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聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

壬申の乱と法隆寺、斑鳩寺創建の謎

2022年05月16日 | 聖徳太子の謎


法隆寺は、推古天皇15年である607年に創建されたと伝えられています。
別称は、斑鳩寺、鵤寺ともいわれます。
法隆寺の西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群であるとされます。

私は、法隆寺の創建年に関しては、長屋王が大王に即位した、701年であると推測しています。
考古学的にも8世紀初頭の創建とされますが、それでも世界最古の木造建築物群です。

いままで記述してきましたが、現法隆寺と、斑鳩寺は異なる寺院です。
斑鳩寺は蘇我氏が建設したお寺です。
そして、斑鳩寺創建は607年ではなく、605年である。

現法隆寺は、天武大王の発願により造り始められた大王家のお寺です。
法隆寺建造は、百済復興の白村江の戦や古代の大戦である壬申の乱が大きく関わる。
渡来人勢力の脅威がなくなってから本格的に造り始められた大王家のお寺です。


法隆寺に関する大きな謎のひとつに、法隆寺は再建されたものであるかという問題がありました。
長年の論争がありましたが、発掘調査によって、若草伽藍が創建時の法隆寺である可能性が高くなり、再建・非再建論争に一応の結論が出されたとされます

若草伽藍が発掘され調査が進み、いまは再建されたものであるということが確実視されています。

若草伽藍にあったお寺は創建法隆寺(斑鳩寺)であり、現法隆寺は再建されたものであるということが定説になっています。

しかし、いまだに様々な謎は解決できていないのは、この定説が間違っているからです。
そしてさらに問題が複雑になっているのは、法隆寺の別称が斑鳩寺とされていることです。

法隆寺と斑鳩寺は同じ寺院ではない。つまり現法隆寺の西院伽藍は再建されたものではない。

再建されたというのなら、若草伽藍にあったとされる寺院こそ再建斑鳩寺である。

若草伽藍にあったお寺は、605年創建の斑鳩寺ではない。

これまで何度も記述してきましたが、斑鳩寺と、現法隆寺は異なるお寺です。斑鳩寺は蘇我の時代に蘇我氏によって造られたお寺です。
現法隆寺は、天武大王の発願により造り始められた、大王家のお寺です。

若草伽藍に造られたお寺は、蘇我の皇子である竹田皇子が亡くなった時に、彼を祀るために造られた蘇我のお寺です。
624年、竹田皇子没後に造られたお寺であり、605年に創建された斑鳩寺ではありません。

この若草伽藍のお寺こそ、再建斑鳩寺であるともいえます。再建されているのはこの若草伽藍にあった斑鳩寺です。ただし祀られている人物は異なります。
若草伽藍の再建斑鳩寺は、二人の聖徳太子のうちの一人、蘇我の皇子である竹田皇子を祀るために、蘇我馬子や推古天皇により造られた蘇我のお寺です。

若草伽藍の再建斑鳩寺の本尊こそ、623年に造られたとの銘文が刻まれた釈迦三尊像です。銘文の上宮法皇とは、この竹田皇子のことです。
現法隆寺の本尊である釈迦三尊像は、本来は竹田皇子の回復を祈って造り始められた仏像です。

藤原氏により、この釈迦三尊像を現法隆寺の本尊として変更している。そして薬師如来像の銘文により法隆寺の由緒を変更している。

法隆寺に祀られていたのは、天武が皇祖と仰ぐ祖父の聖徳太子こと押坂彦人大王、天武のお父さんである山代王 (山背大兄王)と、孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王です。

この押坂彦人大王の後胤と対立して、多くの大王家の人物を殺害してきたのは、秦氏、藤原氏です。大怨霊である長屋大王もこの押坂彦人大王の子孫です。

現法隆寺は、天武大王の発願のお寺であり再建されたものではない。天武大王によって造り始められ、その後、長屋大王の時代に創建された寺院です。
しかしその由緒が、藤原氏によって変更されている。

長屋大王が藤原氏に祟った後の、738年に怨霊封じが行われ由緒や本尊も変更されている。

それは、法隆寺に祀られている人物が藤原氏に祟ったからです。

若草伽藍にあったお寺は創建斑鳩寺ではない。



737年に長屋王の怨霊により、藤原四兄弟が亡くなりました。
その二年後の739年に法隆寺は怨霊封じが行われ、その由緒は変更されている。
法隆寺に祀られているのは、押坂彦人大王、山代大王(山背大兄王)、茅渟王です。彼らも祟ったのです。

何度も記述しているところですが、この系譜の変更が理解できれば法隆寺の謎解きは容易です。
天武大王の父親は山代大王(山背大兄王)であり、聖徳太子は長屋大王に繋がるのです。天武と渡来人天智は兄弟ではありません。
押坂彦人大王は、孝徳大王の祖父でもあります。

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー孝徳大王ー有間皇子


物部と対立していたのは蘇我です。蘇我本宗家が滅んだ後に、物部系の大王である天武によって、この蘇我のお寺である若草伽藍の斑鳩寺は壊されている。そして再利用できる部材は利用している。

この地を選んだのは、元は物部の本地であるということと、父親である山代大王(山背大兄王)が、この地で殺害されたからでもあります。
祖父や父親の菩提を弔うためにこの地を選んでいる。



605年の創建斑鳩寺は、この若草伽藍の場所ではなく別の場所に建設されていたのです。

それでは、605年に創建した斑鳩寺どの場所に建設されていたのでしょうか?これは、藤ノ木古墳が関わる。
蘇我氏との争いで亡くなった、藤ノ木古墳の被葬者(崇峻天皇、穴穂部皇子)を祀るために、蘇我氏が建立したお寺が、605年に創建された斑鳩寺です。

焼失した創建斑鳩寺の伽藍の場所には、重要な遺物が残っています。それが、若草伽藍の西隣、南大門前にある巨石、法隆寺七不思議の一つでもある「鯛石」です。法隆寺の謎を解く重要な遺物です。
写真では、わかりずらいですが、この鯛石はかなりの巨石です。たまたま魚の形に似ているので鯛石と呼ばれています。

表面が平らな巨石であるこの「鯛石」、これどうみても礎石でしょう?
設置するのに大きな労力が必要される巨石を意味もなく置く理由が見当たらない。だから謎となっているのですが、設置する必要があって置かれていたものです。そう、この鯛石は礎石以外ありえません。

礎石であるというのは、誰が見ても容易な推測とも思えるのですが、法隆寺七不思議の一つとなっているのは、若草伽藍に存在していた寺院こそ、創建斑鳩寺だと推測されているからです。
この場所に寺院があったと考えられていないからです。だから謎解かれていない。

若草伽藍は創建斑鳩寺だという推測は間違いであるということです。

この「鯛石」こそ、605年に創建された斑鳩寺の五重の塔の心礎石である。

そして、この創建斑鳩寺は、610年に全焼している。

「法隆寺七不思議の謎と怨霊封じ」のところで書きましたが、・・・
法隆寺の原資料、「聖徳太子伝補闕記」においての、「庚午年四月三十日夜半有災斑鳩寺」との記述により、干支による表記のため、日本書紀編纂時(本当は改竄時)に間違って670年にあてたものであって、本来は全焼したのは60年前の庚午年である、610年だったのでないのかという説があります。

この説が正解のように思います。矛盾なく説明できるのはこの説以外ありません。

書記に記述があるように、若草伽藍のお寺(再建斑鳩寺)は669年に、火災にはあってはいますが、全焼という状態ではなく、部材は再利用されている。
蘇我本宗家が滅んだ後、物部系の大王である、孝徳大王や天武大王によって蘇我氏の功績や形跡を消し去ることが行われている。
この「斑鳩寺」を「法隆寺」に、「飛鳥寺」を「元興寺」に、「栢寺」を「橘寺」に変更している。


日本書紀 天智天皇条・・・
十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。

夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。
      *********************
「日本書紀」天智天皇9年(670年)4月、「災法隆寺、一屋無餘」

同じ天智天皇条において斑鳩寺と、法隆寺を書き分けています。天智系天皇である桓武天皇の時代に、記紀を改竄するときに、法隆寺の記述を後に差し込んだからです。斑鳩寺と法隆寺は同じお寺ではありません。

本来の日本書紀には、渡来人秦氏の王である天智天皇条なんてありません。
天武大王条に、この法隆寺の火災に関する文章をいれたのです。
法隆寺の源資料が、干支表記のため間違って挿入されたものです。

法隆寺においては、この火災についての言い伝えは残っていません。
747年の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳には火災の記述はないのです。
これは、この747年以降、桓武天皇が即位した後に記紀は改竄され、この改竄時に付け加えられた記述だからです。

670年の天武大王条、つまり大海人皇子(天武大王)は、既にこの年以前に大王に即位している。


法隆寺の創建に関わります。重要なので少し説明します・・・

天智天皇は、667年に飛鳥から近江に遷都して正式に即位したとされます。
しかしこれは渡来人である秦氏の主張です。
天智天皇は秦氏の王です。皇子である大友皇子(弘文天皇)もそうです。本来の王ではありません。中大兄皇子(天智天皇)が天皇に即位したというのは事実ではありません。本来の日本書紀には天智天皇条なんてありません。

近江大津宮は、秦氏の宮であり本来の大王の宮ではありません。天智系天皇である桓武天皇の時に記紀は、この「天皇」の呼称を使用して改竄されている。
桓武天皇も秦氏の王であり、平安京も渡来人秦氏の都です。
これは、渡来人秦氏や、関係を持った藤原氏の主張にほかならない。

「藤原宮」や「平城宮」も同様に、秦氏、藤原氏の主張する宮の名です。
長屋王邸とされる場所から出土した木簡からの推測では、天武大王の長男である高市皇子は大王に即位していました。
もちろん長屋王も大王でした。
本来の大王の宮の名は、万葉集、柿本人麻呂の歌にある、高市大王の「香久山宮」であり、長屋大王の「奈良宮」です。

万葉集・・・巻二(一九九)柿本人麻呂 高市大王への挽歌の最後のところです。

我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや・・・ 
      
わが大王(高市大王)が、万年の世までと考えお作りになった「香具山の宮」は、万年の世を過ぎてもなくなることは考えられない。
         **********************************
高市大王の宮の名は「香具山宮」であり本来の宮の名称です。「藤原宮」なんて、宮の名を臣下の名で呼ぶことなんてありえません。
「藤原宮」とはもちろん藤原氏が主張する宮の名であり、藤原氏、藤原不比等の邸宅のことです。

この時期の、大王家と渡来人勢力の争いは百済復興に関してです。
亡命百済人(後の藤原鎌足)が頼ったのが、倭国内ですでに地盤を築き大きな勢力になっていた秦氏です。中大兄皇子は秦氏の皇子です。
秦氏はもとは百済からの渡来人です。そして平安の地(京都)は秦氏の本地です。この時期には秦氏は大勢力に発展していました。

大国唐が新羅と同盟を結んだことにより、大王家(山代大王(山背大兄王)、孝徳大王)は百済復興の出兵に関しては反対の立場であったのです。この時代、大きな力を持っていた蘇我氏も同様です。
乙巳の変は蘇我氏の専横が理由ではない。百済復興のための出兵に関してです。
山代大王(山背大兄王)を殺害したのも秦氏、藤原氏です。蘇我入鹿ではありません。犯人は百済渡来人、偽物中臣鎌足と、秦河勝です。

秦氏の王である天智天皇と、本来の大王である天武天皇は兄弟ではありません。天智系天皇である桓武天皇は、王に即位する条件として系図を変更し、天智天皇を本来の大王家に繋げる必要があったのです。
天智天皇が天皇に即位したと改竄したのは、この桓武天皇時代に記紀を改竄した時です。

秦氏の皇子である天智天皇は、天皇に即位していませんし、もちろん本来の大王ではありません。この天智天皇から繋がる桓武天皇も秦氏の王です。
秦氏は、応神14年(283年)に百済から日本に帰化した氏族であるとされます。

つまり本来の宮は奈良に存在している。そして本来の大王が存在している。
壬申の乱の後、大友皇子の後に、天武大王は即位したとされますが、そうではない。

661年から663年まで、百済復興のため、朝鮮出兵を行っています。この時、渡来人勢力は多数の人員を派遣している。663年の白村江の戦の敗戦により渡来人勢力は弱体化している。
百済復興のための出兵は、亡命百済人や秦氏などの渡来人勢力が行った戦です。

天智天皇が、飛鳥から近江に遷都したという667年に、すでに大海人(天武)は大王に即位している。

天智天皇が近江に遷都したというのは、渡来人勢力が近江に追いやられたということです。近江は多数の亡命百済人が住んでいたところです。
この時に、天武は既に奈良盆地に入っている。この後壬申の乱に繋がります。
壬申の乱は、大王家と渡来人勢力との争いであり、戦地は近江です。

壬申の乱は672年(6月24日 ~7月23日)に起きた古代の大戦です。
皇位継承を巡っての争いとされますがそうではない。
それは、天智天皇も皇子である大友皇子も、天皇になんて即位していないからです。渡来人が王に即位することなんてできません。
大王家と渡来人勢力との争いです。

大海人皇子は、この時に吉野から出立したとされますが、これも事実ではない。

以前から壬申の乱に関して、おかしいと感じていたところです。大きな勢力との戦に備えて、それなりの準備が必要であるように思う。
はたして、いきなり小人数で吉野からでて、他の豪族の協力を得られるものであるのか?
渡来人勢力と戦ができるものであるのか?
天武大王は、事前に軍備を整え、戦略を練ってから戦いに挑んでいる。

大海人皇子は、667年に既に大王に即位し、奈良盆地内で戦力を整え、近隣の豪族との連携を整えた上、この戦に挑んでいる。

ここももう何度も記述していますが重要なので・・・戦争責任者である天智天皇は、唐の命令で殺害されている。戦いは天智が亡くなった時から既に始まっているともいえます。

日本書紀 天智天皇条
唐國使人郭務悰等六百人・送使沙宅孫登等一千四百人、總合二千人乘船卌七隻

天武天皇条
元年春三月壬辰朔己酉、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。


唐の使者である郭務悰使は、軍といってもいい人数をを率いて来日します。唐の要求は、唐と敵対する政策を行った戦争責任者である、天智の首です。この来日時に天智天皇は亡くなっています。
唐の使者である、郭務悰は天智の死を確認してから帰国しています。

唐に敵対した渡来人勢力を滅ぼすようにと、唐の圧力があったと推測しています。天武大王が壬申の乱を起こした一つの要因であると思います。


天智系天皇である桓武天皇の時代に、中大兄皇子(天智天皇)を天皇に即位したと改竄したため、天智天皇の死後に天武は即位したということになっている。

大海人皇子は、おそくてもこの渡来人勢力が近江に退いた、667年には大王に即位している。

法隆寺は、天武大王の発願により造り始められた寺院です。
渡来人勢力の脅威が去った、この667年頃から造り始められている。法隆寺の金堂で使用されている木材からの推測でもこの頃である。


法隆寺と斑鳩寺は同じ寺だとして、法隆寺の由緒を消し去ったのは藤原氏です。怨霊封じを行ったのも藤原氏です。
長屋大王の怨霊により、藤原四兄弟が亡くなった二年後の739年に法隆寺は怨霊封じが行われている。
法隆寺に祀られていた、押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)、山代大王(山背大兄王)、茅渟王も藤原氏に祟ったのです。

605年に斑鳩寺が創建されたのですが、610年に全焼したということです。そして蘇我の皇子である推古天皇の息子の竹田皇子没後(624年)に、若草伽藍の場所に新たに創建された寺院、これが再建斑鳩寺である。
母親である推古天皇や蘇我馬子によって、竹田皇子をまつる釈迦三尊を本尊とするお寺が造られているのです。


若草伽藍のお寺を創建法隆寺としているかぎり、法隆寺関する謎は永遠に解決しません。

若草伽藍にあったお寺は創建斑鳩寺ではない。



法隆寺の七不思議の一つに、南大門の前に置かれた鯛石があります。鯛の形に似ているのでこう呼ばれています。

大和川の氾濫により、洪水が発生しても、法隆寺のこの鯛石より先に水が押し寄せることが無かったという言い伝えがあるようです。そのため、この鯛石を踏むと水難を免れると言われているようです。

この言い伝えは魚の形に似ているということからのものであり、本来は門の前に置く必要もない意味不明な巨石です。

法隆寺に参詣する大部分の人は、この南大門から入場しますので、この鯛石の上を通り階段を上り門をくぐります。
法隆寺の七不思議の謎は、あまり知られていないようで、この「鯛石」に注目する人はほとんどなく気付かずに通り過ぎます。

実はこの南大門は、元はこの位置にはありませんでした。
この南大門は、本来はこの位置にはなく、もう少し北側にありました。中門の南、東大門と西大門の通路の交わった壇上にありました。

この鯛石、門の前に置かれたのではなく、この位置にもともとあったものです。南大門の方が後で造られているのです。

表面が平らな巨石、これどうみても礎石にしか見えません。
斑鳩寺創建に関わる重要な遺物です。

つまり、これ605年に創建された斑鳩寺の礎石です。その大きさと位置から五重の塔の心礎石であると思います。一屋もなく全焼してしまったという斑鳩寺の五重の塔の心礎石です。


五重塔の心柱構造は、時代により変遷があり、斑鳩寺のような初期の五重の塔は、心柱を地面に埋設して立てる掘立式という方法で建てられています。
塔の心柱は、およそ3m程地中に埋められて建設されているようです。
大火事にあっても、心礎石は地中にあったため綺麗な状態であるのです。


つまり、この「鯛石」の地上、3mのところに創建斑鳩寺の五重の塔は立っていたのです。
この五重の塔ですが・・・
斑鳩寺は一屋も残さず全焼全焼したとされますが、現法隆寺の五重の塔の心柱は、605年の創建以前に伐採された木材が使用されている可能性が指摘されています。つまり、この創建五重の塔は焼失してはいなく、若草伽藍(再建斑鳩寺)に再利用されているということです。
あるいは、一屋もなく全焼したというのが真実なら、創建時に伐採されて使用していない木材が若草伽藍(再建斑鳩寺)の五重の塔の心柱として使われたかです。
この若草伽藍(再建斑鳩寺)は火災にはあってはいますが、五重の塔は問題なく、現法隆寺の建設時に再利用されたということでwす。

この「鯛石」を通り、南大門の階段を上り入場しますが、法隆寺の伽藍にまでかなりの高低差があります。
現法隆寺の、地面の基礎を造るために、大がかりの工事が行われていると思われます。

法隆寺の場所は、尾根を削り、両側の谷を埋めて整地する必要があるところに建設されています。理由はご先祖様を祀る西院伽藍の場所を、周囲より一段高くいところに造りたいという思いからではないのかな?
この法隆寺周辺は案外海抜が低いようで、豪雨時の洪水の問題も勿論あります。

創建斑鳩寺の跡地は、掘られて今の西院伽藍の土地を高くするために用いられている。一屋もなく全焼したという創建斑鳩寺の跡地が見つからない理由です。


何度も記述してきたところですが、若草伽藍にあったお寺は創建斑鳩寺ではありません。推古天皇の息子である竹田皇子が亡くなった時に作られたお寺です。つまり再建斑鳩寺である。

現法隆寺の本尊である、釈迦三尊は本来はこの若草伽藍にあった再建斑鳩寺の本尊であり、竹田皇子のお姿を写した仏像である。

この再建斑鳩寺と、現法隆寺は別のお寺です。

若草伽藍は、金堂と塔が南北に並ぶ配置である飛鳥式です。しかし現法隆寺は、東西に並ぶ配置です。再建ということなら、伝統を受け継ぐという意味からもこの伽藍配置の違いはありえない。

若草伽藍は、蘇我の皇子である竹田皇子が亡くなった時に、推古天皇や蘇我馬子によって造られた蘇我氏の寺院です。
創建斑鳩寺も、蘇我氏によって造られたものであり、金堂と塔が南北に並ぶ配置であると思われます。

現法隆寺は大王だった、押坂彦人大王、天武のお父さんである山代王 (山背大兄王)と、孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王を祀るためのお寺です。彼らは全て本来の大王でした。
伽藍配置が異なる理由です。現法隆寺は大王家の寺院です。

つまり、創建斑鳩寺、若草伽藍に造られてはいなく別の場所に建立されていたのです。それが、斑鳩寺の西側の、鯛石があるところです。
鯛石は創建斑鳩寺の五重の塔の心礎石である。創建斑鳩寺の遺構があったのはここです。

そしてこの創建斑鳩寺も、若草伽藍のお寺と同様に金堂と塔が南北に並んでいたはずです。
それは、この創建斑鳩寺は、藤ノ木古墳の被葬者を祀る寺院だからです。

藤ノ木古墳の被葬者は、蘇我氏との対立によって殺害された物部の大王たち、崇峻大王と、穴穂部皇子です。斑鳩寺は、彼らの菩提を弔うために造られた寺院です。

藤ノ木古墳に正対している西側が正面となり、西側からの景色がいいように、つまり金堂と塔が重ならないように南北の配置となっているのです。

南北の伽藍は配置は四天王寺式ともされますが、そうではなくこの斑鳩寺の方が先に造られている。つまり、南北の伽藍配置は斑鳩式であるということです。


日本書紀、天智天皇条(本来は天武大王の時代)、斑鳩寺が火災にあったという記述があり、法隆寺の資料においては「庚午年災斑鳩寺」と、干支表記のため、670年の庚午年にあててしまったことによる間違いである。
669年に火災はあったものの、一屋も残さずという状態のものではなかったのです。

斑鳩寺は605年に創建されたのですが、610年には一屋も残さず全焼?しているということです。その後、竹田皇子が亡くなった時に造られたお寺が若草伽藍に建設されたお寺です。
この若草伽藍のお寺は、全焼したとされる斑鳩寺の跡地には建てられていない。若草伽藍の西側、藤ノ木古墳の近くが元の斑鳩寺のお寺、伽藍が存在していた場所です。


一屋もなく全焼してしまったという斑鳩寺は別の場所にありました。
その場所とは、この鯛石のあるところです。この鯛石こそ創建斑鳩寺の五重の塔があったところです。

創建斑鳩寺は、藤ノ木古墳の被葬者を祀るためのお寺です。
若草伽藍のお寺は蘇我の皇子である竹田皇子を祀るためのお寺です。
本尊は釈迦三尊像であり、この竹田皇子のお姿を写したものです。

現法隆寺は、天武によって建てられたお寺です。
祖父の押坂彦人大王、父親である山代王 (山背大兄王)、茅渟王を祀るためのお寺です。彼らは物部系の大王です。


若草伽藍に造られたお寺は創建斑鳩寺ではない。
創建斑鳩寺は藤ノ木古墳に葬られていた、泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部皇子人物を祀るためのお寺です。彼らは物部系の大王です。斑鳩の地は元は、物部氏の本地でもあります。

そして、厩戸皇子こと押坂彦人大王も物部系の大王です。蘇我氏、蘇我馬子により、この押坂彦人大王を蘇我の皇子として系譜を変更したことにより混乱が生じている。
敏達天皇の最初の皇后は、物部姫である穴穂部間人皇女です。欽明天皇の娘ではありません。押坂彦人大王の母親です。ですが幼い時に母親は亡くなっている。
次の皇后?が推古天皇であるかは問題ありますが。この時代に権力を握ったのは蘇我氏です。
推古天皇は幼かった押坂彦人大兄皇子の育ての親であると思われ、蘇我氏が関わった大王家の人物です。推古天皇時、大王だった人物です。
推古天皇の息子の竹田皇子は、異母兄弟になります。

若草伽藍のお寺はこの竹田皇子を祀るために、母親である推古天皇や蘇我馬子によって造られたお寺であり蘇我氏の寺院です。



上の写真を見て下さい。この地図から創建斑鳩寺の建てられていた場所が推測出来ます。
写真の南大門の位置は分かるでしょうか?
若草伽藍にあった斑鳩寺と斑鳩の宮は、東西南北の正方位にたいして、西におよそ20度傾きます。
現法隆寺は、正方位に対しておよそ西に8度の傾きで建設されているとされます。

若草伽藍を、そのまま20度の傾きで西側にずらした位置が創建斑鳩寺の伽藍があった場所です。
若草伽藍の金堂と五重の塔を20度の傾きで西側にずらした位置に南大門の鯛石があるでしょう。
この「鯛石」こそ創建斑鳩寺の五重の塔の心礎石です。

この斑鳩の地は元は物部氏の本地でした。後に蘇我氏が管轄することになります。物部と蘇我ではその土地の地割に違いがある。

この地割に違いから、創建斑鳩のあった場所は推測できます。

605年に創建された斑鳩寺は、蘇我氏のお寺であり、このお寺は藤ノ木古墳の被葬者の菩提をとむらうためのお寺であるからです。

つまり、藤ノ木古墳の東側、若草伽藍の西側に、創建斑鳩寺は存在していたと推測できます。
創建斑鳩寺の伽藍があっただろうと推測できる、藤ノ木古墳と、若草伽藍の間にあるのが「鯛石」です。
表面が平らに削られた巨大な石、そうこれこそ創建斑鳩寺の五重の塔の心礎石です。

斑鳩の地は、元は物部の本拠地でした、物部本宗家が没落後には蘇我氏の管轄する土地となりました。

分かりやすく言えば、この20度の傾きが蘇我の時代の蘇我氏の地割です。

この傾きで造られたのが斑鳩道なのですが、この道は南部に通る、竜田道に平行に造られているとされます。
太子道とも垂直に交わります。この20度程の傾きは太子道の傾きと一致するのです。
太子道を飛鳥から斑鳩まで通ったといわれる聖徳太子とは、蘇我の皇子である推古の息子の竹田皇子です。

つまり、物部の時代にはこの竜田道は造られていなかったのですが、斑鳩寺や斑鳩宮の建設が始まった7世紀初めには整備されてていたということです。


8度は物部の地割?であり、物部の時代にはこの8度の傾きで造られている。
蘇我氏が没落後には、物部の大王である天武の時代に、蘇我氏の地割を無視して、法隆寺は建設されている。斑鳩寺と法隆寺は別のお寺です。

斑鳩寺と斑鳩宮は、蘇我のお寺であり宮です。ここに移ったのは蘇我の皇子である推古天皇の息子の竹田皇子です。
推古天皇の時代には中宮は、息子である竹田皇子の宮傍に移転しています。
竹田皇子が亡くなった後に寺となりました。中宮寺です。
この中宮寺ももちろん蘇我氏の地割で造られています。



この20度の傾きの南北に通る道が今も残っています。
筋違い道といわれる太子道もそうなのですが、写真、法隆寺伽藍の図にある東大門と西大門の斜めのラインがそうです。斑鳩道と竜田道と垂直に交わる、蘇我の時代の地割です。

この東大門と西大門の斜めのラインから、創建斑鳩寺と若草伽藍の位置と規模が推測できます。
若草伽藍を。そのまま西に20度の傾きでずらした位置に創建斑鳩寺は存在していました。

この西大門の斜めのラインが、創建斑鳩寺の伽藍の西側のラインであり、東大門の斜めのラインが、若草伽藍の東側のラインです。

これは若草伽藍の、大きさからの推測です。この若草伽藍は再建斑鳩寺であるともいえます。つまり再建ということなら、伽藍の規模も同じ規模で造られている。伽藍配置も同様に、金堂と塔が南北に並ぶ四天王寺式の配置であるように推測しています。

若草伽藍の再建斑鳩寺の規模から推測すると、西大門の斜めのラインと、東大門の斜めのラインがとの間に、創建斑鳩寺と、若草伽藍にあった再建斑鳩寺が収まるということです。

若草伽藍を20度の角度で西に移動した場所が、創建斑鳩寺の場所である。

若草伽藍の西側に、創建斑鳩寺は建てられていたのです。
現南大門の「鯛石」こそ創建斑鳩寺の建設されていた場所であり、五重の塔の心礎石である。

若草伽藍にあったお寺は605年に造られた創建斑鳩寺ではなく、623年に竹田皇子が亡くなった時に造られたお寺です。蘇我氏のお寺だといえます。
現法隆寺は、天武大王が造り始めた大王家のお寺です。

これらが理解できていないので法隆寺は謎は解かれていない。

下の写真は、東西南北の正方位にたいして、西におよそ20度傾く、西大門と東大門前の道路です。

若草伽藍にあった寺院は、創建法隆寺ではありません。斑鳩寺と法隆寺は別のお寺です。
写真を見れば分かりますが、東大門前の斜めの道は若草伽藍の東側のラインとされています。
そして、西大門の斜めの道こそが創建斑鳩寺の正面のラインです。
この東大門と西大門の斜めの道の間に、創建斑鳩寺と若草伽藍(再建斑鳩寺)が収まる。
現法隆寺の南大門前の「鯛石」こそ創建斑鳩寺の五重の塔の礎石です。













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推古天皇と、ふたりの太子・・・聖徳太子の謎

2022年03月15日 | 聖徳太子の謎


今回は聖徳太子の謎と、法隆寺創建の謎に関してです。
令和3年(2021年)は聖徳太子の1400年遠忌にあたり、特別展が開催されました。

しかし、・・・もう何度も記述してきたところですが、聖徳太子没年は622年ではありません。この622年というのは法隆寺釈迦三尊像の銘文から導き出したものですが、間違っています。
斑鳩寺と、現法隆寺は異なる寺院です。

そして斑鳩寺の創建年に関しても問題があります。斑鳩寺の創建は607年とされますが、これも間違っています。
斑鳩寺の創建年は605年です。斑鳩宮と斑鳩寺は同時に完成しています。

推古天皇条は何故か、記述年代において、二年の間違いがあるのです。

釈迦三尊像光の銘文にある法興元年は、591年ではありません。
押坂彦人大王が、大王に即位した593年です。593年から三十一年は623年であり、その翌年の624年に亡くなっていると記述されています。ただしこれは、推古天皇の息子である竹田皇子の命日です。

これまで何度も述べてきましたが、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文や、法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文により間違いは明らかです。

この混乱は、推古天皇時に本来の大王だった押坂彦人大王が、大王に即位していたことが消されていることが関係します。押坂彦人大王は長屋大王に繋がります。この系譜が変更されている。

ふたりの聖徳太子、亡くなった日の記述もふたつあります。

推古天皇時の、ふたりの太子。押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の事跡を消し去るための人物が聖徳太子ともいえます。
聖徳太子とは、このふたりの太子の事跡をまとめた人物なのです。
斑鳩寺創建に関しても、このふたりの太子が関わります。

二人の聖徳太子。生誕地の伝承もふたつあります。宮もまたふたつあります。
亡くなった日も、日本書紀の記述と、法隆寺金堂釈迦三尊像の銘文では異なります。

推古天皇時には本来の大王が存在します。押坂彦人大王です。
ですので、本来の日本書紀には推古天皇条なんて存在していません。

推古天皇条が存在するのが、推古天皇28年(620年)に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したという「天皇記」「国記」においてです。
蘇我馬子が編纂したということからも推測できますが、蘇我氏の歴史書であり、蘇我氏の正統性を主張する書物です。

日本書紀、下巻最初には押坂彦人大王条があったのです。
これは下巻の天皇は、全てこの押坂彦人大王から繋がることでも容易に推測できます。

桓武天皇時に、記紀を改竄するときに参照されたのがこの「天皇記」「国記」です。
秦氏、藤原氏により、蘇我氏の使用した「天皇」の呼称を使用して大王家の歴史を変更している。
それは、この押坂彦人大王の後胤と対立し、多くの大王家の人物を殺害してきたからです。殺害した人物が大王では都合が悪いのです。系譜を変更する必要があったのです。



聖徳太子はいなかった。聖徳太子架空説があります。
聖徳太子は、厩戸皇子といわれます。別名は、上宮王、豊聡耳、上宮之厩戸豊聡耳命、厩戸豊聡耳皇子など沢山の名がありますが、全て本来の名前ではありません。沢山の別名が存在するのは他の人物と混同されているからでもあります。
本来の名、諱がない名無しの権兵衛さんです。

重要人物である、聖徳太子の本当の名前が伝わっていない。これは、架空の人物だとされてもしかたのないことですね。

本当の聖徳太子とは、敏達天皇の二人の「太子」のことです。このふたりの太子が、後に藤原氏によって変更されている。

厩戸皇子とは、大王だった押坂彦人大兄皇子のことであり、本当の名は「隅田八幡神社人物画像鏡」にある、日十大王こと、「ひと」です。

聡耳皇子とは推古天皇の息子の竹田皇子のことです。仏教を興し賢かったとされる聖徳太子とはこの竹田皇子です。
これは蘇我の歴史書である「天皇記」「国記」において記述されていたものです。推古天皇と竹田皇子は蘇我の女帝であり蘇我の皇子です。

日本書記、推古天皇条、聖徳太子の紹介の文章における、「厩戸豊聡耳皇子」とは、二人の人物を合わせた名前です。事跡も二人の事跡を、聖徳太子という人物でまとめられていることになっている。

押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一王子です。王位継承筆頭の人物です。
推古天皇の息子の竹田皇子も、この時代に権力を握っていた蘇我氏の皇子です。

両親が天皇である、竹田皇子は、押坂彦人大兄皇子の異母弟になり、兄である押坂彦人大兄皇子に次ぐ王位継承者です。
蘇我氏の人物で初めて大王家と血の繋がりを持つ蘇我の皇子です。
厩戸王子とは、押坂彦人大兄皇子のことであり、豊聡耳皇子とは竹田皇子のことです。

日本書紀においては、この重要な二人の「太子」はほとんど登場しません。
次期王位継承の候補である二人なのに、推古天皇条には全く登場しません。
ですので、早くに亡くなったともされますが、何時亡くなったかの記述も一切ありません。いつ生まれたかも不詳です。

敏達天皇の第一皇子である押坂彦人大兄皇子や、推古天皇の息子である竹田皇子が、推古条に登場しないなんてありえないことです。
用明天皇条において登場しますが、聖徳太子とこれら二人は別人として描かれている。

推古天皇時に、大王がいたことは、隋書により明らかです。男の王であり、「おおきみ」とよばれ、后もあると記述されています。
この大王とは、蘇我馬子や蝦夷だったのではないのかという説がありますが、この二人が大王に即位できるはずありません。

隋書にある「おおきみ」とは、聖徳太子や、蘇我の皇子である竹田皇子ではないのか?というのならまだしも、馬子や蝦夷は大王家と繋がりありません。大王に即位する資格がありません。隋の使節に本来の王でないものが謁見するはずありません。

推古天皇時に、大王がいたとすれば誰なのか?まず推測できるのは、第一皇子だった押坂彦人大兄皇子や両親が天皇である竹田皇子でしょう。
竹田皇子は蘇我氏が初めて大王家と関係を持った、大王家と血の繋がりのある、蘇我の皇子です。推古天皇の息子であり、蘇我氏の重要な皇子であるのに、書記の推古天皇条には全く登場していません。

推古天皇条には、聖徳太子は何度も登場しますが、重要人物である、彼ら押坂彦人大兄皇子と竹田皇子は全く登場しません。

そうではなく、何度も登場しています。
推古天皇条に、「太子」とされ記述されている事跡はこの二人の太子の事跡です。
この二人の事跡を、聖徳太子という人物の事跡として消し去っているのです。

用明天皇とは蘇我氏が主張する王であり、本来の王ではありません。
ですのでその皇子であるとされる聖徳太子は、大王家とは繋がりはなく大王に即位する資格がありません。
隋書に記述のある、推古天皇時に存在した大王とは、この用明天皇の皇子ではありえないのです。


改竄の方法、推古天皇条冒頭のこの記述で、・・・

元年・・・夏四月庚午朔己卯、立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。橘豐日天皇第二子也、母皇后曰穴穗部間人皇女。
     *********************

以降の「皇太子」との記述は全て用明天皇と、穴穂部間人皇女との皇子である人物になっている。

系譜が改竄されています。用明天皇と、穴穂部間人皇女との皇子であるという人物はそのとおり架空の人物です。藤原氏は、この架空の人物を使い、二人の太子、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の事跡を消しているのです。
厩戸豐聰耳皇子という名は二人の人物をまとめた名前です。

藤原氏はこの押坂彦人大兄皇子が大王に即位したとしたくないのです。長屋大王は押坂彦人大兄皇子の直系の子孫です。藤原氏と蘇我氏の争いもよく知られるところです。

もう何度も記述していたところでもあります。
桓武天皇の時代に、藤原氏による系譜改竄がなされ、押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことを消しています。押坂彦人大王の後胤と争い、何人もの大王家の人物を殺害したからです。蘇我氏と争ったのも、秦氏、藤原氏です。
押坂彦人大王も藤原氏に祟ったのです。ですので聖徳太子なのです。

本来の系図が変更されていることによる混乱です。

聖徳太子が大きな謎となっているのは、はじめに蘇我氏による系譜改竄が行われたからです。
蘇我馬子により、物部系の王子である押坂彦人大兄皇子を蘇我の皇子として変更したことに始まります。
蘇我の王である、用明天皇の皇子と変更したことによるものです。

それは、蘇我馬子と聖徳太子が編纂したという「天皇記」「国記」においてである。この変更された系譜を用いて、歴史は再度変更されている。



今回は前回から続けて斑鳩寺の創建年に関してです。この創建年(607年)の記述に関してもやはり二年間の間違いがあります。
斑鳩寺の創建年は605年です。

法隆寺金堂薬師如来像光背銘・・・

池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
   **************************
法隆寺創建の由緒刻まれている銘文です。銘文(丁卯年仕奉)にあるように、推古天皇15年(607年)に寺とこの仏像は造られたとされます。
これは法隆寺資材帳(747年)の文章と一致します。
しかしこの銘文は、斑鳩寺の創建を語るものであり、斑鳩寺と法隆寺は別のお寺です。

金堂薬師如来像は、現在の法隆寺の三つの本尊のうちのひとつとなっているので、銘文は法隆寺の創建年を伝えているということになっています。
しかし銘文は、本来の法隆寺の由緒を消し去るものである。

薬師如来信仰は、この時代よりは後のもであるとされます。
623年に造られた、現法隆寺の釈迦三尊像よりは、新しい仏像だとされます。607年に造られた仏像ではないのです。
この後背銘は、後の時代、長屋大王が藤原氏に祟った後に作られた法隆寺の由緒を消し去る銘文といえます。

737年に長屋王の怨霊により、藤原四兄弟が亡くなった後の、739年に法隆寺は怨霊封じが行われ、その由緒は変更されている。
法隆寺に祀られているのは、押坂彦人大王、山代大王(山背大兄王)、茅渟王です。彼らも祟ったのです。

金堂薬師如来像の銘文は、この怨霊封じ以降に、「天皇記」「国記」の推古条にあった斑鳩寺の由緒を参照して作られたものです。


この銘文の解釈で問題となっているのは、「大王天皇」です。この時代の天皇だった推古天皇のことだとされます。

もちろん「大王天皇」なんて呼称はありません。「大王」の呼称が、「天皇」の呼称に変わったのではありません。大王と天皇は別の呼称であり、大王である人物と天皇である人物がいた証拠の文章です。
この銘文は、「天皇記」、「国記」の推古条にあった、斑鳩寺創建の由緒を語る文章です。これをそのまま写している。斑鳩寺は蘇我氏が建立したお寺です。

「大王天皇」ではなく、「大王」、「天皇」で区切らなければなりません。そして「太子」です。二人の聖徳太子と推古天皇のことです。この銘文は蘇我氏が「天皇」の呼称を使用し、歴史を改竄した時に作文されたものです。
「大王」とは、押坂彦人大王であり、「天皇」とは推古天皇のことであり、太子とは推古の息子の竹田皇子のことです。
推古天皇時に大王がいたことは、隋書により明らかです。

池邊大宮治天下天皇こと用明天皇が天下を治めたたという表現からも、容易な推測です。上記しましたが、用明天皇とは蘇我氏が主張する蘇我の王です。本来の王ではありません。

「天皇」は蘇我の王の呼称であり、推古天皇は実際の初代天皇であるということが理解できれば、この銘文の解釈も難しいものではありません。
蘇我氏による歴史変更の銘文であるともいえます。

銘文にある人物は、大王である押坂彦人大王(隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王)、天皇である推古天皇、太子である、推古天皇の息子の竹田皇子です。

そして、この銘文は蘇我氏が歴史を変えた、「天皇記」「国記」の推古条に記述されていた文章です。斑鳩寺の由緒です。
斑鳩寺は蘇我氏の寺院であるとも言え、現法隆寺とは異なる寺院である。多くの謎が生じる理由です。

藤原氏による怨霊封じが行われた時、739年に、法隆寺の由緒を変更するために金堂薬師如来像に刻字されたものです。

若草伽藍に造られたお寺は創建斑鳩寺ではない。
創建斑鳩寺は藤ノ木古墳に葬られていた、泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部皇子人物を祀るためのお寺です。彼らは物部系の大王です。斑鳩の地は元は、物部氏の本地でもあります。
蘇我氏により、殺害した本来の大王である彼らを祀るために造られたのが斑鳩寺です。

そして、厩戸皇子こと押坂彦人大王も物部系の大王です。蘇我氏、蘇我馬子により、この押坂彦人大王を蘇我の皇子として系譜を変更したことにより混乱が生じている。
敏達天皇の最初の皇后は、物部姫である穴穂部間人皇女です。蘇我の王といえる欽明天皇の娘ではありません。
押坂彦人大王の母親であり、押坂彦人大王は物部の王です。

次の皇后?が推古天皇です。押坂彦人大兄皇子は、蘇我氏が関わった大王家の人物です。推古天皇時、大王だった人物です。
推古天皇の息子の竹田皇子は、異母兄弟になります。

二人の聖徳太子。ですので、生誕地の伝承もふたつあります。
上宮王の名称からも、押坂彦人大兄皇子が生まれたのは、この「上宮」であると思われます。写真の桜井市南部の上之宮遺跡の場所です。
後に物部の本地である斑鳩の地に移りました。これが岡本宮であり、後に寺となりました。法起寺です。
さらに大王に即位することになり、横大路に完成した水派の宮(桜井市大福)に移ることになります。

中宮寺は、元はこの押坂彦人大兄皇子の母親である穴穂部間人皇女の住居、「中宮」でした。ですので、この押坂彦人大兄皇子は、母親の宮である、この中宮で生まれたかもしれません。後に寺(中宮寺)となります。母親の傍に移ったのです。
斑鳩は物部の本地であり、中宮は物部の時代に造られた建物です。

穴穂部間人皇女が亡くなった後には、敏達天皇の次の皇后が額田部皇女こと大伴皇女です。
額田部皇女は推古天皇のことではありません。藤原氏により対立していた大伴氏の娘が消されている。
大伴皇女の娘が糠手姫皇女であり、押坂彦人大王の后です。
糠手姫皇女は天武大王の王后である額田王の祖母であり額田部氏の女性であるということです。

額田王は優秀な歌人だったことが注目され、采女や巫女だったともいわれますが、そうではなく本来は大王家の女性です。
額田王は高市大王の母親であり、高市大王の王子が長屋大王です。この系譜が変更されている。

ですので推古天皇は敏達天皇の皇后だったかは怪しいいとこでもありますが、この時代権力を握ったのは蘇我氏であり、推古は蘇我の女帝です。ですので、蘇我の王である「天皇」だったのは間違いありません。


もう一人の聖徳太子、蘇我の皇子である竹田皇子が生まれたのは明日香にある「橘寺」です。この蘇我氏の本地にある橘寺は、元は推古の住居、宮でした。推古天皇は蘇我の女帝です。
竹田皇子もまた斑鳩の地に移ることになります。
これが605年に移ったという斑鳩の宮です。斑鳩宮と斑鳩寺は蘇我氏の宮であり寺です。物部が滅んだ後、斑鳩の地は蘇我氏の管轄する場所になっていました。斑鳩寺も宮と同時期に、605年に完成している。斑鳩の宮は竹田皇子の宮です。


二人の聖徳太子。若草伽藍に造られたお寺は、624年に亡くなった竹田皇子を祀るお寺であり蘇我氏のお寺であるともいえます。
現法隆寺は押坂彦人大王を祀るお寺であり大王家のお寺です。
法隆寺が大きな謎となっている理由です。


斑鳩寺の創建年に関してです。

金堂の薬師如来像光背銘において、斑鳩寺は607年の創建とされます。これは真実を語っている銘文であるのか?
そんなはずはない。607年の創建年は間違っているように思のです。

斑鳩寺の創建も二年の間違いがあります。607年の創建ではなく、605年の創建です。
斑鳩宮と同時期に完成しています。

斑鳩宮は605年に完成し、聖徳太子は移ったとされます。ですから、斑鳩寺も605年には創建されているはずです。
二年の間違いなのだけど、間違った理由が重要なのです。

斑鳩寺と斑鳩宮は、同時期に完成でなければならないように思う。それは藤ノ木古墳が関わるからでもあります。
明日香から斑鳩に宮を遷した理由の一つが、藤ノ木古墳の被葬者を祀るためだからです。

それと、日本書紀の推古条は二年の混乱がある箇所が他にもあります。

日本書紀(中) 山田宗睦 訳 を参照しているのですが、
推古天皇条冒頭において間違いの指摘があります。

年十八歲、立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。卅四歲、渟中倉太珠敷天皇崩。卅九歲

36年3月7日の条に崩年75歳とすると(18歳は欽明32年に当たる)敏達との死別は、34歳ではなく32歳となる。即位は39歳。
      ******************
以前にも指摘したところですが二年の間違いがある。聖徳太子の系譜の改竄にも関わります。

どうしてまちがったのだろうか?
これは、押坂彦人大兄皇子が大王に即位した事を消し去っているからです。
591年に天皇に即位したのが推古天皇であり、「天皇」とは蘇我の王のことです。
593年に大王に即位したのが押坂彦人大兄皇子です。摂政に就いたとされますが、そうではなく大王に即位したのが、この593年であり、この年が法興元年です。
押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことが消され、推古が593年に天皇に即位したことに変更されている。この変更による間違いである。

この押坂彦人大王の後胤と対立してきたのは、秦氏、藤原氏であり、押坂彦人大王も祟ったと思われていたのです。

そして、日本書紀、推古天皇条には、斑鳩寺607年の創建年では矛盾する記述があります。

斑鳩寺も斑鳩宮と同様に、605年に創建されているはずです。



日本書紀・・・創建一年前の推古天皇14年(606年)に、斑鳩寺の記述があります

日本書紀 推古天皇14年
秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經於岡本宮、天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。
    ************************
創建前の斑鳩寺、・・・推古天皇は太子に播磨国の水田100町歩を贈り、太子はそれを創建前の斑鳩寺に納めるという不思議な記述です。
薬師如来像光背銘により、斑鳩寺は推古天皇15年(607年)に創建されたとされます。ですので、606年、斑鳩寺はいまだ創建されていません。

この書記の推古条にある、「皇太子」とは、用明天皇と、穴穂部間人皇女との皇子であるという人物ではありません。

推古天皇が大変喜んだとされるように、岡本宮で勝鬘経、法華経の講義を行ったのは、推古天皇の息子の竹田皇子です。仏教を興した聖徳太子というのは、この竹田皇子のことです。

この時の大王は、押坂彦人大王であり、天皇は推古天皇、そしてこの皇太子とは竹田皇子のことです。太子道を飛鳥から斑鳩まで通った、太子とはこの竹田皇子のことです。斑鳩の宮に移ったのも竹田皇子です。

この文章は蘇我氏の歴史書である、「天皇記」「国記」の推古条に記述されていた文章です。蘇我氏の歴史書であるので、非常に聡明であったとされる太子とは、蘇我の皇子である息子の竹田皇子のことです。

推古天皇時には本来の大王がいます。ですので、推古天皇条が存在していたのは、この蘇我の歴史書である「天皇記」「国記」以外ありえないわけです。

この岡本宮というのが、飛鳥における推古天皇の宮である小墾田宮のことであるのか?
岡本宮は別称であり、雷丘の傍に推古の宮が存在していたからの名称なのか。
あるいは斑鳩にある、岡本宮、後の法起寺であるのか?

605年に斑鳩の地に移ったとされますので、606年に勝鬘経、法華経の講義をしたとされる岡本宮とは、この斑鳩にあった宮のことです。
この斑鳩の岡本宮は、元は異母兄である押坂彦人大王の宮でした。大王に即位し水派の宮に移りました。


物部の本地である斑鳩にある中宮寺は、もとは押坂彦人大王の母親である穴穂部間人皇女の住居、「中宮」でした。
穴穂部間人皇女は物部の姫であり、押坂彦人大王は物部系の大王です。

穴穂部間人皇女没後ですが、推古天皇の息子の竹田皇子が斑鳩に移り住んだため、推古も斑鳩の地に移ることになりこの「中宮」が住居、宮となりました。
竹田皇子没後に冥福を祈るため寺、「中宮寺」にしたものです。これは中宮寺が四天王寺式の伽藍配置であったことからも推測できます。
若草伽藍のお寺と同様に、蘇我の時代に建設された寺院です。

野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の銘にある「中宮天皇」とは、推古天皇のことです。
「野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の謎と中宮天皇」、「法隆寺、橘寺創建の謎と野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像」のところで記述してます。

何度も記述しているところですが、「天皇」の呼称にも関わる重要なところなので・・・「天皇」の呼称の記述のもっとも古いものです。
推古は「天皇」と呼称されていました。初代天皇であり、「天皇」とは蘇我の王の呼称です。



野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時
誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
   *************************
この銘文における、謎とされるこの「中宮天皇」とは推古天皇のことです。
銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯開」は、「開」という文字があるように、この栢寺が創建された日ということです。
丙寅年、推古天皇16年である606年4月8日、お釈迦様の誕生日に創建されたということです。この栢寺とは後の橘寺のことです。推古天皇と息子の竹田皇子が関わるお寺です。

法隆寺金堂日記・・・「橘寺より、小仏49体、永歴2年(1078年)10月8日迎え奉った」

この野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像は、橘寺から法隆寺金堂に移された仏像のうちの一つです。
この栢寺の僧たちが、推古天皇が病気になった時に、回復を願ってこの弥勒像を作り、銘文を記したということです。
ですので、推古天皇が崩御した628年頃にこの仏像造られたものです。

「聖徳太子伝暦」によれば、推古天皇16年(606年)に、太子(竹田皇子)が勝鬘経を講説したので、推古天皇は橘寺を創建したとされます。元は豊御食炊屋姫尊(推古天皇)の住居であり、竹田皇子が生まれたのがここです。
「聖徳太子伝暦」と、野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像の銘文の栢寺(橘寺)の創建年は一致します。

この栢寺とは後の橘寺のことです。推古天皇の父親である欽明天皇の別宮が推古天皇の宮、「栢宮」になり、ここで生まれたのが竹田皇子です。
「栢宮」が「栢寺」となり、後に本格的に寺院が建設され「橘寺」になったのです。

竹田皇子が勝鬘経、法華経の講義をしたのは、推古天皇16年(606年)であるという書記の記述は間違いではありません。

そうすると、法隆寺金堂薬師如来像光背銘にある、推古天皇15年(607年)に寺とこの仏像は造られたとされる銘文と矛盾します。
薬師如来信仰も後のものです。藤原氏による、法隆寺の由緒を改竄する銘文です。
斑鳩寺と法隆寺は別のお寺です。

斑鳩寺の創建は、勝鬘経を講説した606年以前ではなくてはおかしいわけです。

日本書紀における、斑鳩寺創建に関する矛盾する記述です。
何故にいまだ創建してない斑鳩寺に納めるのでしょう?

不思議な記述ですが。この記述は間違っていません。間違っているのは薬師如来像光背銘です。
斑鳩寺は推古天皇15年(607年)の創建は間違っている。

斑鳩寺の創建年は605年です。斑鳩宮と斑鳩寺は同時に完成している。




二人の太子、・・・
聖徳太子の生誕場所に関する伝説も、やはりふたつあります。
明日香にあるこの橘寺と、桜井南部の、今も上之宮の地名に残りますが、写真の上之宮遺跡の場所です。
ここは、幼少期を過ごしたとされますので、生誕地は斑鳩にあった、母親の穴穂部間人皇女の住居である中宮である可能性もあります。

蘇我氏の本地である明日香にある橘寺は、もとは豊御食炊屋姫尊こと推古天皇の住居であり、ここで生まれたのが竹田皇子です。
その名の通り、「おしさか」近くの上之宮で生まれたのが(あるいは育ったからの名称)、押坂彦人大王です。
伝説どおり、押坂彦人大王の宮は、父親である敏達天皇の宮である、訳語田幸玉宮(桜井市戒重 他田宮)の南部に位置します。

のちに、押坂彦人大兄皇子もまた斑鳩の地に移ります。これが岡本宮です。
さらに大王に即位することにもなり、横大路沿いに完成した「水派の宮」に移ります。

推古16年に隋の使者の裴世清一行を迎て隋国書の宣読と、国書と国進物の進上儀式が行われた宮というのは、この本来の大王の宮である「水派の宮」の方です。
推古は天皇ですが本来の王ではありません。ですので推古の宮である「小墾田宮」ではありません。

隋書には、男の王であり、「おおきみ」とよばれ后もあると記述されています。この時代にはまだ「天皇」の呼称はなかったとされます。では、大王ではなく天皇でもない推古は、どう呼称されていたというのでしょうか?
押坂彦人大王が、大王に即位したことが消されています。隋書の記述は、記紀の改竄箇所を暴くものです。

日本書紀、古事記は桓武天皇の時代に、秦氏、藤原氏によって改竄された偽書です。もうずっと私たちは騙され続けている。いまだに、この偽書である記紀を正史とする限り本来の歴史は見えてこない。


竹田皇子の宮は、「斑鳩の宮」です。宮もふたつあります。
推古天皇の宮とされる小墾田宮(小治田宮)は、明日香の雷丘にあった宮です。後に息子が住む斑鳩の宮近くの中宮に移ったのです。

息子の竹田皇子の方が先に亡くなっていて、亡くなった後にお寺となり、中宮寺と呼ばれました。中宮が寺となり、中宮寺と呼ばれたのです。
この中宮寺は、竹田皇子の菩提を弔うために、竹田皇子の宮である斑鳩宮のそばに移転しています。
推古天皇は、この中宮寺にいたので中宮天皇と呼ばれたのです。

「中宮」の呼称は、三つの宮(岡本宮、中宮、飽波葦垣宮)の真ん中にあったからです。
「聖徳太子伝私記」においては、斑鳩宮も関係するとされますが、この名称は605年に造られた斑鳩宮の以前にすでに呼称されていたと思われます。もとは物部の時代の建物です。

ふたりの太子、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子が混同されている。母親である穴穂部間人皇女と推古天皇も同様に混同されている。



日本書紀の用明天皇条においても問題個所があります。
押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の第一王子です。ところが日本書紀、用明天皇条には用明天皇の皇太子と表現されている箇所があります。すでにおかしいとも指摘されているところでもあります。
これは、厩戸皇子とは押坂彦人大兄皇子ですよと言ってるようなものです。

日本書紀用明天皇条
二年夏四月乙巳朔丙午・・・
遂作太子彥人皇子像與竹田皇子像、厭之。俄而知事難濟、歸附彥人皇子於水派宮。

物部守屋側の人物である中臣勝海が押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の像をつかって呪詛したということです。ここで、押坂彦人大兄皇子を用明天皇の皇太子としています。
押坂彦人大兄皇子の宮は、書記に記述のあるこの「水派宮」です。

敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子を蘇我の皇子として、蘇我の王である用明天皇の皇子として取り込んだための間違いでもあるのです。
前述してきましたが、蘇我氏、蘇我馬子による系譜の改竄箇所です。この蘇我氏による改竄系譜を使用して日本書紀も改竄箇されているのです。
参照した蘇我氏の歴史書である「天皇記」、「国記」の用明天皇条を、そのまま写したことによる単純なミスです。
用明天皇とは蘇我氏が主張する蘇我の王であり、本来の王ではありません。
ですので用明天皇条が存在するのは、この蘇我の歴史書である「天皇記」、「国記」以外ありえません。

「天皇」の呼称は、この「天皇記」、「国記」編纂時に、蘇我馬子により作られた蘇我の王の呼称です。
蘇我の歴史書であり、蘇我の王の正統性を主張するものである。
実際に「天皇」の呼称が使用されたのが、推古天皇であり、推古天皇は初代天皇といえます。


二人の聖徳太子。没年も、やはりふたつあります。法隆寺金堂釈迦三尊像の銘文と日本書紀では命日が異なります。
ですので、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の没年です。

隅田八幡神社人物画像鏡の銘文と、釈迦三尊像の銘文からの推測では、竹田皇子の命日は624年の2月22日である。これは間違っていません。

問題は押坂彦人大王の命日です。これが不明です。

しかし書記にある推古29年2月5日は、釈迦三尊像の銘文の命日2月22日とは異なるので、これは押坂彦人大王の命日であると思われます。
推古29年であるとされますが、これはやはり、二年間違っているように思います。推古31年であるように思います。

理由は、法輪寺の創建の由緒に、山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため、推古天皇30年(622年)に建てたという伝説が存在するからです。推古29年は621年になり、この年に崩御したとすると矛盾します。622年は病気療養中です。
押坂彦人大王の崩御年は623年である。やはり、二年の間違いがあるように思います。
この法輪寺は、元は、押坂彦人大王の王子であるこの山代王(山背大兄王)の宮であったように思うのですが?

推古31年である623年2月5日が押坂彦人大王の崩御された日です。


亡くなった場所の伝承もふたつあります。日本書紀では斑鳩宮です。
大安寺伽藍縁起并流記資財帳においては、飽波葦垣宮で病臥していたとされます。
斑鳩宮はこの竹田皇子の宮であり、ここで亡くなったのは竹田皇子です。
つまり、飽波葦垣宮で亡くなったのは押坂彦人大王です。

ふたりの太子、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子が混同されている。

斑鳩寺創建に関しても、このふたりの太子が関わります
聖徳太子が大きな謎となっているのは、はじめに蘇我氏による系譜改竄が行われたからです。
蘇我馬子により、物部系の王子である押坂彦人大兄皇子を蘇我の皇子として変更したことに始まります。
蘇我馬子は関係のあったこの押坂彦人大兄皇子を、次の大王に即位させようとしたのです。

これは、蘇我馬子と聖徳太子が編纂したという「天皇記」「国記」においての記述である。この変更された系譜を用いて、歴史は再度変更されている。


創建年に関わりますので、少しややこしいですが説明します。
推古天皇条は何故か、記述年代において、二年の間違いがあるのです。

推古は天皇ですが、本来の王である大王ではありません。ですので、もとの日本書紀には、推古天皇条なんてありません。
日本書記を改竄した時に付け加えられたものです。

記紀改竄時には、蘇我氏の歴史書である、「天皇記」「国紀」を参照して変更している。

この創建の由緒が刻まれる薬師如来像光背の銘文は、おそらくは蘇我の歴史書である「天皇記」「国紀」の、推古天皇15年に記述されていたものを写したものです。
光背銘として用いていますが、日本書紀改竄時には、この文章は採用されず斑鳩寺の創建の記述はありません。

天皇が天下を治めたという、この表現、「池邊大宮治天下天皇」は蘇我氏が主張するものです。蘇我の王である「天皇」が天下を治めるという記述の仕方は、蘇我の歴史書である、「天皇記」「国紀」においてである。

何度も記述しているところですが、推古天皇は591年に天皇に即位して、推古元年は591年というのが真実です。
押坂彦人大王は593年に大王に即位しています。この大王に即位したことが消され、推古が593年に天皇に即位したことに変更されています。

法興元年は、押坂彦人大兄皇子が大王に即位した593年です。

「天皇記」「国紀」にある推古天皇15年とは、元年が591年ですので、15年というのは605年になります。「天皇記」では推古元年は591年です。

しかし日本書紀に採用された時には、推古元年を押坂彦人大王が大王に即位した年の593年に変更しています。

このことを考慮に入れ、593年から数えてしまっているので、推古15年というのは、607年の丁卯年になっているのです。

「天皇記」の推古15年は605年であり、干支は乙丑です。
日本書紀に採用するのであれば、593年から数えるため、推古13年に事跡として記述しなければいけません。

しかし「天皇記」「国紀」にあった斑鳩寺創建の記述を、日本書紀には採用していません。そして「丁卯年」と干支表記なことも間違いのもとです。

ですので・・・大命受賜而歳次乙丑年仕奉
こう記述しなければいけなかったのです。
推古15年を593年から数えてしまっているのです。

日本書紀に採用するときは、二年差し引いて記述されています。
書記の推古天皇14年は、本来「天皇記」では16年の記事です。推古元年を593年から数えると14年は606年です。これは正しい年を示しています。

日本書紀の推古天皇14年(二年引いている)の、606年は正しく、薬師如来像光背の銘文の創建年607年は二年の間違いがあります。二年引いて記述されている場合と,そのまま写している記述があるのです。

ですので、斑鳩寺創建年は605年です。
斑鳩寺創建は605年であり、推古天皇の息子の竹田皇子が勝鬘経、法華経の講義を行ったのは翌年の606年です。

日本書紀のこの文章・・・「天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺」は間違いありません。すでに斑鳩寺は605年に創建されていました。

日本書紀において聖徳太子は、推古天皇9年(601年)に斑鳩宮を造営し、推古天皇13年(605年)に移り住んだとされます。
宮だけでなく寺も同時に造り始められたので4年もかかっているのです。

斑鳩寺も斑鳩宮も同時に造り始められ、共に605年に完成したということです。上記の日本書紀の記述とも矛盾しません。
息子が斑鳩の地に移ったことにより、母親の推古天皇も傍に宮(後の中宮寺)を造り移り住むことになったということです。


推古天皇は、天皇ですが、本来の王ではありません。ですので、本来の日本書紀には推古天皇条なんてありません。
日本書紀の下巻最初には押坂彦人大王条があったのです。

「天皇記」「国記」は蘇我の歴史書です。そして推古天皇は蘇我の女帝です。
間違いは本来の大王を消し去って、推古を女帝としたことによる間違いです。
推古天皇条があったのは、この「天皇記」「国記」です。
記紀改竄時にはこの「天皇記」「国記」を参照している。

この押坂彦人大王の事跡を、推古天皇条の聖徳太子という人物に纏められている。

政治を行ったのは大王である押坂彦人大王です。ですので、遣隋使を派遣するなどの政策を行ったのは彼です。
冠位十二階や十七条憲法の制定に関しても、天武大王が皇祖と仰ぐ押坂彦人大王を称賛する意味で、功績を追加記述されていたように思います。


「天皇」の呼称を使用して記紀は改竄されている。記紀に推古天皇条を付け加えるのにあたっては、何らかの文献を参照しているはずです。
それが、推古天皇28年(620年)に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したという「天皇記」「国記」である。


斑鳩寺創建は605年です。しかしこの創建斑鳩寺、610年に焼失している。若草伽藍に作られたお寺は再建斑鳩寺ともいえ、この竹田皇子が亡くって、彼を祀るために作られたお寺です。これらは蘇我氏のお寺だとも言えます。
現法隆寺は天武大王が造り始めたお寺です。

次回に続きます。605年に創建されていた斑鳩寺はどこに建てられていたか?この斑鳩寺は再建されています。この再建斑鳩寺は若草伽藍に建てられたお寺です。若草伽藍のお寺は創建斑鳩寺ではありません。

法隆寺の七不思議とされる、南大門前にある鯛石こそ、この創建斑鳩寺の五重の塔の心礎石です。

写真は、日本書紀にも記述のある、押坂彦人大兄皇子の宮である「水派宮」が建造されていた場所、桜井市大福にある三十八柱神社です。

三十八柱神社御由緒
聖徳太子伝暦(917)の注記に「小墾田の宮は当時、大仏供(大福の古名)と云う里にヲハル田の宮とて小社あり其れ宮どころ也云々」と明記されていた。

しかし、ここは推古天皇の「小墾田の宮」ではありません。この時代の本来の大王である押坂彦人大王の宮である「水派宮」です。
隋の使者である裴世清一行を迎えたのは、横大路沿いに造られたこの「水派宮」です。

この三十八柱神社は、「みそやはしら」とされていますが、この三十八は、本来は「みずは」であり、水神の水波能売命(みずはのめのかみ)を祀る神社です。
「水派宮」の名称は、この神社のそばに造られたからです。






下の写真は雷丘付近で発掘された、「小治田宮」の文字の墨書がある土器です。
推古天皇の小墾田宮は、明日香村の雷丘周辺にあったことは間違いないと思われます。
桜井市大福にある三十八柱神社は、押坂彦人大王の「水派の宮」ということです。

これも「隠された十字架」にある梅原猛氏の指摘ですが、
「法隆寺 資材帳」
「小治田天皇大化三年、歳次、戊申 九月二十一日巳亥、・・・・」

大化三年は、647年になります。「小治田天皇」というのは本来は推古天皇のことです。
孝德天皇在位、645年~ 654年になります。ですので、この時のこの「小治田天皇」というのは孝徳天皇になります。

しかしこれは間違っています。孝徳大王の年号は「大和」です。
「大化」というの真実ではありません。
この時の大王は孝徳大王であり、天皇は皇極天皇であるということです

643年に皇極天皇の小墾田宮に遷幸したとされます。ですので皇極天皇も「小治田天皇」と呼ばれていたのです。649年まで皇極天皇だったはずです。
それは、大安寺伽藍縁起并流記資材帳に、白雉元年(650年)に難波宮にいた袁智天皇との表記があろからです。白雉はこの孝徳大王の王后だった袁智天皇の年号です。654年に亡くなったのは孝徳大王ではなく、この袁智天皇です。ですので斉明天皇として重祚したのです。
「天皇」は王后の呼称でもありました。

野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像の銘文の「中宮天皇」。推古天皇が崩御した628年頃に造られた仏像です。

大安寺伽藍縁起并流記資材帳の白雉元年(650年)に難波宮にいた袁智天皇。孝徳大王の后であり、持統天皇の母親である遠智娘のことです。
持統天皇は孝徳大王の娘です。渡来人、秦氏の皇子である天智の娘ではありません。

「天皇」号が成立したのは、7世紀後半、天武、持統朝であるというのが通説ですがこれは間違っているということです。

「天皇」の呼称は、推古天皇28年(620年)の「天皇記」「国記」編纂時に作られた、蘇我の王の呼称であり、これ以降「天皇」の呼称は存在する。
つまり、実際の初代天皇は推古天皇ということです。初代が女帝であったっため、その後も女帝(推古天皇から称徳天皇まで)の呼称となっている。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳の記述が証拠です。中宮天皇も袁智天皇も女性です。

そしてこの「皇」の文字は「王」の文字の異字として使用され始めている。「皇」の文字の方が良い文字と判断されてきたのかな?
これが天武、持統朝くらいです。しかし本来の王の呼称はまだ大王です。
天武大王です。
これは、中国では「皇帝」の称号が使用されているからでもあります。
はじめて「皇帝」を名乗ったのは秦の始皇帝であり、秦氏は「秦」を氏の名とし、秦の始皇帝の末裔を主張しています。





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法隆寺の三つの本尊の謎と「聖徳太子二王子像」

2022年01月30日 | 聖徳太子の謎


法隆寺の本尊に関しても大きな謎があります。
法隆寺、金堂には、三つの本尊があります。「中の間本尊」、「東の間本尊」、「西の間本尊」です。
通常本尊というのは、本来はひとつのはずですよね。これも大きなな謎とされます。
法隆寺に安置されている仏像は、多くの不思議な謎に包まれています。
法隆寺創建の由緒が刻まれたこれら仏像に関する謎は、最も興味のあるものです。

今回は法隆寺西院伽藍、金堂の仏像に関してです。

三つの本尊というのは、三人が祀られていたからである。この三人とは、「聖徳太子二王子像」にある聖徳太子と二人の王子の三人です。

金堂の仏像も、この「聖徳太子二王子像」と同様の形で安置され祀られていたのです。それが後に怨霊封じがなされ、これら本尊も変更されている。


「法隆寺再建の謎、・・・百済観音、救世観世音菩薩、銅造釈迦三尊像」のところで本尊については書いていますが・・・607年に創建されたという由緒からも、623年に作られた釈迦三尊像が本尊というのもそもそもおかしなことです。
この釈迦三尊像は、推古の息子の竹田皇子が病気の時に作られ始めた仏像です。若草伽藍の本尊です。本来は法隆寺の本尊ではありませんでした。
怨霊封じ時に、本尊は変更されている。


隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
   ***************************

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。

この日十大王こそ、隋書にあるように推古天皇時に大王だった、聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子です。623年は推古天皇の時代です。「天皇」と「大王」、二人の人物がいた証拠の銘文です。これは隋書により明らかです。



法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文・・・

法興の元(593年推古元年 本当は聖徳太子 押坂彦人大王元年)より三十一年(623年、隅田八幡神社人物画像鏡冒頭の(葵未年)です)、歳は辛巳に次る十二月鬼(一日?)、前太后(竹田皇子の前の皇后、おそらく菟道磯津貝皇女(東宮聖徳に嫁いだ))崩ず。

明年(624年)正月二十二日、上宮法皇(竹田皇子)、病に枕し、干食し悆からず王后(竹田皇子の次の妃膳部菩岐々美郎女)、よりて労疾を以て、ならびに床に著きたまふ

時に王后(膳部菩岐々美郎女)・王子等、及び諸臣と與に、深く愁毒を懐きて、共に相ひ発願す仰ぎて三宝に依りて、当に釈像の尺寸王身なるを造るべし。此の願力を蒙り、病を転じ寿を延し、世間に安住す。
若し是れ定業にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、
早く妙果に昇らむことを。

二月二十一日癸酉の日、王后即世す。翌日法皇登遐(崩御)す。

癸未年(623年)の三月中、願の如く敬みて釈迦の尊像ならびに侠侍、及び荘厳の具を造り竟りぬ。
斯の微福に乗り、信道の知識、現在には安隠にして、生を出でて死に入らば、
三宝を紹隆して、共に彼岸を遂げ、六道に普遍する法界の含識も、苦縁を脱することを得て、同じく菩提に趣かむ。
司馬鞍首止利仏師をして造らしむ。
     *********************

怨霊封じの時に、もとは若草伽藍にあった斑鳩寺の本尊である、釈迦三尊像を法隆寺の本尊に変更している。これが聖徳太子が謎になって要因でもあります。
釈迦三尊像は、隅田八幡神社人物画像鏡と同様に、病気だった竹田皇子の回復を願って、蘇我馬子や推古天皇により造られた仏像です。

この銘文の人物は「上宮法皇」とあるように、竹田皇子のことです。「天皇」とは本来は蘇我の王の呼称です。竹田皇子は蘇我の皇子です。
本尊変更により、敏達天皇のふたりの王子、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子が混同されている。
推古天皇時に大王だったのが、押坂彦人大兄皇子であり、仏教を興したのはこの竹田皇子です。

隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の内容と、この法隆寺金堂釈迦三尊像背光の銘文の内容は一致します。
本来は、病気の快復を祈願するための仏像や鏡です。しかし残念ながら、竹田皇子は翌年亡くなっています。銘文は亡くなって作文されたものです(本来は病が快復するようにとの銘文のはずですが、世を去られることになったら浄土に登って悟りを得るようにとの内容から)。


この仏像はもちろん、若草伽藍に再建された斑鳩寺に安置されていたものです。斑鳩寺は、蘇我氏のお寺であるともいえ、この当時の権力者である蘇我氏、蘇我馬子と母親である推古天皇が建てたお寺です。

銘文にある、法興元年は、崇峻天皇四年である、591年とされますが間違っています。593年に押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことが消し去られています。
推古天皇は、実際の初代天皇であり、「天皇」は蘇我の王の呼称です。

593年に聖徳太子は摂政に就いたとされますが、この時代に摂政という官職はありません。
この「法興」こそ、聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことにより、実際に使用された日本最初の公年号であり、元年は大王に即位した593年です。
法興元年から三十一年は、623年であり、これは、隅田八幡神社人物画像鏡冒頭の(葵未年)です。
聖徳太子の命日は、この釈迦三尊像光背にある銘文と日本書紀の記述では異なります。
押坂彦人大兄皇子の命日は、書記にある623年(二年の間違いがある)2月5日であり、竹田皇子は624年2月22日である。

ここは、何度も記述しているところです。
何が言いたいのかというと、聖徳太子の名称でふたりの人物が混同されているということと、釈迦三尊像は、竹田皇子のお姿を写したものであり、若草伽藍にあった斑鳩寺は、この竹田皇子没後に、彼を祀るために蘇我馬子によって造られたお寺であるということです。
混同されている大きな原因は、藤原氏による系譜の改竄です。聖徳太子という人物でこの二人の事跡を消し去っている。


この斑鳩寺と現法隆寺は異なるお寺であるということです。聖徳太子同様に、お寺も混同されているということです。
ここがわかれば、法隆寺再建の謎ときも容易だからです。



写真は有名な聖徳太子最古の肖像画とされる、「聖徳太子二王子像」です。唐人の筆跡とあって「唐本御影」とも呼ばれていました。聖徳太子の一万円札の肖像です。もちろん、法隆寺に伝わるものです。
この肖像画は、「聖徳太子伝暦」から、百済の阿佐太子の筆とされて阿佐太子御影とも呼ばれます。
阿佐太子は、推古天皇5年である、597年に日本に渡ってきてこの聖徳太子の肖像を描いたと言われます。

しかしながら、この「聖徳太子二王子像」は、その服装などから、天武、持統朝に描かれたものと推測されてます。
笏をもつ風習も大化の改新以降とされているからでもあります。

唐人の筆跡あるとされ「唐本御影」とも呼ばれます。
これは、唐の画家である閻立本の作とされる、初唐の「歴代帝王図巻」に見られる人物配置に似ることから、この構図法に起因したものとされます。

そして、この「聖徳太子二王子像」の肖像の配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられています。 

法隆寺の三つの本尊の謎は、この肖像画から謎解ける。つまり、三つの本尊はこの絵に描かれている三人がモデルに造られている。
ですので金堂の仏像も、この通り配置で祀られている。法隆寺の本尊が三つある理由です。中央と脇に二体の構図です。

聖徳太子を中央に、2人の王子は、右前方(向かって左)が弟の殖栗皇子、左後方(向かって右)が息子の山背大兄王とされ、これが定説とされています。
しかし間違っているのは、一目瞭然ですよね。王子であるとされるのに、弟だとされます。弟であるなら、殖栗皇子の肖像は小さすぎますよね。
聖徳太子の系譜が改竄されているのが、理解できていないからです。

7世紀後半の天武、持統朝の制作ということは、天武が皇祖と仰ぐ祖父の聖徳太子こと押坂彦人大王の肖像画であり、左右に王子たち、天武のお父さんである山代王 (山背大兄王)と、孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王の肖像です。
聖徳太子のふたりの王子です。

この系譜の変更が理解できれば法隆寺の謎解きは容易なのですが・・・天武大王の父親は山代大王(山背大兄王)であり、聖徳太子は長屋大王に繋がるのです。天武と渡来人天智は兄弟ではありません。
山代王 (山背大兄王)は殺害され上宮王家は絶えることになったとされます。
これは天武大王から長屋王大王に繋がる本来の大王家の系譜であるからです。
藤原氏は殺害した長屋大が本来の大王では都合が悪いのです。ですので大王家直系の系譜を変更する必要があったのです。

聖徳太子も祟りました、そう思われたのは長屋大王に繋がる重要人物だからです。
押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー孝徳大王ー有間皇子

日本書紀・古事記は正史である。だから間違いはないという姿勢ではいつまでたっても謎は解決しません。渡来人の王である桓武天皇の時、記紀は改竄されている。

法隆寺は彼らを祀るために、天武大王が造り始めた寺院です。
天武大王が造り始め、王子である高市王子に受け継がれ、その王子である長屋王の時代に完成している。長屋大王は聖徳太子こと押坂彦人大王に繋がります

長屋王が藤原氏に祟った後に、この由緒に関しても変更されている。

つまり、これは容易な推測でもあるのですが、法隆寺金堂の、三つの本尊とは、聖徳太子こと押坂彦人大王、二人の王子、山代王 (山背大兄王)、茅渟王の肖像の仏像です。

「聖徳太子二王子像」は、「歴代帝王図巻」どおり、三人の帝王の構図であり、「大王」に即位していました。彼らは全て本来の大王です。

しかしながら、怨霊封じが行われた時に、これら本尊は変更されている。
現本尊である三つの仏像は、本来の本尊ではない。



創建時、法隆寺の金堂の本尊はどの仏像だったのでしょうか?

*木造観音菩薩立像(百済観音、中の間本尊) 聖徳太子(押坂彦人大王)

謎多き仏像とされる、木造観音菩薩立像(百済観音)。高さおよそ210cmもありスリムで実に美しい仏像です。初めて目にするとその高さに驚きます。百済観音とも呼ばれますが、クスノキを使用し日本で造られた仏像とされます。
他のお寺から移されたのだろうとも推測されていますが、そうではない。

この木造観音菩薩立像こそ、本来の法隆寺の中央の本尊であり聖徳太子(押坂彦人大王)です。

この仏像は、もともとは墨蹟銘から「観音菩薩」ではなく「虚空蔵菩薩」と呼ばれていました。
虚空蔵菩薩とは「広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩」という意味だそうです。
無限の智恵と慈悲を持った菩薩、聖徳太子にはこの虚空蔵菩薩の方が相応しいと考えられたからでしょうか?

ところが、土蔵からこの仏像の宝冠が新たに発見されました。
この宝冠の正面に、阿弥陀如来の化仏が刻まれていることから、観音菩薩像であるということがわかったようです。

この木造観音菩薩立像こそ、法隆寺金堂の中央に配置されていた本尊(中の間本尊)です。聖徳太子こと押坂彦人大王のお姿を写したものです。

この仏像、細身なので、その高さがさらに強調されます。これほど高身長なのは理由があります。
非常に高身長だという理由は、法隆寺の本尊は、「聖徳太子二王子像」通りの構図であり配置だからです。

聖徳太子を中央に、脇に配置されていた、二王子である山代王 (山背大兄王)と、茅渟王を写した仏像が、成人した等身大の高さの仏像だからです。
中央の仏像は、「聖徳太子二王子像」の構図のように、これら等身大の仏像より高くする必要があったからです。


*救世観世音菩薩(東の間本尊) 山代王 (山背大兄王) 

東院伽藍の夢殿、八角円堂にあった救世観世音菩薩は、胸前で摩尼宝珠を持つ宝珠捧持菩薩といわれるものです。
この救世観世音菩薩は、聖徳太子ではなく、王子である山代王 (山背大兄王)の等身大(約179cm)の仏像です。
本来は法隆寺の金堂に安置されていた仏像(東の間本尊)であり、中央の仏像、聖徳太子がモデルの木造観音菩薩立像(百済観音)は、この等身大の仏像より、高くする必要があったのです。

つまり、救世観世音菩薩の方が先に造られていたということです。

観音信仰はいつ頃からなのだろうか?

現存する観音像で、製作年代が分かる最古のものは、東京国立博物館にある、銅造観音菩薩立像(法隆寺献納)のようです。

この仏像の台脚の天板部に銘文があり、「辛亥年七月十日に崩去した笠評君(かさのこおりのきみ)のため、その日、遺児と伯父の二人が造像を発願した」と記されています。この「辛亥年」については、銘文中の「評」の文字から白雉2年である651年の像であるということが分かります。
年紀の明らかな最古の観音像です。

夢殿の救世観世音菩と同様に、胸の前で手を合わせ宝珠を持つ姿であり、救世観世音菩もこの頃に造られた仏像であると思われます。

この観音像をはじめ、他の観音像も例外なく造仏の目的を記した銘文には、死者の冥福を祈って遺族が造ったと記されているようです。

法隆寺の三つの本尊も同様に、押坂彦人大王、山代王 (山背大兄王)、茅渟王の冥福を祈って天武大王が造った観音菩薩像である。
中央に聖徳太子である観音菩薩像、脇二体も同様に観音菩薩だったように思うのですが・・・?

法隆寺には、三つの本尊があるという謎は、「聖徳太子二王子像」の配置と同様だからだという、この推測は間違っていないように思います。「歴代帝王図巻」に見られる人物配置であり、これら三人は本来の大王です。

藤原氏により、これらの本尊は変更されている。それはもちろん藤原氏に祟ったからです。脇二体の観音菩薩は、怨霊封じの時に金堂から他所へ移されている。

山代王 (山背大兄王)である救世観世音菩薩は、山代王の宮でもあった斑鳩宮のあった跡地、東院伽藍の夢殿に移されて怨霊封じが行われている。
それは、山代王 を殺害したことへの恐怖からです。山代王 (山背大兄王)も大怨霊だったのです。

本尊は三体あります。木造観音菩薩立像(百済観音)、救世観世音菩薩はともに観音菩薩です、ですのでもう一体の仏像も観音菩薩だったように思います。
もう一体の仏像、孝徳大王、皇極天皇の父親である、茅渟王のお姿を写した仏像、観音菩薩(西の間本尊)があったはずです。それが失われている?


*法輪寺の木造虚空蔵菩薩立像(観音菩薩像 西の間本尊)茅渟王

木造観音菩薩立像(百済観音)は押坂彦人大王、救世観世音菩薩は山代王 (山背大兄王)。
そしてもう一体、茅渟王のお姿を写した仏像はどこに?

仏像を壊すということはしていないでしょうから、おそらく観音菩薩が他所へ移されているように推測します。近くのお寺のはずです。そうすると聖徳太子が関わるとされる法起寺か法輪寺、中宮寺のはずです。

調べると案外簡単に見つかったように思うのですが?どうなのだろうか?

近くのお寺、法輪寺の木造虚空蔵菩薩立像 、像高175.4センチのように思うのですが?
観音菩薩立像(百済観音)と同様で、左手に水瓶を持ち右手は屈臂仰掌しているお姿から、この仏像も虚空蔵菩薩ではなく、観音菩薩だろうとされます。木造観音菩薩立像(百済観音)と姿が似た同じ観音菩薩であり製作されたのも同じ頃である。

法輪寺の本尊である、木造薬師如来坐像と共に金堂に安置されていました。本来は本尊はひとつのはずですし、この観音菩薩像は他所から持ってきた可能性があるように思います。
法輪寺の木造虚空蔵菩薩立像(観音菩薩像)が、茅渟王のお姿を写した仏像であると思います。

法隆寺には三つの観音菩薩像が、「聖徳太子二王子像」の配置通りの安置されていたのです。


それでは、この救世観音像は何時造られ、何故に東院伽藍の夢殿に安置される仏像になったのでしょう?

問題は、東院伽藍と斑鳩宮です。
救世観音像は、山代大王(山背大兄王)のお姿を写したものだと推測しています。ですので、山代大王が崩御した643年以降に造られている。
上記したように観音菩薩信仰もこの年代である。

聖徳太子である観音菩薩像(百済観音)は、長身であるのは、「聖徳太子二王子像」の肖像通りに、仏像も造られているからです。
つまり、観音菩薩像(百済観音)を造り始める前には、この救世観音像は存在していたということです。

飛鳥時代の仏像であり、その特徴、蕨手状の垂髪と左右に広がる天衣、裙の裾、そして正面からの視点を強調したつくりから止利様式が残る仏像だとされます。山代大王が崩御した643年に、菩提を弔うために造り始められた仏像であると思います。

現本尊である釈迦三尊像は、銘文どおり鞍作止利(止利仏師)が造った仏像です。
鞍作止利は蘇我氏が関係するとされます。推古天皇の息子の竹田皇子は蘇我氏の皇子です。このことからも、釈迦三尊像はこの竹田皇子の姿を写したものです。

釈迦三尊像は銘文により、623年に造られたものです。救世観音は643年に亡くなった山代大王(山背大兄王)菩提をともらうために造り始められた仏像です。
観音菩薩像(百済観音)は法隆寺創建された時、7世紀後半に造られた仏像です。

釈迦三尊像ー救世観音像ー観音菩薩像(百済観音)の順番です。

謎の仏像であるともいえる、救世観音像が造られたのは、法隆寺創建の前です。では、法隆寺が造られるまでどこに安置されていたのだろうか?

救世観音像が造られたのは、孝徳大王の時代です。
鞍作止利は、蘇我氏との関りが述べられています。工房は飛鳥にあったと思われます。ですので、飛鳥のお寺、川原寺か橘寺に安置されていたようにも思います。
川原寺は、この孝徳大王が造ったお寺です。天智天皇が母の斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したとする説があるようですが、そうではありません。

渡来人、秦氏の王子である中大兄皇子が、王に即位できるはずありません。王でもない渡来人が、飛鳥にお寺を造れるはずありません。
飛鳥にある水落遺跡は漏刻の施設とされ、中大兄皇子が造ったとされますが、これも間違いです。
日本で最初の水時計を造ったのは孝徳大王です。

斉明天皇は天武大王の母親ですが、天智の母親ではありません。
天智と天武は兄弟ではありません。渡来人、天智を本来の大王家に繋ぐ操作がなされている。

653年、難波長柄豊碕宮を造営し、そこを都とする以前は、都は飛鳥にありました。渡来人勢力と激しく争ったのはこの孝徳大王時代です。
斉明天皇(皇極天皇重祚)は天皇ですが、本来の大王ではありません。
この時代の本来の大王は孝徳大王です。この孝徳大王の事跡が消されている。

飛鳥は蘇我氏の本地でありました。孝徳大王の時代にも、開けた北部の盆地ではなく、続けてこの飛鳥の地が都となったのは、北方の渡来人勢力に対抗するのに、東西が山に囲まれ防御しやすい地形にあったからです。

蘇我氏の本地である明日香にある橘寺は、元は推古天皇の住居、宮であり、ここで生まれたのは竹田皇子です。
この橘寺も法隆寺の関わりが述べられています。もとは栢寺です。


観音菩薩像(百済観音)は、673年に天武が大王に即位し、法隆寺を建設しようとした時に、本尊であるこの仏像も製作されている。
仏像の製作年は、釈迦三尊像は、救世観音像、そして観音菩薩像(百済観音)です。

643年、山代大王(山背大兄王)は斑鳩寺で殺害されました。その時に斑鳩宮は焼けたとされます。
もともとこの斑鳩宮は、推古の息子の竹田皇子の宮でした。中宮寺は竹田皇子が母親である推古天皇のために造ったお寺です。
飛鳥から斑鳩までの太子道を使って斑鳩宮まで通ったのは、太子である竹田皇子です。

「野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の謎と中宮天皇」、「法隆寺、橘寺創建の謎と野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像」のところで記述しましたが・・・

野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時
誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
   *************************
この銘文における、謎とされるこの「中宮天皇」とは推古天皇のことです。
銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯開」は、「開」という文字があるように、この栢寺が創建された日ということです。606年4月8日、お釈迦様の誕生日に創建されたということです。

「聖徳太子伝暦」によれば、推古天皇16年(606年)に、太子(竹田皇子)が勝鬘経を講説したので、推古天皇は橘寺を創建したとされます。元は豊御食炊屋姫尊(推古天皇)の住居であり、竹田皇子が生まれたのがここです。
「聖徳太子伝暦」と、野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像の銘文の創建年は一致します。
この栢寺とは後の橘寺のことです。


この仏像は、この栢寺の僧たちが、推古天皇が病気になった時に、回復を願ってこの弥勒像を作り、銘文を記したということです。
ですので、606年ではなく、おそらく推古天皇が崩御した628年頃にこの仏像は制作されたものです。つまり628年頃には「天皇」の呼称は使用されている。
推古天皇は、息子である竹田皇子の宮である斑鳩宮のそばの中宮寺にいたので、中宮天皇とよばれていたのです。
現時点で見つかっている「天皇」の呼称の最古のものです。本当の初代天皇は彼女、推古天皇です。

斑鳩は元は物部氏の本地でした。この中宮寺も元は物部の姫である穴穂部間人皇女の住居、中宮でした。
後に物部没落後には、権力を握った蘇我氏が管轄することになります。
竹田皇子が斑鳩宮に移ったので、母親である推古もこの中宮に移ったのです。
中宮の名称は、三つの宮の中にあったからです。


624年、この竹田皇子没後、斑鳩の宮は山代大王(山背大兄王)の宮になっていました。問題は、斑鳩宮跡地に造られている東院伽藍は何時造られたかです。

東院伽藍は、739年、斑鳩宮の故地の荒廃を嘆いた僧行信によって建立されたとされます。しかしこれは、この年に怨霊封じが行われたということです。
737年に八角堂は存在していたとの記述があります。
東院伽藍は案外簡素なもので、もとは八角堂と周りを囲む回廊だけでした。

西院伽藍と、東院伽藍は同時期に造り始められているように思います。

何を云いたいのかというと、つまり、東院伽藍の八角堂は、若草伽藍にあった、釈迦三尊像を祀るために造られたものだということです。若草伽藍のお寺は、移築されている。

本来は法隆寺は西院伽藍だけでの十分なはずなのに、何故に東院伽藍が造られたのか?ということに関しても謎ともいえます。理由は、斑鳩寺の本尊である釈迦三尊を移し祀るためであると推測しています。

この釈迦三尊は、推古天皇息子の竹田皇子のお姿を写したも仏像です。これは、上記した銘文により明らかです。
若草伽藍の寺院を、建て替えるとき、つまり現法隆寺を創建するときに、斑鳩寺の本尊を遷し祀る必要があったため造られたお堂です。

それが、怨霊封じ時に変更、本尊の交代がなされているということです。



それでは、怨霊封じ時にどのようにして本尊を変更したかの謎についてです。

「法隆寺再建の謎、・・・百済観音、救世観世音菩薩、銅造釈迦三尊像」のところで本尊については書いていますが・・・607年に創建されたという由緒からも、623年に作られた釈迦三尊像が本尊というのもそもそもおかしなことです。これは本尊が変更されていることに他ならない。


本来の三つの本尊は怨霊封じ時に変更されている。

現在の金堂の本尊

釈迦三尊像・・・「中の間本尊」、法隆寺中央の本尊されますが、そうではなく、若草伽藍にあった斑鳩寺の本尊です。推古天皇31年(623年)止利仏師作の光背銘を有する像です。この後背の銘文は間違いありません。

この仏像は推古の息子の竹田皇子の病気回復を願って作られた仏像です。翌年の624年に竹田皇子没後に、若草伽藍に斑鳩寺が造られ、そこの本尊となったのです。釈迦三尊像は、竹田皇子のお姿を写したものです。

この竹田皇子は、敏達大王と推古天皇の息子であり、もちろん大王家の人物です。推古天皇の母親は蘇我稲目の女である堅塩媛であり、竹田皇子も蘇我の皇子といえます。
押坂彦人大王の弟、異母兄弟です。押坂彦人大王の時に太子だったのはこの竹田皇子です。
系譜が改竄され、この二人の事跡が聖徳太子の名で混同されているのです。

斑鳩に宮は元はこの竹田皇子に宮でした。そばの中宮寺は母親である推古天皇の寺です。竹田皇子没後には山代大王の宮となります。

若草伽藍の斑鳩寺を取り壊し法隆寺を建設した時に、元の宮跡であった東院伽藍、夢殿に安置する目的であったのはこの釈迦三尊像だったように思います。そう、八角円堂に祀られていたのは、この釈迦三尊像だったように思います。
法隆寺に怨霊封じが行われた時に、本尊はこの釈迦三尊像に変更されている。

金銅薬師如来坐像・・・「東の間本尊」、法隆寺薬師像は、様式上は釈迦三尊像よりも新しいもので、後背の銘文の書体にも疑問が述べられています。この薬師像より、623年に作られた釈迦三尊像の方が古いのです。

この後背銘より、斑鳩寺は607年の創建と考えられています。
本当なのだろうか?斑鳩寺創建は斑鳩宮の創建より少し早いように思うのですが・・・?藤原の時代の「法隆寺資材帳」は全く信用できません。

創建の由緒を刻む斑鳩寺の本尊と思われるますが、創建時の本尊は610年の火災により焼失している。ですので、本来の創建斑鳩寺の本尊は焼失していると考えられます。

薬師如来信仰は、680年頃から盛んになったようです。ですので、この法隆寺の薬師如来像は、この時期以降に造られたものだと推測できます。
ですので、この後背の銘文は、おかしいわけです。もとは銘文なんてなかったのですが、この銘文は藤原氏によって法隆寺の由緒を変更するとき、739年に刻まれたものであると推測します。

法隆寺ではなく、斑鳩寺の由緒である。藤原氏による、法隆寺の由緒を変更する銘文である。この銘文の由緒により、斑鳩寺と現法隆寺は同じ寺のようになっている。これが、多くの謎を生む理由です。


阿弥陀三尊像・・・「西の間本尊」元の阿弥陀三尊像は、中世に盗難に遭ったため、新たに作られたものとされます?ですので元の阿弥陀三尊像にも何らかの由来が刻まれていたかは不明です。


問題は、観音菩薩像(百済観音)、救世観世音菩薩とです。ともに観音菩薩です。そうもう一体の仏像、等身大の観音菩薩があったはずです。
三体の観音菩薩が、金堂に祀られていたのです。本尊が三体の理由は三人を祀るための寺院だからです。

現法隆寺の中の本尊が、斑鳩寺の由緒を語る仏像であるので、これにより斑鳩寺と法隆寺は同じお寺になってしまって大きな謎となっている。
法隆寺は大王家の人物を祀る寺院であり、斑鳩寺は蘇我氏の寺院です。



最後に梅原猛氏「隠された十字架」から・・・
救世観音像の光背ついてです。

救世観音像には明らかに怨霊封じが行われている。それは言い伝えからでも明らかです。
この救世観音像の封印が解かれたのは明治時代です。岡倉天心、アーネスト・フェロノサにより、長年秘仏とされていたこの救世観音像は公開されることになりました。非常に良い保存状態で、今の世にお姿を現わしました。

夢殿を開扉すると、祟りがあると長年信じられてきました。
中に祀られていた救世観音像は、なんと約457メートルの木綿の布で巻かれた状態でした。これは、外に出るなという怨霊封じである。

「隠された十字架」において、この救世観音像の光背が直接後頭部に打ち付けられているということからも、法隆寺は怨霊封じのお寺であるとされました。

これはもう既に批判を浴びています。実際には直接に釘が後頭部に打ち付けられているわけではないようです?
また、他の仏像でも光背が直接後頭部に付けられていて珍しいことではないとされます。

ですが、後頭部に穴を開けていることには変わりない
この救世観音像に関しては、やはり怨霊封じの意味で後頭部に付けられているように感じます。

この救世観音像は、白い布で包まれていました。そして、この白い布は取らないように、世に出すなとの言い伝えがありました。怨霊が出て、天変地異がおこり災害がもたらされるということです。
つまり、これは怨霊封じがおこなわれているとしか考えられません。

この救世観音像は聖徳太子のお姿を写したものだとされます。私は、王子である山代大王(山背大兄王)のお姿であると思います。
するとですね、聖徳太子や山代大王の後頭部に穴を開け、光背を直接後頭部に付けるようなことをするだろうか?

普通は、光背は支え木を作り、これに光背を付けます。これが一般的であるのに、どうして像の頭に大きな光背の重みかかり、手間のかかる作業をする必要があるのでしょうか?凄く不思議に感じます。

この仏像は怨霊封じが行われているのは確実です。ですので、なおさらこれはあり得ないように感じるのですが・・・?

元は、支え木が作られ後背が付けらていたのだと思う。それが、怨霊封じ時に、739年に怨霊封じの意味で後頭部に付けられ、外に出れないように白い布で包まわれて庫裡にいれられ夢殿の中で怨霊封じが行われている。

これら大きな木製(クスノキ)の仏像は、別に支え木が造る必要があるように思います。それは、サイズと材質(強度)に問題があるように思う。



写真(隠された十字架) 観音菩薩像(百済観音)、救世観世音菩薩を見て下さいね。

光背を直接後頭部に付けている仏像は他にもあるようなのですが、それらは小さな金銅仏が多い。それは、金属は強度があるからでもあります。そして金属製の仏像においては、後頭部に穴を開けるという作業は必要としていない。鋳造する段階で取り付けられるような型どりをしている。

救世観音像は、仏像を完成してから穴をあけるという作業を行っている。
特に大きな木製の仏像の場合、全身をひとつの木材から掘り出すのが難しいものです。特に光背は大きなものであるので、仏像本体と光背を別に作らなければなりません。

ですので、穴をあけ金属、銅製の金具を付けて光背に繋げているようですが、後頭部に穴を開けていることには変わりない。
木製の、特にこの仏像のように大きな仏像の場合は、経年劣化により落下するおそれがあるように思う。光背の重量の問題です。

聖徳太子のお姿を写した仏像というのならなおさらですが、後頭部に穴をあけるようなことをするのだろうか?
私は、そんなことするはずがないように思う。

大きな仏像であるので、光背も大きなものです。光背の重みが、小さな接着点にかかり、もうすぐにでも落下しそうなように私には感じるのです。
幸いとでもいうか?布で包まわれていたことにより状態がよく落下する恐れはなかったのですが・・・。

梅原氏は祟りを封じ込めるためであると主張しました。私も同感です。



「聖徳太子二王子像」に倣った、三つの観音菩薩像。
本来の法隆寺の本尊は、中央に観音菩薩像(百済観音)、救世観音像、そして法輪寺の木造虚空蔵菩薩立像(観音菩薩像)であり、この三体の観音菩薩像が金堂に並んで祀られていたと推測するからでもあります。
全て木製の等身大の大きな仏像です。三人の大王たちです。

二体の観音菩薩像、観音菩薩像(百済観音)、法輪寺の木造虚空蔵菩薩立像(観音菩薩像)は、支え木が造られて光背が取り付けられています。
救世観音像だけ後頭部に直接付けられているのはおかしく感じるからでもあります。

これは、この救世観音像は、山代大王(山背大兄王)のお姿を写したものだからです。藤原氏は何故にこうも恐れたかというと、直接手を下して殺害したからです。

山代大王(山背大兄王)を、斑鳩寺において殺害したのは、秦氏、秦の川勝と、偽物中臣鎌足こと百済渡来人藤原鎌足である。藤原氏が法隆寺を恐れる理由です。そして大怨霊である長屋大王に繋がります。


法隆寺の怨霊封じは、すでに解かれています。構造も九間に造りなおされているため中央に柱が立つ構造ではありません。中門も創建当時の五間の奇数に建て替えるべきです。
夢殿に祀られていた救世観音(藤原氏により殺害された山代王(山背大兄王)も、包まれていた白い布は取り払われています。
怨霊だといっていますが、彼ら本来の大王を殺害したからです。恐れるのは悪いことをしたからに他なりません。

願わくば、本尊を「聖徳太子二王子像」の配置通り、本来の姿に戻してほしい。

押坂彦人大王(聖徳太子)である釈迦三尊像「中の間本尊」、山代大王(山背大兄王)である救世観世音菩薩(東の間本尊)、茅渟王である法輪寺の木造虚空蔵菩薩立像(観音菩薩像 西の間本尊)。

三つの観音菩薩は、三人の大王であり、創建時の本尊です。
現法隆寺は、天武大王により亡くなった大王家のご先祖様を供養する寺院です。


さらに長くなりそうなので次回に続きます。






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法隆寺七不思議の謎と怨霊封じ

2022年01月18日 | 聖徳太子の謎


法隆寺は七つの不思議があるといわれます。でも、もっと沢山の謎がある寺院です。創建はいつなのか?再建されているのか?という基本的なことに関しても大きな謎になっています。謎だらけの寺院です。
これは藤原氏によって由緒が変更され、怨霊封じのお寺になっているからです。

怨霊といえば誰でしょう?そう真っ先に思い浮かぶのは、藤原四兄弟を死に追いやった長屋大王ですよね。
どうして法隆寺に怨霊封じが行われたかといいうと、それは長屋大王が関係するのです。
 
この怨霊封じに関しては梅原猛氏による『隠された十字架』によって有名になりました。私も影響を受けた一人です。


今回は、多くの謎があるとされる法隆寺の七不思議と、怨霊封じに関わる西院伽藍の中門の謎解きをします(*^▽^*)

梅原猛氏は、西院伽藍の中門が、建築上においてもありえない、4間で中央に柱が立っているという不思議な構造から、法隆寺は子孫(山背大兄王ら上宮王家)を抹殺された聖徳太子の怨霊を封じるための寺なのではないかとの説を主張しました。

しかし怨霊信仰の成立が、奈良時代末期であることで批判を受けているようですが、・・・怨霊封じが行われているのは間違いありません。


本来は、法隆寺は天武大王の発願により、祖先を祀るために建立し始めた寺院です。
しかし長屋大王が藤原氏に祟った後に、怨霊封じの寺院となっている。西院伽藍の中門も祟った後に造り変えられている。怨霊が外に出ないようにと造り変えられている。ですので、怨霊信仰の成立の時期に関しても問題ない。


何度も記述しているところですが、この系譜が変更されている。だから謎になっているのです。
聖徳太子は、大怨霊である長屋大王に繋がるといことが分かれば謎解きは難しいものではない。以下の系譜においては、天武以外王座には就いていないとされますが、そうではない。
彼らは全員本来の大王です。これは、長屋王家とされる場所から出土した木簡、そして万葉集などからも明らかです。

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

法隆寺は天武大王によって造り始められ、王子である高市大王、その王子である長屋大王が受け継ぎ建立した寺院である。

法隆寺は長屋大王が関係することになります。長屋大王は本来の大王であり、在位期間に建立された寺院であるのです。創建の由緒が不明の理由です

本来の大王、大王家と対立していたのは渡来人である、秦氏や藤原氏である。
渡来人秦氏の王子である天智と、本来の大王である天武は兄弟ではない。
天智系天皇である桓武天皇の時代に、歴史は改竄されている。
長屋王が本来の大王であること、そしてその事跡が消されている。



まず、法隆寺七不思議がよく知られていますが、・・・でも創建の謎や、再建されているのかという問題の方が大きな謎ですよね。

隠された十字架から・・
よく知られているのは、この七つの不思議です。これらは古い言い伝えではなく江戸時代のものといわれます。

「法隆寺雑記帳」石田茂作
法隆寺には蜘蛛が巣をかけない
地面に雨だれの穴がない
南大門の前に「鯛石」とよばれる大きな石がある
五重の塔の九輪に四本の鎌がささっている
法隆寺の蛙には片目がない
夢殿の礼盤の下に汗をかいている
不思議な伏蔵がある

これらの謎は特に重要な問題でもないので、今回は怨霊封じについての謎に関するところ、ここでは、「鯛石」と「五重の塔四本の鎌」についてです。


*南大門の前に「鯛石」とよばれる大きな石がある。
奈良は盆地ですので、よく水害にあったようです。しかし水が南大門まできても決して法隆寺の境内にまで入ることはなかったそうです。
それで、魚の形をした石を据えたとされます。

法隆寺七不思議を調べていると興味深い記事がありました。この「鯛石」から、この若草伽藍の軸と平行に線を延ばしていくと、なんとキトラ古墳に行きそうなのです。延長線上にキトラ古墳にがあり、埋葬されていた人物に仏教の加護を与えるためではないかとも考えられてもいるそうです。

これ謎であるともされますが・・・
私の説は「高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者の謎」のところで記述してきましたが、キトラ古墳の被葬者は高市大王の王后である、阿部氏の娘、阿部明日香であるとする私には容易な推なのですが?
そう阿部明日香は、長屋大王のお母さんです。長屋王は阿部氏が関わる大王です。
法隆寺は長屋王の在位期間に創建された寺院です。おそらく長屋王が大王に即位した年、大宝元年である701年だと思うのですが・・・?
何度も記述してきたところですが、秦氏、藤原氏と対立してきた阿部氏の事跡や系譜が変更されている。

しかし、これはどうなのだろうか?延長線上にキトラ古墳・・・延長線上に、伸ばしたところに何か関係するのものがあるという謎?はよく聞きますよね。でも、ちょっと遠くないかな?
若草伽藍にあった寺院は、推古天皇の息子の竹田皇子を祀るためのお寺ですので、キトラ古墳の被葬者とは関係ありません。
長屋大王は関係するのですが・・・。

この南大門、実は、本来はこの位置にはなく、もう少し北側にありました。中門の南、東大門と西大門の通路の交わった壇上にありました。
おそらくなのですが、一屋もなく全焼したという創建斑鳩寺の何らかの心礎石(五重塔かな?)のように思うのですが?
この鯛石は、法隆寺(斑鳩寺)の謎を解く重要な遺物ですよ。
若草伽藍の西側に、創建斑鳩寺は存在していたように思います。


*五重の塔の九輪に四本の鎌がささっている
五重の塔の九輪の四本の鎌は、法隆寺が再建された時から取り付けられていたようです。しかしそうではなく、藤原氏によって怨霊封じが行われた時です。
落雷により焼失することが多くあるので、塔の上に鎌を掲げて落雷から守ろうとしたともいわれます。しかし何故に鎌なのでしょうか?刀や槍でもいいはずです。ですが、怨霊封じを行ったのが藤原氏であるのであれば簡単な謎解きであるともいえますよね。

何故に鎌なのかは、そう藤原氏の祖が藤原鎌足だからという推測は容易ですよね。怨霊封じを行ったのは藤原氏である。
五重塔の鎌は、聖徳太子とその怨霊が西院伽藍から外に出ないようにとの処置である。謎は怨霊封じに関係します。

西院伽藍の中庭に不思議な伏蔵があるというもの。

伏蔵とはお寺などで地中に埋めてある宝の蔵だそうです。法隆寺には、なんと三か所もあるようです。中庭に三か所、金堂の北東角、経堂の中、回廊の南西角に石の蓋があってその蔵の中には様々な財物が保管されているそうです。法隆寺に重大な危機が訪れたなら、これらの伏蔵を開いてその危機を切り抜けよという言い伝えがあるようです。
この時代、大王家は渡来人勢力との戦乱の中にいました。ですので、蔵の中には武器がしまわれているのかな?


このよく知られている七不思議の他に、石田氏は法隆寺を発掘した時に以下のような新たな七不思議を考えられています。

こちらの方が重要であり大きな謎ですよね。
*中門中央の柱
*金堂五重の塔の裳階
*中門・講堂中軸線の食い違い
*五重の塔の四天柱磁石の火葬骨
*三伏蔵
*五重の塔心礎舎利器に舎利無し
*若草塔の心礎

最も大きな謎は再建さたのかどうか問題ですよね。
とにかく法隆寺は謎が多すぎます。それは、本来の由緒が変更され怨霊封じが行われているからです。

調べてみると謎だらけです。以下のような謎も指摘しておきます。

これらの謎から、興味深い法隆寺の怨霊封じについて考えてみます。

*法隆寺の再建されているのか? 最も大きな謎です
*日本書紀、続日本記には何故に法隆寺創建の記述がないのか?
*創建の由緒がある、ふたつの仏像の銘文の違い
*若草伽藍にあったお寺が創建法隆寺なのか?
*日本書紀、天智条670年の火災の記事は事実なのか?
*斑鳩寺と法隆寺は同じお寺なのか?
*はたして怨霊封じのお寺であるのか?
*怨霊封じのお寺であるのであれば誰が祟ったの?、誰が祟られたのか?
*中門だけでなく、講堂も縁起がいいとされる奇数ではなく元は八間であった
*金堂・塔を囲む回廊の不思議な形と非対称
*講堂は今の位置ではなかったという言い伝えがある
*「資財帳」の塔の高さの記述と、実際の塔の高さの違い
*観音菩薩像(百済観音)の謎
*法隆寺は西院伽藍だけで十分なはずなのに、どうして東院伽藍が造られたのか?
*東院伽藍はいつ造られたのか?
*東院伽藍の救世観音像はどうして、白い布で包まれていたのか?
*救世観音像は光背を直接後頭部に付けられている
*どうして法隆寺の本尊は三つあるのか?
*古い由緒を刻む銅造薬師如来坐像より、623年に作られた釈迦三尊の方が古いのか?
*薬師如来像光背銘にある丁卯年(607年)創建は事実なのか
*何故に623年に作られた釈迦三尊が本尊なのか?
*現法隆寺の大きな釈迦三尊像には火災のあとがない
*金堂の仏像、本尊は堂の中心より前方に安置されている
*「唐本御影」の肖像は誰なのか?



今回は怨霊封じに関係するこれらの謎を考えてみます。

特に興味深いのは、梅原猛氏も指摘する中門中央の柱に関してです。

法隆寺の中門は伽藍の仏門になります。仁王像をはさんで二つの入り口があり、中央に柱が存在します。西院伽藍の中門は四間で中央に柱が立っているという特異なものです。これが本来ありえないのです。まるで、入ることを拒んでいるような構造である。

寺院の設計においては、縁起がいいとされる奇数を軸に行われます。通常は、門の入り口は一戸か三戸の奇数であり、法隆寺の中門のように入り口が二戸というのは他に例がないのです。
法隆寺では一戸を金堂に、もう一戸は塔に向かう入り口であると伝えられているようですが、本来はありえないのです。

発掘が進む現在においても、門の中央に柱があるという構造は、この法隆寺の中門以外見つかってはいません。

法隆寺の謎の中でも、怨霊封じと関わる最も興味深い謎ですよね。

聖徳太子は祟ったのです。では、どうして祟ったのでしょうか?
それは子孫一族が殺害されたからだと思われますよね。山背大兄王と一族は殺害され、上宮王家は絶えることになります。殺害したのは蘇我氏蘇我入鹿とされますよね。
でも蘇我本宗家は滅んでいて御怨霊封じなんてできないですよね。

聖徳太子が祟ったのは藤原氏です。山背大兄王と一族を殺害したのは、渡来人である、秦氏、藤原氏である。



怨霊封じに関係する、法隆寺中門の中央の柱の謎を解きます・・・

*中門中央の柱  *中門・講堂中軸線の食い違い

実は、中門を基点に東西に広がる回廊は左右対称ではなく、東の回廊の方が一間分長く造られています。東側に十一間、西側に十間です。これも謎だとされます。
このことと、上記の「中門・講堂中軸線の食い違い」という謎から、中門中央の柱の謎に関しては謎解けます。
法隆寺の中門同様に、この大講堂も怨霊封じのために造り変えられている。

東の回廊が一間分長いということは、中門を東に一間分短くして建て替えられているということです。ですので、構造中軸線も一間分ずれているのです。意図的に西院伽藍の中門を四間にし、中央に柱が立つようにして怨霊封じを行っているのです。
本来の創建法隆寺の中門の正面柱間は、一間長く五間あり、入り口は三戸あったのです。

「中門・講堂中軸線の食い違い」とはどういうことかというと、中門の中心線と講堂の中心線が一致していないということです。
しかしこの謎は、講堂の解体修理により謎解かれたとされます。
講堂は、現在は九間であるのですが、もとは八間だったということがわかり、八間の講堂の中心線は、中門の中心線と一致していたのです。

謎解かれたとされますが、そうではない。

この大講堂は平安時代の延長3年(925年)に焼失後の、正暦元年(990年)に再建されています。では何故に元は八間だったのに、元通りではなく九間に造りなおされているのでしょうか?

中門と同様に偶数の八間というのは本来あり得ないからです。偶数であれば中門の中心の柱同様に、講堂の中心にも柱が立つことになります。

再建された時に怨霊封じという意図が解らずに再建されたからです。本来は奇数というのが常識だったからです。
この八間の講堂は、創建時のものではなく、後の時代に怨霊封じのために造られたものです。長屋王が藤原氏に祟った後以降に、講堂も造りなおされたものです。

法隆寺創建時の講堂は、現在のものと同じく九間だったのです。すると講堂の中心線は、現在と同じく、中門の中心線と一致しないのです。

謎解きはここです。つまり、これは、講堂も中門も怨霊封じのために、中央に柱が立つように偶数で建て替えられているということです。中門も一間分短く作られているということです。

本来、正面柱間は四間ではなく、五間あったのです。すると回廊は左右対象となります。

創建時は共に奇数であり、五間の中門と九間の講堂の中心線は一致していたのです。
あたりまえのように思うのですが、創建時には東西に広がる回廊は左右対称(東側に十間、西側に十間)だったのです。

中門と講堂は怨霊封じ時に構造上ありえない(中心に柱が立つ)、偶数の間口で建て替えられているということです。

中門の中央の柱だけ注目されていますが、八間の講堂も中央に柱があったのです



そして、この現在の大講堂は、創建時の大講堂のあった位置に建てられてはいない。本来は、講堂はもっと金堂や五重の塔に接近した位置に建てられていたという言い伝えが残っています。怨霊封じの時に本来の位置より外側(北側)に造られている。それはもちろん創建講堂自体が残っていたからです。

長屋王が藤原氏に祟った後に、中門とこの大講堂も怨霊封じのため造りなおされている。中門と講堂を回廊で繋ぎ、重要な金堂や五重の塔を取り囲むようにし怨霊が外に出ないように封じている。大講堂も創建法隆寺のものではなく位置も異なるということです。



写真は法隆寺の配置図です。回廊の形に注目してください。金堂や五重の塔を囲む回廊の形が、「凸」の形になっているでしょう。
こんな形ほかにありません。創建時、金堂や塔を囲む回廊は長方形だったはずです。

大講堂自体存在していたので、北側に本来はありえない怨霊封じのための八間の講堂を造り、創建講堂を壊し(再利用している)、回廊を新たな講堂に繋いでいるのでこの「凸」の形になっているのです。八間の講堂は立て直されていたものであるという証拠です。

中門と講堂を回廊で繋ぎ、金堂と塔を長方形の形で囲むのが創建法隆寺の伽藍配置だったはずです。
ですので創建大講堂の位置も容易にわかります。長方形の上部の線上の中央の位置を中心(今の寺院灯篭の位置)に創建時の九間の大講堂が存在していたと推測しています。

「凸」の形になっているのは、外に講堂を造り回廊で繋ぎなおしているからです。
経蔵や鐘楼は、もとは回廊の外にありました。
回廊が「凸」の形になったのは、大きく長方形に形に繋ぐと、この経蔵や鐘楼が回廊の中になるからでもあります。
怨霊封じのために建てられた、八間の講堂は創建時の講堂ではなく、建設されていた場所も異なる。

創建時は、縁起がいいとされる奇数である。五間の中門と九間の講堂であり、東西に広がる回廊は左右対称(東側に十間、西側に十間)だったのです。
これ、まず間違いないように思うのですが(*^▽^*)
 
 
中門、四間であることによる中央の柱、そして八間の講堂では同じく中央に柱が立つことになります。怨霊が外に出れないように中央に柱を立て回廊で囲んで怨霊封じをおこなっているのです。

本来の法隆寺西院伽藍の中門は奇数の五間で、講堂も奇数の九間であり、回廊は左右対称であったということです。



創建時には、写真の寺院灯篭の位置に、縁起がいいとされる奇数である九間の大講堂は存在していました。怨霊封じが行われた時に、北側(今の位置)に八間の講堂が建てられました。八間の講堂は中央に柱が立ちます。

この八間の講堂が、焼失後には九間の講堂に造り直されたため、現在の大講堂の中心には柱が立つ状態ではないのです。


いつこれらの怨霊封じが行われたかというのは、「法隆寺再建の謎、・・・百済観音、救世観世音菩薩、銅造釈迦三尊像」のところで記述しています。

737年、藤原四兄弟は天然痘により相次いで病死します。これが長屋王の祟りだということで、法隆寺も怨霊封じが行われている。怨霊信仰の時期に関しても問題ありません。法隆寺は長屋王が関わります。

東院伽藍が斑鳩宮の跡に建立されたとされる、739年が怨霊封じが行われた年である。737年に亡くなったはずの藤原房前が僧行信に命じて739年に造ったという由緒からも怨霊封じを行ったのがこの年である。
つまり怨霊によって亡くなった藤原房前の復讐であるという意味が込められている。
長屋大王を殺害したのは、この藤原房前です。

この時、およそ二年間で怨霊封じのための西院伽藍の、中門、大講堂の再建設は完成していたように思います。怨霊が外に出ないようにとの門中央の柱である。

東院伽藍の夢殿の場所は、元は斑鳩の宮であり山代王(山背大兄王)の住居でした。この夢殿に祀られていた救世観音は祟らないように白い布で包まれて庫裡に入れられ怨霊封じが行われたのもこの時である。
東院伽藍は739年以前に既に建立されています。この年に建立されたのではなく、藤原氏による怨霊封じが行われた年ということです。

聖徳太子の王子であるこの山代王(山背大兄王)を斑鳩寺において殺害したのは蘇我氏ではなく、秦氏、藤原氏である。

そして、そう実は長屋王も法隆寺に深く関わるからです。

現法隆寺は、天武大王により、祖父の押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)や王子たち、父親である山代大王(山背大兄王)や孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王をを祀るお寺である。

何度も記述していますが、問題は以下の系図です。これが変更されている。

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー孝徳大王ー有間皇子

長屋王が藤原氏に祟った後に、この中門は怨霊封じのために造りなおしているということです。中央に柱を作って怨霊が外に出ないようにとの措置です。
怨霊とは本来の大王だった彼ら、押坂彦人大王(聖徳太子)、山代大王(山背大兄王)、長屋大王たちです。本来のこの系譜が変更されている。



聖徳太子の謎ですが・・・
蘇我馬子により、物部系の王である押坂彦人大王を、蘇我系の人物として取り込んだことによる謎、混乱である。
聖徳太子の父親である用明天皇は、欽明天皇と蘇我稲目の娘である堅塩媛で皇子であり、蘇我氏が関係する王です。

母親である穴穂部間人皇女は、名前からも容易に推測できますが物部の女性です。ですが、欽明天皇とこれも蘇我稲目の娘である小姉君との娘、つまり蘇我の女性であるとして系図が変更されている。
聖徳太子(押坂彦人大王)を、蘇我の系図の人物に取り込んでいる。

「天皇記」「国記」編纂時に蘇我馬子によって変更されたこの系譜を用い、さらに蘇我の王の呼称である「天皇」の呼称を用いて、秦氏の王である桓武天皇時に歴史を改竄したのが藤原氏である。

蘇我氏による変更系譜は天武系の人物により直されたのですが、彼らと対立していた藤原氏によって再度変更されている。推古天皇時に大王だったこの押坂彦人大王の事跡を他の人物(蘇我の系譜にいれられた聖徳太子)の事跡として変更されている。
大怨霊である長屋大王の、重要な祖先はこの聖徳太子こと押坂彦人大王です。
彼も祟ったと思われていたのです。
この系譜変更が、聖徳太子が大きな謎になっている理由です。

法隆寺は彼らを押坂彦人大王やその王子たちを祭るために天武大王によって造り始められた寺院です。
大王家の人々と対立していたのは、渡来人である秦氏や藤原氏です。多くの大王たちが殺害されました。戦乱で亡くなったこれら大王たちを祀る寺院がこの法隆寺だったのです。



*金堂五重の塔の裳階の謎

法隆寺の金堂と五重塔には、下層部に裳階が設けられています。裳階は薬師寺や東大寺でも観ることができます。この裳階の存在により、法隆寺の創建年が推測できます。
薬師寺は天武九年である、680年に天武大王の発願により造り始められた寺院であり、裳階はこの時代の建築様式であるとされます。ですので法隆寺とは時代が異なるとして謎となっているのです。

ですが、そうではない。もうすでに何度も記述してきたところですが、法隆寺も同様です。西院伽藍の金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採だとされます。

おそらく、白村江の戦に敗れ、その後の672年の壬申の乱以降、渡来人勢力が弱体化した時に、天武大王の発願により造り始められた寺院です。再建されたのではありません。

天武大王の在位期間は、壬申の乱(672年)の翌年である673年(本当の即位年はもう少し前の667年です)から崩御年である686年とされます。大王に即位後、おそらく667年頃から造り始められている。
まず金堂から造り始めるでしょうから、680年頃には完成していたように思います。裳階は最後に付けられたように思います。


法隆寺の再建に関しての問題・・・
法隆寺と若草伽藍にあった斑鳩寺は異なる寺院です。
ただし、塔心など再利用出来るものは若草伽藍にあった寺院から、法隆寺に移築され利用されている。

法隆寺の原資料、「聖徳太子伝補闕記」においての、「庚午年四月三十日夜半有災斑鳩寺」との記述により、干支による表記のため、日本書紀編纂時に間違って670年にあてたものであって、本来は全焼したのは60年前の庚午年である610年だったのでないのかという説です。

矛盾なく説明できるのはこの説以外ありません。

607年に斑鳩寺が創建されたのですが、610年に全焼したということです。そして蘇我の皇子である推古天皇の息子の竹田皇子没後(624年)に、若草伽藍の場所に新たに創建された寺院、これが再建斑鳩寺である。
母親である推古天皇や蘇我馬子によって、竹田皇子をまつる釈迦三尊を本尊とするお寺が造られているのです。

670年に一屋も残さず焼けたとされているのに、623年に造られた現本尊の大きな釈迦三尊像が火災にあったような跡がない。このことからも、火災は610年です。

ではどうして670年に充てられてしまったかかの理由は、干支による表記だったということと、実際にこの年に斑鳩寺で火災があったからです。

これは日本書紀の記述から推測できます。天智天皇条にあります。
日本書紀は天智系天皇である桓武天皇時に改竄されています。
天智が天皇に即位したというのはこの桓武天皇の改竄時のものです。元の日本書記には天智天皇条なんてありません。

この時、670年に、本来の大王だったのは孝徳大王です。
孝徳大王は渡来人との争いで亡くなっている。崩御年は壬申の乱の少し前の672年です。
この年672年1月、孝徳大王により、戦争責任者である、天智天皇が殺害され唐に渡されたたことによる争いで亡くなっている。
その後、戦乱は7月の壬申の乱に繋がります。

日本書紀 天智天皇条・・・
十二月、災大藏。是冬、修高安城、收畿內之田税。于時、災斑鳩寺。

夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。
      *********************

斑鳩寺と、法隆寺を書き分けています。若草伽藍にあった寺院は斑鳩寺です。

この記述「夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震」は、記紀を改竄した桓武天皇時に、天智天皇条を作った時に、干支による表記のため間違って挿入されたものです。

「聖徳太子伝補闕記」では「庚午年災斑鳩寺」と記述されていて、「庚午年災法隆寺」ではないですよね。

法隆寺創建は700年頃です。法隆寺の名称はこの時のものです。ですので元資料では、こう「庚午年災斑鳩寺」記述されているのです。

斑鳩寺と法隆寺は別のお寺ですが混同されている。それは、法隆寺由緒を変更し、斑鳩寺と同じ寺であると変更したことによるものです。

それは、上記しましたが、日本書紀の天智条は、天智系天皇である桓武天皇の時代、続日本紀が編纂された797年頃に作られたものです。
この時代は秦氏、藤原氏の時代です。この続日本紀の内容に合わせて日本書紀、古事記は改竄されているからです。改竄時には法隆寺由緒を、斑鳩寺の由緒に変更されていたからの混乱です。

秦氏の王子である中大兄皇子が、天皇に即位できるわけありません。天智系天皇であり秦氏の王である桓武が、天皇に即位したとするには、天智もまた天皇に即位していたとする必要があったのです。この「天皇」の呼称を使用して歴史を改竄している。

本来はもちろん「大王」であり、本来の日本書紀には「大王」と呼称されていたはずです。
この元の日本書紀、孝徳大王条の670年に、斑鳩寺の火災の記事があったことと、「庚午年」という干支があっていたので間違って挿入したためです。


若草伽藍にあった斑鳩寺は、この年に火災にあってはいますが、全焼という状態ではなかったのです。
一屋も残さずに焼けたという状態であるのなら、若草伽藍の跡地に再建すれば容易です。
しかし現法隆寺の西院伽藍は、山の斜面を削ったり、谷を埋めたりする大きな作業が必要な地に建てられています。

若草伽藍は、金堂と塔が南北に並ぶ配置、飛鳥式です。しかし現法隆寺は、東西に並ぶ配置です。再建ということなら、伝統を受け継ぐという意味からもこの伽藍配置の違いはありえない。

このことからも、若草伽藍にあった斑鳩寺と、現法隆寺は異なるお寺であるということがわかります。
つまり若草伽藍にあったお寺は再建斑鳩寺であるのですが、現法隆寺とは異なるお寺であるということです。祀られている人物が異なります。

法隆寺は大王家の寺院です。若草伽藍の寺院は蘇我氏が建立した寺院です。

ただし、この若草伽藍にあった塔心などは移築されている。再利用できるものは再利用している。
再建されているのは若草伽藍の斑鳩寺です。現法隆寺は、再建された寺院ではありません。



この薬師寺に関して少し書きますが、・・・
薬師寺は天武天皇が、後の持統天皇である鵜野讃良皇后の病気平癒を祈願して建立を発願したというのが定説です。

しかしこれも間違っています。680年の時、天武大王の王后は、額田王です。薬師寺縁起には、額田部姫王と記されていて大王家の女性です。
そして額田天皇だったはずです。天皇の呼称は、王后の呼称です。
次の王后が持統天皇です。持統天皇の即位は690年です。ですので額田王が亡くなったのは689年頃です。この時代「天皇」とは女帝の名称でありました。
薬師寺は王后であった額田天皇の病気平癒を祈願して建立を発願したというのが真実です。
額田王は何故に額田部の姫王なのかは、「額田王の謎と推古天皇」で記述しています。
この系図です。

額田王の系譜・・・
宣化天皇ー上殖葉皇子ー十市王・大伴 金村の娘の大伴糠手古ー大伴皇女

大伴皇女(額田部皇女)・敏達天皇ー糠手姫皇女

押坂彦人大兄皇子・糠手姫皇女ー桑田王・鏡王ー鏡王女、額田王

額田部皇女とは、推古天皇のことではない。敏達天皇の最初の皇后はこの大伴皇女であり、彼女が額田部皇女です。
この大伴皇女(額田部皇女)から繋がるのが額田王であり、聖徳太子こと押坂彦人大王の孫娘であり大王家の女性です。額田王は天武大王のいとこです。

明日香池工房跡から、「天皇」の文字が記された木簡が出土しています。
「天皇聚露弘□□」と記された木簡です。
意味は不明のようなのですが、おなじ場所から、天武天皇の時代677年の木簡も出土したことにより、この「天皇」とは天武天皇のことだとされ、天武朝には天皇号が存在していた資料だとされます。

ですが間違っています。天武は「大王」です。何度も記述しているところですが、この木簡の「天皇」とは額田王のことです。天皇の呼称は女帝の呼称、つまり、天武大王の王后のことです。額田天皇ということです。
天皇とは本来は蘇我の王の呼称であり、初代天皇は推古天皇です。


天武大王と額田天皇の王子が高市王子であり、大王に即位していました。
万葉集、柿本人麻呂の挽歌から推測できますが、この高市大王と阿部氏の娘である、阿部明日香との王子が長屋王です。
万葉集や木簡からの推測では、長屋王も大王でした。この系譜が変更されている。長屋王は阿部氏の大王であるのです。

万葉集、柿本人麻呂は、天武大王の第一王子である、この高市王子を「大王」だと詠んででいます。
長屋王家とされる場所から出土した木簡の記述からの推測では、高市王子大王に即位していました。
高市大王、長屋大王の時代でも「大王」です。

  万葉集・・・巻二(一九九)柿本人麻呂 高市大王への挽歌の最後のところです。

我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや・・・ 
      
わが大王(高市大王)が、万年の世までと考えお作りになった「香具山の宮」は、万年の世を過ぎてもなくなることは考えられない。
        **********************************
高市大王の宮の名は「香具山宮」であり本来の宮の名称です。「藤原宮」なんて、宮の名を臣下の名で呼ぶことなんてありえません。
何度も言いますが。これは変更する必要があります。古代の歴史は変わりますよ。



*五重の塔の四天柱磁石の火葬骨  *五重の塔心礎舎利器に舎利無し

さらにこの五重の塔に関しての不思議な謎に関してですが、難問だけど怨霊封じということから推測すれば解決するかな?

実はこの塔に関しても、さらなる大きな謎があます。塔もまた建て直している可能性もあるともいわれます?


「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」においては、塔の高さが十六丈と書かれているのに実際の法隆寺の塔は、およそ三分の二の高さしかないようなのです。これは造りかえられているとしか考えられないとされます。
何らかの手違いがあったのだろうか?
怨霊封じを行った時に、塔も造り変えられたのだろうか?この可能性も考えたのですが・・・?これは大きな謎ですよね

この塔は古い尺度(高麗尺)で記述されているのではという説があるようです。この説が正解のように思います。
どういうことかというと、簡単な話ですが、若草伽藍にあった斑鳩寺は、一屋もなくという火災などにはあってはいなく、塔の心柱などは、再利用されているということです。塔だけでなく、金堂、回廊など再利用されている。これしか考えられないように思います。

これも法隆寺の原資料において、「庚午年災斑鳩寺」と干支による表記のため間違って挿入されたことが関係する。
上記しましたが、670年の火災は一屋も残さずという状態ではないということです。塔は残っていたのです。利用できるものは再利用している。

そう、この塔の心柱は若草伽藍(624年に竹田皇子が亡くなった時に造られた寺院)の塔の心柱が移築されている。
ですので、若草伽藍創建時に計測された、記述の高さそのままであり、古い尺度、高麗尺が用いられている。

そして、この「若草塔の心礎」の謎です。
心礎も再利用する予定で運ぼうとしていたのだけど、重かったのかな?あるいは他に良い礎石が見つかったのかな?利用されずに残っています。この謎は、若草伽藍の塔の心柱だけは再利用しているという証拠であるように思います。

おそらくですが、再利用しようとしていた、心柱の下部が土に埋もれていたため状態がいいものではなかったのでしょう。心柱の下部を切断し、心礎の石をふたつ重ねて高さを調節しようとしたのだと思うのですが?
あるいは、心柱を再利用しようとしていたのだけど、土に埋められていた下部が腐っていたため、新たな心柱を使用したのかもしれません。高さを調節しようとしたのだけど、その必要がなくなったので、掘り出された状態のままであるのか?
現五重の塔は心柱の下部を補強する形で造られています。


日本書紀の天智天皇条のこの記述「夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震」は、法隆寺原資料において、「庚午年災斑鳩寺」と干支による表記のため間違って挿入されたということです。
607年創建の斑鳩寺は、庚午年の610年に全焼しているということです。

つまり、若草伽藍にあったお寺は、推古天皇の皇子である竹田皇子が亡くなった624年以降に造られた再建斑鳩寺であるということであり、蘇我氏が造ったお寺ともいえます。

この若草伽藍の再建斑鳩寺と、現法隆寺は異なる寺院です。


それでは、このふたつの謎はどう説明したらいいのだろう?
*五重の塔心礎舎利器に舎利無し *五重の塔の四天柱磁石の火葬骨  

隠された十字架 梅原猛 ・・・
 
法隆寺の塔は現身往生の塔といわれる。この塔から太子の子孫二十五人が、突如、西に向かって飛行したところから、そう名づけられたという。
太子の一生をえがいた絵巻には、必ず、この塔から太子の子供たちが西の空に向かって、空中高く飛行している絵が描かれている。
    *************************
法隆寺は、天武大王によって造り始められた、大王家の祖先を祀るための寺院です。五重の塔は現存最古の木造の塔です。
法隆寺傍の斑鳩の宮は、父親である山代大王(山背大兄王)の宮であり、斑鳩寺で山代大王(山背大兄王)は殺害されている。その供養のためのお寺です。

法隆寺は、聖徳太子こと押坂彦人大王はもちろんですが、王子であり、天武大王の父親である山代大王(山背大兄王)の関りが多く語られています。

五重塔に埋められる骨は、この二人をおいて他にはないように思うのですが・・・?
この系図です。
押坂彦人大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王(山背大兄王)―天武大王―高市大王―長屋大王

まず、「五重の塔心礎舎利器に舎利無し」ですが、・・・
本来は釈迦の舎利が埋められるということですが、そんなのもちろんあるわけないでよね。
聖徳太子を祀るということであれば、聖徳太子の舎利が埋められているのだろう想像できますよね。

法隆寺は天武大王が造り始めたお寺であり、皇祖と仰ぐ、押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や、王子たち、父親である山代大王(山背大兄王)や茅渟王を祀るお寺である。

「聖徳太子御陵、見瀬丸山古墳の謎」のところで記述してきましたが、天武大王は皇祖(王祖)と仰ぐ押坂彦人大王のお墓を移築し巨大なお墓(見瀬丸山古墳)に造りなおしている。この時に少量の舎利を舎利器に移し五重の塔の心礎の下に埋めたのだろうと考えています。

この見瀬丸山古墳は元は、押坂彦人大王の王子である山代大王(山背大兄王)のお墓でした。
そこに蘇我氏の墓域であった磯長に埋葬されていた、聖徳太子こと押坂彦人大王を移葬し、巨大な前方後円墳に造りなおしている。

ですので、聖徳太子こと押坂彦人大王の舎利が埋められていたのですが、怨霊封じの時に取り除かれている。
押坂彦人大王の後胤と対立していたのは、秦氏、藤原氏です。この押坂彦人大王は大怨霊である長屋大王に繋がる重要人物、聖徳太子です。

聖徳太子も祟ったと考えられていたのです。

それで、難問のこれ、「五重の塔の四天柱磁石の火葬骨」ですが・・・
これ誰の遺骨なのだろうか?火葬骨というのであれば推測できるかな?

西院伽藍の場所は、山の斜面を削り、谷を埋める作業を行い敷地を整備しなければなりません。その後、まず金堂から造り始められまるはずです。おそらく680年代頃には完成していたと思います。次に塔の建設に取り掛かるわけです。見瀬丸山古墳の築造、移葬時期もこのころです。

法隆寺に関わる重要な人物は、上記の系図の大王たちです。火葬が始まった時期は700年とされます、この年以降の火葬骨というなら長屋大王しかないようにも思うのですが、そうではないように思う。

五重の塔の東北隅の四天柱の下の磁石に、円い鉢型の穴が掘り込まれそこに火葬された骨が埋められていたようなので、塔が完成した後に関係者の骨が埋められたということはありません。塔が造り始められた時期に、埋められているということです。ですので長屋大王ではない。

誰の骨でしょうか?上記したように塔に関する由緒のようなものからも、山代大王(山背大兄王)の骨だろうと想像できますよね。
ですから、山代大王(山背大兄王)の遺骨だろうという説はあったようです。
ですが、崩御年643年から火葬が始まったとされる時期とはかけ離れるのでありえないともされます。しかしそうではないように思います。

仏教は火葬ですよね。お釈迦さまの舎利も火葬されたものです。ですので、この仏教寺院である五重の塔に埋められる目的で火葬されたのだと思います。

これも、上記したことと同様で、天武大王によって、見瀬丸山古墳が大きく造りなおされる時に少量の骨を火葬して塔に埋められている。これは火葬が始まった時期でもある。
見瀬丸山古墳は元はこの山代大王(山背大兄王)のお墓である。

五重の塔心礎舎利器には、聖徳太子こと押坂彦人大王の遺骨がったのですが、怨霊封じ時に取り除かれている。
五重の塔の四天柱磁石の火葬骨は、王子である山代大王(山背大兄王)の遺骨です。見つからづにそのまま残っている。



法隆寺はいつ創建されたのでしょうか?これも大きな謎ですよね。

日本書紀、続日本記には、法隆寺創建の記述はありません。
若草伽藍跡が焼失した創建法隆寺の跡であり、現法隆寺は再建されているということが定説です。しかし何時再建されたかの記述がありません。

若草伽藍にあった寺院は、推古の息子である竹田皇子を祀るための寺院です。現法隆寺とは別の寺院です。624年に竹田皇子が亡くなった頃、蘇我氏、蘇我馬子より造り始められた寺院です。

現法隆寺は、天武大王が、祖父の押坂彦人大王と二人の王子、父親である山代王(山背大兄王)と斉明天皇、孝徳大王の父親の茅渟王を祀るために造り始めた寺院です。

何故に創建の記述がないかというと、法隆寺は長屋大王の在位期間に創建された寺院だからです。天武大王によって造り始められ、完成は長屋大王の在位期間です。彼ら本来の大王と争っていたのは秦氏、藤原氏です。

私が思うのは、法隆寺創建は701年です。天武大王の在位期間、上記しましたが、673年頃から造りはじめられ、大宝元年である長屋王が大王に即位した年に創建されていると考えています。

続日本記において法隆寺が登場するのは和銅八年、715年です。もうすでに法隆寺は建造されています。和銅四年、711年に塔の塑像と中門の仁王像が造られたとされます。ですのでこの711年に完成したと主張する
人もいます。

しかし創建に関してははもっと以前であるように思う。
ここももう既に何度か記述してきましたが、
701年は長屋王が大王に即位した時です。701年から729年までが在位期間です。
孝徳大王と中臣鎌足が関わる、談山神社の創建も大宝元年(701年)です。長屋大王が、渡来人との戦争でこの地で亡くなった、孝徳大王の時の左大臣だった本来の中臣鎌足を祀るために建てた寺院です。

そして紀南のお寺である道成寺も同様です。長屋大王が有間皇子や、塩屋鯯魚など戦争で亡くなった人々を祀るために建てたお寺です。
創建は大宝元年である701年です。
法隆寺もまた、この年に創建している。

それは、法隆寺本来の本尊である、観音菩薩像(百済観音)がこの時期に造られているからです。飛鳥時代後期である680年~690年に造られた仏像であると推測されています。

つまり上記してきましたが、現法隆寺は、天武大王が、祖父の押坂彦人大王と二人の王子、父親である山代王(山背大兄王)と斉明天皇、孝徳大王の父親の茅渟王を祀るために造った寺院であり、在位期間に造り始められている。

天武が大王に即位した673年頃の着工から、創建は長屋王が大王に即位した大宝元年である701年である。
そして、この法隆寺の本尊として造られたのが、この百済観音(観音菩薩像)であり、モデルは聖徳太子こと押坂彦人大王である。


長文になりそうなので次回に続きます。
この謎の仏像ともいわれる百済観音(観音菩薩像)など、法隆寺の本尊に関してです。何故に本尊が三つもあるのか?
法隆寺の謎を解く大きな鍵ともいえます。










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四天王寺創建の謎と物部守屋

2021年01月20日 | 聖徳太子の謎


四天王寺は聖徳太子建立七大寺の一つとされ、法隆寺とともに確実に聖徳太子が創建に関わったとされています。

上宮聖徳法王帝説・・・
太子起七寺 四天皇寺 法隆寺 中宮寺 橘寺 蜂丘寺(并彼宮賜川勝秦公)池後寺 葛木寺(賜葛木臣)

しかし、聖徳太子が勝利を祈願して四天王を安置する寺を造ったというのは後の創作である。蜂丘寺(広隆寺)を、秦氏、秦河勝に賜うと記述されているところから推測できますが、「上宮聖徳法王帝説」は、秦氏の王である桓武天皇や藤原氏によって改竄された歴史を基にして作成されたものである。
聖徳太子の名のもと、本来の大王たち事跡が消されている。

今回は四天王寺創建の謎について考えてみます。
法隆寺とともに聖徳太子が関わる四天王寺なのですが、この四天王寺も多くの謎がある不思議な寺院です。四天王寺もまた移築再建されているとされます。

これもふたりの聖徳太子が関わります。
推古天皇元年(593年、本当は厩戸皇子こと押坂彦人大王の法興元年)に造立が開始されたとされます。別称も、荒陵寺・難波大寺・御津寺・堀江寺など複数あります。日本最古の寺院のひとつとされます。
聖徳太子の発願により、587年に難波玉造に建立され、その後この593年に荒陵東岡(現四天王寺の場所)に移築されたとされます。

しかし、この創建の由緒が変更されている。
この「難波大寺」というのが、現四天王寺の本来の名称である。

前回からの続きになりますが、法隆寺に関してはその創建の由緒は変更されている。そしてこれも聖徳太子が関わる四天王寺もその由緒が変更されているように思えてきました。

四天王寺の由緒に関しては、日本書紀の記述によると、物部氏と蘇我氏の争い、物部守屋と蘇我馬子が争った時に、聖徳太子が争いの形勢が不利の状態にあった時、四天王像を彫り、戦いに勝利したなら寺院を建立するとの請願をしたとされます。

勝利を収めた蘇我氏、聖徳太子はこの四天王像を安置めするために造られたのが四天王寺とされます。つまり蘇我氏が造ったお寺だといえます。
この日本書紀の記述は本来の由緒を改竄する文章である。

四天王寺は聖徳太子が建立した七大寺の一つであるとされ、当然聖徳太子が建立の発願をしただろうと思われますが、日本書紀には誰が発願したかについては記載されていません。法隆寺とともに、実際に聖徳太子が関わったお寺であるとされますが、残念ながらそうでない。四天王寺も法隆寺も、「太子ゆかりの寺」であり、創建には関わっていない。

古代、難波、難波津と呼ばれていた台地に存在します。地形的にはいまよりはるかに湾が入り込んでいました。この地は大和の地から一番近い港とも言え重要な地域です。何故にこの地に四天王寺は造られたのだろう?

大陸との交通の起点にあたる場所であり、外交においても重要な場所でありました。孝徳大王の時代には、朝鮮半島の動乱に唐が関係するようになり、唐、百済、新羅、高句麗など多くの外国船が訪れる港でもありました。

中国や朝鮮の船はまず、九州に上陸し、瀬戸内海を通りこの難波の港に上陸します。ここから人や物は大和川を利用し奈良盆地にはいります。


難波には古代、宮がありました。それは、仁徳天皇が最初に難波宮を置いたとする難波高津宮です。
後に孝徳大王がこの地に宮を置きました。難波長柄豊碕宮です。それは外国との応接には極めて利便がいい場所だからです。
この難波の宮の傍にあるのが四天王寺です。上町大地と呼ばれているところです。
何度も記述しているところですが、激しく敵対していた秦氏や藤原氏によって、孝徳大王や、左大臣だった阿部氏の功績を消し去っている。

四天王寺は孝徳大王の発願により、難波の地に都を遷した時に建立された寺院である。

法隆寺とともに、この四天王寺もまた謎多き寺院です。
毎月弘法大師の命日である21日、そして聖徳太子の命日である22日には骨董市が催されて、大阪に住んでいる頃はよく出かけていました。大きな石の鳥居が存在しているのことが不思議に感じていました。

四天王寺は南北に配置される四天王寺式伽藍とされます。寺院ですので南大門が正門ですが、南北に一直線上に並ぶ配置なので正門からの景色がよくない。
四天王寺は、東門から入るほうが全体を見渡せるのです。ほとんどの人はこの東門にある鳥居をくぐって四天王寺に向かいます。

そして、さらなる大きな謎は、四天王寺には物部守屋の祠があるのです。
石の鳥居を通り、西重門をくぐり、そのまま東重門を出たところに物部守屋の祠があります。東西に神社が存在しています。

これは、まるで守屋を祀る神社の上に寺院が造られているような不思議な構造です。
そう私には感じるのだけど・・・?(*^▽^*)

どうしてここういう神仏融合の奇妙な構造の寺院になっているのか?どうして南北配置の伽藍なのか?その謎について考えてみます。

この奇妙な伽藍配置は、東西に並ぶ神社に重ねて南北に並ぶ寺院を建設したからではないのかな?上空からの地図で見るとよくわかります。
守屋はやはり寺院ではなく神社に祀られたいでしょうからね。



四天王寺は、南北に南大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線上に並ぶ四天王寺式伽藍配置とされます。この伽藍配置はこの四天王寺から始まったとされます。若草伽藍にあったとされる法隆寺(本当は再建斑鳩寺)も、同様の伽藍配置であるのです。593年、四天王寺が造り始められ、その後607年に若草伽藍と呼称される場所に法隆寺が造り始められとされます。

しかし、出土した瓦(素弁八弁蓮華文軒丸瓦)からの推測では、四天王寺の方が後で造られているのです。
瓦からの推測では、若草伽藍にあったお寺より後に造られている。銘文にあるように四天王寺が593年に造り始められ、法隆寺が607年に創建されたとするとおかしいのです。出土した瓦からの推測では、もっと後の時代の創建であるのです。

ウイッキペディア・・・四天王寺

四天王寺が推古朝にはすでに存在したことは考古学的にも確認されている。前期難波宮(難波長柄豊碕宮、現・大阪市中央区法円坂)の下層遺構から瓦が出土するが、この時代の日本において瓦葺きの建物は仏教寺院のみであり、これらの瓦は四天王寺の創建瓦とみなされている。したがって、孝徳天皇が前期難波宮に遷った7世紀半ば以前の推古朝にすでに四天王寺がこの地に存在したことがわかる。

四天王寺の創建瓦の中には、斑鳩寺(法隆寺)のいわゆる若草伽藍(現存する法隆寺西院伽藍の建立以前に存在した創建法隆寺の伽藍)の出土瓦と同笵の軒丸瓦がある。若草伽藍と四天王寺の同笵瓦を比較すると、前者の文様がシャープであるのに対し、後者は瓦当笵に傷がみられる。このことから、若草伽藍の造営が先行し、同伽藍の造営が落ち着いたところで、瓦当笵が四天王寺造営の工房へ移動したことがわかる。
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このウイッキペディアの文章からの推測になります。孝徳大王の難波長柄豊碕宮の下層遺構というのが、元の四天王寺(寺院の建設が始まった時期であるのでこの推測は間違っていないように思います。)であるというのなら、今の場所に建立されている四天王寺はこの孝徳大王の建立した寺院である。

この難波の地に宮を建設した時に移築されている。つまり、今の場所に建設されている四天王寺は、孝徳大王が都を難波に遷した時期に造られたものである。
そして出土瓦からの推測では若草伽藍にあったお寺と、移築された元の四天王寺は建設時期が近いということです。
若草伽藍にあったお寺が造られたあとに、四天王寺は建設されているということです。
この若草伽藍にあったお寺は、創建斑鳩寺(法隆寺)ではなく、再建斑鳩寺である。
この再建斑鳩も元の四天王寺も、推古天皇息子である竹田皇子が亡くなった時(624年)に建設し始められたお寺である。

孝徳大王の難波長柄豊碕宮というのが、物部守屋の「守屋の難波の宅」と呼ばれる本地の一つである。
この難波長柄豊碕宮近くに位置する鵲森宮(森の宮神社)には、四天王寺がこの地にあったとの由緒が残っています。聖徳太子は両親を現在地に祀って寺の鎮守とし、その森に四天王を祀る寺を造ったとの由緒です。

この場所に聖徳太子の発願により、・・・という由緒ですが、元の四天王寺は、物部守屋が祟ったので,その霊を鎮めるために、蘇我氏、蘇我馬子や推古天皇の発願により造られていたと推測しています。聖徳太子が亡くなってから造られたお寺である。蘇我氏との争いで亡くなった人々を祀ったのです。聖徳太子が祀られているわけではない。

ただし、この時どの仏が祀られていたかは不明です。四天王像ではなかったように思います。
だから蘇我氏によって造られたこのお寺は、四天王寺とは呼ばれていなかったように思います。
後に孝徳大王によって造られた、現四天王寺とは別のお寺である。

四天王寺誌  守屋の奴と宅とを分けて、寺の、田荘となし給ひ、寺号を四天王寺と定め給ふ

これは、守屋が亡くなった後、守屋に仕えた者たちが、四天王寺のにったという伝説がが残ることからも推測できます。
この地に造られた四天王寺は、蘇我氏との戦いで亡くなった守屋らの霊を鎮めるためのお寺である。
難波長柄豊碕宮建設時に、このお寺を移築したため、今の四天王寺には守屋が祀られている理由です。
この時に四天王像が安置され四天王寺とも呼ばれたと思います。ですので四天王寺は移築されたのではないともいえます。
つまり四天王寺は孝徳大王によって創建された寺院であり、聖徳太子は創建に関わっていない。



もともとこの地、上町台地周辺は守屋の屋敷があり物部氏の土地だといえます。重要な拠点は物部の土地です。それは大王家は物部が関わるからです。
南北に伸びる丘陵地の北部に位置し、宮の場所としては絶好の場所に位置していたため、四天王寺はここより南部に移築されている。

孝徳大王の時代、朝鮮出兵をめぐって渡来人との激しい戦乱の中でした。
戦乱の中、孝徳大王は、飛鳥の地を離れこの難波の地に宮をおきました。

後の時代にも、この場所には大阪城が建設されていることからも推測できます。
織田信長は、この地にあった石山本願寺を明け渡す要求をしています。
それは、城を築城するには絶好の地形にあったからです。南北に細長い上町大地の北部に位置します。周囲は海に面し、南部は川が流れます。
周囲を水で囲まれ、これは自然の堀のような役目をもつ、まさに自然の要害だったからです。守りやすく容易に海に脱出できます。移築した理由です。


まずこの守屋の難波の宅に、蘇我氏、蘇我馬子や推古天皇より守屋祀った寺院が造られていて、その後、蘇我本宗家が滅び、孝徳大王により、この地に都を造る時に、現在の場所に阿部氏の協力のもと本格的な寺院が建設されている。

高くそびえる塔、金堂、そして中には金色の仏像、もともと寺院の方が豪華で華麗ですので、この重要な地(外国船を迎える場所)にはふさわしかったのかな?しかし物部氏は神道側の人物です。守屋を祀るため神社を寺院の中に建設したのだと思います。
出雲大社のような例外はありますが、神社はもともとは大きな建造物はありませんでした。仏教導入後に対立するように、神社にも神様を祭る社殿ような建物が建設されるようになりました。この時代はいまだ祠のようなものでしかありません。

古代、地形的には四天王寺の西側すぐは海岸線でした。
南北に並ぶ寺院を建設した本来の理由です。そう、南北に並ぶ伽藍配置は海から、つまり西側からの景色がいいのです。多くの外国船に対しその国威を誇示するというのは重要なことです。

四天王寺はこの西からの景色が一番美しい。
上陸した外国からの使節団にとっては西側が正門になります。ですので、西側からの景観がいいように、四天王寺は南北の伽藍配置となっている。
四天王寺は孝徳大王が難波の地に都を造ったときに造られた寺院である。難波京の難波大寺であり、外国からの使節団を迎える場所でもあるわけです。
もともとは守屋の霊を鎮めるためのお寺であったため、移築した時に、守屋は神社に祀られその上に寺院を建設している。
難波大寺が本来の寺の名であり、四天王寺は別称である。


四天王寺創建  四天王寺HPから・・・
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました
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推古天皇元年(593)に建立されたとされますが。この由緒は本来の由緒を消し去るためのものである。聖徳太子信仰が盛んになった時の伝説である。
秦氏、藤原氏と激しく対立していた孝徳大王の事跡を消し去られている。

四天王寺は移築されたという伝説が残ります。
推古の息子の竹田皇子が亡くなった後(624年)に、蘇我氏蘇我馬子や推古天皇によって、まず物部守屋の難波の宅に造られたのが本来の由緒である。
しかしこの時には、四天王像を安置していなかったように思います。
物部守屋の難波の宅の場所は、後の孝徳大王の難波の宮、難波長柄豊碕です。この時に現在の地に移築し四天王寺が建設されている。

それは、物部守屋が祟ったと思われていたことにほかならない。守屋が祟って、蘇我の皇子であり推古の息子である竹田皇子は亡くなったとも思われていたのです。ウイルスによる天然痘だと思われますが、古代の人にとっては原因不明の得体のしれないもでしかありません。

守屋が「寺つつき」という妖怪になり四天王寺をつついて破壊しようとしたという興味深い伝説があります。蘇我氏は仏教の力で怨霊を抑えようとしたのです。
つまり、四天王寺の本来の由緒は、物部守屋が祟ったので、これ以上祟らないように仏教の力で怨霊封じが行われたのです。祀られているのは物部守屋はもちろん、弓削小連、中臣勝海など、蘇我氏と対立していた物部氏側の人物です。守屋とともに戦った人々も祀られているのが何より証拠である。蘇我氏との戦争で亡くなった人々が祟ったいうことです。

元の四天王寺?は、蘇我氏、蘇我馬子や推古天皇の発願による寺院であり、竹田皇子が亡くなった後、624年以降に守屋の難波の宅の場所に造り始められた寺院である。由緒が異なるため、このお寺には四天王像が安置されてはいなかったように思います。
つまり四天王寺とは呼称されていない。そして、593年の創建ではないのは、出土した瓦から推測できます。

物部守屋ら戦争で亡くなった人々の霊を鎮めるための寺院であり、この寺の名は四天王寺ではなかったと思います。
守屋らは移築した時に神社に祀られている。ですので、四天王寺は移築再建されたのではない

元の四天王寺?は、初めに物部守屋の難波の宅の場所に造られ、その後、蘇我本宗家が滅び、孝徳大王により、この地に都を造るときに、左大臣だった阿部氏の協力のもと、この阿部氏の土地に移築されている、いまもこの地には「阿倍野」の地名は残ります。

孝徳大王により、難波に遷都したした時に、初めて創建された寺院であり、この時に四天王像が安置され四天王寺と呼称されたのです。ただし四天王寺は別称であり、本来は難波大寺である。
書記の改竄された由緒を基に、聖徳太子信仰が広まり、本来の由緒が消えてしまっている。



蘇我氏と物部氏の争いが大きく関わります。

まず物部氏と蘇我氏の争いについて・・・
仏教導入をめぐって、崇仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏の争いであるとされます。争いは宗教戦争であるとされています。
しかし大きな原因はやはり、この時代大きな力をつけてきた蘇我氏と物部氏による権力争いである。それは本来大王家とは物部氏が関わるからです。

この権力争いとはどういったものか?
前回少し書きましたが・・・押坂彦人大兄皇子や藤ノ木古墳の被葬者が関わる。
系譜の改竄箇所から推測してみます。

厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇と穴穂部間人皇女の王子です。
敏達天皇の皇后は、息長真手王の女である広姫ではなく、物部の女性であるこの穴穂部間人皇女です。蘇我氏による系譜の改竄箇所です。
お母さんが変更されている。それは。物部の女性だったからです。

しかし、押坂彦人大兄皇子がまだ幼い時に、本当の皇后であるこの穴穂部間人皇女は亡くなっています。
次の皇后である、豊御食炊屋姫尊こと、推古が皇后になったのが、576年です。つまり、広姫が亡くなったとされる575年が穴穂部間人皇女が亡くなった年である。

押坂彦人大兄皇子は572年生まれであり、まだ幼かった王子を育てたのが次の皇后である推古である。ですので、物部の王子であるのですが、蘇我馬子は敏達天皇崩御後にこの押坂彦人大兄皇子を次の大王に擁立したかったわけです。

蘇我氏と物部氏の争いは権力争いである。争いは敏達天皇崩御(585年)後の王位争いである。仏教導入をめぐっての争いだけではない。
蘇我馬子は権力を握りますが王にはなれません。そう血統の問題があります。

蘇我馬子は、まだ幼かったのですが関りのあるこの押坂彦人大兄皇子を次の大王に擁立しようとしたのです。
推古天皇は、欽明天皇と母親は蘇我稲目の娘の蘇我堅塩媛です。蘇我氏の姫王です。推古天皇は育ての母親であるわけです。
蘇我馬子にすれば、大王に即位すれば、推古が育てた押坂彦人大兄皇子は蘇我氏の操れる大王だといえます。

物部氏、物部守屋はこれに反対したのだと思います。

敏達天皇の弟である穴穂部皇子や、これも弟の泊瀬部皇子(崇峻天皇)が大王に即位している。しかし蘇我馬子は彼らを殺害しました。
丁未の乱以前から争いは始まっている。仏教の礼拝を巡っての争いだけではなく権力争いである。穴穂部の名から推測できますが、彼らは物部の王子たちであり、実際に大王に即位していました。

この戦いには、蘇我の皇子である竹田皇子や、押坂彦人大兄皇子も参加しています。

ウイッキペディア・・・中臣勝海
守屋の挙兵に呼応して、自宅に兵を集め、押坂彦人大兄皇子の像と竹田皇子の像を作り呪詛するが、反乱計画の不成功を知って彦人大兄に帰服。

この竹田皇子は病弱でした。おそらくなくなる時も伝染病にかかっていたと推測できます。この伝染病は祟りだと思われていたのではないのだろか?

蘇我氏と、物部氏の争いで亡くなった物部守屋は祟ったと思われていたのです。同様に殺害した藤ノ木古墳に祀られている穴穂部皇子や、泊瀬部皇子(崇峻天皇)も祟ったと思われていたのです。
蘇我の皇子である竹田皇子や、押坂彦人大兄皇子も彼らを祀ったのです。
斑鳩寺は彼らを祀るためのお寺です。

仏教を導入した蘇我氏、蘇我馬子は、これらの祟りを仏教の力で鎮めようとしたのです。

隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。
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竹田皇子の没年は624年です。この亡くなった時に、若草伽藍に蘇我馬子や推古天皇によって、この竹田皇子を祀るお寺が若草伽藍に造られた寺院である。
銘文の男弟王とは竹田皇子のことです。日十大王(押坂彦人大兄皇子)の男弟王(異母兄弟)と表現されていることからも推測できますが、推古はこの押坂彦人大兄皇子の育て母親です。
572年に生まれたのが厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子であり、弟とされる豊聡耳皇子こと竹田皇子は574年生まれです。

銘文の623年(葵未年)の翌年である624年に、竹田皇子は亡くなっている。日十大王(押坂彦人大兄皇子)は、いつ崩御したかは不明ですが、おそらく同年ではないのかな?ともに伝染病(天然痘)が原因である。
この時代、渡来人が多く移住してきたのが大きな原因である。

この若草伽藍に造った寺院(再建斑鳩寺?)の建設後に、守屋の難波の宅に四天王寺?(寺の名は不明)は造られている。もうこれ以上に祟らないように仏教の力で鎮めるよう人が建設された。これが元の四天王寺であり、本来の由緒は物部守屋や戦乱で亡くなった人々を祀る寺院であるように思います。

四天王寺が593年に造り始められ、法隆寺が607年に創建されたとすると矛盾します。
若草伽藍にあった、再建斑鳩寺(607年創建の法隆寺ではない)は蘇我の皇子である竹田皇子没後(624年)に蘇我氏によって造り始められた竹田皇子を祀るお寺である。本尊は竹田皇子の姿を写した釈迦三尊像である。
四天王寺は、この再建斑鳩寺より後に造られたお寺である。証拠物品が出土しています。上記の記述どおりです。

お寺の建設が始まった時期なのですが、瓦からの推測では、建設の順序は飛鳥寺、若草伽藍の再建斑鳩寺、四天王寺の順です。
この三寺は同なじ瓦用の木型(笵瓦)が使用されていることから建設された順が推測できます。

造り始めてどれくらいでお寺が完成したかはわかりませんが、3,4年かかったとすると627年頃?の創建です。
ほぼ同時期でしょうが、元の四天王寺(このお寺四天王寺とは呼称されていなかった)は創建はどうでしょう?630年頃の完成かな?この四天王寺?は蘇我馬子や推古天皇によって守屋の霊を鎮めるために物部守屋の難波の宅に造られた寺院です。

ただし、この時に四天王像が安置されていたかは疑問があります。
後に孝徳大王がこの地に宮を建設するときに、現在の場所に移築されてはいるのですが、これは四天王寺が移築されたのではない。
現四天王寺は孝徳大王の発願によって、阿部氏の協力のもと建設された寺院である。創建の由緒は聖徳太子ではなく孝徳大王であり、書記の記述は真実ではない。
若草伽藍のお寺も四天王寺も、共に塔と金堂が南北に並ぶ、四天王寺式配置とされますが、四天王寺方が後に造られている。つまり、これは逆で、四天王寺は再建斑鳩寺式配置のお寺であるということです。



四天王寺は南北に配置される理由は上記しましたが、それじやー何故に、若草伽藍にあった再建斑鳩寺は、南北に並ぶ配置なのでしょうか?

寺院は普通、南の門が正門になります。すると塔と金堂とが南北に一直線上に並ぶ配置だと景色が良くないのです。
写真は四天王寺ですがご覧のように塔に隠れて金堂がみえません。
地形も関係すると思われますが、本来は奇妙な伽藍配置ように思います。

若草伽藍にあった再建斑鳩寺に関しての伽藍配置は、東側に位置する中宮寺が関わるように思います。この中宮寺は推古天皇のお寺です。中宮天皇とはこの推古天皇のことです。

中宮寺から竹田皇子が祀られている再建斑鳩寺に向かうときは東門がから入ることになります。またこの南北の伽藍配置によって息子の竹田皇子を祀る寺院全体を見ることができるからです。

ウイッキペディア・・・
中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は400メートルほど東にあった。
塔の心礎は地中に深く埋める形式とする。これは四天王寺、飛鳥寺、法隆寺などの塔心礎と同様で、創建時代が古いことを示唆する。
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中宮寺はもとは推古天皇の宮です。それは、隣接する斑鳩の宮に住まいしていたのは息子の竹田皇子だからです。息子のそばに移ったのです。太子道を飛鳥から斑鳩まで通ったのはこの竹田皇子です。

そして、竹田皇子が亡くなった時に、宮をお寺(尼寺)に造り変えている。このお寺もまた南北に配置するお寺だとされます。
それは、再建斑鳩寺(若草伽藍)、斑鳩の宮、そして中宮寺は東西(正確には藤ノ木古墳に正対していますので、少し南の方に傾く、西南西)に並ぶからです。


「野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の謎と中宮天皇」、「法隆寺、橘寺創建の謎と野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像」のところで記述しましたが・・・

野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時
誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
   *************************
この銘文における、謎とされるこの「中宮天皇」とは推古天皇のことです。
天皇とは蘇我の王の称号です。591年に蘇我の王である天皇に即位したのが推古です。この銘文は天皇号の最も古く使用されたものです。
593年に大王に即位したのが、押坂彦人大兄皇子であり、591年に蘇我の王である天皇に即位したのが推古というのが真実です。しかし、押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことが消されていて、593年に推古が天皇に即位したことに変更されている。

これにより聖徳太子の没年が、間違ったものになっている。この593年というのが法興元年である。
今年は聖徳太子、1400年の御遠忌ということになっていますが、聖徳太子没年は624年です。
これまで述べてきましたが、法隆寺にある、釈迦三尊像光背銘や、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文により明らかです。
法興元年を、本来推古が天皇に591年と変更したために、没年が間違ったものになっている。

銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯開」は、「開」という文字があるように、この栢寺が創建された日ということです。606年4月8日、お釈迦様の誕生日に創建されたということです。
この栢寺とは後の橘寺のことであり、天武大王が、都と定めた飛鳥の地から蘇我氏の痕跡を消し去るため寺の名称を変更している。本来は推古天皇の息子である竹田皇子が生まれた場所であり、蘇我氏の本拠地です。

この仏像は、この栢寺の僧たちが、推古天皇が病気になった時に、回復を願ってこの弥勒像を作り、銘文を記したということです。
ですので、606年ではなく、おそらく推古天皇が崩御した628年頃にこの仏像は制作されたものです。つまり628年頃には「天皇」の呼称は使用されている。本当の、初代天皇は彼女、推古天皇です。

竹田皇子のお母さんは推古天皇です。彼女は中宮天皇とよばれていたのです。
そして、斑鳩にある中宮寺は、推古天皇が亡くなった息子の竹田皇子の菩提を弔うために造営したものです。宮を寺に造り変えたのです。
この「天皇」号の使用例があまりないのは、天皇とは大王ではなく蘇我の王の名称だからです。そして女帝の名称でもあります。つまり皇后のことです。
後に、藤原氏によって歴史を改竄するときにこの「天皇」の呼称は使用されたのです。本来はもちろん「大王 おおきみ」です。

この野中寺は、聖徳太子建立48寺院の一つとされ、創建は大化6年または白雉元年(650年)頃だとされます。四天王寺からは、野中寺と同范の忍冬文軒丸瓦が出土しています。
四天王寺と野中寺は同時期の創建であると推測できます。四天王寺は6世紀後半に創建されたのではない。孝徳大王が難波に遷都した時、7世紀中頃に建立された寺院である。



さらに四天王寺から出土した瓦からの推測では・・・
ウイッキペディア・・・百済大寺
舒明天皇11年(639年)、百済川のほとりに大宮と大寺を建て始めた・・・吉備池廃寺から出土した瓦は、軒丸瓦が重圏文縁単弁八弁蓮華文、軒平瓦が忍冬唐草文型押で・・・軒丸瓦は四天王寺と海会寺で同笵瓦が使われているが、瓦面の傷などから判断して、四天王寺・海会寺よりも吉備池廃寺出土瓦の方が先行して製作されたとみられる。
    
吉備池廃寺の建立は、法隆寺の前身の若草伽藍より後で、舒明天皇13年(641年)から建立の開始された山田寺よりは先行する、630年代から640年代初めに位置付けられる。
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出土瓦からの推測では、四天王寺から素弁八弁蓮華文軒丸瓦とよく似た単弁八弁蓮華文軒丸瓦も出土しています。これは、吉備池廃寺(百済大寺)で使用された後に四天王寺にもたらされたとされます。
百済大寺(吉備池廃寺)建設は、瓦からの推測では630年代から640年代初めに位置付けられるとされます。つまり四天王寺創建は7世紀中頃である。孝徳大王が、難波に都を遷した時に建設されたお寺であるということです

四天王寺は出土した瓦からの推測では、7世紀中頃の創建であるということです。つまり聖徳太子に関係する書記の由緒は事実ではないということです。孝徳大王や阿部氏の功績を消すためのものである。


そして出土瓦からの推測では若草伽藍にあったお寺と、移築された元の四天王寺は建設時期が近いということです。ともに推古天皇の息子の竹田皇子が亡くなった後、624年以降に建設し始められたお寺である。つまり、若草伽藍にあったお寺も創建法隆寺ではないということです。再建斑鳩寺である。
その後、孝徳大王が難波に遷都した時に、この元の四天王寺は阿部氏の協力のもと今の場所に移築されている。
ただし、聖徳太子が戦に勝利したら四天王を祀るという由緒は事実ではないため、元の四天王寺は四天王寺とは呼称されていない。
四天王寺は孝徳大王により創建されたお寺である。

ウイッキペディア・・・
日本で「天皇」号が成立したのは7世紀後半、大宝律令で「天皇」号が法制化される直前の天武天皇または持統天皇の時代とするのが通説である。
    ************************
620年に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる「天皇記」・「国記」は、蘇我氏の歴史書です。この時に「天皇」の呼称が作られたのだと思います。
蘇我の王の呼称であるということであり、「天皇」の呼称を使用して歴史を変更している。推古が591年に天皇に即位したというのは、この「天皇記」・「国記」編纂時においてのことである。後に593年に変更されている。

古代の歴史は権力を握った蘇我氏と藤原氏によって2度改竄されている。

推古は蘇我の王である天皇であるが大王ではないということです。推古の時代に大王が存在していたのは隋書により明らかです。

蘇我馬子が擁立した、隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王こと、押坂彦人大王です。

隋書倭国伝
姓は阿毎(あめ)字は多利思比孤(たりしひこ)阿輩難弥(おおきみ)と号す。

隋の使者は当然ですが王に謁見しています。「おおきみ」と呼ばれ男であり、后もあると記述されています。この大王とは推古天皇のことではないですよね。この時まだ、「天皇」号が使用されていないとすると、大王でもなく天皇でもない推古は何と呼称されていたというのでしょうか?

7世紀の初めころに作られ、「天皇」の呼称が刻字されている、この仏像が何よりの証拠物品である。

日本書紀、古事記は正史とされます。しかし正史であるといっても真実が記述されているとは限りません。歴史は権力者の都合で変更される。

今の天皇家と関わることになりますが、本来は「大王」と「天皇」は異なる。
万葉集でも何度も「おおきみ」と呼称されています。

万葉集 九百二十八
笠朝臣金村
押し照る 難波の国は 葦垣の 古りにし郷と 人皆の 思ひ息みて つれも無く ありし間に 積麻なす 長柄の宮に 真木柱 太高 敷きて 食国を 治めたまへば 沖つ鳥 味経の原に もののふの 八十伴の緒は 廬して 都なしたり 旅にはあれども


巻六 九百三十三
山部宿禰赤人

天地の 遠きが如く 日月の 長きが如く 押し照る 難波の宮に わご大君 国知らすらし 御食つ国 日の御調と 淡路の 野島の海人の 海の底 奥つ海石に 鰒珠 さはに潜き出 船並めて 仕へまつるし 貴し見れば

  **************************
長柄(ながら)の宮とは孝徳大王の難波の宮のことです。難波長柄豊碕です。わご大王とは、この孝徳大王のことです。長柄の宮に真木柱を建てたのは孝徳大王です。

万葉集も都合の悪い箇所は変更されていますが、この歌自体は変更されていない。
神亀二年(725年)聖武天皇の難波行幸の随行した笠朝臣金村の詠んだ歌とされます。
もう何度も記述しているところですが、この時大王だったのは、長屋大王です。聖武天皇は王ではありません。
長屋大王の難波行幸の時に詠まれた歌です。

押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王―天武大王―高市大王―長屋大王
押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟大王―孝徳大王―有馬皇子


万葉集では「おおきみ」と表現しているでしょう。「わご大君(おおきみ 於保支見)」です。
「天皇」なんて表現していない。「大王」と「天皇」は異なる。
万葉集の歌の解説時にこの「おおきみ」を「天皇」として解釈していますが、間違っています。
万葉集は、記紀の改竄箇所を暴くものである。編纂に大きく関わったとされる大伴家持は、秦氏、藤原氏と対立していた、大伴氏の氏長である。

山部赤人も生年は不詳ですが、没年は735年頃とされていて、天武、持統より後の人物である。

万葉集 四千百十三 大伴家持

大君の、遠の朝廷と、任きたまふ、・・・


大伴家持の歌にも「おおきみ 於保支見」と表現されています。家持の時代(生年718年頃尾、没年785年)でも「おおきみ」です。
「すめろき 須賣呂伎」を天皇として解釈していますが、これも間違っている。



孝徳大王は難波の地に都を造りました。この時代頻繁に訪れる外国の応接には適した場所です。また敵対勢力と戦うための自然の要塞のような場所でした。

孝徳大王の時、左大臣だったのは、阿倍内麻呂です。今も「阿部野」の地名が残りますが、この時代この地のは阿部氏の本拠地の一つです。
この阿部氏の本拠地、孝徳大王の難波の宮近くに位置するのが四天王寺である。
奈良の都(明日香)は渡来人勢力により危険な状態にあったっため、阿部氏の勢力下にあったこの地にも宮を置いたのです。また外国の使節との応接にも便利な場所です。

四天王寺は蘇我本宗家が滅んだ後、孝徳大王が宮(難波長柄豊碕宮)をこの地に置いた時に関係する寺院になりました。
四天王寺は、蘇我氏による創建当時の本尊は四天王像だったとされます。

本尊の救世観音像(弥勒菩薩)は、蘇我本宗家が滅んだ後、孝徳大王が宮(難波長柄豊碕宮)をこの地に置いた時安置されたもののように思います。
新たに四天王像も祀られています。難波大寺の別称はこの時のものかな?

現四天王寺は、孝徳大王の時代に、造られた国家鎮護の寺院である。

ウイッキペディア・・・
四天王寺に関しては、これに先立つ大化4年(648)に、左大臣の任にあった阿倍内麻呂により、僧尼が四天王寺に集められて仏像四体を塔内に安置し、また釈迦の浄土である霊鷲山(りょうじゅせん)の像が造られたという。
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた
   ***************************
四天王寺創建は、まさにこの年、大和4年(大化ではない)の648年である。本尊として弥勒菩薩が安置され、仏法僧を守護する四天王像も安置されました。出土した瓦からの推測でも7世紀中ころの創建であると思われます。

四天王寺はその名や由緒から四天王像を祀るために建立されたと思われまが、本尊は弥勒菩薩だとされます。
現在は本尊は救世観音になっていますが、これも聖徳太子が関わる法隆寺に祀られている救世観世音菩薩像が影響していて、本来は弥勒菩薩だったといわれます。

四天王寺の寺名はこの時、648年に四天王像を安置したため名付けられ別称である。
本来は孝徳大王の難波の都に造られた難波大寺である。


「資材帳(延暦二十二年803年」の写しによれば、本尊の四天王像のほかに、孝徳大王の王后である越天皇(斉明天皇ではない)のために造られた大四天王像と、「安倍大臣敬請坐」とされる小四天王像が安置していたらしいのです。左大臣阿倍内麻呂は小四天王を奉納しています。四天王寺は阿部氏の協力のもと建立されたという証である。

この越天皇とは大安寺伽藍縁起并流記資材帳にある、袁智天皇ことです。
大安寺伽藍縁起并流記資材帳・・・
「一帳、像具 脇侍菩薩八部等卅六像、右、袁智天皇、坐難波宮而、庚戌年(白雉元年)
冬十月、始、辛亥年春三月造畢、即請者」

この袁智天皇とは、持統天皇の母親であるとされる遠智娘のことです。
しかしこの系譜が改竄されています。蘇我氏の娘、蘇我遠智娘ではなく、阿部氏の娘である阿部遠智娘です。左大臣だった阿部内麻呂の娘です。
孝徳大王の難波に宮にいるということからも容易な推測ですが、袁智天皇は孝徳大王の王后であり、持統天皇はこの孝徳大王の娘です。
「天皇」とは蘇我の王の呼称です。本来の初代天皇は推古天皇です。初代が女帝であったため、「天皇」の呼称は蘇我本宗家が滅んだ後には女帝の呼称となっている。つまり王后のことである。この資材帳の文章が証拠である。

これも何度か書いていますが、654年はこの孝徳天皇が崩御した年だとされますが、間違っています。亡くなったのは王后である袁智天皇こと遠智娘です。ですので、翌年(655年)に天皇に即位したのは斉明天皇です。天皇とは女帝のことです。654年に亡くなった時に、王后のため孝徳大王が造った大四天王像が祭られている。孝徳大王はこの後も渡来人勢力と戦っています。



四天王寺の四天王像に関してですが、・・・四天王寺は何度も火災にあい四天王像は現存しませんが、法隆寺ある日本最古の四天王像によく似ていたようなのです。この法隆寺四天王像は現存しています。
このことから四天王像を造った作者や四天王寺創建年も推測できそうです。

国宝法隆寺金堂展
四天王像
金堂須弥壇上四隅に安置される、日本最古の四天王像。クスノキを用いた木彫で、宝冠や光背の縁などに金銅製の透彫金具をつける。広目天像と多聞天像の光背裏面に作者の名が刻まれている。 そのうちの一人、山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)に関する記録が『日本書紀』白雉(はくち)元年(650)の条にあり、本像の制作年の目安となる。剣や戟(げき)など持物(じもつ)を手にして静かに直立する姿や、足元の邪鬼の表情なども、後世の四天王像とは異なり特徴的である。
      **********************
法隆寺の四天王像に関しては、七大寺日記、法隆寺金堂の条、「等身四天王像在 天王寺金堂之像全以不異之」
四天王寺巡礼私記、法隆寺金堂の条・・・「等身四天王像件像者天王寺金堂四天与比像無差別」と記述されています。

四天王寺の四天王像は、法隆寺にある四天王像に似ていたとされます。後世の四天王像とは異なり特徴的であるとされ、おそらくこれは四天王像を造った作者が同一人物であると考えられます。
四天王寺と法隆寺の四天王像を製作したのは、この山口大口費であり仏像の製作年も近いものと思われます。

この四天王像こそ創建当初に金堂に安置された四天王像である。
四天王像からの推測では、四天王寺は、山口大口費によって造られたこの四天王像が、孝徳大王の願いにより阿倍内麻呂により648年に安置されたという、まさにこの時が四天王寺創建の年である。四天王像はこの時に初めて安置されたのではないのだろうか?孝徳大王の発願のお寺であり、孝徳大王の時左大臣だった、阿部内麻呂が建立に深く関わる。この地に造られたのはこれが理由である。

この孝徳大王の四天王像の他にも、越天皇(阿部遠智娘)のために造られた大四天王像や、阿倍内麻呂による小四天王像も存在していたようです。残念ながら四天王寺は何度も火災にあっているため、これら四天王像は現存していません。
越天皇は孝徳大王の王后です。孝徳政権時に左大臣だった、阿倍内麻呂の娘であり、四天王寺は孝徳大王の発願により、左大臣だった阿部内麻呂によって阿部氏の土地に造られた寺院である。創建は648年である。瓦からの推測でもこの時期である。
蘇我氏によって造られたのではないという証拠物品であり記述です。

孝徳大王は、645年に大王に即位し、難波の地に都を遷し、宮(難波長柄豊碕宮)を造り始めました。四天王像はこの孝徳大王によって創建された時に初めて安置されたものであり、四天王寺創建はこの648年である。難波の都の難波大寺が本来の名称であり、四天王寺は別称である。国家鎮護の寺院である。出土した瓦など考古学的な見地からも7世紀中頃の建立である。
書記の聖徳太子が関係する由緒はこれら孝徳大王や阿部氏の事跡を消すためのもに他ならない。

孝徳大王と対立していたのは、秦氏、天智天皇とこれも百済渡来人である、後の藤原鎌足である。この孝徳大王の事跡を消し去っている。



四天王寺には物部守屋を祀る祠があります。祠の写真を撮りたかったのですが、聖徳太子の命日である22日の日しか守屋の祠まで行くことができません。それは聖霊院という建物があるからです。太子堂とも呼ばれます。
聖徳太子が祀られ、前殿には聖徳太子の十六歳像と二歳像、そして四天王像。奥殿には、四十九歳の時の像が安置されています。

上の写真は四天王寺境内にある案内板を写したたものです。
これ四天王寺の神仏融合の構造が容易に分かりますよ。
石の鳥居をくぐり西重門を通り構内の入りそのまままっすぐ東重門をでると守屋の祠があります。鳥居は守屋の祠のためのもので、東西に神社があるのが写真を見れば誰にも容易に分かりますよね。

なのにこの参道を遮るかのように、東重門から守屋の祠までに建物、聖霊院があります。四天王寺の本来の目的が理解できていないためにこうなっている。物部守屋など戦争で亡くなった人々を拝むものでもあるわけです。
四天王寺は、神仏融合の構造になっていて、西からが神社本来の正門であり、鳥居は神社への門であるわけでしょうが?
この祠を拝むためのものである以外ないわけです。

それで、この聖霊院なのですが、最近建設されたものらしいのです。再建されたもののようですが創建当時はこんなものあるわけない。
聖徳太子による創建の由緒は本来の由緒を変更するためのものである。書記による改竄された由緒を基に聖徳太子信仰が広まり、対立していた物部守屋は悪者になりました。守屋がキツツキになって四天王寺を荒らしまわり、聖徳太子が白鷹となって退治したとの縁起が残っています。
しかし聖徳太子は創建に関わっていません。四天王寺には聖徳太子が祀られていないのが何よりの証拠である。祀られているのは物部守屋の方である。聖徳太子を祀るこの聖霊院は聖徳太子信仰が広まった後に造られた寺院である。由緒は変更されていて、本来四天王寺は聖徳太子とは関係のない寺院である。ともかくこの場所に建てるのは良くない。参道を塞ぐような建物を造るべきではない。

下の写真は、東重門から撮ったものですが、正面に聖霊院奥殿があります。下二枚目は聖霊院です。
下三枚目は石の鳥居です。元は木の鳥居だったようですが後の時代にこの石の鳥居に建て替えられました。

下四枚目の写真は四天王寺の西側を写したものです。今も緩やかな下り坂になっています。大阪の繁華街である、南の難波、北の梅田は海の下にあったことは良く知られています。
四天王寺の西側は海に面し、西に沈む夕日の名所でもあったようです。西側は西方浄土のある方角です。夕陽ヶ丘の地名は今も残ります。
四天王寺は、この西側が正門である。西側からの景色が良い構造になっている。南北の伽藍配置はこれが理由です。
そして物部守屋らを祀るお寺を、難波の宮の建設のため、この地に移築したため、守屋を祀る神社も造られている。
それは物部は大王家と深く関わるからです。











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法隆寺再建の謎、・・・百済観音、救世観世音菩薩、銅造釈迦三尊像

2020年11月26日 | 聖徳太子の謎


ブラタモリ、奈良編、「法隆寺~なぜ法隆寺に1400年も愛され続けるのか」、「奈良、飛鳥、なぜ飛鳥は日本の国の礎となったのか?」が放送されましたので、法隆寺に関してのお話です。
もう一度、改めて法隆寺再建の謎について考えてみます。

今回は、法隆寺に安置されている釈迦三尊像、薬師如来坐像、百済観音、救世観世音菩薩についても考えてみます(*^▽^*)

ブラタモリ内でも説明がされていますが、この本尊ともされる釈迦三尊像は、聖徳太子のお姿を映したものであり、モデルであるとされます。そして、救世観世音菩薩もまた聖徳太子のお姿そのものであるのでは?とされます。
すると由緒不明の百済観音もまた誰かモデルがあるのではないのか?

法隆寺再建の問題とともに難題であるのですが、もう一度考え直してみます。


放映されたブラタモリ内で、「法隆寺は誰が造ったのか?」との質問に、この回から新しくアシスタントになったアナウンサーの女性が答えらえなかったので、かわいそうに常識がないとの批判を受けていました。
答えは、法隆寺は聖徳太子が造ったお寺ということですが、・・・間違っているように思う。法隆寺は聖徳太子が造ったお寺ではありません。

法隆寺は再建されたということは確実視されます。そうすると法隆寺は聖徳太子が造ったお寺ではありません。
教科書に書いていることは真実ではありません。特に古代史は問題あります。

法隆寺は、聖徳太子ゆかりのお寺ですが、聖徳太子が造ったお寺ではありません。
法隆寺は607年に創建されたとされますが、元は斑鳩寺と呼ばれていました。この斑鳩寺と法隆寺は別のお寺である。

そして、この斑鳩寺は再建されていますが、再建斑鳩寺は法隆寺ではない。

聖徳太子は二人います。創建法隆寺と再建法隆寺は祀られている人物がことなります。ですので再建されたのではない。
法隆寺は再建されてはなく、祀られている人物が異なる。


ここは以前にも記述していますが、「栢寺」を「橘寺」に、「飛鳥寺(法興寺)」を「元興寺」に変更している理由と同様の理由で「斑鳩寺」を「法隆寺」に変更している。変更の理由は蘇我氏が関わったお寺だからです。
天武大王による変更です。古代の大王家は物部氏が関わります、祖父の押坂彦人大王の母親は物部姫である、穴穂部間人皇女です。蘇我氏と物部氏は争っています。

確かに、法隆寺創建時に再建斑鳩寺の材木を再使用されているとされますが、この斑鳩寺と法隆寺は異なります。法隆寺は再建されたのではありません。蘇我氏が建立したお寺を壊して立て直していることをしている。これは父親である山代王(山背大兄王)が殺害された場所であるからです。この再建されたという年が創建された年です。

斑鳩寺創建は607年、そして若草伽藍に建立された再建斑鳩寺は、推古天皇の息子である竹田皇子が亡くなった624年に建設し始められたお寺です。
今の場所に建立されている法隆寺(着工から完成までどれくらいの期間がかかったかはわかりませんが)は、おそらく700年頃の創建です。それでも世界最古の木造建築です。

この再建斑鳩寺は624年に竹田皇子が亡くなった時に、推古天皇や蘇我馬子が、彼を祀るために建立したお寺である。
この若草伽藍に建立された再建斑鳩寺の本尊こそが、釈迦三尊像である。釈迦三尊像は、竹田皇子の姿を写したものである。
ですので、釈迦三尊像は、法隆寺の本尊ではなかったのです。これは後背銘により明らかです。

斑鳩寺は再建されていますが、再建斑鳩寺は法隆寺ではない。若草伽藍に建立された寺院が創建法隆寺であるとされていますが、そうではない。若草伽藍にあったお寺こそ再建斑鳩寺である。現法隆寺と、この再建斑鳩寺は異なるお寺である。

つまり法隆寺は、創建された時に大王だった人物が新たに造ったものです。祀られている人物が異なるので、再建されたのではなく、この時に天武によって創建されたのです。

法隆寺は誰が造ったか?の質問の答えは、法隆寺は天武大王が造ったお寺です。天武の父親と祖父である押坂彦人大王を祭るために建てたお寺です。
それは父親である山代王(山背大兄王)がこの場所(斑鳩寺)で殺害されたからでもあると思います。
これまで何度も記述してきましたが、聖徳太子こと押坂彦人大王の王子である山代王は天武大王の父親である。

「山背大兄王暗殺の謎と中臣鎌足」のところで記述してきたところですが、この押坂彦人大王の後胤と対立し、多くの大王家の人物を殺害してきたのが、渡来人である秦氏や藤原氏です。
蘇我氏の犯罪として変更されていますが、この山代王を殺害したのも秦氏、藤原氏である。

そして殺害された押坂彦人大王の後胤たちは怨霊となって藤原氏に祟ります。
長屋大王や、早良大王が怨霊としてよく知られますが、彼らはこの押坂彦人大王の後胤です。
つまり、皇祖とされるこの押坂彦人大王や山代王(山背大兄王)も祟ったと思われていたのです。
この地で山代王を殺害したのは、秦氏、藤原氏である。

これも聖徳太子と思われる救世観世音菩薩が白い布で覆われ怨霊封じが行われています。
法隆寺は、天武大王の発願により、この押坂彦人大王や山代王を祀るために造られたお寺であるため、後に藤原氏により、怨霊封じのお寺となっている。

日本書紀、下巻の天皇はすべて、天武が皇祖(本当は王祖)と仰ぐ祖父であるこの押坂彦人大兄皇子(日十大王)から繋がります。これは、本来彼が大王として下巻最初に記述されていたことに他なりません。それが後に書き換えられている。
殺害した人物が本来の大王だと記述できないため系譜を改竄している。

ウイッキペディア・・・
建立した年の年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることが改めて裏付けられた。
   *************************

法隆寺の創建は、天武が大王に即位して以降の在位期間時に造り始められたものです。天武673年に大王に即位し、在位期間は673年から686年です。完成までどれくらいかかったかはわかりませんが、おそらくこの在位期間中、年輪年代測定どおり、おそらく673年頃に着工され、700年頃の創建です。

斑鳩寺と法隆寺は異なります。祀っている人物が異なります。再建されたのは斑鳩寺であり、斑鳩寺と法隆寺は異なる。



創建斑鳩寺は藤ノ木古墳が関係するお寺であり、若草伽藍に建てられたお寺(再建斑鳩寺?)は蘇我氏のお寺である。
これらのお寺は天武大王が造った現存法隆寺とは異なります。

ではなぜに蘇我馬子は再建斑鳩寺?をこの地に建てたのだろうか?
斑鳩の地はは、この時の政治の中心である、飛鳥からかなりの距離があります。そしてこの地は物部の本地でもあります。
何故にこの地に、建てられ、もう一人の聖徳太子こと竹田皇子はこの地に居を移したたのだろうか?それは物部本宗家が滅び、蘇我氏が支配する土地になったからだともいえますが、藤ノ木古墳が関わるように思う。蘇我の皇子ともいえる竹田皇子は、物部氏との争いに参加しています。
仏教に深く帰依した竹田皇子は、蘇我氏と対立して殺害された大王家の人々の霊を仏教の力で鎮めようととしてこの地に移ったのです。太子道を明日香から斑鳩まで通ったのは、推古の息子のこの竹田皇子のことである。
押坂彦人大王の御代に、太子だったのはこの竹田皇子です。

斑鳩の地は、もとは物部本宗家の土地であり、藤ノ木古墳の被葬者は、物部に関係する人物である。押坂彦人大王も物部の大王であり、彼の要望により被葬者を祀るために造られたのが斑鳩寺である。

若草伽藍にあった再建斑鳩寺は、この竹田皇子が亡くなった時に造られた蘇我氏のお寺です。釈迦三尊像はこの竹田皇子がモデルです。推古天皇の母親は蘇我稲目の娘である蘇我堅塩媛です。この竹田皇子は蘇我の皇子です。
法隆寺は天武大王が、祖父の押坂彦人大王と、父親である山代王(山背大兄王)を祀るために建てたお寺です。

押坂彦人大王と竹田皇子、この二人の事跡が聖徳太子の名のもとに混同されている。
そしてもう一人。斑鳩の宮で亡くなったとされる、押坂彦人大王の王子であり、天武大王の本来の父親である、山代王(山背大兄王)も祀られている。


607年創建の斑鳩寺は聖徳太子が造ったお寺でしょうか?

斑鳩寺はこの時の権力者であり、四天王寺や飛鳥寺を造り仏教を導入しようとしていた、蘇我馬子が造ったお寺ともいえますが。もちろんこの時に大王だった、押坂彦人大王も創建に関わります。それは、大王家に関係する人物が藤ノ木古墳に葬られているからです。創建斑鳩寺はこの藤ノ木古墳が関係する。

物部氏と蘇我氏は対立していました。
四天王寺には物部守屋を祀るお寺であるともいわれます。そして斑鳩寺は、これも物部系の本来の大王家の王子たちである、泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部皇子を祀るため、押坂彦人大王の要望により、敵対しそして暗殺した蘇我馬子が建てたお寺である。

名前からも推測できますが、聖徳太子のお母さんである穴穂部間人皇女や、この穴穂部皇子は、物部系の人物です。蘇我の関係する欽明天皇の子供たちとして系譜が変更されています。蘇我馬子による系譜の改竄箇所です。

二人の聖徳太子、この時に大王だった、押坂彦人大王と、推古天皇と、その息子の竹田皇子が関わっているはずです。もちろん仏教導入の施策を行った権力者蘇我氏の首長である蘇我馬子も関わると思いますが・・・。
まぁ、これは聖徳太子、押坂彦人大王が造ったお寺でいいかな。
押坂彦人大王は物部の大王ですが、彼の時代には仏教導入の政策を行っている。
物部氏と蘇我氏の争いは権力争いである。



銅造薬師如来坐像、釈迦三尊像、百済観音、救世観世音菩薩について・・・

日本書紀(皇極天皇条)・・・十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩・・・巨勢德太臣等、燒斑鳩宮、灰中見骨、誤謂王死、解圍退去
   ***************************

法隆寺夢殿の本尊で,聖徳太子の等身の御影と伝わる観音菩薩立像、救世観世音菩薩は、聖徳太子こと押坂彦人大王の王子であり、天武大王の本来の父親である、山代王(山背大兄王)がモデルです。

それは夢殿が建てられている法隆寺の東院伽藍は、もとは斑鳩の宮があったところであり、ここは山代王(山背大兄王)の住居であり、この傍の若草伽藍にあった斑鳩寺で亡くなっているからです。
そして、山代王(山背大兄王)を殺害した主犯は、秦氏、秦河勝と百済渡来人である偽者中臣鎌足、後の藤原鎌足である。

藤原氏に祟った後に、救世観世音菩薩は白い布で包まれて怨霊封じが行われている。

創建斑鳩寺の本尊は創建の由緒が刻まれている銅造薬師如来坐像だと推測できますが、仏像の様式や鋳造技法、そして薬師如来信仰の関係により本尊ではない。
跡形もなく全焼したとの記述により、創建斑鳩寺の本尊は喪失している。
この銅造薬師如来坐像は、寺の由緒、歴史を改竄するために、後の時代に造られた仏像(後背銘)である。

釈迦三尊像は竹田皇子であり、再建斑鳩寺の本尊。救世観世音菩薩は山代王(山背大兄王)であり、法隆寺の夢殿に祀られていたもの。この夢殿の場所、東院伽藍は、もとは斑鳩の宮であり山代王(山背大兄王)が住まいしていた場所である。

それでは本来の現存法隆寺の本尊は???そう百済観音しかありません。
由来が不明で謎の仏像ともされる百済観音は、法隆寺の本来の本尊であり、天武が皇祖と仰ぐ聖徳太子こと、押坂彦人大王がモデルであると推測するのですが・・・?この本尊が藤原氏により変更されている。

この百済観音は、本来は観音菩薩像であり、飛鳥時代後期、680年~690年に造られた仏像であると推測されています。
つまり上記してきましたが、現法隆寺は、天武大王が、祖父の押坂彦人大王と二人の王子、父親である山代王(山背大兄王)と斉明天皇、孝徳大王の父親の茅渟王を祀るために造った寺院であり、在位期間に造り始められ、680年頃の着工から創建は700年頃である。
そして、この法隆寺の本尊として造られたのが、この百済観音(観音菩薩像)であり、モデルは押坂彦人大王である。




法隆寺再建の謎についてもう一度考えてみます。

法隆寺創建の由緒は二つの説あり、法隆寺にある仏像の後背にある銘文によっています。金堂薬師像の銘と、釈迦三尊像光背です。
法隆寺創建、607年というのはこの金堂薬師像の銘によるものであり、この薬師像は創建法隆寺の本尊だと推測できます。

ところが、この薬師像は、様式上は釈迦三尊像よりも新しいもので、後背の銘文の書体にも疑問が述べられています。
創建法隆寺の本尊と思われる、薬師像より、釈迦三尊像の方が古いのです。
ですので法隆寺創建の年にも疑問が投げられています。
この釈迦三尊像は、銘文から623年に造られたものであり、竹田皇子が亡くなった翌年、624年以降に若草伽藍とされる場所に蘇我氏が建てたお寺、つまり再建斑鳩寺の本尊である。

607年に創建したとされる斑鳩寺は、3年後の610年に全焼しているかもしれません。
本尊である釈迦三尊像は蘇我の皇子である推古の息子の竹田皇子です。
この竹田皇子が亡くなった624年以降に蘇我馬子により、再建されている可能性があるのではないのか?亡くなった時に竹田皇子を祀るため新たに造られたお寺が若草伽藍とよばれる場所にあった寺である。これが再建斑鳩寺である。

現法隆寺金堂に安置されるこの釈迦三尊像は、本来は病気回復を願って造られた仏像です。しかし、残念ながら後背銘にあるように624年に竹田皇子が亡くなりました。
蘇我馬子や推古天皇は、可愛い息子であるこの竹田皇子を祀るため、斑鳩寺を再建し、この本来は病気を回復するために造られていたこの仏像を寺の本尊としていたのです。
このお寺が若草伽藍にあったお寺です。ただし斑鳩寺との名称だったかは不明です。

この623年に造られたとされる、法隆金堂のこの大きな釈迦三尊像には火災の跡がない。つまり斑鳩寺の火災は610年であると推測できると思います。
つまりこの若草伽藍にあったお寺は一屋も残さずとうい火災にはあってはいなく、現法隆寺はこのお寺に使用されていた木材を再利用している。
その後天武大王により、建てられたものが今現存する法隆寺である。物部系の大王である天武大王にとって、蘇我氏は敵対していた憎き氏族です。この蘇我氏の痕跡を消そうとしている。そして父親が殺害された忌まわしい場所でもあるからです。

竹田皇子を祀るため蘇我馬子によって造られたお寺は再建斑鳩寺である。
いまの法隆寺は天武大王が造った、祖父である押坂彦人大王と、父親である山代大王をまつるお寺である。この法隆寺の由緒は藤原氏によって変更されている。藤原氏に祟った後に怨霊封じが行われている。
聖徳太子(押坂彦人大王)の息子である山代大王(山背大兄王)を殺害したのは、秦氏、藤原氏である。
斑鳩寺と法隆寺は異なるお寺である。祀られている人物が異なる。


仏教が関係する聖徳太子とは、推古の息子の竹田皇子です。太子道を明日香から斑鳩まで通ったのは、この豊聡耳こと竹田皇子です。
厩戸王こと聖徳太子は、この時に大王だった、押坂彦人大王です。

聖徳太子が謎となっているのはこの二人の皇子の事跡が混同されているからです。それはこの押坂彦人大王の系譜が蘇我馬子によって変更されているからです。
蘇我氏の歴史書である、「天皇記」「国紀」において、蘇我馬子は本来の大王だったこの押坂彦人大王を、蘇我の人物として変更しているのです。それは、推古天皇が母親代わりに育てたことも関係する。

聖徳太子の父親とされる、用明天皇は、蘇我氏が関係する欽明天皇と母親は蘇我稲目の娘である堅塩媛との子供です。その用明天皇の子供である聖徳太子は、蘇我氏が主張する蘇我の系譜の中にある人物である。
つまり蘇我の皇子です。継体天皇以降に蘇我の主張する王を系譜に入れたのです。

蘇我の皇子として、蘇我馬子が歴史を改竄した時の蘇我氏の系図に取り込んでいる。この改竄された系図が、秦氏、藤原氏のよって歴史が改竄された時にも用いられている。聖徳太子が謎となっている大きな理由です。


蘇我馬子と聖徳太子が編纂したという、「天皇紀」「国紀」によって、古代の歴史は変更されました。これは蘇我氏の歴史書であり、天皇とは蘇我の王のことです。
本来の王家とは血縁関係が薄い(本来は全く関係ない)継体天皇が王だという主張はこの時です。蘇我氏の主張に他ならない。
この継体天皇を蘇我の神様ともいえる応神天皇に繋いでいるのです。
継体天皇は蘇我の王である「天皇」ですが、本来の「大王」ではない。
「天皇」とは蘇我の王の呼称である。

神武天皇(武内宿禰)と神功皇后(卑弥呼である台与)との子供が応神天皇であり、継体天皇をこの応神天皇に繋いでいるのです・・・蘇我氏の謎はいづれ書きます。

蘇我氏が関係した欽明天皇の父親である継体天皇は王だったと改竄しているのです。蘇我氏を大王家の系譜に繋いでいるのです。
本来の初代天皇は推古天皇です。推古の父親はこの欽明天皇です。そして欽明天皇の父親は継体天皇です。
用明天皇も同様に古代の大王家と関係のない蘇我氏の人物です。
この用明天皇を聖徳太子の父親として取り込んでいる。蘇我馬子の時代に本来の大王は、押坂彦人大王です。押坂彦人大王を蘇我氏の人物として取り込んでいる。これが聖徳太子が大きな謎となっている理由です。
後に秦氏、藤原氏によって歴史が改竄された時に、この蘇我氏の歴史書である、「天皇紀」「国紀」を参照して改竄されている。

権力を握った蘇我氏、そして秦氏、藤原氏によって改竄されている。


ウイッキペディア・・・法隆寺
『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古天皇9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。
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そのお寺に蘇我の皇子といえる推古の息子の竹田皇子が移り住んだということです。斑鳩宮に移り住んだのは、もう一人の聖徳太子である竹田皇子です。竹田皇子没後は山代王(山背大兄王)の住居となっていました。
押坂彦人大王の宮は、水派宮です。

この蘇我馬子と、秦氏、藤原氏の王ともいえる桓武天皇により古代の歴史は変更されている。

二人の聖徳太子、押坂彦人大王と、推古天皇と、その息子の竹田皇子が斑鳩寺の創建に関わることが記載されている、銘文が法隆寺にあります。
この銘文の解釈、謎ときができていないのは、「天皇」は蘇我の王の呼称だということが理解できていないからです。

法隆寺にある金堂薬師像の銘です。これは斑鳩寺の創建の由緒が書かれた貴重な銘文です。銘文にある丁卯年は607年とされます。
蘇我氏によって歴史を改竄された時に作文されたものであり、薬師像は再建斑鳩寺にあったものです。

何度も記述しているところですが。蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる、「天皇記」、「国紀」は蘇我氏の王の正統性を述べるための書物であり、いわば蘇我氏の歴史書です。「天皇」は蘇我氏の王の呼称であり、初代天皇は推古天皇です。
この時に天皇の呼称が使用されたのです。そう、「大王」と「天皇が」が存在したのです。

銘文の大王は、押坂彦人大王であり、天皇は推古天皇、太子とは竹田皇子のことです。620年の「天皇記」、「国紀」の編纂以降に記述されたものです。天皇の呼称はこの620年から使用されている。

法隆寺、金堂薬師像の銘・・・

池邊大宮治天下天皇大御身労賜時歳次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
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この銘文の解釈で問題となっているのは、「大王天皇」です。この時天皇だった推古天皇のことだとされています。漢文の解釈のむつかしいところでもあります。あたりまえだけど「大王天皇」なんて呼称はありません。
「大王」の呼称が、「天皇」の呼称に変わったのではありません。大王と天皇は別の呼称であり、大王である人物と天皇である人物がいた証拠の文章です。

これは、天皇号が使用され始めた時期にも関係します。
天皇号の使用は天武天皇の時代だとされます。ですので、この銘文も7世紀後半に刻銘されたものだと考えられています。


「大王天皇」ではなく、「大王」、「天皇」で区切らなければなりません。そして「太子」です。二人の聖徳太子と推古天皇のことです。この銘文は蘇我氏が天皇の呼称を使用し歴史を改竄した時に作文されたものです。
「大王」とは、押坂彦人大王であり、「天皇」とは推古天皇のことであり、太子とは推古の息子の竹田皇子のことです。

推古天皇時、大王が存在したのは隋書により明らかです。
隋書倭国伝
姓は阿毎(あめ)字は多利思比孤(たりしひこ)阿輩難弥(おおきみ)と号す。

「大王」の呼称が「天皇」の呼称に変わったのではありません。大王と天皇は異なります。蘇我氏が権力を握った時代であり、この「天皇」は蘇我の王の呼称です。大王より蘇我の王である天皇の方が上位に変更されている。

蘇我馬子が古代の歴史を改竄した、蘇我氏の歴史書といえる「天皇記」、「国紀」編纂時に名付けた蘇我の王の呼称です。蘇我馬子の時代の、蘇我氏の王は、女帝である推古天皇です。

池邊大宮治天下天皇こと用明天皇が天下を治めたたという表現からも、容易な推測です。上記しましたが、用明天皇とは蘇我氏が主張する蘇我の王です。本来の王ではありません。

天皇は蘇我の王の呼称であり、推古天皇は実際の初代天皇であるということが理解できればこの銘文の解釈も難しいものではありません。
蘇我氏による歴史変更の銘文であるともいえます。

銘文にある人物は、大王である押坂彦人大王(隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王)、天皇である推古天皇、太子である、推古天皇の息子の竹田皇子です。

隅田八幡神社人物画像鏡の銘文を謎解けないのは、「大王」と「天皇」は異なるということが理解できていないからです。

隋書の記述からも、推古の時代に、大王が存在していたことがわかります。
この大王とは、敏達天皇の第一王子であった押坂彦人大王です。彼以外ありえません。

聖徳太子こと押坂彦人大王を蘇我の王として系譜を改竄した時に刻銘されたものです。聖徳太子が大きな謎となっている理由です。

押坂彦人大王は敏達天皇と穴穂部間人皇女との子供です。敏達天皇は物部系の王であり、母親の穴穂部間人皇女は物部姫です。蘇我馬子はこの敵対していた物部系の系図を変更している。

用明天皇の父親は欽明天皇であり、母親は蘇我稲目の娘の蘇我堅塩媛です。
推古天皇の父親もまた欽明天皇であり、用明天皇もまた蘇我の関係する王です。
蘇我馬子により、聖徳太子を蘇我の王として系図を変更したために聖徳太子は大きな謎となっている。


『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』の資財帳部分に見えるこの薬師像銘

「金埿銅薬師像壱具 / 右奉為池辺大宮御宇 天皇 / 小治田大宮御宇 天皇 / 并東宮上宮聖徳法王、丁卯年敬造請坐者」
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この法隆寺伽藍縁起并流記資財帳(747年成立)に薬師如来は、藤原氏権力を握った時代にものであり、法隆寺の由緒を変更している。
銘文は正に747年に刻印されたものである。

蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる、「天皇記」、「国紀」は蘇我氏
の歴史書であり、この時変更された歴史を参照して系譜を変更し、藤原氏は法隆寺の創建の由緒を変更している。

金堂薬師像の銘にある「天皇」とは蘇我の王の呼称である。「天皇」と「大王」は異なる。ここが理解できれば銘文の謎ときも難しいものではない。

藤原氏に祟った、聖徳太子こと押坂彦人大王、そして天武の父親である山代大王を祀る法隆寺の由緒を変更している。このときに怨霊封じが行われている。

謎はふたりの聖徳太子が関わります。この地、は天武の父親が殺害された場所であり、鎮魂のお寺である。

ウイッキペディア
法隆寺草創の伽藍は、現在の伽藍から南東に位置する若草伽藍跡とよばれる地にあったとされるお寺です。同地から塔の心礎、金堂と塔の基壇の跡が発見されており、伽藍配置は塔と金堂が南北に一直線上に並ぶ四天王寺式のお寺です。

薬師如来像の造像・刻字の年代は7世紀後半、つまり法隆寺の再建時に新たに造像され、その後、追刻されたとの説が有力である。また、大山誠一は本銘文の成立時期を、上限が持統朝、下限は天平19年(747年)としている(1996年)。上限の根拠は持統朝が初めて天皇号を採用したこと、下限は『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747年成立)に薬師如来像の記録があることによる


643年(皇極天皇2)蘇我入鹿(そがのいるか)によって太子の子山背大兄王(やましろのおおえのおう)が襲撃され斑鳩宮は全焼したが、法隆寺は類焼を免れた。しかし『日本書紀』によれば、670年(天智天皇9)落雷によって全焼したとあり、
『法隆寺伽藍縁起並(ならびに)流記資財帳』やその他の法隆寺関係文書に火災記事がない
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法隆寺再建の問題点がここです。火災の記事がないため、法隆寺は670年(天智天皇9年)以降に再建されたものではないのではないのかという疑問です。四天王寺式の伽藍配置ということからも推測できますが、この若草伽藍は竹田皇子が亡くなった時に蘇我氏、蘇我馬子や推古天皇によって造られたものである。これが再建斑鳩である。

607年創建の斑鳩寺は、610年に跡形もなく全焼し、竹田皇子が亡くなった624年以降頃に再建されている。

この説はすでにあるようなのですが、・・・法隆寺の原資料では、「庚午年災斑鳩寺」と干支による表記のため、日本書紀編纂時に間違って670年にあてたものであって、本来は全焼したのは60年前の庚午年である610年だったのでないのかという説です。
607年に斑鳩寺が創建されたのですが、610年に全焼したということです。そして蘇我の皇子である推古天皇の息子の竹田皇子没後(624年)に、若草伽藍の場所に新たに創建されたのではないのか?
これが再建斑鳩寺であり、母親である推古天皇や蘇我馬子によって、竹田皇子をまつる釈迦三尊を本尊とするお寺が造られたのではないのか?
これがいま創建法隆寺だとされる若草伽藍に建設されていたお寺である。創建法隆寺ではなく、なく再建斑鳩寺である。斑鳩寺は再建されている。

若草伽藍に建設されたこの再建斑鳩寺は推古の息子である竹田皇子を祀るためのお寺であり、そばに造られた中宮寺は推古天皇のお寺である。この寺院は、全焼して一屋も残さずという状態ではなく、法隆寺を造り始めるときに再利用できるものは使用している。若草伽藍の塔は法隆寺に移築されている。

斑鳩寺は再建されたということです。しかし法隆寺は再建されたのではない。

創建斑鳩寺は、藤ノ木古墳の被葬者を祀るお寺である。蘇我馬子によって殺害された二人の大王家の人物を祀るためのお寺である。
怨霊封じのお寺だともいえる。

624年以降の再建斑鳩寺はこの推古の息子の竹田皇子を祀るお寺です。


そして天武が造った現存する法隆寺は、皇祖と仰ぐ大王だった祖父の押坂彦人大王と、父親である山代王を祀るお寺である。
この法隆寺の本尊は、百済観音であり、お姿は押坂彦人大王である。
そして夢殿に祀られていた白い布で覆われていた救世観音は、天武大王の父親である山代大王であるということです。
それはこの場所で亡くなっているからです。聖徳太子(押坂彦人大王)の王子である山代王(山背大兄王)である。

この夢殿の場所は、元は斑鳩の宮でした。山代王(山背大兄王)の住居であり、傍の斑鳩寺で殺されたのです。
「山背大兄王暗殺の謎と中臣鎌足」のところで、書いてきましたが、殺害者は渡来人である秦氏、藤原氏。秦河勝と、百済渡来人こと偽者の中臣鎌足である。
ですので、この救世観音は祟らないように白い布で包まれて庫裡に入れられ怨霊封じが行われている。
本来は天武大王が亡くなった父親である、この山代王(山背大兄王)を祀るため、住まいしていた場所に夢殿を造り、父親のお姿そのままの救世観音を造り祀っていたのです。天武大王の本当の父親はこの山代王(山背大兄王)である。


ウイッキペディア・・・東院伽藍
東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。『法隆寺東院縁起』によると、天平11年(739年)、斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた僧行信により創建された。

夢殿は天平11年(739年)の法隆寺東院創立を記す『法隆寺東院縁起』の記述からその頃の建築と考えられているが、これを遡る天平9年(737年)の『東院資財帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性も考えられている。
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737年の東院資財帳には、夢殿の存在が記載されていて、法隆寺東院縁起における、僧行信による739年の創建の話は真実ではありません。これは、斑鳩宮の荒廃を嘆いた行信が、阿部内親王(後の孝謙、称徳天皇)に奏上し太政大臣、藤原房前に命じて東院伽藍を造ったということからも事実ではない。藤原房前は737年に没しています。

おそらく、東院伽藍は天武大王により、法隆寺の西院伽藍が造り始められたと同じ時期頃に建設されていると思います。

737年は藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が天然痘で亡くなった年です。これは長屋王の怨霊と考えられていました。
この739年は、藤原氏によって法隆寺の怨霊封じが行わた年である。それは、この救世観音は、この地で殺害した聖徳太子(押坂彦人大王)の王子である山代王(山背大兄王)だからです。殺害した犯人は蘇我氏ではなく秦氏、藤原氏です。
天武大王により、夢殿に祀られていた救世観音が祟らないように白い布で覆われたのはこの時です。この怨霊封じを行ったのが、僧行信であるということです。739年は創建された年ではなく藤原氏によって怨霊封じが行われた年である。

藤原氏に祟った後に、法隆寺西院伽藍の本尊も百済観音から釈迦三尊に変更されている。押坂彦人大王や山代王(山背大兄王)を祀るお寺だとい由緒も変更されている。彼らも祟ったのです。聖徳太子の怨霊を封じるための寺という説は成り立ちます。

押坂彦人大王ー山代王(山背大兄王)ー天武大王ー高市大王ー長屋大王
この系譜が変更されていています。彼らは全員本来の王、そう大王でした。ですが、大王に即位していなと改竄されている。
大王家と対立して、山代王(山背大兄王)や長屋大王を殺害したのは、渡来人である秦氏や藤原氏です。

押坂彦人大兄皇子は古代史において最重要人物です。そう聖徳太子です。
そして、彼が大王だったといことは、これまでなんども記述してきましたが、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文、木簡の記述、万葉集からも明らかです。

隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。
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もう何度も記述していますが、この隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の謎解きは私には凄く容易なものでした。この銘文の謎ときはまちがっていません。
日十大王は継体天皇のことではありえません。継体天皇は天皇だと主張しているのは蘇我氏、蘇我馬子であり、本来の王ではありえません。
その人物が、大王と表現されることはありません。
この銘文が謎解けないのは、「大王」と「天皇」は異なるということが理解できていないからです。古代の歴史は変わります。

この押坂彦人大兄皇子は古代史においては最も重要な人物の一人です。
そう聖徳太子であり、大王に即位していました。隋の使者が謁見したのはこの押坂彦人大王です。男の王であり。大王(おおきみ)です。

天武が皇祖仰ぐのがこの祖父の押坂彦人大兄皇子です。日十大王です。
二人の聖徳太子、この押坂彦人大兄皇子の事跡と、竹田皇子の事跡が、聖徳太子の名の下で混同している。
日本書紀下巻の天皇は全てこの押坂彦人大兄皇子から繋がります。本来はもちろんこの押坂彦人大兄皇子が大王に即位していたとして記述されていました。それが後に藤原氏によって変更されている。記紀は改竄されている。

秦氏、藤原氏は押坂彦人大兄大王の後胤と対立して大王家を滅ぼしたからです。



写真は有名な「唐本御影」の聖徳太子の肖像画です。聖徳太子は一万円札の肖像画はこれです。
この肖像画は、百済の阿佐太子の筆とされていますが、その服装などから、天武朝に描かれたものとされます。

天武朝の制作ということは、天武が皇祖と仰ぐ祖父の厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の肖像画であり、左右に王子たち、天武のお父さんである山代王 (山背大兄王)と、孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王の肖像です。
もちろん法隆寺に伝わるものであり、法隆寺は彼らを祀るために天武大王が造ったお寺です。
それが後に藤原氏により怨霊封じのお寺となっている。

向かって右側が、天武の父親である山代王(山背大兄王)と、左側が斉明天皇、孝徳大王の父親の茅渟王です。
この三人は、もちろん大王に即位していました。


591年天皇に即位したのが推古であり、593年大王に即位したのがこの押坂彦人大兄皇子です。
聖徳太子は、この年、593年に「摂政」という官職に就いたとされますが、この時代にはそんな官職はありませんでした。
そうではなく大王に即位した年です。押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことを消すために
摂政という官職に就いたと後に改竄されているのです。
大王に即位した年が、「法興」元年であり、初めて使用された元号です。


押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王―天武大王―高市大王―長屋大王
押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟大王―孝徳大王―有馬皇子

押坂彦人大兄皇子こと日十大王の子孫と対立していたのは、 天智系の天皇(秦氏)や、藤原氏だということは、
この系譜を見れば容易にわかります。
以前に書きましたが、聖徳太子こと押坂彦人大兄大王の王子である、山代大王を殺害したのは渡来人である、秦氏、藤原氏である。

本来の大王である天武の父親は、押坂彦人大兄大王の王子である、この山代大王である。子孫を消された聖徳太子の王子である山背大兄王のことです。
大王家と対立していた天智系天皇である桓武天皇、そして藤原氏により系譜の改竄がなされている。
聖徳太子一族は滅んだとして天武の系譜を改竄している
天武と天智は兄弟ではない。桓武天皇は天智を天武の兄として系図を変更し、天武の父親を変更したのです。


法隆寺にある、釈迦三尊像光背銘は、この押坂彦人大兄皇子が大王に即位した593年(摂政になったとされる年であり、推古元年である591年ではありません)から三十一年、つまり、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある、「葵未年」の623年ということです。
法興は日本最初の元号であり、元年は593年です。
銘文どおり、翌年亡くなったのが蘇我の皇子である推古の息子の竹田皇子です。おそらく伝染病であり、もう一人の聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子も同年に亡くなっている。聖徳太子没年は624年です。


この隅田八幡神社人物画像鏡の銘文と、釈迦三尊像光背にある銘文は一致します。
法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文・・・

法興の元(593年推古元年 本当は聖徳太子元年)より三十一年(623年、隅田八幡神社人物画像鏡冒頭の(葵未年)です)、歳は辛巳に次る十二月鬼(一日?)、
前太后(竹田皇子の前の皇后、おそらく菟道磯津貝皇女(東宮聖徳に嫁いだ))崩ず。

明年(624年)正月二十二日、上宮法皇(竹田皇子)、病に枕し、干食し悆からず
王后(竹田皇子の次の妃膳部菩岐々美郎女)、よりて労疾を以て、ならびに床に著きたまふ

時に王后(膳部菩岐々美郎女)・王子等、及び諸臣と與に、深く愁毒を懐きて、
共に相ひ発願す
仰ぎて三宝に依りて、当に釈像の尺寸王身なるを造るべし。
此の願力を蒙り、病を転じ寿を延し、世間に安住す。
若し是れ定業にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、
早く妙果に昇らむことを。

二月二十一日癸酉の日、王后即世す。翌日法皇登遐(崩御)す。

癸未年(623年)の三月中、願の如く敬みて釈迦の尊像ならびに侠侍、及び荘厳の具を
造り竟りぬ。
斯の微福に乗り、信道の知識、現在には安隠にして、生を出でて死に入らば、
三宝を紹隆して、共に彼岸を遂げ、六道に普遍する法界の含識も、苦縁を脱することを
得て、同じく菩提に趣かむ。
司馬鞍首止利仏師をして造らしむ。
        *****************************

銘文は、正史とされる日本書紀、古事記の改竄箇所を暴くものです。敏達天皇の第一王子である押坂彦人大兄皇子が大王に即位していたことが消されています。
隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の内容と、この法隆寺金堂釈迦三尊像光の銘文の内容は一致します。
本来は病気が快復を祈願するための仏像です。しかし残念ながら、竹田皇子は翌年亡くなっています。銘文は亡くなって作文されたものです(本来は病が快復するようにとの銘文のはずですが、世を去られることになったら浄土に登って悟りを得るようにとの内容から)。
この仏像はもちろん、若草伽藍に再建された斑鳩寺に安置されていたものです。斑鳩寺は、蘇我氏のお寺であり、この当時の権力者である蘇我馬子が建てたお寺です。

銘文にある、法興元年は、崇峻天皇四年である、591年とされますが間違っています。
この「法興」こそ、聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことにより、実際に使用された日本最初の公年号であり、元年は593年です。法興元年から三十一年は、623年であり、これは、隅田八幡神社人物画像鏡冒頭の(葵未年)です。
聖徳太子の命日は、この釈迦三尊像光背にある銘文と日本書紀の記述では異なります。
押坂彦人大兄皇子の命日は、書記にある624年2月5日であり、竹田皇子は624年2月22日である。
これは、聖徳太子に名称でふたりの人物が混同されているからです。

銘文中には聖徳太子のことを、上宮法皇と、「皇」の文字が使用されていることからも推測できますが、「天皇」とは本来は蘇我の王の呼称であり、上宮法皇とは蘇我の皇子である推古の息子の竹田皇子のことです。
620年に蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる、「天皇記・国記」以降に、「天皇」の呼称は使用されている。
天皇の呼称は天武朝に使用され始めたとされますが、そうではないということが、この釈迦三尊像光背にある銘文がからも推測できます。「大王」と「天皇」は異なるり、この時蘇我氏により歴史は変更されている。

隅田八幡神社人物画像鏡は、蘇我の王子である推古の息子の竹田皇子が病気(おそらく伝染病)にあった時に、蘇我馬子が神様に回復をお願いしたものです。



纏めてみます。

*法隆寺金堂内の、ふたつの仏像の後背の銘文から、法隆寺創建は607年、そして624年と推測されています。
しかし、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものでるとされ、現存法隆寺は607年に創建されたという法隆寺(斑鳩寺)ではない。
つまり再建されていると考えられています。
しかし607年に創建されたという斑鳩寺と、現存法隆寺は同じ寺ではない。

*現存法隆寺は、7世紀後半に造り始められたものであり、この時、大王だった天武大王によって、祖父の押坂彦人大王や父親、山背大兄王を祀るためのお寺です。天武の在位期間時、673年頃に造り始められ、700年頃にはほぼ完成していたのだろうと思います。
しかし彼らは藤原氏に祟りました。法隆寺創建の由緒は、藤原氏によって変更されている。藤原氏は、押坂彦人大王の後胤と対立し何人もの大王家の人物を殺害している。

*法隆寺金堂壁画は全体で50面程ありますが、そのうち12面は1949年の火災により残念なことに焼損してしまいました。この火災をきっかけに文化財保護法が制定されることになりました。
壁画の技法や様式は唐時代の初期の影響を受けているとされ、壁画の制作時期は7世紀最末期から8世紀のごく初期頃と推測されています。
壁画の製作時期、そして木材の年輪年代測定においても、7世紀末の木材が使用されていて、法隆寺の創建は7世紀末と推定できます。つまり、法隆寺はこの時期に大王だった人物が建てた寺院です。
聖徳太子に関する創建の由緒は事実ではなく、法隆寺は天武大王が、祖父や父親を祀るために建設した寺院である。斑鳩寺と法隆寺は異なるお寺である。現存法隆寺創建は700年頃である。

*天武大王の父親は、押坂彦人大王の王子である山背大兄王です。この山背大兄王も大王に即位していました。斑鳩の宮において山背大兄王を殺害した真犯人は、秦氏、藤原氏である。この対立は百済救援の出兵が関わる。

*この斑鳩の宮は、法隆寺の夢殿の場所は山背大兄王の住居でした。ここ夢殿において祀られている救世観音は、この斑鳩の宮傍の再建斑鳩寺で亡くなった山背大兄王である。藤原氏に祟ったため、これ以上祟らないように白布で包まれていた。怨霊封じである。

*法隆寺金堂内の、ふたつの仏像(銅造薬師如来、釈迦三尊像)の後背の銘文から、法隆寺創建は607年、そして623年(本当は624年)と推測されています。
そして何故か古い由緒を刻む薬師如来よりも、釈迦三尊像の方が金殿の本尊になっている。

創建斑鳩寺の本尊は607年の創建の由緒が刻まれている銅造薬師如来坐像だと推測できますが、仏像の様式や鋳造技法、そして薬師如来信仰の関係により本尊ではないと疑問がかけられています。
この銅造薬師如来坐像よりも、聖徳太子(竹田皇子)が亡くなった時に造られたとおもわれる釈迦三尊像の方が古い時代のものである。

*日本書記 天智九年
   夏四月癸卯朔壬申夜半之後災法隆寺一屋無餘 大雨雷震

日本書紀、天智九年(670年)、法隆寺は焼失して一屋も余さなかったと記述されています。若草伽藍にあったとされるこの法隆寺の本尊は釈迦三尊像であると推測されていますが、この大きな仏像を火災時に搬出するのは難しい。
つまり若草伽藍に建設されていた法隆寺(斑鳩寺)は、日本書紀が記すほどの火災にはあっていない。日本書紀の記述は疑われています。

*日本書紀の記述によれば、670年(天智天皇9)落雷によって全焼したとされていますが、「隆寺伽藍縁起並流記資財帳」や、その他の法隆寺関係文書には火災記事がない。ですので、このことからも日本書紀の記事にも疑問が投げかけられている。

*法隆寺は一屋もなく全焼したとされますが、元の斑鳩寺あったとされる若草伽藍は、火災の跡はあるものの一屋もなくという記述とは異なる状態である。この若草伽藍にあったとされる法隆寺(本当は再建斑鳩寺)は、焼失してはなく、天武により、再利用して、北側に造られたお寺が今現存する法隆寺である。それはこの若草伽藍にあった再建斑鳩寺において父親である山背大兄王が殺害されたからです。殺害された場所にあるこの再建斑鳩寺を取り壊して、新たに建立したのが現法隆寺である。

全焼して一屋も余さなかったということなら、なにもない平地であるこの場所(若草伽藍)に再建されるはずである。それが、北側の尾根を削って、谷を埋めてまで、別の場所(いまの法隆寺)に建設しているということは、この若草伽藍には建物が存在していたはずである。
若草伽藍跡に今も残る五重の塔の心磁石が何よりの証拠である。五重の塔は心柱は再利用されている。壊しながら別の場所に造り始めたため、本来は再利用するべきはずの心磁石が残った。つまり塔は移築されている。ですので五重の塔は飛鳥時代の塔の様式である。

*法隆寺は金堂と塔が東西に並ぶ形である。これは、四天王寺のような金堂、塔を南北に配置する飛鳥時代の様式とは異なる。現存法隆寺は飛鳥時代に造られたものではなく7世紀半ば以降の建築様式である。しかしながら、若草伽藍にあった再建斑鳩寺を再利用したために古い様式が残っている。

*今現存する法隆寺の本尊は、百済観音である。それが、藤原氏により、寺の由緒を変更するときに、本尊を釈迦三尊像に変更されている。ですのでこの百済観音は、由来のわからない謎の仏像になっている。
変更の理由は、天武大王が祀っていたのは、押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や山代大王(山背大兄王)だからです。彼らは藤原氏に祟りました。山背大兄王を殺害したのは秦氏、藤原氏です。蘇我氏、蘇我入鹿ではない。

押坂彦人大王も山代大王(山背大兄王)も、もちろん大王に即位していました。殺害した人物が大王だと都合が悪い藤原氏は系譜を改竄し、彼らは大王に即位していなように変更しています

山代大王(山背大兄王)が住まいしていた斑鳩の宮の場所は、いまの法隆寺の東院伽藍、夢殿がある場所である。つまり法隆寺夢殿の本尊である救世観音は、この山背大兄王である。これ以上祟らないように木綿の布で包まれ厨子に入れられていたのです。
百済観音(この名称は良くない。百済なんてとんでもない。変更するべき)は、押坂彦人大兄大王のお姿。救世観音は、この山背大兄王のお姿である。

*747年の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」には、7世紀中、後半に作られたとされる百済観音に関する記述がない。後に他の寺から移されたとも推測できすが、それはあり得ないように思う。つまり、この百済観音が本来の本尊だったからだとも言えます。この時に法隆寺の縁起が変更され祀られている人物も変更している。そして法隆寺の本尊も変更されている。
それは百済観音はこの押坂彦人大兄大王だからです。

*若草伽藍跡からの発掘調査により、この地に造られている寺は、四天王寺と同様の造りであり、金堂、講堂が南から北に並ぶ配置だったとされます。

これは四天王寺同様に仏教導入を行った蘇我氏、蘇我馬子によって造られたお寺である。蘇我氏に関係するお寺である。
このお寺は607年に創建された法隆寺(斑鳩寺)ではなく、蘇我の皇子である推古天皇の息子竹田皇子が624年に亡くなった時に、彼を祀るために推古天皇や馬子によって造られたお寺である。

創建斑鳩寺は、藤ノ木古墳に眠る、物部系の大王を祀るためのお寺である。

若草伽藍跡に造られたお寺は創建法隆寺(斑鳩寺)ではない。

法隆寺の原資料では、「庚午年災斑鳩寺」と干支による表記のため、日本書紀編纂時に間違って670年にあてたものであって、本来は全焼したのは60年前の庚午年である610年だった可能性がある。

つまり607年創建の斑鳩寺は、610年に火災のため一屋も残さず消滅。
その後、624年に推古天皇の息子竹田皇子が亡くなった時に若草伽藍に造られた。ただし、この若草伽藍の場所は、創建斑鳩寺が建てられていた場所ではないように思う。

年輪年代測定により、7世紀後半、天武大王により造り始められたのが今現存する法隆寺である。天武大王により、祖父の押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や山代大王(山背大兄王)を祀るお寺である。
藤原氏に祟った後に、由緒は変更され、怨霊封じのお寺となっている。


長屋王が祟って藤原四兄弟が呪い殺された時以降に、この法隆寺は怨霊封じのお寺となった。それは法隆寺の本尊であり、押坂彦人大兄大王のお姿であるからである。
この百済観音は、日本で造られた仏像であるのに、何故か百済から渡来したとの言い伝え(本来は虚空蔵菩薩)があり?仏像の由来が変更されるようになってしまっている。百済観音の名称は近年に名付けられたものであり、この仏像は日本で造られたものである。ですのでこの百済観音の名称はよくない。変更すべきです。

天武が造った法隆寺は祖父の押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や山代大王(山背大兄王)を祀るお寺である。
長屋王はこの押坂彦人大兄大王や山代大王の後胤である。大王家と対立していたのは秦氏、藤原氏である。
押坂彦人大兄大王以降の系譜は変更され、彼らが大王だったことが変更されている。

いま法隆寺の本尊は釈迦三尊像であるのですが、この釈迦三尊像は623年に造られたものであり、607年に創建されたとされる斑鳩寺の本尊ではない。創建斑鳩寺の本尊は火災により焼失している可能性がある。
607年創建であるのなら、釈迦三尊像が本尊になっているのはおかしいわけです。
この釈迦三尊像が本尊だったお寺は、竹田皇子が亡くなった時に母親の推古天皇や蘇我馬子が造った、若草伽藍に造られたお寺、再建斑鳩寺(斑鳩寺と呼ばれたかは不明)である。この再建斑鳩寺は蘇我氏が権力を握った時に造られた蘇我氏のお寺であり、法隆寺とは祀られている人物が異なる。

蘇我氏が滅び、物部系の大王である天武大王の時代になって、蘇我の寺を、本来の物部の大王を祀るお寺に造り変えている。それは父親である山背大兄王がこの場所で殺害されたからでもある。新たに法隆寺を造った理由である。
法隆寺の本尊はこの百済観音でああり、仏像にモデルがあるとすれば、聖徳太子こと押坂彦人大兄大王である。

 
結論は・・・
創建斑鳩寺の本尊は、607年の創建の由緒が刻まれている銅造薬師如来坐像だと推測できますが、仏像の様式や鋳造技法、そして薬師如来信仰の関係から現本尊である、釈迦三尊像の方が古い時代のものである。
この釈迦三尊像は623年に造られたとされ、607年創建の斑鳩寺の本尊ではありえない。銅造薬師如来坐像は、623年以降に造られた仏像である。
この銅造薬師如来坐像銘文は、本来はは蘇我馬子によって作文されたものだと思うのですが、藤原氏によって法隆寺の由緒を変更した時(長屋王の変以降、藤原四兄弟に祟った後)に、薬師如来像に刻まれたものだと思うのですが?

法隆寺は、天武大王によって、創建され、祖父の押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や王子たち、この山代大王(山背大兄王)や孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王をを祀るお寺であるという事実を変更したかったからです。本来の由緒を変更するための銘文である。

さらに法隆寺金堂のこの大きな釈迦三尊像には火災の跡がない。日本書紀の記述によれば、670年(天智天皇9)落雷によって全焼したとされていますが、「隆寺伽藍縁起並流記資財帳」や、その他の法隆寺関係文書には火災記事がありません。
法隆寺の原資料では、「庚午年災斑鳩寺」と干支による表記のため、日本書紀編纂時に間違って670年にあてたものであって、本来は全焼したのは60年前の庚午年である610年だった可能性がある。

607年に蘇我氏により創建された斑鳩寺は、610年に火災にあい一屋も残さず全焼。このときに本尊も失われている。その後、蘇我の皇子である、推古の息子の竹田皇子が、624年に亡くなった時に、彼を祀るために若草伽藍に造られたのが再建斑鳩寺である。この再建斑鳩寺の本尊こそ、623年に造られた釈迦三尊像であり、モデルはもう一人の聖徳太子でもあるこの竹田皇子である。

この時以降に、607年の創建の由緒が刻まれている銅造薬師如来坐像も作られている。ただしこの銘文は蘇我氏の時代に、蘇我の王、つまり「天皇」の呼称を使用しての銘文である。
蘇我馬子と聖徳太子(竹田皇子)が編纂した「天皇記」、「国紀」は620年の編纂です。この時に「天皇」の呼称は使用されている。
蘇我の王の呼称は「天皇」ですが、本来の王の呼称ははもちろん「大王」である。銅造薬師如来坐像の銘文にも、「天皇」と「大王」の文字が使用されている。
この銘文は蘇我馬子によって造られた蘇我氏の王である、「天皇」の方が上位に位置づけられるような内容、天皇が統治していたという内容の銘文である。
蘇我馬子のよって歴史が改竄されている。それは本来の王家は物部氏が深く関わるからである。
そして藤原氏も、蘇我氏の歴史書ともいえる「天皇紀」「国紀」など、蘇我氏によって変更された歴史を基にして新たに歴史を改竄している。秦氏、藤原氏もまた物部系の大王と対立していました。

この斑鳩寺や再建斑鳩寺は蘇我氏によって造られた寺院であるのですが、現法隆寺は、物部系の王である天武大王によって700年頃に創建された寺院である。
百済観音は、本来は観音菩薩像であり、飛鳥時代後期、680年~690年頃に造られた仏像であると推測されています。つまり、現法隆寺の本尊はこの百済観音です。モデルは天武が皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大王であり、本来の聖徳太子です。

押坂彦人大王ー山代王(山背大兄王)ー天武大王ー高市大王ー長屋大王
この系譜が変更されていています。彼らは全員本来大王でした。
天武大王の本来の父親はこの山代王(山背大兄王)です。藤原氏によって系譜の変更がなされている。この山代王(山背大兄王)も大王でした。彼を殺害したのは、蘇我氏ではなく秦氏、藤原氏である。長屋大王を殺害したのも彼らである。

現法隆寺の夢殿の場所は、元は斑鳩の宮であり、山代王(山背大兄王)の住居であり傍の若草伽藍にあった再建斑鳩寺で殺されたのです。つまり、天武大王が亡くなった父親である、この山代王(山背大兄王)を祀るため、宮として使用していた斑鳩の宮に夢殿を造り、父親のお姿そのままの救世観音を造り祀っていたのです。山代王(山背大兄王)も大王に即位していました。

その後、長屋王が秦氏、藤原氏に祟った後に、この救世観音は祟らないように白い布で包まれて庫裡に入れられ怨霊封じが行われている。長屋王は押坂彦人大王の後胤であり本来の大王でした。押坂彦人大王の後胤である大王家の人々を殺害したのは秦氏、藤原氏である。彼らは秦氏、藤原氏に祟りました。
藤原四兄弟が彼らの祟りによって亡くなった後に、法隆寺の本尊は変更されている。それは法隆寺の本来の本尊である百済観音は、押坂彦人大王であり、夢殿にある救世観音は、殺害した山代王(山背大兄王)であるからです。

現法隆寺は、天武大王により、祖父の押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や王子たち、この山代大王(山背大兄王)や孝徳大王、皇極天皇の父親である茅渟王をを祀るお寺である。斑鳩寺は蘇我氏の寺院であり、現法隆寺は物部の寺院であるといえます。

つまり、蘇我の皇子である、推古の息子の竹田皇子が、624年に亡くなった時に、彼を祀るために若草伽藍造られた再建斑鳩寺は、全焼するという火災にはあっていないと推測でき、物部系の王である天武によって現法隆寺が造られる時に、蘇我氏の寺院である、この再建斑鳩寺は壊され、部材は再利用されている。
この場所に法隆寺を創建したのは、やはり父親である山代王(山背大兄王)が亡くなった場所であるからだと思います。若草伽藍委あった再建斑鳩寺を壊したのも蘇我氏の寺院であるからでもあります。天武大王は物部系の大王です。




写真は藤ノ木古墳です。秋には周辺に植えられているコスモスが咲きます。

藤ノ木古墳は、「みささき」と呼ばれていました。これは大王のお墓であるということです。

藤ノ木古墳の被葬者は、泊瀬部皇子(崇峻天皇)と穴穂部皇子が有力な被葬者と推測されています。
崇峻天皇陵だという伝説も存在します。
この二人は蘇我馬子によって殺されています。ですがおかしいですよね。
系図をみれば分かりますが、この二人は蘇我の皇子ですよね。
二人とも欽明天皇と、母親は蘇我稲目の娘である、蘇我小姉君です。どうして蘇我馬子は蘇我の皇子であるこの二人を殺害したのでしょうか?

彼らは敵対していた大王家、つまり物部系の人物です。系図が変更されている。もう一人の候補者である宣化天皇の王子とされる宅部皇子も物部の王子である。
この「穴穂部」は、物部氏が関わる。第20代天皇である安康天皇は穴穂天皇とされ、、即位すると宮を石上に遷し、「石上穴穂宮」とされます。石上には石上神宮があり、物部の本拠地である。この安康天皇も同母弟の雄略天皇も物部氏の大王である。
物部守屋がこの穴穂部皇子を擁立しようとしたのは当然のことである。物部の王子である。
聖徳太子の母親とされる、穴穂部間人皇女ももちろん物部の女性である。

蘇我氏による系譜の変更箇所です。もう何度も書いているところですが、・・・。
推古天皇の父親は欽明天皇です。欽明天皇の父親は継体天皇です。蘇我氏はこの欽明天皇を擁立しようとします。

そして安閑、宣化天皇も継体天皇の皇子たちだとされますが、そうではない。
彼らは倭王武こと雄略天皇の息子たちであり、物部系の本来の大王家の人物です。

継体天皇もちろん実在の人物ですが、本当の王ではない。

応神天皇・・・継体天皇ー欽明天皇ー推古天皇

蘇我氏が主張する女系
応神天皇ー仁徳天皇ー履中天皇ー市辺押磐皇子ー顕宗天皇ー仁賢天皇

ウイッキペディア・・・市辺押磐皇子
『播磨国風土記』に「市辺天皇」とあり、皇統譜には記載されていないが、実質的にあるいは実際に天皇に即位していた可能性が指摘されている。

飯豊青皇女
第22代清寧天皇の崩御後に一時政を執ったとされ、飯豊天皇とも呼ばれる。
      ********************************
市辺押磐皇子の娘である飯豊天皇も天皇だったとされます。そう天皇でいいのです。天皇とは蘇我の王の呼称です。
天皇記・国紀において系譜を改竄した時に、さかのぼって継体天皇の皇后であり欽明天皇の母親である手白香皇女の系図を本来の大王家に繋ぐ操作がなされている。蘇我氏が関係する天皇の正統性を述べている。

顕宗天皇、仁賢天皇の奇妙な即位の話は作り話です。手白香皇女は仁賢天皇の娘です。欽明の母親を大王家に繋ぎ蘇我氏の正統性を主張している。
欽明は継体の三男とされますが、兄たちより、女系において天皇の血が繋がっていると改竄している。欽明擁立の正統性を主張している。

二人の兄である安閑天皇と宣化天皇の母親は大王家とは繋がらない尾張連草香の女である目子媛です。そして彼らは継体天皇の皇子たちではない。

そしてもちろん欽明天皇も本来の王ではありません。欽明天皇時には
本来の大王はいます。しかし蘇我馬子により消されている。
敏達天皇や、穴穂部皇子、泊瀬部皇子などは欽明天皇の皇子たちではない。

安閑天皇には子供がいません。そんなはずはありあません。安閑天皇の後胤を消し去っているので、ここが系譜改竄尾の箇所であると推測できます。

消されているので本来の大王は誰だかわかりませんが、この本来の大王の子供たちを欽明の子供たちに取り組んで蘇我氏を大王家に繋いでいる。欽明天皇の子供たちのほとんどは欽明の子供たちではない。

聖徳太子である押坂彦人大兄皇子の父親である敏達天皇を欽明天皇の皇子に変更している。本来の大王家の人物である、敏達天皇は欽明天皇の王子ではない。
安閑天皇の王子であるはず、・・・しかし消されている。

唯一の手掛かり?・・・
ウイッキペディア 安閑天皇
記紀に皇子女の記述はない。『本朝皇胤紹運録』によれば子に豊彦王(とよひこのみこ)がいるという。秦氏は通常は秦の始皇帝の子孫とされるが、この記載に従えば安閑天皇の落胤となる。しかしこの豊彦王については他に史料が見当たっておらず所拠不明である
  ************************
これ、秦氏が後胤と主張しているのであれば、なんかこの豊彦王の実在に信ぴょう性があるように私には思えるのですが・・・???
秦氏は本来の大王家の人物に繋いでいるように思うのですが・・・?


蘇我氏は物部氏と対立し、本来の大王家の人物であるこの穴穂部皇子、泊瀬部皇子を殺しました。彼らは大王に即位していました。斑鳩寺は蘇我氏による藤ノ木古墳の被葬者の祟りを鎮めるためのお寺である。
四天王寺は物部守屋、同じく斑鳩寺も本来の大王だった藤ノ木古墳被葬者を祀るためのお寺である。

敏達天皇の後、王子である押坂彦人大兄皇子はまだ若かったため、次期大王をめぐって争いが起こっている。用明天皇は王ではありません。
物部系である敏達天皇の弟である穴穂部皇子が大王に即位している?暗殺されたのちには、弟の泊瀬部皇子(崇峻天皇)が大王に即位している。彼らは物部の大王であり、正統な王位継承者である。
この二人を殺したのは蘇我氏である。蘇我馬子は系譜を改竄する必要があったのです。蘇我の人物として変更している。

藤ノ木古墳の被葬者は、本来の大王だったこの二人である。御陵と呼ばれるのはこれが理由です。この二人を祀るために物部の大王である押坂彦人大兄大王によって造られたのが斑鳩寺である。

敏達天皇崩御年585年、穴穂部皇子の崩御年は587年、崇峻天皇の崩御年は592年、押坂彦人大兄皇子が大王に即位した593年(摂政になったとされる年)です。彼らが本来の大王です。ですので、聖徳太子こと押坂彦人大王が斑鳩寺の創建に関わっている。

つまり
倭王武こと雄略天皇ー安閑天皇ー豊彦王?ー敏達天皇ー穴穂部皇子ー崇峻天皇ー押坂彦人大兄皇子ー山代王ー茅渟王ー孝徳大王ー天武大王ー高市大王ー長屋大王ー鈴鹿大王
彼らは物部系の本来の大王である。

それでは全焼したとされる創建斑鳩寺はどこにあったのだろうか?
ここはもちろん私の推測ですが、斑鳩寺はこの藤ノ木古墳の被葬者を祀るためのお寺だとすると、もっとこの藤ノ木古墳近くのはずである。
藤ノ木古墳の東側、若草伽藍の西側の場所にあったと推測するのですが・・?これは、若草伽藍に建立されたお寺は、南北に一直線上に並ぶ伽藍配置だったとされるのですが、正確には藤ノ木古墳に正対するようにやや西南西(およそ西に二十度)に傾くのです。斑鳩条里とよばれる土地区画です。これは創建斑鳩寺の跡地自体が傾いていたので、この跡地に並んでお寺(若草伽藍)を建立したからのように思うからです。
ですので、藤ノ木古墳と、若草伽藍に間に創建斑鳩寺は存在していたように思うのですが・・・?

藤ノ木古墳の南部に接してには宝積寺というお寺が存在していました。このお寺は藤ノ木古墳の被葬者を供養するためのお寺であるはずです。どういうことかというと、若草伽藍に造られたお寺は、この藤ノ木古墳の被葬者を祀るお寺ではないということです。
物部本宗家が滅び、蘇我氏が権力を握った時代に造られたこの再建斑鳩寺?は、推古の息子の竹田皇子を祀るお寺であり、蘇我氏のお寺といえます。
ですので、別に藤ノ木古墳を祀るお寺を造った、それがこの宝積寺ではないのかな?この宝積寺は、創建斑鳩寺の跡地に造られていた可能性もあるようにも思いますが、火災があった場所とは異なった場所に造られているように思います。ですので、藤ノ木古墳の東側に接して、創建斑鳩寺が存在していたように推測しています。

蘇我氏、蘇我馬子や推古天皇は、何故にこの物部の地に竹田皇子を祀るお寺を造ったかというと、太子道を通ったのが、仏教に深く帰依して藤ノ木古墳の被葬者を祀っていたのが、この竹田皇子だからです。
蘇我の皇子ともいえる竹田皇子は、蘇我氏と物部氏の争い(丁未の乱)にも参戦しています。
蘇我氏によって殺害された被葬者を供養していたのです。

押坂彦人大兄大王が大王の時代、太子だったのはこの竹田皇子です。この斑鳩の地の上宮というところに、聖徳太子が晩年を過ごしたとされる飽波葦垣宮の遺構が発見されています。この地で聖徳太子は亡くなったという伝承が存在します。





写真は、矢田坐久志玉比古神社です。地名の矢田は物部氏が関わります。
物部の神様である、櫛玉饒速日命が祭られています。
この饒速日命が降臨するときに、住居を決めるときに三本の矢を射ったらこの地に落ちたという伝承があります。その内の二の矢が落ちた所が、この神社の場所です。

饒速日命は天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。
最初に移った土地がここ矢田である。奈良盆地北西に位置する矢田丘陵があり、斑鳩の地はこの矢田丘陵の南部に位置する。

この文字、「斑鳩」でどうして「イカルガ」と読むのでしょう?これずっと不思議だったのですが、物部氏が天下った河上の地とは、「イカルガの峰」であるのです。
饒速日命が降臨した場所が、河内国川上哮ケ峰(いかるがみね)なのです。どちらも「イカルガ」です。
この地名は関係しているはずです。この地は物部氏の土地であり、大和王権、つまり「大王家」とは物部氏のことである。
藤ノ木古墳の被葬者は、この物部の大王である、穴穂部皇子と崇峻天皇であり、穴穂部皇子も大王に即位している。
穴穂部皇子の同母姉であり、聖徳太子の母親である穴穂部間人皇女も、物部姫である。その子供の押坂彦人大兄大王も物部氏の大王である。
聖徳太子こと押坂彦人大兄大王は、敏達天皇と皇后である息長真手王の娘の広姫の王子ではない。
敏達天皇と、母親はもちろん穴穂部間人皇女である。穴穂部間人皇女は物部姫であり、息長氏とは蘇我氏のことである。蘇我馬子による系図の改竄箇所である。
磯長にある叡福寺北古墳は、竹田皇子のお墓であり、推古天皇が合葬されていた。この磯長は蘇我氏の墓域である。
穴穂部間人皇女はのお墓は延喜式にあるように、竜田清水墓である。このお墓の場所は不明ですが、竜田の地は斑鳩のそばであり、物部の土地である。
二人の聖徳太子・・・お母さんも混同されている。

今も斑鳩の地は「物部さん」と呼ばれているそうです。物部本宗家の土地である。
そして法隆寺には、物部守屋の遺品(甲冑、鎧など)が数多く残っています。法隆寺に祀られている押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)や山代大王(山背大兄王)は物部の大王である。そして天武もまた物部の大王です。

藤ノ木古墳には、崇峻陵の伝承があります。物部系の大王である、穴穂部大王や崇峻大王のお墓です。そしてこの藤ノ木古墳は合葬墓です。これはもとは穴穂部大王のお墓だったのですが、崇峻大王が追葬されている。穴穂部皇子もまた大王に即位している。物部の大王である。












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聖徳太子の系譜の謎と蘇我馬子、蝦夷、入鹿のお墓

2017年02月22日 | 聖徳太子の謎


今回も古墳のお話です。もともと、古墳にはあまり興味がなかったのですが、・・・大阪、奈良
は近く、最近、頻繁に訪れています。
そして、新たに王陵の谷ともいわれる、大阪府太子町、磯長(科長)で蘇我馬子のお墓を発見しました。
蝦夷、入鹿のお墓もね。

やったー!!!前回に続きまたまた新発見でーす。(^^)/

蘇我馬子のお墓に関しては、石舞台古墳が有名ですが、蘇我氏の本貫地である科長には、馬子のお墓の伝承が残っています。
そして誰もが容易に蘇我馬子のお墓を発見できます。なのに・・・・なぜ???

聖徳太子の謎に関しても、もちろん蘇我馬子は大きく関わります。そして、このお墓の謎もまた、聖徳太子の謎に関わります。

本来、日本書紀の、推古条における、皇太子とは、推古の息子である竹田皇子のことでした。

ウイッキベディア・・・
皇太子・嶋大臣共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、臣連伴造国造百八十部併
せて公民等の本記を録す。
 『日本書紀』推古28年是歳条
******************************
この竹田皇子と蘇我馬子は、天皇記・国記を編纂したとされます。蘇我馬子が編纂したということからも判断できますが、
これ蘇我氏の歴史書です。天皇とは本来蘇我の王の呼称でした。
蘇我馬子により、古代の王家に蘇我氏を繋げる改竄がなされている。
この天皇記・国記の推古条には推古の息子の竹田皇子が皇太子の名称で書かれていました。この蘇我氏の歴史書である
天皇記・国記を基に、後の歴史書は編纂されている。

その蘇我氏なのですが、・・・
実は、本来は、蘇我氏というのは、もと息長氏のことなんじゃないのか?という疑問を考えていましたが、・・・長くなりそう
なので、今回と次回に分けます。
息長とは科長のことでもあり、蘇我氏の本来のの本貫地なのでは?
多くのお墓が存在し、王陵の谷ともいわれる、磯長は、蘇我氏の墓域です。

この磯長 で、蘇我馬子のお墓見つけちゃいました。

でもね、・・・実は誰にでも簡単に見つけられます。それは、ここ磯長 には、蘇我馬子のお墓が存在するとの伝承が
残っているからです。しかも文献には位置情報まで伝わっています。これらの伝承どおりの場所に古墳が存在し、容易に見つけられます。

なのに、治定できていません。
何故かっていうと。聖徳太子の謎を解けていないからです。この蘇我馬子のお墓の伝承の謎も、私には容易に解けます。
それは、ひとつ謎解けると矛盾する箇所が容易に見つかるらです。

今回は、この磯長 (科長)に残る蘇我馬子のお墓の伝承から、改竄された聖徳太子の系譜の謎について考えてみます。
本来の王家の人物が、蘇我の人物として取り込まれている。

本来の蘇我馬子のお墓は、もちろん明日香にある石舞台古墳なのですが、蘇我氏の墓域である、磯長に、蘇我馬子は改葬されたのです。

ウイッキベディア
石舞台古墳・・・
被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力である。『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条に「大臣薨せぬ。
仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する
懲罰ではなかったかとする説もある。

     *********************
石舞台古墳の現在の状態からも判断できますが、封土もなく、また石棺もありません。ですので、埋葬品は盗掘に遭った
後とされますが、そうではありません。
封土が剥がされ、また石棺がないことからも、ここから移葬されたのです。
天武は、明日香の地に宮を建設しました。その時、蘇我氏憎しの天武により、蘇我馬子は明日香の地から追いやられたのです。
同様に、蘇我蝦夷、入鹿親子も明日香からこの磯長 に移葬されている。

明日香の地を宮と定めた、天武は、明日香における蘇我氏の痕跡を排除しています。石舞台古墳の蘇我馬子も明日香から、
磯長に移葬され、埋葬されたたのです。
そして、これまで記述してきましたが、蘇我氏に関わっていた事績を消し去っている。

斑鳩寺を法隆寺に、そして、明日香の栢寺を、橘寺に、法興寺を、元興寺として寺名を変更し、由緒も、推古の息子の
竹田皇子から祖父の押坂彦人大兄皇子の事績として書き換えている。
これが聖徳太子とは誰なのか混乱している原因になっている。この二人の事績が、聖徳太子の名称で纏められてしまっている。


この蘇我氏の墓域である磯長 に、蘇我馬子のお墓があるという伝説が残っています。しかも文献には位置情報まであるのに
治定できていません。


聖徳太子伝私記・・・
蘇我馬子廟桃源者 河内国科長東条石川也 御廟辰巳方也
  ************************
聖徳太子伝私記には、科長の聖徳太子御陵の辰巳(南東)に、蘇我馬子のお墓があるという記述があります。
そう、蘇我馬子は、石舞台古墳からここに改葬されたのです。


地図を見てください、古墳は簡単に見つけられますよね。しかも蘇我氏のお墓である方墳です。
聖徳太子御陵の傍の南東にある古墳は、この古墳以外ないですよね。
あれ???でもここ用明天皇の御陵(河内磯長原陵)とされています。

でも、私には、容易に蘇我馬子のお墓を見つけることができました。それは、被葬者が用明天皇だからです。
もう何度も記述してきましたが、用明天皇は改竄された系譜上の聖徳太子のお父さんです。
聖徳太子の、本当のお父さんは敏達天皇だからです。

厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇と穴穂部間人皇女の王子です。
聰耳皇子こと竹田皇子は敏達天皇と推古の皇子です。

押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の、ふたりの皇太子が聖徳太子の名称で後に纏められてしまったのです。
ですので、聖徳太子御陵の傍の古墳を用明天皇陵としていることからもおかしいわけです。改竄した系譜に合わせて、
お墓も変更している。

つまり、この古墳がが用明天皇陵とされることからも間違っていると判断できます。
それは、改竄した系譜を正当化するために、古墳も被葬者も変更したのです。
この古墳以外にも、系譜の改竄に伴い多くの古墳の被葬者を変更しています。

聖徳太子御陵の傍の南東にはこの古墳しかないのに、ここが用明天皇陵と改竄されたので、古代の人も
蘇我馬子のお墓がどこかわからなくなったようです。ですので、近くに層塔を造って祀ったようです。
この用明天皇陵は、その規模や形が石舞台古墳とよく似た形だともいわれます。


江戸時代の「河内名所図絵」に・・・
馬子大臣塚 西方院壱町計東の方 民家の前にあり

写真の層塔を、蘇我馬子の塚としていますが、もちろんこんな層塔が、蘇我馬子のお墓であるわけがありません。

聖徳太子は、この用明天皇と穴穂部間人皇后との皇子とされます。
古事記、日本書紀は正史。その正史にあるから、誰も疑いません。
だから真実の歴史は見えません。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―山代王―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子


押坂彦人大兄皇子の子孫と対立していたのは、 天智系の天皇や、藤原氏だということは、この系譜を見れば容易にわかります。
本来の王家から繋がらないように、系譜から外した人物が、用明天皇と穴穂部間人皇女の皇子としての厩戸皇子です。

この用明天皇陵こそ、明日香から改葬された蘇我馬子のお墓です。

天武が明日香に宮を定めてから、蘇我氏の痕跡を排除している。
逆に、蘇我氏に関係する人物して科長に葬られていた、敏達天皇と 厩戸皇子こと 押坂彦人大兄皇子をこの科長から改葬している。

敏達天皇の最初の皇后は、息長真手王の女の広姫とされますが、そうではありません。最初の皇后はもちろん厩戸皇子こと
押坂彦人大兄皇子のお母さんの穴穂部間人皇后です。次の皇后が推古であるので、敏達はこの科長の地に葬られていました。
ですが、天武によりこの科長から改葬されている。前回書きましたが、同じく押坂彦人大兄皇子もまた、この科長から改葬されている。
孝徳天皇と同様に、この用明天皇も、蘇我氏に関係する人物ではなく科長の地に葬られてはいません。


息長真手王の娘の一人である麻績娘子が継体天皇に嫁ぎ、もう一人の娘がその孫の敏達天皇の皇后の広姫であるという、
ありえない系譜からも杜撰な改竄というのがわかります。ここが光明皇后による聖徳太子に関する系譜の改竄個所です。
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子は敏達天皇と、 穴穂部間人皇女との王子です。敏達天皇の最初の皇后は、広姫ではなく、
この穴穂部間人皇女です。そして、敏達天皇は欽明天皇の皇子ではありません。また、穴穂部間人皇女も、蘇我稲目の娘の
小姉君の子供ではない。ともに蘇我氏の血を引く人物ではありません。次回に続く・・・。


ウイッキベディア・・・
用明天皇・・・
埋葬について、『日本書紀』では天皇は崩御後の7月21日に「磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)」に葬られたうえで、
推古天皇元年(593年)9月に「河内磯長陵」に改葬されたとする。一方、『古事記』では「科長中陵」に葬られたとする。
『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では現在と同じ「河内磯長原陵」の名称で記載され、河内国石川郡の所在で、兆域は東西2町・南北3町で
守戸3烟を付すとしたうえで、遠陵に分類する

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聖徳太子のお父さんとされる、用明天皇のお墓は、日本書紀の記述、そして、延喜式の中の諸陵式において、
河内磯長原陵とされるからです。もちろん、延喜式の成立は記紀成立の時代より後のもです。
延喜式は改竄された日本書紀の記述を参照している。
聖徳太子のお父さんを用明天皇として系譜を改竄したときに、聖徳太子のお墓の傍にある、この古墳を用明天皇の
お墓として改竄したのです。
つまり、用明天皇は改葬されていなくて、いまも磐余池上陵に眠っています。


天武は、明日香の地に宮を建設しました。その時、蘇我氏憎しの天武により、蘇我馬子は明日香の地から追いやられたのです。
この磯長は、蘇我氏の本貫治であり、墓域である。

すると、どうなのだろう?そう、同様に、蘇我蝦夷、入鹿親子も明日香からこの科長に移葬されているのではないだ
ろうか?・・・と、私には推測できるのですが、どうなのだろう?


日本書紀には、蝦夷・入鹿のお墓は双墓とされます。本来はもちろん住居があった明日香の地にお墓を造るはずです。

いろいろ説があるようですが、本来の蘇我蝦夷、入鹿のお墓は、五条野宮ケ原1・2号墳で間違いないと思います。
明日香の近くである。蘇我氏の方墳である。7世紀中頃の築造である。
その規模から、1号墳が、蝦夷、2号墳が入鹿のお墓とされます。
隣接してあることからも、記述どおりの双墓とされます。

この古墳で間違いがないと思うのは、この二つの古墳とも石舞台古墳と同様に覆土が剥がされ、石棺がないのです。
さらに、石室を組んだと思われる石も移動されていました。
石棺がないことからも推測されますが、他の場所に移葬されたのです。
私には、そうとしか考えられない。蘇我馬子と同様に、明日香から本来の蘇我氏の墓域である磯長に改葬されている。

では、磯長のどの古墳が、蘇我蝦夷、入鹿親子のお墓なのでしょうか?

聖徳太子御陵の南東の方向、この馬子の墓から少し離れますが、同じ方向に、推古天皇陵と、二子塚古墳があります。
この二子塚古墳が蝦夷と入鹿親子のお墓なのではないのだろうか?

それで、この二子塚古墳なのですが・・・
方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式だそうです。隣接してあるということと、二つ並んであることからだろうけど、
この古墳こそ推古と、竹田皇子のお墓だともいわれていたようです。
ですが、推古と、竹田皇子は一つのお墓、同じ石室に合葬されています。
もちろん、お隣の磯長山田陵(山田高塚古墳)です。

2基の方墳が、連接した双方墳、または長方墳とされます。少し特異な形状をしているのは、同時に二人を埋葬するためであり、
もちろんこの二人の被葬者は近縁者です。
蘇我馬子と同様に、蘇我蝦夷、入鹿親子もまた、明日香の地を追い出され、この蘇我氏の墓域である磯長に改葬されている。
すると、この二子塚古墳しかない。




下の1、2枚目の写真は、用明天皇陵とされる。河内の磯長の陵です。

大阪府太子町のホームページから・・・
第31代用明天皇は、『日本書紀』によれば、磐余の池上の陵に葬られますが、その後、推古元年(593)に「河内の磯長の陵」
に改めて葬ったと記録されています。
用明天皇陵は、東西65メートル、南北60メートル、高さ10メートルの方墳で、周囲には幅7メートルの空濠を巡らせており、
この濠の外堤までを含めた規模は、一辺100メートルに達する巨大な規模を有しています。墳丘規模や形は、蘇我馬子の墓と
言われる石舞台古墳とよく似ています。
      **********************
この用明天皇陵は、石舞台古墳と似ているとされます。そう伝説どおり、改葬されたのは、用明天皇ではなく、蘇我馬子です。
石舞台古墳から、蘇我氏の墓域である磯長に埋葬されたのです。

そして、聖徳太子御陵の南東の方向、この馬子の墓から少し離れますが、同じ方向に、推古天皇陵と、二子塚古墳があります。
推古はもちろん蘇我の女帝です。
蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三人はこの蘇我氏の墓域である磯長に眠っています。

                                   











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聖徳太子御陵、見瀬丸山古墳の謎

2017年01月29日 | 聖徳太子の謎


今回は、古墳のお話です。明日香にある、見瀬丸山古墳は、最後の前方後円墳です。
そして奈良県最大であり、全国でも6番目の巨大古墳です。
なのに、いまだこの古墳の被葬者を特定できていません。
それは、日本書紀、古事記を参照しているからです。記紀は歴史を改竄するための偽書です。

今回は、この見瀬丸山古墳の謎を考えていきます。多くの謎があるとされ、被葬者不明のままの
この見瀬丸山古墳こそ、 聖徳太子の御陵なのでは?

この丸山古墳は、もとはこんなに巨大な前方後円墳ではありませんでした。聖徳太子改葬時に、
大きなお墓に造り直したのです。

ふたりの聖徳太子。推古の息子の竹田皇子は、推古天皇陵である、磯長山田陵に改葬されています。
そして、もう一人の聖徳太子、そう厩戸皇子こと天武の祖父の押坂彦人大兄皇子のお墓こそ、この
丸山古墳なのではないだろうか・・・?
もうひとりの聖徳太子こと厩戸皇子もまた改葬されて、この巨大な前方後円墳に眠っているのでは
ないだろうか?天武によって、皇祖の名にに相応しいお墓に改葬されている。
この古墳の謎に関しても、・・・聖徳太子はふたりいたとする私には謎解けるように思うのですが?

謎は、隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王こと、天武の祖父の押坂彦人大兄皇子や、王子の
茅渟王、 山代王が大王だったことが消されていることが関係します。。
彼らが大王では、都合が悪いのは蘇我氏や天智系天皇、そして藤原氏なのです。当然、大王なら、
もちろん大きなお墓に葬られているはずです。


それでは、継体天皇陵、欽明天皇陵の謎から、推測していきます。
記紀を信用してはいけません。特に蘇我氏に関する系譜は改竄されている。
この継体天皇、欽明天皇は蘇我氏に大きく関係する人物です。

欽明のお父さんである継体天皇に関しては、実在が確実視されていて、この後、万世一系で現天皇
まで繋がっているとされます。しかし残念ながらそうではありません。継体は王に即位していません。
王に即位していない人物が、巨大なお墓に葬られることはありえません。
古代の天皇陵の治定には、多くの間違いがあるともされます。考古学的な知見により、治定されている
築造時期がおかしいからという理由なのですが、実際に大王だった人物を、王ではなかったとして改竄
したために、特に巨大な古墳の被葬者を変更しなければならなかったからです。
これは、記紀によって歴史を改竄されているからです。前王朝は物部氏が大きく関わるため、大王だった
ことが消されている人物が沢山います。
古代の王のお墓だろうと考えられる巨大な古墳の治定は、ほぼ全部間違っています。

ですので、記紀の記述を参照しての治定はとんでもないことになります。
特に、古代の大王のお墓とされる巨大な前方後円墳については改竄されている。そう、前方後円墳は
物部系の大王たちのお墓です。それは、王家とは後の物部氏だったからです。
蘇我馬子は、歴史を改竄したため、大きなお墓の被葬者も変えなければならなかったからです。
また、天武系(物部系)の大王と対立する、天智系天皇や藤原氏も同様に、大王だとしたくない人物が
巨大なお墓の被葬者にすることができなかったための改竄もあります。
記紀を参照して、丸山古墳の被葬者は欽明天皇と堅塩媛が有力だとされていますが、これはありえません。
また、蘇我稲目のお墓というのは論外です。


以前にも少し触れましたが、・・・
これも最終期の前方後円墳ともされる、欽明天皇陵とされる檜隈坂合陵の謎から推測していきます、・・・

壬申の乱で、勝利した天武天皇は、翌年即位し、それまで蘇我氏が拠点としていた、明日香の地に宮を
営みます。飛鳥浄御原宮です。後の持統天皇もまたこの地で営まれたため、天武・持統朝ともいわれます。

そして、天武・持統陵は、明日香にある檜隈大内陵(桧隈大内陵、ひのくまのおおうちのみささぎ)
に治定されています。古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされます。考古学名は
野口王墓古墳といいます。

この、天武・持統陵である、檜隈大内陵の傍に、欽明天皇陵とされる檜隈坂合陵があります。
梅山古墳とよばれます。北隣に見瀬丸山古墳があります。
いまは五条野丸山古墳ともいわれるようです。両古墳ともに、最終期の前方後円墳とされます。
これら前方後円墳が消えていく理由は簡単です。物部が滅び蘇我氏が天下を取ったからです。
いわば物部系の王のお墓が前方後円墳であり、それを避けて蘇我氏に関係する王墓は方墳にしたわけです。
蘇我馬子は、物部氏を滅ぼし、蘇我氏に関係する天皇が権力を握ります。


天武・持統陵の傍に存在する、このふたつの前方後円墳古墳は、ともに天武に関係する大王たちのお墓なのでは?
どちらも欽明天皇陵であるはずがないし、また蘇我氏のお墓でもありません。
天武の、お父さんと伯父さんのお墓です。後に皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大兄皇子が移葬されたのです。

もう何度も記述してきましたが、押坂彦人大兄皇子と、その王子たち、 茅渟王、 山代王が大王だったことが
消されています。
理由は以下の系図です・・・
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―山代王―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子


蘇我氏が関係する欽明は、王ではありません、後に繋がる蘇我の王たちを、古来から繋がる王家と
関係していたとするための改竄です。蘇我馬子は初代天皇である、推古のお父さんの欽明を遡って
王にしたのです。もとは天皇は大王ではありませんでした。天皇とは蘇我の王の呼称でした。

蘇我氏が歴史を改竄するために、蘇我氏と関係していた、畿内北部の王である 継体の皇子を、王、
つまり天皇の呼称を使用して改竄したのです。
過去にさかのぼって、継体と欽明を、王(天皇)だったとしているわけです。
この改竄は、蘇我馬子によって編纂された、天皇記・国記の編纂時においてです。
ですので、彼らのお墓は巨大なものではありません。
欽明天皇は、王家(物部)の陵墓である巨大な前方後円墳に埋葬されるはずは絶対にない。
記紀はこの蘇我氏の歴史書である天皇記・国記をもとに編纂されている。

この古墳に関しての改竄において、解かり易い例は、この欽明天皇のお母さんであり、仁賢天皇の皇女
とされる、手白香皇女のお墓です。
もう以前に記述しましたが、この手白香皇女は、仁賢天皇の皇女とされます。
欽明のお父さんや、お母さんを古代の王家に繫ぐための系譜の改竄が行われている。
市辺押磐皇子から繋がる、顕宗、 仁賢 は王ではありません。
蘇我氏の女帝である、推古は、古代からの王家の血を引く天皇だとして改竄したのです。
顕宗、 仁賢を王に即位していたとして祖母を、古代の王家に繋げたのです。つまり、継体天皇の
后の中で、この手白香皇女だけが、王家の血を引き、その王子である欽明こそが正統であるというように
改竄しているわけです。蘇我の天皇たちは、この欽明から繋がります。

この改竄の結果、継体天皇と手白香皇女との皇子である欽明天皇が、今日まで長く続く皇室の祖と
なったとされます。ですが、そうなるように系譜が蘇我馬子によって改竄されている。
いわば、欽明は蘇我の王であり、王には即位していません。

ですので、欽明と、お父さんである、継体、お母さんの手白香皇女のお墓は大きなものとして、
後に蘇我馬子によって改竄されている。推古の系譜を古代の王に繋げるため、また、欽明から
繋がる蘇我の天皇たちのほうが、古代の王家の血を引き継ぐ、正統な王だとして系譜の改竄がなされている。

この手白香皇女のお墓である、衾田陵は、西殿塚古墳が治定されていますが、これは明らかに
間違っていて、全く時代が異なるとされます。
古代の王家の王たちのお墓である、大和古墳群の中の巨大古墳が彼女のお墓であるわけがない。
おそらく、古代の王家と関連付けるための改竄です。

同じく、欽明、継体天皇に関しても巨大な前方後円墳ではありえない.巨大な古墳は、もちろん
大王のお墓であるわけで、お墓の被葬者を変更しなければならない理由です。箸墓古墳に関しても
同じ理由です。物部姫である、倭人伝の台与のお墓では都合が悪いわけです。記紀を信用してはいけません。


それでは、欽明天皇陵の謎に関してです。ここは以前に少し触れましたが・・・

欽明天皇陵とされる、梅山古墳の傍に吉備姫王(吉備島皇祖母命)のお墓があります。
猿石 と呼ばれる4体の石像があることで有名です。また、近くの鬼の雪隠傍にあるカナヅカ古墳という
お墓が、本来の吉備姫王ともされますが、どちらにしろ、吉備姫王のお墓は、梅山古墳の陪塚とされます。

すると、梅山古墳の被葬者とは近い関係にある近縁者なわけでしょう?
まず、当然のように吉備姫王の夫である茅渟王のお墓なのでは?と推測できますよね。

これ、ごくごく自然な推測でしょう・・・・でも、なんでこんな簡単な想像もできていないかと
いうと、欽明は天皇であり、茅渟王 は事績不明の人物であるからです。もちろん天皇だったという
記述もありません。しかもお父さんである、押坂彦人大兄皇子も王に即位したとの記述がありません。
ですので、大きな古墳の被葬者とは考えられていないからです。
これが、被葬者を特定できない一つの理由です。


本来は、この茅渟王は大王でしたが、大王だったことが消されています。
理由は上記系図です。天智系天皇や藤原氏もまた彼を大王だとはしたくないのです。この茅渟王の王子の
孝徳天皇、その王子の有馬皇子と争ったのは天智であり、 高市皇子、長屋王と争ったのは藤原氏です。
ともに 押坂彦人大兄皇子こと、日十大王から繋がります。推古が天皇の時代に大王でした。

押坂彦人大兄皇子、茅渟王、 山代王、彼らが大王だったことが消されています。聖徳太子の王子こと、
山背大兄王とは、この押坂彦人大兄皇子の皇子であり、同じ名前をもつ山代王のことです。
彼の子孫を消し去っているということは、ここが改竄個所ともいえます。
蘇我氏や天智系天皇、藤原氏にとっては、大王であることを消した人物が、こんな大きなお墓の被葬者
では都合が悪いのです。大きなお墓は、もちろん王のお墓です。

そして、この檜隈坂合陵の北となりに奈良県最大の前方後円墳とされる見瀬丸山古墳があります。
この古墳も、もちろん天武に関係する人物のお墓ではないのだろうか?ここもまた、欽明天皇陵なんかで
あるはずがない。この見瀬丸山古墳 の被葬者も謎だとされています。蘇我稲目のお墓という説や欽明天皇
と堅塩媛のお墓だという説ももあるようですが、これも絶対にありえない。それは、欽明は蘇我の天皇であり
大王ではないからです。

この、巨大な前方後円墳である見瀬丸山古墳こそ聖徳太子の御陵です。

この古墳は、巨大な前方後円墳であるので、もちろん本来の王のお墓です。
梅山古墳は茅渟王のお墓であり、その梅山古墳のそばに並んで造られていることからも、天武に
関係する人物以外考えられない。
この古墳、もとは押坂彦人大兄皇子の王子である、茅渟王の弟の山代大王のお墓だと思うので
すが・・・。つまり、7世紀中ごろに造られたものです。
そこに父である押坂彦人大兄皇子が、天武により後に改葬されたのです。

この山代大王こそ、天武の本当のお父さんであり、また茅渟王は持統の祖父です。彼はもちろん大王でした。
ですので、天武持統陵を傍に造ったのです。天智、天武の争いはこのお父さん暗殺により始まります。

山代大王のお墓が、最後の前方後円墳とされる見瀬丸山古墳であり、天武により後に山代大王の
お父さんである押坂彦人大兄皇子が改葬されたのです。それは、蘇我の人物として取り込まれ、
科長に埋葬されていたからです。
押坂彦人大兄皇子のお墓は、お父さんの敏達と広姫(本当は、もちろん穴穂部間人皇女)が
埋葬されている古墳の傍にあります。この科長は、蘇我氏の本来の本貫治でもあります。
科長は息長のことです。

蘇我の人物として系譜を改竄された人物たちがこの時代の墓所である科長に葬られている。
そして、敏達天皇は、この磯長陵から大塚山古墳 に改葬されたともいわれます。これも、
天武によって行われたと思うのですが?
丸山古墳と同様の方法で改葬されて、この大塚山古墳も巨大な前方後円墳になっている。

推古天皇の息子の竹田皇子のお墓と同様に、押坂彦人大兄皇子のお墓は小さなお墓でした。
これは何らかの理由(伝染病かな?)で早くに葬らなければならなかったからとも考えられます。
おそらく、蘇我の皇子と同等のお墓にしたのだと思います。
このもう一人の聖徳太子こと竹田皇子は、後にお母さんの推古の陵墓である磯長山田陵 に合葬されています。


見瀬丸山古墳の謎・・・

この見瀬丸山古墳に関しては、多くのの謎があります。そては、明治時代に、英国人ウィリアム・ゴーランド
により、内部が調査されたからです。内部には、巨大な横穴式石室に2基の石棺が入っていることが知られ
ていて、これらの被葬者も謎だとされています。

しかも、後から埋葬された人物のほうが奥に埋葬されているのも不思議だとされています。
つまり、後から埋葬された人物のほうが、いわば位が上の重要人物であるわけです。
そして、この見瀬丸山古墳こそが欽明のお墓なのではないだろうかという推測もされています。
これは、后の堅塩媛が後に合葬されたという記述があるからですが、この理由(後の人物のほうが位が上)
からも、ありえないわけです。また、古墳に葺石が敷き詰められていないことからも、記紀の記述と
矛盾があり問題があるとされます。

多くの謎があるとされる見瀬丸山古墳、特に墓室に関する謎ですが、・・・この謎も難しいものではない。
何故に謎解けないのでしょうか?

この見瀬丸山古墳は天武のお父さんである、山代王のお墓なのでは?そして、後に改葬された人物の
ほうが位が上だとすると、天武が皇祖と仰ぐ、 厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子しかいない。
推古天皇時に、大王だった人物であり、この山代王のお父さんであり天武の祖父です。日十大王です。

天武は、皇祖と仰ぐこの祖父が、小さな古墳、しかも蘇我の本貫地に葬られていたために、彼の王子の
お墓に改葬したのではないだろうか?

この丸山古墳は、押坂彦人大兄皇子を改葬した時に、もとよりさらに大きなサイズに作り直しているのです。
それは、墓室の位置が墳丘の中央よりずれていることにより判断できる。土をもって古墳のサイズを大きく
したのです。
天武が皇祖仰ぐ祖父の押坂彦人大兄皇子を改葬したときに、大きく造りなおしたのです。
これは横穴式であるということと、後から埋葬された人物のほうが奥にあること、そして巨大な
前方後円墳だということから謎解ける。


では、どう造り直したのか・・・
まず、もとの墳丘部の外部に、新たに石を組んで石室を作り埋葬したのです。そして墳丘部から石棺を
掘りだし、元の石棺を新たな石室に移動させたのです。だから、新しい石棺のほうが奥で、古い石棺の
方が手前にあるのです。

石室を外に造ってから、土で覆って墳丘部を大きく型作りしたのです。当然墳丘のサイズは手前に
大きい円丘になり、墓室の位置が中央から手前にズレたのです。新たに墳丘部の手前に石室を作り、
そのあと土をかぶせたために横穴式石室のようになっているだけです。本来は、もちろん墳丘の
中央に墓室がありました。石室の長さだけ経が長くなったのです。

改葬時に 墳丘部に、横穴を掘り、石室を新たに作ったのではありません。
横穴を掘ったのではなく逆です。墳丘外部に、新たに石を組んで石室を作ったのです。
この石室の長さの分を含めた、大きな円丘になり、中央から石室がずれたのです。

これは、大きな石を組んで石室を造っていることからも推測できます。
横穴を掘っての新たな石室造りの作業は困難です。まず、無理なように思います。

墳丘中央部には、本来の石室の跡の残っているはずです。日本古来の伝統が破られたわけではありません。      
当然、後円部が大きくなった関係で、方墳部も大きくし、前方後円墳の終末期の古墳であるにも関わらず、
奈良県最大の巨大な前方後円墳になったのです。もとはこんなに巨大な古墳ではありませんでした。

築造時期に関しても、横穴石室の形状や、石棺の材質などにより新たな推定がなされています。この古い方の
石棺でも、7世紀のものとされ、この古墳の築造年は、以前に言われていた6世紀の築造ではありません。
7世紀の中ごろです。欽明や、蘇我稲目のお墓ではありえません。
何度もいいますが、記紀を信用しての治定はとんでもないことになります。歴史を変更するための
歴史書だからです。

厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子が崩御したのは624年です。そして、天武が大王に即位 したのが、
673年です。この時に、天武により科長から息子たちが眠るこの地に移葬されたのではないでしょうか。

もとはこれほど、巨大な前方後円墳ではなかったのですが、押坂彦人大兄皇子を改葬して巨大な古墳に
造り直したのです。

このお墓こそ聖徳太子のお墓です。天武のお父さんと祖父のお墓です。

これらの改葬を行ったのは、天武あるいは、しばしば工事を行ったとされる斉明天皇の時代から、
改葬が行われ始めたかもしれません。斉明天皇の宮も飛鳥板蓋宮です。
この斉明天皇のお墓は、牽牛子塚古墳が陵墓として有力視されています。
いま治定されている、越智崗上陵は天智の后(本当は孝徳天皇の皇后)の袁智天皇こと、茅渟王の娘の
遠智娘のお墓です。宝皇女こと斉明天皇とは異母姉妹になります。

この牽牛子塚古墳もまた、梅山古墳の近くにあり陪塚といってもいいと思います。
そう、斉明天皇のお父さんは、茅渟王であり、お母さんは吉備姫王です。
梅山古墳の被葬者こそお父さんの茅渟王です。

そして、同じく梅山古墳の陪塚といってもいい、岩屋山古墳 が、牽牛子塚古墳の傍にあります。
このお墓こそ、茅渟王の王子であり、斉明天皇の弟の孝徳天皇のお墓です。
この孝徳のお墓は、大阪磯長陵に治定されています。円丘であるとされますが、これは絶対にありえません。
孝徳が、蘇我氏の墓域である、磯長に葬られることはありえません。

梅山古墳の被葬者こそ、押坂彦人大兄皇子の王子である茅渟王であり、そばに后の吉備姫王のお墓、
そして子供たち、斉明天皇(牽牛子塚古墳)と孝徳天皇(岩屋山古墳 )のお墓です。
牽牛子塚古墳、岩屋山古墳は、ともに八角墳とされます。

聖徳太子の有名な「唐本御影」の肖像画、これは、百済の阿佐太子の筆とされていますが、その服装などから、
天武朝に描かれたものといわれます。
天武朝の制作ということは、皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大兄皇子の肖像画であり、左右に王子たち、
天武のお父さんである山代王 と、この 茅渟王の肖像だと思うのですが?


継体天皇陵に関しては、太田茶臼山古墳と比定されていますが、築造時期が明らかにおかしいとされます。
だから、近くにある今城塚古墳こそ継体天皇陵だと治定されるのもおかしな話ですよね。

蘇我馬子により、蘇我氏が関係する欽明のお父さんであり畿内北部の王である、継体を奈良北部に位置する
大きな前方後円墳を、継体天皇陵として改竄しただけです。
王でなかった人物を王だとして改竄したため、特に蘇我氏にとって重要な、この継体、欽明、そしてお母さん
の手白香皇女のお墓は巨大なものにする必要があったわけです。

築造時期が明らかに異なる、大きな古墳を継体陵に比定していることからも
明らかにおかしい。巨大な古墳はもちろん王のお墓です。
ですが、継体は大王ではありません。こんな巨大なお墓に眠るわけありません。蘇我馬子によって、
欽明のお父さんを過去にさかのぼって王だったとして改竄しているだけです。

生誕の地とされる高島市にある、鴨稲荷山古墳こそ継体天皇陵でいいのでは?彼は畿内北部の王であるのですが、
大王(天皇)として即位していません。



最初の写真は天武・持統陵です。上下の写真は、丸山古墳です。
この巨大な古墳は、もちろん大王のお墓だろうと推定でき陵墓参考地に治定されています、
墳丘部は立ち入り禁止なのですが、方墳部に入ることができます。写真は前方部から撮影したものです。
全長がおよそ318mもあります。大木が古墳全体を覆っているわけではなく、写真にあるように前方部に
は登ることができ、その大きさを実感できます。とにかく大きい。丘陵の傾斜地を利用しているとはいえ、
こんな巨大な古墳をよく造ったものだと感動しました。訪れる価値のある古墳です。


ウイッキベディア・・・
古墳は丘陵上の傾斜地に設けられている。極めて大規模な前方後円墳であり、全長は318メートル、
前方部高さ15メートル、幅210メートル、後円部の径155メートル、高さ21メートル、前方部の幅210メートル
におよぶ。これは景行天皇陵を上回って奈良県下では最大、日本全国においても河内大塚山古墳に
次いで 6位の規模であり、古墳時代後期後半に築造されたものの中では最大の規模を誇っている。
   ***************************
横穴式石室の全長は28.4メートルとされます。つまり、改葬後には、およそ30メートル程、墳丘部の径が
長くなったのです。後円部が大きくなった関係で、前方部も大きくなり、巨大になったのです。
石室へつながる通路に当たる羨道が長いは、出来るだけ石室を中央に位置するようにするためです。

新たに外部に石室を造り土を被せたので横穴式のようになっているだけです。この時代には石舞台古墳に
あるように、石室を造る石が巨大になっています。横穴を掘って石室を造るのは困難な作業になるはずです。
そうではなくて、石室を外に組んでから土を被せたので巨大な前方後円墳になったのであり、また大きな
古墳にする意思があって巨大な古墳になっているのです。それは、天武が皇祖と仰ぐ祖父と父親のお墓で
あるからです。

この丸山古墳は、奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にある古墳です。
この地名である、五条野は条坊制における五条とはもちろん全く関係がなく、本来は御廟野(御陵野)
からの転訛であるとされます。
ですので重要な古墳であり、被葬者は誰であるのかはもちろんわかっていたはずですが、後に消されている。
奈良県最大の前方後円墳であるこの古墳は、本来の大王の古墳であるわけです。
3世紀や4世紀の古墳ならまだしも、この古墳の被葬者が誰かわからなくなっているということは、本来あり
えません。これは意図的に改竄され消されている。

それはこの古墳の被葬者は、天武が皇祖と仰ぐ押坂彦人大兄皇のお墓であるからです。
藤原氏は、この押坂彦人大王の後胤と対立し、後に彼が大王であることを消したからです。大王であることを
消した人物が、奈良最大の陵墓の被葬者とすることが出来ないからです。
天武が作ろうとしていた日本書紀、その下巻においてはこの押坂彦人大王から後の全ての天皇に繋がることが
証拠ともいえます。しかしながらこの日本書紀は、後に藤原氏によって改竄されたのです。
この押坂彦人大兄皇子こそ聖徳太子でもあるわけです。見瀬丸山古墳こそ、 聖徳太子の御陵です。









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山背大兄王暗殺の謎と中臣鎌足

2016年12月18日 | 聖徳太子の謎


日本書紀・古事記の謎は、この聖徳太子や天智天皇、天武天皇の謎が大きく関わります。
この聖徳太子一族滅亡とされる悲劇もまた、多くの謎があり、不思議な話とされます。この悲劇は、実際の史実を語っているのか?あるいは、脚色された作り話なのだろうか?

今回は彼らの改竄されたと思われる系譜から、山背大兄王暗殺の謎を考えてみます。
蘇我入鹿が、聖徳太子の皇子である山背大兄王 を暗殺し、上宮王家一族をは滅んだとされます。たしかに、蘇我氏は王家と対立していたのは事実だと思います。しかし、今回は、この事件の真相はそうではないという可能性について考えてみます。

この暗殺についても、謎がたくさんあるとされます。聖徳太子の王子とされる山背大兄王暗殺の事件は、およそ乙巳の変の1年半前の643年12月の事件です。
聖徳太子一族滅亡とされる悲劇もまた、この乙巳の変とおなじ理由による可能性もあるのではないのだろうか?百済は642年から新羅侵攻を繰り返したとされ、この時期から朝鮮半島は戦乱の時代に入りました。

そう、この時代は朝鮮半島の情勢が大きく関わります。

乙巳の変とは、朝鮮出兵を画策していた天智と中臣鎌足がおこしたクーデターであり、この二人が、百済に関係ある人物だとすると謎は解けるのではないのだろうか?
蘇我氏や、天智系の天皇、藤原氏らによって系譜が改竄されている。

歴史は勝者の歴史ともされます。残念ながら勝者は、秦氏の王である天智系の天皇に、藤原氏です。ですので天智系天皇や藤原氏に対立していた人物たちは悪く描かれています。百済系の人物であるといえる秦氏の王である天智と、藤原氏によって王家は乗っ取られています。
ですので、この山背大兄王一族の暗殺事件の事実は異なるのでは?
聖人、聖徳太子一族を滅亡においやったとされる、蘇我入鹿、蝦夷の汚名を、晴らします。
蘇我氏を悪者に仕立て、中大兄皇子と中臣鎌足らによる乙巳の変を正当化している。
日本書紀・古事記は、秦氏の王である桓武天皇や藤原氏によって改竄されている。

特にこの山背大兄王一族の暗殺事件は大きく改竄されている。
それはこの山背大兄王暗殺の事件は、藤原氏の祖とされる、渡来人、偽物中臣鎌足が深く関係するからです。

藤原氏は、聖徳太子をひどく恐れています。

聖徳太子の両親とされる、用明天皇と穴穂部間人皇女は架空の人物ではないのですが、その皇子である厩戸皇子というのは、本来の王家の系譜から外す人物です。ですので、架空です。架空の人物の子供たちもまた架空です。

これまで、述べてきたように、厩戸皇子 というのは、押坂彦人大兄皇子のことです。
この、押坂彦人大兄皇子の両親こそ、敏達と穴穂部間人皇女です。
聖徳太子のお母さんとされる、この穴穂部間人皇女は蘇我氏の人物ではなく物部姫です。名前から推測できますが物部姫です。押坂彦人大兄皇子のお母さんは、息長真手王の女とされる、広姫ではありません。
息長氏とは蘇我氏のことであり、この系図の変更は蘇我馬子によるものです。

本来の、山背大兄王とは、この押坂彦人大兄皇子の皇子であり、同じ名前をもつ山代王のことです。この時、大王だった山代王は、藤原氏の祖とされる偽物中臣鎌足に暗殺された可能性はないのだろうか?
押坂彦人大兄皇子,茅渟王, 山代王が大王だったことが消されている理由のようにも思うのですが?山代王と山背大兄王、同じ名前(やましろ)なのは実在の人物だからです。

藤原氏が、聖徳太子こと厩戸皇子(押坂彦人大兄皇子)を怨霊として恐れるのはこれが理由のひとつなのでは?

ウイッキベディア
皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。・・・山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。

    **************************

広隆寺の謎と聖徳太子でも記述しましたが、有名な扶桑略記の記述です・・・
扶桑略記
 同月五日,大友皇太子,即為帝位。【生年廿五。】一云,天皇駕馬,幸山階鄉,更無還御。
永交山林,不知崩所。【只以履沓落處,為其山陵。以往諸皇,不知因果,恒事殺害。】山陵,
山城國宇治郡山科鄉北山。

天智天皇は、戦争責任を問われ、暗殺されたのではないのだろうか?という記述です。
白村江の戦いの後、唐の使者である、郭務悰が来日します。中国、唐の要求は戦争責任者である、天智の首です。扶桑略記の記述にあるように、靴だけ残っていたのは、処刑し遺体を郭務悰のもとに、運んだからです。唐の使者である、郭務悰は天智の死を確認
してから帰国しています。

ここ・・・以往諸皇,不知因果,恒事殺害。・・・問題箇所とされているそうですが、ここは、もちろん天智天皇が、常に殺害をこととしてきたことの因果(暗殺された)だということを諸侯はしらないという意味です。

暗殺を繰り返してきたのは、そう、渡来人と大きく関係する、天智や藤原氏の祖とされる中臣鎌足です。
対立していた、蘇我入鹿、蘇我蝦夷、 蘇我倉山田 石川麻呂、古人大兄皇子 、有間皇子や大王である孝徳天皇や山代王たちも彼らによって殺害されています。

もう前述してきましたが、天智と中臣鎌足は、百済救援のために朝鮮出兵を画策していました。
ですが、阻んだのが、蘇我氏です。この時、権力を保持していた蘇我氏は、この朝鮮出兵に関しては反対の立場であり、対立していたと考えられるのでは?
乙巳の変は、蘇我氏の専横 だけが理由ではない。天智や鎌足が参加したのは、蘇我氏が朝鮮出兵には反対の立場であり彼らのを要請を阻んだからです。そして、山背大兄王こと山代王もまた、朝鮮出兵には反対の立場だったのでは?
それは朝鮮半島の戦乱に中国が関わることになったからです。


藤原氏にとっては、厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子や王子の山代王子が、大王だと都合が悪いから系譜を改竄する必要があったわけです。そして、藤原氏はこの押坂彦人大兄皇子を怨霊だとして凄く恐れていました。怨霊だと恐れるということはなにか、後ろめたいことがあったからです。

そう、厩戸皇子こと押坂彦人大兄の王子である、山代王は藤原氏によって暗殺されたのではないのだろうか?それは、出自が不明ともされる藤原氏の祖とされる中臣鎌足の謎が関係するのではないのだろうか?

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子

押坂彦人大兄皇子の子孫と対立していたのは、 天智系の天皇や、藤原氏だということは、この系譜を見れば容易にわかります。
本来の王家から繋がらないように、系譜から外した人物が、用明天皇と穴穂部間人皇女の皇子としての厩戸皇子です。厩戸皇子はもちろん実在の人物なのですが、押坂彦人大兄皇子と異なる人物を厩戸皇子として系譜を王家から外して改竄したわけです。

ですので用明天皇と穴穂部間人皇女の皇子としての厩戸皇子は架空の人物です。 架空の人物だから、その子孫を多数抹殺することができたのです。そして抹殺する人物を、これら天智系の天皇や、藤原氏に対立していた人物を、暗殺者に仕立てている。

また、聖人である聖徳太子の子孫を抹殺した悪者として描くことで、乙巳の変クーデターを正当化できます。
聖徳太子が聖人であるほど暗殺者は悪人になるということです。ですので、蘇我入鹿による山背大兄王一族の暗殺は作り話です。真犯人はほかにいます。記紀を信用してはいけません。

記紀の系譜どおり、聖徳太子が、用明天皇と穴穂部間人皇女の皇子であるなら、彼は蘇我の皇子です。用明天皇は、欽明天皇の第四皇子であり、母は蘇我稲目の娘の堅塩媛だからです。そして山背大兄王は、聖徳太子と蘇我馬子の娘である刀自古郎女との皇子とされます。

蘇我の皇子である、この山背大兄王を蘇我入鹿が暗殺する理由などありません。
対立したとされるのは、本来の厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子 は物部系の大王だったからです。ですから、蘇我入鹿は暗殺する理由があるとは思いますが、・・・どうなのでしょうか???

藤原氏の祖とされる中臣鎌足が関わった可能性はないのでしょうか?用明天皇と穴穂部間人皇女の皇子としての厩戸皇子は架空の人物です。だからその皇子である、山背大兄王 も架空です。
本来の、山背大兄王とは、押坂彦人大兄皇子の皇子の山代王のことです。押坂彦人大兄皇子の皇子である山代王がモデルです。実在した人物なので、同名にしたのです。この山代王を暗殺したのは、百済の王子?ともされる、中臣鎌足なのでは?

天智天皇と中臣鎌足が百済に関係する人物なのでは?という謎を系譜から考えていきます。

天智天皇の謎・・・
もうすでに、大安寺伽藍縁起并流記資材帳の袁智天皇の謎と継体持統において記述してきましたが、天智天皇に関する系譜が改竄されている。

蘇我氏が関係する、舒明の系譜、ここでは彼のお母さんの身分が変更されている。変更の理由のひとつは、天智の出自をよくするためです。推古が、天皇の時代の大王だったのが、押坂彦人大兄皇子と茅渟王 であり、この茅渟王 は、宝皇女(皇極、斉明天皇)と軽皇子(孝徳天皇)のお父さんです。
諱の田村と、 和風諡号の息長足日広額は、茅渟王のことです。
だから、茅渟王 のお母さんが、敏達天皇の皇女 である糠手姫皇女 であり、田村王こと舒明のお母さんは漢王の妹である大俣王です。

ここお母さんが交換されている。それは天智の出自をよくするためです。
蘇我氏の后を迎え関係を結んだのは舒明です。というか蘇我蝦夷は彼を利用して王家に取り入ったのです。

もうすでに、大安寺伽藍縁起并流記資材帳の袁智天皇の謎と継体持統において、記述しましたが、茅渟王 のお母さんが、敏達天皇の皇女 である糠手姫皇女 であるとすると、皇祖の尊称で繋がる。この皇祖で繋がるのが天武系の人物たちです。


本来は、山代王のほうが田村王 より、お母さんの身分の問題で、大王となる資格があったのだと思います。
つまり、この舒明も大王ではなく蘇我の王である天皇であるということ。実際に王ではなかった人物のひとりです。
蘇我氏が関係を結び利用しようとしたのがこの田村王こと舒明です。本来は、天智や天武はこの舒明の王子ではない。


問題点は、すでにウイッキベディアにしめされています。脚注部分です。
天智は舒明の王子ではおかしい。糠手姫皇女は舒明の母親ではない。

ウイッキベディア・・・
仮に糠手姫皇女が推古天皇元年(593年)に15歳で舒明天皇を生んだと仮定しても、
皇女が亡くなった時には86歳と当時としては高齢となるため593年以前の天皇誕生は
考えにくい。一方、舒明天皇の長子とされる中大兄皇子(天智天皇)は、天皇崩御時
には16歳であったことは『日本書紀』に書かれており、逆算すると天皇が36歳の時の子
となるが、これもやはり最初の子を儲ける年齢としては遅すぎるため、593年以前の
天皇誕生は考えにくい。従って天皇の生年は推古天皇元年(593年)もしくはそれを
降ることはありえても同年を遡ることは困難である。また、舒明天皇には同母弟が
存在するとされている。これによって父親の押坂彦人大兄皇子が用明天皇2年(587年
)の丁未の乱の混乱で殺害されたとする説や崇峻天皇暗殺当時に押坂彦人大兄皇子が
既に亡くなっていたために推古天皇が即位したとする説は成立困難である
(薗田香融「皇祖大兄御名入部について」『日本古代財政史の研究』(塙書房、1981年
)P358-359・385・388(原論文発表は1968年))。

『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。舒明天皇13年(641年)

    ************************
舒明天皇の年齢を推測している箇所なのですが、この指摘のように長男である天智を舒明の王子とするには少し不自然ではないのだろうかとされます?ここ、何らかの改竄があります。
問題は、糠手姫皇女の年齢に関係します。渡来人を父に持つ天智、後の天智系天皇は、系譜を改竄する必要があったわけです。
それは、天智の系譜を大王家と繋げて出自をよくするための改竄です。同様に天武もまたこの舒明の王子ではないのでは?

そして、厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子の没年は、624年です。推古は天皇ですが大王ではない。
ここはもう何度も書き込んでいますが、隋からの使者が、男の王で大王だと言っているのに・・・。

隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等
取白上同二百旱作此竟

623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十 ひと大王)の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は姉の孫の竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。

この隅田八幡神社人物画像鏡の銘文の謎が解けないのは、天皇とは本来は蘇我の王の呼称であり大王とは異なるということが理解できていないということと、この推古の時代の第一皇子である押坂彦人大兄皇子が、記紀に登場しないという理由から早くに亡くなったというトンデモ説が存在するからでもありす。
竹田皇子も同様の理由で早くに亡くなったとされます。

厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子の没年は、624年です。同じく聡耳皇子こと竹田皇子もまた、この銘文の翌年の624年に亡くなっています。聖徳太子没年は、624年です。

押坂彦人大兄皇子の王子の茅渟王や、この、山代王(山背大兄王 )は、すでに大王でした。
この大王を殺害したのが、蘇我入鹿とされます。

蘇我入鹿は、舒明天皇の第一皇子 である、古人大兄皇子 を皇位につけようとします。643年、蘇我入鹿は斑鳩宮を襲い、山背大兄王とその一族を滅ぼしたとされます。しかし、このとき蘇我入鹿は押坂彦人大兄皇子の皇子である山代王を殺害した事件は事実ではないのでは?

天智系天皇や藤原氏によってこの暗殺事件の話の内容は大きく変えられている。山代王は、中臣鎌足に暗殺されたのですが、罪を蘇我氏に被せている可能性はないのだろうか?中臣鎌足や、百済からの渡来人であり、天智のお父さんである秦河勝らが本来の暗殺者なのでは?

天智や、中臣鎌足と対立していたのは、朝鮮出兵に反対していた、蘇我氏や、孝徳天皇です。彼ら百済系渡来人は、朝鮮出兵に反対する多くの人物を暗殺している。

乙巳の変クーデターを正当化するため、また天智と対立していた孝徳や蘇我氏をを、聖人である聖徳太子を殺害したとして悪く描かれている。乙巳の変後、王に即位した孝徳は、天智と対立します。対立の理由は百済救援に関してです。
記紀においては、悪者、蘇我氏を撃った手柄は、この天智と中臣鎌足に変更されています。この後、彼らは、対立する孝徳天皇派の側近たちを暗殺しています。

ウイッキベディア・・・
皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる
 
癸卯年11月11日(643年12月30日)丙戌亥時に太子子孫を宗我大臣并林臣入鹿が殺し、6日後の 辛卯辰時に大狛法師が事件後6日後に斑鳩寺にいた山背大兄王の息子弓削王を殺したと記述されている。

大狛法師、大化改新の大化元年(645年)8月8日に孝徳天皇の「大化僧尼の詔」により十師に選ばれたうちの1人
    ************************ 
聖人、聖徳太子一族を滅亡においやったとされる事件の実行犯(巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳、そして大狛法師) は、対立していた蘇我氏や孝徳天皇の側近たちです。

こんなの、蘇我氏や、孝徳天皇と対立していた天智天皇、中臣鎌足が自ら真犯人だっていっているようなものです。凄く単純で解かりやすい改竄ですよね。

そして、もうひとつ聖徳太子一族を滅亡させる理由があります。それは天武天皇の謎に関わりあります。系譜の改竄がまだあります。
天武を本来の大王に繋げていない。 押坂彦人大兄皇子と王子の茅渟王、山代王が大王だったことがけされています。そのための改竄です。

天武のお父さんは舒明天皇ではなく、この山代王なのでは?天智と天武の争いはここに始まるようにも思うのですが?なんども記述してきましたが、子孫全員が消されているというのは、ここが改竄箇所ともいえるように思います。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー山代王―天武天皇―高市皇子―長屋王
日本書紀の下巻の天皇たちは全て、この皇祖とされる押坂彦人大兄皇子から繋がります。本来の天武系の大王の系譜は、こう記述されていたのではないのかな?

系譜が改竄されている箇所から推理します・・・

舒明天皇 のお母さんは、嶋皇祖母命 と称せられた、敏達天皇の皇女 の糠手姫皇女 とされます。
一方、茅渟王や、宝皇女(皇極、斉明天皇)、軽皇子(孝徳天皇)の お母さんは、漢王の妹の大俣王 とされます。これだと、舒明のお母さん方が身分が上です。ですので、この 宝皇女や 軽皇子が即位したのが謎だともされます。

明らかに、これがおかしい。ここすでに記述しましたが、お母さんが交換されている。どうしてなのかというと、それは舒明を、天智のお父さんとして系譜を改竄したからです。
天智の血統をよくしたわけです。

これは、以前に述べてきましたが、皇祖という尊称をたどればわかります。
茅渟王や、宝皇女、軽皇子の お母さんを嶋皇祖母命 と称せられた、敏達天皇の皇女 の糠手姫皇女 としなければ皇祖の尊称で繋がらない。

寶女王と孝徳は何故王として即位できたのか謎だともいわれますが、系譜が改竄されたのです。
舒明の名の田村のは糠手姫皇女の別名ではない。

渡来人を父に持つ天智、後の天智系天皇は、系譜を改竄する必要があったわけです。天智の系譜を大王家、つまり、大王であった押坂彦人大兄皇子の王子の舒明と繋げて出自をよくするための改竄です。さらに、対立していた孝徳天皇の出自を低くするためです。


そして、問題は天武です。逆に天武の出自は低く改竄されている。
天武もまたこの舒明の皇子だとされます。本当でしょうか?舒明は大王ではなく蘇我蝦夷によって蘇我の王である天皇になった人物です。実際には王ではなかった人物です。

 記紀の系譜どおり、山背大兄皇子が、厩戸皇子 と蘇蘇我馬子の娘・刀自古郎女 との皇子なら、まったく蘇我の皇子です。何故、蘇我蝦夷は蘇我の皇子である山背大兄皇子を擁立しなかったのでしょう?
おかしいでしょう?さらに暗殺しているのですよ。しかも一族全員とされます。蘇我の皇子ですよね。

本来は物部系の王子であり、押坂彦人大兄皇子の王子である、山代王だからです。乙巳の変のあと、押坂彦人大兄皇子の王子である 茅渟王の王子の 孝徳 が即位するのは当然のことです。秦氏の王である渡来人の天智は即位できる身分ではなかった。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー山代王、この三人が大王だったことが消されている。
それは、天武に繋がるからです。そして、天武から長屋王に繋がります。天武こそ、本来の王家から繋がる人物だからです。
茅渟王も山代王も、そして舒明も押坂彦人大兄皇子の王子です。
天武はこの舒明の皇子だとされます。ここも記紀編纂後に改竄されている。

天武のお父さんは、この山代王なのでは?天智と天武は兄弟ではない。天智を王家と繫ぐ操作がなされている。
そして、天武もまた本来の系譜から外す改竄がなされている。天智と、天武の争いは、この山代王の暗殺から始まるのではないのだろうか?

この藤原氏の祖とされる、中臣鎌足も謎が多い人物とされます。有名なのは、百済の王子である豊璋なのではないのかとうい説です。乙巳の変は、朝鮮半島への出兵に関係するとする私にも当然のように推測される説です。

ウイッキペデア・・・
扶余 豊璋
百済最後の王である義慈王(在位:641年 - 660年)の王子。 ・・・『日本書紀』にも
登場する百済の王族翹岐を豊璋と同一人物とする説もある 。

皇極天皇元年(642年)1月に百済で「大乱」が発生し、「弟王子兒翹岐」と
その家族および高官が島に放逐され、4月にその翹岐らが大使として倭国に来朝したと
されており、翹岐=豊璋同一人物説においては当然、この時に倭国に渡来したとされている。

孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に
豊璋が出席している。

662年5月、倭国は豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津が率いる兵5000と軍船170艘を
添えて百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。 豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、
豊璋は百済王に推戴された

   **************************
642年に倭国に来朝したとされるのは、弟王子の兒翹岐ですよね。、弟王子とされるわけなのに、どうして翹岐と豊璋は同一人物だとされるのか?
この説は詳しくは知りませんが、中臣鎌足は、豊璋じゃなくて、記述どおり弟の翹岐の方が可能性があるのでは?豊璋に関しては、その後帰国したことや、唐・新羅軍のとの戦いの記録も残っているわけですし・・・?

中臣鎌足は、百済の王子の、豊璋の弟王子である翹岐という可能性は十分あるように思います。来倭した理由は、勿論、百済救援にあるわけです。倭国に来朝した王子が百済救援のために、協力を求めたのが当時権力を握っていた蘇我氏ですが、蘇我氏は、出兵には反対の立場であったのです。

王家やこの時代の権力者である蘇我氏は、百済とは本来は悪い関係にはありませんでした。むしろ非常に緊密な関係でした。しかし後に中国が関わることになります。
唐の使者である、郭務悰は、 白村江の戦の以前から何度か来日しています。これはもちろん、朝鮮半島の戦乱に関わるなということです。百済に味方をせずに我々の方に付けという要求に他なりません。
この時代の中国と日本の力関係を考えれば、朝鮮出兵という無謀な判断はできません。

百済と関係する、中臣鎌足は、同じく百済からの渡来人である、秦氏の秦河勝。そして、その王子(あるいは秦河勝の孫)である、中大兄皇子に近づき渡来人勢力による蘇我氏暗殺のクーデターが行われたのです。
秦河勝が、蘇我入鹿と争っていたのは、百済救援のための朝鮮出兵の要請以外ないように思います。

大避神社由緒書き
秦河勝は蘇我入鹿とあらそっていた。これは、乙巳の変の一年前の皇極3年(644年)こと。河勝は太子死後の皇極3年(644年)、蘇我入鹿の迫害を避けて海路をたどって坂越に移り、千種川流域の開拓を進めたのち、大化3年(647年)に80余歳で死去したという・・・。
    *************************
翹岐らが倭国に来朝したのは、642年です。目的はもちろん百済救援の要請です。
そして山背大兄王の暗殺事件は、翌年の癸卯年11月11日(643年12月30日)とされます。この暗殺事件も、やはり、朝鮮出兵に関係するのでは?王家も出兵には反対の立場だったのでしょう。
乙巳の変は、1年半後の645年です、・・・
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ・蘇我入鹿)を殺しつ。吾が心痛し」・・・。

乙巳の変の後、孝徳天皇が即位しました。天智はこの孝徳とも対立します。
天智天皇の謎でも記述しましたが、中大兄皇子が、乙巳の変に加担したのは、秦河勝が蘇我入鹿と争っていたからです。この秦河勝が中大兄皇子のお父さん(または祖父)なのでは?

謎はみえてきました。そう、中臣鎌足こそ山代王の暗殺者です。暗殺実行者は、天智と対立していた孝徳の側近であり矛盾する。暗殺の内容が後に改竄されている。蘇我氏が山代王を暗殺したのであれば、乙巳の変は、兄弟である孝徳の敵討ちになります。
しかし、乙巳の変 のあと孝徳は出兵に反対していた蘇我氏を重用する。つまり、山代王を暗殺したのは蘇我氏ではないのでは?

翹岐らが倭国に来朝したのは、642年です。目的はもちろん百済救援の要請に他ならない。
山背大兄王の暗殺事件は、癸卯年11月11日(643年12月30日)とされます。彼が、中臣 鎌足ではないのだろうか?

最後に、山背大兄王暗殺の事件の真犯人は中臣 鎌足だろうと考えらる決定的な?とも言えないかもしれませんが、証拠というか、・・・そう、暗殺後に都から離れている?

ウイッキベディア・・・
『日本書紀』によると644年(皇極天皇3年)に中臣氏の家業であった祭官に就くことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。

   ****************************
中臣鎌足が都を離れた時期はいろいろな説あるようですが、日本書紀においては、記述のように中臣 鎌足が、奈良の都から、摂津国に退いたのは、この山背大兄王暗殺の事件後の644年とされます。
理由は、もちろん異なりますが(真実を書けない)、643年12月に大王である山代王の暗殺を実行したので、都から離れたとともいえるのでは?・・・と感じるのですが?
同じく、秦河勝もまた、同じ年にに都から離れている。蘇我氏との対立ともされますが、彼もまた山代王暗殺の協力者なのでは?この秦河勝こそ、天智のお父さん(年齢的には祖父かな)です。

彼らが山背大兄王こと、山代王暗殺の本当の犯人だともいえるように思います。

藤原氏が、聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子を凄く恐れるのは、彼の子孫と対立し暗殺を企ててきたからです。

系譜の改竄・・・
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王ー山代王―天武天皇―高市皇子―長屋王
本来はこうだったのでは?天武の系譜を改竄している。

朝鮮出兵を画策していた 天智や、中臣鎌足と対立していたのは、朝鮮出兵に反対していた、蘇我氏と王家(孝徳天皇)である。孝徳は山代王と兄弟である。ともに厩戸皇子 こと押坂彦人大兄皇子の皇子たちである。

そして、無実の罪で暗殺された蘇我蝦夷、 蘇我入鹿もまた怨霊として、恐れられることになります。
無実の罪で亡くなったから、怨霊とされるわけです。恐れるのは殺した側です。




写真は、桜井市上之宮にある、上之宮遺跡です。この上之宮の地名もいまに残ります。
もちろんこの地名は、厩戸皇子の上宮の所在地であったためです。

厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子が、幼少期から青年期まで過ごした宮跡の、これはごく一部です。
推古が天皇時、大王だったのが、この押坂彦人大兄皇子です。上宮という地名は、父親の宮の上方に営まれていたことに由来します。
この由来通り、お父さんである、敏達天皇の宮(桜井市戒重)はこの遺跡の北部に位置します。

写真4枚目は、桜井市戒重の、いまは春日神社にある案内板です。
この春日神社は、以前は他田宮(長田宮)と呼ばれていたとされます。敏達天皇の訳語田宮の伝承地です。

この宮の南の上殿(かみつみや)に厩戸を住まわせたことから上宮の称が興ったとされます。まさしく由来通りで、写真のように遺跡の一部もも発見されているのですが、聖徳太子のお父さんを用明天皇として系譜の改竄がなされていたために、由来に矛盾が生じているのです。

               



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元興寺伽藍縁起并流記資財帳の謎と聖徳太子

2016年09月14日 | 聖徳太子の謎


元興寺は、蘇我馬子が飛鳥の地に創建した法興寺が前身となります。蘇我氏の氏寺であり、
日本最初の仏教寺院として有名です。平城京遷都に伴って飛鳥から移転して、元興寺とい
う寺名になったとされます。

この元興寺伽藍縁起并流記資財帳には、聖徳太子とは誰なのだろうか?という疑問に答え
てくれる記述がある、凄く重要な銘文です。
元興寺は、もとは法興寺とも飛鳥寺ともされます。なぜ複数の呼称がるのかというと、
法隆寺や橘寺と同様です。法興寺の由緒を、天武によって変更されているのでは?。
ですので、この法興寺から元興寺への寺名の変更についても、天武によるものにも思う
のですが?
斑鳩寺を法隆寺に、栢寺を、橘寺に、そして法興寺を、元興寺として寺名を変更し、由緒も、
推古の息子の竹田皇子から祖父の押坂彦人大兄皇子の事績として書き換えている。これが
聖徳太子とは誰なのか混乱している原因になっている。

この元興寺伽藍縁起并流記資財帳の銘文を、ネットで原文を見ることができます。かなり
の長文ですので、今回は参照、引用させてもらいながらこの銘文の謎を考えていきたいと
思います。この銘文の解釈も難問とされます。
ですので、これ偽書とされます。
何故。元興寺の縁起として、こういう銘文が存在するのかを考えていけば、・・・
「聖徳太子はふたりいた」とする私にはなんとなく謎解けるように思うのですが・・・。
矛盾する箇所が多く存在するのは、何度かの書き換え時に間違いが生じたのだろうと思います。

本来は、天武により法興寺の由緒の竹田皇子に関する箇所を、祖父の押坂彦人大兄皇子に
由来するとして描いたものです。それが後に推古に書き換えられたのです。その証拠は
この縁起の銘文の後半部分現れます。

そして推古の息子の竹田皇子こそ、本来の聖徳太子だという記述もあります。

厩戸皇子 というのは、押坂彦人大兄皇子のことで、豊聡耳 というのが、推古の息子の
竹田皇子のことです。ふたりの皇子が、聖徳太子の名称で、後に纏められてしまったの
です。複数の呼称が存在するのは、他の人物と混同されているからでもあります。

もう以前より記述してきましたが・・・
まず天武によって、蘇我の皇子である竹田皇子の事績を、祖父の押坂彦人大兄皇子の
事績として取り込んでいるということ。取り込んだので、後に聖徳太子の名称で、二人の
皇子が混同されてしまっている。
藤原氏にとっては、この押坂彦人大兄皇子が大王だと都合が悪いので、系譜を改竄する
必要があった。その系譜に矛盾する、これら寺院の銘文を改竄した内容に合わせる必要
があったわけです。

その改竄した人物は、この元興寺伽藍縁起并流記資財帳の末尾に署名していますが、
僧の行信です。光明皇后から依頼されて怨霊を封じたのはこの行信です。そう、この
押坂彦人大兄皇子は怨霊だと恐れられていました。

元は天武が、お寺の由来を祖父の押坂彦人大兄皇子として記述されていたものが存在し
ていたのですが、後に改竄されたものです。
天寿国繍帳の銘文 と同様、僧の行信によって手が加えられたものなのでは?
押坂彦人大兄皇子が祟ったと恐れられてから改竄されたものです。
737年に天然痘により藤原四兄弟が病死して以降にです。
藤原氏にとっては、この押坂彦人大兄皇子が大王では都合がわるいのです。天武と、
行信によって2度の書き換えがあったのです。

もう何度も書き込んでいますが、わかりやすいので・・・
問題は以下の系図です。

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子


古事記は、712年に、日本書紀は720年に完成したとされますが、この藤原四兄弟が病死
した737年以降に改竄されている。つまり、聖徳太子が祟ったのは737年であり、この聖徳太子
とは、押坂彦人大兄皇子だと思われていた。
改竄した系譜と矛盾しないように、する必要があったからです。
天武によって描かれていた 押坂彦人大兄皇子の系譜を、改竄するために作られた人物が
用明天皇と穴穂部間人皇女 の皇子である厩戸皇子 です。
長屋王に繋がる大王では都合悪いのです。

記紀においては、この押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことが消されています。
この縁起にも押坂彦人大兄皇子がお寺の縁起として記述されていたものを、推古に変更され
ていると思うのですが?推古が天皇時に大王だったのは、この押坂彦人大兄皇子です。
591年に天皇に即位したのが推古であり、593年に大王に即位したのが、厩戸皇子こと押坂彦
人大兄皇子であるということ。

この593年というのが、法興元年 です。王が即位したので、建元されたのです。
そして、もしかしたらこの「法興 」が日本で最初の元号かもしれません。

この元興寺伽藍縁起并流記資財帳 は、仏教伝来の記述があり、重要な名分です。しかし
偽書だとされます。偽書といえば偽書なんだけど、本来のものに記述されていた都合の悪い
箇所があったっため改竄されている。改竄したのだけど、大きな間違いがあった。
そのひとつは、銘文に記述がある大々王、つまり大王という人物が存在するのがおかしいからです。
この大王を、消し去っている。つまり大々王を、推古にに充てている操作がなされている。
天皇=大王ということにしている。
では、この 大々王という人物はいったい誰のことなのでしょうか?


銘文の最後の部分・・・
天平十八年十月十四日被僧綱所牒偁 寺家緣左并資財等物 子細勘錄 早可牒上者 依牒旨 
勘錄如前今具事状 謹以牒上
天平十九年二月十一日 三綱【三人】
可信五人 位所皆在署
僧綱依三綱牒檢件事訖 仍爲恒式以傳遠代 謹請紹隆佛法 將護天朝者矣
天平廿年六月十七日佐官業了僧【次佐官兼藥寺 佐官興福寺師位二人 佐官業了僧一人】大僧都行信

        ************************
銘文最後に、元興寺伽藍縁起并流記資財帳が作成された理由が述べられています。
この天平18年(746年)に、僧綱所からお寺の由来と所有する財産目録を提出するようにとの
通達がありました。その通達を受けてお寺の縁起と財産目録である資財帳を作成し、翌天平19年2月に
牒上 した。その牒上 された縁起を改竄したのが、最後に署名がある僧の行信です。

記紀を改竄し歴史、系譜を変えたため、寺社などの縁起と矛盾が生じないように、この天平十九年、
747年に新たに縁起を提出するように命が下ったわけです。
天寿国曼荼羅繍帳 でも記述しましたが、おそらく、天平廿年(748年)に僧行信 による改竄。
かなり稚拙な改竄ですが、100年以上前のことだしこの時代なら無理はないかな?
それは藤原氏にとっては、藤原氏と対立していた 高市皇子や長屋王が本来の王家に人物では
都合が悪いため系譜の改竄されている。


それでは、原文と意味を引用させてもらいながら考えていきます。長文なので問題箇所
だけ説明していきます。

元興寺伽藍縁起并流記資財帳・・・

楷井等由羅宮治天下等與彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百歳次癸酉正月九日馬屋戸豐聰耳皇子
受勅記元興寺等之本縁及等與彌氣命之發願并諸臣等發願也
            *******
揩井等由羅の宮で天下を治められた等与称気賀斯岐夜比売の命(推古天皇)がお生まれに
なってから百年目の癸酉(613年)正月九日に、馬屋門豊聡耳皇子(聖徳太子)が、(推古天皇の)
勅を受けて、元興寺等の本縁及び等与称気の命(推古天皇)の発願并びに諸々の臣等の発願を
記したものである。

  ****************************

まず冒頭いきなりの難問ですよね。通説では推古が100年生きたことになっていると
解釈されていまよね?たしかに、推古はこの年代としては長命だったのでが・・・。
説明がつかないので、推古がこの年(613年)に60歳になるので、干支年を基準に60進方
だという説明をしているようなのですが、・・・これは違うと思うのですが?

そうではなくて、生誕100年目にあたるのが 「癸酉」だということですよね。

この元興寺伽藍縁起并流記資財帳は、基なるものが存在していて、それには聖徳太子が
縁起に関わったとされていたのではないのだろうか?
蘇我馬子と推古の息子の竹田皇子が関わったとされていた縁起を、天武が祖父の押坂彦
人大兄皇子が関わったとして改竄した縁起が存在していた。

そう推古の生誕100年ではなく、聖徳太子の生誕100年だったのでは?

謎は、そして問題はこの「癸酉」です。定説では(定説があるのかどうかしりませんが)、
これ推古や聖徳太子が生きていた613年だとされています。
推古の 勅を受けて聖徳太子が記したとされるからかな?
でも、これおかしいですよね。生誕100年が613年なら、生まれは514年ですよね。つまり
この生誕100年目の「癸酉」とは、673年とするのが自然ですよね。それでも、574年生まれ
となって記紀との記述とは矛盾が生じます。
推古は欽明天皇15年にあたる、554年の生まれとされます。

でも、この年には非常に重要な人物が生まれています。それは聖徳太子です。
そう、574年というのは、聖徳太子が生まれたとされる年なのです。
この銘文の「癸酉」を673年だとすると、聖徳太子の生誕100年目に充たり、また天武が大王に即位
した年でもあります。蘇我氏憎しの天武がこの時に、由来を変更したのではないのだろうか?
 
そして後に、・・・聖徳太子生誕百年を、推古に変えようとして・・・こで間違いが生じた???
そう 改竄時にこの「癸酉」を613年だとし間違えて改竄してしまった。「癸酉」を613年だと
して間違えたのが僧の行信なのでは?


この「生誕100年目」は、聖徳太子の生誕年なのではないのだろか?
天武が即位したのが、皇祖とあがめる祖父の 押坂彦人大兄皇子の生誕100年にあたる
この「癸酉」の673年です。
法興寺の縁起では推古の息子の竹田皇子の事績とされていたものを、天武が祖父の
押坂彦人大兄皇子の事績として取り込んだ縁起が存在していたのでは?
お寺の由緒を聖徳太子こと押坂彦人大兄大王になっていたものが存在していたのですが、
後に書き換えられたのではないでしょうか???

聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子の「生誕100年目」を、推古に書き換えている。
これはこの後の文章で明らかになります。かれが大王では藤原氏には都合が悪いのです。

蘇我氏憎しの天武が書き換えた縁起が存在していて、のちに747年に再び改ざんされたのでは?
この「癸酉」の673年は、聖徳太子の生誕100年目であり、天武が即位したのはこの年です。
天武は、推古天皇の息子の竹田皇子の事績を祖父の押坂彦人大兄皇子の事績として取り込んでいる。
これまで、述べてきたように法隆寺、橘寺なども同様です。


次は、有名な仏教伝来に関する箇所です。欽明天皇の時代の538年に百済国の聖明王から
仏教が伝わったとされます。その伝来した仏像をどこに安置するかを、欽明が推古に
尋ねたという記述があるとされる問題個所です。

大倭國佛法創自斯歸嶋宮治天下天國案春岐廣庭天皇御世蘇我大臣稻目宿禰仕奉時
治天下七年歳次戊午十二月度來百濟國聖明王時太子像并灌佛之器一具及説佛起書
卷一篋度而言當聞佛法既是世間無上之法其國亦應修行也時天皇受 而諸臣等告此
自他國送度之物可用耶不用耶善計可白告時餘臣等白我等國者天社國社一百八神一
所禮奉我等國神御心恐故他國神不可禮拜白但蘇我大臣稻目宿禰獨白他國爲貴物者
我等國亦爲貴可宜白爾時天皇卽大臣告何處置可禮大臣白大々王後宮分奉家定坐可宜白

時天王召大王告汝牟原後宮者我欲爲他國神宮也時大々王白大佛心依佐賀利奉白時
其殿坐而禮始然後百濟人高麗人漢人弘少々爲修行在

   **************************

この銘文の問題点の一つとされるのが、推古が、まだ生まれていない欽明の時代に
現れるとされています。銘文の癸酉を613年とすると推古は514年生まれで、推古が
欽明の時代にあらわれても不思議はないですよね???生誕100年目が、613年とし
たため、推古が欽明の時代に現れているわけです。
銘文改竄時のあやまりです。本来、天皇が召した大王とは、もちろん推古ではない
ということです。では誰なのでしょうか?

もうひとつは、「大々王」、つまり大王という人物を推古にしている。
大々王の牟久原の後宮と表現されているわけですから、女帝の推古ではおかしいわけです。
後宮とは、皇帝や王などの后妃の住居なわけです。だから大々王は推古ではおかしいわけです。
そして、もちろん天皇の他に大王という人物がいるわけにはいかなかった。
推古はもちろん、蘇我の王である天皇です。しかし、後に記述さている推古には、
「大々王」の記述が付け加えられ「大后大々王 」とか「大々王天皇」としている。
つまり、欽明の時代の。「大々王」を推古としたために後の推古には「大々王」が加えなけ
ればならなかったのでは?
天皇とは、本来は蘇我馬子によって名付けられた、蘇我の王の呼称です。


ここの問題個所は、推古の「汝牟(久)原後宮」と「時天王(天皇)召大王」です。
仏像をどこに安置するかを欽明天皇が、「大王」を召したとの記述です。天皇と大王が
存在したという記述です。それではこの「大々王」とは誰なのか?

百済国の聖明王 から仏教伝来したとされる、538年頃のおはなしです。この銘文では、
「大々王」とは推古のことだとされますが、もちろんまだ生まれていません。538年だと
すると宣化ですよね。
仏教伝来のことはもうすでに記述してきましたが、欽明は天皇だけど大王ではない。
531年に蘇我の王である天皇に即位したということ。そう蘇我氏の歴史書である天皇記・国記に
記述されていたということ。531年に大王に即位したのが安閑 で、次の大王は宣化だということです。
蘇我の歴史書ですから、蘇我の王である天皇のほうが、大王より上の立場での記述になっている。
欽明は、継体の皇子だけど、安閑と宣化は雄略から繋がる本来の王だと思うのですが?


天皇記・国記によって歴史は変えられた。蘇我馬子は、蘇我氏を本来の王家と繫げる
必要があった。それは、蘇我氏が王家と初めて関わったとする、推古のお父さんであり、
継体の皇子である欽明を、王家と繫げる操作がなされている。
それは、本来の王子たちを欽明の皇子に取り込んでいる。その人物のひとりが敏達です。
蘇我氏は王家と対立し関わっていなかった。つまり本当は敏達は蘇我が関係する欽明の
皇子ではない。蘇我馬子が改竄したかったのはここです。蘇我氏を王家と繋げたかった。

仏法を信じなかったとされる敏達は、仏教を受け入れようとした欽明の皇子ではない。


これは、この後の記述にでています、推古が矛盾ある発言をしています。この銘文の最も
重要な箇所です。聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子を、推古に書き換えているのがここで明らかになります。

爾時天皇卽從座起合掌 仰天至心流發懺悔言 
我現在父母六親眷屬愚癡邪見人三寶卽破滅燒流 所奉之物反取滅也 然今我以等由良後宮
爲尼寺 山林園田瀆封戸等更納奉 又敬造法師寺田園封戸等納奉 又敬造丈六二
軀 又修自餘種々善根 以此功德 我現在父母六親眷屬等爲燒流佛法罪及所奉之物返取滅
之罪 悉欲贖除滅・・・ 


我現在父母六親眷屬愚癡邪見人三寶卽破滅燒流・・・ 

推古が・・・そのとき、天皇(推古)は立ち上がり、合掌し天を仰ぎ心極まり懺悔して言った。
私の現世に父母、六親族、愚かにも道理を無視する間違った考えをする人が、三宝を破壊し
滅して、焼き流しました。奉納したものを取り返し滅しました。・・・

ウイッキペデア・・・
敏達天皇は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の
蘇我馬子が対立するという構図になっていた。崇仏派の蘇我馬子が寺を建て、仏を祭る
とちょうど疫病が発生したため、敏達天皇14年(585年?)に物部守屋が天皇に働きかけ、
仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。

   *****************************

推古のお父さんは欽明であり、お母さんは蘇我稲目の娘の堅塩媛 です。おかしいですよね、
彼らは仏教推進派であり、彼女は蘇我の女帝ですよね。
本来は押坂彦人大兄皇子の発言箇所を推古に変えているからです。
杜撰な変更であり矛盾が生じた箇所です。
押坂彦人大兄皇子のお父さんは、敏達であり、仏法を信じなかったとされるのはこの敏達です。
彼が廃仏派であるのは、欽明の皇子ではないということが推測できると思います。
では、敏達は欽明の皇子ではないとすると誰の王子なのでしょうか?
雄略天皇から繋がる本来の王家の人物です。

この発言をしたのは、押坂彦人大兄皇子であり、本来はこの押坂彦人大兄皇子の生誕100年目に
天武によって作られた銘文だったのでは?
継体天皇の謎でも触れましたが、敏達のお父さんは宅部皇子?であり、物部の王たちです。
だから、廃仏派なのです。天武系の王とは、雄略天皇から繋がる物部系の王たちです。

蘇我馬子が改竄したのは、蘇我の王である天皇は、古代から繋がる正当な王たちであると
するために、本来の王家を、蘇我氏が関わる欽明のお父さんの継体で断ち切り、さらに後に
繋げるために、この欽明を、本来の王家と結びつけるために、敏達のお父さんをこの欽明に
している。そう継体は本来の大王ではなかったため、欽明を王家に繋げるための改竄です。
そのために消さなければならない人物が、この宣化の王子の誰かです。おそらく宅部王子
だろうと思うのですが?
蘇我馬子は、この敏達の后となっていた推古を皇后にして、敏達を蘇我の王である天皇に
即位させた。さらに敏達を欽明の皇子として系譜を改竄したのではないでしょうか?


ふたりの聖徳太子が存在する記述がある箇所です。

時池邊天皇以命 大々王與馬屋門皇子二柱語告宣 法師寺可作處見定告 時百濟客白 
我等國者 法師寺尼寺之間 鍾聲互聞 其間無難事 半月々々日中之前 往還處作也 
時聰耳皇子馬古大臣倶起寺處見定 

そこで池辺天皇は大々王(推古)と馬屋門皇子(押坂彦人大兄皇子)の二人に、
法師寺を作る場所を見定めるようにと命じた。その時百済の客は言った。
「私たちの国では、法師寺と尼寺の間で鐘の音が互いに聞こえ、その間に災いもなく、
半月ごと午前中に往き来できる所に作ってあります」。聡耳皇子(竹田皇子)と馬古
大臣はともに寺をつくる場所を見定めた。

************************
この馬屋門皇子と聡耳皇子とを分けて使用している。別人であり、馬屋門皇子とは、
押坂彦人大兄皇子であり、聡耳皇子とは竹田皇子のことです。
押坂彦人大兄皇子が大王で推古が天皇時、皇太子はこの聡耳皇子こと息子の竹田皇子です。


そして、この聡耳皇子とは推古の子供の竹田皇子であるという記述です。
本当の聖徳太子とは、この竹田皇子のことです。

然大々王天皇命等由良宮治天下時癸寅(丑?)年聰耳皇子召告 此櫻井寺者 
我汝不得忌捨 【牟都々々斯於夜度禰與二】佛法初寺在 又重後言大命受在寺在也 
我等在【弖須良夜】此寺將荒滅汝命以至心奉爲(斯が脱)歸嶋宮天下天皇勳(懃?)
作奉也 然我者此等由良宮者寺成念故 宮門遷入急速作也 今不知 我子急速可仕奉 
爲我者小治田宮作告 又尼等爲白羯磨 法師寺急速作齋告 以是癸丑年宮内遷入 
先金堂禮佛堂等略作 等由良宮成寺 故名等由良寺 

   ************************
推古が、聰耳皇子に語りかけているのですが、この聰耳皇子を、我が子と表現している
「我子急速可仕奉」。これ、なんか豊浦寺の縁起を引用しているようにも思える箇所です。
推古の豊浦宮(等由良宮)を寺(等由良寺)にしたという由緒です。参照した、縁起そのまま
写して訂正しわすれていると思われる箇所です。問題箇所とされるところですが、そうではありません。
本当の聖徳太子のことを語っている箇所です。

厩戸皇子とは、押坂彦人大兄皇子であり、聰耳皇子とは推古の息子の竹田皇子のことです。
斑鳩宮に住み、斑鳩寺を建て、仏教を興したのは推古の息子の竹田皇子です。
推古が天皇のときに、大王だったのが、厩戸皇子こと、押坂彦人大兄皇子です。
押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の、ふたりの皇太子が聖徳太子の名称で纏められてしまったのです。

聖徳太子はふたりいたのです。




写真は、ならまちの名刹、元興寺と、明日香にある高源寺です。
推古の豊浦寺の後身とされます。

日本書紀、欽明天皇13年・・・
大臣(蘇我稲目)跪受而忻悅。安置小墾田家、懃修出世業爲因。淨捨向原家、爲寺。

仏教を受け入れるかどうかに関して、欽明天皇は、仏像を蘇我稲目に授けて礼拝するように
命じました。稲目は、小墾田の家に安置し、向原の家を寺 としたとされます。仏像はこの
小墾田の家に安置されたとされます。
日本書紀の記述の仕方は、向原の家と小墾田の家は異なるというような記述です。
百済から献上された仏像が安置されたのが、蘇我稲目の家とされる小墾田の家であり、
向原の家ではない。ですが、隣接していたものと思われます。
この小墾田の家というのが、従来から宮の比定地とされている、隣接する古宮土壇の場所で
いいように思うのですが?どうなのかな?
この向原の家が寺となり、桜井道場 呼ばれ、善信尼 など三人の尼が住持となったとされます。
後に推古の豊浦の宮となりました。

そして、稲目の小墾田の家が小墾田の宮になったのだと思うのです・・・?
推古の宮は、お隣の稲目の小墾田の家を再利用したようにも思うのですが?

推古が天皇の時代、記紀においては、押坂彦人大兄皇子が大王だったことがけされています。
この時代の本来の宮は、彼の宮である桜井市大福にある 「水派の宮」 です。
しかし、宮は、大王である押坂彦人大王の「水派の宮」とは書けないのです。
ですので推古の宮の「小墾田宮」の名称を使用したのです。宮の伝承が混乱している理由です。

仏教の受容にかんして、欽明が稲目に命じたという記述です。王(天皇)が、命じて仏教を
受け入れたという記述ですが、そうではありません。

この欽明は、王ではありません、後に繋がる蘇我の王たちを、古来から繋がる王家と関係
していたとするための改竄です。初代天皇である、推古のお父さんを遡って王にしたのです。
蘇我氏が歴史を改竄するために、蘇我氏と関係していた、畿内北部の王である 継体の皇子を、
王、つまり天皇の呼称を使用して改竄したのです。
過去にさかのぼって、継体と欽明を、王(天皇)だったとしているわけです。
この改竄は、蘇我馬子によって編纂された、天皇記・国記の編纂時においてです。
仏教を受け入れるかどうかを欽明が、稲目に命じたという記述ですがそうではなく、欽明で
はなく、大王の宣化です。 この宣化は継体の皇子ではない。

日本書紀においては仏教伝来は552年とされます。これは欽明天皇の即位を539年としたため
だろうと考えられますが、本来の仏教伝来の記述がこの元興寺伽藍縁起并流記資財帳の銘文
に残ってしまっていて矛盾しているわけです。
欽明の時代に大王だったのが、宣化の王子の誰かです。宅部王子かな?
欽明天皇の時代に、物部尾興と中臣の鎌子らの廃仏派により、 仏像が廃棄され寺が焼却さ
れたことを黙認 したとされますが、これは欽明ではない。
彼は王ではない。蘇我の王である天皇だったと、天皇記・国記の編纂時において改竄され
たということです。

それでは、なぜ日本書紀においては仏教伝来が552年だとされるのでしょうか?
それは、奈良の大仏さんと関係します。大仏さんの開眼供養会が実施されたのが、
天平勝宝4年(752年)だからです。
大仏さんが完成したのが、仏教伝来200年目の記念の年であるとするために、552年に仏教が公伝
したと日本書紀を後に改竄したのです。
通説は逆ですが、この552年の公伝は無理があるとされています。
つまり、仏教伝来200年目の記念の年であるので、開眼供養会が実施されたのではなく、開眼式を752年
に実施したからです。
では何故、伝来を552年にしたのだろうか?という問題は、ウイッキベディアにあります・・・
伝来年が「欽明十三年」とあることについても、南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦
入滅後1501年目にあたり末法元年となる ・・・
   **************************
これらの説がいいように思うのですが、・・・ここ何が言いたいのかというと、古事記、日本書紀は編纂
後に改竄されているということです。
この大仏建立には、光明皇后が大きく関わりました。仏教の力で、怨霊を封じようとしたともさ
れます。記紀を改竄したのは彼女です。
つまり、仏教伝来に関しては、日本書紀が編纂されたとする720年以降・・・大仏さんの開眼供養会が実施された
この752年に改竄されたのです。
しかし、日本書紀は改竄したのだけど、この元興寺伽藍縁起并流記資財帳の銘文に、
本来の公伝の記述が残っていて仏教公伝の年が混乱しているのです。 









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天寿国繍帳の謎と光明皇后

2016年03月08日 | 聖徳太子の謎


わたし、地元和歌山県は御坊市に安珍清姫で有名な道成寺があります。
ですが、寺の縁起では、髪長姫こと藤原不比等の娘とされる宮子姫の伝説が存在します。
第42代天皇、文武天皇の妃となりました。聖武天皇のお母さんです。
同じく、藤原不比等の娘の安宿媛こと光明子にも不思議な伝説が存在します。
彼女たちは、本当は不比等の娘ではないとの伝説が存在します。
光明子は、宮子の子である聖武天皇の皇后となり光明皇后といわれました。
ともに絶世の美女だったとされます。美女を探し出し、文武天皇の妃とし、
子供を身ごもると、自らの養女としたのでしょうか?
不比等は、天皇家と姻戚関係を結び、ここに藤原摂関政治が始まり、藤原氏は権力を握ります。

藤原宮子は不比等と賀茂比売の娘とされ、光明子も、不比等と県犬養 三千代(橘三千代)
の娘とされます。

光明皇后は、仏教に篤く帰依し、聖徳太子の謎に深く関わりることになります。
東大寺の大仏の建立を、聖武天皇に推めたのも彼女だと言われます。
それは怨霊を深く恐れたからです。

養老4年、720年に、藤原不比等は死去します。翌年の721年に長屋王は右大臣となり、藤
原武智麻呂は中納言となったとされます。当然ながら権力争いがおき、長屋王と藤原氏は対
立するようになります。やがて、長屋王の変へとつながってゆくことになり、長屋王は、
729年のこの変で自害しました。
怨霊は、すぐにあらわれ、藤原氏に禍をもたらします。翌年、光明子のお母さんとされる、
橘三千代が亡くなります。光明子は、法隆寺に財宝を寄進したとされます。
これ以前にも、藤原不比等が亡くなり、元明天皇が崩御した後にも沢山の財宝が法隆寺に寄
進されています。
藤原四兄弟は、光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立しますが、737年に天然痘により、
兄弟4人全員亡くなりました。翌年法隆寺に多額の寄進をおこないます。
そして、739年に、法隆寺に東院伽藍を建設することになります。

どうして、藤原氏は、光明皇后は、法隆寺に関わるのか?
怨霊は法隆寺に存在すると思われていたことに謎をとく鍵があるように思います。
長屋王の怨霊以前、既に怨霊は存在していたということです、この恐れが、東大寺建立、
法隆寺に対する寄進にあらわれています。


天寿国曼荼羅繍帳・・・
天寿国繍帳は、残片ですが中宮寺に保存されていました。
創建当時の中宮寺は、今の中宮寺より東方約400メートルの場所に位置していたようです。
この創建中宮寺は、野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の銘文にあるように、中宮天皇とは推
古天皇のことであり、ここ中宮寺は息子の竹田皇子を祀るために宮から寺になったのです。
中宮天皇こと、推古天皇のお寺であるので中宮寺なのか?あるいは、3つの宮の中にあった
宮なので、中宮といわれ、推古が中宮天皇と呼ばれたかは定かではありませんが、どちら
にせよ、推古が息子を祀るために造ったお寺です。
創建の由緒がないのは、天武によって消されたからです。発掘調査により、創建は古い時代
とされます。竹田皇子没後に、推古によって宮から竹田皇子を祀る菩提寺になったのだと
思います。おそらくですが、息子の竹田皇子没後に、ここに住んでいたようにも思います。
だから、中宮天皇なのかな・・・?

鎌倉時代の、1274年に中宮寺の中興の祖といわれる尼僧の信如により、法隆寺の蔵から、
聖徳太子ゆかりとされる、この「天寿国繍帳」が再発見されたとされます。
上宮聖徳法王帝説にも、写されており以下のよな銘文だったと推測されています。

天寿国繍帳

斯帰斯麻  宮治天下  天皇名阿  米久爾意  斯波留支
比里爾波  乃弥己等  娶巷奇大  臣名伊奈  米足尼女
名吉多斯  比弥乃弥  己等為大  后生名多  至波奈等
己比乃弥  己等妹名  等巳弥居  加斯支移  比弥乃弥
己等復娶  大后弟名  乎阿尼乃  弥己等為  后生名孔
部間人公   主斯帰斯  麻天皇之  子名ヌ奈  久羅之布
等多麻斯  支乃彌己  等娶庶妹  名等巳弥  居加斯支
移比弥乃  弥己等為  大后坐乎  沙多宮治  天下生名
尾治王多  至波奈等  巳比乃弥  己等娶庶  妹名孔部
間人公主  為大后坐  濱辺宮治  天下生名  等巳刀弥 
弥乃弥己  等娶尾治  大王之女  名多至波  奈大女郎
為后・・    ・・歳在

辛巳十二  月廿一癸  酉日入孔  部間人母  王崩明年
二月廿二  日申戌夜  半太子崩  于時多至  波奈大女
郎悲哀嘆  息白畏天  皇前日啓  之雖恐懐  心難止使
我大王与  母王如期  従遊痛酷  无比我大  王所告世 
間虚仮唯   仏是真玩  味其法謂  我大王応  生於天寿
国之中而  彼国之形  眼所*看  稀因図像  欲観大王
往生之状  天皇聞之  悽然告曰  有一我子  所啓誠以
為然勅諸  妥女等造  繍帷二張  画者東漢  末賢高麗
加西溢又  漢奴加己  利令者椋  部秦久麻

この天寿国繍帳の銘文に関しては、「天皇」の呼称が使用されている関係で、多くの学者先
生が研究されていますので、その詳細は書き込みませんが、日本書紀より時代が下ることは
ないといわれます。
この銘文は、推古朝に制作されたものではないのでは?といういくつの指摘があるようです。
それは、・・・天皇号、和風諡号、暦の問題、公主の名称、などが問題箇所のようです。
特に暦の問題は決定的のようにも思います。

儀鳳暦・・・
儀鳳暦は、それまで使用されていた元嘉暦にかわって、文武天皇元年である697年から
67年間使用されとされます。つまり、銘文はこの期間に縫われた可能性が大きい。

このようにいくつかの点で、この銘文は推古朝に制作されたものでない可能性が大きい。
というか、ありえないように思います。繍帳の図柄については新しい部分と、古い部分が混
雑しているそうです。本来、この繍帳自体は、推古が息子の竹田皇子のために作り、中宮寺
に祀っていたもののように思うのですが、銘文は後に、つまり、聖徳太子として祀られるよ
うになってから刺繍されたものです。


銘文の前半部分の、系図は、欽明天皇から続く蘇我系の王である天皇の系図です。
この天寿国繍帳は、繍帳自体は推古朝に存在した可能性があっても、この刺繍文字は、長屋
王の変の後に聖徳太子が祟ったあと、光明皇后こと藤原光明子に祀られるようになってから
縫われたものです。
それは、光明皇后が、藤原房前に命じて法隆寺の上宮王院(東院伽藍)東院を造らせた天平
11(739)年頃(『法隆寺東院縁起』)・・・おそらく740年以降作られたものなのでは?
法隆寺の伽藍縁起并流記資財帳には、繍帳の記述があるものの、銘文のことには触れていない
ので、この法隆寺資財帳が提出された747年以降に縫われたともされます。
つまり、繍帳は存在していたのですが、銘文は後に刺繍されたものだということです。

おそらく、行信によって施行された法隆寺の聖霊会において完成していたと思います。
ですので、聖霊会が行われた748年に刺繍されたように思うのですが・・・?

それで、いつ銘文が刺繍されたのか?に関する問題は、もう既に謎解けているように思いま
すが、問題は、誰が、どういう理由で、こういう文章を刺繍したのか?・・・だと思うので
すが・・・?

聖徳太子没後、100年以上経てから何故、こういう文章を作成する必要があったのでしょうか?
特に、この銘文の前半部分。どうして、わざわざ系図を書き込む必要があったのかということ
が、この銘文を解く鍵だと思うのですが?

これ、前半部分の系譜は、大王家ではなく天皇家の系譜です。元は天皇記、国記に記述され
ていた、欽明天皇から繋がる蘇我氏の系譜を利用して、厩戸皇子に繋げたものです。

そして、この刺繍の銘文は、藤原氏が改竄した系譜を正当化するために必要な文章なのです。
ですので、藤原不比等の娘とされる光明皇后が刺繍を縫わせたのだと思うのですが?

もう何度も書き込んでいますが、問題は以下の系図です

押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子

記紀や、この天寿国繍帳の銘文どおりの系譜であり、聖徳太子が、用明天皇と、穴穂部間人
皇女の皇子であれば、法隆寺に多額の寄進をする理由なんてないわけです。

前回は、蘇我氏による系譜改ざんの必要性を書きました。天皇記・国記において物部系の王
たちを抹殺して、大王ではなかったと系譜を改竄しています。

そして、天武が王位についた後、天武によって祖父の押坂彦人大兄皇子を大王として、本来の
系譜が作り始められました。(帝紀・旧辞)
天皇記・国記においての、推古条の皇太子は、竹田皇子だったのですが、天武はこの皇太子
を厩戸皇子こと祖父の押坂彦人大兄皇子だとして改竄していました。

しかし、藤原氏や天智系の天皇にとって、彼から繋がるのが本来の王家だと都合が悪いため、
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子を大王でなかったとし、日本書紀、推古条における厩戸皇子を
用明天皇と穴穂部間人皇女との皇子だと、系譜を改竄しました。

天智系の天皇や、藤原氏にとっては、押坂彦人大兄皇子を大王だとしたくないわけです。
彼から繋がる、高市皇子や長屋王と対立していたのは藤原氏であり、孝徳天皇や有馬皇子
と対立していたのは天智であり、彼らが本来の王家の大王では都合が悪いわけです。
大王殺害の大逆罪にあたります。
推古が天皇時、大王だったのが押坂彦人大兄皇子でした。

本来の王家(天武系)が断裂してしまい、藤原氏や傍系の王たちが権力争いに勝利を得て、
天皇の名称を使用し系譜を改ざんして、正当化した。それが、偽書である日本書紀、古事記
です。

この天寿国繍帳の銘文にも天皇と大王が使用されていて、厩戸皇子を大王としています。
なぜ大王かっていうと、実際に本当に大王だったからです。
天皇と大王が存在していたからです。

厩戸皇子を押坂彦人大兄皇子ではなく、を用明天皇と、穴穂部間人皇女の皇子だとし、本来
の系図から外したのは、長屋王の事件あって押坂彦人大兄皇子が祟った後ではないでしょうか。
藤原四兄弟が病死した737年以降は、特に怨霊として恐れられ祀られたのではないでしょうか・・・?
この東院伽藍を建設して、怨霊を封じようとした時、混乱は始まります。

法隆寺は、もともとは聖徳太子の怨霊を鎮魂するためのお寺ではないのですが、この東院伽
藍は怨霊封じの施設です。この法隆寺の怨霊は、長屋王につながる押坂彦人大兄皇子、こと
日十大王です。怨霊を封じるための東院伽藍です。

この東院伽藍八角堂の夢殿には、聖徳太子等身と伝えられる秘仏の救世観音像があります。
白布で覆われて長年において人目にふれることはありませんでした。
この仏像は、どこに存在していたかは謎だとされます。

この救世観音像は、推古天皇が息子である竹田皇子を祭っていた元の中宮寺に、天寿国繍帳
とともに安置されていたものだと思います。
東院伽藍は、斑鳩の宮の跡地に建設されたとされます。天武による、法隆寺創建時に、竹田
皇子の宮や寺である、この斑鳩宮や斑鳩寺は取り壊され再利用しています。
斑鳩寺は、竹田皇子が亡くなった時に菩提寺となり、本尊として釈迦三尊像がありました。
推古のお寺でもある中宮寺は、息子の竹田皇子没後に菩提寺(尼寺)として、推古が造った
お寺なのでは?そして、本尊の木造菩薩半跏像(弥勒菩薩像)と共に、これら救世観音像と
天寿国繍帳が存在していたのだと思うのですが・・・?

その理由は、この仏像は止利式の飛鳥仏であるからでもあります。
つまり、救世観音像は東院伽藍が建設した時に、作られた仏像ではないということです。
そして、天武が、法隆寺を建設し、祖父の押坂彦人大兄皇子を祀ったのは、もちろん天武朝
です。ですので、この救世観音像は、推古天皇の皇子である竹田皇子の像です。

推古は愛する息子が亡くなった時に、等身大の像を作り、菩提寺である中宮寺において、本
尊の木造菩薩半跏像と共にに祀っていたのです。

行信が、東院伽藍を建設した時に、新たに中宮寺自体も東院伽藍そばに移設し、これらの仏像
も移し祀ったのだと思います。そう中宮寺も、法隆寺と同じく押坂彦人大兄皇子を祀るお
寺だとして間違ってしまったのです。
なぜなら、中宮寺を東院伽藍のそばに移築する理由がこれ以外に考えられないように思うの
ですが?どうなのでしょうか・・・?
この救世観音像も本来は推古が造らせた、竹田皇子の像ですが、厩戸皇子こと、押坂彦人大
兄皇子の像だとして間違えて封じたのです。


そして、聖徳太子が大きな謎になってしまったのは、法隆寺本尊である釈迦三尊像の銘文の、
間違った解釈によるのもです。では、だれが間違ってしまったのでしょう?

本来は竹田皇子のことが書かれていた、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の「上宮法皇」を、厩
戸皇子こと押坂彦人大兄皇子だとして間違えて解釈したものです。
さらに系譜を改竄したため大きな謎になってしまったのです。

斑鳩寺を壊し、法隆寺を建設したあと、斑鳩寺の本尊だったこの仏像を法隆寺に移していた
のだろうと考えられます。それが、そもそも混乱のはじまりです。
斑鳩寺は竹田皇子のお寺であり、法隆寺は天武が祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るために建設
した菩提寺だからです。

聖徳太子を祀るように、光明皇后からの命を受け、法隆寺東院を復興したとされるのは僧の
行信です。押坂彦人大兄皇子や長屋王の怨霊の祟りを抑えるための中心人物でした。
仏の力で、怨霊を封じようとしたのです。東大寺もまたそうです。仏教の力で怨霊を封じ込
めようとしたわけです。

藤原家に天然痘をもたらしたのは、長屋王の怨霊と思われていました。長屋王は、ここ法隆
寺に祀られていた押坂彦人大兄皇子に繋がります。そう、天武系の大王です。
光明皇后は、法隆寺に多額の寄進をしています。

法隆寺本尊である釈迦三尊像は、本来は、斑鳩寺にあったもので、竹田皇子がなくなった時
につくられたものなのですが、天武によって法隆寺が創建され、その時この仏像も法隆寺に
おいて祀られていたために間違いが生じたわけです。
天武は祖父の押坂彦人大王を祀るため法隆寺を建設しました。当然、光明皇后も行信も法隆
寺には竹田皇子ではなく、押坂彦人大王を祀っているのを知っていたはずです。

そう、彼ら、光明皇后と行信がこの釈迦三尊像の銘文の上宮法皇を、押坂彦人大兄皇子こと
厩戸皇子だと間違った解釈をしてしまったのです。さらに、記紀の系譜を改竄し天寿国繍帳
の銘文を作成しました。
そして、これも中宮寺にあった救世観音像を、厩戸皇子こと押坂彦人大王の像だとして封じ
てしまったのです。怨霊を封じるため、聖徳太子として祀ったのです。

聖徳太子の謎はここに始まります・・・。



写真は、東院伽藍にある、聖徳太子の等身像とされる救世観音像が安置されている夢殿です。

ウイッキペディア・・・
天平9年の『東院資財帳』に「瓦葺八角仏殿一基」の存在が記され、その頃に創立された可能性
も考えられている。8世紀末頃には「夢殿」と呼称される。

この天平9年とは、まさに天然痘により、藤原四兄弟が相次いで病死する年です。
その年には、すでにこの夢殿は造られ、怨霊を祀り封じようとしていました。
いかに怨霊対する恐怖が大きいものかを物語っているように思います。


                         

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聖徳太子はいなかった?・・・聖徳太子架空説

2016年02月02日 | 聖徳太子の謎


聖徳太子はいなかった?・・・と、最近言われますよね。
でも実際に、法隆寺や四天王寺など聖徳太子を祀っている寺院は多く存在します。
架空の人物を祀っているというのは、やはりおかしいですよね。
もちろん、実際に存在している人物なのですが、異なった人物として、系譜の変更がなされ
ていることに加え、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の間違った解釈により、さらに大きな謎に
なっています。
推古天皇の息子の竹田皇子と、押坂彦人大兄皇子の二人の事績が、ひとりの聖徳太子として
ひとつにまとめられています。

敏達天皇の第一皇子である、押坂彦人大兄皇子が、推古天皇時に大王として存在するのは
都合が悪いので異なった人物、厩戸皇子として系図を変更がなされていて、大王ではなかっ
たとされています。用命天皇と穴穂部間人皇女の皇子というのはもちろん嘘です。
だから、架空といえば架空なのですが・・・子孫を全員抹殺したのは系譜を改竄し異なった
架空の人物を作り出したからです。

系譜を変更しなければならなかったのは、蘇我氏であり天智系の天皇であり藤原氏です。
それは、彼から繋がる大王家の人物を殺害しているからです。殺害した人物が大王では具合
悪いからです。大王の呼称を使用せずに天皇の呼称を使用したのはこれが理由です。

継体天皇以降、天智天皇までで、実際は王ではなかったのですが天皇とされている人物が
複数います。記紀が無視をする大王は、本来の上宮家である天武系の大王と物部系の大王た
ちです。
天智と天武は対立していました。そして系譜が変更されています。
天智系の天皇や、藤原氏にとっては下記の系図、つまり押坂彦人大兄皇子やその子供たちが
大王家の人物であり、大王では都合が悪いわけです。

押坂彦人大兄皇子ー舒明天皇―天武天皇―高市皇子―長屋王
押坂彦人大兄皇子―茅渟王―孝徳天皇―有馬皇子

天智系の天皇や、藤原氏にとっては、対立していた孝徳天皇や、長屋王が本来の大王家の
王であり、彼らに繋がる、押坂彦人大兄皇子や茅渟王が大王だと都合が悪いというのは、こ
の系図を見れば解ります。

今回は、蘇我氏もまた系譜を変更しなければならなかったのじゃないのか?・・・というと
ころを少し考えてみます。

天皇記・国記編纂時に、蘇我馬子によって改竄された可能性があるのでは?

物部系の大王を王ではないとするためと、欽明と、宣化天皇の皇女たちから繋がる、本来の
大王家である物部系の王を、蘇我稲目宿禰女である堅塩媛と小姉君の系図に取り込んでいて、
蘇我の王ということに改竄しているのでは?。


聖徳太子とされる厩戸皇子のお母さんである、穴穂部間人皇女の穴穂部は、石上穴穂宮で
養育されたことに由来するとされます。これ、石上は物部氏の領地ですよね。
穴穂部間人皇女は、欽明と蘇我稲目宿禰女の小姉君の娘とされます。
何故、明日香の地ではないのでしょうか?これ、おかしいと思うのですが・・・?

継体天皇以降、蘇我稲目の時代から蘇我氏は大王家と姻戚関係を持ち、特に仏教を受け入れる
かどうかの問題に関して物部氏と争うようになります。
この争いは、この時代、蘇我馬子、物部守屋の時代にまでおよびます。蘇我氏は、さらに絶
大な権力を保持するようになり物部氏と対立します。
聖徳太子のお母さんとされる、この穴穂部間人皇女は丹後国に避難したという伝説が存在し
ます。

ウイッキペディア・・・
京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、穴穂部間人皇女に因
むものと伝えられている。穴穂部間人皇女は蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄
せ、宮に戻る際に自分の名を贈ったが、人々は「皇后の御名をそのままお呼びするのは畏れ
多い」として、皇后が(その地を)退座したことに因み「たいざ」と読むことにしたという。

      ****************************

そう、争乱を避けたというのは、彼女は蘇我の女性ではなく、物部の女性なのでは?
物部に関係する人物を蘇我氏の系譜に組み入れているのでは?

蘇我氏が初めて王家と関係するのが欽明です。この欽明に二人の蘇我の娘が后になっていま
す。蘇我稲目宿禰の娘の、堅塩媛と小姉君です。

欽明と、この二人の蘇我稲目宿禰の娘の子供たちに注目してください。
そう、彼女たちは非常に多くの子供をもうけています。
堅塩媛にいたっては、13人(7男6女)もの子供を産んだことになります。
まー、ありえないことではないかもしれませんが多すぎますよね。これ、不自然のように
思うのですが?どうでしょうか?
それに比べ、宣化天皇の皇女たちの子供は少ないですよね。宣化天皇の皇女たちの子供を、
二人の蘇我の娘の系譜に取り込んでいるのでは?
宣化天皇の皇女たちの王子しか、大王になる資格がなかったように思うのですが?


物部守屋が、用明天皇の後、皇位につけようとしたのは穴穂部皇子です。
穴穂部皇子は、欽明天皇と蘇我稲目宿禰の女の小姉君の子供とされます。
だとすると、全く蘇我の皇子ですよね。
どうして、物部守屋は蘇我の皇子を皇位につけようとするの?おかしいですよね???
この穴穂部皇子や穴穂部間人皇女は、当然、物部氏の子供たちだったのでは?

そしてこの時、蘇我馬子は泊瀬部皇子を後継者として推して物部守屋と対立します。
彼も本当に小姉君の子供なのでしょうか?この泊瀬部皇子は、後の崇峻天皇であり、彼ら、
穴穂部皇子と崇峻天皇は、蘇我馬子によって殺害されます。
何故、蘇我馬子は蘇我の皇子を殺すわけ?
聖徳太子の皇子である山背大兄王もそう。全く蘇我の皇子じゃないですか。
どうしてこんな不思議な話を信じることができるのでしょうか?

本当に彼らは蘇我の皇子だったのでしょうか?
さすがに、おかしいので、いろいろな説があるようですが、単純に系譜が変更されたのだ
と思うのですが・・・。
本来は、宣化天皇の皇女の王子以外には、大王にはなれないように思うのですが・・・?
それは、この宣化天皇の皇女たちは雄略天皇から繋がる本来の王家である物部の女性たちだ
からです。

雄略天皇の皇女の春日大娘皇女―橘仲皇女―欽明天皇の皇后の石姫皇女、后の稚綾姫皇女、
小石姫皇女


厩戸皇子だけでなく、欽明天皇と蘇我の娘の子供たちとされる以下の彼らに関しては、系譜
の変更がなされている。彼らの名前からも判断できるように思いますが?

大兄皇子、石上部皇子、桜井皇子、穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、 泊瀬部皇子。

これら地名である、石上、桜井、穴穂部、泊瀬は物部領地。大兄皇子に関しては名前がない。

つまり、宣化天皇の皇女とされる、石姫皇女、稚綾姫皇女、日影皇女は物部系の女性であっ
て、彼女たちの子供が、蘇我氏の女性の系図に組み込まれているのでは?
これは、物部の大王たちを王としたくないからです。

宣化天皇の娘の日影皇女の、お母さんは不詳とされるのは物部の女性だったからなのでは?
彼女の兄弟ともされる宅部皇子は、穴穂部皇子とともに、物部側にいて蘇我氏と戦ったと
されるのは、そう彼も物部の皇子だったからですよ。

押坂彦人大兄皇子の父である、敏達以外の宣化天皇の皇女たちの本来の大王たちを、蘇我氏
に関係するように系譜の変更がされていて、蘇我の皇子として王家と関係ないように変更さ
れています。これは、この物部氏が、古代から続く本来の王家であるのですが、蘇我氏にと
っては、物部の大王たちを王としたくないからです。
丁未の乱において、蘇我馬子と物部守屋は争い物部氏は滅びます。仏教受容の名目での争い
ですが、本来は権力争いです。日本の古代史を変えたのは蘇我馬子です。

継体以降、推古までで問題となる人物は、用命天皇、崇峻天皇です。
敏達天皇は、お母さんが宣化の娘の石姫なので、彼が大王ということには問題ないのですが、
この30代敏達と33代推古の間の、天皇記作成時以前の用命と崇峻が問題。

彼らが、蘇我の女から生まれている限り大王ではない。また、天皇の呼称もこの時は存在し
ない。蘇我馬子によって編纂された天皇記作成時以降です。
ですから、ここ変更されている。つまり、蘇我による物部系の大王たちの殺害を隠すための
系譜の変更が行われているのでは?

欽明天皇の皇后の石姫皇女の王子である箭田珠勝大兄皇子を、大兄皇子(用命天皇)として、
蘇我氏の娘の系譜に取り込んで天皇だとしているのでは?
崇峻天皇こと泊瀬部皇子もまた、宣化天皇の皇女の王子なのでは?
天皇とは蘇我の王であり、宣化天皇の皇女の王子以外には大王にはなれない。

推古天皇以前の、このふたりの系譜の変更は天皇記における蘇我氏によるものなのでは?
蘇我氏が殺害した王たちは、大王ではなく蘇我の王である天皇だったということ。

天皇記、国記編纂時には、天皇は王ではなかったので、大逆罪には当たらないとするため。
天皇記・国記編纂の理由は物部の王を消し去ることと、大王である崇峻殺害の大逆罪を隠蔽
するためでもあったと思うのですが・・・?

厩戸皇子や山背皇子に関しての系譜の変更は、記紀において?天智系天皇や藤原氏によるも
のです。日本書紀は720年に完成したとされます。
日本書紀下巻の王は、全て押坂彦人大兄皇子から繋がります。
完成時には彼が王だとして記載されていたのですが、その後、天智系天皇や藤原氏によって
に変更された可能性はないのでしょうか?




写真は、明日香にある乙巳の変の舞台としてしられる、皇極天皇の板蓋宮跡と石舞台古墳です。
この古墳は蘇我馬子のお墓とされます。お墓の封土を剥し、暴いたのは天武です。
天武は、蘇我氏を憎んでいました。それは、祖父である押坂彦人大兄皇子や、上宮家の大王
たちを殺害したからです。
蘇我の皇子である、推古天皇の息子の竹田皇子の事績を消し去ったのもまた天武です。



               




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法隆寺、橘寺創建の謎と野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像

2015年11月27日 | 聖徳太子の謎


もう少し、野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の謎を考えてみます。
それは、聖徳太子の生誕の地とされる橘寺は、もとは栢寺だったのではないのだろうかと
思うからです。

何故かっていう理由は、法隆寺の創建を、聖徳太子こと厩戸皇子の時代にもっていく日本書
紀の手法と同じだからです。
創建の由来を聖徳太子御代に持っていき、古くから天皇の発願による勅願寺であるとし、
官営の寺として建設を開始するための手法です。

法隆寺献納宝物である四十八体仏は、1078 年に飛鳥の橘寺から法隆寺金堂に移されたもの
であるのですが、本来は四十九体仏であって、のこりの一つがこの野中寺の金銅造弥勒菩薩
半跏思惟像なのでは?という、木崎愛吉氏の説がいいように思うからでもあります。
ただ、銘文のこの文字「栢」は、「橘」の誤植、つまり間違った文字を刻んだのではなく、
もとは栢寺で、後に橘寺になったのだと思います。

法隆寺金堂日記・・・「橘寺より、小仏49体、永歴2年(1078年)10月8日迎え奉った」


聖徳太子が大きな謎になっているのは、天武が、蘇我の皇子である推古天皇の子の竹田皇子
の事績を、祖父の厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の事績として取り込んだからです。
どうして、天武がそんなに蘇我氏を憎むのか?という理由は、皇祖と仰ぐ祖父の押坂彦人大
王や、他の上宮家の王たちを蘇我氏によって殺害されたからです。

斑鳩寺も、この橘寺も、本来は推古天皇の息子の竹田皇子ゆかりの寺だったからですが、
竹田皇子の事績を取り込み変更するには、存在する竹田皇子の宮やお寺など、消し去り、
厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子の宮やお寺にする必要があったからです。

そして、日本書紀が多くを語らないのは、法隆寺も、この橘寺も天武が、押坂彦人大兄皇子
を祀るために造営したとは書きたくないのです。そう彼が大王だったという事実を語れない
からです。


野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時誓願之奉弥勒御像也
友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也

この銘文の、暦の箇所の4月8日に注意して下さい。
そう、4月8日はお釈迦様の誕生日とされる日ですよね。
ですので、この年に中宮天皇が病気になったので回復を願って仏像を造ったということで
はなく、この銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯開」は、この栢寺が創建された日とい
う意味なんじゃないのかな?
お釈迦様の誕生日は、お寺の創建の日としてはこれ以上ない日ですよね。
銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯開」は創建の記録として残っていて、その文章に後にこの
仏像が制作された時に、お寺の創建の日として冒頭に記述されたものなのでは?

その栢寺の僧たちが、推古天皇が病気になった時に、回復を願ってこの弥勒像を作り、銘文を
記したということなんじゃないのかな?・・・と思うんだけど?
だから、必ずしも606年ではなく、推古天皇が崩御した628年頃にこの仏像は制作された
可能性もあると思うのですが・・・どうなのでしょう?

それで、由緒では、この橘寺は、もとは欽明天皇の別宮であり、聖徳太子はここで誕生され
たとされます。後に斑鳩へ移った後にお寺になったとされます。
それは、推古14年である606年の建立と伝えていますよね。

この仏像の銘文の丙寅年を606年とすると由緒どおりではありますよね。

お寺として新たに創建されたので、聖徳太子がここで勝鬘経を講説したともいえるじゃないですか。
ただ、この聖徳太子とは、推古天皇の子の竹田皇子のことです。

私は、この欽明天皇の別宮というのは、推古の住居になっていたんじゃないのかと思うのです。
ここで息子の竹田皇子(本当の聖徳太子)が生まれたところであり、また、幼くして母が
なくなった厩戸皇子こと押坂彦人大兄皇子を引き取って育てた場所でもあります。
ですので、本来は推古天皇のゆかりのお寺でもあるのです。
推古天皇13年(605年)に、竹田皇子が斑鳩宮に遷るまで過ごした宮です。

四天王寺式伽藍配置をとっていた大寺院だったようです。
竹田皇子が亡くなった時に菩提寺(尼寺)になったと思うのですが、天武があらたに作り直
して、押坂彦人大兄皇子を祀る寺として造営した。もちろん由緒も聖徳太子に変更されてい
ます。ただ、法隆寺と同じく、橘寺はもとの栢寺とは少し位置がことなると思います。
おそらく、橘寺の東側正面の向かいだと思うのですが・・・???


この橘寺が日本書紀に初めて登場するのは天武9年(680年)です。

日本書紀 天武九年・・・
夏四月乙巳朔甲寅、祭廣瀬龍田。乙卯、橘寺尼房失火、以焚十房。己巳、饗新羅使人項那等於筑紫、
賜祿各有差。是月、勅「凡諸寺者自今以後、除爲國大寺二 三以外、官司莫治。
唯、其有食封者先後限卅年、若數年滿卅則除之。且以爲飛鳥寺不可關于司治、然元爲大寺而官司恆治、
復嘗有功、是以猶入官治之例。

この天武九年の記述に注目してください。非常に重要な文だと思います。
この二、三の国の大寺とは、どこでしょうか?
わたしは、法隆寺、橘寺だと思うのです。そしてもうひとつは、おそらく川原寺です。

日本書紀のこの文章は、法隆寺、橘寺を官営の大寺として、建設を始めるための、いわば勅
なわけです。この二、三の国の大寺以外には給付しないとしたわけです。

そして、「唯、其有食封者先後限卅年、若數年滿卅則除之。」・・・
食封が下されてから30年に満たない場合は、30年に至るまでの食封が許されたわけです。
そして、法隆寺資材帳には天武八年には法隆寺に食封が停止したとされます。
これは、他寺からの不満を回避するためのものです。

法隆寺も、天武が祖父の押坂彦人大兄皇子を祀るために建てたものであり、この天武九年
680年に造営が始まった。同じく橘寺も押坂彦人大兄皇子を祀るために680年に造営が始ま
ったのではないでしょうか。

天智天皇九年
夏四月癸卯朔壬申夜半之後、災法隆寺、一屋無餘。大雨雷震。

この天智九年とは670年になります。この年に法隆寺は火災にあって全焼したとされます。
橘寺は、天武九年、680年に火災に遭って十房を焼いたとされます。
創建する以前から存在していて、火災に遭った、という日本書紀の手法はこの橘寺も法隆寺
も同じ。この火災に遭ったというのは、壊して新たに創建するための口実。
火災に遭ったので造り直す。再建するにはお金がかかるから他には給付しないとしたわけです。
法隆寺資材帳の、法隆寺への食封に関することも同様です。
創建の由来を聖徳太子にするために、本来は天武朝に初めて創建されたのですが、以前から、
つまり聖徳太子が実際に関わり建立したという手法です。



写真は、明日香の聖徳太子誕生の地とされる橘寺。

橘寺の名称の由来は、田道間守が持ち帰った橘の実に由来するとされます。

ですが、あたかも、斑鳩寺が法隆寺であるように、この栢寺も橘寺だったように名称変更し
ているのでは?とも思うのですが・・・?
本来は天武朝に創建されたのですが、この創建の由来を聖徳太子こと厩戸王子の時代に持っ
ていき名称も変更している。この手法は法隆寺と同じ。

証拠は、今の橘寺の発掘調査により、7世紀後半の建立とされているからです。
つまり、由緒とは異なるということです。
これは、法隆寺と同様、橘寺の名称は、この7世紀後半に建立した時に名付けられたものな
のですが、由来を聖徳太子の御代に持っていっているということ。

そして、発掘調査により明らかなように、法隆寺と同じく、栢寺はいまの橘寺の位置とは
異なると思います。この橘寺の正面は東になります。これが不思議だともされています。
この東正面の向かいが栢寺だったんじゃないのかと思うのですが・・・?
本来の由緒に加え、さらに天武時代に創建された時に聖徳太子こと厩戸王子の由来としての
話が付け加えられている。

写真は、橘寺です。この680年の勅以降に建設が始まったのはこの橘寺、法隆寺、川原寺?
それに680年11月条にある薬師寺なのでは? 


 

 

             

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野中寺の金銅弥勒菩薩半跏思惟像の謎と中宮天皇

2015年11月03日 | 聖徳太子の謎


大阪府羽曳野市にある、青龍山野中寺は聖徳太子(竹田皇子)の命により
蘇我馬子が造営したお寺であり「中の太子」と呼ばれています。
法隆寺式の伽藍だったとされます。
叡福寺が、上の太子で、この野中寺が中の太子、下の太子は大聖勝軍寺です。

丁未の乱(587年)において、聖徳太子(竹田皇子)が休息をとった地であり、
聖徳太子の命を受けた蘇我馬子が開基と伝えられています。
塔跡から「庚戌年正月」と刻まれた瓦が出土しました。590年の創建です?

このお寺で、弥勒像が発見されました。おそらくいまのところ、天皇銘のある
仏像では最古ものです。小さな可愛らしい仏像ですが、天皇号が記された
非常に重要な仏像です。

野中寺金銅弥勒菩薩半跏思惟像
丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺知識之等詣中宮天皇大御身労坐之時
誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也


この銘文の解釈は難解?だといわれます。解釈が確定しないのは、
天皇号の使用時期と、銘文の「丙寅年四月大旧八日癸卯」に関し
て、・・・4月8日が癸卯なのは、天智5年である666年のみとされているからです。

丙寅年は、666年が非常に有力とされているからです。
本当に666年なのでしょうか?

天皇号の使用に関する問題では、天皇号の使用は天武朝以降が有力と
されているからでもあります。ですので、天智朝だとしても時代が
少しくだります。
だから、まさか、606年だと誰もが考えないから解決しないのです。


この銘文には、いくつかの判読できない言葉があるとされます。
特に、問題なのは、「大旧」「栢寺」「中宮天皇」でしょうか。

銘文の、この文字が「旧」判読できない?ようなのです。大旧はどう解釈
したらいいのか、
いくつかの解釈が示されていますが確定的なものはありません。
この「旧」については、別の字ではないかとする説もあります、「朔」、
「洎」(いたる)とする
説もあるようです。でも旧としか読めないようにも思うのだけど?

ウイッキペディア・・・
「旧」は唐で新しく制定された麟徳暦(儀鳳暦)に対する旧暦(元嘉暦)
の意に解し、この年の
4月が新暦(麟徳暦)では「小の月」、旧暦(元嘉暦)では「大の月」に
あたることから「大旧」
と記したという

儀鳳暦は持統天皇4年(690年)から元嘉暦との並用を始めた
(『日本書紀』持統4年11月甲申条)。
           *************

この解釈はいいように思うのだけど・・・どうでしょうか?

でも、元嘉暦と儀鳳暦の並用でも持統天皇690年以降ですから、666年に
儀鳳暦が用いられていたとするのはおかしいですよね。

元嘉暦は旧暦ではなく新暦なのでは?丙寅年が606年だとすると
新暦は元嘉暦です。
旧暦は、欽明15年(554年)に百済から渡来していた暦博士の
固徳王保孫が、暦法をもたらしたとされます。銘文の「旧」とは
この百済の暦です。

推古12年(604年)に 初めて元嘉暦が用いられました。606年の二年前です。


この仏像は、百済からの渡来人が制作したと考えられますよね。
また、この栢寺の僧たちの中にも渡来人が多くいたと思われます。
それで、彼らは、この自国の百済の暦を使用していたのではないのかな?

丙寅年の四月大旧八日癸卯・・・
つまり、これは、4月は新暦の元嘉暦では「大の月」であるから、「四月大」。
旧歴である百済暦では、八日は癸卯・・・という意味なのでは?



しかも、丙寅年を666年とすると、中宮天皇といわれる人物は存在しません。
斉明天皇は661年に崩御し、天智天皇が即位したのは、668年だからです。

丙寅年は、666年である。天皇号の使用は天武朝以降が有力である。
この2点に固執するかぎり絶対に謎は解けません。
だって666年に中宮天皇なんていないから・・・。


この丙寅年は、推古天皇、聖徳太子(竹田皇子)存命中の606年でいいのではないでしょ
うか?すると、この銘文の解釈は簡単ですよね。

この銘文における、謎とされるこの「中宮天皇」とは、・・・もちろん推古天皇です。
天皇とは蘇我の王の称号です。591年に蘇我の王である天皇に即位したのが推古です。
いまのところ、天皇号の最も古く使用されたものです。
本当の、初代天皇は彼女、推古天皇です。
この「天皇」号の使用例があまりないのは、天皇とは大王ではなく
蘇我の王の名称だからです。
蘇我馬子が編纂した天皇記・国記は、蘇我氏の歴史書です。

さすがにね、天皇号の使用が推古以前というなら、わたしもどうか?と思いますが、
推古なら、なにも問題ないでしょうに。

だって、隋書には多利思比孤(たりしひこ)で、阿輩鶏彌(おおきみ)
だって云っているわけでしょう。男の王で大王だと・・・。
じゃー、このとき天皇号が使用されていなかったら、推古はなんと呼ばれていたので
しょう?最高位の名称は、大王以外ないでしょうに。
これは、大王である多利思比孤と、天皇である推古が存在したということです。

それで、この中宮天皇の中宮とは何を意味するのでしょうか?
この謎も、二人の聖徳太子から謎解ける。

この中宮とは、もういうまでもないのですが、・・・中宮寺のことです。

法隆寺そばにある、中宮寺は、聖徳太子に母親である穴穂部間人皇女の
御願によって創建されたとされます。
ここも聖徳太子が混同されていて間違っています。
仏教に関係する聖徳太子とは、竹田皇子のことです。その母親は推古天皇です。

聖徳太子こと竹田皇子の宮が斑鳩の宮です。推古は、この息子の竹田皇子の宮の
そばに自らの宮を造ったのです。そしてここに住まいしていたのです。
それが後に、残念なことに息子である聖徳太子の方が先に亡くなりました。
推古は自らの宮を、お寺にして聖徳太子の菩提を弔ったのです。

中宮寺は推古天皇の御願で創建されたお寺です。推古天皇は中宮天皇とも
呼ばれていたのでお寺の名が中宮寺になったのです。

丙寅年(606年)の四月に中宮天皇(推古天皇)が病気になったとき栢寺
の僧によって病気治癒を願って作られた弥勒菩薩像です。

それでは、この銘文の「栢寺」はどこのお寺なのでしょうか?橘寺ともいわれます?

木崎愛吉氏の説では、法隆寺献納宝物である四十八体仏は、飛鳥の橘寺
から法隆寺金堂に移されたものであるのですが、本来は四十九体仏であって、
のこりの一つがこの野中寺の仏像なのでは?・・ということだそうです。

つまり、もと橘寺にあったものなので、「栢寺」は、「橘寺」なのではないのか?
という指摘です。これは、なんかいいようにも思うのですが???


竹田皇子のお母さんは推古天皇です。彼女は中宮天皇とよばれていたのです。
そして、斑鳩にある中宮寺は、推古天皇が亡くなった息子の竹田皇子の菩提を弔う
ために造営したものです。本来は、中宮天皇こと推古のお寺なので中宮寺なのです。

ウイッキペディア・・・
中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しているが、創建当初は400メートルほど東にあった。
塔の心礎は地中に深く埋める形式とする。これは四天王寺、飛鳥寺、法隆寺などの塔心礎
と同様で、創建時代が古いことを示唆する。

写真は、中の太子である野中寺と、下の太子は大聖勝軍寺です。


                                              

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仏教伝来の謎と「法興元」

2015年10月07日 | 聖徳太子の謎


天皇というのは、蘇我の王の名称であり大王はことなる。これ、日本書紀の謎を解くのに
重要な問題です。
蘇我馬子が関わった、「天皇記」「国記」というのは蘇我氏の歴史書であり、これは、
「大王記」ではなく「天皇記」であるわけです。
問題なのは、この蘇我氏の歴史書をもとに、後の帝紀、旧辞や日本書紀、古事記が編纂
されたということ。そして、蘇我の王の名称である「天皇」が使用されたこと。

天皇の名称は、本来は蘇我氏の王の名称であり、蘇我氏が初めて王家と姻戚関係を結んだ
欽明天皇と蘇我稲目の娘の蘇我 堅塩媛から続く、蘇我の王の名称。王家ではない。

この欽明天皇は継体天皇の三男坊ですよね(神武が三男坊なのはこれが理由だと思うの
ですが?どうでしょう?)長男は、安閑天皇で、次男は宣化天皇です。
継体天皇の後、蘇我氏とすれば、姻戚関係を結んだ欽明を次の王に指したいわけですよね。
それで、三男坊の欽明が長男、次男より、次の大王に相応しいとするのにはどうしたらいい
でしょうか?
そう、お父さんは継体でどうしようもないから、お母さんの出自を問題にしたらいいわけ
です。安閑、宣化のお母さんは尾張氏の娘の目子媛です。

ですが、この欽明のお母さんは、仁賢の娘の手白香皇女で彼女が皇后とされます。
で、彼女が皇室の祖で、女系ですが直系の血筋を繋いだとされます。
これ大嘘です。嘘をつくにも古代の人は単純。
雄略天皇の子の清寧は、后がなく、したがって子がなかったから、オケ、ヲケの二人が王
に迎えられたという、仁賢、顕宗の奇妙な話は作り話です。
欽明の方が正当であるとするため、彼女のお父さんを王に仕立て上げただけです。

尾張氏の娘、目子媛の子の安閑、宣化の系列より、欽明天皇から繋がる、蘇我の王である
天皇は、古代から繋がる正当な血筋を引く王であるとしたのが、蘇我馬子と竹田皇子が編纂
した「天皇記」「国記」です。



仏教伝来の謎・・・
仏教伝来に関しては、いくつかの説がありますが、有力とされているのが、この欽明天皇の
御代である「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとされています。

この伝来の問題は、この「戊午年」とされます。
それは、この欽明天皇の時代は540年から 571年とされ、この治世時においては戊午の
干支年が存在しないからです。
ですので、欽明以前で最も近い戊午年である538年だろうと考えられています。

では、なぜこのような間違いが生じたのか?それは、そう記述されていた書物があったから
です。それは、もちろん、蘇我氏の歴史書である天皇記・国記においてです。

「辛亥の変」・・・ウイッキペディア

『日本書紀』に引く「百済本記」(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞
乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年
矣」)によれば、531年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝があるという。
このことから、継体天皇の死後、安閑天皇・宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し、二
朝間で内乱があったのではないかとする説もある(「辛亥の変」説)。

上宮聖徳法王帝説や元興寺伽藍縁起のおいて、欽明天皇の即位した年が辛亥の年(531年)
とされ、あたかも継体天皇の次が欽明天皇であったように解される。
『古事記』では継体天皇が丁未の年(527年)に崩御したことになっている。

      ****************************


これ、つまり531年に蘇我の王である天皇に即位したのが、欽明であり、大王に即位
したのが、安閑であるということ。大王と天皇は異なるということです。
そう天皇記・国記に記述されていたということで、もちろん、天皇記編纂時において改竄された
わけです。蘇我氏が初めて王家と姻戚関係を結ぶのがこの欽明です。
天皇記・国記とは、蘇我の王である天皇は古代から続く正当な王家であると主張したものです。
天皇とは蘇我の王だったわけです。本来は。


これ、推古天皇や聖徳太子の時代においてもそうです。天皇と大王とはことなる。

隋書・・・
開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、
阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。
上、所司に其 の風俗を訪わしむ。
使者言う「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて
政を聴き、跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば便 ち理務(つとめ)を停め、云う、
我弟に委ねん」と。
高祖曰く「これ太いに義理無し」と。是に於て訓して之を改めしむ。王の妻、彌(きみ)
と号す。後宮に女 六、七百人有り。太子は名を和歌彌多弗利(わかみたほり)と為す。


591年に天皇に即位したのが推古であり、593年に大王に即位したのが、厩戸皇子こと
押坂彦人大兄皇子であるということ。実質、本当の初代の天皇は推古です。
この593年というのが、法興元年ということ。日本書記において推古の年齢に2年
の間違いがあるのはこれが理由。


写真は、明日香村にある県立万葉会館前のせんとくん。大阪の、聖徳太子建立の七大寺の一つ
とされる四天王寺です。もとは、蘇我氏と対立し、滅ぼした物部氏の物部守屋たちをを祀るために
蘇我馬子が建立したものですが、蘇我氏憎しの天武が、竹田皇子の事績である創建の由来を厩戸皇子建立
に仕立てたものです。

                    

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