聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

出雲族

2009年10月02日 | 出雲族
朝鮮半島からの渡来人に関しては、新羅本紀と百済本紀と比べてみてもあきらかなように、また地理的、歴史的にも当然、新羅との関係がより密接です。百済との関係は、おそらく百済建国後、早くても5世紀になってからです。ですので、製銅、製鉄技術を伝えた初期の渡来人は、新羅(もちろん新羅以前も含めてですが)からの渡来人なのでは。出雲族とは、朝鮮半島、新羅系の渡来人で、製銅技術を伝えた集団の一つなのではないでしょうか?
紀元前1世紀頃から、日本でも銅を生産し始めたといわれます。これは、衛氏朝鮮が漢の武帝により紀元前1世紀頃に滅ぼされですので、おそらくこの時多くの渡来人がやって来たのだと思われます。まず九州に渡来し、その後出雲には、銅鐸を祭祀に使用する集団が渡っていったのでは?この出雲族が東進していく、これはもちろん、土着の人々と融合しながら移動していくということです。
それで当然、海岸沿いを移動していくはずです。銅鐸の出土分布からも、山陰地方から近畿北部、琵琶湖、淀川を下り、奈良盆地に移動したと考えられると思います。この時代はまだ採取狩猟生活も続けられていて、私たちが想像する以上に活動的だったように思います。
出雲の大山、滋賀の伊吹山、大和の葛城山、金剛山、三輪山など、大きく美しくまた奇怪な山を、神の宿る山とし銅鐸を使い祭祀を行っていたのがこの出雲族なのでは?すでに2世紀には、この出雲の勢力が畿内に存在していたのではないでしょうか?唐古・鍵遺跡は、出雲から邪馬臺國より先に大和に来ていた、銅鐸を使い三輪山の祭祀を行う出雲族の遺跡。三輪山の神は出雲族の神。この出雲族の勢力と、九州倭国から東進してきた勢力との争いが倭国大乱だと思います。これは畿内の辰砂(水銀)めぐる争いではないでしょうか?
出雲族は、後の国津神系の豪族で、葛城氏、蘇我氏、紀氏などです。この地名由来の氏族は、先に大和に来ていた出雲系といわれる氏族のように思います。後の大和中央豪族です。天津神系の豪族は、物部氏や中臣氏などで、もちろん天皇家も九州から東進してきた氏族だと思います。 (写真は、唐古・鍵遺跡の復元された楼閣)
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