聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

魏志倭人伝

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
魏志倭人伝については、・・・正始元年に、太守弓遵、建中校尉梯儁等が九州の倭国に行っています。「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詣を齎し、金帛・錦ケイ・刀・鏡・サイ物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。」とあります。
また正始八年に、張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。・・・とされていて、倭人伝は、主にこの塞曹掾史張政等の報告だろうと言われていますが、どうなのでしょうか?
倭人伝はこの建中校尉梯儁が九州の倭国について記述した文献を主に採用しているのでは?。
倭人伝の、倭女王は卑弥呼ですが、倭王は九州倭国の王です。
この文献をもとにして、その後の張政等の報告や秦始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したときの情報、また倭国王帥升が朝貢したときの情報など、複数の文献をまとめて、一つの魏志倭人伝にまとめています。わたしは、九州の倭国王帥升の国が東進し、卑弥呼共立時には、北部九州から畿内におよぶ連合体のようなものが存在していたと考えています。混乱の原因は、この「女王国」です。
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