聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

推古天皇と、ふたりの太子・・・聖徳太子の謎

2022年03月15日 | 聖徳太子の謎


今回は聖徳太子の謎と、法隆寺創建の謎に関してです。
令和3年(2021年)は聖徳太子の1400年遠忌にあたり、特別展が開催されました。

しかし、・・・もう何度も記述してきたところですが、聖徳太子没年は622年ではありません。この622年というのは法隆寺釈迦三尊像の銘文から導き出したものですが、間違っています。
斑鳩寺と、現法隆寺は異なる寺院です。

そして斑鳩寺の創建年に関しても問題があります。斑鳩寺の創建は607年とされますが、これも間違っています。
斑鳩寺の創建年は605年です。斑鳩宮と斑鳩寺は同時に完成しています。

推古天皇条は何故か、記述年代において、二年の間違いがあるのです。

釈迦三尊像光の銘文にある法興元年は、591年ではありません。
押坂彦人大王が、大王に即位した593年です。593年から三十一年は623年であり、その翌年の624年に亡くなっていると記述されています。ただしこれは、推古天皇の息子である竹田皇子の命日です。

これまで何度も述べてきましたが、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文や、法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文により間違いは明らかです。

この混乱は、推古天皇時に本来の大王だった押坂彦人大王が、大王に即位していたことが消されていることが関係します。押坂彦人大王は長屋大王に繋がります。この系譜が変更されている。

ふたりの聖徳太子、亡くなった日の記述もふたつあります。

推古天皇時の、ふたりの太子。押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の事跡を消し去るための人物が聖徳太子ともいえます。
聖徳太子とは、このふたりの太子の事跡をまとめた人物なのです。
斑鳩寺創建に関しても、このふたりの太子が関わります。

二人の聖徳太子。生誕地の伝承もふたつあります。宮もまたふたつあります。
亡くなった日も、日本書紀の記述と、法隆寺金堂釈迦三尊像の銘文では異なります。

推古天皇時には本来の大王が存在します。押坂彦人大王です。
ですので、本来の日本書紀には推古天皇条なんて存在していません。

推古天皇条が存在するのが、推古天皇28年(620年)に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したという「天皇記」「国記」においてです。
蘇我馬子が編纂したということからも推測できますが、蘇我氏の歴史書であり、蘇我氏の正統性を主張する書物です。

日本書紀、下巻最初には押坂彦人大王条があったのです。
これは下巻の天皇は、全てこの押坂彦人大王から繋がることでも容易に推測できます。

桓武天皇時に、記紀を改竄するときに参照されたのがこの「天皇記」「国記」です。
秦氏、藤原氏により、蘇我氏の使用した「天皇」の呼称を使用して大王家の歴史を変更している。
それは、この押坂彦人大王の後胤と対立し、多くの大王家の人物を殺害してきたからです。殺害した人物が大王では都合が悪いのです。系譜を変更する必要があったのです。



聖徳太子はいなかった。聖徳太子架空説があります。
聖徳太子は、厩戸皇子といわれます。別名は、上宮王、豊聡耳、上宮之厩戸豊聡耳命、厩戸豊聡耳皇子など沢山の名がありますが、全て本来の名前ではありません。沢山の別名が存在するのは他の人物と混同されているからでもあります。
本来の名、諱がない名無しの権兵衛さんです。

重要人物である、聖徳太子の本当の名前が伝わっていない。これは、架空の人物だとされてもしかたのないことですね。

本当の聖徳太子とは、敏達天皇の二人の「太子」のことです。このふたりの太子が、後に藤原氏によって変更されている。

厩戸皇子とは、大王だった押坂彦人大兄皇子のことであり、本当の名は「隅田八幡神社人物画像鏡」にある、日十大王こと、「ひと」です。

聡耳皇子とは推古天皇の息子の竹田皇子のことです。仏教を興し賢かったとされる聖徳太子とはこの竹田皇子です。
これは蘇我の歴史書である「天皇記」「国記」において記述されていたものです。推古天皇と竹田皇子は蘇我の女帝であり蘇我の皇子です。

日本書記、推古天皇条、聖徳太子の紹介の文章における、「厩戸豊聡耳皇子」とは、二人の人物を合わせた名前です。事跡も二人の事跡を、聖徳太子という人物でまとめられていることになっている。

押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一王子です。王位継承筆頭の人物です。
推古天皇の息子の竹田皇子も、この時代に権力を握っていた蘇我氏の皇子です。

両親が天皇である、竹田皇子は、押坂彦人大兄皇子の異母弟になり、兄である押坂彦人大兄皇子に次ぐ王位継承者です。
蘇我氏の人物で初めて大王家と血の繋がりを持つ蘇我の皇子です。
厩戸王子とは、押坂彦人大兄皇子のことであり、豊聡耳皇子とは竹田皇子のことです。

日本書紀においては、この重要な二人の「太子」はほとんど登場しません。
次期王位継承の候補である二人なのに、推古天皇条には全く登場しません。
ですので、早くに亡くなったともされますが、何時亡くなったかの記述も一切ありません。いつ生まれたかも不詳です。

敏達天皇の第一皇子である押坂彦人大兄皇子や、推古天皇の息子である竹田皇子が、推古条に登場しないなんてありえないことです。
用明天皇条において登場しますが、聖徳太子とこれら二人は別人として描かれている。

推古天皇時に、大王がいたことは、隋書により明らかです。男の王であり、「おおきみ」とよばれ、后もあると記述されています。
この大王とは、蘇我馬子や蝦夷だったのではないのかという説がありますが、この二人が大王に即位できるはずありません。

隋書にある「おおきみ」とは、聖徳太子や、蘇我の皇子である竹田皇子ではないのか?というのならまだしも、馬子や蝦夷は大王家と繋がりありません。大王に即位する資格がありません。隋の使節に本来の王でないものが謁見するはずありません。

推古天皇時に、大王がいたとすれば誰なのか?まず推測できるのは、第一皇子だった押坂彦人大兄皇子や両親が天皇である竹田皇子でしょう。
竹田皇子は蘇我氏が初めて大王家と関係を持った、大王家と血の繋がりのある、蘇我の皇子です。推古天皇の息子であり、蘇我氏の重要な皇子であるのに、書記の推古天皇条には全く登場していません。

推古天皇条には、聖徳太子は何度も登場しますが、重要人物である、彼ら押坂彦人大兄皇子と竹田皇子は全く登場しません。

そうではなく、何度も登場しています。
推古天皇条に、「太子」とされ記述されている事跡はこの二人の太子の事跡です。
この二人の事跡を、聖徳太子という人物の事跡として消し去っているのです。

用明天皇とは蘇我氏が主張する王であり、本来の王ではありません。
ですのでその皇子であるとされる聖徳太子は、大王家とは繋がりはなく大王に即位する資格がありません。
隋書に記述のある、推古天皇時に存在した大王とは、この用明天皇の皇子ではありえないのです。


改竄の方法、推古天皇条冒頭のこの記述で、・・・

元年・・・夏四月庚午朔己卯、立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。橘豐日天皇第二子也、母皇后曰穴穗部間人皇女。
     *********************

以降の「皇太子」との記述は全て用明天皇と、穴穂部間人皇女との皇子である人物になっている。

系譜が改竄されています。用明天皇と、穴穂部間人皇女との皇子であるという人物はそのとおり架空の人物です。藤原氏は、この架空の人物を使い、二人の太子、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の事跡を消しているのです。
厩戸豐聰耳皇子という名は二人の人物をまとめた名前です。

藤原氏はこの押坂彦人大兄皇子が大王に即位したとしたくないのです。長屋大王は押坂彦人大兄皇子の直系の子孫です。藤原氏と蘇我氏の争いもよく知られるところです。

もう何度も記述していたところでもあります。
桓武天皇の時代に、藤原氏による系譜改竄がなされ、押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことを消しています。押坂彦人大王の後胤と争い、何人もの大王家の人物を殺害したからです。蘇我氏と争ったのも、秦氏、藤原氏です。
押坂彦人大王も藤原氏に祟ったのです。ですので聖徳太子なのです。

本来の系図が変更されていることによる混乱です。

聖徳太子が大きな謎となっているのは、はじめに蘇我氏による系譜改竄が行われたからです。
蘇我馬子により、物部系の王子である押坂彦人大兄皇子を蘇我の皇子として変更したことに始まります。
蘇我の王である、用明天皇の皇子と変更したことによるものです。

それは、蘇我馬子と聖徳太子が編纂したという「天皇記」「国記」においてである。この変更された系譜を用いて、歴史は再度変更されている。



今回は前回から続けて斑鳩寺の創建年に関してです。この創建年(607年)の記述に関してもやはり二年間の間違いがあります。
斑鳩寺の創建年は605年です。

法隆寺金堂薬師如来像光背銘・・・

池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
   **************************
法隆寺創建の由緒刻まれている銘文です。銘文(丁卯年仕奉)にあるように、推古天皇15年(607年)に寺とこの仏像は造られたとされます。
これは法隆寺資材帳(747年)の文章と一致します。
しかしこの銘文は、斑鳩寺の創建を語るものであり、斑鳩寺と法隆寺は別のお寺です。

金堂薬師如来像は、現在の法隆寺の三つの本尊のうちのひとつとなっているので、銘文は法隆寺の創建年を伝えているということになっています。
しかし銘文は、本来の法隆寺の由緒を消し去るものである。

薬師如来信仰は、この時代よりは後のもであるとされます。
623年に造られた、現法隆寺の釈迦三尊像よりは、新しい仏像だとされます。607年に造られた仏像ではないのです。
この後背銘は、後の時代、長屋大王が藤原氏に祟った後に作られた法隆寺の由緒を消し去る銘文といえます。

737年に長屋王の怨霊により、藤原四兄弟が亡くなった後の、739年に法隆寺は怨霊封じが行われ、その由緒は変更されている。
法隆寺に祀られているのは、押坂彦人大王、山代大王(山背大兄王)、茅渟王です。彼らも祟ったのです。

金堂薬師如来像の銘文は、この怨霊封じ以降に、「天皇記」「国記」の推古条にあった斑鳩寺の由緒を参照して作られたものです。


この銘文の解釈で問題となっているのは、「大王天皇」です。この時代の天皇だった推古天皇のことだとされます。

もちろん「大王天皇」なんて呼称はありません。「大王」の呼称が、「天皇」の呼称に変わったのではありません。大王と天皇は別の呼称であり、大王である人物と天皇である人物がいた証拠の文章です。
この銘文は、「天皇記」、「国記」の推古条にあった、斑鳩寺創建の由緒を語る文章です。これをそのまま写している。斑鳩寺は蘇我氏が建立したお寺です。

「大王天皇」ではなく、「大王」、「天皇」で区切らなければなりません。そして「太子」です。二人の聖徳太子と推古天皇のことです。この銘文は蘇我氏が「天皇」の呼称を使用し、歴史を改竄した時に作文されたものです。
「大王」とは、押坂彦人大王であり、「天皇」とは推古天皇のことであり、太子とは推古の息子の竹田皇子のことです。
推古天皇時に大王がいたことは、隋書により明らかです。

池邊大宮治天下天皇こと用明天皇が天下を治めたたという表現からも、容易な推測です。上記しましたが、用明天皇とは蘇我氏が主張する蘇我の王です。本来の王ではありません。

「天皇」は蘇我の王の呼称であり、推古天皇は実際の初代天皇であるということが理解できれば、この銘文の解釈も難しいものではありません。
蘇我氏による歴史変更の銘文であるともいえます。

銘文にある人物は、大王である押坂彦人大王(隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王)、天皇である推古天皇、太子である、推古天皇の息子の竹田皇子です。

そして、この銘文は蘇我氏が歴史を変えた、「天皇記」「国記」の推古条に記述されていた文章です。斑鳩寺の由緒です。
斑鳩寺は蘇我氏の寺院であるとも言え、現法隆寺とは異なる寺院である。多くの謎が生じる理由です。

藤原氏による怨霊封じが行われた時、739年に、法隆寺の由緒を変更するために金堂薬師如来像に刻字されたものです。

若草伽藍に造られたお寺は創建斑鳩寺ではない。
創建斑鳩寺は藤ノ木古墳に葬られていた、泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部皇子人物を祀るためのお寺です。彼らは物部系の大王です。斑鳩の地は元は、物部氏の本地でもあります。
蘇我氏により、殺害した本来の大王である彼らを祀るために造られたのが斑鳩寺です。

そして、厩戸皇子こと押坂彦人大王も物部系の大王です。蘇我氏、蘇我馬子により、この押坂彦人大王を蘇我の皇子として系譜を変更したことにより混乱が生じている。
敏達天皇の最初の皇后は、物部姫である穴穂部間人皇女です。蘇我の王といえる欽明天皇の娘ではありません。
押坂彦人大王の母親であり、押坂彦人大王は物部の王です。

次の皇后?が推古天皇です。押坂彦人大兄皇子は、蘇我氏が関わった大王家の人物です。推古天皇時、大王だった人物です。
推古天皇の息子の竹田皇子は、異母兄弟になります。

二人の聖徳太子。ですので、生誕地の伝承もふたつあります。
上宮王の名称からも、押坂彦人大兄皇子が生まれたのは、この「上宮」であると思われます。写真の桜井市南部の上之宮遺跡の場所です。
後に物部の本地である斑鳩の地に移りました。これが岡本宮であり、後に寺となりました。法起寺です。
さらに大王に即位することになり、横大路に完成した水派の宮(桜井市大福)に移ることになります。

中宮寺は、元はこの押坂彦人大兄皇子の母親である穴穂部間人皇女の住居、「中宮」でした。ですので、この押坂彦人大兄皇子は、母親の宮である、この中宮で生まれたかもしれません。後に寺(中宮寺)となります。母親の傍に移ったのです。
斑鳩は物部の本地であり、中宮は物部の時代に造られた建物です。

穴穂部間人皇女が亡くなった後には、敏達天皇の次の皇后が額田部皇女こと大伴皇女です。
額田部皇女は推古天皇のことではありません。藤原氏により対立していた大伴氏の娘が消されている。
大伴皇女の娘が糠手姫皇女であり、押坂彦人大王の后です。
糠手姫皇女は天武大王の王后である額田王の祖母であり額田部氏の女性であるということです。

額田王は優秀な歌人だったことが注目され、采女や巫女だったともいわれますが、そうではなく本来は大王家の女性です。
額田王は高市大王の母親であり、高市大王の王子が長屋大王です。この系譜が変更されている。

ですので推古天皇は敏達天皇の皇后だったかは怪しいいとこでもありますが、この時代権力を握ったのは蘇我氏であり、推古は蘇我の女帝です。ですので、蘇我の王である「天皇」だったのは間違いありません。


もう一人の聖徳太子、蘇我の皇子である竹田皇子が生まれたのは明日香にある「橘寺」です。この蘇我氏の本地にある橘寺は、元は推古の住居、宮でした。推古天皇は蘇我の女帝です。
竹田皇子もまた斑鳩の地に移ることになります。
これが605年に移ったという斑鳩の宮です。斑鳩宮と斑鳩寺は蘇我氏の宮であり寺です。物部が滅んだ後、斑鳩の地は蘇我氏の管轄する場所になっていました。斑鳩寺も宮と同時期に、605年に完成している。斑鳩の宮は竹田皇子の宮です。


二人の聖徳太子。若草伽藍に造られたお寺は、624年に亡くなった竹田皇子を祀るお寺であり蘇我氏のお寺であるともいえます。
現法隆寺は押坂彦人大王を祀るお寺であり大王家のお寺です。
法隆寺が大きな謎となっている理由です。


斑鳩寺の創建年に関してです。

金堂の薬師如来像光背銘において、斑鳩寺は607年の創建とされます。これは真実を語っている銘文であるのか?
そんなはずはない。607年の創建年は間違っているように思のです。

斑鳩寺の創建も二年の間違いがあります。607年の創建ではなく、605年の創建です。
斑鳩宮と同時期に完成しています。

斑鳩宮は605年に完成し、聖徳太子は移ったとされます。ですから、斑鳩寺も605年には創建されているはずです。
二年の間違いなのだけど、間違った理由が重要なのです。

斑鳩寺と斑鳩宮は、同時期に完成でなければならないように思う。それは藤ノ木古墳が関わるからでもあります。
明日香から斑鳩に宮を遷した理由の一つが、藤ノ木古墳の被葬者を祀るためだからです。

それと、日本書紀の推古条は二年の混乱がある箇所が他にもあります。

日本書紀(中) 山田宗睦 訳 を参照しているのですが、
推古天皇条冒頭において間違いの指摘があります。

年十八歲、立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歲、渟中倉太珠敷天皇崩。卅九歲

36年3月7日の条に崩年75歳とすると(18歳は欽明32年に当たる)敏達との死別は、34歳ではなく32歳となる。即位は39歳。
      ******************
以前にも指摘したところですが二年の間違いがある。聖徳太子の系譜の改竄にも関わります。

どうしてまちがったのだろうか?
これは、押坂彦人大兄皇子が大王に即位した事を消し去っているからです。
591年に天皇に即位したのが推古天皇であり、「天皇」とは蘇我の王のことです。
593年に大王に即位したのが押坂彦人大兄皇子です。摂政に就いたとされますが、そうではなく大王に即位したのが、この593年であり、この年が法興元年です。
押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことが消され、推古が593年に天皇に即位したことに変更されている。この変更による間違いである。

この押坂彦人大王の後胤と対立してきたのは、秦氏、藤原氏であり、押坂彦人大王も祟ったと思われていたのです。

そして、日本書紀、推古天皇条には、斑鳩寺607年の創建年では矛盾する記述があります。

斑鳩寺も斑鳩宮と同様に、605年に創建されているはずです。



日本書紀・・・創建一年前の推古天皇14年(606年)に、斑鳩寺の記述があります

日本書紀 推古天皇14年
秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經於岡本宮、天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。
    ************************
創建前の斑鳩寺、・・・推古天皇は太子に播磨国の水田100町歩を贈り、太子はそれを創建前の斑鳩寺に納めるという不思議な記述です。
薬師如来像光背銘により、斑鳩寺は推古天皇15年(607年)に創建されたとされます。ですので、606年、斑鳩寺はいまだ創建されていません。

この書記の推古条にある、「皇太子」とは、用明天皇と、穴穂部間人皇女との皇子であるという人物ではありません。

推古天皇が大変喜んだとされるように、岡本宮で勝鬘経、法華経の講義を行ったのは、推古天皇の息子の竹田皇子です。仏教を興した聖徳太子というのは、この竹田皇子のことです。

この時の大王は、押坂彦人大王であり、天皇は推古天皇、そしてこの皇太子とは竹田皇子のことです。太子道を飛鳥から斑鳩まで通った、太子とはこの竹田皇子のことです。斑鳩の宮に移ったのも竹田皇子です。

この文章は蘇我氏の歴史書である、「天皇記」「国記」の推古条に記述されていた文章です。蘇我氏の歴史書であるので、非常に聡明であったとされる太子とは、蘇我の皇子である息子の竹田皇子のことです。

推古天皇時には本来の大王がいます。ですので、推古天皇条が存在していたのは、この蘇我の歴史書である「天皇記」「国記」以外ありえないわけです。

この岡本宮というのが、飛鳥における推古天皇の宮である小墾田宮のことであるのか?
岡本宮は別称であり、雷丘の傍に推古の宮が存在していたからの名称なのか。
あるいは斑鳩にある、岡本宮、後の法起寺であるのか?

605年に斑鳩の地に移ったとされますので、606年に勝鬘経、法華経の講義をしたとされる岡本宮とは、この斑鳩にあった宮のことです。
この斑鳩の岡本宮は、元は異母兄である押坂彦人大王の宮でした。大王に即位し水派の宮に移りました。


物部の本地である斑鳩にある中宮寺は、もとは押坂彦人大王の母親である穴穂部間人皇女の住居、「中宮」でした。
穴穂部間人皇女は物部の姫であり、押坂彦人大王は物部系の大王です。

穴穂部間人皇女没後ですが、推古天皇の息子の竹田皇子が斑鳩に移り住んだため、推古も斑鳩の地に移ることになりこの「中宮」が住居、宮となりました。
竹田皇子没後に冥福を祈るため寺、「中宮寺」にしたものです。これは中宮寺が四天王寺式の伽藍配置であったことからも推測できます。
若草伽藍のお寺と同様に、蘇我の時代に建設された寺院です。

野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の銘にある「中宮天皇」とは、推古天皇のことです。
「野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の謎と中宮天皇」、「法隆寺、橘寺創建の謎と野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像」のところで記述してます。

何度も記述しているところですが、「天皇」の呼称にも関わる重要なところなので・・・「天皇」の呼称の記述のもっとも古いものです。
推古は「天皇」と呼称されていました。初代天皇であり、「天皇」とは蘇我の王の呼称です。



野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時
誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
   *************************
この銘文における、謎とされるこの「中宮天皇」とは推古天皇のことです。
銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯開」は、「開」という文字があるように、この栢寺が創建された日ということです。
丙寅年、推古天皇16年である606年4月8日、お釈迦様の誕生日に創建されたということです。この栢寺とは後の橘寺のことです。推古天皇と息子の竹田皇子が関わるお寺です。

法隆寺金堂日記・・・「橘寺より、小仏49体、永歴2年(1078年)10月8日迎え奉った」

この野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像は、橘寺から法隆寺金堂に移された仏像のうちの一つです。
この栢寺の僧たちが、推古天皇が病気になった時に、回復を願ってこの弥勒像を作り、銘文を記したということです。
ですので、推古天皇が崩御した628年頃にこの仏像造られたものです。

「聖徳太子伝暦」によれば、推古天皇16年(606年)に、太子(竹田皇子)が勝鬘経を講説したので、推古天皇は橘寺を創建したとされます。元は豊御食炊屋姫尊(推古天皇)の住居であり、竹田皇子が生まれたのがここです。
「聖徳太子伝暦」と、野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像の銘文の栢寺(橘寺)の創建年は一致します。

この栢寺とは後の橘寺のことです。推古天皇の父親である欽明天皇の別宮が推古天皇の宮、「栢宮」になり、ここで生まれたのが竹田皇子です。
「栢宮」が「栢寺」となり、後に本格的に寺院が建設され「橘寺」になったのです。

竹田皇子が勝鬘経、法華経の講義をしたのは、推古天皇16年(606年)であるという書記の記述は間違いではありません。

そうすると、法隆寺金堂薬師如来像光背銘にある、推古天皇15年(607年)に寺とこの仏像は造られたとされる銘文と矛盾します。
薬師如来信仰も後のものです。藤原氏による、法隆寺の由緒を改竄する銘文です。
斑鳩寺と法隆寺は別のお寺です。

斑鳩寺の創建は、勝鬘経を講説した606年以前ではなくてはおかしいわけです。

日本書紀における、斑鳩寺創建に関する矛盾する記述です。
何故にいまだ創建してない斑鳩寺に納めるのでしょう?

不思議な記述ですが。この記述は間違っていません。間違っているのは薬師如来像光背銘です。
斑鳩寺は推古天皇15年(607年)の創建は間違っている。

斑鳩寺の創建年は605年です。斑鳩宮と斑鳩寺は同時に完成している。




二人の太子、・・・
聖徳太子の生誕場所に関する伝説も、やはりふたつあります。
明日香にあるこの橘寺と、桜井南部の、今も上之宮の地名に残りますが、写真の上之宮遺跡の場所です。
ここは、幼少期を過ごしたとされますので、生誕地は斑鳩にあった、母親の穴穂部間人皇女の住居である中宮である可能性もあります。

蘇我氏の本地である明日香にある橘寺は、もとは豊御食炊屋姫尊こと推古天皇の住居であり、ここで生まれたのが竹田皇子です。
その名の通り、「おしさか」近くの上之宮で生まれたのが(あるいは育ったからの名称)、押坂彦人大王です。
伝説どおり、押坂彦人大王の宮は、父親である敏達天皇の宮である、訳語田幸玉宮(桜井市戒重 他田宮)の南部に位置します。

のちに、押坂彦人大兄皇子もまた斑鳩の地に移ります。これが岡本宮です。
さらに大王に即位することにもなり、横大路沿いに完成した「水派の宮」に移ります。

推古16年に隋の使者の裴世清一行を迎て隋国書の宣読と、国書と国進物の進上儀式が行われた宮というのは、この本来の大王の宮である「水派の宮」の方です。
推古は天皇ですが本来の王ではありません。ですので推古の宮である「小墾田宮」ではありません。

隋書には、男の王であり、「おおきみ」とよばれ后もあると記述されています。この時代にはまだ「天皇」の呼称はなかったとされます。では、大王ではなく天皇でもない推古は、どう呼称されていたというのでしょうか?
押坂彦人大王が、大王に即位したことが消されています。隋書の記述は、記紀の改竄箇所を暴くものです。

日本書紀、古事記は桓武天皇の時代に、秦氏、藤原氏によって改竄された偽書です。もうずっと私たちは騙され続けている。いまだに、この偽書である記紀を正史とする限り本来の歴史は見えてこない。


竹田皇子の宮は、「斑鳩の宮」です。宮もふたつあります。
推古天皇の宮とされる小墾田宮(小治田宮)は、明日香の雷丘にあった宮です。後に息子が住む斑鳩の宮近くの中宮に移ったのです。

息子の竹田皇子の方が先に亡くなっていて、亡くなった後にお寺となり、中宮寺と呼ばれました。中宮が寺となり、中宮寺と呼ばれたのです。
この中宮寺は、竹田皇子の菩提を弔うために、竹田皇子の宮である斑鳩宮のそばに移転しています。
推古天皇は、この中宮寺にいたので中宮天皇と呼ばれたのです。

「中宮」の呼称は、三つの宮(岡本宮、中宮、飽波葦垣宮)の真ん中にあったからです。
「聖徳太子伝私記」においては、斑鳩宮も関係するとされますが、この名称は605年に造られた斑鳩宮の以前にすでに呼称されていたと思われます。もとは物部の時代の建物です。

ふたりの太子、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子が混同されている。母親である穴穂部間人皇女と推古天皇も同様に混同されている。



日本書紀の用明天皇条においても問題個所があります。
押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一王子です。ところが日本書紀、用明天皇条には用明天皇の皇太子と表現されている箇所があります。すでにおかしいとも指摘されているところでもあります。
これは、厩戸皇子とは押坂彦人大兄皇子ですよと言ってるようなものです。

日本書紀用明天皇条
二年夏四月乙巳朔丙午・・・
遂作太子彥人皇子像與竹田皇子像、厭之。俄而知事難濟、歸附彥人皇子於水派宮。

物部守屋側の人物である中臣勝海が押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の像をつかって呪詛したということです。ここで、押坂彦人大兄皇子を用明天皇の皇太子としています。
押坂彦人大兄皇子の宮は、書記に記述のあるこの「水派宮」です。

敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子を蘇我の皇子として、蘇我の王である用明天皇の皇子として取り込んだための間違いでもあるのです。
前述してきましたが、蘇我氏、蘇我馬子による系譜の改竄箇所です。この蘇我氏による改竄系譜を使用して日本書紀も改竄箇されているのです。
参照した蘇我氏の歴史書である「天皇記」、「国記」の用明天皇条を、そのまま写したことによる単純なミスです。
用明天皇とは蘇我氏が主張する蘇我の王であり、本来の王ではありません。
ですので用明天皇条が存在するのは、この蘇我の歴史書である「天皇記」、「国記」以外ありえません。

「天皇」の呼称は、この「天皇記」、「国記」編纂時に、蘇我馬子により作られた蘇我の王の呼称です。
蘇我の歴史書であり、蘇我の王の正統性を主張するものである。
実際に「天皇」の呼称が使用されたのが、推古天皇であり、推古天皇は初代天皇といえます。


二人の聖徳太子。没年も、やはりふたつあります。法隆寺金堂釈迦三尊像の銘文と日本書紀では命日が異なります。
ですので、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の没年です。

隅田八幡神社人物画像鏡の銘文と、釈迦三尊像の銘文からの推測では、竹田皇子の命日は624年の2月22日である。これは間違っていません。

問題は押坂彦人大王の命日です。これが不明です。

しかし書記にある推古29年2月5日は、釈迦三尊像の銘文の命日2月22日とは異なるので、これは押坂彦人大王の命日であると思われます。
推古29年であるとされますが、これはやはり、二年間違っているように思います。推古31年であるように思います。

理由は、法輪寺の創建の由緒に、山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため、推古天皇30年(622年)に建てたという伝説が存在するからです。推古29年は621年になり、この年に崩御したとすると矛盾します。622年は病気療養中です。
押坂彦人大王の崩御年は623年である。やはり、二年の間違いがあるように思います。
この法輪寺は、元は、押坂彦人大王の王子であるこの山代王(山背大兄王)の宮であったように思うのですが?

推古31年である623年2月5日が押坂彦人大王の崩御された日です。


亡くなった場所の伝承もふたつあります。日本書紀では斑鳩宮です。
大安寺伽藍縁起并流記資財帳においては、飽波葦垣宮で病臥していたとされます。
斑鳩宮はこの竹田皇子の宮であり、ここで亡くなったのは竹田皇子です。
つまり、飽波葦垣宮で亡くなったのは押坂彦人大王です。

ふたりの太子、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子が混同されている。

斑鳩寺創建に関しても、このふたりの太子が関わります
聖徳太子が大きな謎となっているのは、はじめに蘇我氏による系譜改竄が行われたからです。
蘇我馬子により、物部系の王子である押坂彦人大兄皇子を蘇我の皇子として変更したことに始まります。
蘇我馬子は関係のあったこの押坂彦人大兄皇子を、次の大王に即位させようとしたのです。

これは、蘇我馬子と聖徳太子が編纂したという「天皇記」「国記」においての記述である。この変更された系譜を用いて、歴史は再度変更されている。


創建年に関わりますので、少しややこしいですが説明します。
推古天皇条は何故か、記述年代において、二年の間違いがあるのです。

推古は天皇ですが、本来の王である大王ではありません。ですので、もとの日本書紀には、推古天皇条なんてありません。
日本書記を改竄した時に付け加えられたものです。

記紀改竄時には、蘇我氏の歴史書である、「天皇記」「国紀」を参照して変更している。

この創建の由緒が刻まれる薬師如来像光背の銘文は、おそらくは蘇我の歴史書である「天皇記」「国紀」の、推古天皇15年に記述されていたものを写したものです。
光背銘として用いていますが、日本書紀改竄時には、この文章は採用されず斑鳩寺の創建の記述はありません。

天皇が天下を治めたという、この表現、「池邊大宮治天下天皇」は蘇我氏が主張するものです。蘇我の王である「天皇」が天下を治めるという記述の仕方は、蘇我の歴史書である、「天皇記」「国紀」においてである。

何度も記述しているところですが、推古天皇は591年に天皇に即位して、推古元年は591年というのが真実です。
押坂彦人大王は593年に大王に即位しています。この大王に即位したことが消され、推古が593年に天皇に即位したことに変更されています。

法興元年は、押坂彦人大兄皇子が大王に即位した593年です。

「天皇記」「国紀」にある推古天皇15年とは、元年が591年ですので、15年というのは605年になります。「天皇記」では推古元年は591年です。

しかし日本書紀に採用された時には、推古元年を押坂彦人大王が大王に即位した年の593年に変更しています。

このことを考慮に入れ、593年から数えてしまっているので、推古15年というのは、607年の丁卯年になっているのです。

「天皇記」の推古15年は605年であり、干支は乙丑です。
日本書紀に採用するのであれば、593年から数えるため、推古13年に事跡として記述しなければいけません。

しかし「天皇記」「国紀」にあった斑鳩寺創建の記述を、日本書紀には採用していません。そして「丁卯年」と干支表記なことも間違いのもとです。

ですので・・・大命受賜而歳次乙丑年仕奉
こう記述しなければいけなかったのです。
推古15年を593年から数えてしまっているのです。

日本書紀に採用するときは、二年差し引いて記述されています。
書記の推古天皇14年は、本来「天皇記」では16年の記事です。推古元年を593年から数えると14年は606年です。これは正しい年を示しています。

日本書紀の推古天皇14年(二年引いている)の、606年は正しく、薬師如来像光背の銘文の創建年607年は二年の間違いがあります。二年引いて記述されている場合と,そのまま写している記述があるのです。

ですので、斑鳩寺創建年は605年です。
斑鳩寺創建は605年であり、推古天皇の息子の竹田皇子が勝鬘経、法華経の講義を行ったのは翌年の606年です。

日本書紀のこの文章・・・「天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺」は間違いありません。すでに斑鳩寺は605年に創建されていました。

日本書紀において聖徳太子は、推古天皇9年(601年)に斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだとされます。
宮だけでなく寺も同時に造り始められたので4年もかかっているのです。

斑鳩寺も斑鳩宮も同時に造り始められ、共に605年に完成したということです。上記の日本書紀の記述とも矛盾しません。
息子が斑鳩の地に移ったことにより、母親の推古天皇も傍に宮(後の中宮寺)を造り移り住むことになったということです。


推古天皇は、天皇ですが、本来の王ではありません。ですので、本来の日本書紀には推古天皇条なんてありません。
日本書紀の下巻最初には押坂彦人大王条があったのです。

「天皇記」「国記」は蘇我の歴史書です。そして推古天皇は蘇我の女帝です。
間違いは本来の大王を消し去って、推古を女帝としたことによる間違いです。
推古天皇条があったのは、この「天皇記」「国記」です。
記紀改竄時にはこの「天皇記」「国記」を参照している。

この押坂彦人大王の事跡を、推古天皇条の聖徳太子という人物に纏められている。

政治を行ったのは大王である押坂彦人大王です。ですので、遣隋使を派遣するなどの政策を行ったのは彼です。
冠位十二階や十七条憲法の制定に関しても、天武大王が皇祖と仰ぐ押坂彦人大王を称賛する意味で、功績を追加記述されていたように思います。


「天皇」の呼称を使用して記紀は改竄されている。記紀に推古天皇条を付け加えるのにあたっては、何らかの文献を参照しているはずです。
それが、推古天皇28年(620年)に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したという「天皇記」「国記」である。


斑鳩寺創建は605年です。しかしこの創建斑鳩寺、610年に焼失している。若草伽藍に作られたお寺は再建斑鳩寺ともいえ、この竹田皇子が亡くって、彼を祀るために作られたお寺です。これらは蘇我氏のお寺だとも言えます。
現法隆寺は天武大王が造り始めたお寺です。

次回に続きます。605年に創建されていた斑鳩寺はどこに建てられていたか?この斑鳩寺は再建されています。この再建斑鳩寺は若草伽藍に建てられたお寺です。若草伽藍のお寺は創建斑鳩寺ではありません。

法隆寺の七不思議とされる、南大門前にある鯛石こそ、この創建斑鳩寺の五重の塔の心礎石です。

写真は、日本書紀にも記述のある、押坂彦人大兄皇子の宮である「水派宮」が建造されていた場所、桜井市大福にある三十八柱神社です。

三十八柱神社御由緒
聖徳太子伝暦(917)の注記に「小墾田の宮は当時、大仏供(大福の古名)と云う里にヲハル田の宮とて小社あり其れ宮どころ也云々」と明記されていた。

しかし、ここは推古天皇の「小墾田の宮」ではありません。この時代の本来の大王である押坂彦人大王の宮である「水派宮」です。
隋の使者である裴世清一行を迎えたのは、横大路沿いに造られたこの「水派宮」です。

この三十八柱神社は、「みそやはしら」とされていますが、この三十八は、本来は「みずは」であり、水神の水波能売命(みずはのめのかみ)を祀る神社です。
「水派宮」の名称は、この神社のそばに造られたからです。






下の写真は雷丘付近で発掘された、「小治田宮」の文字の墨書がある土器です。
推古天皇の小墾田宮は、明日香村の雷丘周辺にあったことは間違いないと思われます。
桜井市大福にある三十八柱神社は、押坂彦人大王の「水派の宮」ということです。

これも「隠された十字架」にある梅原猛氏の指摘ですが、
「法隆寺 資材帳」
「小治田天皇大化三年、歳次、戊申 九月二十一日巳亥、・・・・」

大化三年は、647年になります。「小治田天皇」というのは本来は推古天皇のことです。
孝德天皇在位、645年~ 654年になります。ですので、この時のこの「小治田天皇」というのは孝徳天皇になります。

しかしこれは間違っています。孝徳大王の年号は「大和」です。
「大化」というの真実ではありません。
この時の大王は孝徳大王であり、天皇は皇極天皇であるということです

643年に皇極天皇の小墾田宮に遷幸したとされます。ですので皇極天皇も「小治田天皇」と呼ばれていたのです。649年まで皇極天皇だったはずです。
それは、大安寺伽藍縁起并流記資材帳に、白雉元年(650年)に難波宮にいた袁智天皇との表記があろからです。白雉はこの孝徳大王の王后だった袁智天皇の年号です。654年に亡くなったのは孝徳大王ではなく、この袁智天皇です。ですので斉明天皇として重祚したのです。
「天皇」は王后の呼称でもありました。

野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像の銘文の「中宮天皇」。推古天皇が崩御した628年頃に造られた仏像です。

大安寺伽藍縁起并流記資材帳の白雉元年(650年)に難波宮にいた袁智天皇。孝徳大王の后であり、持統天皇の母親である遠智娘のことです。
持統天皇は孝徳大王の娘です。渡来人、秦氏の皇子である天智の娘ではありません。

「天皇」号が成立したのは、7世紀後半、天武、持統朝であるというのが通説ですがこれは間違っているということです。

「天皇」の呼称は、推古天皇28年(620年)の「天皇記」「国記」編纂時に作られた、蘇我の王の呼称であり、これ以降「天皇」の呼称は存在する。
つまり、実際の初代天皇は推古天皇ということです。初代が女帝であったっため、その後も女帝(推古天皇から称徳天皇まで)の呼称となっている。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳の記述が証拠です。中宮天皇も袁智天皇も女性です。

そしてこの「皇」の文字は「王」の文字の異字として使用され始めている。「皇」の文字の方が良い文字と判断されてきたのかな?
これが天武、持統朝くらいです。しかし本来の王の呼称はまだ大王です。
天武大王です。
これは、中国では「皇帝」の称号が使用されているからでもあります。
はじめて「皇帝」を名乗ったのは秦の始皇帝であり、秦氏は「秦」を氏の名とし、秦の始皇帝の末裔を主張しています。





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