聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

倭王品陀 眞 若王

2014年12月26日 | 日本書紀の謎


神様の名前付いてる天皇は三人いますよね。神武に、崇神に応神。
神武も崇神も「はつくにしらすすめらみこと」とされていますよね。
これ凄く重要。

誉田(ホムタ)、品陀(ホムダ?ホンダ)、凡牟都(ホムタ?ホムツ)はすべて応神天皇ということにされていますが、
これ3人とも別人でしかも、ホムタこと応神天皇は架空の人物。
品陀も凡牟都もホムタとは読めない。

蘇我馬子が聖徳太子と共に著した「天皇記」「国記」はこの応神天皇から推古天皇まで。
この初代の神様は、歴史を改竄するための架空の人物。
天皇記っていうのは、蘇我馬子が天皇の名称を使用して歴史を改ざんしたもの。
問題なのは、のちの歴史書はこの偽書を元に著され、天皇の名称を使用していること。


品陀和氣命 坐輕嶋之明宮・・・古事記

品陀(ほむた?ほむだ?ほんだ)ひの御子(みこ) 大雀(おおさざき) 大雀(おおさざき)
佩(は)かせる大刀(たち) 本(もと)つるぎ 末(すえ)ふゆふゆ木(き)のすから
が下樹(したき)のさやさや

この歌は大雀が七支刀を佩刀してる姿をうたったものだともいわれていますよね。
わたしもそうおもうのだけど・・・問題はこの品陀。誉田でも凡牟都でもないですね

これそのままの人物いるでしょう。
そう品陀眞若王(ほんだ ま わかのみこ、わかのおう)。かれが倭王。
大雀は品陀眞若王の子供。
 
それで、七支刀の裏面の文字の問題の箇所
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖音故為倭王旨造■■■世

故為倭王旨造傳示後世・・・ここんとこの解釈なんだけど倭王旨の「旨」を名前だとする
と問題なく読めるのだけど、でもこんな「旨」名の王は記紀にはないですよね。
だから、おかしなな解釈していますよね。

ゆえに倭王旨のために造る。後世に伝え示されんことを。・・・とすればいいいわけでしょう。
この「旨」は「眞」の略字。品陀 眞 若王。

この漢字1字の王こそ、よくいわれている河内王朝の王。

倭王武(武内宿禰・神武天皇)―倭王旨(品陀眞若王)―倭王禰(仁徳天皇)―倭王讃(履中天皇)
―倭王珍(反正天皇)―倭王済(允恭天皇)―倭王興(安康天皇)―倭王武(雄略天皇)

この応神天皇というのは、架空の人物であり、後につくられたものであり、蘇我馬子が
編纂した「天皇記」「国記」においては神武天皇とされていた。
つまり「天皇記」「国記」は神武天皇から推古天皇までで、神武の物語は邪馬台国、
卑弥呼こと台与の後の4世紀はじめのおはなしである。
この神武天皇こそ武内宿禰であるということ。なぜならこの天皇記とは蘇我氏の歴史書
であり、蘇我氏はこの武内宿禰を始祖とするからです。

4世紀はじめに、畿内の大和政権内で内乱があったわけです。これわかりやすくいえば、
大阪対奈良の争い。で、大阪側の勝利になったわけ。
これ神武(武内宿禰)の東征の畿内での物語。
神武(武内宿禰)は葛城の地に宮を建設したわけ。これがいま注目の秋津遺跡です。





          







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