聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

大安寺伽藍縁起并流記資材帳の袁智天皇の謎と継体持統

2015年12月20日 | 日本書紀の謎


天皇の名称は、本来は蘇我の王のことです。蘇我氏の台頭により、王の呼称が二つ存在して
しまったのです。というか、・・・天皇はもともと王ではないのです。
では、この天皇の呼称が大王という意味として使用され始めたのはいつなのか?
それは、乙巳の変により蘇我本宗家が滅亡した後です。天智が権力を保持したときです。
継体以降、天智以前で天皇とされている人物で実際に王ではなかった人物が複数います。

乙巳の変の時に、蘇我蝦夷によって焼かれようとしていた天皇記・国記を、保有していたの
は天智です。この後です。天智、天皇対天武、大王の対立となったのは。


蘇我氏が初めて王家と姻戚関係を結んだのは欽明天皇ですが、この欽明と同じ立場にあって、
蘇我の王である天皇になった人物がいます。それは、蘇我蝦夷によって天皇に立てられた
舒明天皇です。蘇我の女性を后とし蘇我氏と姻戚関係にありました。
もちろん彼は王家の人物なのですが、血統関係において上位ではなく(敏達天皇の皇女の王子ではない)
この時は大王ではありません。蘇我氏が姻戚関係を結び、大王家と対立するために立てた蘇我の王
である天皇です。実際に王ではなかった人物のひとりです。

この舒明の后の田眼皇女は、敏達と、推古の娘です。推古は女帝だとされているわけですか
ら、両親が天皇という立場の女性なのに、舒明の皇后ではありません。

茅渟王と吉備姫王との娘の寶女王が皇后です。両親が天皇の娘より位が上なのです。
そう茅渟王は大王だからです。天智、天武のお母さんだから皇后なわけではないのです。

この舒明の時の大王は厩戸王子こと押坂彦人大兄皇子の子の山代王です。
そう聖徳太子の子とされる山背大兄王です。

押坂彦人大兄皇子―茅渟王―山代大王
大王である押坂彦人大兄皇子のふたりの王子たちも当然、大王でした。茅渟王のあと立てられたのは
山代大王です。
この山代大王の御代、舒明天皇のあと蘇我蝦夷によって天皇に立てられたのは寶女王、皇極です。


皇極元年
於是、上宮大娘姬王、發憤而歎曰、蘇我臣、專擅國政、多行無禮。天無二日、國無二王。
何由任意悉役封民。自茲結恨、遂取倶亡。是年也、太歲壬寅。

天皇と大王が存在した。この二人の王とは、大王は押坂彦人大兄皇子の子の山代王であり、
天皇は、蘇我蝦夷により天皇に立てられた舒明の皇后である寶女王、皇極です。

この翌年(643年)、聖徳太子の山背大兄王は蘇我蝦夷によって殺害されたとされます。
これは、押坂彦人大兄皇子の子の山代王のことです。すでに、大王でした。

同じく押坂彦人大兄皇子の子である軽皇子(孝徳天皇)は、乙巳の変において蘇我本宗家
を滅ぼします。孝徳、寶女王にとっては仇討ちでもあり、王家を乗っ取ろうとする蘇我氏と
の戦です。
天智が、この変に参加するのは、前述してきたように、百済を助けるための朝鮮出兵に関係
します。しかし、このあと、孝徳は天智と争うようになります。それは同じく朝鮮出兵に関
んしてです。孝徳は、朝鮮出兵には反対していたのです。



天皇の呼称が大王という意味で使用されたのはいつなのかという問題はは、記紀には見当た
らないのですが、聖徳太子が創建に関わったとされる大安寺の伽藍縁起并流記資材帳に興味
深い記述が存在します。
この資材帳には、疑問とされる、謎の天皇、袁智天皇との記述があります。
この袁智天皇とはいったい誰なのか?
そして何故、この人物は記紀に登場しないのでしょうか?

日本書紀や古事記が無視をする王は、そう天武系の大王です。この袁智天皇とは天武系の
押坂彦人大兄皇子から繋がる王だからです。天智系や藤原氏にとっては、この天武系の王た
ちが大王だと都合悪いのです。
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子から繋がる大王たちの何人かを王ではなかったとしてい
ます。推古、舒明、の時の大王たち、押坂彦人大兄皇子、茅渟王、山代王です。


大安寺伽藍縁起并流記資材帳
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」との記述があるそうです。

日本書紀、孝徳条
是月、始造丈六繡像・侠侍・八部等卌六像。

本文と合致する繡仏等36像が、天平19年大安寺資材帳に記録。

      ***********************

大安寺伽藍縁起并流記資材帳に、白雉元年(650年)に難波宮にいた袁智天皇との表記が
あります。
この袁智天皇とは、斉明天皇のことだとされます。本当に斉明なのでしょうか?
白雉元年は650年だとすると、説明するまでもなく、おかしいですよね。

この袁智天皇とは、そう天智の后であり、持統のお母さんである蘇我倉山田石川麻呂の娘と
される遠智娘のことです。ですが、彼女は蘇我倉山田石川麻呂の娘でじゃありません。
この遠智娘は天智の后とされます。本来の王家の女性です。ですので難波宮にいたのです。
系譜が改竄されているのかも?

元号が変わったのは女帝が新たに誕生したからです。
つまり彼女は王になれる血統を持つ人物だったのです。


天智とこの遠智娘の娘の持統天皇の持統は、継体持統から名付けられたとされます。
何故、継体持統なのでしょうか?持統もまた本来の王家の女性です。

それは、天智は継体の血を父系で引き継がないからであり、持統のお母さんは蘇我の娘で
はないということです。遠智娘は、王家の血を父系で引く次ぐ女性であり、その娘が持統だからです。

何故、持統は王になれたのだろう・・・?わたしには大きな疑問でした。

持統のお母さんは、この蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘だとされます。父は天智です。
だとすると持統は王になるのは難しい身分です。それは、天智のお父さんは渡来人であり、
蘇我倉山田石川麻呂は王家の血が流れていないからです。

天皇は本来。蘇我の王の名称です。ただ、蘇我の王でも継体からの血のつながりのある人物
であり、蘇我氏と姻戚関係にあった人物やその子供に限っています。
ですので、遠智娘が継体と繋がりのない、蘇我倉山田石川麻呂の娘であるのはおかしいわけ
です。天皇にはなれないのです。

この天智の后であり、持統のお母さんである遠智娘は重要人物です。
この遠智娘は複数の名があるとされます。この複数名を持つ人物はキーマンです。
またの名は、・・・美濃津子娘、造媛、茅渟娘です。複数名を持つのは、他の人物と混同
されているからでもあります。

日本書紀、天智7年
有蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘或本云美濃津子娘、生一男二女、其一曰大田皇女、其二
曰鸕野皇女、及有天下居于飛鳥淨御原宮、後移宮于藤原、其三曰建皇子、唖不能語。或本云、
遠智娘生一男二女、其一曰建皇子、其二曰大田皇女、其三曰鸕野皇女。或本云、蘇我山田麻
呂大臣女曰芽淳娘、生大田皇女與娑羅々皇女。

この複数名で注目したいのは「茅渟娘」です。
押坂彦人大兄皇子の皇子で、寶女王(皇極、斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)の父でもある人
物に茅渟王がいます。またの名はこの茅渟王の娘という名です。
だとすると、そう彼女、遠智娘は宝女王、孝徳の異母兄弟姉妹になります。
なら、王になる資格あります。そして、その娘の持統も継体持統に相応しい人物です。

寶女王のお父さんはこの茅渟王ですが、彼女、寶女王と孝徳は何故王として即位できたのか
謎だとされます。皇位継承においての血統の問題があるからです。
それは、この茅渟王が大王ではないからなのですが、そんなことあるわけないのです。

この茅渟王も、祖父である押坂彦人大兄皇子も当然王だったわけです。
しかし彼らが大王だったことが消されています。だから不思議なことになっているのです。

日本書紀下巻の王は全て厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子からつながります。
そう、初めは彼が王だとして記載されていたのです。後に変更されたわけです。
彼らが、本来の大王家の王たちであり、天武系の大王です。


では、何故彼女、遠智娘は蘇我の娘とされているのでしょうか?
もちろん茅渟王の娘としたくないからですが、おそらく蘇我造媛と混同されているのでは?
この蘇我造媛と遠智娘は別人です。美濃津子娘とはこの蘇我造媛のことであり、遠智娘では
ありません。遠智娘は茅渟王の娘です。

持統のお母さんであり、袁智天皇である遠智娘は、娘の持統がまだ幼い頃亡くなって、この
蘇我倉山田石川麻呂の娘、本当は阿部内麻呂の娘の姪娘に育てられたと思われます。
おそらく、遠智娘は、袁智天皇として白雉元年である650年以降、もうひとりの子供である建皇子を
産んで間もなく亡くなった。
おそらく、持統は6才か7才ころになくなり、姪娘に育てられたからです。
大田皇女と建皇子は寶女王(皇極)に、そして持統は姪娘に育てられたのではと思うのですが?


この謎は「皇祖」という尊称をたどれば、問題は解決します。
この天智、天武のお母さんである、寶女王(皇極・斉明)は、皇祖母尊とされます。
この寶女王、軽王のお母さんである、茅渟王の后の吉備姫王は、吉備島皇祖母命の尊称。
持統の兄弟である、大田皇女、建皇子には皇孫の尊称。

そして、何故か、敏達天皇の皇女で、押坂彦人大兄皇子の后である糠手姫皇女は嶋皇祖母命と
されています。彼女はまた、田村皇女、宝王と表記されている。
押坂彦人大兄皇子はもちろん皇祖です。

そして、この茅渟王は敏達天皇の皇女とされる、糠手姫皇女の王子だと思うのですが?
ここ重要なので説明していきます。

舒明の田村皇子と寶女王は、この糠手姫皇女のまたの名(田村皇女,宝王)から名付けられたともされます。
天武、持統に関係すると思われる、伊勢大鹿首小熊の女とされます。

壬申の乱において天武は、吉野より、伊勢に向かいこの地方の豪族の協力を得ることができ
ました。王家が伊勢の神様を祀るのはこの時以降です。

つまり、茅渟王の本当のお母さんは、この糠手姫皇女なのでは?だから嶋皇祖母命なのではないでしょうか?
記紀において茅渟王が、敏達天皇の皇女ではない大俣王を、お母さんとしているのは、
茅渟王―寶女王、軽王を血統において劣るようにされていて、大王ではなかったとするため
です。逆に、舒明は敏達天皇の皇女の皇子として系譜を改竄している。
そして、茅渟王の后の吉備姫王のお父さんである欽明天皇の皇子桜井皇子は、蘇我の王子で
はなく、おそらく宣化天皇皇女から繋がる物部王子だと思います。



継体持統に繋がる、継体上宮家の敏達以降の王家の女系・・・

押坂彦人大兄皇子の后、嶋皇祖母命(糠手姫皇女)―茅渟王の后、吉備島皇祖母命(吉備姫王)
―皇祖母尊(寶女王)、遠智娘―皇孫(大田皇女、持統)

押坂彦人大兄皇子は皇祖、その后の糠手姫皇女は嶋皇祖母命。そして、糠手姫皇女のまたの
名であるとされる宝王・田村皇女や、皇祖の尊称からたどれば、宝皇女のお父さんである茅渟王
のお母さんもまた、この糠手姫皇女なのでは?
この茅渟王の后は吉備島皇祖母命であり、その子の宝女王は皇祖母尊とされます。
このように皇祖の尊称をたどれば、遠智娘の子供たちの、大田皇女、持統は、皇孫とされているわけ
ですから、遠智娘は茅渟王の娘なのではないでしょうか?

押坂彦人大兄皇子―茅渟王―山代大王、軽皇子(孝徳天皇)


日本書紀には、大王と記述されている箇所が何箇所かあります。

日本書紀、 舒明天皇条即位前
時、大兄王、使傳問群大夫等曰「天皇遺詔奈之何。」對曰、臣等不知其深、唯得大臣語狀、
稱、天皇臥病之日、詔田村皇子曰「非輕輙言來之國政。是以、爾田村 皇子、愼以言之、不
可緩。」次詔大兄王曰「汝肝稚、而勿諠言、必宜從群臣言。」是乃、近侍諸女王及采女等、悉
知之、且大王所察。

山背大兄王が、「天皇(推古)の遺詔とはどういうことか?」と問うたところ、群臣が大臣
(蘇我蝦夷)が語ったところ(田村王子と大兄王にたいする遺詔)を答える箇所ですが、
最後の「且大王所察」の大王が誰だかわからない。

推古は天皇と表されているわけですし、話の内容からも、この大王はもちろん推古ではない。
そうこの大王とは、押坂彦人大兄皇子の子である茅渟王のことです。
推古が天皇の時代に大王だったのは、この押坂彦人大兄皇子と茅渟王です。

遠智娘が茅渟王の娘なら、寶女王とは、おそらくお母さんが異なる姉妹であり、
持統、大田皇女、建皇子とはさらに近い関係になります。
寶女王は言葉を発せられなかったとされる建皇子を可愛がったのはよく知られています。

漢風諡号の持統は淡海三船により「継体持統」から持統と名付けられたとされます。
それは、天武天皇の皇子、淳仁天皇の御代だと考えられています。
わたしには、継体持統の漢風諡号は、淳仁天皇の後世へのメッセージに思えてならないのですが?
持統は天智の娘ではないかもしれません?



下の写真は、明日香にある、吉備姫王(吉備島皇祖母命)のお墓と、中にある猿石と呼ばれる石
像物です。梅山古墳の付近から出土したものが今の位置に置かれているそうです。
この梅山古墳(檜隈坂合陵)は欽明天皇陵墓とされますが、どうでしょうか?
この吉備姫王のお墓は、梅山古墳の陪塚です。
当然、夫である茅渟王のお墓なのでは。そう茅渟王は大王でした。

そして、となりの見瀬丸山古墳も欽明天皇陵ではないのでは?
この見瀬丸山古墳 の被葬者は謎だとされています。
この古墳は、巨大な前方後円墳であるので、もちろん本来の王のお墓です。
梅山古墳は茅渟王のお墓であり、その梅山古墳のそばに並んで造られていること
からも、元は押坂彦人大兄皇子 の王子の茅渟王の弟の山代大王のお墓だと思う
のですが?そこに父である押坂彦人大兄皇子が、後に改葬されたのかな。

おそらく、吉備姫王と欽明天皇は関係ないように思います。
下段の写真は、梅山古墳(檜隈坂合陵)近くの天武、持統合葬墓だろうとされる檜隈大内陵です。










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