聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

法隆寺七不思議の謎と怨霊封じ

2022年01月18日 | 聖徳太子の謎


法隆寺は七つの不思議があるといわれます。でも、もっと沢山の謎がある寺院です。創建はいつなのか?再建されているのか?という基本的なことに関しても大きな謎になっています。謎だらけの寺院です。
これは藤原氏によって由緒が変更され、怨霊封じのお寺になっているからです。

怨霊といえば誰でしょう?そう真っ先に思い浮かぶのは、藤原四兄弟を死に追いやった長屋大王ですよね。
どうして法隆寺に怨霊封じが行われたかといいうと、それは長屋大王が関係するのです。
 
この怨霊封じに関しては梅原猛氏による『隠された十字架』によって有名になりました。私も影響を受けた一人です。


今回は、多くの謎があるとされる法隆寺の七不思議と、怨霊封じに関わる西院伽藍の中門の謎解きをします(*^▽^*)

梅原猛氏は、西院伽藍の中門が、建築上においてもありえない、4間で中央に柱が立っているという不思議な構造から、法隆寺は子孫(山背大兄王ら上宮王家)を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるための寺なのではないかとの説を主張しました。

しかし怨霊信仰の成立が、奈良時代末期であることで批判を受けているようですが、・・・怨霊封じが行われているのは間違いありません。


本来は、法隆寺は天武大王の発願により、祖先を祀るために建立し始めた寺院です。
しかし長屋大王が藤原氏に祟った後に、怨霊封じの寺院となっている。西院伽藍の中門も祟った後に造り変えられている。怨霊が外に出ないようにと造り変えられている。ですので、怨霊信仰の成立の時期に関しても問題ない。


何度も記述しているところですが、この系譜が変更されている。だから謎になっているのです。
聖徳太子は、大怨霊である長屋大王に繋がるといことが分かれば謎解きは難しいものではない。以下の系譜においては、天武以外王座には就いていないとされますが、そうではない。
彼らは全員本来の大王です。これは、長屋王家とされる場所から出土した木簡、そして万葉集などからも明らかです。

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

法隆寺は天武大王によって造り始められ、王子である高市大王、その王子である長屋大王が受け継ぎ建立した寺院である。

法隆寺は長屋大王が関係することになります。長屋大王は本来の大王であり、在位期間に建立された寺院であるのです。創建の由緒が不明の理由です

本来の大王、大王家と対立していたのは渡来人である、秦氏や藤原氏である。
渡来人秦氏の王子である天智と、本来の大王である天武は兄弟ではない。
天智系天皇である桓武天皇の時代に、歴史は改竄されている。
長屋王が本来の大王であること、そしてその事跡が消されている。



まず、法隆寺七不思議がよく知られていますが、・・・でも創建の謎や、再建されているのかという問題の方が大きな謎ですよね。

隠された十字架から・・
よく知られているのは、この七つの不思議です。これらは古い言い伝えではなく江戸時代のものといわれます。

「法隆寺雑記帳」石田茂作
法隆寺には蜘蛛が巣をかけない
地面に雨だれの穴がない
南大門の前に「鯛石」とよばれる大きな石がある
五重の塔の九輪に四本の鎌がささっている
法隆寺の蛙には片目がない
夢殿の礼盤の下に汗をかいている
不思議な伏蔵がある

これらの謎は特に重要な問題でもないので、今回は怨霊封じについての謎に関するところ、ここでは、「鯛石」と「五重の塔四本の鎌」についてです。


*南大門の前に「鯛石」とよばれる大きな石がある。
奈良は盆地ですので、よく水害にあったようです。しかし水が南大門まできても決して法隆寺の境内にまで入ることはなかったそうです。
それで、魚の形をした石を据えたとされます。

法隆寺七不思議を調べていると興味深い記事がありました。この「鯛石」から、この若草伽藍の軸と平行に線を延ばしていくと、なんとキトラ古墳に行きそうなのです。延長線上にキトラ古墳にがあり、埋葬されていた人物に仏教の加護を与えるためではないかとも考えられてもいるそうです。

これ謎であるともされますが・・・
私の説は「高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎」のところで記述してきましたが、キトラ古墳の被葬者は高市大王の王后である、阿部氏の娘、阿部明日香であるとする私には容易な推なのですが?
そう阿部明日香は、長屋大王のお母さんです。長屋王は阿部氏が関わる大王です。
法隆寺は長屋王の在位期間に創建された寺院です。おそらく長屋王が大王に即位した年、大宝元年である701年だと思うのですが・・・?
何度も記述してきたところですが、秦氏、藤原氏と対立してきた阿部氏の事跡や系譜が変更されている。

しかし、これはどうなのだろうか?延長線上にキトラ古墳・・・延長線上に、伸ばしたところに何か関係するのものがあるという謎?はよく聞きますよね。でも、ちょっと遠くないかな?
若草伽藍にあった寺院は、推古天皇の息子の竹田皇子を祀るためのお寺ですので、キトラ古墳の被葬者とは関係ありません。
長屋大王は関係するのですが・・・。

この南大門、実は、本来はこの位置にはなく、もう少し北側にありました。中門の南、東大門と西大門の通路の交わった壇上にありました。
おそらくなのですが、一屋もなく全焼したという創建斑鳩寺の何らかの心礎石(五重塔かな?)のように思うのですが?
この鯛石は、法隆寺(斑鳩寺)の謎を解く重要な遺物ですよ。
若草伽藍の西側に、創建斑鳩寺は存在していたように思います。


*五重の塔の九輪に四本の鎌がささっている
五重の塔の九輪の四本の鎌は、法隆寺が再建された時から取り付けられていたようです。しかしそうではなく、藤原氏によって怨霊封じが行われた時です。
落雷により焼失することが多くあるので、塔の上に鎌を掲げて落雷から守ろうとしたともいわれます。しかし何故に鎌なのでしょうか?刀や槍でもいいはずです。ですが、怨霊封じを行ったのが藤原氏であるのであれば簡単な謎解きであるともいえますよね。

何故に鎌なのかは、そう藤原氏の祖が藤原鎌足だからという推測は容易ですよね。怨霊封じを行ったのは藤原氏である。
五重塔の鎌は、聖徳太子とその怨霊が西院伽藍から外に出ないようにとの処置である。謎は怨霊封じに関係します。

西院伽藍の中庭に不思議な伏蔵があるというもの。

伏蔵とはお寺などで地中に埋めてある宝の蔵だそうです。法隆寺には、なんと三か所もあるようです。中庭に三か所、金堂の北東角、経堂の中、回廊の南西角に石の蓋があってその蔵の中には様々な財物が保管されているそうです。法隆寺に重大な危機が訪れたなら、これらの伏蔵を開いてその危機を切り抜けよという言い伝えがあるようです。
この時代、大王家は渡来人勢力との戦乱の中にいました。ですので、蔵の中には武器がしまわれているのかな?


このよく知られている七不思議の他に、石田氏は法隆寺を発掘した時に以下のような新たな七不思議を考えられています。

こちらの方が重要であり大きな謎ですよね。
*中門中央の柱
*金堂五重の塔の裳階
*中門・講堂中軸線の食い違い
*五重の塔の四天柱磁石の火葬骨
*三伏蔵
*五重の塔心礎舎利器に舎利無し
*若草塔の心礎

最も大きな謎は再建さたのかどうか問題ですよね。
とにかく法隆寺は謎が多すぎます。それは、本来の由緒が変更され怨霊封じが行われているからです。

調べてみると謎だらけです。以下のような謎も指摘しておきます。

これらの謎から、興味深い法隆寺の怨霊封じについて考えてみます。

*法隆寺の再建されているのか? 最も大きな謎です
*日本書紀、続日本記には何故に法隆寺創建の記述がないのか?
*創建の由緒がある、ふたつの仏像の銘文の違い
*若草伽藍にあったお寺が創建法隆寺なのか?
*日本書紀、天智条670年の火災の記事は事実なのか?
*斑鳩寺と法隆寺は同じお寺なのか?
*はたして怨霊封じのお寺であるのか?
*怨霊封じのお寺であるのであれば誰が祟ったの?、誰が祟られたのか?
*中門だけでなく、講堂も縁起がいいとされる奇数ではなく元は八間であった
*金堂・塔を囲む回廊の不思議な形と非対称
*講堂は今の位置ではなかったという言い伝えがある
*「資財帳」の塔の高さの記述と、実際の塔の高さの違い
*観音菩薩像(百済観音)の謎
*法隆寺は西院伽藍だけで十分なはずなのに、どうして東院伽藍が造られたのか?
*東院伽藍はいつ造られたのか?
*東院伽藍の救世観音像はどうして、白い布で包まれていたのか?
*救世観音像は光背を直接後頭部に付けられている
*どうして法隆寺の本尊は三つあるのか?
*古い由緒を刻む銅造薬師如来坐像より、623年に作られた釈迦三尊の方が古いのか?
*薬師如来像光背銘にある丁卯年(607年)創建は事実なのか
*何故に623年に作られた釈迦三尊が本尊なのか?
*現法隆寺の大きな釈迦三尊像には火災のあとがない
*金堂の仏像、本尊は堂の中心より前方に安置されている
*「唐本御影」の肖像は誰なのか?



今回は怨霊封じに関係するこれらの謎を考えてみます。

特に興味深いのは、梅原猛氏も指摘する中門中央の柱に関してです。

法隆寺の中門は伽藍の仏門になります。仁王像をはさんで二つの入り口があり、中央に柱が存在します。西院伽藍の中門は四間で中央に柱が立っているという特異なものです。これが本来ありえないのです。まるで、入ることを拒んでいるような構造である。

寺院の設計においては、縁起がいいとされる奇数を軸に行われます。通常は、門の入り口は一戸か三戸の奇数であり、法隆寺の中門のように入り口が二戸というのは他に例がないのです。
法隆寺では一戸を金堂に、もう一戸は塔に向かう入り口であると伝えられているようですが、本来はありえないのです。

発掘が進む現在においても、門の中央に柱があるという構造は、この法隆寺の中門以外見つかってはいません。

法隆寺の謎の中でも、怨霊封じと関わる最も興味深い謎ですよね。

聖徳太子は祟ったのです。では、どうして祟ったのでしょうか?
それは子孫一族が殺害されたからだと思われますよね。山背大兄王と一族は殺害され、上宮王家は絶えることになります。殺害したのは蘇我氏蘇我入鹿とされますよね。
でも蘇我本宗家は滅んでいて御怨霊封じなんてできないですよね。

聖徳太子が祟ったのは藤原氏です。山背大兄王と一族を殺害したのは、渡来人である、秦氏、藤原氏である。



怨霊封じに関係する、法隆寺中門の中央の柱の謎を解きます・・・

*中門中央の柱  *中門・講堂中軸線の食い違い

実は、中門を基点に東西に広がる回廊は左右対称ではなく、東の回廊の方が一間分長く造られています。東側に十一間、西側に十間です。これも謎だとされます。
このことと、上記の「中門・講堂中軸線の食い違い」という謎から、中門中央の柱の謎に関しては謎解けます。
法隆寺の中門同様に、この大講堂も怨霊封じのために造り変えられている。

東の回廊が一間分長いということは、中門を東に一間分短くして建て替えられているということです。ですので、構造中軸線も一間分ずれているのです。意図的に西院伽藍の中門を四間にし、中央に柱が立つようにして怨霊封じを行っているのです。
本来の創建法隆寺の中門の正面柱間は、一間長く五間あり、入り口は三戸あったのです。

「中門・講堂中軸線の食い違い」とはどういうことかというと、中門の中心線と講堂の中心線が一致していないということです。
しかしこの謎は、講堂の解体修理により謎解かれたとされます。
講堂は、現在は九間であるのですが、もとは八間だったということがわかり、八間の講堂の中心線は、中門の中心線と一致していたのです。

謎解かれたとされますが、そうではない。

この大講堂は平安時代の延長3年(925年)に焼失後の、正暦元年(990年)に再建されています。では何故に元は八間だったのに、元通りではなく九間に造りなおされているのでしょうか?

中門と同様に偶数の八間というのは本来あり得ないからです。偶数であれば中門の中心の柱同様に、講堂の中心にも柱が立つことになります。

再建された時に怨霊封じという意図が解らずに再建されたからです。本来は奇数というのが常識だったからです。
この八間の講堂は、創建時のものではなく、後の時代に怨霊封じのために造られたものです。長屋王が藤原氏に祟った後以降に、講堂も造りなおされたものです。

法隆寺創建時の講堂は、現在のものと同じく九間だったのです。すると講堂の中心線は、現在と同じく、中門の中心線と一致しないのです。

謎解きはここです。つまり、これは、講堂も中門も怨霊封じのために、中央に柱が立つように偶数で建て替えられているということです。中門も一間分短く作られているということです。

本来、正面柱間は四間ではなく、五間あったのです。すると回廊は左右対象となります。

創建時は共に奇数であり、五間の中門と九間の講堂の中心線は一致していたのです。
あたりまえのように思うのですが、創建時には東西に広がる回廊は左右対称(東側に十間、西側に十間)だったのです。

中門と講堂は怨霊封じ時に構造上ありえない(中心に柱が立つ)、偶数の間口で建て替えられているということです。

中門の中央の柱だけ注目されていますが、八間の講堂も中央に柱があったのです



そして、この現在の大講堂は、創建時の大講堂のあった位置に建てられてはいない。本来は、講堂はもっと金堂や五重の塔に接近した位置に建てられていたという言い伝えが残っています。怨霊封じの時に本来の位置より外側(北側)に造られている。それはもちろん創建講堂自体が残っていたからです。

長屋王が藤原氏に祟った後に、中門とこの大講堂も怨霊封じのため造りなおされている。中門と講堂を回廊で繋ぎ、重要な金堂や五重の塔を取り囲むようにし怨霊が外に出ないように封じている。大講堂も創建法隆寺のものではなく位置も異なるということです。



写真は法隆寺の配置図です。回廊の形に注目してください。金堂や五重の塔を囲む回廊の形が、「凸」の形になっているでしょう。
こんな形ほかにありません。創建時、金堂や塔を囲む回廊は長方形だったはずです。

大講堂自体存在していたので、北側に本来はありえない怨霊封じのための八間の講堂を造り、創建講堂を壊し(再利用している)、回廊を新たな講堂に繋いでいるのでこの「凸」の形になっているのです。八間の講堂は立て直されていたものであるという証拠です。

中門と講堂を回廊で繋ぎ、金堂と塔を長方形の形で囲むのが創建法隆寺の伽藍配置だったはずです。
ですので創建大講堂の位置も容易にわかります。長方形の上部の線上の中央の位置を中心(今の寺院灯篭の位置)に創建時の九間の大講堂が存在していたと推測しています。

「凸」の形になっているのは、外に講堂を造り回廊で繋ぎなおしているからです。
経蔵や鐘楼は、もとは回廊の外にありました。
回廊が「凸」の形になったのは、大きく長方形に形に繋ぐと、この経蔵や鐘楼が回廊の中になるからでもあります。
怨霊封じのために建てられた、八間の講堂は創建時の講堂ではなく、建設されていた場所も異なる。

創建時は、縁起がいいとされる奇数である。五間の中門と九間の講堂であり、東西に広がる回廊は左右対称(東側に十間、西側に十間)だったのです。
これ、まず間違いないように思うのですが(*^▽^*)
 
 
中門、四間であることによる中央の柱、そして八間の講堂では同じく中央に柱が立つことになります。怨霊が外に出れないように中央に柱を立て回廊で囲んで怨霊封じをおこなっているのです。

本来の法隆寺西院伽藍の中門は奇数の五間で、講堂も奇数の九間であり、回廊は左右対称であったということです。



創建時には、写真の寺院灯篭の位置に、縁起がいいとされる奇数である九間の大講堂は存在していました。怨霊封じが行われた時に、北側(今の位置)に八間の講堂が建てられました。八間の講堂は中央に柱が立ちます。

この八間の講堂が、焼失後には九間の講堂に造り直されたため、現在の大講堂の中心には柱が立つ状態ではないのです。


いつこれらの怨霊封じが行われたかというのは、「法隆寺再建の謎、・・・百済観音、救世観世音菩薩、銅造釈迦三尊像」のところで記述しています。

737年、藤原四兄弟は天然痘により相次いで病死します。これが長屋王の祟りだということで、法隆寺も怨霊封じが行われている。怨霊信仰の時期に関しても問題ありません。法隆寺は長屋王が関わります。

東院伽藍が斑鳩宮の跡に建立されたとされる、739年が怨霊封じが行われた年である。737年に亡くなったはずの藤原房前が僧行信に命じて739年に造ったという由緒からも怨霊封じを行ったのがこの年である。
つまり怨霊によって亡くなった藤原房前の復讐であるという意味が込められている。
長屋大王を殺害したのは、この藤原房前です。

この時、およそ二年間で怨霊封じのための西院伽藍の、中門、大講堂の再建設は完成していたように思います。怨霊が外に出ないようにとの門中央の柱である。

東院伽藍の夢殿の場所は、元は斑鳩の宮であり山代王(山背大兄王)の住居でした。この夢殿に祀られていた救世観音は祟らないように白い布で包まれて庫裡に入れられ怨霊封じが行われたのもこの時である。
東院伽藍は739年以前に既に建立されています。この年に建立されたのではなく、藤原氏による怨霊封じが行われた年ということです。

聖徳太子の王子であるこの山代王(山背大兄王)を斑鳩寺において殺害したのは蘇我氏ではなく、秦氏、藤原氏である。

そして、そう実は長屋王も法隆寺に深く関わるからです。

現法隆寺は、天武大王により、祖父の押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)や王子たち、父親である山代大王(山背大兄王)や孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王をを祀るお寺である。

何度も記述していますが、問題は以下の系図です。これが変更されている。

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー孝徳大王ー有間皇子

長屋王が藤原氏に祟った後に、この中門は怨霊封じのために造りなおしているということです。中央に柱を作って怨霊が外に出ないようにとの措置です。
怨霊とは本来の大王だった彼ら、押坂彦人大王(聖徳太子)、山代大王(山背大兄王)、長屋大王たちです。本来のこの系譜が変更されている。



聖徳太子の謎ですが・・・
蘇我馬子により、物部系の王である押坂彦人大王を、蘇我系の人物として取り込んだことによる謎、混乱である。
聖徳太子の父親である用明天皇は、欽明天皇と蘇我稲目の娘である堅塩媛で皇子であり、蘇我氏が関係する王です。

母親である穴穂部間人皇女は、名前からも容易に推測できますが物部の女性です。ですが、欽明天皇とこれも蘇我稲目の娘である小姉君との娘、つまり蘇我の女性であるとして系図が変更されている。
聖徳太子(押坂彦人大王)を、蘇我の系図の人物に取り込んでいる。

「天皇記」「国記」編纂時に蘇我馬子によって変更されたこの系譜を用い、さらに蘇我の王の呼称である「天皇」の呼称を用いて、秦氏の王である桓武天皇時に歴史を改竄したのが藤原氏である。

蘇我氏による変更系譜は天武系の人物により直されたのですが、彼らと対立していた藤原氏によって再度変更されている。推古天皇時に大王だったこの押坂彦人大王の事跡を他の人物(蘇我の系譜にいれられた聖徳太子)の事跡として変更されている。
大怨霊である長屋大王の、重要な祖先はこの聖徳太子こと押坂彦人大王です。
彼も祟ったと思われていたのです。
この系譜変更が、聖徳太子が大きな謎になっている理由です。

法隆寺は彼らを押坂彦人大王やその王子たちを祭るために天武大王によって造り始められた寺院です。
大王家の人々と対立していたのは、渡来人である秦氏や藤原氏です。多くの大王たちが殺害されました。戦乱で亡くなったこれら大王たちを祀る寺院がこの法隆寺だったのです。



*金堂五重の塔の裳階の謎

法隆寺の金堂と五重塔には、下層部に裳階が設けられています。裳階は薬師寺や東大寺でも観ることができます。この裳階の存在により、法隆寺の創建年が推測できます。
薬師寺は天武九年である、680年に天武大王の発願により造り始められた寺院であり、裳階はこの時代の建築様式であるとされます。ですので法隆寺とは時代が異なるとして謎となっているのです。

ですが、そうではない。もうすでに何度も記述してきたところですが、法隆寺も同様です。西院伽藍の金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採だとされます。

おそらく、白村江の戦に敗れ、その後の672年の壬申の乱以降、渡来人勢力が弱体化した時に、天武大王の発願により造り始められた寺院です。再建されたのではありません。

天武大王の在位期間は、壬申の乱(672年)の翌年である673年(本当の即位年はもう少し前の667年です)から崩御年である686年とされます。大王に即位後、おそらく667年頃から造り始められている。
まず金堂から造り始めるでしょうから、680年頃には完成していたように思います。裳階は最後に付けられたように思います。


法隆寺の再建に関しての問題・・・
法隆寺と若草伽藍にあった斑鳩寺は異なる寺院です。
ただし、塔心など再利用出来るものは若草伽藍にあった寺院から、法隆寺に移築され利用されている。

法隆寺の原資料、「聖徳太子伝補闕記」においての、「庚午年四月三十日夜半有災斑鳩寺」との記述により、干支による表記のため、日本書紀編纂時に間違って670年にあてたものであって、本来は全焼したのは60年前の庚午年である610年だったのでないのかという説です。

矛盾なく説明できるのはこの説以外ありません。

607年に斑鳩寺が創建されたのですが、610年に全焼したということです。そして蘇我の皇子である推古天皇の息子の竹田皇子没後(624年)に、若草伽藍の場所に新たに創建された寺院、これが再建斑鳩寺である。
母親である推古天皇や蘇我馬子によって、竹田皇子をまつる釈迦三尊を本尊とするお寺が造られているのです。

670年に一屋も残さず焼けたとされているのに、623年に造られた現本尊の大きな釈迦三尊像が火災にあったような跡がない。このことからも、火災は610年です。

ではどうして670年に充てられてしまったかかの理由は、干支による表記だったということと、実際にこの年に斑鳩寺で火災があったからです。

これは日本書紀の記述から推測できます。天智天皇条にあります。
日本書紀は天智系天皇である桓武天皇時に改竄されています。
天智が天皇に即位したというのはこの桓武天皇の改竄時のものです。元の日本書記には天智天皇条なんてありません。

この時、670年に、本来の大王だったのは孝徳大王です。
孝徳大王は渡来人との争いで亡くなっている。崩御年は壬申の乱の少し前の672年です。
この年672年1月、孝徳大王により、戦争責任者である、天智天皇が殺害され唐に渡されたたことによる争いで亡くなっている。
その後、戦乱は7月の壬申の乱に繋がります。

日本書紀 天智天皇条・・・
十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。

夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。
      *********************

斑鳩寺と、法隆寺を書き分けています。若草伽藍にあった寺院は斑鳩寺です。

この記述「夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震」は、記紀を改竄した桓武天皇時に、天智天皇条を作った時に、干支による表記のため間違って挿入されたものです。

「聖徳太子伝補闕記」では「庚午年災斑鳩寺」と記述されていて、「庚午年災法隆寺」ではないですよね。

法隆寺創建は700年頃です。法隆寺の名称はこの時のものです。ですので元資料では、こう「庚午年災斑鳩寺」記述されているのです。

斑鳩寺と法隆寺は別のお寺ですが混同されている。それは、法隆寺由緒を変更し、斑鳩寺と同じ寺であると変更したことによるものです。

それは、上記しましたが、日本書紀の天智条は、天智系天皇である桓武天皇の時代、続日本紀が編纂された797年頃に作られたものです。
この時代は秦氏、藤原氏の時代です。この続日本紀の内容に合わせて日本書紀、古事記は改竄されているからです。改竄時には法隆寺由緒を、斑鳩寺の由緒に変更されていたからの混乱です。

秦氏の王子である中大兄皇子が、天皇に即位できるわけありません。天智系天皇であり秦氏の王である桓武が、天皇に即位したとするには、天智もまた天皇に即位していたとする必要があったのです。この「天皇」の呼称を使用して歴史を改竄している。

本来はもちろん「大王」であり、本来の日本書紀には「大王」と呼称されていたはずです。
この元の日本書紀、孝徳大王条の670年に、斑鳩寺の火災の記事があったことと、「庚午年」という干支があっていたので間違って挿入したためです。


若草伽藍にあった斑鳩寺は、この年に火災にあってはいますが、全焼という状態ではなかったのです。
一屋も残さずに焼けたという状態であるのなら、若草伽藍の跡地に再建すれば容易です。
しかし現法隆寺の西院伽藍は、山の斜面を削ったり、谷を埋めたりする大きな作業が必要な地に建てられています。

若草伽藍は、金堂と塔が南北に並ぶ配置、飛鳥式です。しかし現法隆寺は、東西に並ぶ配置です。再建ということなら、伝統を受け継ぐという意味からもこの伽藍配置の違いはありえない。

このことからも、若草伽藍にあった斑鳩寺と、現法隆寺は異なるお寺であるということがわかります。
つまり若草伽藍にあったお寺は再建斑鳩寺であるのですが、現法隆寺とは異なるお寺であるということです。祀られている人物が異なります。

法隆寺は大王家の寺院です。若草伽藍の寺院は蘇我氏が建立した寺院です。

ただし、この若草伽藍にあった塔心などは移築されている。再利用できるものは再利用している。
再建されているのは若草伽藍の斑鳩寺です。現法隆寺は、再建された寺院ではありません。



この薬師寺に関して少し書きますが、・・・
薬師寺は天武天皇が、後の持統天皇である鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して建立を発願したというのが定説です。

しかしこれも間違っています。680年の時、天武大王の王后は、額田王です。薬師寺縁起には、額田部姫王と記されていて大王家の女性です。
そして額田天皇だったはずです。天皇の呼称は、王后の呼称です。
次の王后が持統天皇です。持統天皇の即位は690年です。ですので額田王が亡くなったのは689年頃です。この時代「天皇」とは女帝の名称でありました。
薬師寺は王后であった額田天皇の病気平癒を祈願して建立を発願したというのが真実です。
額田王は何故に額田部の姫王なのかは、「額田王の謎と推古天皇」で記述しています。
この系図です。

額田王の系譜・・・
宣化天皇ー上殖葉皇子ー十市王・大伴 金村の娘の大伴糠手古ー大伴皇女

大伴皇女(額田部皇女)・敏達天皇ー糠手姫皇女

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー桑田王・鏡王ー鏡王女、額田王

額田部皇女とは、推古天皇のことではない。敏達天皇の最初の皇后はこの大伴皇女であり、彼女が額田部皇女です。
この大伴皇女(額田部皇女)から繋がるのが額田王であり、聖徳太子こと押坂彦人大王の孫娘であり大王家の女性です。額田王は天武大王のいとこです。

明日香池工房跡から、「天皇」の文字が記された木簡が出土しています。
「天皇聚露弘□□」と記された木簡です。
意味は不明のようなのですが、おなじ場所から、天武天皇の時代677年の木簡も出土したことにより、この「天皇」とは天武天皇のことだとされ、天武朝には天皇号が存在していた資料だとされます。

ですが間違っています。天武は「大王」です。何度も記述しているところですが、この木簡の「天皇」とは額田王のことです。天皇の呼称は女帝の呼称、つまり、天武大王の王后のことです。額田天皇ということです。
天皇とは本来は蘇我の王の呼称であり、初代天皇は推古天皇です。


天武大王と額田天皇の王子が高市王子であり、大王に即位していました。
万葉集、柿本人麻呂の挽歌から推測できますが、この高市大王と阿部氏の娘である、阿部明日香との王子が長屋王です。
万葉集や木簡からの推測では、長屋王も大王でした。この系譜が変更されている。長屋王は阿部氏の大王であるのです。

万葉集、柿本人麻呂は、天武大王の第一王子である、この高市王子を「大王」だと詠んででいます。
長屋王家とされる場所から出土した木簡の記述からの推測では、高市王子大王に即位していました。
高市大王、長屋大王の時代でも「大王」です。

  万葉集・・・巻二(一九九)柿本人麻呂 高市大王への挽歌の最後のところです。

我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや・・・ 
      
わが大王(高市大王)が、万年の世までと考えお作りになった「香具山の宮」は、万年の世を過ぎてもなくなることは考えられない。
        **********************************
高市大王の宮の名は「香具山宮」であり本来の宮の名称です。「藤原宮」なんて、宮の名を臣下の名で呼ぶことなんてありえません。
何度も言いますが。これは変更する必要があります。古代の歴史は変わりますよ。



*五重の塔の四天柱磁石の火葬骨  *五重の塔心礎舎利器に舎利無し

さらにこの五重の塔に関しての不思議な謎に関してですが、難問だけど怨霊封じということから推測すれば解決するかな?

実はこの塔に関しても、さらなる大きな謎があます。塔もまた建て直している可能性もあるともいわれます?


「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」においては、塔の高さが十六丈と書かれているのに実際の法隆寺の塔は、およそ三分の二の高さしかないようなのです。これは造りかえられているとしか考えられないとされます。
何らかの手違いがあったのだろうか?
怨霊封じを行った時に、塔も造り変えられたのだろうか?この可能性も考えたのですが・・・?これは大きな謎ですよね

この塔は古い尺度(高麗尺)で記述されているのではという説があるようです。この説が正解のように思います。
どういうことかというと、簡単な話ですが、若草伽藍にあった斑鳩寺は、一屋もなくという火災などにはあってはいなく、塔の心柱などは、再利用されているということです。塔だけでなく、金堂、回廊など再利用されている。これしか考えられないように思います。

これも法隆寺の原資料において、「庚午年災斑鳩寺」と干支による表記のため間違って挿入されたことが関係する。
上記しましたが、670年の火災は一屋も残さずという状態ではないということです。塔は残っていたのです。利用できるものは再利用している。

そう、この塔の心柱は若草伽藍(624年に竹田皇子が亡くなった時に造られた寺院)の塔の心柱が移築されている。
ですので、若草伽藍創建時に計測された、記述の高さそのままであり、古い尺度、高麗尺が用いられている。

そして、この「若草塔の心礎」の謎です。
心礎も再利用する予定で運ぼうとしていたのだけど、重かったのかな?あるいは他に良い礎石が見つかったのかな?利用されずに残っています。この謎は、若草伽藍の塔の心柱だけは再利用しているという証拠であるように思います。

おそらくですが、再利用しようとしていた、心柱の下部が土に埋もれていたため状態がいいものではなかったのでしょう。心柱の下部を切断し、心礎の石をふたつ重ねて高さを調節しようとしたのだと思うのですが?
あるいは、心柱を再利用しようとしていたのだけど、土に埋められていた下部が腐っていたため、新たな心柱を使用したのかもしれません。高さを調節しようとしたのだけど、その必要がなくなったので、掘り出された状態のままであるのか?
現五重の塔は心柱の下部を補強する形で造られています。


日本書紀の天智天皇条のこの記述「夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震」は、法隆寺原資料において、「庚午年災斑鳩寺」と干支による表記のため間違って挿入されたということです。
607年創建の斑鳩寺は、庚午年の610年に全焼しているということです。

つまり、若草伽藍にあったお寺は、推古天皇の皇子である竹田皇子が亡くなった624年以降に造られた再建斑鳩寺であるということであり、蘇我氏が造ったお寺ともいえます。

この若草伽藍の再建斑鳩寺と、現法隆寺は異なる寺院です。


それでは、このふたつの謎はどう説明したらいいのだろう?
*五重の塔心礎舎利器に舎利無し *五重の塔の四天柱磁石の火葬骨  

隠された十字架 梅原猛 ・・・
 
法隆寺の塔は現身往生の塔といわれる。この塔から太子の子孫二十五人が、突如、西に向かって飛行したところから、そう名づけられたという。
太子の一生をえがいた絵巻には、必ず、この塔から太子の子供たちが西の空に向かって、空中高く飛行している絵が描かれている。
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法隆寺は、天武大王によって造り始められた、大王家の祖先を祀るための寺院です。五重の塔は現存最古の木造の塔です。
法隆寺傍の斑鳩の宮は、父親である山代大王(山背大兄王)の宮であり、斑鳩寺で山代大王(山背大兄王)は殺害されている。その供養のためのお寺です。

法隆寺は、聖徳太子こと押坂彦人大王はもちろんですが、王子であり、天武大王の父親である山代大王(山背大兄王)の関りが多く語られています。

五重塔に埋められる骨は、この二人をおいて他にはないように思うのですが・・・?
この系図です。
押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

まず、「五重の塔心礎舎利器に舎利無し」ですが、・・・
本来は釈迦の舎利が埋められるということですが、そんなのもちろんあるわけないでよね。
聖徳太子を祀るということであれば、聖徳太子の舎利が埋められているのだろう想像できますよね。

法隆寺は天武大王が造り始めたお寺であり、皇祖と仰ぐ、押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や、王子たち、父親である山代大王(山背大兄王)や茅渟王を祀るお寺である。

「聖徳太子御陵、見瀬丸山古墳の謎」のところで記述してきましたが、天武大王は皇祖(王祖)と仰ぐ押坂彦人大王のお墓を移築し巨大なお墓(見瀬丸山古墳)に造りなおしている。この時に少量の舎利を舎利器に移し五重の塔の心礎の下に埋めたのだろうと考えています。

この見瀬丸山古墳は元は、押坂彦人大王の王子である山代大王(山背大兄王)のお墓でした。
そこに蘇我氏の墓域であった磯長に埋葬されていた、聖徳太子こと押坂彦人大王を移葬し、巨大な前方後円墳に造りなおしている。

ですので、聖徳太子こと押坂彦人大王の舎利が埋められていたのですが、怨霊封じの時に取り除かれている。
押坂彦人大王の後胤と対立していたのは、秦氏、藤原氏です。この押坂彦人大王は大怨霊である長屋大王に繋がる重要人物、聖徳太子です。

聖徳太子も祟ったと考えられていたのです。

それで、難問のこれ、「五重の塔の四天柱磁石の火葬骨」ですが・・・
これ誰の遺骨なのだろうか?火葬骨というのであれば推測できるかな?

西院伽藍の場所は、山の斜面を削り、谷を埋める作業を行い敷地を整備しなければなりません。その後、まず金堂から造り始められまるはずです。おそらく680年代頃には完成していたと思います。次に塔の建設に取り掛かるわけです。見瀬丸山古墳の築造、移葬時期もこのころです。

法隆寺に関わる重要な人物は、上記の系図の大王たちです。火葬が始まった時期は700年とされます、この年以降の火葬骨というなら長屋大王しかないようにも思うのですが、そうではないように思う。

五重の塔の東北隅の四天柱の下の磁石に、円い鉢型の穴が掘り込まれそこに火葬された骨が埋められていたようなので、塔が完成した後に関係者の骨が埋められたということはありません。塔が造り始められた時期に、埋められているということです。ですので長屋大王ではない。

誰の骨でしょうか?上記したように塔に関する由緒のようなものからも、山代大王(山背大兄王)の骨だろうと想像できますよね。
ですから、山代大王(山背大兄王)の遺骨だろうという説はあったようです。
ですが、崩御年643年から火葬が始まったとされる時期とはかけ離れるのでありえないともされます。しかしそうではないように思います。

仏教は火葬ですよね。お釈迦さまの舎利も火葬されたものです。ですので、この仏教寺院である五重の塔に埋められる目的で火葬されたのだと思います。

これも、上記したことと同様で、天武大王によって、見瀬丸山古墳が大きく造りなおされる時に少量の骨を火葬して塔に埋められている。これは火葬が始まった時期でもある。
見瀬丸山古墳は元はこの山代大王(山背大兄王)のお墓である。

五重の塔心礎舎利器には、聖徳太子こと押坂彦人大王の遺骨がったのですが、怨霊封じ時に取り除かれている。
五重の塔の四天柱磁石の火葬骨は、王子である山代大王(山背大兄王)の遺骨です。見つからづにそのまま残っている。



法隆寺はいつ創建されたのでしょうか?これも大きな謎ですよね。

日本書紀、続日本記には、法隆寺創建の記述はありません。
若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡であり、現法隆寺は再建されているということが定説です。しかし何時再建されたかの記述がありません。

若草伽藍にあった寺院は、推古の息子である竹田皇子を祀るための寺院です。現法隆寺とは別の寺院です。624年に竹田皇子が亡くなった頃、蘇我氏、蘇我馬子より造り始められた寺院です。

現法隆寺は、天武大王が、祖父の押坂彦人大王と二人の王子、父親である山代王(山背大兄王)と斉明天皇、孝徳大王の父親の茅渟王を祀るために造り始めた寺院です。

何故に創建の記述がないかというと、法隆寺は長屋大王の在位期間に創建された寺院だからです。天武大王によって造り始められ、完成は長屋大王の在位期間です。彼ら本来の大王と争っていたのは秦氏、藤原氏です。

私が思うのは、法隆寺創建は701年です。天武大王の在位期間、上記しましたが、673年頃から造りはじめられ、大宝元年である長屋王が大王に即位した年に創建されていると考えています。

続日本記において法隆寺が登場するのは和銅八年、715年です。もうすでに法隆寺は建造されています。和銅四年、711年に塔の塑像と中門の仁王像が造られたとされます。ですのでこの711年に完成したと主張する
人もいます。

しかし創建に関してははもっと以前であるように思う。
ここももう既に何度か記述してきましたが、
701年は長屋王が大王に即位した時です。701年から729年までが在位期間です。
孝徳大王と中臣鎌足が関わる、談山神社の創建も大宝元年(701年)です。長屋大王が、渡来人との戦争でこの地で亡くなった、孝徳大王の時の左大臣だった本来の中臣鎌足を祀るために建てた寺院です。

そして紀南のお寺である道成寺も同様です。長屋大王が有間皇子や、塩屋鯯魚など戦争で亡くなった人々を祀るために建てたお寺です。
創建は大宝元年である701年です。
法隆寺もまた、この年に創建している。

それは、法隆寺本来の本尊である、観音菩薩像(百済観音)がこの時期に造られているからです。飛鳥時代後期である680年~690年に造られた仏像であると推測されています。

つまり上記してきましたが、現法隆寺は、天武大王が、祖父の押坂彦人大王と二人の王子、父親である山代王(山背大兄王)と斉明天皇、孝徳大王の父親の茅渟王を祀るために造った寺院であり、在位期間に造り始められている。

天武が大王に即位した673年頃の着工から、創建は長屋王が大王に即位した大宝元年である701年である。
そして、この法隆寺の本尊として造られたのが、この百済観音(観音菩薩像)であり、モデルは聖徳太子こと押坂彦人大王である。


長文になりそうなので次回に続きます。
この謎の仏像ともいわれる百済観音(観音菩薩像)など、法隆寺の本尊に関してです。何故に本尊が三つもあるのか?
法隆寺の謎を解く大きな鍵ともいえます。










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