聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

広隆寺の謎と聖徳太子

2015年06月27日 | 聖徳太子の謎


京都の太秦にある秦氏の氏寺である蜂岡寺(広隆寺)は「太子建立七大寺」のひとつで
あり聖徳太子を祀っています。国宝の弥勒菩薩半跏像が有名です。
何故、秦氏の氏寺である広隆寺に聖徳太子が祀られているのでしょう?
これ、不思議な謎でしょう・・・?これも誰も疑問に感じないのでしょうか?

日本書紀、推古天皇条・・・
聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」
と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てた。

十一月己亥朔、皇太子、謂諸大夫曰「我有尊佛像、誰得是像以恭拜。」時、秦造河勝進曰、
臣拜之。便受佛像、因以造蜂岡寺。

これが理由だそうです。本当でしょうか?これに関しても誰も疑いの目を向けてはいませ
んよね。だって他に、秦氏が聖徳太子を祀る理由なんてないものね。

でも、天智天皇のお父さんは秦河勝であるとするわたしには、聖徳太子を祀らなければなら
ない大きな理由があります。
この日本書紀の記述は、聖徳太子が祟った後に彼を祀る必要があったため、後に文章を後
から差し込んだのですよ。後付け理由です。


この広隆寺も法隆寺と同じく、もちろん創建には聖徳太子は関わってはいません。
この日本書紀の記述も、もちろん由来を聖徳太子の時代に持っていくための捏造分です。
後の、広隆寺縁起や広隆寺資材交替実録帳には、聖徳太子が亡くなった年に創建されたと
しています。そう明らかな創建の由来がなかったからです。
本当は祟った後に聖徳太子は祀られたからです。祟ったあとに祀られたとは書けないから、
創建の由来を聖徳太子没年にしているのです。
聖徳太子が亡くなった年に創建というのはもちろん捏造分です。

もとは秦氏の氏寺(蜂岡寺)だったのですが、後に、つまり聖徳太子を祀る必要があり、
聖徳太子の鎮魂のお寺になった。それが広隆寺です。


では、何故、祀る必要があったのでしょうか?秦氏は、聖徳太子とは全く関係ないわけで
しょう?これが大きな疑問点ですよね。
そう、それは前に述べたように、秦造河勝は天智天皇のお父さんであるからです。
藤原不比等は天智の子だったからです。まーこれも証拠といってもいいかもです。
そして、厩戸皇子こと聖徳太子とは押坂彦人大兄皇子だからです。

もう、何度も記述していますので詳しくは書きませんが、藤原不比等の謎で述べた、
ふたつの系図をみれば容易にわかります。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子

おそらく、聖徳太子は藤原四兄弟が病死した737年以降に祀られたと思うのですが・・・?

押坂彦人大王は偉大な大王だった・・・と主張したいのは天武ですが、天智系の女帝や
藤原氏、蘇我氏にとっては彼が大王だと都合悪いわけです。


少し天智天皇の謎を続けます・・・

天智天皇が表舞台に現れたのが乙巳の変のです。
この乙巳の変の後、孝徳天皇は、645年に即位しますが、中大兄皇子と対立します。
これは、もちろん朝鮮半島の情勢が影響しました
孝徳天皇は、646年に高向 玄理を遣新羅使として新羅に派遣しました。
孝徳天皇は、新羅側で、朝鮮出兵には反対していたのだと思います。
百済の中大兄皇子に対抗するため、孝徳天皇は蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にし、
親新羅である蘇我氏を味方につけようとしますが、結局この二人は天智に暗殺され
たのだと思います?
孝徳天皇崩御後、斉明天皇が重祚し即位します。


天智天皇暗殺の謎

百済は、660年に唐と新羅の連合軍に滅ぼされます。
しかし、661年に新羅側の人物を一掃した天智は、ついに朝鮮に出兵します。
最終的には、663年に白村江の戦いに敗北することになりました。

671年11月10日
唐国から沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝娑婆・布師首磐の四人が来て、『唐国使者郭務悰
ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、船四十七隻で比知島まで来た。我らは人数も船も多い
ので、突然入港すれば防人が驚いて矢を射かけるだろう』・・・


唐国の使者の郭務悰の要求はもちろん、戦争を仕掛けた天智天皇の首です。
使者の郭務悰は、この白村江の戦の以前から来日していて、日本を味方につけようとしまし
た。しかし再三の要求に反して、百済側につき白村江の戦に参加し敗北しました。

天智は、もちろん病死したのではなく、暗殺されました。
唐国の使者郭務悰は天智天皇の死(もちろん首)を確認してから帰国しています。

日本書紀では・・・郭務悰らは、みな喪服を着て、三ぺん拳哀の礼をした。
東に向かい頭を地に近くとどめて敬礼した。

こういうふうに日本書紀は描写していますが、持統、元明はこの天智の娘です。
暗殺されたなんて書きません。


以下有名な扶桑略記の記述ですが・・・
扶桑略記
 同月五日,大友皇太子,即為帝位。【生年廿五。】一云,天皇駕馬,幸山階鄉,更無還御。
永交山林,不知崩所。【只以履沓落處,為其山陵。以往諸皇,不知因果,恒事殺害。】山陵,
山城國宇治郡山科鄉北山。

靴だけ残っていたのは、遺体を郭務悰のもとに、運んだからです。

ここ・・・以往諸皇,不知因果,恒事殺害。・・・問題箇所とされているそうですが、

ここは、もちろん天智天皇が、常に殺害をこととしてきたことの因果(暗殺された)
だということを諸侯はしらない。・・・という意味です。

蘇我入鹿を殺し、蘇我倉山田石川麻呂?古人大兄皇子、有馬皇子と、おそらく孝徳天皇も。

天智天皇は、大王家の人間をも暗殺し、王座を簒奪した大悪王です。
この彼の暴挙を暴露したのはゆうまでもなく天武天皇です。

「天は武王を立てて悪しき王である紂王を滅ぼした」・・・ということです。

ですが、・・・歴史は勝者の歴史です・・・記紀を編纂する必要があったわけです。

漢風諡号は、天武系の最後の王である淳仁天皇の御代に淡海三船により、一括撰進された
とされます。

写真は、北葛城郡王寺町にある、達磨寺です。ここも聖徳太子と関係し、創建は、推古天皇
の御代だとされます。聖徳太子の愛犬だと伝えられている、雪丸の像があります。
聖徳太子の愛犬だと、犬まで賢くなります。人間の言葉が理解できたそうです。
いまは、ここ王寺町のマスコットです。


               

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