聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

古代の悲劇 有間皇子、建皇子暗殺の謎

2020年03月14日 | 日本書紀の謎


今回は、渡来人たちによる孝徳大王やこの有間王子、建王子の殺害についてです。国家転覆の大逆罪である孝徳大王との戦乱を隠蔽している。
許せない(`・ω・´)

有間王子は孝徳大王の王子であり、母は阿倍内麻呂の娘である小足媛です。もちろん正統な次の大王候補である。ですので暗殺されている。そして建王子も孝徳大王の王子です。

孝徳大王は、飛鳥京が危険な状態にあったため子供たちを阿部氏が関わる塩屋連の勢力地である紀南の地に避難させていました。
しかし戦乱はこの紀南の地にも拡大することになります。

写真は、熊野九十九王子社のひとつであり、塩屋連の本拠地にある塩屋王子神社(和歌山県御坊市塩屋町北塩屋)です。
天照大神の御神像が祭られていて別名は「美人王子」といわれます。
絶世の美女、かみなが姫こと、藤原宮子(本当は阿部宮子)の出身地です。宮子は阿部氏と塩屋連の娘との子供です。
祈願すると美しい子どもを授かるという伝説があります。
この地は古代から製塩が行われていて多くの製塩土器が出土しています。
塩屋連は、この地方の製塩や漁業に従事していた豪族です。



有間皇子は孝徳大王を助けるべく、避難していた紀南の地の豪族である塩屋連の協力を得て九州に向かう計画を立てていたのです。

前回に記述しましたが、
日本書紀・・・
或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人一日兩夜邀牟婁津、疾以船師斷淡路國。使如牢圄、其事易成。
   ************************
紀南に避難していた有間皇子は、阿部氏に関わるこの地の豪族ある塩屋連の海軍の協力を得て、新田部連とともに淡路島に赴き、この地で畿内からの渡来人の海軍を迎え撃ち、その後九州の孝徳軍に合流する計画を立てていたと推測しています。
九州の地で勢力を回復する計画ではなかったのか?残念ながら事前にこの計画が発覚し先手を打たれ紀南の地で戦争となった。

有間皇子は、この紀南の地の豪族塩屋連の協力を得て戦いましたが、敗れ戦死しました。これが、有間皇子殺害の本来の事柄です。

有間皇子は戦乱の中で亡くなっている。それは孝徳大王の王子であり次期大王候補の人物だったからです。弟の建王子も同様に殺害されている。この事実を変更している。

日本書紀、古事記は天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄された偽書である。
百済が滅亡の危機にあった時に、亡命百済人たちが、頼ったのがすでに倭国内で地盤を築いていた、もとは百済からの渡来人であった秦氏です。天智天皇はこの秦氏の王子です。天智系天皇である桓武天皇もまた秦氏の王である。
系譜を変更する必要があったのです。

孝徳天皇には子供一人、この有間皇子しかいません。そんなことありえません。有間王子のほかにも建王子もまた孝徳大王の王子であり次期有力大王候補である。そして彼も戦乱の中殺害されている。

 阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良、建皇子

持統天皇の母親である遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり長女であり阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。この阿部氏の系譜を消し去っている。持統天皇は、天智の娘ではなく孝徳大王の娘です。

この3人は大田皇女、鸕野讃良、建皇子は、孝徳大王と阿部氏の子供たちである。大田皇女の子供である大津皇子も大王家の王子である。

藤原氏は、この鸕野讃良こと持統天皇を利用している。
それは系図をたどるのがわかりやすい。

武勇にも秀でて優秀だったとされるこの大津皇子もまた渡来人に暗殺されている。

建皇子は話すことが不自由で夭折したとされますがそうではない。渡来人との戦乱で殺害されたのである。有間皇子暗殺と同様、つまり紀南の地での戦乱で亡くなっている。

有間皇子の崩御年は、斉明天皇4年11月11日(658年12月11日))とされます。建皇子もまた斉明天皇4年、八歳でなくなったとされます。

亡くなったのは同じ年であり、この時に紀南地方で戦争がおきたのです。
ここも干支から名付けるとすると戊午の乱である。
しかし本来の崩御年は以前に書きましたが、662年だろうと思います。

すると孝徳大王の崩御年も、壬申の乱の少し前の662年だと思います。この後九州の地も戦乱になったと推測できます。
この大王殺害の事跡を変更している。



写真は藤並神社です。私の地元である有田川流域にある神社です。吉備郷の古名が今も残ります。武内宿禰が勅命を奉じて水主神を勧請したのが創祀です。

神社には有間皇子が、水神に奉幣(天皇の命により神社・山陵などに幣帛を奉献すること)したとの伝説がのこります。おそらく有間皇子が紀南の地に避難するときに立ちより、孝徳大王の命により、渡来人との戦争の勝利を願っての奉幣です。

境内には古墳が一基あります。泣沢女古墳といいます。
この古墳には、斉明天皇がこの建王子の遺骨をこの地に移したとの伝説が語られています。



藤並神社 泣沢女(なきさわめ)の古墳御由来
斉明天皇(女帝)4年5月、御孫建皇子が8歳にて薨去せられ、大和の今来谷の山上に葬り奉つたが、天皇は皇子の御事が忘れられず、果ては御健康を害われ給う御様子なので、有間皇子のお勧めにより、同年秋牟漏温泉へ御湯治の際、那耆野に御駐輦遊ばされ、この地は大和の今来谷に似ていると仰せられて、その名に因んで今城ヶ丘と名付けられ、建皇子の御遺骨を納め給うた墳墓であると伝えられている。       
境内東隣の青蓮寺はもと今城寺と称せられ、斉明天皇の勅願寺で、皇子の菩提御祈願のため建立
                        和歌山県神社庁

ウイッキペディア                          
『日本書記』持統天皇3(689)年8月の項に、紀伊国阿提郡那耆野2万項(1項は100畝)、田殿丹生神社夏瀬の森から天満宮周辺一帯の有田川流域に互り漁猟禁断の記事が見えるのは、即ち建皇子の塋域だからであると伝えられている。
  
    **********************
古事記 「香久山の畝尾の木本に坐す名は泣沢女の神ぞ」
日本書紀「畝丘の樹本に所居す神なり 啼沢女命と号く」

万葉集 「泣沢の神社に神酒すゑ祷祈れどもわご大君は高日知らしぬ」

古墳の名の泣沢女とは、泣沢女の女神ことで、イザナギがイザナミの死を悲しみ、その涙から生まれたとされる女神です。この伝説により、生命復活の神とされています
斉明天皇が、幼くして亡くなった建皇子が新たに生まれ変わるように名付けた古墳名のように思います。

この古墳が建王子のお墓であるとの伝説が残ります。建王子は、話すことが不自由であったとされます。斉明天皇は甥(弟である孝徳大王の子)であり、話すことが不自由であったとされるこの建王子をかわいがったとされます。

由緒によれば、埋葬されていた大和の地からこの地に遺骨を移したとのことです。しかし斉明天皇は自身のお墓に合葬してほしいとの遺言を残しているともされます。
この伝説、由緒は変更されている。話は逆です。遺言どおり、この紀南の地から大和に移葬されたのです。本来の元の建王子のお墓はここです。後に斉明天皇の遺言により斉明天皇陵に合葬されている。
建王子はこの地で殺害され埋葬されていたのです。孝徳大王はこの紀南の地に子供たちを避難させていたのです。しかしこの地でも争いが起き殺害されたのです。

この古墳は調査されてます。建王子のお墓だという由緒があるのに遺骨は12歳前後の少女と考えられています。
それは建王子の遺骨は移葬されたからです。
これは幼くして亡くなった建王子を思い少女を合葬(殉葬ではないと思うのですが?)したのだと思います。

ウイッキペディア・・・

『日本書紀』には建皇子の埋葬に関する記述がないほか、母の遠智娘は大化5年(649年)に蘇我倉山田石川麻呂の死を知って憂死した蘇我造媛(中大兄皇子妃)と同一人物とされ、また憂死したのを遠智娘自身とする所伝(『蘇我石川系図』)もあることから、遠智娘は建皇子(651年出生)の生母になりえないとして、皇子の実在性も含めて説話自体を疑問視する説がある
  **************************
日本書紀に埋葬の記述がないのは、殺害したからです。説話は本当なのですが、系図が変更されている。建皇子は孝徳大王の子供です。
ここは何度も記述しているところですが、母の遠智娘は阿部遠智娘であり、蘇我造媛とは別人です。孝徳大王の皇后であり天皇です。
白雉元年(650年)がこの遠智娘が天皇に即位した年であり、白雉はこの、袁智天皇の年号です。

「天皇」の呼称は元は蘇我の王の呼称であり、初代天皇は推古天皇です。
初代が女帝であったため、蘇我氏が滅んだ後、つまり645年の乙巳の変以降は女帝の呼称に変わったのです。この天皇の呼称を使用して歴史を改竄している。

斉明天皇即位年は、655年ですので、遠智天皇の崩御年は、654年である。654年に亡くなったのは孝徳大王ではなく、皇后であるこの袁智天皇です。ですので、651年生まれの建王子の母親として問題はなく、建王子は有間皇子とともに正統な次期大王候補です。幼少の時に母親が亡くなったので、斉明天皇が母親がわりになり建王子を育てたのです。

孝徳天皇は有間皇子しか子供いなかったとされますがそんなことありえません。この建王子も孝徳大王の子供です。

牽牛子塚古墳が斉明天皇お墓であり、いま治定されている越智崗上陵は、その名のとおり、阿部遠智娘、袁智天皇のお墓です。

大安寺伽藍縁起并流記資材帳における、白雉元年(650年)に難波宮にいる袁智天皇との記述から日本書紀の嘘が分かります。孝徳大王の宮である難波宮にいたとされることから容易に推測できますが、孝徳大王の皇后のことです。天皇とは女帝のことです。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」

この牽牛子塚古墳に建王子の遺骨は移され斉明天皇と合葬されている。

ウイッキペディア 牽牛子塚古墳
石槨内の中央には間仕切りのための壁をともない、その両側に長さ約2メートルの墓室が2つあって、壁面は二重の漆喰が塗られている
  ***************************
牽牛子塚古墳が斉明天皇お墓であり、この古墳に建王子の遺骨は移され合葬されている。墓室が2つあるのは、斉明天皇と、建王子の墓室です。
斉明天皇が崩御した時に遺言により、紀南のこの古墳から移され合葬されている。建王子の本来のお墓は 泣沢女古墳です。

阿部氏は紀南の豪族と繋がりが深い。紀南の豪族の娘たちを嫁に迎えている。

そしてこの阿倍内麻呂の娘たちは孝徳大王に嫁いでいる・・・
孝徳天皇は有間皇子しか子供がいなかったとされますが、ありえません。
そして以前にも書きましたが系譜変更により、年齢も変更している。

*遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘である、蘇我遠智娘ではなく、阿倍内麻呂の娘であり長女であり阿倍遠智娘であり、孝徳大王の皇后である。

 阿倍遠智娘・孝徳大王ー大田皇女、鸕野讃良皇、建皇子

*阿部内麻呂の娘とされる小足媛もまた、阿部内麻呂と紀南の豪族との娘との子供であるように思う。有間皇子の「ありま」の名はイザナミノミコトが葬られたとされる熊野の有馬から名付けられているように思うのですが・・・祖母の出身地からではないのかな?
 
阿部小足媛・孝徳大王ー有間皇子

*蘇我姪娘は 蘇我倉山田石川麻呂の娘ではなく、阿倍内麻呂と塩屋鯯魚の娘との子供である阿部姪娘である。
そしてもちろん天智の后ではない。元明天皇の諱は阿閇、阿部皇女です。

阿部姪娘・孝徳大王ー御名部皇女 (高市大王妃)、元明天皇

*阿倍内麻呂と新田部米麻呂の娘との子供が阿部橘娘であり、天智の后ではなく孝徳大王の后である。
これは娘の新田部皇女の名前から容易に推測できます。

阿部橘娘・孝徳大王ー明日香皇女(高市大王皇后)と新田部皇女 (忍壁 皇子妃)

これが天智の娘を天武に嫁がせたという不思議な話の真実です。
天智の血を大王家に繋げるための改竄である。

ここも何度か記述していますが、・・・
孝徳の長男である有間皇子は、640年の生まれだとされます。そして、孝徳天皇は596年の生まれだとされますが、これおかしいでしょう?長男と思われる有間皇子が45歳の時の子供となります。
この時代を考えるとありえません。
そして孝徳には、有間皇子以外には子供がいません?そんなはずはありません。

斉明天皇の年齢に関して書きましたが、同様に弟の孝徳の生年に関してもおかしい。
それは祖父の厩戸王子こと押坂彦人大兄皇子は、572年生まれだからです。
つまり、押坂彦人大兄皇子の子供であり、父親である茅渟王は592年頃の生まれと考えられるからです。

ですので斉明天皇 や、2歳違いの弟の孝徳天皇は615年頃の生まれです。
姉である斉明が613年位で、孝徳は615年位かな?そうすると、長男の有間皇子の生年に関して、
そして斉明天皇として即位した年齢に関しても問題ないでしょう。

天智と天武は兄弟ではない。天武のお母さんは斉明天皇ですが、天智のお母さんは斉明天皇ではない。
天武の生年は不明とされますがそうではなく、天智の生年を変更している。5歳年下とされる天武は631年でいいように思いますが、天智の生年は626年ではなくもう少し前である。天智を王家に繫ぐため斉明の子供としたため、斉明天皇の年齢を変更している。
天智系天皇である渡来人桓武天皇により、天智を大王家に繋ぐ操作が行われている。

孝徳大王時代に渡来人勢力との戦争が起きている。
この有田川流域の部族もまた、塩屋連の支配下にあったとされます。この地でも戦乱が起き、建王子はここで渡来人との戦いの中で亡くなっている。

有間皇子が殺害された時同様に処刑されたとされるのが、塩屋連鯯魚と新田部米麻呂です。ともに孝徳政権において左大臣だった阿部氏が関わる豪族です。有間皇子に味方した豪族であり、水軍を用いたのは塩屋連鯯魚です。
処刑されたとされますが、そうではなく渡来人との戦いの中戦死している。



有間皇子もまた戦乱の中で亡くなっている。
孝徳大王と、天智(秦氏)百済渡来人とは百済復興の協力に関して決別していました。孝徳大王は唐、新羅と三国同盟を結んでいたからです。

有間皇子が処刑された話は不思議な話ですよね。

万葉集に有間皇子の有名な歌があります。

万葉集 有間皇子 自傷結松枝歌二首

磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
     **********************

これらの歌は既に多くの指摘されているところでもあるのですが、歌の内容だけ見れば決して挽歌ではなく、旅の歌であるとされます。

詞書(有間皇子 自傷結松枝歌二首)があるのでこれららの歌は挽歌とされますが、処刑の時の辞世歌などではなく、紀南の地に避難するときの旅路の歌です。万葉集もまた都合の悪い箇所は改竄さている。改竄の手口はこの詞書を使ってのものです・・万葉集の謎はいづれ書きます。

天智との争いを避けるため、有間皇子は心の病を装い、紀南の地(牟婁の湯)にに逃れていたとされます。しかし有間皇子は紀南の地から戻り飛鳥で捕まっているとされます。その後紀南の地に護送するときに藤白の地で殺害されたということです。

蘇我赤兄による密告により、天皇に対する謀反を計画したとして悪く書かれていますが、これは天智系天皇である桓武天皇の時代に改竄された嘘話である。渡来人による大王家の王子たち殺害のクーデタ、大逆罪です。

この時の大王は孝徳大王であり、斉明天皇は天皇ですが王ではありません。
天皇とは女帝のことです。
孝徳大王は崩御していません。孝徳大王の王子はこの有間皇子であり、斉明天皇は孝徳大王の姉です。
斉明天皇に対する謀反なのではなく、孝徳大王と天智(渡来人)の争いは続いていました。百済復興のための出兵に反対の立場であった孝徳大王の子供であり次期大王です。ですので狙われ殺害されたのです。





有間皇子は藤白坂で絞首刑に処せられたとされます。写真、は和歌山県海南市にある藤白神社と有間皇子のお墓です。このお墓は近年に造られたものであり、本当の有間皇子のお墓ではありません。


ウイッキペディア・・・
有間皇子の死後、大宝元年(701年)の紀伊国行幸時の作と思われる長意吉麻呂や山上憶良らの追悼歌が『万葉集』に残されている。
   ************************
もう何度も書いているところですが、文武天皇の紀伊国行幸時とされますが間違っています。文武天皇は天皇ではありません。

大宝元年は長屋王が大王に即位した年であり、紀伊国に行幸したのはこの長屋大王です。

「かみなが姫の物語 藤原宮子の謎」のころで指摘しましたが、・・・
道成寺創建の由緒については、私は藤原氏によって殺害された先祖の霊を供養するお寺であり、本来の由緒は母親である阿部明日香の遺言により、長屋大王が創建したお寺であるように思います。

大宝元年創建の道成寺は、長屋王がこの地で渡来人との戦乱により亡くなった有間皇子などの人々の菩提を弔うために創建したお寺です。



写真は塩屋連の本拠地、御坊市にある岩内古墳です。道成寺の近くに位置し海を見下ろせる少し高台の上にあります。
この古墳は、調査されています。
地方豪族ではありえない、木棺に塗られていただろう漆の破片や銀線蛭巻太刀、六花形の鉄製棺飾金具などが発見されているのが特徴です。

これらの豪華な副葬品などから身分の高い人物のものであり、有間皇子のお墓だという説があります。
被葬者の候補はふたり、有間皇子とこの地域の豪族であり孝徳大王や有間皇子に協力し戦争で亡くなった塩屋鯯魚です。

私はこの地の豪族であった、塩屋鯯魚のお墓のように思います。孝徳大王に協力し多大な功績があったからです。実はこの古墳は後に改装されています。改装したときにこれら豪華な品々は副葬されたのです。この地は塩屋鯯魚の本拠地です。いまも塩屋の地名は残ります。
塩屋鯯魚のお墓だとすると、亡くなったとされる658年(本当は662年)に造られているわけです。
ところが何故か半世紀後に造営されている可能性が指摘されています。
豪華な副葬品はこの時に埋葬されたものです。

つまり701年に長屋大王が、紀伊国に行幸したときに、功績のあった塩屋 鯯魚のお墓を豪華に造りなおすように命じているということです。
道成寺創建の由緒も同様です。大宝元年(701年)の創建です。
この時に有間皇子や、この塩屋鯯魚など戦争で亡くなった人々を祀るために建てたお寺です。

談山神社も同様です。大宝元年(701年)の創建であり、長屋大王が、渡来人との戦争でこの地で亡くなった本来の中臣鎌足を祀るために建てたものです。
長屋大王は渡来人との戦乱の中で亡くなった人々を祀っている。
大宝元年(701年)というのは、長屋王が大王に即位した年です。
この大宝元年(701年)から崩御したした729年までが、長屋王の大王としての在位期間です。
古事記は712年、日本書紀は720年に編纂されました。この時代、大王として統治していたのは長屋大王です。
古事記・日本書紀は長屋王が編纂した歴史書です。大宝律令も、この長屋王が制定した律令です。長屋王家から出土した木簡から、長屋王は大王だったことは明らかです。
この長屋大王と対立していた藤原氏はこれらの事跡を変更している。


万葉集 有間皇子の歌
有間皇子の歌は既に指摘されているところでもあるのですが、歌の内容だけ見れば決して挽歌ではなく、旅の歌である。処刑の時の辞世歌などではなく、紀南の地に避難するときの旅路の歌です。孝徳大王は都が危険な状態にあったため。子供たちを阿部氏が関わる、紀南の豪族である塩屋連の支配地に避難させていたのです。
有間皇子の歌はこの紀南の地に避難するときの旅路の歌である。

有間皇子は飛鳥の地で捕らえられ、再び牟婁の地に護送されるという奇妙な話はこの追悼歌が残っているための創作話であるともいえます。

うまく騙したつもりでも私は騙されません。この有間皇子や大津皇子、そして長屋王もそうです。謀反の起こしたとの嘘話で事実を変更している。

これらの歌は渡来人との争いで亡くなった有間皇子への追悼歌である。つまり殺害したのは渡来人たちである。この事実を消すための、有間皇子謀反のでっち上げの物語です。
有間皇子は、海人族ともされる塩屋連の協力のもと渡来人との戦いに立ち上がったのです。残念ながら戦いに敗れこの地で亡くなっているのです。

戦死した地も推測できます。いまにの藤白神社の地は処刑場所ではありません。謀反を企み処刑されたというのは、渡来人、秦氏藤原氏の言い分です。

塩屋連の本拠地ともいえる和歌山県日高郡にあった村、切目には有間皇子社が存在していました。おそらく戦死した地に社を作り祀っていたのです。
そうでないと存在理由が見当たりません。処刑地ではなく、戦死した場所です。



巻二(一四一) 有間皇子
盤代(いはしろ)の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む

巻二(一四二) 有間皇子
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあらば椎の葉に盛る

巻二(一四三) 長忌寸意吉麿
磐代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも

巻二(一四四) 長忌寸意吉麿
磐代の野中に立てる結び松情も解けず古思ほゆ

巻二(一四五) 山上憶良
天翔りあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ

巻二(一四六)柿本朝臣人麿
後見むと君が結べる磐代の子松がうれをまた見けむかも

巻一 (三十四)  川島皇子  山上憶良代作
白波の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ

この柿本朝臣人麿や、山上憶良、長忌寸意吉麿は、701年の長屋大王の、紀伊国行幸時に随行した人々です。この地で戦死した有間皇子を偲んで詠んだ歌です。
柿本人麻呂は、天武や高市大王、そして長屋大王に仕えていた人物です。持統天皇や元明天皇に仕えていた下級官吏などではありません。
すると、柿本人麻呂の関する謎も容易に解けるでしょう。

有間皇子は、海人族ともされる塩屋連の協力のもと渡来人との戦いに立ち上がったのです。父親である孝徳大王を助けるべく戦いに挑んだのです。
残念ながら戦いに敗れこの地で亡くなっているのです。




戦死した地も推測できます。写真は切目神社(和歌山県日高郡印南町にある神社。九十九王子の一つ、五体王子の一社)です。この近くに有間皇子を祭る有間皇子社が存在していました。
塩屋連の本拠地から少し南方に位置し、おそらくこの有間皇子が祭られている神社の場所で亡くなって埋葬されていたように思います。

それが、この701年の長屋大王の、紀伊国行幸時に、この地から明日香に移葬されているように思うのですが・・・建王子と同様に大王家の埋葬の地に移されているように推測しています。
じゃー埋葬されている古墳はどこにあるのでしょうか?
文武天皇陵とされる檜隈安古岡上陵のように思うのですが・・・私の推測ですが候補としてはこの古墳以外ないかな?

この文武天皇は、王家の人物ですが、本来の王ではありません。改竄時に天皇だったとしているわけです。それは、藤原氏が関わる人物だからです。夫人を藤原不比等の、娘の宮子だとして変更しているからでもあります。
そして、この文武天皇と宮子との子供が聖武天皇であり、皇后が藤原不比等の本来の娘の光明子だからです。
藤原氏は、文武天皇を天皇だったとしたい理由です。本来の大王は長屋大王です。

この時代、王の古墳は八角墳の形状となっていて、文武天皇陵はこの檜隈安古岡上陵ではなく中尾山古墳の方が有力とされますが、私はどちらも違うように思うのですが?大王ではないので、八角墳には埋葬されていないということと、孝徳大王の王子であり、次期大王であった有間皇子と比べると身分的には少し劣り、聖なるライン上に埋葬されることはないように思うからです?
檜隈安古岡上陵の被葬者は、初めは天武大王と額田王との娘の十市皇女のお墓だと考えていましたが、この有間皇子の方がふさわしいかな?



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倭国、唐、新羅三国同盟と孝徳大王

2020年03月02日 | 日本書紀の謎


日本書紀は、720年に編纂されたとされ、今年は編纂1300年の記念の年になります。しかしながら今に残る日本書紀は、平安時代のものです。
それは、大王家と対立していた渡来人、秦氏の王である桓武天皇時代に、この秦氏や藤原氏の都合により内容を変更したからです。古事記もまた後の時代に改竄されている。

古事記・日本書紀は正史とされますが、歴史書は信用できません。
この改竄された箇所を暴いてやる(*^▽^*)凸
特に大王家との権力争いにより古代から繋がる王座を簒奪したという事実と、自らの正当性を主張するための歴史の改竄である。

朝鮮半島の動乱に、唐という巨大な国家が関わることになり、倭国にも大きな影響を及ぼすことになりました。この時代は戦乱の時代です。
孝徳政権は、唐と手を結ぶ方針だったのです。強大な唐と敵対する判断をするはずはない。倭国は唐、新羅と三国同盟を結んでいたのです。

結果は倭国内の渡来人との争いに発展することになります。秦氏の協力のもと、百済復興を画策する百済渡来人勢力は巨大なものとなっていました。

対立は孝徳政権以前からです。聖徳太子(押坂彦人大兄皇子)の王子である山背大兄王(山代王)の暗殺事件。そして645年の乙巳の変も、蘇我氏の専横が理由ではなく、唐と敵対することになる百済救援に対して反対の立場であった蘇我氏との対立であり、原因は全て朝鮮半島出兵に関わることです。

「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところでも記述してきましたが、倭国、孝徳大王は唐と手を結ぶ方針を選択していました。当然ながら百済復興を願う百済渡来人勢力とは対立するようになり、戦乱へと繋がります。
663年の白村江の戦に出兵するまでの期間に、大王家と渡来人勢力の間で大きな戦乱が起きている。


今回は「殺戮の時代・・・丙辰の乱」「談山神社創建の謎と中臣鎌足」からの渡来人との戦乱の続きになります。
百済救援のために出兵した、白村江の戦いに関することです。これは王座を簒奪した渡来人勢力が行ったことです。

孝徳大王は、この渡来人との戦乱に備え、飛鳥京を守るために大規模な土木工事を行い、飛鳥京の防御を固めました。
この孝徳大王や、後の天武大王が、奈良盆地の中央部ではなく、南に位置する飛鳥の地を都としたのは、複数の丘陵に囲まれ、特に北からの攻撃に対して防御しやすい地形だったからです。そう、敵(秦氏)の本拠地は山城の地です。

新たに石塁で守られた後飛鳥岡本宮を建設し、多武峰にも新たに宮を造っていました。これが斉明天皇(本来は孝徳大王)の宮とされる両槻宮である。
多武峰の山頂付近に石垣や高殿を築いたととされる、この高殿こそが、両槻宮のことである。
今もこの石垣は山頂に残っています。この石垣とは、もちろん城を守る石垣であり、斉明天皇の両槻宮とは、戦乱に備えての避難用の山城である。

しかし戦乱の結果は、飛鳥京を守ることができず、避難用に作っていた多武峰の両槻宮に撤退することになります。ここでも戦いは起き、この地で、孝徳政権において左大臣だった、本来の中臣鎌足が戦死している。
戦死した地に、葬ってお墓を作っているのです。

お墓は両槻宮の傍にあることからも、この地で戦死したと推測できます。
この中臣鎌足を祀るためお寺が、妙楽寺(後の談山神社)である。

談山神社本来の発祥の由来は、この655年か、656年に、斉明天皇(本当は孝徳大王)が多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたというのが発祥の由来であり、この時にこの城で、孝徳大王と側近だった本来の中臣鎌足が渡来人との戦争に関しての軍議をおこなったというのが談山の名の由来である。
654年に孝徳大王は崩御したとされますが、これは事実ではない。

藤原不比等は後に中臣氏と関係を持つことになります。中臣氏の本拠地は山科ということから、山城や近江を勢力地とする渡来人勢力の中に取り込まれる状態、つまり支配下にありました。
この時に、中臣鎌足の名を騙って系譜を改竄している。それは、渡来人であることを隠蔽するためです。
中臣鎌足と渡来人である藤原鎌足は別人です。

さらに孝徳大王は、避難用に吉野にも宮を建設していました。これが、吉野宮滝宮です。



飛鳥から吉野に行く場合は、稲淵、栢森から妹坂(芋坂)峠を越えて吉野に出るのが便利でいいのですが(実際に持統天皇はこのルートを使いなんども飛鳥と吉野を往来している)、この吉野宮滝宮は何故か峠を越えて吉野川に至り、そからさらに東に4km程の位置になります。たしかに景色のいい場所であるのですが、少し遠方です。

これは、多武峰を越え東部に脱出し、そこから南に向かって山を越え吉野に逃れるルートを作ったからです。
吉野にも宮を造ったのは避難場所であるわけで少しでも遠方に造ったのです。

残念ながら孝徳大王は、明日香での戦いに敗れ、多武峰の両槻宮へ、そして吉野宮への逃走ということになりました。しかしここ吉野宮にも戦地になり追手がせまりました。
大海人皇子(天武)は、この吉野宮よりさらに東に逃亡しました。この伝説は今も残ります。
写真は吉野宮より東に7km程ですが、大海人皇子が逃れ村人がかくまったとの伝説が残る場所にある神社です。おそらくこの伝説はこの戦乱時のものです。国栖奏で有名な吉野町の浄御原神社です。天武天皇を祭っています。





国栖奏のこと
大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に見方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。これを見た皇子はとても喜ばれて、国栖の翁よ、と呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月十四日に天武天皇を祀る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています。
                           吉野町観光課

大海人皇子はなんとか逃避することができました。壬申の乱へと繋がります。
白村江の戦の敗北により渡来人勢力は弱体化しました。この機会をとらえ大王家、大海人皇子は戦いを挑んだのです。
多くの豪族は大海人皇子側に付き、渡来人勢力と戦いました。
これが壬申の乱の真実です。


孝徳大王たちは、吉野川(紀ノ川)を使い、紀ノ國へ逃れることになります。孝徳大王自身は、唐との交渉ということもあり、阿部氏の領地である難波宮を建設していてひとまずはこの地に逃れました。
孝徳大王は、利便性を考え阿部氏の本拠地でもある難波にも宮を建設していました。
しかし難波は都に近く決して安全とはいえません。子供はさらに安全な紀南の地に避難させることになります。


倭国は百済救援のための出兵はしていない。出兵したのは百済渡来人たちである。倭国、孝徳政権は唐、新羅との三国同盟を結んでいる。
663年、渡来人勢力による白村江の戦に出兵するまでに、孝徳大王と渡来人の争いがおきている。この時孝徳大王は殺害されたのです。

この事実が変更されている。渡来人側の勝利により、百済討伐の軍が百済救援の軍に変わってしまっている。
660年百済は滅亡したとされますが、そうではない。この後、倭国(日本)は唐を敵に回し朝鮮に軍を三度派遣したとされます。百済の役です。
第一波は661年、第二波は662年。そして、天智2年(663年)に白村江の戦いで敗れます。
しかし、これは百済復興を目指す渡来人が行ったことです。この時代、戦乱を逃れるために、百済から亡命してきた人々が多数いました。
この渡来百済人と、以前から渡来していた渡来人が百済復興の兵をあげたのです。

百済救援のための出兵は、この時に大王だった孝徳大王が行ったことではなく渡来人勢力が行ったことです。
百済救援の出兵を実行した天智天皇は、百済からの渡来人である秦氏の王子です。百済復興を目指す亡命渡来人たちは、倭国で基盤を築いていた秦氏を頼ったのです。秦氏の本拠地である山城の地に都を移した、天智天皇から繋がる桓武天皇は秦氏の王です。
桓武天皇以降は、藤原氏の娘との皇子が天皇に即位することになります。藤原摂関政治です。

秦氏は壬申の乱以降、表舞台から消えてしまったとされますが、そうではありません。いまの天皇家とは秦氏のことです。
天智系天皇である桓武天皇が、歴史を変更しなければならない大きな理由です。

実際に朝鮮半島での戦乱になった、663年の白村江の戦までの間の大王家と渡来人との争いの経緯をを続けて考えていきます。
難しい推測なのですが・・・。


この動乱期の日本書紀の不思議な話について・・・

ウイッキペディア・・・阿倍 比羅夫
斉明天皇4年(658年)から3年間をかけて日本海側を北は北海道までを航海して蝦夷を服属させ、粛慎と交戦した。

四年春正月甲申朔丙申、左大臣巨勢德太臣薨。夏四月、阿陪臣闕名率船師一百八十艘伐蝦夷、齶田・渟代二郡蝦夷望怖乞降・・・五月、皇孫建王、年八歲薨・・・絞有間皇子於藤白坂。是日、斬鹽屋連鯯魚・舍人新田部連米麻呂於藤白坂。

     ************************
もう何度も記述してところですが、阿部氏は孝徳政権における重要な豪族であり、秦氏、藤原氏にとっても大きな反対勢力でした。
日本書紀、斉明天皇条には、実に11回もの蝦夷記事があり、そのうちの6回は阿部臣、阿倍比羅夫の蝦夷討伐の記事です。
阿部氏が戦ったのは渡来人である。それを蝦夷討伐の記事に変更している。

ここは、私の推測ですが、間違ってはいないように思うのですが・・・。
この時期(朝鮮半島動乱期、大王家と渡来人との戦乱期)に、関係のない北方の蝦夷討伐に軍をだすなんてありえないように思います。朝鮮半島に出兵するための軍事力が必要な時期に、蝦夷討伐なんてありえません。

この話は真実ではない。蝦夷討伐ではなく、九州における渡来人勢力との戦いを記述していたものを変更しているように推測します。

「秦の始皇帝と天皇家、秦氏の謎」のところで記述しましたが、この九州の渡来人勢力とは、新羅によって国を滅ぼされた秦韓から渡来した人々だろうとおもいます。隋の国書を持参していた裴世清の見聞録にある、九州北東部、豊前地方にあった秦王國です。新羅憎しの秦韓から渡来した人々はもちろん百済救援に賛成の渡来人側の勢力です。

つまり孝徳大王の命のもと阿部氏による九州の渡来人勢力を制圧し孝徳大王は九州に移ったのだと思います。
孝徳大王は畿内が渡来人勢力にのため危険な状態にあったため九州の地に逃れることになる。

「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところで、書きましたが、この斉明天皇四年とは、本来は662年のことです。この年に大きな戦乱となっている。
同じ内容ですが、重要ですのでもう一度書きます。

ウイッキペディア・・・巨勢 徳多
斉明天皇4年(658年)1月13日左大臣在任中に病没した。冠位が大繍であったことが子孫の薨伝で知られる。
『公卿補任』では没年齢を66歳としているが、大化5年(649年)時には50歳としており、矛盾している
   ***********************
この巨勢 徳多 は孝徳の側近なので、死亡した年齢の矛盾点から改竄した箇所を推測してみます。この巨勢 徳多も王家と百済渡来人の争いの中亡くっている。

大化の改新・・・この「大化」は日本最初の元号であとされますが、そうではない。大化なんて年号はありませんでした。最初の元号でもないし、「大化」ではなく「大和」だったのではないのか?孝徳大王の元号はこの「大和」である。国名を大和にし、年号も大和にしている。

この大化は645年から650年とされますがこれもそうではない。もう何度も云いますが斉明(皇極)天皇は天皇であるのですが、本来の王である大王ではない。つまり、もとの日本書紀には、皇極・斉明条なんてありませんでした。

押坂彦人大兄皇子ー茅渟王ー山代大王ー孝徳大王

皇極天皇が即位したという、642年です。本来は孝徳天皇が即位した年、644年が大和元年です。これは押坂彦人大兄皇子の王子であり大王に即位していた、山代大王が暗殺された翌年です。
聖徳太子の王子である山背大兄王一族の暗殺事件の翌年である。

ですが、この年齢の矛盾に関しては、皇極元年から数えている。元年が642年なら5年というのは、この646年である。この年50歳であるなら、没年66歳というのは、662年のことになります。

そして、日本書紀においては、この巨勢 徳多が亡くなるという記事は、斉明天皇条4年正月にあり、5月には建王が八歳でなくなり、そのあとに有間皇子の事件が続きます。亡くなったのは同じ年、斉明4年のことであるとされます。それはこの時に王家と渡来人による戦いが起きたからである。
つまり巨勢 徳多の没年が662年であるのなら、建王、有間皇子の没年も同年である662年である。渡来人と王家との戦乱の期間である。
有間皇子暗殺事件も、この662年に起こったもです。これは百済渡来人と王家とが争っていた時期である。白村江の戦に出兵の一年前です。
有間皇子の謀反というのは、あくまで天智側の主張である。本来は孝徳天皇の後、正統な大王に即位すべき第一王子である。王家と天智、藤原との対立であり、これもまた、陰謀である。


斉明天皇の筑紫の朝倉宮というのは、本当は孝徳大王の宮である。662年に都は九州に存在していたのです。しかしながらすぐに戦乱になっている。

ウイッキペディア 斉明天皇
百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。

斉明天皇6年(660年)7月に百済が唐と新羅によって滅ぼされると、斉明天皇は難波などを経て斉明天皇7年(661年)3月25日に娜大津(諸説あり後述)より磐瀬行宮(いわせのかりみや)に入り、さらに5月9日に朝倉橘広庭宮に移って、百済復興の戦に備えた。しかし、7月24日に同地で死去した。
    ************************

斉明天皇7年は、なんと年齢68歳の時に百済出兵にために九州は朝倉橘広庭宮に移って、百済復興の戦に備えたとされますが、これは事実ではない。
年齢に関してはすでに書いてきましたが、朝倉宮に遷幸したのは斉明天皇ではなく、孝徳大王です。斉明天皇は天皇ですが大王ではない。本来の王は孝徳大王です。大王殺害を隠蔽するための斉明天皇の重祚の記述である。
何度も主張しているところですが、斉明天皇は天皇ですが、大王ではない。
斉明天皇が九州の地に赴いたとは思えないのですが・・・?

この孝徳軍は百済救援の軍ではなく、百済討伐軍である。660年百済は滅んだとされますが、そうではありません。

孝徳大王は九州の地にも宮を建設していました。しかし662年に大王家と渡来人との戦争がこの九州の地と畿内で起きている。干支から名付けるなら壬戌の変である。

残念ながら渡来人側の勝利により、百済討伐軍が百済救援軍になっている。663年に百済救援のための出兵は渡来人勢力が行ったことです。
百済討伐の兵が、百済復興の出兵に変わってしまった。これが白村江の戦の真実である。
この時、百済出兵時の孝徳大王殺害の事実を消している。九州の地で国家転覆のクーデターが起きている。

日本書紀・・・
或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人一日兩夜邀牟婁津、疾以船師斷淡路國。使如牢圄、其事易成。
   ************************
紀南に避難していた有間皇子は、阿部氏に関わるこの地の豪族ある塩屋連の海軍の協力を得て、新田部連とともに淡路島に赴き、この地で畿内からの渡来人の海軍を迎え撃ち、その後九州の孝徳軍に合流する計画を立てていたと推測しています。
九州の地で勢力を回復する計画ではなかったのか?残念ながら事前にこの計画が発覚し先手を打たれ紀南の地で戦争となった。

この有間皇子や建皇子が亡くなるという記事は、斉明天皇の四年にありますが、これはつまり662年のことです。

孝徳大王は畿内が危険な状態にあったため子供たちを、安全であろうと思われる紀南の地に避難させていました。
しかしこの地にも追手がせまり、次期大王候補である有間王子、建王子は殺害されることになります。
次回に続きます・・・

有間皇子が療養と称して赴いたとされるのが牟婁の湯です。写真は南紀白浜の景勝地である、円月島に千畳敷、三段壁の写真です。









万葉集に孝徳大王の王子である有間皇子の有名な歌があります。
磐代(和歌山県日高郡みなべ町西岩代)の地で皇子が詠んだ2首の辞世歌とされます。
有間皇子は天皇への謀反計画が発覚し処刑されたとされますが、そうではない。万葉集は歌の内容は変更していませんが、前書きといわれる題詞を変更している。

万葉集・・・
二巻 百四十一
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む

二巻 百四十二
家にあらば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
     **********************

これらの歌は、既に指摘されているところでもあるのですが、歌の内容だけ見れば決して挽歌ではなく、旅の歌である。処刑の時の辞世歌などではなく、紀南の地に避難するときの旅路の歌です。明日香で戦争が起き都周辺は危険な状態にあったのです。
この磐代とは、今の和歌山県日高郡みなべ町西岩代とされます。この地を支配する豪族は、塩屋連です。阿部氏が関わるこの紀南の豪族である塩屋連を頼って危険な都から避難していたのです。弟の建王子も同様に避難していました。
これらの歌は紀南の地に避難するときに詠まれた歌である。
避難したところは紀南の有間村(今はこの地名は残っていません)かな???
避難場所に有間皇子に名が残っているようにも思うのですが・・・?

孝徳大王は、飛鳥京が危険な状態にあったため子供たちを阿部氏が関わる塩屋連の勢力地である紀南の地に避難させていました。
しかし計画が発覚し、戦乱はこの紀南の地にも拡大することになります。



写真は和歌山県海南市にある藤白神社です。境内には有間皇子を祀る神社があります。処刑の地とされ近くの藤白坂にはお墓があります。このお墓は近年に造られたもので、有間皇子はここで処刑されたものではなく、この地で埋葬もされてはいません。

藤白神社は、鈴木姓発祥の地とされます。境内には何本かのクスノキの巨木があります。天然記念物になっていて、南方熊楠の名はこの藤白神社の「楠」と子守楠神社の「熊」の二文字を授かったという話は良く知られています。
観光地というわけでもないので訪れる機会はあまりないでしょうから簡単な動画を撮影しました。

https://www.youtube.com/watch?v=WnBt4J2CQkk&t=15s







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする