聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

魏の使者は畿内の邪馬臺國には行っていない

2009年10月02日 | 朱砂女王卑弥呼
倭国でいいのに女王国としています。ですので、女王の境界といわれる30カ国の小国と思われる国は邪馬台国の領国ではなく、・・・斯馬国~奴国は、・・・九州の倭国領国。この倭国は、筑紫平野周辺で、そこから北部九州の奴国までが領国。おそらく吉野ヶ里が中心地でしょうか?もしかしたら、この30カ国の小国だと思われる国々はおそらく、倭国王帥升が朝貢した時の文献からの引用された可能性があるのではと思うのですが?
ですので、南の狗奴国とは熊本平野です。これは、正始元年に、太守弓遵、建中校尉梯儁等が九州の倭国に行った時の情報が書かれた文献と、倭国王帥升が朝貢した時の記録が記載されている文献を参考にした、陳寿の勘違い、間違い。混乱はここから。
つまり倭国王帥升の時代から卑弥呼共立までの時間の経過、変化を考慮に入れていない。この九州の倭国王帥升の国が東進し、卑弥呼共立時には、北部九州から畿内におよぶ連合体のようなものが存在していたということです。
魏志倭人伝には、郡より女王國に至ること萬二千余里と記述されています。郡より邪馬台国に至ること萬二千余里ではありません。つまりこれは、郡より倭国に至ること萬二千余里ということです。ですから魏の使者は、九州の倭国にしか行っていない。そして、正始八年の張政等は、伊都国からでていないように思います。
気候・風俗などが記述されている箇所が、九州の倭国の記述だとすると・・・畿内の邪馬臺國のことはほとんど記述されていない。つまり魏の使者は畿内の邪馬臺國には行っていない。魏の使者が向かったのは、九州の倭国(女王国)です。
この距離については、短里が用いられています。帯方郡から伊都国までの行程距離を合計すると一万五百里になります。残り千五百里余りになり九州を出ることはない。また畿内の邪馬台国に、中国の使者が行っているなら・・・「南、邪馬臺國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月」こんないい加減な行程記述のわけがない。普通、目的地が近くなるほど詳細に記述されているはずです。これは臺与が、邪馬臺國から郡まで朝貢した時の行程情報で、単に北を南に変えたもののように思います。
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