聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

卑弥呼の刀

2012年11月25日 | 魏志倭人伝の謎


東大寺山古墳の副葬品である「中平」鉄刀は卑弥呼の刀。
東大寺山古墳は、石上神宮の神宝を管理したとされる、春日市河のお墓。

石上神宮の神様は刀剣ですよね。で、この東大寺山古墳の中平の紀年銘を持つ
鉄刀というのは、この石上神宮に祀られていた、布都御魂大神刀じゃないの?
もちろん、ここは想像でしかないですけど、この刀が卑弥呼の刀です。

石上神宮は卑弥呼が魏から賜った2つの剣を祭るために造られた神社。


崇神天皇七年に、物部の伊香色雄を神班物者(神に捧げ物を分つ役)に任じたとされてい
ます。祭祀をとりおこなったって言うことは、こんなの、わたしには、この人物が王だと
いっているようにしかかんがえられないんだけど・・・?彼が卑弥呼の男弟ですよ。
で、この年、石上布留の高庭に布都御魂大神を祀ったのがはじまりとされています。

日本書紀では、・・・垂仁天皇三十九年、イニシキ皇子が1000口の太刀を作って、忍坂
に所蔵した。後に忍坂邑からこの石上神宮に移した(これが仁徳時代?)。
この時、神が乞うて「春日臣の族で、名は市河に納めさせよ」といった。・・・・この市河
がいまの物部首の祖。
物部連が今に至るまで、石上の神宝を治めるのはこれが起源である。
神武天皇が、物部氏の宇摩志麻治尊にこの布都御魂の神剣を授けた・・・これらはウソだ
よ。はじめから物部の宝。だいたい、七支刀が物部の氏神にあるっていうのもおかしいん
じゃないの?

石上神宮旧記・・・
「素戔鳴尊 の蛇を斬りたまひし十握剣、名を天羽 々斬と曰す。・・・・・メンドイので省
略」

素盞嗚尊が大蛇を切った剣である十握剣が、仁徳天皇の時代に、吉備神部のもとからこ
こに移され、この時、物部首市川臣(布留連の祖)が神主となったとされます。
で、ここにはもともとあった、布都御魂の剣が祀られていて、あらたに素盞嗚尊の剣であ
る、布都斯魂大神の十握剣とともに石窟に納められ祀られているとされている。

つまり、ややこしいんだけど・・・布都御魂の剣と布都斯魂大神の剣の二つの剣が祀られ
てあったわけ。この2つの剣こそ卑弥呼の刀。
そのうちの1刀を春日市河が所持していて、亡くなった時に一緒に埋葬された。

で、明治7年に拝殿の奥の聖地が調べられた時に発見された剣は、ボロボロに錆びた鉄剣
1振りだけでした。2本なかったわけ。
この発見された剣は、おそらく布都斯魂大神の剣で、東大寺山古墳(たぶん春日市河のお
墓)の中平の紀年銘を持つ鉄刀が、布都御魂の剣じゃないの?


そう、・・・倭人伝にある、卑弥呼が魏から賜った「五尺刀二口」のうちのひとつ。
七支刀がそうであるように、宝物として祀られるからには、よほど重要な刀なわけでしょ
う?卑弥呼の時代に、国産の刀が宝物になるわけないだろうし・・・?
宝物とされる刀はそんなに数多くはない。
当然、倭人伝にある「五尺刀二口」は宝物とされるはずでしょう。

そんで、この中平の年号が刻まれた鉄刀が卑弥呼の刀でないと考えられる大きな理由は、
魏が後漢の年号の入った刀を倭に下賜するなんて考えづらいっていうとこですよね。
年代も異なるし・・・。でもこれ、今の感覚のような気もする・・・。

魏からは、倭人伝に記述されているように、この刀と同じ位のサイズの刀が下賜されたの
は事実。しかも2刀と数まで同じじゃないですか。

この時代、倭なんて絶域の蛮国の扱いだし・・・
帯方郡にあった公孫氏から奪った刀を、下賜品とした・・・とするよりも、・・・
ここ重要なんだけど・・・後漢と魏の首都はともに洛陽なわけですから(後漢から魏へと
国が変わっても宝物が廃棄されるわけでない)、洛陽の宝物庫に後漢時代の刀剣があって、
それを下賜品とした・・・っていう可能性は十分考えられるんじゃないの?
とーいうかーもうこんなのこうとしか考えられないじゃないですか。


石上神宮は卑弥呼が魏から賜った刀を奉るために造られた神宮です。
この石上神宮は、もちろん物部氏の氏寺であり、邪馬台国とは物部国です。
何故かって理由は簡単。この部族は広範囲にわたり分布されているからです。
もちろんこれは広範囲の勢力地であったということです。
この時代に天皇家っていうのが存在するのなら、この部族の支配地は
いったいどこなのでしょうか?どこにもないじゃないですか?
いまの「天皇」という感覚で考えてはなにも解決しない。


     





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