聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

かみなが姫の物語、藤原宮子の謎

2019年10月31日 | 日本書紀の謎


文武天皇の妃である藤原宮子は、藤原不比等の娘とされますが不思議な話が語られています。宮子は藤原不比等の娘であるということが事実なら、宮子は藤原氏の娘で初めて天皇の母となった女性になり藤原氏にとっても重要な人物になります。
藤原氏は天皇家と関りを持ち、子供の聖武天皇を天皇に即位させました。この後、藤原氏は天皇家の外戚となることで権力を得ることになります。藤原摂関政治の始まりです。

しかし、安珍・清姫で有名な、和歌山県御坊市にある道成寺には、藤原不比等の娘とされ文武天皇の妃となったとされる、不比等の長女であるこの藤原宮子は、実はこの地域の漁師の娘であったとの伝説が今も語り継がれています。

今回は、聖武天皇のお母さんである、かみなが姫こと宮子のお話です。かぐや姫のモデルともされる絶世の美女です。
梅原猛氏の著書である「海人と天皇」で有名になりましたが、宮子姫の伝説はあまり知られていないことです。
私も地元ともいえますので、この伝説は小さいころから知っていました。そして「海人と天皇」読んで以来、長らくこの、かみなが姫の物語を考えてきました。

もう1300年程も語り継がれている伝説です。これだけ長くに伝えられているのは真実
だからだろうとも思いますが、どこかにいまだ隠された謎があるのではないのか?

いままで系譜改竄の謎について考えてきました。こういう不思議な話がある箇所が系譜改竄の箇所であるように思えるからです。藤原氏の女性が初めて王家と関わったということになる宮子は、藤原氏にとっても、そして系譜改竄においても重要な人物です。

天武大王の王子の高市大王、その王子である長屋大王が本来の大王家の正統な大王たちだとういうことがわかれば、系譜が変更された箇所について案外容易に推測できます。(*^▽^*)


道成寺に伝わる、かみなが姫の伝説は、藤原氏にとって重要な人物である藤原宮子は不比等の娘ではないとの話です。道成寺の由緒として藤原氏は何故にこの伝承を残したのだろうか?。なにか隠されている真実があるのではないのか?

伝説のおおまかな話です・・・
九海士(くあまの里)今の和歌山県御坊市湯川町下富安。漁師の夫婦(村長ともされます)に娘が生まれました。名前は「宮」といいました。
娘は成長していったのですが、なぜか髪の毛が生えてきませんでした。

海に潜って漁をしていた母親(あるいは娘である宮自身)は、海中で小さな観音様を見つけました。この観音様を毎日拝んでいると、髪が生え始めました。やがて、かみなが姫とよばれる美しい女性に成長していきました。

藤原不比等は、この少女を自身の養女とし、そして宮廷内にいれました。
やがて、この絶世の美女が、文武天皇の妃となり藤原氏の娘で初めて天皇の母となった女性になりました。
聖武天皇のお母さんである、かみなが姫こと藤原宮子です。
道成寺創建の由緒でもあります。
   ************************
藤原不比等は、この美しい少女を見つけ養女とし、天皇の妃にして王家と関りをもったということですが、この伝説においての不思議な話、つまりありえない事柄についてですが・・・
どうして漁師の娘が宮廷に入れたのかというところです。絶世の美女ということだけでは、本来は無理なのです。天皇の妃になるには、それなりの身分。つまり地方の豪族の娘位の身分が必要なわけです。

藤原不比等の娘ということなら、おかしくはないとも言えますが、伝説のように養女ということなら本来ははありえないことです。
だから宮子は地方豪族の娘であるはずです。この豪族の名が消されているのは、藤原氏と敵対していた豪族だからです。

この藤原氏の娘として系図を変更したのは後の話であり、本来の事実はそうではないのではとも思えるのですが?

「尊卑分脈」や続日本紀においては、藤原宮子は、不比等と、賀茂小黒麻呂の女である賀茂比売の娘とされます。これが事実なのだろうか?あるいは伝説の方が事実なのだろうか?
「海人と天皇」において梅原猛氏は、養父が不比等であり、養母がこの賀茂比売であり、この系図に組み入れたと考えられとされます。これはこの通りのように思います。

しかしこの系図を変更したのは、つまり藤原の娘だとしたのは、後の時代、息子の首(おびと)を聖武天皇として天皇に即位させた時だろうと思うわけです。
それは藤原氏、不比等の娘である光明子が、聖武天皇の后になったからです。聖武天皇は、藤原氏が初めて王家と関わる人物であり、藤原氏はこの聖武天皇のほうが正統だと系譜を改竄しています。

つまり、藤原の娘でないのに入宮できたということは本来は宮子はそれなりの身分の女性であるということです。この宮子姫の出自を考えてみます。

藤原宮子は不比等の娘なんかじゃありません。宮子は、やはり地方豪族の娘である。この紀中地方を支配する豪族は、阿部氏に関わる豪族である、塩屋連、塩屋鯯魚である。宮子はこの塩屋連の娘、年齢的には塩屋鯯魚の孫である。そして、何度も記述してきましたが、阿部氏は藤原氏に対抗する大王家側の有力豪族でした。

宮子は阿部氏と 塩屋連との姫王であるという推測をしていきます・・・

不比等による藤原氏を王家の系譜に入れる操作である。
そしてこれは、藤原の操る天皇としての聖武天皇の出自を上げるともいえる操作でもある。

天武天皇と持統天皇の子は草壁皇子です。この草壁皇子と元明天皇の子供が文武天皇です。
ところが不思議なことに文武天皇には正妃がいなとされます。皇后にふさわしい皇族身分の女性が妃の中にいないのです。そんなことは本来ありえません。ですので藤原の娘である宮子が后の中では一番上位に位置します。
ですが、そうなるように本来の后が消されている。

天武大王、第一王子の高市大王、その長男の長屋大王が本来の大王たちでした。藤原氏と敵対していた、高市大王、長屋大王を王に即位していなかったとの操作がなされている。彼らの時代に天皇されている人物は本来の王ではないのです。長屋王の時代、・・・そう聖武天皇もです。

「不改常典」を持ち出して、藤原に繋がる天皇たちのほうが正統だと主張していますが本来は傍系の王たちなのです。

藤原氏が大きく関わる聖武天皇は、直系ではなく傍系の王なのです。この傍系の王の方が正統だとして天智系天皇や藤原氏は系譜を改竄したのです。
改竄のキーマンは持統天皇など天皇に即位したとされるこれら女性たちです。


ウイッキペディア・・・
聖武天皇の即位詔
かつて元明天皇は元正天皇に譲位したとき、天智天皇が「万世に長く改めない常の典として立てたまい敷きたまえる法」に従って、わが子に授けよと命じた。・・・元明は聖武の祖母、元正は聖武の叔母だが、この宣命ではともに聖武を「わが子」と呼んでいる。

孝謙天皇の即位詔(聖武天皇の譲位詔)
詔では、天智天皇が「改めない常の典と初め賜い定め賜える法の随に」天日嗣高御座の業を継げと、元正天皇が聖武に命じたという。自分はこれに従って皇位についたが、身体が耐えないので、「法の随(まにま)に」、すなわち法にしたがって、皇位をわが子に授ける、という。

桓武天皇以降の即位詔
不改常典はこの後しばらく言及されないが、桓武天皇の即位詔で再登場した。その大意は「天皇(具体的には光仁天皇)が天日嗣高座の業を天智天皇の初め定める法に従って受けよと自分に命じた。自分は恐れて進むも退くもできなくなったが、天皇の命なので即位する」というものである。
    ************************

天智が定めたとされるこの「不改常典」。直系の子孫が継ぐという当たり前のことを言っているわけですが、裏を返せば直系ではなかったからです。
これはもちろん天智が定めたのではなく、続日本紀の編纂時に作成されたものです。この元明天皇の即位詔で用いられたのが初めてとされますが、天智系天皇である桓武天皇、藤原氏の時代になって日本書紀を改竄したときに、我々の方が正統だとし取り入れたものです。

系譜を改竄し天智系天皇や藤原氏が関係する天皇たちのほうが正統だとしているのです。実際はそうではなく傍系の人物たちであり、本来の直系の大王たちを滅ぼしたのが藤原氏である。聖武天皇は王ではありません。

天武大王ー高市大王ー長屋大王が本来の大王家の系図です。
この時代に天皇に即位したとされる女性たち、持統、元明、元正は本来の王ではありません。

この元正天皇は、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。とされます。そんなわけありません。皇后でなくては天皇に即位できません。それは、天皇とは皇后ともいえるからですが、元正天皇こそ文武天皇の后であるのでは?
元明天皇に関しては記述してきましたが、彼女の諱である阿部皇女から、阿部氏の関わる女性だと推測してきました。

そしてこの元正天皇もまた阿部氏の関わる女性である。元明の諱の「阿部」、そして、ありえないことに聖武天皇と光明子の娘である称徳天皇の諱も「阿部」なのです。

藤原四兄弟を死に追いやった阿部氏の系譜を消し去っている。長屋王の母親は阿部氏の姫王、阿部明日香である。

聖武天皇と、藤原氏の娘である光明子との娘の諱が「阿部」というのはありえません。
孝謙天皇、重祚して称徳天皇の即位前の名は「阿倍内親王」です。
藤原の娘であるのなら藤原内親王のはずが、なぜか阿部です。藤原の娘なら敵対する「阿部」の名を持つことはありえません。
系図のどこかで阿部氏が関わるはずです。

聖武天皇の父親である文武天皇は、阿部氏の娘である元明天皇との草壁皇子との子供だからともいえますが、やはり聖武天皇の母親である藤原宮子もまた阿部氏の娘、阿部宮子だからではないのか?

元明天皇の諱は阿閇、阿部皇女です。天智の娘とされますが、そうではなく阿部氏の娘である。
蘇我倉山田石川麻呂の娘とされる、遠智娘や姪娘はともに阿部氏の娘であるということです。
天智天皇に嫁いでいるされていますが、そうではなく孝徳大王の后たちである。

つまり彼女たちの娘であるこの元明天皇や、その姉とされる持統天皇は孝徳大王と阿部氏の娘との子供である。
そうでないかぎり、諱が阿部なんてはずがない。


そうすると文武天皇や、聖武天皇も阿部氏が関わる王たちになります。
だから、元明、称徳天皇の諱、本当の名が阿部なのです。

大王家は阿部氏と深く関わってきました。元正天皇と藤原宮子は、阿部氏と塩屋連の娘たちである。孝徳政権において左大臣だった阿倍内麻呂の子である阿倍御主人、年齢的には子供の広庭と塩屋連の娘との子供である。

そして元正天皇の名前からも同様の推測ができます。
元正天皇の諱は氷高(ひだか)・日高ともされます。これも地名から名付けられている。彼女もこの「ひだか」の地で生まれたからです。
すると彼女もまた、かみなが姫なのではないのだろうか?つまり宮子と関係するのではないのか?

この地名である「日高」は今も残っています。かみなが姫の伝説が伝わる道成寺のある御坊市はまさに日高郡の中心地です。そしてこの地を支配する豪族は塩屋連であるわけです。

彼女もまた孝徳政権での有力豪族だった阿部氏と、豪族塩屋連との娘である。
渡来人との争いで都が危険な状態にあったため、孝徳大王は宮を阿部氏の勢力地であった難波に移しています。さらに子供たちを紀南に避難させている。

孝徳政権において左大臣だったのは阿倍内麻呂です。内麻呂の子は阿部御主人です。元正天皇こと、日高と藤原宮子は、この御主人の子供である阿部広庭と塩屋連の娘との子供たちである。阿部御主人の孫娘たちである。
阿部氏と塩屋連は関りがありました。

阿部宮子と、阿部日高である。阿部宮子の子供である聖武天皇は阿部氏の王子なわけです。ですので娘の称徳天皇の名も「阿部」なのです。この阿部氏の系図が変更され消されている。
しかし彼女たちは王家の血がはいっていなく、身分的には高くはありません。この傍系の王、文武天皇と聖武天皇を利用したのが藤原氏です。

有力豪族である阿部氏の娘であることから宮廷にはいれたのです。
長屋王の母親もまた阿部氏の娘である阿部明日香である。
木簡によればこの氷高内親王の、宮は奈良宮の中にありました。
何度も記述してきましたが、藤原氏はこの対立してきた阿部氏の系譜を消し去っている。

ウイッキペディア 元正天皇
聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。
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阿部氏と塩屋連の娘、母親が異なるかもしれませんが、宮子と元正とは姉妹なのではないのか・・・ここは私の推測ですが、・・・姉が元正天皇こと、氷高、妹が宮子。ともに文武天皇妃であるのですが、本来の皇后はこの元正天皇である。しかし彼女には子供いませんでした。
藤原氏の娘である光明子が、宮子の子供の聖武天皇の后になったので、元正天皇は本来の文武天皇の后であるのですが、藤原氏は宮子の方を后として変えている。そして后だったことを消している。
元正天皇は、結婚経験が無く、独身で即位した初めての女性天皇であるとされますが、これはおかしいように感じます。そうではなく、宮子を后とするために文武天皇の后であったことを変更しているから独身ということになっているように思います。

ウイッキペディア・・・辛巳事件
聖武天皇は生母である藤原宮子を尊んで「大夫人」と称するとした勅を発した
公式令によれば大夫人という称号は存在せず皇太夫人があるのみであること、勅によって「大夫人」を用いれば違令となり、公式令によって「皇太夫人」を用いれば違勅になるとして、天皇の判断を仰ぎたいとの上奏を行った。これに対して天皇は先の勅を撤回し、文章上の呼称は「皇太夫人」、口頭での語は「大御祖」とする詔を出して事態を収拾した。
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なんか解りづらい事件ですが、呼称の問題だけではなく、藤原の娘に変更した
のがこの時、つまり藤原の操る王として聖武を天皇に即位させた時であり、
阿部宮子を、藤原宮子に変更し、文武天皇の后にしたからの事件である。

もともと藤原の養女にして文武天皇妃にしたのではなく、聖武を天皇に即位
させた時に母親を藤原の娘に変更したのです。

そして、聖武天皇妃の藤原氏の娘である光明子は、皇族以外で初めて皇后となりました。
臣下である藤原氏の娘ですが、聖武天皇の皇后にするために、宮子の位を上げ、
つまり后にし光明子が聖武天皇の皇后になる先例を作くろうとしたように思う。
つまり宮子は藤原の娘(皇族ではない)であるのですが、すでに文武天皇の皇后
だったとしたいわけです。

「大夫人」なんかより、「皇太夫人」のほうが位が上のようにも感じるのですが、・・・
この勅は撤回したとされますが、もともと「皇太夫人」そして「大御祖」の呼称を
使用したかったのだと思う。それは「天皇」の呼称を使用して歴史を改竄したからです。

長屋大王に対抗して聖武を天皇にしたからです。男性で最初に天皇位に
就いたのはこの聖武天皇かな?しかし天皇は大王ではありません。

推古天皇ー遠智天皇ー皇極、斉明天皇ー持統天皇ー元明天皇ー元正天皇ー称徳天皇

辛巳事件とは、呼称の問題とされますが本来はそうでく系図の変更である。
聖武天皇を天皇に即位させたことにより、母親である宮子もまた天皇の后だったとしたいわけです。宮子を藤原不比等の娘としたことと、本来は皇后ではないのに文武天皇の皇后に変更したことが問題である。

「皇太夫人」の呼称は、天皇の皇后だったという意味でもあり、この呼称を使用したかったのだと思います。
裏を返せば、宮子は文武の皇后ではなかったからです。
文武天皇と后の宮子との子供である聖武天皇の正統性を主張したいわけもあります。
この事件以降に藤原氏と長屋王の対立は激化したとされますが、もともと対立していました。


最後にかみなが姫こと宮子の関する不思議な話について・・・
宮子は大宝元年(701年)に首皇子を出産しましたが心的障害に陥り、なんと、737年にやっと病気は回復し、聖武天皇とは実に36年ぶりに対面したという信じられない話が記述されています。

このありえないような話は、藤原氏と阿部氏に対立によるものだと思います。つまり親子が引き離されていて会えなかったのは敵対関係にあったからです。息子である首皇子は藤原氏の手の中にあったということです。

そして36年ぶりの対面となったのは、長屋王の祟りが関係する。
729年の長屋王の変以降はすでに権力は藤原氏のものでした。
しかし長屋王は祟りました。天平9年(737年)に天然痘により藤原四兄弟は4人とも病死してしまいました。これが長屋王の祟りだということで藤原氏は怨霊を恐れました。
怨霊が祟らないように対立するのではなく、これはいわば懐柔策である。
それは長屋王は高市大王と阿部氏の娘、阿部明日香との子供だからです。
そして宮子も阿部宮子だからです。
737年、長屋王の祟りが大きなものとなった時に、怨霊を鎮めるために36年ぶりの対面となるのです。

写真は道成寺です。


ウイッキペディア・・・道成寺
大宝元年(701年)、文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀大臣道成なる者が建立したという。別の伝承では、文武天皇の夫人・聖武天皇の母にあたる藤原宮子の願いにより文武天皇が創建したともいう
  ****************************
かみなが姫の物語は、聖武天皇の母親である藤原宮子は、藤原氏、藤原不比等の娘ではないとの話です。権力を握った藤原氏は、この道成寺創建の由緒を消そうと思えばできたはずです。何故にこの由緒が残ったのだろうか?という大きな疑問を持っていました。
これは本来の由緒を消すためでもあるようにも思います。

創建の由来は二通りあります、いずれも文武天皇が創建したということですが、大宝元年(701年)に創建というのが本来の由緒である。
しかし文武天皇の創建ではない。この由緒(藤原氏にとって都合の悪い由緒)を消し去るための、かみなが姫の物語でもある。

この「大宝」は長屋大王の元号であり、701年から729年まで在位期間である。ですので道成寺を創建したのは長屋王である。
もうすでに記述してきましたが、大王家と藤原氏は対立してきました。とくに孝徳大王時代に百済救援に関することで激しく対立しました。長屋大王政権において、右大臣に就任したのが阿部御主人です。阿倍内麻呂の子が御主人でその子が広庭です。
「大宝元年三月 大納言生従二位阿倍朝臣御主人を右大臣・・・」

「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」において書きましたが、戦乱によって、多くの大王家関係の人物が殺害されました。次期大王候補である、有間皇子や建王が殺害されたのもこの時期である、そして殺害された場所がこの道成寺のある紀中地方である。阿部氏が関わる塩屋連の勢力地に孝徳大王は子供たちを避難させていたのです。しかしここでも戦いはおき、多くの人々が亡くなりました。
長屋王のお母さんは阿部氏の娘、阿部明日香である。阿部氏は塩屋連と関係します。

かみなが姫の物語については随分と考えてきましたが、道成寺創建の由緒については、私は藤原氏によって殺害された先祖の霊を供養するお寺であり、本来の由緒は母親である阿部明日香の遺言により、長屋大王が創建したお寺であるように思います。
この由緒、つまり藤原氏が王家の人物を殺害したという事実を消すための、かみなが姫の物語である。











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天武、持統陵・・・檜隈大内陵の治定について

2019年10月24日 | 日本書紀の謎


ブログのテンプレートを変更しました。すると長文だと読みずらいですよね。
この記事も前回の投稿に繋げるつもりでしたが新たな記事として投稿します。
ですので、投稿を多くし記事を短くしていきます。


写真は明日香村にある、天武天皇とその皇后である持統天皇の陵とされる檜隈大内陵です。野口王墓といわれます。
古墳時代終末期の古墳で形状は八角墳です。この時代には、王墓は前方後円墳から八角墳に変わっているとされます。
治定が確実な陵墓とされまが、治定には紆余曲折があったようです。

天武持統陵は、隣にある見瀬丸山古墳との見解もあったようです。この見瀬丸山は最終期の前方後円墳であり、巨大な古墳が多くあり古代の都である、奈良県でも最大の古墳です。

この巨大な古墳の被葬者が、誰かわからないといことは本来あり得ません。天皇より大きな古墳に眠る人物はもちろんいるわけないわけですよね。

ところが、この見瀬丸山古墳の築造時期に天皇だとされている人物のお墓はすでに治定されていますよね。見瀬丸山に治定されている天皇はいなく、今は陵墓参考地ということになっています。

するとね、頂点にいる天皇より大きなお墓に眠る人物が他にいるというこですよね。全くおかしい話ですよね。

この古墳はもちろん大王の古墳です。誰のお墓であるのかわからなくなっているのは系譜を改竄し大王だったことが消されている人物です。
大王だった人物を王だったという事実を消し去ったためこの古墳に眠る人物を治定することができていない。
意図的に変更されているわけですから、藤原の時代の文献を参照する限り治定することはできません。

見瀬丸山古墳関しては、もうすでに「聖徳太子御陵、見瀬丸山古墳の謎」のところで書きましたが、・・・大王であることを消された人物、そして奈良県最大の古墳に眠るにふさわしい人物、・・・それは聖徳太子こと、天武が皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大王です。

見瀬丸山古墳は、元は天武の本来の父親である、聖徳太子の王子である山背大兄王こと山代王のお墓でした。
天武の時代になって、蘇我氏によって磯長に埋葬されていた、押坂彦人大王を、子供であるこの山代王のお墓に移葬し、さらに大きな古墳に造り変えたのです。

天武、持統陵とされる檜隈大内陵に関しては、天武陵との治定はいいように思うのですが、持統天皇の謎を考えていると、・・・つまり天武の本来の皇后は額田王だということを考慮するとですが、この古墳に持統天皇が合葬されているとの話には私には疑問があります。

つまり、合葬されているのであれば本来の皇后である額田王の方ではないのだろうか?という疑問からもう一度この古墳の謎を考えてみます(*^▽^*)

いままでは、「大王」と「天皇」、「王子」と「皇子」、はできるだけ区別しながら書いてきましたが、大王と天皇は異なるとする私にはこの「皇后」の呼称についても気に入らないのですが、「王后」ではわかりにくいかな?ですので使用します。

「高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎」のところで書いたことと同様のことが行われているのではないのか?
藤原氏による怨霊封じが行われていたのではないのか?

天武と、天智は兄弟ではありません。天武と天智は対立していました。天武系天皇が滅び、つまり本来の王家が滅び、天智系天皇である桓武天皇、そして藤原氏の天下になったことがこの古墳にも影響している。


天智と対立していたのは天武です。壬申の乱により戦になり、天武側の勝利となり天智側の人物、多くの渡来人たちは戦により殺害されることになったと推測できます。

渡来人である天智系天皇や藤原氏にとってみれば、天武憎しですよね。
この対立はこの壬申の乱で終わったわけではなく、天武以降の時代も続きます。壬申の乱以降の大きな戦いは、長屋王の時代、そして早良大王の時代におきました。

天武天皇ー高市大王ー長屋大王

長屋大王の弟である鈴鹿大王から繋がるのが、本来の大王に即位していた早良大王である。桓武天皇を死に追いやった早良大王もまた天武の後胤、そして聖徳太子こと押坂彦人大王の後胤です。

長屋王ー鈴鹿王、阿部広刀自ー葦原王、井上内親王ー長男が早良親王、次男が他戸親王

長屋王が大王だったという証拠は出土した木簡から明らかです。木簡は一級資料ともいえる物的証拠です。

長屋王は左大臣だったとされますが、そうではなく大王でした。

その木簡には、「長屋親王」との衝撃的な記載のある木簡が出土しました。
長屋王は親王と呼ばれることは本来はありえません。

この「親王」とは「大王」の「王子」(天皇の皇子)という意味です。次の王位継承者ということです。父親である高市王子が大王に即位していなければ、「親王」と呼称されることはありません。

つまり父親である、天武大王の第一王子であった高市王子は大王に即位していたということです。万葉集においても、高市大王のことを、「おおきみ」と呼んでいます。
高市大王の時代に天皇だったとされる持統天皇は本来の王ではありません。「大王」と「天皇」が存在していたのです。「王子」と「皇子」も存在します。


長屋王は大王だったとする証拠の木簡はまだあります。

「長屋親王宮」、親王との衝撃の表記があります。

「吉備内親王大命」この「大命」とは大王(天皇)の命令を表します。
后であった吉備内親王の指示に「大命」が使用されていることからも推測できます。

「長屋親王宮鮑大贄十編」、この 大贄とは、大王(天皇)の食物を表す言葉だそうです。「贄」ではなく「大贄」という記述も重要な意味を持ちます。

「勅旨」と書いた木簡も見つかっている。これも最高位である王位についていた証拠です。勅旨というのは王の命令ということです。「大命」も同様です。これ以外なにものでもない。

「長屋親王宮」と記された木簡が多く出土したため長屋王の邸宅跡とされますが、この地域は本来の大王の宮である「奈良宮」である。
あたりまえですが、「長屋親王宮」の木簡は、父親である高市大王が崩御する以前のものです。高市大王が崩御し、長屋王が大王に即位した後、長屋王の宮は奈良宮になったのです。

「大王」と「天皇」が存在していたように宮も本来の大王の宮である、「奈良宮」と、対立していた藤原氏の宮ともいえる「平城宮」が存在したのです。「平城宮」が本来の宮だというのは藤原氏の主張に他ならない。
平城宮は持統天皇から繋がる元明天皇の宮であるのですが、本来の宮である奈良宮の一部であるのです。

この大王である長屋大王を殺害したのは藤原氏です。藤原氏は長屋王が本来の大王に即位していた事実を変える必要がったのです。早良大王も同様です。
その歴史を変更した書物が、日本書紀である。
現存する最古の日本書紀は平安時代のものです。これ以前の日本書紀が存在しないのは、もちろんこの藤原の時代ともいえる平安時代において内容を変更したからです。古事記も同様です。藤原の都合で変更している。

これだけ物的証拠があるのに、いまだに日本書紀は正史であるとのことで、何ら疑問をもたない学者の多いことか(ノД`)・゜・。


天武と額田王との子供が高市大王であり、高市大王と阿部氏の姫王である阿部明日香姫との子供が長屋大王である。これら系譜が改竄されている。
彼らが大王だった事実が消され、藤原氏と対立し、大王家の系譜に関わった阿部氏の系譜もまた改竄されている。

長屋王は祟り怨霊により、藤原四兄弟は死に追いやられました。この長屋王は、高市大王と阿部氏の娘である阿部明日香との子供である。
この高市大王に仕えていた柿野本人麻呂の挽歌からあきらかです。

恐怖におののく藤原氏は怨霊封じを行いました。彼らの墓が暴かれ、遺体を損傷し怨霊封じが行われている。この藤原の悪逆行為を私は許さない。ここに真実を暴いてやる(~_~;)凸

長屋王のお父さんである高市大王のお墓である高松塚古墳、そしてお母さんである阿部氏の娘、阿部明日香のお墓であるキトラ古墳のことはもうすでに書きましたが同様のことが行われているように思う。


天武陵に皇后である額田王が後に合葬されたとする推測からこの古墳の謎を考えます。

この古墳には不思議な話が残っています。
藤原氏、藤原定家の話は信用できません。ふざけるな藤原、お前たちが盗賊だろう・・・と私は思います。

ウイッキペディア・・・
藤原定家の日記『明月記』の1235年(文暦2年)4月2日・6月6日条に、同年3月20日と21日の両夜に賊が入り、野口王墓が盗掘を受けていることが記録されている。

本古墳は1235年(文暦2年)に盗掘にあい、大部分の副葬品が奪われた。その際、天武天皇の棺まで暴かれ、遺体を引っ張り出したため、石室内には天皇の遺骨と白髪が散乱していたという。持統天皇の遺骨は火葬されたため銀の骨壺に収められていたが、骨壺も奪い去られ、無残な事に中の遺骨は近くに遺棄されたという。
  ****************************
野口王墓が盗掘を受けたとされる、藤原定家の明月記の記述が事実だとしても、遺体を損傷し副葬品を盗んだのは盗賊ではないと思う。
盗賊たちは何も盗んではない。それはもうすでに藤原氏に手によって怨霊封じが行われ暴かれていたからです。真犯人は藤原氏です。

大王家の系図は
天武大王と額田王ー高市大王と阿部明日香ー長屋大王・・・である。
怨霊封じが行われ彼らのお墓が暴かれている。

*まず、天武の王后は額田王である。額田王が亡くなった後は持統が皇后になったとも思われますが、額田王より天武のほうが先に崩御している。
そして、額田王のほうが持統より先に亡くなっている。
つまり、天武陵に合葬されているのは、額田王のほうである。

*盗賊の目的は副葬品であるわけです。それが、遺体を損傷したりするのだろうか?怨霊の祟りというものが信じられていたと思われるこの時代に、盗賊とはいえ目的である副葬品強奪とは関係のない行為をおこなうのだろうか?
天武憎しの藤原氏には遺体を損傷する理由がある。

*骨壺も奪い去られ、遺骨は近くに遺棄されたという話も疑問があります。
キトラ古墳と同様のことが行われている。額田王の遺体を取り除いている。
そもそも持統天皇が火葬されて、骨壺に収められて合葬されていたとの話自体が信じられない。

*藤原氏にとってはこの天武の皇后は持統天皇である必要がある。それは系図を見れば容易に推測できます。

前回に書きましたが、・・・
天武天皇と持統天皇の子供は草壁皇子です。この草壁皇子と、天智の娘であり、持統天皇の妹である、元明天皇との子供が、聖武天皇の父親である文武天皇です。文武天皇の后は藤原不比等の娘である藤原宮子とされます。
そして聖武天皇の后も藤原氏、不比等の娘である光明子です。

持統天皇から繋がります。藤原氏は持統天皇を皇后にしたい理由です。
そして、持統や元明を天智の娘として、天智の血を王家に入れる操作がなされている。

*天武大王のあとは、持統天皇ではなく、高市大王である。持統天皇が天皇に即位したというのならそれは、本来の王后である額田王が亡くなって以降であるはずです。持統天皇は690年に天皇に即位したとされます。すると額田王が亡くなったのは689年であると推測できます。

天武の崩御年は、686年です。この686年から、持統が天皇に即位した年の690年までの王位継承問題の話が藤原氏による嘘話である。

天武大王の後は、すでに大王として高市王子は即位していました。この高市大王は、長屋大王の父親です。長屋王を大王だとしたくないための改竄ですが、木簡の出土により嘘がばれています。


*本当に持統天皇は火葬されて合葬されていたのだろうか?私の推測ではそんなはずはないように思う。合葬されていたのなら本来の皇后である額田王である。額田王は天武の本来の皇后であるとの推測は「額田王の謎と推古天皇」の記事を見てください。
持統を天武の皇后として、日本書紀において改竄したため、天武陵に持統を合葬したとのいわば物的証拠づくりである。

*怨霊封じが行われている。天武の遺体を損傷し、合葬されていた額田王の遺体を取り除いている。高市大王の皇后であり、キトラ古墳の被葬者である阿部明日香の遺体を取り除く行為と同様のことがこの野口王墓でも行われている。

キトラ古墳と同様のことがなされている。怨霊封じである。

副葬品を盗み遺体を損傷した真犯人は藤原氏である。

持統天皇時大王だったのは高市大王であり、実際に政治を行ってきた統治者はこの高市大王です。これが全く理解できていない。

大津皇子の謀反の話も同様に思う。

持統天皇は天皇であり統治者であったとされるために、息子である草壁皇子を次期天皇に即位させたいために、ライバル関係にあっただろうとされる、姉の子供である大津皇子を謀反の疑いで殺害したのはこの持統天皇の意向であるともされます。
しかし、持統天皇は、大王ではなく統治者ではありません。ですのでこの憶測は間違っています。天武の后だったのは事実ですので少しばかりの影響力はあったかもしれませんが、指示をして殺害するような力はありません。
まして姉とされる大田皇女の息子です。そんなことするはずありません。

この時の大王は高市大王です。ですので次の王は長屋王です。
大津皇子を殺害しても、草壁皇子が王に即位できません。ですので持統天皇は関係ないし、大津皇子も謀反を起こす理由がない。

しかも大津皇子が謀反のうたがいあるとの密告をしたのが親友である川島皇子だとされます。ありえないように思います。真犯人である藤原氏の嘘話です。

私は天武の王子であり、もちろん天武側の優秀な大津皇子は暗殺されたのだと思います。天武大王以降も大王家と藤原氏の争いは続いています。




写真は、天武9年に天武大王が皇后の病気平癒のため祈願し建立に着手しました。それが本薬師寺です。今は平城京遷都とともに、西ノ京に移転していますが、写真は香久山宮(藤原宮)そばにある本薬師寺跡です。背景の山は畝傍山です。
この薬師寺跡の周辺の休耕田には、ホテイアオイが植えれれています。
普段はほとんど訪れる人もいないのですが、夏場のホテイアオイの開花時期には沢山の観光客で賑わいます。

完成しないうちに天武天皇が崩御したので、持統天皇がその遺志を継いで完成させたとされますが、間違っています。
完成させたのは、天武と皇后である、額田王の王子である高市大王です。

天武大王の本当の皇后は、額田王です。病気で体調を崩していたのは額田王の方です。天武と額田王のお寺であり、「香久山京薬師寺」である。





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天智天皇と持統天皇の謎

2019年10月16日 | 日本書紀の謎


女系天皇、女性天皇が問題視されていますが、
「天皇」は本来女系であり、初代天皇は推古天皇であり、女性です。
天皇家は蘇我家のことであり、古代の王家とは繋がりがりません。
蘇我馬子により、蘇我氏を大王家に繋ぐ改竄がされていました。
この蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる「天皇記」・「国記」を参照し
藤原氏もまた自家を大王家に繋げ、都合の悪い箇所は変更している。
それが、古事記、日本書紀である。

今回は天武の皇后?であるとされる持統天皇の謎から、藤原氏による系譜改竄の謎を考えていきます(*^▽^*)

たくさん訪れてくれるようになったのに、しばらくの間記事を投稿しなかったのは、皇統が二千年の間、
男系で繋がっているというは事実ではありません・・・という内容だったため、時期が時期なので書き込むのを
控えていたという理由があるのですが、・・・

実はパソコンの不調により保存していた記事が消えてしまった(+_+)
USBメモリーにも保存していたのだけど紛失(~_~;)

やってしまった・・・衝撃の内容だったのに・・・天皇家の系譜、万葉集、柿野本人麻呂、
蘇我氏の謎など・・・消えてしまった。写真も( ノД`)シクシク…


古事記、日本書紀は、蘇我氏の歴史書である、蘇我馬子と聖徳太子(竹田皇子)が編纂したとされる「天皇記」・「国記」に記述されていた「天皇」とは、蘇我の王の呼称である「天皇」の呼称を使用したものである。本来の呼称ははもちろん「大王」であり、天皇家とは元は蘇我家のことである。
「天皇」の称号は蘇我馬子と蘇我の皇子である竹田皇子が作った蘇我氏の王の呼称である。
蘇我の王の呼称が、蘇我氏が滅んだ後は女帝の呼称になり、その後、秦氏、藤原氏が歴史を改竄するときに王の呼称として使用されたものです。
これ衝撃の事実ですが、ここがわからない限り古代の歴史は謎解けません。

そして天皇の称号は、本来は女帝の名称でもあるともいえます。
初代天皇は神武天皇ではありません、推古天皇です。この「天皇記」・「国記」を参照し
「天皇」の呼称を利用したのが桓武天皇、そして藤原氏である。

ですので、天智天皇なんて存在しません。天智が天皇に即位したというのは、天智系天皇である桓武天皇の改竄です。

推古天皇ー遠智天皇ー皇極、斉明天皇ー持統天皇ー元明天皇ー元正天皇ー称徳天皇


残念ながら、そして非常に都合が悪いことに渡来人であるといってもいい桓武天皇と藤原の娘の後胤が後に繋がるということは、今の天皇家は古代から繋がるとされる本来の大王家とはほぼ繋がりがありません。
つまりここが内容的には衝撃的なわけですし、実は書きたくはなかったところでもあります。

歴史書というのは権力者の都合により改竄されたものである。古事記・日本書紀も例外ではない。
権力を握り歴史を変更したのは蘇我氏であり藤原氏である。

今の残る日本書紀は、藤原氏が権力を握った平安時代ののものである。
さらに。古事記も同様です。

歴史とは権力者の歴史である。つまり藤原氏の歴史である。
古事記、日本書紀は藤原氏の都合で変更された偽書です。

私のブログを訪れてくれている人たちは、もちろん古代史に興味がある人が多いはずですよね。
ですので皆様に問いたいことは、この「藤原宮」の呼称に違和感を感じたことはありませんでしょうか?
「宮」というのは必ずしも王の住居を指す言葉ではありません。
「藤原宮」とは藤原氏の宮ということです。藤原不比等の邸宅のことです。

権力を握ったのは藤原氏だというのは容易な推測ですよね。藤原氏により大王家は乗っ取られたともいえます。
ですので、私はこの「藤原宮」の名称が気に入りません。
いつの日にかこの名称が変更されるまで、ブログで書き続けます。


少し厳しい言い方になりますが、・・・
天武天皇、そして持統天皇(本来は高市大王)が新たに造ろうとした宮の名称が、
「藤原宮」、さらに「藤原京」、これおかしいと思う学者さんたちもいないのでしょうか?
「藤原宮」ですよ・・・大王の宮の名を藤原なんて名付けるはずないでしょうに。

こうもそろいもそろって無能な学者ばかりでは、本来の歴史は闇の中に埋もれたままです。
さらに藤原時代・・・もうバカじゃないかと・・・権力を握った藤原氏によって歴史が変えられただろうとの推測もできないのでしょうか?
古代の大王たちは泣いているよ(ノД`)・゜・。

この日本書紀に関して、よく歴史書などを読んでいると出てくる推測ですが、・・・日本書紀は、天武天皇の皇子である舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成したとされます。ですので天武天皇の意向に沿った天武側の視点で編纂されているのではという推測です。

本来はそのとおり、本来の大王家の人物である天武側の視点での歴史書なのですが、後に藤原氏の都合で変更されている。
今に残る最古の日本書紀は、藤原の時代、桓武天皇時代になって藤原氏の都合にによって変更された偽書である。
古事記も、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたとされますが、この時代のものは現存せず、今に残る最古の古事記は、14世紀のものである。それは、もちろん日本書紀と同様に内容を変更したからです。

内容を変更しなければならない理由、それはもちろん、何度も記述してきましたが、大王家と対立し
多くの人物を殺害してきたからです。
大怨霊となっているのは位が高い人物、長屋王や早良大王も本来は「大王」でした。

キーマンは、聖徳太子こと、天武が皇祖と仰ぐ、そう、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある聖徳太子、日十大王こと、押坂彦人大王である。
藤原氏は、特にこの押坂彦人大王の後胤の系譜を改竄する必要があったのです。それは大王家と対立し多くの大王たちを暗殺してきたからです

押坂彦人大兄大王ー山代王ー天武天皇ー高市皇子ー忍壁皇子ー長屋王ー鈴鹿王ー葦原王ー早良親王

押坂彦人大兄大王ー茅渟王ー孝徳天皇ー有間皇子

この間に天皇だったとされる女帝たちは本来の大王ではありません。
天皇と大王が存在したのです。

この押坂彦人大兄大王の後胤と対立してきたのは藤原氏であり、系譜を大きく改変している。大怨霊である長屋王や早良大王も、本来の古代からの大王であり、聖徳太子ことこの押坂彦人大王の後胤である。

大怨霊として恐れられる人物として思い浮かぶのは、平将門もそうでよね。平将門は、なんかファーストサムライのような人物ですが、実は平安時代中期の人物です。ここも誰も指摘していませんが・・・。

この 平将門は怨霊とされ恐れられたのは、「新皇」を自称し、天皇と対立したからではなく、藤原氏と対立していたからである。
そしてどうしてこうも恐れられているのかというと、平将門こそ本来の王家から繋がる人物であるからです。長屋王や早良大王と同様です。

平将門は、桓武天皇の5世子孫ではなく、本来の大王である早良大王の5世子孫である。
平将門は桓武天皇の5世子孫と称して「新皇」なのったのではなく、早良大王の5世子孫として「新皇」を
名乗ったであり、本来の正統な王家に繋がる人物だからです。だから大怨霊なのです。

本来の王家の血が繋がるのが平氏のほうである。桓武平氏ではなく、早良平氏である。ここも誰も指摘していません。

押坂彦人大王以降の歴史を藤原氏によって変更されている。

「長岡京、平安京遷都と桓武天皇の謎」のところで記述しましたので詳しくは書きませんが、・・・
凄く重要なところなので、もう一度。

桓武天皇の后たちをみれば彼が何者か容易に推測できます。
天智系天皇である桓武天皇は百済と密接な関係を持っています。

桓武天皇の母親は、百済系の渡来人氏族である和氏の女性である高野新笠であるというのはよく知られたことであるのですが、后にした女性たちも渡来人が多い。
それは天智天皇が、百済渡来人である秦氏の王子だからです。

桓武天皇は、后27人に、実に16人の皇子と19人の皇女があるとされますが、これは早良大王の后を桓武の后として取り込んでいるからです。

桓武天皇を王家に繋ぐための改竄であり、蘇我馬子が蘇我氏を王家に繋ぐ改竄と同様の手法を用いている。

多くの系譜の改竄に関しての手口、本来の王家の人物を自家に取り込んでいる。蘇我氏の手法を藤原氏は真似たのです。
系譜改竄の手法である。

藤原種継暗殺事件において、多治比氏、多治比浜人が処罰されていることからも推測できます。
多治比氏は大伴氏などとともに反藤原の豪族である。その多治比氏の娘が桓武天皇の后であるはずはない。
多治比真宗は、本来の大王である早良大王の后である。
長男である葛原親王はこの本来の大王である早良大王の王子である。
つまり、桓武平氏ではなく、早良平氏である。
平将門は、桓武天皇の5世子孫ではなく、早良大王の5世子孫である。

藤原氏の娘と渡来人の娘以外は、早良大王の妃たちである。

それと、藤原の娘とされている、自らの系図に取り込む改竄である、
王家の娘を藤原の娘として取り込んでいる。

皇后とされる藤原乙牟漏も阿部氏の娘、阿部乙牟漏であり早良大王の皇后である。藤原旅子は大伴旅子である。
桓武天皇は、秦氏、藤原氏に関係する渡来人の王である。

これは桓武天皇の妃たちを見れば一目瞭然でしょうに。藤原氏と渡来人の娘ばかりじゃないですか。
なぜかというと、桓武天皇は渡来人である天智から繋がる秦氏の王だからです。
藤原氏は中臣氏なんかではありません。藤原氏の祖、鎌足も百済からの渡来人です。

桓武天皇の都は平安京ですが、なぜに奈良から京都に都を移したかというと、
この平安の地は元は秦氏が開発した秦氏の本拠地だったからです。

天智天皇の近江京もまた同様です。平安京も、近江京も渡来人の都です。
天智は天皇ですが、本来の王ではありません。その天智から繋がる桓武天皇も本来の王ではありません。

天智天皇は長らく即位しなかったのは謎だとされますが、はっきりいって
天智は王(天皇)には即位してません。あたりまえだけど、王に即位できる身分ではない。
天智が天皇に即位したとされるのは、桓武が王座を奪ったからです。

天智天皇から繋がる桓武天皇もまた渡来人、秦氏の関係する王であり、桓武は自らの即位を
正当化するために、天智を天皇に即位していたと歴史を後に改竄したのです。
この歴史を改竄したという歴史書が日本書紀である。
天智と天武は兄弟であり、天智が天皇に即位していたというのは、この桓武天皇による改竄です。


天智天皇は秦氏と関わる渡来人である。
日本書紀、天智天皇条をみれば百済との関係を容易に推測できます。
私なんかこんなこと書かなければいいのに・・・って思うのだけど、もう本当に
天智朝と百済の関係を容易に推測できます。
天智朝は百済国だということです。その天智天皇から繋がる桓武天皇の平安京もまた百済国である。

この時代、多くの渡来人(特に百済から)が朝鮮半島の戦乱の中、倭国に渡ってきています。
そう百済は滅亡の危機にありました。

祖国を捨てて、はるばる倭国に亡命してきたの百済からの渡来人たちの多くは一般の民衆ではありません。彼らは百済の王家に関係する支配層の人々だと推測できます。それは支配階級の人々は殺される運命にあるともいえるからです。

この亡命渡来人たちが頼ったのは、すでに土着し倭国で基盤を築いていた百済からの渡来人集団である秦氏である。そして百済復興のため、彼らは倭国を百済に味方するように画策します。

これが悲劇の始まりである。倭国、孝徳政権は唐、新羅と同盟を結ぼうとしていたのです。秦氏、藤原氏と蘇我氏や王家との対立はこの朝鮮半島の情勢が大きくかかわります。


日本書紀  天智天皇条

四年春・・・是月、勘校百濟國官位階級、仍以佐平福信之功、授鬼室集斯小錦下。其本位達率。復、以百濟百姓男女四百餘人、居于近江國神前郡。三月癸卯朔、爲間人大后、度三百卅人。是月、給神前郡百濟人田。

五年・・・是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國。凡不擇緇素、起癸亥年至于三歲、並賜官食。倭漢沙門智由、獻指南車。

八年・・・又以佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人、遷居近江國蒲生郡。
     **********************
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたとされますが、必ずしもそうではなく、唐の主力軍が百済の地から離れると、各地で反乱が起きます。最終的には白村江の戦いの後に百済は滅亡します。
以前にも記述しましたがこの戦乱の時期に多数の渡来人が百済から亡命している。
そして天智天皇は彼らを保護し、重要な階級に就けているようなこともしている。それは天智天皇は秦氏の関わる王だからです。
この天智条にある、亡命百済人の大半は百済の王族や貴族などの支配階級の人々だと推測できます。
ここに記述のある数だけでも三千人以上もの人々が亡命してきます。残っている百済の支配層ががそのまま倭国に移ってきたといってもいいくらいです。

そして天智天皇は、自らの都である近江京の近くに亡命渡来人たちを住まわせます。記述にあるように、近江神前郡や近江蒲生郡です。

そして亡命した彼らを重要なポストに用いることもしています。本来はありえません。

十年・・・是月、以大錦下授佐平余自信・沙宅紹明法官大輔、以小錦下授鬼室集斯學職頭、以大山下授達率谷那晉首閑兵法・木素貴子閑兵法・憶禮福留閑兵法・答㶱春初閑兵法・㶱日比子贊波羅金羅金須解藥・鬼室集信解藥、以上小山上授達率德頂上解藥・吉大尚解藥・許率母明五經・角福牟閑於陰陽、以小山下授餘達率等五十餘人。

童謠云、

多致播那播 於能我曳多曳多 那例々騰母 陀麻爾農矩騰岐 於野兒弘儞農倶

     **************************
ここに記述されている人物の多数は百済からの渡来人です。もちろん支配階級であった人物たちであり、
彼らを天智朝の重要なポストに用いている。
そして続いて記述されているこの意味深な歌を見てください。
歌の意味は・・・
「橘の実はべつべつの枝に生っていますが穴をあけて通すときは同じ糸でとおします。」

百済からの渡来人を自らの政権の重要なポストに就ける話の後のこの歌、これ、百済と我々は同胞
だと言っているような歌に思えますよね。
出生地は異なっても同胞は一つに纏まるという意味に私には思えるのですが・・・?
ともかく、天智天皇は百済と深く関わっていることが推測できますよね。

いままで記述してきましたが天智天皇と藤原氏は多くの暗殺を行い、百済を助けるために朝鮮出兵を行っています。
それは天智や藤原氏はこの百済に関係する渡来人だからです。秦氏の王子が天智である。
秦氏の族長である秦河勝の妹の孫が天智天皇である。

これら新たな百済からの渡来人と、以前から渡来していて土着していた渡来人、秦氏が百済復興の兵を倭国で上げたのです。

倭国、孝徳政権は、本来は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。
しかしこの百済復興を目指す渡来人たちのクーデターが勃発したのです。
これが孝徳大王と天智との争いの真実です。

白村江の戦はこの渡来人たちのクーデターによる出兵であり、壬申の乱もまたこれら渡来人と王家との争いである。

壬申の乱は皇位継承の争いとされますが、そうではない。天智は王ではありません。
もちろん皇子である大友皇子も王ではありません。
天智が天皇に即位していたというのは、天智系天皇である桓武天皇による後の改竄です。
天智の近江京は百済国であり、渡来人のによって作られた国である。
こちらのほうが本来の都であると改竄したのは、桓武天皇や藤原氏である。
それは天智が渡来人であるなら、桓武天皇は王に即位できないからです。
書きたくはないところですが、渡来人による王家簒奪である。

改竄された歴史書である、日本書紀・古事記を正史とするかぎり古代の歴史は歪められたままである。

白村江の戦いには、これら多くの渡来人が参戦し敗北のため渡来人勢力は弱体化しました。
この機をとらえ本来の大王である天武は戦いを挑んだのです。逃亡中であるともいえる天武に何万人ともいえる加勢がありました。
多くの豪族が天武に味方したのはこれが理由です。

壬申の乱の主な戦地はこの近江である。この近江は渡来人の国、百済国である。
大王家と渡来人との争いを、皇位継承の問題にすり替えている。
本来の大王家の人物である天武と、渡来人である天智は兄弟ではありません。
ですので天智天皇から繋がる桓武天皇は、この天智の出自を変更する必要があったのです。


この天智天皇の系譜の謎を考えていきます。天智系天皇である桓武天皇は、天智天皇を大王家の系譜に入れる必要があったのです。

系譜変更のキーマンは天智天皇の娘であり、天武天皇の皇后であったとされる持統天皇です。この持統天皇は天智天皇の娘ではない。
そしてもちろん、天皇は大王ではない。天武は大王であり、天武の後は第一王子である高市王子が大王に即位している。

万葉集、柿野人麻呂の挽歌にあるように、この高市大王の宮の名は「香久山宮」である。「藤原宮」ではなく「香久山宮」である。
藤原宮とは藤原不比等の邸宅のことであり、持統はここで天皇に即位したのです。
でも持統は天皇に即位した・・・これ真実なのだろうか???

この「藤原宮」の方が本来の宮であるとの記述は、もちろん藤原氏による改竄である。

そしてこの高市大王の皇后は同じく柿本人麻呂の挽歌から推測できるのですが、阿部氏の娘である阿部明日香である。

孝徳政権の時に、左大臣だったのが阿倍内麻呂である。
この対立していた阿部氏の系譜を消し去っている。持統天皇はこの阿部氏にかかわる女性である。
持統は天智の娘ではない。この阿倍内麻呂の娘である。

天智天皇の4人の娘を、弟である天武天皇の妃にしたという不思議な話が系譜改竄の重要な箇所である。
これは天智の血を大王家に繋げる操作といえます。

天智の娘とされる、大田皇女・鸕野讃良皇女・大江皇女・新田部皇女の4人の娘は、孝徳天皇と阿部氏の娘たちとの子供である。
天智の娘ではなく、阿部氏の娘たちである。

系譜改竄のキーマンは、長屋王です。藤原氏は本来の大王だったこの長屋大王を殺害しました。
長屋大王は本来の王だったとという証拠は、木簡の出土により明らかです。


藤原氏は、死に追いやった長屋王、そして藤原四兄弟をこの長屋王の怨霊により殺された恨みを持ちました。

この長屋王を大王に即位していたとしたくないのです。藤原氏による系譜改竄は、ここからです。対立していて殺害してきた大王家の人物たちの系譜を変更する必要があったのです。

ここから天武、持統以降の系譜の改竄を考えていきます・・・

この長屋大王を王ではないと系譜を改竄するには、父親である高市王子を大王に即位していないとすることです。
それは高市王子のお母さんの身分を変更することです。
天武天皇の第一王子であるのに、この高市王子は大王に即位したとされていません。そんなはずはありません。
実際に通説は、即位できなかった理由はお母さんの身分が低かったというのが大きな理由とされます。

高市王子のお母さんは、胸形徳善女の尼子娘とされます。ここが系図変更箇所であり身分の低い女性に変更している。

「額田王の謎と推古天皇」のところで書きましたの詳しく書きませんが、高市大王の本来のお母さんは、天武の本来の皇后であり大王家の姫王である額田王です。


この額田王の系図を変更し、天武の皇后を持統天皇にしている。持統は天武の后であるのですが皇后ではない。
藤原氏はこの持統を利用し、本来の大王家の人物の系譜を改竄したのです。

それは、聖武天皇の后が藤原氏の娘、光明子だからです。藤原氏は、持統天皇が天武の皇后であるとする必要があったのです。

系図を遡ってたどれば改竄の推理は容易です。

天武天皇と持統天皇の子供は草壁皇子です。この草壁皇子と、天智の娘であり、持統天皇の妹である、元明天皇との子供が、聖武天皇の父親である文武天皇です。聖武天皇の后が藤原氏の娘、光明子です。

聖武天皇は持統天皇から繋がります。つまりここです。持統を天武の皇后にする必要があるのです。本来は聖武天皇は傍系の人物です。

聖武天皇は王家の人物であるのですが、彼こそ本来はお母さんの身分の問題で王に即位するのは遠い人物だったのです。
藤原不比等の娘とされる、藤原宮子です。宮子は不比等の娘ではありません。

そしてこの藤原不比等は、天智天皇の落胤という説も桓武天皇による改竄である。

つまり、聖武天皇を正統な王位継承者とするには、持統を天武の皇后にすることです。
そして額田王の身分を下げることです。そして彼女たちを天皇に即位したとの操作がなされている。

持統天皇は本当に天皇に即位したのだろうかという謎まで考えてみます。
これも桓武天皇による改竄ではないのか?

もうすでに記述してきましたが、持統天皇もまた孝徳天皇の娘である。
ですので持統は本来天武の皇后ではないものの彼女の身分に問題はありません。
問題なのは、聖武天皇のおかあさん、髪長姫こと藤原宮子です。彼女は藤原氏、
不比等の娘ではありません・・・ここは次回に書きます。


この持統天皇の系図の変更について・・・
持統天皇の母親は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘とされます。
妹は姪娘です。ともに天智天皇に嫁いだとされます。
蘇我の娘が天智に、よくよく考えればありえませんよね。

「蘇我氏と藤原氏による系譜改竄の謎」のところで書きましたが、蘇我倉山田石川麻呂という少し奇妙な名は石川氏が渡来人を束ねるこの時代の最有力豪族である蘇我氏に繋いだ名だと思うのですが?

そして遠智娘は、天智との間に建皇子と大田皇女、そして鸕野讃良皇女(持統天皇)を生んだとされます。
天智天皇はこの遠智娘を得て大変喜んだとされます。ですので私も初めはこの遠智娘だけは天智に嫁いだのだと思っていました。これは間違いでした。

遠智娘は、またの名を造媛、美濃津子娘、越智娘とも伝えられているとされます。
このまたの名が多い人物は他の人物と混同されている。そして意図的に変更している。遠智娘と造媛、美濃津子娘は別人です。
蘇我倉山田石川麻呂の娘が造媛、美濃津子娘です。

遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり長女である阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。
ですので天皇に即位したのです。孝徳大王の皇后ということです。

持統天皇は天智の娘ではなく、孝徳大王の子供であるとの推測は、以前に書きましたが「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」において記述のある「袁智天皇」から推測できます。

孝徳大王の宮である難波宮にいるとの記述からの容易に推測できます。
袁智天皇とはこの阿倍遠智娘のことであり、孝徳大王の皇后である。

大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」
  ***************************
天皇の呼称は蘇我の王の呼称であるのですが、女帝の呼称(つまり皇后)でもあるのです。初代天皇は推古天皇です。
乙巳の変により蘇我氏が滅んだ後に女帝の呼称になったのです。650年に天皇に即位したのが阿倍遠智娘、袁智天皇です。
推古天皇ー遠智天皇ー皇極、斉明天皇ー持統天皇ー元明天皇ー元正天皇ー孝謙天皇、称徳天皇

この女帝の称号「天皇」を用いて系譜を改竄している。

この系譜の改竄の謎を考えてみます・・・
袁智天皇こと阿倍遠智娘と孝徳大王との子供が持統天皇である。阿部氏憎しの藤原氏はこの阿部氏の系譜を消し去っている。
藤原四兄弟を祟りにより死に追いやった長屋王の怨霊、この長屋王は高市大王と阿部氏の姫王である阿部明日香との子供だからです。

以前から書いてきましたが、系図を変更しているのですが名前まで変更していない。これが改竄の謎ときの手掛かりとなる。

遠智娘の妹である、姪娘の子供たちの名からも推測できます。

蘇我姪娘は天智天皇との間に、御名部皇女と阿閇皇女(元明天皇)を生んでいるとされます。
この二人の娘の名前から系図の改竄を推測してみます。

特にこの元明天皇の名からの推測は容易です。
元明天皇の諱は阿閇(あへ)。阿部皇女ともされます。
何故に元明天皇は阿部の名がつくのでしょうか?おかしいですよね。
蘇我倉山田石川麻呂の娘、蘇我姪娘の子供であるなら、蘇我皇女のはずですよね。これはありえません。

姪娘は阿倍内麻呂の娘である、阿部姪娘である。だから娘の名が阿部皇女なのです。
同様に姉である、遠智娘も阿部遠智娘である。

阿部遠智娘は孝徳大王の皇后であり、持統天皇のお母さんである。

この阿倍氏の系譜を変更している。それは孝徳大王の側近であり、天智、藤原氏の敵対勢力であったからです。
藤原四兄弟を呪い殺したとされる大怨霊である長屋王のお母さんも阿部氏の娘である。ここも変更されている。
そして長屋王が本来の大王だったことが、改竄しなければならなかった理由である。


孝徳天皇は奈良の地を離れ、なぜか難波に遷都しています。それはこの阿部氏の勢力下に避難したのです。
今もこの阿部の地名、阿倍野は残っています。
阿部氏は藤原氏と対立していた孝徳側の有力豪族である。
この孝徳政権で左大臣だったのが、阿倍内麻呂である。

奈良の都は渡来人勢力により危険な状態にあったのです。孝徳政権は百済援護のための朝鮮出兵には反対していたからです。
蘇我氏もまた朝鮮出兵には反対の立場だったのです。孝徳政権に蘇我氏系豪族を多く重用したのはこれが理由です。
孝徳天皇が乙巳の変を引き起こした黒幕であるという説がありますが間違っています。
乙巳の変は蘇我氏の専横が理由なのではない。百済救援のための出兵に反対の立場である蘇我蝦夷、入鹿の暗殺である。
藤原の時代の日本書紀なんて信用できない。ふざけるな藤原( `ー´)凸

倭国は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。渡来人によるクーデターが起きたのです。

そしてもう一人の娘の名、御名部皇女から彼女たちのお母さんも推測できます。
彼女の御名部の名は地名から名付けられている。和歌山、紀南の地名の「みなべ」からです。
今もこの地名、(日高郡南部)は残っています。
彼女もまた、危険な渡来人勢力のいる奈良の都から離れ和歌山南部に移住しここで生まれたか、
あるいは育ったからの名です。

万葉集 巻九ー1669
三名部(みなべ)の浦 潮な満ちそね 鹿島なる 釣りする海人を 見て帰り来む


奈良の都が危険な状態にあったため、孝徳大王は子供たちである有馬皇子や建皇子を紀南の地に避難させている。
ここは阿部氏に関わる豪族である、 塩屋鯯魚の勢力地である。
そしてこの地で、有馬皇子や建皇子は暗殺されている。有馬皇子の事件は、大王家と渡来人との戦争の中亡くなっている。建皇子もまたこの争いの中で殺されている。
姪娘は阿倍内麻呂の娘であり、お母さんはこの紀南の豪族である、塩屋鯯魚の娘である。
そして藤原氏の系譜に関わる重要な人物、藤原宮子もまたこの塩屋鯯魚の娘である。

阿倍内麻呂と塩屋鯯魚の娘の子供が元明天皇やこの御名部皇女のお母さんである阿部姪娘である。
有間皇子の謀反の事件の時に連座した4名のうち、有間皇子とともに処刑されたのが、
塩屋鯯魚と新田部米麻呂とされまが、本来は渡来人との戦争である。
この塩屋鯯魚や新田部米麻呂は阿部氏と関わる孝徳大王側の豪族である。

この御名部皇女を蘇我倉山田石川麻呂の娘として、阿部氏の系図を変更し、 高市大王の妃に変更し、
本来の高市大王の皇后である明日香皇女の系図を変更している。
それは、長屋王はこの明日香皇女の子供であり、本来の大王であるからです。
これは、万葉集にある柿本人麻呂による明日香皇女への挽歌から容易に推測できます。

この明日香皇女のお母さんは阿倍内麻呂の娘の橘娘です。この系図は変更されてはいないのですが、天智天皇の妃ではない。
孝徳大王の妃であり、これも子供たちの名前から推測できます。
明日香皇女と新田部皇女の二人ですが、この新田部の名から改竄箇所を容易に推測できます。
そう、阿部橘娘は、阿倍内麻呂と新田部氏、新田部米麻呂の娘との子供である。
上記したように新田部氏は孝徳大王側の豪族である。

新田部皇女は、天智天皇と阿倍内麻呂の娘である橘娘との娘とされますが、
孝徳政権で、左大臣であった阿倍内麻呂は自身の娘である橘娘を敵対する渡来人の天智天皇に嫁がせるわけない。

孝徳天皇には子供一人、この有間皇子しかいません。そんなことありえません。

阿倍内麻呂の娘たちは孝徳大王に嫁いでいる・・・
孝徳天皇は有間皇子しか子供がいなかったとされますが、ありえません。
そして以前にも書きましたが系譜変更により、年齢も変更している。

遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり
長女であり阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。

 阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良皇、建皇子

 阿部小足媛・孝徳大王ー有間皇子

蘇我姪娘は 蘇我倉山田石川麻呂の娘ではなく、阿倍内麻呂と塩屋鯯魚の娘との子供である阿部姪娘である。
そしてもちろん天智の后ではない。

阿部姪娘・孝徳大王ー御名部皇女 (高市大王妃)元明天皇

阿倍内麻呂と新田部米麻呂の娘との子供が阿部橘娘であり、天智の后ではなく孝徳大王の后である。

阿部橘娘・孝徳大王ー明日香皇女(高市大王皇后)と新田部皇女 (刑部大王妃)

これが天智の娘を天武に嫁がせたという不思議な話の真実です。
天智の血を大王家に繋げるための改竄である。


天智天皇と藤原氏は深く関係します。大王家と対立していた藤原氏は、我々の関係する人物の方が
正統な王であると改竄したものが日本書紀である。
正史とされますが、とんでもないことです。

まだまだ続きます・・・



「神武天皇と応神天皇の謎と倭の五王」のところでも書きましたが、天智天皇の諱は葛城です。これ何故に天智の本来の名は、葛城なのだろうと不思議に思いますよね。葛城?だってあなた渡来人の皇子でしょう?・・・って私なんか思うのですが。天智は葛城氏とは関係しませんよね。もちろん真実ではありません。
もう何度も記述してきたことですが、本来の古代の大王家とは後の物部氏のことです。
この古代の大王家と、対立していたのが葛城氏です。大和王権内の内部紛争です。葛城系の豪族、蘇我氏によって変更された系図、つまり葛城系の王たちのほうが正統な古代の王たちだと変更したもの、・・・天皇記・国記を元に、天智系天皇である桓武天皇の時代に日本書紀・古事記を変更したからです。敵対していた古代の大王家の歴史を変更している。それは、桓武天皇の時代に歴史を変更したときに蘇我氏の歴史書を用い本来の大王家ではなくこの葛城系の王に繋げたからです。

神武天皇というのがまさにこの葛城の王のことです。本来は大和政権の内紛なのですが、この神武天皇はなぜか九州から来たと主張しています。これ大王家こと物部氏が古代において九州から畿内に来たからです。
対抗して我々も九州から来たとしているのです。魏志倭人伝にも関係するのですが、神武天皇は九州南東部の日向国から東征してきたとされます。これは九州北部こそこの物部の支配地であり、九州南西部は狗奴国だったからです。つまり南東部しか空いてなかったからだと思うのですが・・・?
そこから東進したとしているわけです・・・魏志倭人伝の謎はいづれ書きます。

神武天皇というのは、武内宿禰であり、彼は和歌山生まれとされます。この和歌山の地から紀ノ川沿いに奈良盆地、葛城地方にはいり葛城の王となったのが、武内宿禰である。

それは、蘇我氏や葛城氏はこの武内宿禰を祖とすることから容易に推測できます。これが本来、蘇我馬子と竹田皇子が編纂した、蘇我氏の歴史書ともいえる「天皇記」・「国記」において葛城の王であり祖王である武内宿禰こと神武と物部の争いの物語である。日本書紀にも記述されますが、神武天皇は物部氏と戦っています。先に大和に先住していたのは物部だとも記述されています。

天智系天皇や藤原氏というのは渡来人である。天智天皇の諱の葛城は古代において大王家と対立していた葛城氏の名を、桓武天皇の時代に名付けられたものである。欠史八代ともいえる天皇たちはこの本来は葛城の王たちのことでもある。
これは、もちろん蘇我氏が物部氏と争ったことが大きく関係する。







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