聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

談山神社創建の謎と中臣鎌足

2019年11月23日 | 日本書紀の謎


今回は、前回からの続きの話です・・・
飛鳥京においての渡来人との戦乱についてです。戦乱はこの飛鳥の地から逃亡先まで広がっている。

写真を無くしてしまったので、飛鳥まで写真を撮りに行ってきました。談山神社は紅葉の名所として知られます。訪れた時は少し紅葉には早い時期でしたが、談山神社は多武峰の山頂にありますので、少しばかり紅葉を見ることができました。神仏分離以前は寺院であり、多武峯妙楽寺といったとされます。

今年、2019年は、669年に亡くなった藤原鎌足公没後1350年にあたるとされます。なんか紅葉期間中には特別展示があるようです。

ですが、残念ながら間違っています。ここに祀られているのは本来の中臣鎌足です。偽物である藤原鎌足とは同一人物ではありません。ですので、没後1350年というのは間違っています(+_+)


写真は談山神社の本殿です。パンフレットによると、大宝元年(701)の創建 で、現存は嘉永3年(1850)に建て替えられたものです。

大宝元年(701)の創建というのなら、長屋王が大王に即位した年であり、創建の由来は、長屋大王が、おそらくこの地で戦死した、孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足をまつるお寺である。
「かみなが姫の物語、藤原宮子の謎」において書きましたが、道成寺も同様に、大宝元年(701)の創建です。この地で亡くなった、有間皇子を祀るために長屋王が大王に即位したときに創建されたお寺である。戦争で亡くなった人々の菩提を弔うためのお寺である。つまり戦乱は拡大している。

これらの由緒を変更したのは、長屋王と対立していた憎き藤原である。
私は、古代の大王家を滅ぼしたといえる秦氏や藤原氏を許せません。その悪事を暴いてやる( ̄ー ̄)凸
教科書に書いているから、日本書紀や古事記は正史だからとして信用してはいけません。特に歴史書は信用できません。歴史は勝者の歴史です。
残念ながら勝者は藤原です。記紀や続日本紀は藤原の歴史書です。


拝殿の中には、「多武峰縁起絵巻」の写本が展示されています。乙巳の変においての蘇我入鹿殺害の場面の絵はよく知られています。
しかし、これも天智(秦氏)や藤原氏によって変更された作り話です。
沢山の人々を殺害し、百済救援のため強大な唐と敵対するという無謀な政策を行った、天智や藤原は、百済からの渡来人である。

ウイッキペディア・・・談山神社

鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である中臣鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。後に本尊として釈迦三尊像が安置される。
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藤原鎌足の没年は、669年とされます。この鎌倉時代に成立した寺伝においては、・・・長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和のこの大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥であるとされます。ところが、長男である定恵の没年は666年です。ですので、定恵の方が早くに亡くなっていることになり、寺伝に矛盾が生じていてます。
定恵が父親である鎌足のお墓を、摂津からこの地の移したという話は真実ではないわけです。大和の地に移葬した理由も定かではありません。

なぜにこのような矛盾が生じたのかというと・・・改竄された歴史書である日本書紀を基にして後に時代に作られた由緒であるからです。
もうすでに「中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎」のところで記述してきましたが、定恵の父親の中臣鎌足は、藤原鎌足とは別人だということです。本来の中臣鎌足は長男の定恵より以前に亡くなっているということです。

そして、中臣鎌足の長男の中臣真人は、僧などにはなっていなくて、孝徳政権においての外交使節である。

おそらく、659年の遣唐使で唐に渡り、660年の百済滅亡の翌年661年の帰国の便で帰っているはずです。本来の中臣鎌足の没年はこの661年より以前であるように思います。

孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足は、渡来人である藤原鎌足(百済渡来人の翹岐)とは別人である。孝徳大王と渡来人である天智や鎌足は敵対していました。ですので藤原鎌足が孝徳政権の左大臣であるはずはない。
渡来人であるとの身分を変更するため、後に、不比等の時代に、関係した中臣氏、実在の中臣鎌足の名を騙ったため由緒が混乱する形になっている。

さらに談山の名の由来に関しては、意図的に変更しているように思います。

前回に書きましたが、654年から656年ころまで続いた戦乱が関係する。斉明天皇は多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたとされます。これは防御用の城であり、実際に城を築いたのは大王である孝徳大王である。

656年に、この城において、孝徳大王と左大臣だった本当の中臣鎌足が、渡来人との戦争についての軍議を行ったのが本来の由来であるように思います。

談山神社発祥の由来は、天武天皇7年(678年)とされます。ですので、645年の大化の改新の談合時に、この多武峰に何らかの建物があったということは考えられない。それはわざわざ不便な山頂になんて造る必要がないからです。何もない山中で談合なんてするわけがない。

多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたというのは、戦争に備えての逃走用でもあり防御用の城であるからです。戦乱時には必要な建物だったのでこの時に初めて山頂に造ったのです。ですので、この時以前に何らかの建物があったとは考えずらい。

談山神社の名称の由来は、この655年か、656年に、斉明天皇(本当は孝徳大王)が多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたという両槻宮での軍議が発祥の由来であり、この時にこの城で、孝徳大王と中臣鎌足が渡来人との戦争に関しての軍議をおこなったというのが談山の名の由来であるのでは?

白村江の戦いの敗戦や、その後の壬申の乱により渡来人勢力は弱体化しました。
天武天皇は飛鳥の地を整備し直し、新たな都の建設を始めます。680年に、天武天皇により講堂(現在の拝殿)が創建され、701年に長屋大王により本殿を創建し、孝徳政権において功績のあった中臣鎌足を祀ったのが由来のように推測しています。

何故にこの地に中臣鎌足が祀られているのだろう?という疑問は、前回に書いた丙辰の年(656年)に起きたであろう戦乱が関係する。
中臣鎌足はこの城で、渡来人との戦いにおいて戦死したのだと思います。つまり、戦死した地で長男の中臣真人により埋葬されていて、お墓はもともとこの地にあったのではないのか?この談山神社に祀られているのは、孝徳政権において重要人物だった本来の中臣鎌足であり、長屋大王の時代になってお寺を造り祀られたのでは?この時に同時に長男である中臣真人も、祀られるようになったのではないのかな?


由緒が混乱している理由は、藤原不比等が、この中臣鎌足の名と地位を利用したからです。
渡来人である、藤原不比等は、父親である。藤原鎌足(百済渡来人の翹岐)の地位(不比等本人の地位も上げることになる)を上げるために、不比等の時代に関係した中臣氏、孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足の名を騙って改竄している。後に中臣の名を藤原に変更しているのもこれが理由です。もともと中臣氏ではなかったのです。
藤原鎌足の父親は、中臣 御食子、母親は大伴智仙娘とされます。何度も記述してきたところですが、大伴氏は大王家と深く関係し、藤原氏と対立していた反藤原の豪族です。孝徳政権において左大臣だった中臣鎌足と不比等の父親である藤原鎌足は別人です。


のちに系譜を改竄したことにより、由来に混乱が生じています。ですので、ここに藤原鎌足(百済渡来人の翹岐)や不比等を祀るのはよくない。

藤原鎌足は渡来人であるとの説は以前からあります。この時代、殺戮の時代ともいわれます。多くの暗殺が行われました。関わるのはすべて百済からの渡来人であるこの藤原鎌足や天智(秦氏)です。
大化の改新とされますが、とんでもない。大王家転覆の大逆罪です。

蘇我氏本宗家滅亡に追い込んだ、乙巳の変。この乙巳の変 が分かりやすい例ですが、権力を握り専横を極める蘇我氏は悪であり、この蘇我氏から大王家に権力を取り戻すために起こしたこのクーデターは正当なものだとして改竄している。

本来は、百済出兵に反対の立場であった、蘇我入鹿、蝦夷暗殺のクーデターである。日本書紀は、藤原氏による自らを正当化するための書物に他ならない。事実は逆である。
いつまでもこの偽書である日本書紀を、正史として扱う限り本来の歴史はみえない。


渡来人との争いはこの後もまだまだ続くことになります・・・



写真は酒船石です。

ウイッキペディア・・・
酒船石遺跡
亀形石造物と小判形石造物および砂岩石垣・版築などの周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになった。

この遺跡は、田身嶺(多武峰〈とうのみね〉とは場所・範囲が違い読み方も不明)にあった両槻宮の一部、あるいは両槻宮への入り口施設だとの論議があるが、考古学的には否定されている。

亀形石造物・小判形石造物
砂岩でできた湧水設備とそれに続く形で小判形石造物と亀形石造物が発見された。これら2つは水槽になっており水を溜めたと推定される。さらにそれに続いて石を並べた溝や石段があり、全体を囲むように石垣や石敷がある。

酒船石の乗る丘陵全域は自然のままではなく、版築と石上豊田山の砂岩の切石で改造した人工的な丘であり延長700メートルまで確認されている。

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この 田身嶺(多武峰)にあった両槻宮とは、斉明天皇(本当は孝徳大王)が多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いたととされる、この高殿こそが、両槻宮である。これはこうとしか考えられないようにも思うのですが?
戦乱に備えての高台の宮であり、避難用の建物である。この両槻宮こそが、
談山神社の発祥の由来であるともいえるのでは?



写真は談山神社、談山に、背後には、御破裂山という名の山があります。
御破裂山という、恐ろし気な山の名はこの地で戦乱があったための山の呼称とも思えます。
この山頂に中臣鎌足のお墓があります。中臣鎌足のお墓近くに、「根槻」という場所があります。
「両槻」が「二槻」となり、「根槻」に転じたとされます。
両槻宮(ふたつきのみや)の、「両 ふたつ」の文字に「二」の漢字が使用され、「二槻」になり、「二槻」は、「にき」と読めるので、「根槻」に転じたということです。

多武峰中興の祖とされる増賀上人の大きなお墓もあるのですが、ここいらへんは「念誦崛(ねずき)」といわれる所です。「根槻」が、「念誦崛」になったということですが、江戸時代には紫蓋寺というお寺があり、この近くには今も石垣が残っています。
この石垣こそが両槻宮の跡だという伝説が今も語り継がれています。

斉明天皇(本来は孝徳大王)は、多武峰に石垣を造ったという記述があります。
この石垣とは城を守る石垣であり、斉明天皇の両槻宮とは戦乱に備えての避難用の山城である。





写真は酒船石の近くの石垣です。
この酒船石の乗る丘陵全域人工的な丘だということが判明しています。この酒船石遺跡周辺は、この地に造った石塁で守られた戦闘用の出城のようなものであったように思います。人工的に丘陵を造り、そこに戦闘に備えて石垣で守られた、いわば出城を造ったのではないのか?そして、この場所の石塁は、後飛鳥岡本宮を守るための石塁に繋がっていたものである。

「石上山」の石を運んで「宮の東山」に石垣を築いたとされます。位置的にはこの丘陵は、川原宮の東という位置ではなく、北東に位置します。ですので、「宮の東山」に石垣ではないのですが、後飛鳥岡本宮を守るための石塁に繋がるものである。
前回に書きましたが、後飛鳥岡本宮は、川原宮の東、今の岡寺の場所であり、コの字に開けたの西側の部分を守るための石塁である。

酒船石遺跡にある、石塁は、後飛鳥岡本宮を守るための石塁に繋がっていたものである。開けていた部分の周囲を巡らしていた石塁だったように思います。

それで、この酒船石は何に使用されたのでしょうか?いろいろ説があるようですが?わかりませんよねこんなの。
以下はもちろん私の推測ですが・・・
私は戦闘用の出城だったということから、時間を計算した漏刻、水時計の一部だったのではとも思います。戦にも時間は重要ですよね。



写真は飛鳥水落遺跡です。
ウイッキペディア・・・
この場所が『日本書紀』に登場する天智天皇10年4月25日(辛卯:671年6月7日)条に記された漏刻とその付属施設であることが確認された。

中大兄皇子時代の660年(斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り
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飛鳥水落遺跡は天智天皇が作ったとされますが、この時期、朝鮮出兵を画策していた天智が作るわけがない。さらに造る権力もありません。これまで記述してきましたが、天智は天皇ではありません。

飛鳥水落遺跡はこの時に大王だった孝徳大王により造られたものである。天智系天皇である桓武天皇により、孝徳大王の功績を天智の功績として改竄している。天智が天皇に即位したというのも桓武天皇による改竄である。

酒船石遺跡は、祭祀用の施設だっとされますが、時期的にも重なりますので飛鳥水落遺跡に先立つ漏刻だったのではないのかな?

酒船石の上部の形状からは水を四方に分配するような溝になっています。高台にある城の内部、酒船石から下の亀形石造物・小判形石造物に水を流して時間を知らせるもののように思うのですが?例えば城の周囲の警備の交代時間を知らせるものだとかです。
祭祀用の施設だっとされますが、案外実用的な施設だったかもです。





















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