というのも
藤原氏の陰謀にしか思えないのですが?・・どうなのでしょうか?

藤原氏と対立していたのは、処分されたとされる多治比氏 、大伴氏 、佐伯氏 、賀茂氏 、小野氏 などである。

これ結局は天武から繋がる次期大王候補である本来の王家の人物を殺している。これで藤原は権力、王座を乗っ
取ったわけです。

長屋王の変に関してもは、長屋王だけではなく、将来の藤原のライバルになるであろう、王子たちを亡き者に
する目的もあったわけです。
この橘奈良麻呂の乱というのも同様である。実際に乱は実行されてはなく、藤原氏の言いがかりです。

この長屋王の変で、長屋王と吉備内親王の王子たち、膳夫王、桑田王、葛木王、 鉤取王が藤原氏によって
殺されている。

しかしこの時、長屋王の王子たちでも、お母さんが藤原不比等の娘(藤原長娥子)である、安宿王、 黄文王、
山背王は生き残りました。
ところが、この橘奈良麻呂の乱においては、罪を問われ安宿王は流罪、そして黄文王は獄死したとされます。
長屋王と藤原不比等の娘の子供たちということは、本来の大王と藤原氏の子供たちともいえます。
藤原氏にとっては、望んでいた王家と繋がりを持つ重要な王子たちのはずです。

それが、どうして藤原仲麻呂は彼らを殺害するということになるのでしょうか?私は非常に不思議に思うのですが?
系譜が改竄されているように思うのですが・・・実は聖徳太子に関係します。

この聖武天皇の謎は次回に続きます・・・




写真は紫香楽宮跡そして恭仁京跡です。今年は桜の開花が早かったですよね。いつもは奈良までお花見に
行くのですか、今回は奈良から滋賀県の甲賀市にある鮎河の千本桜を見に行きました。
和歌山から奈良、そして滋賀に向かいましたので、
途中、恭仁京跡、山代国分寺跡、そして紫香楽宮跡によりました。
今では車で向かえばそう時間がかかりませんが、
写真でもわかりますがこの紫香楽宮は、かなりの山奥ですよ。

こんな山間部が都になるわけありません。平城宮からはあまりにも遠く、不便であり政治を
行える場所ではありません。政治を行うにはそれなりの施設が必要です。

聖武天皇が滞在したから都だとするのは藤原氏の主張でしかありません。
聖武天皇は大王ではありません。また天皇でもなかったと思います。
藤原氏はこの傍系の人物を利用したともいえます。それは藤原光明子の夫だからです。

藤原広嗣が九州において兵を上げ反乱をおこしました。聖武天皇と光明皇后は
奈良京を離れ皇后である光明皇后の異父兄にあたる 、橘諸兄の本拠地に避難したのです。
おそらく、紫香楽には大仏を造立しようとしていたのだと思います。
戦乱が続く中、仏教に救いを求めたのでしょうか?
この聖武天皇は、後に、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位することになります。
それは、聖武天皇自身は藤原の血が流れていないからでもあります。

聖武天皇は崩御の際、何故か新田部親王の子の 道祖王を孝謙天皇の皇太子に立てる
ことを遺言に残しました。どうしてなのだろう?

次回は聖徳太子も関わるであろう、聖武天皇の系譜の謎を考えてみたいと思います。



                          

    



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする