聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

押坂彦人大王と隅田八幡神社人物画像鏡

2011年10月20日 | 聖徳太子の謎


隅田八幡神社人物画像鏡

ウィキペディアから、隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十 ひと大王)の
御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は
姉の孫のこの竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱で
この鏡を作らせた。

この鏡の謎が解ければ聖徳太子の謎も解けます。
鏡の、日十大王こそ押坂彦人大兄皇子であり、聖徳太子のこと。ここ八幡神社だから、蘇我馬子が関わっている。
蘇我馬子の本当の名は、斯麻(シマ)。
馬子という名は、藤原氏が彼らを貶めるために使用した名前。蝦夷も入鹿も。馬子は蘇我氏の血を引かない押坂彦人大兄皇子を王だとしたくなかった訳かな?
この時の王は押坂彦人大王。日十大王(ひとおおきみ)。そう彼が聖徳太子です。

炊屋姫こと推古は、大王ではなく天皇。天皇は蘇我の王で大王とはことなる。608年の推古天皇の御世に、裴 世清があった倭王は男の王。隋の使者である裴 世清が王に謁見しているわけなのに、こんなの男と女を絶対に間違えるわけない。
日本書紀にそう書かれているから、推古は大王だとすると謎はとけない。

この鏡に、「費直」の文字が使用されているかぎり、443年説も503年説もありえない。この「費直」が使用されてる金石文が他にも存在する(元興寺縁起)のですが、全て推古天皇の時代「推古天皇4年(596年)」のもの。
法興寺とも飛鳥寺ともいわれ、蘇我馬子によって建立されたものです。
参照・・・北海道大学の北村 文治先生の論文。カバネの制度に関する新研究序説

元興寺伽藍縁起并流記資財帳
山東漢大費直(やまとのあやのおおあたい)、・・・意等加斯費直(おとかしあたい)

「費直」とされるのは、推古朝以降であり、それ以前では使用されていない。
姓(かばね)であるこの「費直(あたい)」は、推古朝以前では、「費」、「直」と一文字の使用である。
このことからも銘文の葵未年は、623年である。623年には聖徳太子は病気療養中ではありますが生存しています。
聖徳太子こと竹田皇子の没年は624年です。


古代史に興味がある人なら、「シマ」っていう人物は誰か?って尋ねられれば、蘇我馬子が思い浮かぶでしょう。嶋大臣ですよね。
隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある、「斯麻」が本来の名のように思います。

日本書紀、推古天皇二十八年
是歲、皇太子・嶋大臣共議之、錄天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。

日本書紀においては、推古天皇二十八年は、620年とされますが、押坂彦人大兄皇子が大王としてすでに即位していますので、ここの皇太子とは弟である推古天皇の息子であり、蘇我氏の皇子であるといえる竹田皇子のことです。
蘇我馬子と蘇我氏の皇子である竹田皇子が編纂した、この天皇記、國記は蘇我氏の歴史書である。
「天皇」の呼称は、本来は蘇我氏の王の呼称である。

すると、鏡の銘文の「癸未年」 は、623年になるわけです。
その時、日十大王 なる人物がいるのか?
いるでしょう、そのままですよね。押坂彦人大兄皇子、日十大王 (ひとおおきみ)。
敏達と皇后穴穂部間人皇女(広姫ではありません)との皇子であり、この時代の第一皇子です。
それで、男で弟の王なる人物はいるでしょうか?
いますよね。敏達と次の皇后の推古との皇子の竹田皇子ですよね。
推古天皇時に、大王に即位している人物は、この押坂彦人大兄皇子、日十大王です。

隋書に 記述されています・・・
開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、
阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。

阿輩鶏彌(おおきみ)で、多利思比孤(たりしひこ)、男の王だとかかれているわけです。

何故、こんな簡単な謎ときができないのでしょうか?もう不思議としかいいようがない。
隋の皇帝の国書を持参している使者である、裴 世清が王に会っていないわけない。

隋書・・・
その王、清と相見え、大いに悦んでいわく「我れ聞く海西に大隋礼儀の国ありと・・・」 
清、答えて曰く「皇帝、徳は二儀に並び沢は四海に流る。王、化を慕うの故を以て行人を
遣して来らしめ、ここに宣諭す。」と。既にして清を引いて館に就かしむ」

この「清」とは裴 世清のことであり、使者である裴 世清は王に会っていると記述されています。
その王は、阿輩鶏彌(おおきみ)と呼ばれ、多利思比孤(たりしひこ)、つまり男の王だと
されているわけです。この王とは推古ではない。推古天皇と大王が存在しているわけです。

天皇は大王ではないということが理解できていないから謎が解けていない。
「天皇」の呼称は、本来は蘇我の王の呼称であり、女帝の呼称です。


この人物画像鏡にある、日十大王 と、男弟王(竹田皇子)こそ、「ふたりの聖徳太子」です。

日十大王 とは、押坂彦人大兄皇子のことであり、男弟王とは竹田皇子のことです。二人の事績が、一人の聖徳太子という名で後に纏められてしまったのです。

厩戸皇子とは、 敏達天皇の第一皇子、押坂彦人大兄皇子であり、聰耳皇子とは推古の息子の竹田皇子のことです。
斑鳩宮に住み、斑鳩寺を建て、仏教を興したのは推古の息子の竹田皇子です。推古が天皇のときに、大王だったのが、厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子です。押坂彦人大兄皇子と竹田皇子は異母兄弟になります。
おそらく2歳上の押坂彦人大兄皇子は572年生まれであり、竹田皇子は574年生まれである。

日本書紀の用明天皇条においても問題個所があります。
押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一王子です。ところが日本書紀、用明天皇条には用明天皇の皇太子と表現されている箇所があります。すでにおかしいとも指摘されているところでもあります。
これは、厩戸皇子とは押坂彦人大兄皇子ですよと言ってるようなものです(*^▽^*)

日本書紀用明天皇条
二年夏四月乙巳朔丙午・・・
遂作太子彥人皇子像與竹田皇子像、厭之。俄而知事難濟、歸附彥人皇子於水派宮。

物部守屋側の人物である中臣勝海が押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の像をつかって呪詛したということです。ここで、押坂彦人大兄皇子を用明天皇の皇太子としています。
それは、敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子を厩戸皇子として用明天皇の皇子に取り込んだための間違いでもあるのです。日本書紀の改竄箇所であるのですが、矛盾するのはミスともいえます


この隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の謎が解けないのは、天皇とは本来は蘇我の王の呼称であり
大王とは異なるということが理解できていないからです。


それで、馬子はこの姉の孫の竹田皇子を聖徳太子ってことにしたかったのかな?残念なことに、実はこの竹田皇子は、この翌年624年に亡くなっているんですよ。ここの謎、凄く重要なんだけど・・・ここ解ければ、いろいろ問題とされていた聖徳太子の謎も解決するのですが・・・それはもう少し後で説明します。


聖徳太子とは、この押坂彦人大兄皇子で、彼は蘇我の血をひかない。
子供の山代王も、敏達天皇の皇女の桜井弓張皇女との子であり、
彼も、蘇我の血が流れていません。

日本書紀では、・・・
聖徳太子のお父さんが、用明天皇で、この用明天皇は、蘇我稲目の娘の堅塩媛と、欽明天皇の子ですよね。そして、お母さんは、欽明天皇と蘇我稲目の娘の小姉君との子の穴穂部間人皇女とされます。

山背大兄王は、蘇我馬子の娘の刀自古郎女と聖徳太子との子だとされています。だとすると、この山背大兄王は全く蘇我の王だといってもいいわけでしょう。

推古天皇崩御後、何故、蘇我蝦夷は、蘇我の血がながれていない田村皇子(舒明天皇)を擁立するわけ???何故、蘇我入鹿は山背大兄王を殺さなきゃいけないわけ???こんなの、どう考えたっておかしいわけでしょう。

聖徳太子が、押坂彦人大兄皇子なら子供の山背大兄王は、蘇我の血をひかないわけだから、蝦夷が、馬子の娘を妃としている田村皇子を立てて天皇にしたということも、入鹿が山背大兄王一族を殺したのも矛盾のない話とできますが、系図をひとつ改竄しただけでも、関わりのある人物に影響してきて、このような大きな
矛盾が生じる訳です。

天皇というのは蘇我氏の王の名称であり、蘇我氏が初めて王家と姻戚関係を結んだ欽明天皇と蘇我稲目の娘の蘇我 堅塩媛から続く、蘇我の王の名称。王家ではない。『天皇記』『国記』というのは蘇我氏の歴史書。

継体天皇と尾張連草香の娘の目子媛の子の檜隈高田皇子(宣化天皇)の娘石姫皇女から続くのが王家であり天武系の王。

継体天皇以降この二つの対立関係になっているのは明らかじゃないですか。

この鏡の銘文が、謎解けないのは「日十大王」ですよね。記紀には、こんな名の大王や天皇は存在しないですものね。いつまでも、記紀は正史だとするかぎり本当の歴史は見えてこない。
本来の王家が、断裂してしまい、傍系の王たちが権力争いに勝利を得て、天皇の名称を使用し系譜を改ざんして、正当化した。それが、蘇我氏の歴史書である『天皇記』『国記』である。
日本書紀・古事記もまた、後の時代、秦氏、藤原の時代になって改竄されています。この時にこの押坂彦人大兄皇子、日十大王の系譜や事跡は変更されました。それは、秦氏、藤原氏は、この押坂彦人大王の後胤と対立し多くの人物を暗殺してきたからです。

日本書紀の下巻の天皇はすべてこの押坂彦人大王から繋がります。当然ながら天武が皇祖と仰ぐこの押坂彦人大兄皇子は、もちろん大王でした。それを変更したのは大王家と対立していた藤原氏である。


写真は、和歌山県橋本市隅田にある隅田八幡神社です。和歌山と奈良の県境に位置します。この、八幡神社は応神天皇こと、誉田別尊を祀っていいます。この応神天皇とは、架空の人物であり、いわば蘇我の神様です。

八幡神社は、蘇我氏が物部氏を滅ぼして後に、物部の神様を祀ることができず、蘇我の神様を祀ったからです。
だから、蘇我馬子が関係します。この八幡神社というのは、元来は後の物部氏、本来の王家の神様を祭っていた神社です。

私には、この人物画象鏡の銘文の謎は凄く簡単な謎でした。それは、八幡神社は蘇我馬子が大きく関わっているからです。銘文の「斯麻」が蘇我馬子だとわかると謎解きは簡単です。
日十大王とは、敏達天皇の第一皇子でる、押坂彦人大兄皇子です。


矢田八幡神社(京都府京丹後市久美浜町)
由緒・・・
当初の祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后内色姫命であったが、奈良朝に至り、当時の物部氏と蘇我氏の争いからついに物部氏亡び蘇我氏の探索は当地にまでおよび矢田部一族はそれを恐れ、宇左八幡宮を勤請して社名を矢田八幡と改めた・・・

この矢田部一族とは物部氏と同族。そして、もちろん、宇佐神宮も元は物部の神社。
この地を豊の国というように、比賣大神とは、卑弥呼である台与のこと。
応神天皇と神功皇后が祀られるようになったのは、物部氏が滅んでから。
この応神天皇とは蘇我の神様。古代の歴史を改竄したのは蘇我馬子。
だから八幡宮は蘇我氏が関わっている。宇佐神宮ももとは八幡宮ではなかった。
後に蘇我氏が滅び、天皇家に秦氏が関わるようになって、八幡の名称に変更されている。


          












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台与はかぐやひめ。

2011年10月10日 | 卑弥呼は、伊香色謎命


古事記にある垂仁天皇の妃の「迦具夜比売命」こそ豊媛。台与ちゃん。
日本書紀においては、開化天皇妃の丹波竹野媛ではなく、・・・垂仁天皇の妃の竹野媛。
垂仁天皇は、丹波の五女を後宮にいれた。日葉酢媛・渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・竹野媛。
タカノヒメは姿形が醜いので本土に返した・・・。
この悪く描かれている竹野媛こそが台与ちゃん。かぐやひめ。
この豊媛の後胤こそ本来の畿内の王家。
カクヤヒメとは銅矢姫。銅はカグ。矢は物部。物部姫のこと。

この五人は丹波道主王の娘。(ミチヌシ王は、ワカヤマトネコフトヒヒ天皇(開化)の
子孫の、ヒコイマス王の子である。(一書はいう、ヒコユムスミ王の子)

丹波道主王は、彦坐王の子であり、彦湯産隅命の子であるとしている。

で、日本書紀は「気長足姫尊は、開化天皇の曾孫」という記述・・・
つまり伊香色雄命(開化天皇)―大新河命(彦湯産隅命)―息長宿禰王(丹波道主王)―息長帯比売命

息長水依比売と彦湯産隅命の子の息長宿禰王(丹波道主王)の娘のが、息長帯比売命。
息長帯比売命とされるのが、とよちゃん。息長帯比売命の妹とされる豊姫は、台与。
卑弥呼の台与。この豊姫と垂仁天皇との子が、誉津別命?
この豊姫を息長帯比売命として、誉津別命(ホムツ)を応神天皇(ホムタ)として改竄している。神功皇后のモデルはこの豊姫。魏志倭人伝の台与。
継体天皇はこの誉津別命の五世の孫?として正当な後継者と主張している。
この誉津別命の五世の孫?が継体天皇。

丹後国風土記のある羽衣伝説のトヨウケヒメも台与ちゃん。
伊勢神宮の外宮の豊受大神も台与。豊媛。
かぐやひめも豊媛。
豊国はもちろん台与の国。そこにある宇佐神宮の、比売大神も豊媛。台与ちゃんです。
景初二年に魏に朝貢した卑弥呼は台与。

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豊の国

2011年10月01日 | 魏志倭人伝の謎


畿内から瀬戸内海を通り、九州に上陸すんときね、最短に位置するのが、ポッコリ丸く突
き出た国東半島ですよね。半島の上部の付け根のとこにあるのが宇佐神宮です。

豊国とは畿内の政権が九州全体を支配下に治めるために建てた国。いま、豊の国として云
われるほどには当時はそう広大なものではなかったでしょうけど、この地域を拠点として
九州を治めた。この豊とはもちろん台与のこと。

この九州豊国の王が、景行天皇とされる伊香色雄命の長男建膽心大祢命。
(屋主忍男武雄心命、タケイココロ。)子供が武内宿禰。
神武天皇というのはこの二人の武ちゃん。ヤマトタケルは武内宿禰。
なぜかってうと、蘇我氏はこの武内宿禰を始祖とするから。

倭人伝・・・
「正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王」・・・

この倭王とは、九州豊国の王の建膽心大祢命。この後の倭王もそう九州の王。

邪馬台国は卑弥呼の弟の伊香色雄命王国。
大和、近江、山城、丹波など畿内一帯を治めたのが、崇神天皇、彦坐命として描かれている三男大新河命。
台与の時の畿内の王。
もちろん、伊香色雄命は本当の名ではない。

天孫本記はこの大新河命と、物部としての十千根命のふたつの系図をかたりますが、・・・
記紀が王とするのが、・・・
九州豊国の王の、長男の建膽心大祢命の後胤。


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