聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

蘇我氏と藤原氏による系譜改竄の謎

2018年09月09日 | 日本書紀の謎


蘇我氏は、何故か蘇我馬子のお父さんである蘇我稲目の時代に、明日香を拠点とし
突然大和盆地に現れたとされる豪族です。この稲目以前の蘇我氏の歴史は、今一つ
明らかではありません。それは、藤原氏が系譜を改竄したからです。
蘇我氏はもとは息長氏のことです。つまり息長氏なんて存在してはなく、本来は
蘇我氏だったということです。
近つ飛鳥に遠つ飛鳥、磯長の近くの飛鳥が近くとされているように本来は蘇我氏の
本拠地はこの磯長だったのではないのか?

今回は、この蘇我氏と藤原氏によって変更させられた歴史について考えてみます。
今までの通説とされていた歴史が変わってしまいますが、真実だからしかたない。
もう何度も云いますが、長屋王邸とされる所から見つかった木簡には「長屋親王」との
書かれた木簡が出土しています。この木簡は衝撃的だとされますが、そうではない。
「親王」とはお父さんか、兄弟が天皇(王)でないと付けられない呼称とされます。

つまり高市皇子は大王でした。長屋王も、もちろん大王に即位していました。
この高市大王や長屋大王と対立していて死に追いやったのは藤原氏です。
ですので歴史書を作ったのです。彼らは大王に即位していたとはできないのです。
高市大王や長屋大王が大王だとすると、その時代に天皇だったとされる持統、元明、元正、
そして聖武は、本来の王ではないのです。
これに関しては凄く容易な推測でしょう?歴史というのは権力者の都合で変えられる
ものであるわけです。

古代の歴史を変えたのは、権力を握った蘇我氏と藤原氏である。

天皇とは本来は蘇我の王のことで、実際の初代天皇は推古天皇です。天皇と大王とは異なる。
これ古代の歴史が変わりますが真実です。
この時から「大王」と「天皇」とが存在したのです。蘇我氏や藤原氏は、
この「天皇」の呼称を使用して本来の王家の系譜を改竄したのです。

推古は天皇だけど大王ではない。これは日本書紀にも矛盾する箇所があります。
藤原氏がおこなった杜撰な改竄箇所です・・・というか改竄しなければいけない
ところですが忘れている箇所ともいえます。

蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる「天皇記」「国記」に記述されていた
歌をそのまま写して変えていない箇所です。
大王の呼称が天皇になったのではなく、大王と天皇がいた証拠です。

日本書紀にあるため良く知られている歌です。
推古20年、正月七日、群卿に酒を振舞う宴が催された時、
大臣馬子の歌・・・
やすみしし 我が大君の 隠ります 天の八十陰 出で立たす 御空を見れば 
万代に かくしもがも 千代にも かくしもがも 畏みて 仕へ奉らむ 拝みて 
仕奉らむ 歌献きまつる

これにこたえて推古の歌・・・
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 
蘇我の子らを 大君の 使はすらしき
   ************************
問題は推古の歌ですよね。まず、推古も馬子も大王(おおきみ)といっていますよね。
天皇じゃないですよね。それはこの時代には、まだ天皇の呼称はなく大王と呼ばれて
いたとされるからです。
ですが、推古が大王ということなら、この歌はおかしいですよね。
これおかしいのはすぐにわかりますよね。問題個所だとも指摘されている箇所です。

大王が有能な蘇我の子を使うのはもっともだってことを言っているのだけど・・・
まるで他人事で、これ私は大王ではないといっているようなものですよね。

そう天皇とは別に、本来の王である「大王」存在していたのですよ。
これ隋書でもバレていますよね。推古天皇時に隋の使者が王に謁見しています。
その倭王は「おおきみ」と呼ばれ、男の王だという記述ですよね。天皇で女性ではないですよね。
さらに万葉集や木簡、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文でもね(^o^)丿

これはもう何度も云っていますが、推古が天皇時、大王だった、押坂彦人大兄皇子が
大王に即位していた事実や系譜を改竄したからです。それは藤原氏は彼の子孫と
対立し暗殺してきたからです。聖徳太子が謎になっているのもこのためです。
押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一王子であるわけですから、この時に大王に即位
していたと考えるのは簡単な推測でしょう。でも記紀に登場しなくなるので早くに
亡くなったとされます。推古の息子の竹田皇子も同様です。

この時から「大王」と蘇我の王である「天皇」が存在していたということです。
つまり初代天皇は、本来はこの推古天皇であり、「天皇」は古代から繋がる王ではないのです。
馬子は蘇我氏を古代の王家に繫いだのです。
蘇我馬子と皇太子(竹田皇子)が編纂した、「天皇記」「国記」というのは蘇我氏の歴史書です。
この歴史書により古代の歴史は改竄されました。


古事記、日本書紀は編纂後に藤原氏によって変更されている。続日本紀は全く藤原氏の書物である。

「長屋親王」との記述がある木簡が出土した以上、いままでの通説を変更しなければいけません。
呼称だけの問題ではなく、大王と天皇がいる時代があったのです。万葉集にも、天武や高市皇子
のことを、大王と呼んでいます。天皇なんて呼んでいません。
長屋王が長屋親王と呼ばれるのは、お父さんの高市皇子が大王に即位していたこと以外は
ありえません。

今回は藤原氏によって変更された、聖徳太子から繋がる、本来の王家の系譜がどう
変えられたかを考えてみます。

うーーーーん((+_+))でも、どう系譜を変更したかは凄く難しい推測です。
どう改竄したのだろろう・・・なんらかの手掛かりがあるのだろうか・・・?(-"-)

蘇我氏や藤原氏は、自らを古代の王家に繫ぐ操作をしている。
難しいのは、蘇我氏によって変更された系譜を利用して、藤原氏も変更している。
ですので複雑になっているように思います。利用したのは蘇我馬子と聖徳太子(竹田皇子)
が編纂したとされる蘇我氏の歴史書ともいえる天皇記・国記である。

藤原氏は、いわばこの蘇我氏を乗っ取っている。蘇我氏の歴史を利用して系譜を改竄している。

ウイッキベディア・・・中臣氏
元々は中臣氏の一族で初期の頃には中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)と名乗っていた
(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行った中臣鎌子とは別人)。その後中臣 鎌足
(なかとみ の かまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。
      ******************
この藤原鎌足は、もとは中臣 鎌子と名乗っていたとされます。物部尾輿と共に排仏を
行った中臣鎌子とは同姓同名ですがもちろん別人です。
本来は中臣氏とは全く関係しない。この中臣氏の系譜を利用している。
というか藤原鎌足は中臣氏になろうとしていたのです。
つまり、・・・中臣鎌足は中臣鎌足ではないということです((+_+))

それは百済復興のために渡来した百済からの渡来人であるからです。
この鎌足が対立していたのは、朝鮮出兵に反対の立場であった王家や蘇我氏、阿部氏などです。
そして、これも百済からの渡来人の秦氏の族長の秦河勝と関係する天智と結び、暗殺を繰り返しました。


白村江の戦で敗れたため百済復興はならなかったのですが、王家と深くかかわる
ことになり、後に王家と対立するようになりました。
藤原不比等はこのお父さんである鎌足の出自を変更する必要、つまり系譜を改竄する
必要があったのです。
権力を握るには、いずれかの実在した古代の氏族に繋げる必要があったのです。
始祖の鎌足が渡来人では都合が悪いのです。

蘇我氏と藤原氏による系譜の改竄があるように思いますが、まずはこの藤原氏による
系譜の改竄を推測してみます。

藤原氏の祖と言えるのが藤原鎌足と不比等です。藤原氏の系譜に関しては少し不思議で
あると感じられる箇所があります。それは藤原氏繁栄の基礎を築いたとされる不比等の妻に関してです。

藤原不比等の妻は、何人かあるのですが、問題なのは蘇我娼子です。
武智麻呂、 房前、 宇合と藤原四兄弟のうち三人は、不比等とこの娼子との息子たちで
あるわけで、不比等の本妻ともいえますよね。

あれ???でも蘇我本家を滅ぼしたのは、お父さんである中臣鎌足や天智ですよね?
藤原氏は蘇我氏とは対立していたのではないのか?
だから何故に蘇我の女性を妻としたのでしょうか?少しおかしいようにも思いますが?
これは事実のなのか?渡来人を統括していたとも思われる蘇我氏は秦氏とも深い関係に
あったと考えられます。

これは、成立したばかりの藤原という氏の権威付けのために、不比等はの古代からの
由緒ある氏族に繫ぐ必要があったのではないのか?選ばれたのが本家が滅んでしまっ
ている蘇我氏である。中臣氏も同様である。没落していた氏族であるので、取り込んで
繋げることができたわけで、蘇我氏の権威を取り込むことができるわけです。


ですので系譜の改竄個所なのか?蘇我娼子は蘇我氏の女性ではないのでは?
渡来人、秦氏はもとは、この蘇我氏の傘下にあったとされます。
蘇我氏はこれら渡来系移住民を利用して有力豪族に成長していったからです。
後に対立するようになったのですが、蘇我氏と秦氏はもとは緊密な関係にあったと思われます。
この蘇我氏の系譜を利用している。

ウイッキベディア・・・
皇太子・嶋大臣共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。
               —『日本書紀』推古28年是歳条 
蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船恵尺(ふねのふびとえさか)、
即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る
               — 『日本書紀』皇極4年6月条 
   ****************************
蘇我馬子と皇太子(竹田皇子)が編纂した、「天皇記」「国記」というのは蘇我氏の歴史書です。
この歴史書において、蘇我馬子は蘇我氏を王家に繋げていたのです。
そして蘇我氏は元は息長氏だからです。この蘇我氏の本貫地は、磯長です・・・ここはいずれ書きます。
蘇我氏の歴史書である「天皇記」「国記」を利用して、藤原氏を古代の王家に
繋げる改竄がなされている。それは蘇我氏により蘇我氏を古代の王家に繫ぐ改竄が
なされていたからです。

この息長氏の有名人は息長帯比売命こと神功皇后です。つまりこの神功皇后とは
蘇我の女帝ということになります。この神功皇后を、倭人伝で有名な卑弥呼だと
して改竄し、王家(後の物部氏)の歴史を消し去り、蘇我氏を古代の王家に繫いだのです。
これが蘇我氏による系譜の改竄箇所です。

そして蘇我氏の祖とされるのは、武内宿禰です。蘇我の歴史書である「天皇記」「国記」に
おいては、この武内宿禰は神武天皇として描かれ、神功皇后との子供が応神天皇であるとして、
蘇我氏をこの応神天皇に繋げていたのです。

そして継体天皇は、この応神天皇の五世の孫としているのです。
継体天皇は、欽明天皇のお父さんであり、この欽明は推古のお父さんです。
つまり蘇我の天皇たちは古代から繋がる正統な王だとして系譜を改竄したのです。

古代の大王家、邪馬台国の卑弥呼を蘇我氏の人物だとして取り込んでいます。
この蘇我の女帝である神功皇后を卑弥呼だと蘇我の歴史書である「天皇記」「国記」に
おいて記述されていたのです。しかし後に、藤原氏によって変更されている。
藤原氏は、この蘇我氏の系譜を利用し、蘇我の王である「天皇」の呼称を利用して歴史を改竄している。

蘇我氏の祖とされるのは、この武内宿禰の子の蘇我石川宿禰とされますが、この蘇我石川宿祢は、
蘇我宿祢と石川宿祢を足した名であり、本来は蘇我氏は蘇我宿祢が祖であり、石川宿祢は後に
石川氏に蘇我氏を繋げたの時に付けられた名である。

つまり、武内宿禰の子には蘇我宿禰と石川宿禰の二人の人物がいたということなのではないのか?

これは藤原氏が系譜を改竄したときに、石川氏を蘇我氏に繋げたのです。
それは、藤原不比等の妻が、この石川氏の娘だったからです。

蘇我馬子ー蝦夷ー入鹿の蘇我本家は滅び、蘇我氏は傍系の蘇我馬子の子である蘇我 倉麻呂から
繋がる蘇我倉氏が後に石川氏を名乗った後に主張した名がこの蘇我石川宿禰だろうとされますが、
そうではないのでは?


蘇我宿禰と石川宿禰、この石川宿禰というのはもちろん石川氏の祖であり、
蘇我の呼称は藤原氏によって系譜改竄時に付けられたものなのでは?
祖先の名に、「石川」を付けたのではなく「蘇我」の方を付けたのでは?
有力氏族の蘇我の名を、弱小氏族の石川に付けたのでは?
それは本拠地が近く本来は同一部族だったからでもあるかもしれません。

武内宿禰の子の蘇我宿禰は蘇我氏の祖、そして石川宿禰は石川氏の祖だったのではないのか?
多くの氏族が祖先を武内宿禰としているのは、本来この武内宿禰は神武天皇として描かれて
いたからです。古代の王家と対立していた葛城系の始祖王ともいえます。
武内宿禰ではなく、八代天皇の孝元天皇に祖を求めたらいいのにそうなっていないのはこのためです。

この石川氏の系図を利用して、藤原氏は系譜を改竄している。
それは、藤原不比等の妻の、蘇我娼子は、本当は石川娼子だからです。

本来は蘇我氏の本地は河内国磯長であり、後に稲目の時代に奈良盆地に移住し、
そこで「蘇我」を名乗ったのではないのだろうか?
葛城氏や渡来人と関わり大きな勢力となり氏族名を変更したと考えられます。

この蘇我は地名から名付けられたとされ、今の橿原市曽我町周辺だとされます。
蘇我氏の枝氏の多くはこの稲目から枝分かれしています。本来は蘇我氏の始祖は
この稲目ということになるのでは?

そして、稲目以前は蘇我ではなく息長氏である。つまり、蘇我氏と息長氏を結びつけると
本来の蘇我氏になるのではないのか?
蘇我の王である推古のお父さんの欽明天皇。そのお父さんである継体天皇を、
息長氏の王(蘇我の王)ともいえる応神天皇に繫いでいる
武内宿禰(神武天皇)と息長帯比売命こと神功皇后との子供が応神天皇である。


蘇我氏の祖とされる蘇我石川宿祢は、蘇我宿祢と石川宿祢を足した名であり、
本来は蘇我宿祢と石川宿祢ではなかったのか?

蘇我倉山田石川麻呂は、お父さんの蘇我倉麻呂を蘇我馬子に繋げているのですが、
本来は石川であり、苗字が二つ付いたような蘇我石川宿禰の名の、蘇我は後に付けられたものであり、
本来は蘇我と石川、二人の人物だったのでは?
蘇我倉麻呂は、蘇我馬子の子であり、蝦夷の弟だとされますが、そうではないのでは?
本来は石川麻呂のことであり、蘇我馬子の子供ではないのではないか。

それは蘇我氏を古代の王家に繋げていた系譜が存在していたからでもあります。
藤原氏はこの蘇我氏によって改竄された系譜を利用してその後の歴史を変えている。
本来は石川宿禰から繋がるのが、石川山田麻呂であり、石川氏である。

不比等の長男の武智麻呂、次男の房前、そして少し年齢が離れているため疑問とされますが、
三男の宇合は、この蘇我 娼子の子供たちとされます。
成立したばかりの藤原氏もまた権威付のために蘇我氏に繫ぐ必要があったのです。
ですので、本来は石川氏なのですが、蘇我馬子に繫ぐ必要があったのです。
それは蘇我氏は、渡来人を束ねるこの時代の最有力豪族でもあったからです。
藤原不比等の妻は、蘇我 娼子は、本当は石川倉麻呂の子の、石川連子の娘の石川娼子なのではないのかな?

つまり蘇我倉麻呂は蘇我馬子の子とされますが、本来はそうではなく、石川倉麻呂であり、
藤原氏を蘇我氏に繋げるために蘇我馬子の子として系譜の改竄がなされているのでは?
馬子ー蝦夷ー入鹿が本流ではなく、蘇我倉麻呂から繋がる石川氏が本流とななるように改竄されている。
それは、藤原不比等の息子たちのお母さんが石川氏の娘だったからです。
石川氏を蘇我氏に繫いで、王家に繫いでいる。

また藤原氏を王家、そして天皇に繫ぐための改竄だと思うのですが?
天皇記・国記にある系図を利用して、そして天皇の呼称を利用して藤原氏を王家に
繋げたのではないのか?

そして藤原氏と対立していた本来の王家の人物の系譜も改竄している。
天武が皇祖と仰ぐのが祖父である、 押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこ ひと のおおえのみこ)です。
この押坂彦人大兄皇子こと、日十大王以降の系譜に関してです。

重要なので何度も云いますが、押坂彦人大兄皇子の子孫と対立していたのが藤原氏です。
天武の王子は高市王子であり、その子供は長屋王です。本来は大王に即位していたのですが、
対立していた藤原氏は、彼らが大王に即位していたとは出来ないのです。ですので系譜を改竄しています。

日本書紀の下巻の天皇はすべてこの 押坂彦人大兄皇子から繋がります。
推古が天皇時に大王だったのが、厩戸王子ことこの押坂彦人大兄皇子です。
本来はこの押坂彦人大兄皇子が大王だったとして、日本書紀の下巻には記述されていたのです。
それを後に改竄している。
押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇と息長真手王の娘の広姫だとしますがそうではない。
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子のお母さんは物部姫である穴穂部間人皇女です。

藤原氏による改竄は、蘇我氏が行った改竄と同様に、藤原に関係する天皇を、
本来王家に繋ぐ操作がなされている。そして対立する本来の王家の人物より、
藤原氏が関わる天皇の方が正統であるという改竄がなされているように思います。
藤原氏が関係するのが天智系の天皇であり、この天智に繫ぐ操作がなされている。

本来の王家の人物を系譜を改竄して、天智系天皇や藤原氏の関係する天皇に繫ぐ
操作がなされている(~_~メ)凸

藤原摂関政治、藤原氏は天皇の外戚として、政治の実権を独占し続けました。
藤原氏は権力を握りますが王になることはできません。それはもちろん王家の血が流れていないからです。
ですので藤原の娘を天皇の后とし、藤原の血が流れる子供を次の天皇として擁立し外戚となりました。

系譜の改竄に関しては不比等の娘たちに関しても大きな、問題がある。

藤原氏の地盤を築いたといわれる、藤原不比等には5人の娘がいたとされます。長女の宮子、次女の長娥子、
三女の光明子、四女の多比能、五女?の殿刀自です。

藤原不比等は、自身の娘の宮子や光明子を天皇の后として宮内に入れ外戚となりました。
そして藤原不比等にはもう一人、本来の大王の后になった娘がいました。
それが、長屋王の后となった次女の長娥子です。長女の宮子には不比等の娘ではないとの伝説もあり、
おそらく彼女が不比等の次女ではなく、長女なのでは?

長屋王との間に安宿王・黄文王・山背王・教勝の三男一女をもうけたとされます。
いままで記述してきましたが、この長屋王は大王でした。この王家の血が流れる長娥子の子供たちは、
本来は藤原氏にとっては、非常に重要な王子たちのはずです。

長屋王の変の時には、 安宿王・黄文王・山背王の3人の王子たちは、不比等の娘の長娥子の子供たち
だったので罪を免れたと推測されています。
この三男の山背王は、後に藤原姓を名乗っていて長娥子の子供でしょうけど、長男の 安宿王、
次男の黄文王はこの長娥子の子供ではないのでは?

それは、橘奈良麻呂の乱においては罪を問われ、 安宿王は新潟へ流罪、黄文王は獄死しています。
これがおかしいように思います。怨霊としての長屋王の血を嫌ったのでしょうか?
本来は藤原仲麻呂は、藤原の血が流れる、この安宿王や黄文王を王に擁立すべきはずなのにおかしい。
系譜が改竄されているのではないか?

この系譜の改竄に関しては、簡単に見つけられます。長屋王の后の誰かなのですが、・・・
安宿王と黄文王は、阿倍広庭の娘の安倍大刀自の王子たちです。
この阿倍広庭は藤原氏と対立していた阿部氏、阿倍御主人の子であるからです。だから罪に問われたのです。
この時代の実力者であり藤原氏のライバルであり王家と深く関わりがあったのが阿部氏です。

藤原氏の最大の敵対勢力であった阿部氏の女性たちの系譜もまた改竄されている。

有力豪族大伴氏、大伴古慈斐の妻は不比等の娘であるとされます。藤原不比等の五女とされる殿刀自だと
されますが確かではありません。
この殿刀自は、長屋王の后である安倍大刀自の妹であるのでは?阿部氏の姫である安倍殿刀自ではないのか?
ここもまた阿部氏の系譜を改竄し、有力豪族である大伴氏を取り込む操作がなされている・・・?

同様に聖武天皇の后とされる県犬養広刀自も、阿部広刀自である。この広刀自の子供たちもまた、
阿部氏の対抗勢力であった藤原氏により悲劇的な運命をたどることになります。

それは、大刀自、広刀自、殿刀自は阿倍広庭の娘たち、三姉妹であり、大刀自は長屋王妃、そして広刀自は
長屋王の弟の鈴鹿王の妃であるからだと思うのですが?
続日本紀は全く信用できない。

系譜の改竄が行われたのですが、名前は変更していない。本来はもっと徹底的にすべきだったかな、・・・
どう系譜が改竄されたかの手掛かりになっているように思います!(^^)!

この僅かな手掛かりともいえる名前から、聖武天皇の謎など藤原氏による改竄された系譜を推測して
みます・・・でもこれも難しい推測であります・・・((+_+))

この聖武天皇の謎に関してはまだありますよね。不比等の娘、長女とされるお母さんである
藤原宮子に関する謎です。

聖武天皇は藤原の天皇ではない。それはお母さんは藤原不比等の娘の宮子ではないからです。
聖武天皇は藤原の血が流れていない。この宮子の謎は次回に書きます。

藤原氏の都合により天武と天智の系譜が改竄されている。


孝謙天皇、重祚して 称徳天皇は、聖武天皇と、お母さんはは藤原氏出身で史上初めて人臣
から皇后となった光明皇后です。

この聖武天皇と、藤原光明子との娘とされる孝謙天皇から系譜の改竄個所を推測していきます。

孝謙天皇、重祚して称徳天皇、即位前の名は「阿倍内親王」です。
聖武天皇と光明皇后の娘とされるのに、どうして「阿倍内親王」なのでしょうか?
なぜに「藤原内親王」ではないのでしょうか?これ不思議ですよね?

聖武天皇のお母さんは不比等の娘の宮子です。皇后の光明皇后も不比等の娘
ですから、その娘が何故に「阿倍内親王」なのでしょうか?おかしいですよね?
あれ?これおかしいと感じるのは私だけなのでしょうか?

阿部の名が付くということは、系譜のどこかで阿部氏が関わるのではないのだろうかと
考えられますよね?
藤原氏は、この阿部氏と対立していました。これは明らかな事実であり、孝徳政権の時に
左大臣に就任していたのが阿倍 内麻呂であり、この孝徳天皇と対立していたのが、
天智と藤原鎌足である。
ですので、不比等の娘である、光明皇后の娘の名が「阿倍内親王」というのは本来おかしいわけです。
藤原の娘が阿部の名を持つのはおかしい。
藤原氏は、王家と関わっていたこの阿部氏の痕跡を消し去っている。

この、称徳天皇の名の「阿倍内親王」は、系図をたどれば、・・・そう曾祖母の名から
名付けられたと考えられると思います。その曾祖母とは元明天皇です。
草壁皇子と元明の皇子が文武天皇であり、孝謙天皇のお父さんである聖武天皇はこの文武天皇と宮子の息子です。

そう、この元明天皇もまた阿閇皇女 、阿部皇女ともされます。これ諱であり本名です。
では何故に元明天皇は「阿部」の名を持つのでしょうか?

問題なのはこの元明天皇です。系譜が改竄されています。元明天皇は、天智と蘇我倉山田石川麻呂の
娘とされる、 姪娘との娘なのに何故なのでしょうか?蘇我の娘であるのなら蘇我皇女で
あるはずなのに、なぜに阿部皇女なのでしょうか?姪娘の系図をもっと遡るとどこかで
阿部氏が関わるのでしょうか?
でもそんなことはないように思う。なぜなら阿部氏が権力を持ったのは、阿倍内麻呂が最高官で
ある左大臣に就任した孝徳天皇の時代であると思われるからです。
ですので阿部氏が王家と関わるのはこの時以降だと推測できるからです。

蘇我倉山田石川麻呂の娘とされる、 姪娘はこの蘇我倉山田石川麻呂の娘ではない。
元明天皇のお母さんである姪娘は阿倍内麻呂の娘です。
だから元明天皇は「阿部皇女」なのです。

藤原氏はこの蘇我倉山田石川麻呂、つまり石川氏の系譜を利用して系譜を改竄している。

そう彼女たちは阿部氏が関わる女性なのではないのか?この時代阿部氏は王家と深い
かかわりを持ち権力を得ていました。そう、阿部氏の娘を大王に嫁がせ、王家との姻戚と
しての地位を確立していました。後に藤原氏が行う摂関政治と同様です。

藤原氏にとっては、この阿部氏はライバルでもあり、大きな対抗勢力でした。
この阿部氏から繋がる系譜を改竄している。それは長屋王が大王であり、この阿部氏の姫王で
ある明日香皇女の王子であるからでもあります。
この阿部氏と繋がる大王を殺害してきたのが藤原氏です。
ですので系譜を改竄する必要があったのです。

押坂彦人大兄皇子の王子である、茅渟王の王子が孝徳天皇です。
押坂彦人大兄皇子の皇子の山代王の王子が天武です。この本来の王たちの系譜が改竄されている。


孝徳天皇時に左大臣として、孝徳に仕えていたのが、この阿倍内麻呂であり、
娘たちはこの孝徳天皇や天武天皇に嫁いだのです。
元明天皇のお父さんは天智ではない。孝徳天皇と、阿倍内麻呂の娘の姪娘との娘であり、
本来の王家の女性である。

そしてもう一人の阿倍内麻呂の子供の橘娘もまた孝徳の后である。娘たち、明日香皇女と
新田部皇女は天智天皇との娘だとされますがそうではない。
明日香皇女と 新田部皇女は孝徳大王の娘たちであり、そして高市大王、刑部大王の后たちです。

そして、この 新田部皇女の名前ですが、これは、橘娘のお母さんからの由来ではないのか?
つまり、祖母の名なのでは?
阿倍内麻呂と 新田部氏の女性との子供が橘娘ではないのか?阿部氏はこの新田部氏と関係する。
有間皇子の謀反の事件の時に連座した4名のうち、有間皇子とともに処刑されたのが、
塩屋鯯魚と新田部米麻呂とされます。


この 塩屋鯯魚と新田部米麻呂が有間皇子に味方をした阿部氏に関わる豪族である。
この塩屋鯯魚に関しては紀南の豪族と考えられ、天智や藤原氏と対立していた孝徳天皇の
王子である有間皇子はこの紀南に避難していたのではないのか?
紀伊国日高郡の塩屋がこの塩屋鯯魚の拠点であり、有間皇子はここで暗殺されたのです。
この有間皇子の謎は次回に書きます。

阿倍内麻呂には、小足媛 、橘娘の二人の娘がいたとされますが、もう一人この元明天皇の
お母さんである姪娘もまた内麻呂の娘なのでは?
つまり、阿倍内麻呂には3人の娘がいたのでは?ですので、元明天皇は阿閇、阿部皇女なのです。
そして、この元明天皇は孝徳大王の娘なのでは?孝徳天皇時に左大臣として、孝徳に仕えていたのが
この阿倍内麻呂であり、対立していた天智の后だとは考えづらい。
藤原氏や天智系天皇により天智に繫ぐ系譜の改竄が行われている。

天智の后とされている蘇我倉山田石川麻呂娘たちは、阿倍内麻呂の娘たちであり、
この蘇我倉山田石川麻呂の系譜を利用して改竄している。
持統のお母さんである、遠智娘もまた蘇我倉山田石川麻呂娘に変更されている。

阿倍内麻呂の娘たちは孝徳大王に嫁いでいる・・・

長女、阿部小足媛・孝徳大王ー有間皇子

次女、阿部姪娘・孝徳大王ー御名部皇女 (高市大王妃)元明天皇

三女、阿部橘娘・孝徳大王ー明日香皇女(高市大王皇后)と新田部皇女 (刑部大王妃)

「額田王の謎と推古天皇」のところで書きましたが、・・・
孝徳の長男である有間皇子は、640年の生まれだとされます。そして、孝徳天皇は596年の
生まれだとされますが、これおかしいでしょう?長男と思われる有間皇子が45歳の時の子供となります。
この時代を考えるとありえません。
そして孝徳には、有間皇子以外には子供がいません?そんなはずはありません。

斉明天皇の年齢に関して書きましたが、同様に弟の孝徳の生年に関してもおかしい。
それは祖父の厩戸王子こと押坂彦人大兄皇子は、572年生まれだからです。
つまり、押坂彦人大兄皇子の子供である、お父さんの茅渟王が、592年頃の生まれと考えられるからです。

ですので斉明天皇 や、2歳違いの弟の孝徳天皇は615年頃の生まれです。
斉明が613年位で、孝徳は615年位かな?そうすると、長男の有間皇子の生年に関して、
そして斉明天皇として即位した年齢に関しても問題ないでしょう。

天智と天武は兄弟ではない。天武のお母さんは斉明天皇ですが、天智のお母さんは斉明天皇ではない。
天武の生年は不明とされますがそうではなく、天智の生年を変更している。
5歳年下とされる天武は631年でいいように思いますが、天智の生年は626年ではなくもう
少し前である。天智を王家に繫ぐため斉明の子供としたため、斉明天皇の年齢を変更している。

そして孝徳天皇の崩御年は654年とされますが、そうではないのでは?

孝徳天皇ではなく孝徳大王です。大王と天皇は異なる。孝徳大王は危険を感じ都を離れていたのです。
斉明は天皇ですが、孝徳は大王です。
この斉明も、孝徳も暗殺されているように思うのですが・・・?

次回に続きます・・・。



写真は吉野宮滝遺跡です。吉野宮があったとされるところで、この場所は川が蛇行する
河岸段丘上にあり岩盤が浸食されることにより両岸に奇岩でき、古代から神様が座ます
ところとして、祭られていただろうと想像できます。
神様の座す神仙の地とされ、宮を造るには絶好の場所ともいえる素晴らしい景色です。
飛鳥時代ころから造営され、斉明天皇2年(656年)に吉野宮造営の記述があるように、
この時から本格的な宮が建設されたのだろうと考えられます。

持統天皇は頻繁にこの吉野宮に行幸したとされます。
この持統天皇のお母さんである遠智娘もまた蘇我倉山田石川麻呂の娘とされますがそうではない。
遠智娘は大王である茅渟王の娘であり、この斉明天皇とは、おそらくお母さんが異なる姉妹です。
遠智娘は王家の女性です。
ですので、天智の皇后とされる倭姫王をさしおいて、遠智娘は天皇に即位している。
「天皇」は女帝の呼称である。持統の系譜もまた改竄されている。

天智は本来の王ではないのですが、持統は王家の血を引く女性です。
この遠智娘は蘇我倉山田石川麻呂の娘の造媛と混同されている。持統天皇の同母姉とされている、
大田皇女こそこの造媛の娘である。蘇我氏ではなく石川造媛ということです。
大田皇女は異母姉であり、王家の血をひかない女性である。ともに天智の后であるのですが、
持統は王家の女性の娘であり、
大田皇女は、石川氏の娘である。

大田皇女の息子である、大津皇子はこのお母さんが王家と関係しない女性にため、
持統の息子の草壁より、本来は王に即位するには遠い身分だったのでは?
藤原氏はこの滅ぼしたともいえる、この没落した石川氏の系譜を利用している。蘇我氏も同様である。

万葉集 巻2-107
大津皇子、石川郎女に贈る御歌一首
あしひきの山のしづくに妹待つと 我立ち濡れぬ山のしづくに
石川女郎、こたへ奉る歌 巻2-108
吾を待つと君が濡れけむあしひきの 山のしづくにならましものを

この石川氏の娘だろうと思われる石川郎女は、この大津皇子と草壁皇子との
三角関係が語られています。恋愛関係にあったかはわかりませんが、石川女郎も
大津皇子も石川氏の人物石川麻呂の娘の石川造媛の孫にあたる。

天智を王家に繫ぐ操作、そして藤原氏が関係した聖武天皇の系譜を改竄している。

持統天皇は、天武の遺志を受け継いで藤原京を造ったとされますが、そうではない。
持統天皇が天皇に即位したという藤原宮とは、藤原不比等の邸宅です。
天武と高市大王があらたに造った都は、香久山宮であり、香久山京です。
持統が天皇時、大王だったのが高市大王です。天武の後実際に政治を行ったのはこの高市大王です。

持統天皇は、天武の遺志を受け継ぎ政務を行ったとされるのは間違いです。
大王に即位したことを消し去っているために、高市大王の実績を持統の実績として取り込んでいるのです。
藤原氏は、この持統天皇を利用したのです。持統天皇は、本当は天智の娘ではありません。



持統天皇は、頻繁に吉野に行幸したとされます。天皇時に、実に31回もの行幸の記録があり、
異常な回数ともいえます。

これは即位したとされる、藤原宮と関係します。そうこの藤原宮とは不比等の邸宅だったからです。
「扶桑略記」にも持統は藤原不比等の邸宅で即位したとの伝説が語られています。
この時代の本来の宮は、万葉集にあるように高市大王の「香久山宮」です。
この宮の名称、そして都の名称に関しては変更しなければなりません。
臣下に藤原という氏族名がある限り、王の宮を「藤原宮」なんて名付けるはずはありません。

この度々の吉野行幸は謎だともされますが、そうではない。藤原宮は藤原氏の家であり、
持統の家ではないのです。
いわば、この吉野宮こそ、持統の宮と言えると思います。

では、何故に持統天皇は何度も吉野に行幸したのでしょうか?
それは、この吉野宮こそ病弱な息子の草壁皇子の宮であり、孫の珂瑠(後の文武天皇)
いる宮だったからです。
頻繁な吉野への行幸は、別に謎でもなく、息子と孫に会いに行っただけです。それだけです。
いわば、この吉野宮こそ、持統の宮であり、草壁の宮だと言えると思います。
彼女が王ではなかった証拠ともいえます。

天皇と大王はことなる。この時の王は、高市大王であり実際に政務をおこなったのは
この高市大王です。天武の后ということと藤原氏の力により、何らかの影響力はあった
でしょうが、持統は天皇ですが本来の王ではありません。

この吉野宮はもとは天武の宮でした。それは乙巳の変以降、都は渡来人勢力に抑えられ
ている状態?にありました。壬申の乱以前に天武が隠遁したとされるところです。
万葉集にはこの天武も高市もともに「大王」と表現されている。
「王」ではなく「大王」とされているのは本当は非常に重要なことなのです。

万葉集 柿本人麻呂
やすみしし わご大君の 聞こし食す 天の下に 国はしも
多にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ
秋津の野辺に宮柱 太敷きませば 百磯城の 大宮人は 船並めて
朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく
この山の いや高知らす 水激つ瀧の都は 見れど飽かぬかも

これは高市大王が吉野行幸時に柿本人麻呂が詠んだ歌です。
飛鳥から吉野、山越えになりますがそう遠い距離ではありません。

                    











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