聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

法隆寺、橘寺創建の謎と野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像

2015年11月27日 | 聖徳太子の謎


もう少し、野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の謎を考えてみます。
それは、聖徳太子の生誕の地とされる橘寺は、もとは栢寺だったのではないのだろうかと
思うからです。

何故かっていう理由は、法隆寺の創建を、聖徳太子こと厩戸皇子の時代にもっていく日本書
紀の手法と同じだからです。
創建の由来を聖徳太子御代に持っていき、古くから天皇の発願による勅願寺であるとし、
官営の寺として建設を開始するための手法です。

法隆寺献納宝物である四十八体仏は、1078 年に飛鳥の橘寺から法隆寺金堂に移されたもの
であるのですが、本来は四十九体仏であって、のこりの一つがこの野中寺の金銅造弥勒菩薩
半跏思惟像なのでは?という、木崎愛吉氏の説がいいように思うからでもあります。
ただ、銘文のこの文字「栢」は、「橘」の誤植、つまり間違った文字を刻んだのではなく、
もとは栢寺で、後に橘寺になったのだと思います。

法隆寺金堂日記・・・「橘寺より、小仏49体、永歴2年(1078年)10月8日迎え奉った」


聖徳太子が大きな謎になっているのは、天武が、蘇我の皇子である推古天皇の子の竹田皇子
の事績を、祖父の厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の事績として取り込んだからです。
どうして、天武がそんなに蘇我氏を憎むのか?という理由は、皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大
王や、他の上宮家の王たちを蘇我氏によって殺害されたからです。

斑鳩寺も、この橘寺も、本来は推古天皇の息子の竹田皇子ゆかりの寺だったからですが、
竹田皇子の事績を取り込み変更するには、存在する竹田皇子の宮やお寺など、消し去り、
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の宮やお寺にする必要があったからです。

そして、日本書紀が多くを語らないのは、法隆寺も、この橘寺も天武が、押坂彦人大兄皇子
を祀るために造営したとは書きたくないのです。そう彼が大王だったという事実を語れない
からです。


野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時誓願之奉弥勒御像也
友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也

この銘文の、暦の箇所の4月8日に注意して下さい。
そう、4月8日はお釈迦様の誕生日とされる日ですよね。
ですので、この年に中宮天皇が病気になったので回復を願って仏像を造ったということで
はなく、この銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯開」は、この栢寺が創建された日とい
う意味なんじゃないのかな?
お釈迦様の誕生日は、お寺の創建の日としてはこれ以上ない日ですよね。
銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯開」は創建の記録として残っていて、その文章に後にこの
仏像が制作された時に、お寺の創建の日として冒頭に記述されたものなのでは?

その栢寺の僧たちが、推古天皇が病気になった時に、回復を願ってこの弥勒像を作り、銘文を
記したということなんじゃないのかな?・・・と思うんだけど?
だから、必ずしも606年ではなく、推古天皇が崩御した628年頃にこの仏像は制作された
可能性もあると思うのですが・・・どうなのでしょう?

それで、由緒では、この橘寺は、もとは欽明天皇の別宮であり、聖徳太子はここで誕生され
たとされます。後に斑鳩へ移った後にお寺になったとされます。
それは、推古14年である606年の建立と伝えていますよね。

この仏像の銘文の丙寅年を606年とすると由緒どおりではありますよね。

お寺として新たに創建されたので、聖徳太子がここで勝鬘経を講説したともいえるじゃないですか。
ただ、この聖徳太子とは、推古天皇の子の竹田皇子のことです。

私は、この欽明天皇の別宮というのは、推古の住居になっていたんじゃないのかと思うのです。
ここで息子の竹田皇子(本当の聖徳太子)が生まれたところであり、また、幼くして母が
なくなった厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子を引き取って育てた場所でもあります。
ですので、本来は推古天皇のゆかりのお寺でもあるのです。
推古天皇13年(605年)に、竹田皇子が斑鳩宮に遷るまで過ごした宮です。

四天王寺式伽藍配置をとっていた大寺院だったようです。
竹田皇子が亡くなった時に菩提寺(尼寺)になったと思うのですが、天武があらたに作り直
して、押坂彦人大兄皇子を祀る寺として造営した。もちろん由緒も聖徳太子に変更されてい
ます。ただ、法隆寺と同じく、橘寺はもとの栢寺とは少し位置がことなると思います。
おそらく、橘寺の東側正面の向かいだと思うのですが・・・???


この橘寺が日本書紀に初めて登場するのは天武9年(680年)です。

日本書紀 天武九年・・・
夏四月乙巳朔甲寅、祭廣瀬龍田。乙卯、橘寺尼房失火、以焚十房。己巳、饗新羅使人項那等於筑紫、
賜祿各有差。是月、勅「凡諸寺者自今以後、除爲國大寺二 三以外、官司莫治。
唯、其有食封者先後限卅年、若數年滿卅則除之。且以爲飛鳥寺不可關于司治、然元爲大寺而官司恆治、
復嘗有功、是以猶入官治之例。

この天武九年の記述に注目してください。非常に重要な文だと思います。
この二、三の国の大寺とは、どこでしょうか?
わたしは、法隆寺、橘寺だと思うのです。そしてもうひとつは、おそらく川原寺です。

日本書紀のこの文章は、法隆寺、橘寺を官営の大寺として、建設を始めるための、いわば勅
なわけです。この二、三の国の大寺以外には給付しないとしたわけです。

そして、「唯、其有食封者先後限卅年、若數年滿卅則除之。」・・・
食封が下されてから30年に満たない場合は、30年に至るまでの食封が許されたわけです。
そして、法隆寺資材帳には天武八年には法隆寺に食封が停止したとされます。
これは、他寺からの不満を回避するためのものです。

法隆寺も、天武が祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るために建てたものであり、この天武九年
680年に造営が始まった。同じく橘寺も押坂彦人大兄皇子を祀るために680年に造営が始ま
ったのではないでしょうか。

天智天皇九年
夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。

この天智九年とは670年になります。この年に法隆寺は火災にあって全焼したとされます。
橘寺は、天武九年、680年に火災に遭って十房を焼いたとされます。
創建する以前から存在していて、火災に遭った、という日本書紀の手法はこの橘寺も法隆寺
も同じ。この火災に遭ったというのは、壊して新たに創建するための口実。
火災に遭ったので造り直す。再建するにはお金がかかるから他には給付しないとしたわけです。
法隆寺資材帳の、法隆寺への食封に関することも同様です。
創建の由来を聖徳太子にするために、本来は天武朝に初めて創建されたのですが、以前から、
つまり聖徳太子が実際に関わり建立したという手法です。



写真は、明日香の聖徳太子誕生の地とされる橘寺。

橘寺の名称の由来は、田道間守が持ち帰った橘の実に由来するとされます。

ですが、あたかも、斑鳩寺が法隆寺であるように、この栢寺も橘寺だったように名称変更し
ているのでは?とも思うのですが・・・?
本来は天武朝に創建されたのですが、この創建の由来を聖徳太子こと厩戸王子の時代に持っ
ていき名称も変更している。この手法は法隆寺と同じ。

証拠は、今の橘寺の発掘調査により、7世紀後半の建立とされているからです。
つまり、由緒とは異なるということです。
これは、法隆寺と同様、橘寺の名称は、この7世紀後半に建立した時に名付けられたものな
のですが、由来を聖徳太子の御代に持っていっているということ。

そして、発掘調査により明らかなように、法隆寺と同じく、栢寺はいまの橘寺の位置とは
異なると思います。この橘寺の正面は東になります。これが不思議だともされています。
この東正面の向かいが栢寺だったんじゃないのかと思うのですが・・・?
本来の由緒に加え、さらに天武時代に創建された時に聖徳太子こと厩戸王子の由来としての
話が付け加えられている。

写真は、橘寺です。この680年の勅以降に建設が始まったのはこの橘寺、法隆寺、川原寺?
それに680年11月条にある薬師寺なのでは? 


 

 

             

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の謎と中宮天皇

2015年11月03日 | 聖徳太子の謎


大阪府羽曳野市にある、青龍山野中寺は聖徳太子(竹田皇子)の命により
蘇我馬子が造営したお寺であり「中の太子」と呼ばれています。
法隆寺式の伽藍だったとされます。
叡福寺が、上の太子で、この野中寺が中の太子、下の太子は大聖勝軍寺です。

丁未の乱(587年)において、聖徳太子(竹田皇子)が休息をとった地であり、
聖徳太子の命を受けた蘇我馬子が開基と伝えられています。
塔跡から「庚戌年正月」と刻まれた瓦が出土しました。590年の創建です?

このお寺で、弥勒像が発見されました。おそらくいまのところ、天皇銘のある
仏像では最古ものです。小さな可愛らしい仏像ですが、天皇号が記された
非常に重要な仏像です。

野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時
誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也


この銘文の解釈は難解?だといわれます。解釈が確定しないのは、
天皇号の使用時期と、銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯」に関し
て、・・・4月8日が癸卯なのは、天智5年である666年のみとされているからです。

丙寅年は、666年が非常に有力とされているからです。
本当に666年なのでしょうか?

天皇号の使用に関する問題では、天皇号の使用は天武朝以降が有力と
されているからでもあります。ですので、天智朝だとしても時代が
少しくだります。
だから、まさか、606年だと誰もが考えないから解決しないのです。


この銘文には、いくつかの判読できない言葉があるとされます。
特に、問題なのは、「大旧」「栢寺」「中宮天皇」でしょうか。

銘文の、この文字が「旧」判読できない?ようなのです。大旧はどう解釈
したらいいのか、
いくつかの解釈が示されていますが確定的なものはありません。
この「旧」については、別の字ではないかとする説もあります、「朔」、
「洎」(いたる)とする
説もあるようです。でも旧としか読めないようにも思うのだけど?

ウイッキペディア・・・
「旧」は唐で新しく制定された麟徳暦(儀鳳暦)に対する旧暦(元嘉暦)
の意に解し、この年の
4月が新暦(麟徳暦)では「小の月」、旧暦(元嘉暦)では「大の月」に
あたることから「大旧」
と記したという

儀鳳暦は持統天皇4年(690年)から元嘉暦との並用を始めた
(『日本書紀』持統4年11月甲申条)。
           *************

この解釈はいいように思うのだけど・・・どうでしょうか?

でも、元嘉暦と儀鳳暦の並用でも持統天皇690年以降ですから、666年に
儀鳳暦が用いられていたとするのはおかしいですよね。

元嘉暦は旧暦ではなく新暦なのでは?丙寅年が606年だとすると
新暦は元嘉暦です。
旧暦は、欽明15年(554年)に百済から渡来していた暦博士の
固徳王保孫が、暦法をもたらしたとされます。銘文の「旧」とは
この百済の暦です。

推古12年(604年)に 初めて元嘉暦が用いられました。606年の二年前です。


この仏像は、百済からの渡来人が制作したと考えられますよね。
また、この栢寺の僧たちの中にも渡来人が多くいたと思われます。
それで、彼らは、この自国の百済の暦を使用していたのではないのかな?

丙寅年の四月大旧八日癸卯・・・
つまり、これは、4月は新暦の元嘉暦では「大の月」であるから、「四月大」。
旧歴である百済暦では、八日は癸卯・・・という意味なのでは?



しかも、丙寅年を666年とすると、中宮天皇といわれる人物は存在しません。
斉明天皇は661年に崩御し、天智天皇が即位したのは、668年だからです。

丙寅年は、666年である。天皇号の使用は天武朝以降が有力である。
この2点に固執するかぎり絶対に謎は解けません。
だって666年に中宮天皇なんていないから・・・。


この丙寅年は、推古天皇、聖徳太子(竹田皇子)存命中の606年でいいのではないでしょ
うか?すると、この銘文の解釈は簡単ですよね。

この銘文における、謎とされるこの「中宮天皇」とは、・・・もちろん推古天皇です。
天皇とは蘇我の王の称号です。591年に蘇我の王である天皇に即位したのが推古です。
いまのところ、天皇号の最も古く使用されたものです。
本当の、初代天皇は彼女、推古天皇です。
この「天皇」号の使用例があまりないのは、天皇とは大王ではなく
蘇我の王の名称だからです。
蘇我馬子が編纂した天皇記・国記は、蘇我氏の歴史書です。

さすがにね、天皇号の使用が推古以前というなら、わたしもどうか?と思いますが、
推古なら、なにも問題ないでしょうに。

だって、隋書には多利思比孤(たりしひこ)で、阿輩鶏彌(おおきみ)
だって云っているわけでしょう。男の王で大王だと・・・。
じゃー、このとき天皇号が使用されていなかったら、推古はなんと呼ばれていたので
しょう?最高位の名称は、大王以外ないでしょうに。
これは、大王である多利思比孤と、天皇である推古が存在したということです。

それで、この中宮天皇の中宮とは何を意味するのでしょうか?
この謎も、二人の聖徳太子から謎解ける。

この中宮とは、もういうまでもないのですが、・・・中宮寺のことです。

法隆寺そばにある、中宮寺は、聖徳太子に母親である穴穂部間人皇女の
御願によって創建されたとされます。
ここも聖徳太子が混同されていて間違っています。
仏教に関係する聖徳太子とは、竹田皇子のことです。その母親は推古天皇です。

聖徳太子こと竹田皇子の宮が斑鳩の宮です。推古は、この息子の竹田皇子の宮の
そばに自らの宮を造ったのです。そしてここに住まいしていたのです。
それが後に、残念なことに息子である聖徳太子の方が先に亡くなりました。
推古は自らの宮を、お寺にして聖徳太子の菩提を弔ったのです。

中宮寺は推古天皇の御願で創建されたお寺です。推古天皇は中宮天皇とも
呼ばれていたのでお寺の名が中宮寺になったのです。

丙寅年(606年)の四月に中宮天皇(推古天皇)が病気になったとき栢寺
の僧によって病気治癒を願って作られた弥勒菩薩像です。

それでは、この銘文の「栢寺」はどこのお寺なのでしょうか?橘寺ともいわれます?

木崎愛吉氏の説では、法隆寺献納宝物である四十八体仏は、飛鳥の橘寺
から法隆寺金堂に移されたものであるのですが、本来は四十九体仏であって、
のこりの一つがこの野中寺の仏像なのでは?・・ということだそうです。

つまり、もと橘寺にあったものなので、「栢寺」は、「橘寺」なのではないのか?
という指摘です。これは、なんかいいようにも思うのですが???


竹田皇子のお母さんは推古天皇です。彼女は中宮天皇とよばれていたのです。
そして、斑鳩にある中宮寺は、推古天皇が亡くなった息子の竹田皇子の菩提を弔う
ために造営したものです。本来は、中宮天皇こと推古のお寺なので中宮寺なのです。

ウイッキペディア・・・
中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は400メートルほど東にあった。
塔の心礎は地中に深く埋める形式とする。これは四天王寺、飛鳥寺、法隆寺などの塔心礎
と同様で、創建時代が古いことを示唆する。

写真は、中の太子である野中寺と、下の太子は大聖勝軍寺です。


                                              

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする