聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)

ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
隅田八幡神社人物画像鏡にある日十大王とは聖徳太子のこと。

白鳳-朱鳥-朱雀-大宝・・・九州年号の謎

2018年02月26日 | 日本書紀の謎


旅さらら、飛鳥・橿原の観光ガイドブックから・・・
大宝律令を制定し和同開珎を作った時代
701年、文武天皇が、刑部親王と藤原不比等らに作らせた「大宝律令」。
「日本」という国号が初めて定められた最初の法典でした。飛鳥時代と奈良時代をつないだ藤原京16年
の歴史は、国の骨格が作られた重要な時代だったのです。
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このガイドブックにも、そして案内板にも、数々書籍等にも「藤原京」、「藤原宮」の名称がが使用
されています。誰もおかしいとは思わないのでしょうか?(>_<)

続日本記なんて藤原氏の時代、藤原の主張でしかない。

万葉集・・・巻二(一九九)高市大王への挽歌

我が大王の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや・・・ 

わが大王(高市大王)が、万年の世までと考えお作りになった「香久山の宮」は、万年の世を過ぎても
なくなることは考えられない。

高市大王が新たに造りはじめた宮を、「香具山の宮」と表現しているでしょう?あたりまえだけど、
藤原の宮なんて、宮の名を臣下の名で呼んでいたはずはない。ありえません。
この「香具山の宮」は高市大王の宮です。都城の名を宮の名からとるのであれば、 「香具山京」です。

古代の王家の人物を何人も殺害してきたのはこの藤原氏です。ですので、この「藤原京」、「藤原宮」
の名称には反対です。都城の名称に「藤原」なんて使うべきではない。
「藤原宮」というのは藤原不比等の邸宅のことです。

今回は、この「大宝」などの元号に関してのお話です(^o^)丿
それで、これら年号を調べていると出てくるのが「九州年号」といわれる年号なのですが、・・・もちろん、
九州年号なんてありえないわけですが、ではこれらの年号はなんなのだろうか?神社などの記録に
記述されているようです。この九州年号に関しても少し考えてみます。


歴史を改竄したのは藤原氏であり、この「元号」に関しても藤原氏の私年号が含まれているのでは
ないのかな?
高市大王、長屋王が大王だったとすると、その時代に天皇だった、持統、元明、元正は王ではないのです。
ですので、この時代に使われていた年号は、この藤原氏の私年号が使用されている。

同じことが、蘇我氏が権力を握っていた時代にも言えるのではないのか?蘇我氏を本来の王家と
繫げる改竄をした、天皇記・国記の編纂時です。

蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされるこの天皇記・国記において年号が記載されていたのではないのか?
天皇記・国記の編纂時以前に使用されていたとされる年号は、この蘇我氏の歴史書の編纂時に作られた
年号ではないのか?

そう、もしかしたら、この元号を初めて作ったのは聖徳太子ではないのだろうか?その可能性についても
考えてみます。聖徳太子か蘇我馬子だと思うのですが・・・?
この時期には朝鮮半島の新羅においても既に年号は使用されていたこともあり、日本でも新たに年号の
使用が始まったのでは?

聖徳太子、・・・二人いますが、厩戸皇子 こと押坂彦人大兄皇子と、仏教を興した方の聖徳太子・・・推古の息子
である竹田皇子です。


蘇我氏と藤原氏が使用した私年号、・・・解かり易く言えば、「大王」と「天皇」、王座が二つある状態でした。
つまり、年号に関しても「大王」の年号、「天皇」の年号が存在しているということです。
天皇記・国記は蘇我氏の歴史書であり、記紀や続日本記は藤原氏の歴史書です。

本来の、王家の年号と、蘇我氏、藤原氏の私年号が混同しているのでは?

この「大宝」は長屋王の年号であり、これは本来の年号、そう大王側の元年である。
700年が長屋王が大王に即位した年です。奈良京遷都は、翌年の大宝元年である701年です。
奈良京と平城京は異なります。

ウイッキベディア・・・元号
皇帝や王など君主の即位、また治世の途中にも随意に行われる変更(改元)によって再度元年から数え直され、
名称も改められる・・・

君主が特定の時代に名前を付ける行為は、君主が空間と共に時間まで支配するという思想に基づいており、
「正朔を奉ずる」(天子の定めた元号と暦法を用いる)ことがその王権への服従の要件となっていた。

また、時の政権に何らかの批判を持つ勢力が、密かに独自の元号を建てて使用することもあった。このように、
後世から公認されなかった元号を「私年号」と呼ぶ。
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元号は、年号ともいわれ、普通は王が即位したたときに行われるということで、治世の途中に
改元されることもあるようですが、本来はその王の在位期間続くということですよね。
改元については、この王の交代により改元される、代始改元の他にも、祥瑞改元,災異改元,
革命改元の4種があるとされます。

蘇我氏の台頭以降「大王」と「天皇」、王座が二つあるという状態でもありました。
本来は、代始改元は、即位した年か、翌年に改元される。ですので、長屋王が大王に即位したのは、
700年か、大宝元年の701年であり、王が変わったから年号が変わったわけであり、王が即位したから
都が変わったのです。年号の建元の形式でとしては普通の代始改元です。

王が即位した年か、その翌年に改元される代始改元というのが、改元の理由としては重要な理由で
あるはずです。

ただ必ずしも在位期間の間、元号は続いたとする、一世一元とは言えないようですが、長屋王が大王
として在位した、701年から729年までの期間が大宝年間のようにも思うのですが?

この大宝の期間に存在する、年号の慶雲、和銅、霊亀、養老、神亀は、いわば藤原氏の私年号である。
続日本記は藤原氏の歴史書です。藤原氏は、対立していた高市皇子や長屋王を大王に即位していたとは
したくないのです。

そう思うのは、藤原氏側である天皇が即位したときなどに改元しているのです。以下は全て藤原氏の私年号です。
藤原氏に関係する天皇の即位年やその翌年の改元です。

慶雲・・・ 704年から708年までの期間。
大宝2年(702年)に崩御した持統天皇のあと、文武天皇は、703年に天皇に即位しその翌年の改元である。
つまり、本来の文武の天皇即位の翌年の改元です。
しかし大宝律令などの功績を、藤原氏が関係する(夫人が不比等の娘の宮子)、この文武天皇功績と
するために、697年に即位したとしている。藤原氏の主張であり、本来の大王を消し去る操作が行われている。
和銅・・・ 708年から715年までの期間
  元明天皇即位の翌年の改元。
霊亀 ・・・715年から717年までの期間
元正天皇 の即位年。
養老・・・ 717年から724年までの期間
藤原の天皇ともいえる聖武天皇の15歳において成人しての即位の翌年。
翌年には藤原不比等が養老律令を選定したとされます。
神亀 ・・・724年から729年
元正からの譲位された724年から729年までの期間
天平・・・729年から749年までの期間
長屋王崩御年である729年から、聖武天皇崩御年である749年までの、いわば藤原の天皇である聖武天皇の
本来の在位期間。


この時代に天皇だったとされる文武天皇は697年に即位したとされます。本来はこの年か翌年に改元
されるはずです。それが、何故に701年に大宝と改元したとされるのでしょうか?おかしいですよね。

持統は天皇ですが、大王ではない。同様に文武も天皇ですが、大王ではない。
「大宝律令」は、文武天皇が作らせたのではなく、 長屋王が作らせたのです。藤原氏により、
長屋王や忍壁大王による功績も変更されている。

天皇の呼称を使用して歴史を改竄している。
天武の生年が不明というのはありえません。意図的に消し去っています。高市大王や長屋王もまた不明です。

高市大王の後は、長男である長屋王が大王に即位する予定でした。ですが、まだ刑部(忍壁 皇子)は、
まだ若い長屋王を補佐する関係にあったか、あるいは忍壁 皇子も即位していたかもしれません。

それで、大宝元年は701年でしょう。高市大王が崩御したのは、696年です。長屋王はいつ生まれたかは、
はっきりしないようですが、いままでいわれていたように684年の生まれでいいのでは?
684年の生まれであり、46才崩御の記述は公卿補任 、扶桑略記 、尊卑分脈の史料に記述されています。

万葉集からも明らかかなように長屋王のお母さんは阿部氏の姫王である明日香皇女です。
そして、高市大王が崩御したときは、まだ長屋王は若かったのです。
高市大王の崩御した696年では、長屋王はまだ幼かったこともあり、この 忍壁 皇子が彼を補佐する
立場にあったのです。
長屋王は、696年の時点では、いまだ12歳ということもあり、15歳以上にならなければ立太子
されないため、成人になるまでの間、忍壁 皇子が大王に即位していたのです。
その後、長屋王が成人した後である、この700年に大王に即位したのです。そして翌年改元されたのです。
王が変わったから年号がかわったのです。「大宝」は長屋王の年号です。
この大宝元年である701年が、奈良京遷都年です。

この年号ですが、・・・ふつうは王が交代したときに改元さるのが年号の建元の形式でとしては
普通の代始改元です。
この「大宝」は長屋王の年号、その前の「朱鳥」はお父さんである高市大王の年号です。
あたりまえだけど、普通は王の交代により改元されるわけですよね。ですがこの「朱鳥」は実に不思議な年号です。

ウイッキベディア・・・朱鳥
天武天皇15年7月20日(ユリウス暦686年8月14日)に朱鳥と定められ、32年ぶりに再開された。
しかし同年9月9日(ユリウス暦10月1日)に天武天皇が崩御すると、早くも翌年より用いられなくなり、
以後15年にわたって一時途絶する。
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この年号の朱鳥は、天武崩御年の686年7月に定められたとされます。そして天武が9月に崩御した
関係でしょうか?なぜか、わずか一年程しか使用されなかったとされますが、そんなわけないですよね。
年号の建元の形式としては全くおかしいですよね?
何故に建元されたかは、全く説明できないでしょう。これはもちろん、高市皇子の即位の時の年号とは
したくはないからです。高市大王、長屋王と対立していたのは藤原氏です。
つまり、この「朱鳥」は天武の元号とされますがそうではなく。
前の年号とされる、「白鳳 」が天武の年号です。

ウイッキベディア・・・白鳳
中世以降の寺社縁起等では672年〜685年の期間を指すものもある。
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この年号の「白鳳 」は、寺社縁起などには、天武の在位期間と重なるものもあるようです。
この「白鳳 」は天武の年号である。
天武在位期間は、673年から686年とされますが、そうではなく、672年〜685年の期間では
なかったのか?そして、この時代は一世一元であったのでは?

686年の崩御年に改元されたのではなく、・・・天武崩御は、686年ではなく685年だろうか?
これ、おそらく、686年としたのは、持統が687年に天皇に即位したからでしょうか?
つまり、「朱鳥」の年号は実際に使用されていたから消すわけにもいなかったのでは?
翌年の686年が、朱鳥元年であり、高市王子が大王に即位した年です。
年号の「朱鳥」は高市王子が大王に即位したから年号が変わったわけです。

天武が崩御した年は685年であり、持統が即位したのが687年だからです。
しかし、たった一年間(実際には2か月程?)とされますが、そんなわけない。これはありえない。

高市皇子が大王に即位していたとしたくないために、本来は高市王子の年号の「朱鳥」を、在位期間から外し、
天武晩年しかも一年で使われなくなったとしたのです。藤原氏は、高市王子が大王に即位していたとは
したくないので、変更したため不思議な年号になっているのです。日本書紀は変更したのだけど
他の文献にはそうではないとの証拠が残っています。

ウイッキベディア・・・「朱鳥」
『日本書紀』では687年を持統天皇元年としているため、686年だけの元号であることは確かである。
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「朱鳥」は一年だけしか使用されていないとされます。しかし、そんなのありえないわけです。
天武の晩年に改元する理由がないのです。そして、天武の崩御後は、新たな元号は定められなかった
とされますが、そうなのだろうか?

「朱鳥」は686年だけの元号であることは確かであるとされていますが、そうではない。
それは、持統は天皇ですが、大王ではないということです。ですので、「朱鳥」の年号は一年以上
使用されています。
この日本書紀なんて信用できない。事実はそうでないということが、万葉集などから分ります。
持統は天皇ですが、大王ではない。日本書紀はあくまで、天皇側の主張でしかない。
これはつまり藤原の主張である。

高市大王、長屋王が大王に即していたことが消されています。ですので年号も消し去る必要があったのです。

この「朱鳥」も、王が変わったから、つまり高市王子が大王に即位したので年号が変わったのです。
「朱鳥」は高市大王の年号です。
ですので、本来は「朱鳥」の年号は、高市大王が696年に崩御するまで使われていたはずです。
実際に使われていた年号であるので消し去るわけにはいかず、しかも天武崩御後であれば、
王に即位したための改元ともみなされるので、天武晩年に、そして一年ほどで変わったとしたのです。

しかし他の文献には、以降にも「朱鳥」の年号の使用された例があり、嘘がばれています。

ウイッキベディア・・・
「万葉集」、「日本霊異記」などには、朱鳥4年、6年、7年、8年などが見える。天武天皇の
代の文献には、朱鳥と朱雀の2つの年号が見える。
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日本書紀によると「朱鳥」の年号は一年しか使用されなかったとされますが、嘘がばれていますよね。
何故かというと、そう高市大王を大王だったとしたくないからです。王に即位したから年号が
変わったわけです。
同様に、「大宝」もそうです。長屋王が大王に即したから年号が変わったのです。
この指摘のように、朱鳥は8年までの記述が残っています。ですので高市大王が696年に崩御
するまで使われていたはずです。「朱鳥」は高市大王が王に即位した686年から696年まです。
大王としての在位期間です。
「朱鳥」は天武の年号ではなく高市大王の年号です。

そして、万葉集に高市大王が崩御した朱鳥10年の記述があります。
万葉集 202
泣沢の神社に神酒すゑ祷祈れどもわご大君は高日知らしぬ

泣沢神社にお酒を捧げて祈っていたのにわたしの大君(高市大王)は天をお治めになってしまわれた。

柿本人麻呂の高市大王への挽歌の反歌です。作者は檜前女王とされます。この檜前女王とは、
もちろん阿部氏の姫王である皇后の明日香皇女のことです。キトラ古墳の被葬者であり、檜前(檜隈 )の地は
阿部氏の領土です。この、檜前女王とは皇后の明日香皇女のことです。
高市大王の病気(毒を盛られた?)が快復するように、神様にお祈りしていたのに亡くなられたという歌です。
朱鳥10年、696年のことであり、この「朱鳥」は高市大王の在位期間と重なります。
つまり一世一元であるということです。
この「朱鳥」は大王側の年号であり、本来の年号です。

そして、「朱鳥」と、もう一つ「朱雀」年号があるようです。
ウイッキベディア・・・「朱雀」
『続日本紀』の神亀元年(724年)冬十月の条には「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、
尋問明め難し。」という記述がみられる。
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年号が、白鳳ー朱雀ー朱鳥の順ならこんな記述の仕方はしないわけですから、白鳳ー朱鳥ー朱雀のはずです?
つまり、「朱雀」は「朱鳥」の後に使用された年号なのでは?

この「朱雀」は、おそらく、長屋王が成人し即位するまでの年号、697年から700年までの年号、
おそらく 忍壁皇子の年号だと思うのですが・・・?
実は、忍壁 皇子も大王に即位していたのですが、その事実が消されています。彼らを大王だったと
したくないために、日本書紀から消されている年号です。ですので、私年号とされますが、本来はそうではない。
日本書記は改竄したのですが、他の文献などに残っています。

高市皇子が持統天皇10年の696年に薨去したとされます。持統はまだ健在なわけですから、
この時合議が行われる理由がありません。
これは、何度も云いますが、持統は天皇ですが、本来の王ではないということです。

合議が行われ軽皇子、後の文武天皇が皇太子になったとされます。これは藤原氏の嘘であり、
ここが改竄個所です。文武天皇の皇后は不比等の娘とされる藤原宮子であり、その息子の聖武天皇の皇后も
また不比等の娘である光明子です。

同様に、吉野の盟約において天武と鸕野讚良皇女こと持統天皇の間の息子である、草壁王子を天皇にすることを
誓わせたというのも、藤原氏による改竄個所です。天皇側の主張であり、文武天皇のお父さんはこの草壁王子です。


本来は、大王である高市大王が崩御したので、合議が行われたのです。
それは王子である、長屋王がまだ幼かったからです。長屋王が成人するまで、
忍壁 皇子が大王に即位するということが話し合われたのです。
長屋王は、696年は12歳であり、15歳以上にならなければ立太子されないからです。
成人になり後継者として認められた、700年に大王に即位し、翌年改元されたのです。
この合議では、まだ幼かった長屋王が成人するまで、忍壁皇子が大王に即位することが決まったのです。
ですので、「大宝」は、王の交代により改元される、代始改元です。

記紀などには、この忍壁皇子が大王に即位したことが消されていたのですが、
実は、この忍壁皇子が大王に即位していたことが、万葉集の歌ににあるのです。

万葉集、巻三の冒頭の柿本人麻呂の有名な歌です。 この大君とは、天武か、持統のことだとされますが、
そうではなく忍壁大王のことです。
忍壁皇子のことを「大王」と詠んでいます。

万葉集 巻三(二三五)
大君は 神にし座せば 天雲の 雷の上に 廬りせるかも

或本に云ふ、忍壁皇子に献れるなり、その歌に曰く、

大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きゐます。
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或本に云ふ、・・・柿本人麻呂が大王である、忍壁皇子のことを詠んだと記述されているように、忍壁皇子は
大王であり神であるので、 雷山に宮を建てたと詠んでいます。高市大王崩御後、長屋王が成人するまでの間、
この忍壁皇子が大王として即位していたのです。
宮敷座・・・つまり大王である忍壁大王の行宮(かりみや)のことを詠っているのです。実際に雷山の山頂には
宮が建てられていたのです。この忍壁大王の年号が、「朱雀」です。

ウイッキベディア・・・ 小治田宮
淳仁・称徳朝にあっては、両天皇の行宮として営まれた。藤原京の南東端に近い雷丘東南の雷丘東方遺跡
3次発掘で「小治田宮」と記す墨書土器破片が多数出土した。これは奈良時代の淳仁朝にかかわる墨書で、
この付近に「小治田」の地名があり、天平年間末年から平安時代初期ころまでにかけての小治田宮が
あったことがかなり有力になってきている。

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この雷丘の、東部、あるいは東南部あたりに淳仁・称徳朝の小治田宮があった場所だと推測されています。
推古天皇の小墾田宮に関しては、従来言われていたのは古宮遺跡です。しかしここからは宮跡は
発見できていません。
ですので「小治田宮」と記す墨書土器破片が出土したこの場所もまた推古天皇の小墾田宮の跡地
として有力候補になっています。
しかしどうなのだろう?推古天皇の小墾田宮なんて本当にあったのだろうか?

ここは、もとは忍壁王子の祖母である皇極が、飛鳥板蓋宮に遷都するまで、少しの期間ですが遷都して
いたとされる小治田宮であり、後に即位し忍壁大王の住居、つまり宮といえます。
そこを行宮として新たに作り替えたともいえます。
それで、本当に歌のように山頂に宮を新たに建てたのでしょうか?
さらに、淳仁・称徳朝においても両天皇の行宮となったのです。この二人は天武系の天皇、そう本来の王たちです。


万葉集の歌にあるように、この遺跡は雷丘を含むような形であり、山頂には・・・雷山に 宮敷きゐます・・・
そう歌にあるように、柿本人麻呂は、雷山の山頂の宮を、実際に見て詠んだ歌なのではないのかな?

天雲の 雷の上に、雲隠る 雷山に・・・小さな山ですので、たしかに大げさな表現ですが、
この雷丘の地名の起源は、雄略天皇の時代に、少子部連蜾蠃 が、ここで雷を捕らえたという記述に
由来するともいわれます。

雷山に 宮敷きゐます・・・長屋王が成人するまでの、いわば行宮(かりみや)です。

忍壁皇子は「大王」であり、「神」であり、宮を営なんだと詠っています。
この歌は消し去っていたのですが、最後の編纂時に付け加えられてしまったのです。
柿本人麻呂は、大王である、天武、高市、忍壁、長屋王に仕えた宮廷詩人です。
「朱雀」を含む四神の壁画が描かれていた、高松塚古墳とキトラ古墳は 、まさにこの時代に
造られたものです。

「朱鳥」は高市大王の年号であり、「朱雀」は、忍壁大王、「大宝」は長屋王の年号です。
そして「白鳳 」はもちろん天武の年号です。

大宝元年である701年は、長屋王が大王に即位した翌年であり、この年こそ、奈良京遷都年です。
王が変わったので改元され、都が変わったのです。大宝律令は長屋王の時代に制定した律令法典です。

天武(白鳳)-高市大王(朱鳥)-忍壁大王(朱雀)-長屋大王(大宝)

彼らが大王だったことが消されています。元号は王が交代したから改元されるということです。
そしてこの期間の元号は一世一元です。

しかし、高市皇子が大王に即位したから年号が変わったとしたくないのです。
ですので、「朱鳥」の年号は一年しか使用されなかったわけはないのです。
一年で改元したというのは、この年号が大王に即位していたことを消し去った高市大王の年号であり、
持統が687年に天皇に即位したからです。
天武の晩年の年号などではなく、本来は高市皇子の年号なのですが、彼を大王に即位していたと
したくないために、天武晩年を一年延ばしたのです。本来は、白鳳時代が天武の御代です。

大王と天皇、王座が二つあるという状態でもありました。
高市大王や長屋王を大王に即位していたことを消し去っています。
だから、本来は高市大王の年号の「朱鳥」は在位期間の10年間続いたわけですが、大王に即位していたとは
出来ないために、持統が天皇に即位した年には元号が変わったとしているわけです。

天武以降は本来の元号と、王家と藤原氏の元号、つまり、大王側の元号と天皇側の元号が存在する。
この天皇側の元号というのが、藤原氏の私年号であり、そして蘇我氏の私年号なのです。


藤原氏により彼らが大王に即ししていたことが消されている。この「大宝」は長屋王が王として
在位していた期間、本来は、この701年から729年までです。しかし藤原氏の台頭により、
藤原氏が関係する天皇たちが即位したときに改元が行われるようになった。

続日本記により、長屋王は王などではないと改竄され、この「大宝」の年号を消し去るためにこの期間に、
他の年号が入れられている。当たり前だけど729年までとは出来ないのです。
701年から729年までには、慶雲、和銅、霊亀、養老、神亀は、いわば藤原氏の私年号である。
天皇側の元号である。続日本記は藤原氏の主張でしかない。

これら年号を調べていると出てくるのが「九州年号」なのですが、・・・
以上の理由により、大化、 白雉 、白鳳、 朱鳥、 朱雀の年号は九州年号などではない。
藤原氏によって改竄された、本来の年号である。年号が変わるのは、当たり前だけど本来は王が
変わったからです。本来の元号以外のものは、蘇我氏や、藤原氏の私年号です。

大化が最初の年号とされますが、そうではない。聖徳太子がこと、天武の祖父である押坂彦人大兄皇子
の年号である「法興」が、最初の年号であるのでは?押坂彦人大兄皇子でが大王に即位した、
法興元年(593年)から、崩御年である、624年までの期間である。


そして九州年号ですが、・・・
鎌倉時代初期に成立したとされる二中歴といわれる辞典には、最初の年号とされる大化より
古い年号の記述があり、これらの古い年号は大和王権の年号ではなく、九州王朝で使用されていた
九州年号ではないのか?という説です。

しかしどうなのだろう?これらの古い年号は、王家と対立していた蘇我氏の私年号なのでは?
そう感じるのは、いままでこのブログで記述してきましたが、蘇我の天皇の時代の記録だからです。

継体天皇、欽明天皇、推古天皇は、大王ではない。いわば蘇我の王の側の人物です。
蘇我馬子は天皇の呼称を使って系譜を改竄したのです。彼らは王ではありません。
蘇我氏が系譜を改竄し、蘇我の天皇の方(蘇我の女帝である推古のお父さんである欽明)が
古代の王家との繋がりがあるとして改竄した継体天皇以降の年号だからです。改竄した系譜の蘇我の王の
時代の年号だからです。

継体天皇は、古代の王家が断裂したとするための人物にほかならない。蘇我の王の正当性を
主張するために、蘇我の天皇である、推古のお父さんの欽明が新たな王朝の始祖であると改竄したしたのが、
蘇我馬子と聖徳太子が編纂したとされる 天皇記及び国記です。

蘇我の時代が始まったとされる天皇からのある年号である。九州年号とされるものは、
この天皇記・国記で使用されていた蘇我氏の私年号なのではないのだろうか?
神社などの由緒にこの私年号が残ったのです。

ウイッキベディア・・・
皇太子・嶋大臣共に議りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。
               —『日本書紀』推古28年是歳条
蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船恵尺(ふねのふびとえさか)、
即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る
               — 『日本書紀』皇極4年6月条
   ****************************
蘇我馬子と皇太子(竹田皇子)が編纂した、「天皇記」「国記」というのは蘇我氏の歴史書です。
この歴史書により古代の歴史は改竄されました。
消失してはなくこの蘇我氏の歴史書を基に後の歴史書は編纂されたのです。
ですので、聖徳太子こと竹田皇子がこれらの年号を作ったのではないのか?

古代の歴史を改竄したのは蘇我氏と藤原氏。これら年号は蘇我馬子が関係する。
蘇我の王ともいえる推古天皇のお父さんである、欽明天皇や祖父の継体天皇は、王だったとするのは
蘇我氏の主張である。

継体天皇や欽明天皇にある年号は、この天皇紀・国記作成時に作られたものであり、後に神社などの
由緒を変更するときにこの蘇我氏の年号を使用して変更させられたのです。
それは、古代の王家は物部だったからであり、物部の神様を祀らないように変更させられた
神社などに残った年号です。

この「大宝」以前の本来の元号以外の、九州年号ともいわれる元号は、蘇我氏の私年号である。
そしてこの私年号は代始改元ではないようです。
おそらく、天皇記・国記に記載されていた蘇我氏の私年号である。これらは蘇我氏の歴史書であり、
蘇我の時代になり、蘇我氏の私年号を使用して神社などの由緒を書き換えたのです。

編纂に関わったのは、蘇我馬子と竹田皇子です。つまり、この推古の息子である竹田皇子、
つまり聖徳太子が、これらの元号を作ったのでなないのかな?・・・新羅が独自の年号を使用していた
時期でもあるので、日本はこの新羅よりも早くに年号を使用していたとしたかったのかな?

九州年号ともいわれる元号は、 天皇記・国記に記載されていた蘇我氏の私年号であり、これらの年号は
既に使用されていた新羅の年号に対抗するために真似てつくったものであるのですが、新羅より優位の
立場にあった日本としては、新羅の年号使用時より以前に既に使用していたとしたかったため、
天皇記・国記編纂時に作られたものである。

この九州年号とされる年号は、蘇我氏の私年号であると思うのは、これらの年号は継体からはじまり、
天皇との記述があるからでもあります。この蘇我氏の歴史書に合わせて、神社などの由緒を変更
させられたたのです。

九州年号とされる年号が記述されている由緒などには、継体天皇や欽明天皇などと、天皇の呼称が
使用されている。本来は、この時代には天皇なんて呼称はなかったわけですから、これらの由緒は、
天皇の呼称が作られた以降のものである。

天皇の呼称を使用したのは、この天皇記・国記編纂時であり、この天皇記・国記編纂時に過去の年号も作られて、
その年号や天皇の呼称などを使用し、改竄した蘇我氏の歴史に合わせてに由緒を変更している。
蘇我氏の主張は、古代の王家は断裂し、この継体天皇や欽明天皇から蘇我氏の時代になったという主張である。


蘇我氏が歴史を改竄したのが、この継体以降であるともいえます。本来、天皇とは蘇我の王のことです。
今まで述べてきましたが、継体天皇は王ではありません。継体は天皇であり、ここで王朝がかわったとする
主張は蘇我氏のものである。初代推古のお父さんである、欽明の方が正統であるとして、
蘇我氏を古代の王家に繋げたのです。

この九州年号というのは、蘇我氏が関係する継体に始まり欽明、そして推古の時代の由緒にある年号である。

神社の記録、特に、八幡さんが多い、この八幡神社は本来は物部関係の神社である。物部の神様を
祭ることを禁止し、蘇我の神様でもある応神天皇を祭るようになったのが八幡神社である。
そして、この応神天皇は架空の人物である。
さらに、天智・藤原の時代になって秦氏が関わることになるのです。

矢田八幡神社(京都府京丹後市久美浜町)
由緒・・・
当初の祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后内色姫命であったが、奈良朝に至り、当時の物部氏と
蘇我氏の争いからついに物部氏亡び蘇我氏の探索は当地にまでおよび矢田部一族はそれを恐れ、
宇左八幡宮を勤請して社名を矢田八幡と改めた・・・
    **************************
よくこの由緒を残してくれました。蘇我氏の歴史書にあわせて由緒を変更させられた神社が存在するのです。

蘇我の時代になって、物部の神様を祀らないようになったのです。この、後の物部というのが、
古代の王家、大和王権です。
もう何度も述べていますが、この物部は広範囲に分布します。八十物部ともいわれ、非常に繁栄した
氏族だということがわかります。広範囲に分布していたということは、広範囲の領土を保有していたと
いうことです。この物部の神社も広範囲に分布します。

本来はこの八幡神社も物部神社でした。蘇我の天下となり物部の神様を祀ることが困難になり、
蘇我の神様を祀るように変更された神社が多数あるということです。この時に蘇我氏の私年号を使って
由緒を変更させられたのです。

物部の神様を祀る神社が、蘇我神社に変更させられ、後に秦氏が関わる、天智系天皇や藤原氏の時代になって、
八幡神社の名に変更したのです。八幡とは多くの秦という意味です。

宇左八幡宮もそうです。
ウイッキベディア・・・
社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、
大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、
護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある。宇佐神宮をはじめとする八幡宮の大部分が応神天皇(誉田天皇)
を祭神とするのはそのためと考えられる。
  ********************************
由緒もやはり、欽明天皇の時代であり、蘇我の神様の応神天皇を祀るようになったという由緒です。
この主祭神とされる、誉田別尊こと応神天皇、と神功皇后は、蘇我の神様であり、蘇我の時代になって
祀られるようになったのです。
欽明天皇は、もちろん本来の大王ではなかったのですが、初代天皇である推古天皇のお父さんを、王、
つまり「天皇」だったとして系譜を改竄したのです。

この由緒も同じく、蘇我の天皇である欽明の時代だとして改竄されています。
本来の宇佐神宮の創建はもっと古いものです。

宇佐八幡宮の主祭神である、応神天皇とは蘇我の神様であり、宗像三女神とされる比売神はもとのこの地の
神様であり、神功皇后は本来は倭人伝にある台与のことなのですが、蘇我氏により息長足姫命に変更されている。
台与は物部姫であり。蘇我氏はもとは息長氏なのです。
もとは大和王権の神社です。蘇我の時代になって、由緒を書き換たのです。

使用した由緒は物部の神様を祀ることを禁止されたため、天皇記・国記に記述されていた蘇我氏の私年号使って
変更した由緒である。
変更された由緒が残っていたのです。九州年号などではない。この天皇記・国記は、蘇我馬子とと聖徳太子こと、
推古の息子の竹田皇子が編纂に関わっている。つまり、これらの年号を考えたのは聖徳太子の可能性あるのでは?

この時、蘇我の神様でもある応神天皇が祀られるようになったのです。

隅田八幡神社人物画像鏡

ウィキペディアから、隅田八幡神社人物画像鏡・・・
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟
    **************************
623年(葵未年)八月、日十大王(押坂彦人大兄皇子、おしさかのひこ ひと のおおえのみこ、日十 ひと大王)
の御代に男弟王(竹田皇子、母は推古天皇、父は敏達天皇)が意柴沙加宮に在し時に、斯麻(蘇我馬子)は
姉の孫のこの竹田皇子(病気だった)の長寿を念じて開中費直と穢人の今州利の二人を遣わして白上銅二百旱で
この鏡を作らせた。

私が隅田八幡神社人物画像鏡の銘文を謎解けたのが、この鏡が八幡神社に納められていたことから、銘文にある、
「斯麻」という人物が蘇我馬子であると感じたからです。物部神社は蘇我神社に代わっていたからです。
すると、銘文の「葵未年」は623年になり、 日十大王という人物もいます。隋書にあるように、男の王であり、
敏達の第一皇子である押坂彦人大兄皇子です。大王と蘇我の王である推古、この時から「大王」と「天皇」、王座が
二つあるともいえる状態でした。

押坂彦人大兄皇子の弟の王もいます。敏達と推古の息子の竹田皇子であり、彼は蘇我の皇子です。
この「男弟王」の「男」表現は、推古が蘇我の女帝としていましたので、男弟王になったのです。

この鏡は蘇我の皇子である、本来の聖徳太子である竹田皇子の病気回復を願って蘇我馬子が奉納した鏡です。
残念ながら翌年、病気で亡くなったのはこの竹田皇子であり、彼が仏教を興した方の、聖徳太子です。
銘文の二人の人物が、後に聖徳太子の呼称で、一人の人物に纏められてしまったのです。

この押坂彦人大兄皇子のお母さんは、敏達天皇の皇后の息長真手王の娘とされる広姫ではありません。
お母さんは、もちろん聖徳太子のお母さんとされる穴穂部間人皇女であり、彼女は物部姫です。
そして息長氏というのは蘇我氏のことです。蘇我馬子によって蘇我の女性に変更されたのです。

この穴穂部間人皇女は、押坂彦人大兄皇子がまだ幼い時に亡くなったと思われ、敏達天皇の次の皇后である、
推古が彼を育てました。
推古の子供である、竹田皇子とこの押坂彦人大兄皇子が、聖徳太子の名称で混同された理由でもあります。
銘文の「男弟王」の「弟」とは、異母兄弟ですが、この押坂彦人大兄皇子の弟という意味です。


厩戸皇子とは、日十大王こと押坂彦人大兄皇子であり、聡耳皇子とは推古の息子の竹田皇子のことです。
法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にある、法興の元年とは、推古が天皇に即位した591年ではありません。

釈迦三尊像光背銘は、この押坂彦人大兄皇子が大王に即位した593年(摂政になったとされる年)から
三十一年、つまり、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文にある、「葵未年」の623年ということです。
銘文どおり、翌年亡くなったのが推古の息子の竹田皇子です。おそらく伝染病であり、
もう一人の聖徳太子こと押坂彦人大兄皇子も同年に亡くなっている。聖徳太子没年は624年です。

これらは蘇我氏の主張の年号である。つまり、蘇我氏の私年号である。九州年号なのではない。
天皇の呼称もまたそうである。

藤原氏が関わったのはこの蘇我の王である天皇の方です。それは王家と対立していたからです。
「大宝」は長屋王の元号であり、その在位期間である、、701年から729年までの期間に存在する、
慶雲、和銅、霊亀、養老、神亀は、いわば藤原氏の私年号である。

藤原が関係する「天皇」たちの即位年、その翌年に改元されています。
王家と対立した、蘇我氏と藤原氏の私年号が、本来の年号と混同されているのです。
九州年号などであるわけない。

それは、「法興」の元号が、記紀にはないことからも推測できる。それは、本来の王家である厩戸皇子 こと
押坂彦人大兄皇子の元号だからです。この隅田八幡神社人物画像鏡の銘文や、隋書などにより、
彼が大王に即位していたことがわかります。ですが、藤原氏により、彼が大王になったことが消されています。
ですので、記紀などから彼の年号も消されたのです。

つまり、初めて元号を使用したのは、この時代であり実際に使用されたのが、この「法興」であるともいえます。
厩戸皇子こと、 押坂彦人大兄皇子、日十大王の在位期間が「法興」です。大王に即位した、
593年から624年までです。
法興元年は593年です。天皇記・国記編纂以前のこの「法興」が日本で最初の元号です。

591年天皇に即位したのが推古であり、593年大王に即位したのが押坂彦人大兄皇子です。
この年に「摂政」という官職に就いたとされますが、そんな官職はありませんでした。
そうではなく大王に即位した年です。押坂彦人大兄皇子が大王に即位したことを消すために
摂政という官職に就いたと後に改竄されているのです。

押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―山代大王―天武大王―高市皇大王―長屋大王
押坂彦人大兄大王(聖徳太子 厩戸皇子)―茅渟大王―孝徳大王―有馬皇子

押坂彦人大兄皇子こと日十大王の子孫と対立していたのは、 天智系の天皇や、藤原氏だということは、
この系譜を見れば容易にわかります。 本来の大王である天武の父親は、押坂彦人大兄大王の王子である、
山代大王である。聖徳太子の王子の山背大兄王のことである。
大王家と対立していた天智系天皇である桓武天皇、そして藤原氏により系譜の改竄がなされている。
聖徳太子一族は滅んだとして天武の系譜を改竄している
天武と天智は兄弟ではない。桓武天皇は天智を天武の兄として系図を変更したのです。
それは天智は本来の王家の人物ではないからです。

天智系天皇である桓武天皇は、天智が王家に関係しないと、全く王には即位できない人物です。

この押坂彦人大兄皇子の子孫、つまり王家と対立していたのが、天智系天皇や藤原氏です。
「法興元年」は、押坂彦人大兄皇子が大王に即位した593年です。ですので初めて元号を作ったのは、この
押坂彦人大兄皇か蘇我馬子です。押坂彦人大兄皇子の年齢を考えるとやはり、蘇我馬子・・・かな?
蘇我氏の私年号は、蘇我氏宗本家が滅亡したとされる乙巳の変までは使用されていたように思うのですが?

この年号の「法興」は、新羅で初めて年号を使用したとされる、法興王にちなむ。
それは蘇我氏の出自が新羅と関係するからです?

それで、大化改新についてですが、・・・
ウイッキベディア・・・
『日本書紀』によれば、大化の改新(645年)の時に「大化」が用いられたのが最初であるとされる。

藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され
郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』のこの部分は編纂に際し書き替えられていることが明確と
なったとされている

発掘結果から「評」と表現される地方行政組織が存在したとは確実であるが、『日本書紀』や『万葉集』では
一貫して「郡」となっており「評」については一切記されていない。『日本書紀』や『万葉集』では故意に
「評」を「郡」に置き換えてあることが明らかになったがその目的や理由については判っていない。
   ****************************

「評」を「郡」に置き換えた、目的や理由については判っていない。とされますが、大宝は長屋王の
年号であり、長屋王が大王に即位していて、大宝律令はこの長屋王の時代に制定された律令だとすると、
こんなの謎でも何でもないないですよね。 

藤原氏は、乙巳の変において蘇我氏を滅ぼし、改革を行ったとしたいわけです。天智天皇や藤原鎌足
によって、新たな政治改革が行われたという功績を作りたかったわけです。
藤原の時代の始まりとしてこの「大化」を日本最初の元号とし。また日本という国号、天皇の称号の使用が
始まったとしたのです。

本来は、藤原氏と対立していた長屋王や忍壁大王の大宝律令時の改革の功績を、取り込んだという
ことに他ならない。養老律令に関しても同様である。その改竄が、木簡などからばれちゃっただけです。
それだけです。
日本書紀は偽書です。この箇所だけでなく他にもたくさんある、後世の潤色だらけです。
つまり歴史を改竄したのは、王家と対立していた藤原氏です。

天智天皇は大化の改新と呼ばれる改革を断行したとされます。しかし、そうではないとの木簡が出土しました。
「評」から「郡」に変更されているはずなのに使用されている。
つまり、改革を行ったのは長屋大王だということになります。大化の改新ではなく、本来は、長屋大王や
忍壁大王が行った「大宝の改革」ということになります。

孝徳の年号は「大化」ではなく、本来は「大和」ではなかったのか?
大化の改新なんてなかったわけです。これは、乙巳の変のクーデターのあと、天智と中臣鎌足が改革を
行ったとして、本来の年号である「大和」を、天智系天皇や藤原氏によって、乙巳の変以降の年号を
「大化」の年号に変更して改革を行ったと改竄しているのです。
つまりこの「大化」は藤原氏の私年号であり、最初の藤原氏の私年号である。


「天皇記」「国記」 編纂時以降の年号・・・
年号に関してはこの押坂彦人大兄皇子の「法興」以降は使用されていたように思うのですが?大王という
ことを消されている関係で年号に関しても同様に消されている年号もある。この「法興」に関してもそう
なのですが、日本書紀にはないのですが、法隆寺の釈迦三尊光背銘に残っていました。

古代から繋がる本来の大王家・・・
押坂彦人大兄皇子(法興)ー茅渟王ー山代王ー孝徳(大化?)ー天武((白鳳) ー高市大王(朱鳥)
-忍壁大王(朱雀)-長屋大王(大宝)

天皇に関しては・・・
初代天皇は推古天皇です、2代目は皇極天皇、3代目は大安寺伽藍縁起并流記資材帳にある、
袁智天皇(茅渟王の娘 遠智娘 持統のお母さん)、4代目は重祚して斉明天皇、5代目は持統、
6代目は元明、7代目は元正。

推古 ー皇極 ー 遠智娘(白雉)ー斉明ー持統ー元明(和銅) ー元正(霊亀)

本来は「天皇」は女帝の名称だったのではないのかな?天智に関しても天皇だったかどうかは疑わしい。
持統のお父さんを、王、つまり天皇に即位していたと後に改竄したものではないだろうか?
近江京というのは、百済国にすぎないように思うのですが・・・?




写周は雷丘です。周辺には雷丘東方遺跡、雷丘北方遺跡、雷内畑遺跡 、などの遺構が発掘されています。
この遺跡から、「小治田宮との墨書土器が 発見されたことにより、この雷丘周辺が新たに推古天皇の
小墾田宮としての有力な候補地になっています。

ウイッキベディア・・・雷城
築城時期や築城者は不明だが中世の城郭と見られる跡が残っている。丘の中央に主郭、南と東に
一段下げた曲輪、空堀を挟んで西側に曲輪、更に西に一段下げた曲輪、北に空堀から続く曲輪が置かれていた。
飛鳥時代までの遺構は
この頃に破壊されたと推測されている。
      **********************
この地を宮としたのは、もともと、忍壁皇子の住居はこの雷丘付近にあったからです。この雷丘は
小さな山ですが、山頂には宮があったのです。小さな低い山だからこそ、この時代でも宮を造ることが
出来たともいえます。

山頂には15世紀頃の山城跡が発見されています。この忍壁大王の宮の遺構は、この雷城造成時に
山頂部分は大規模に削られていて、遺構は破壊されてしまったのです。


推古の小墾田宮は豊浦寺の近くにある、古宮土壇のあたりだとされてきました、しかしながら周辺では
宮跡は発見されていませんでした。そう、いまだに推古天皇の小墾田宮はどこにあったのかわかっていない
のが真実です。

これらの遺跡は、推古天皇の小墾田宮ではないように思うのですが・・・?というより、推古は天皇ですが、
大王ではない。ですので、推古天皇の小墾田宮の存在自体も少し疑っているのですが・・・?

今はこの雷丘周辺が推古天皇の小墾田宮としての有力な候補地になっています。
ですが、ここは皇極の小治田宮なのでは?推古の宮である小墾田宮は、この皇極の小治田宮の名称を使用した
可能性はないのだろうか?
推古天皇の宮は、初めは豊浦宮でした。天皇一代ごとに宮を変えたともされますが、何故か後に小墾田宮に
移っています。

推古が天皇の時代の大王は、押坂彦人大兄皇子でした。しかし大王であることを消しています。
ですのでこの時代の本来の宮は、推古天皇の小墾田宮ではなく、押坂彦人大兄皇子こと日十大王の
水派の宮でした。隋の使者が訪れた宮殿はこの水派の宮です。

しかし大王であることを消したため、推古の宮である小墾田宮の名称を使用したのです。
ですので、本当に推古の宮である小墾田宮は存在したのだろうか?もしかしたら、この皇極の小治田宮の名称を
使用した可能性はないのだろうか?漢字をを変えて小治田宮を小墾田宮としたのではないのかな?

大君は 神にしませば 雲隠る 雷山に 宮敷きゐます。

この歌から推測されるのは、この雷丘の山頂に宮を、柿本人麻呂が実際に見て詠んだ歌だともいえますよね。
歌にあるようにこの雷丘に忍壁大王の宮があったのではないのか?

ここは、もとは祖母である皇極が、飛鳥板蓋宮に遷都するまで、少しの期間ですが遷都していたとされる
小治田宮であり、後に忍壁大王の住居、つまり宮といえます。そこを行宮として新たに作り替えたともいえます。
それで、歌のように山頂に宮を新たに建てたのでしょうか?

山頂に宮?が存在していたとの証拠は既に学者先生により示されています。
雷丘東方遺跡から墨書土器が出土している。写真にあるように「小治田宮」の記述のある土器が発見されました。

この墨書土器の中に「城下」と墨書された土器も発見されています。この土器が発見されたとされる小治田の井戸は、
淳仁天皇の行幸に合わせて造られたとされ、 8世紀末~9世紀初頭位と考えられています。
つまり、この8世紀末~9世紀初頭には、まだ雷丘の山頂には、墨書土器に記述されているように「城」とよばれる建物が
存在していたのではという推測がなされています。

この雷丘の山頂の建物を、忍壁皇子の「殯宮」とする説があるようですが、殯宮を万葉集では「荒城」とも
表現されるようですが、宮殿のそばに殯宮を造るはずはありません。殯宮とは、死者を本葬するまでの棺を
安置する建物のことをいいます。

この「城」こそ忍壁大王の宮ではないのだろうか?墨書土器にある「小治田宮」の文字通り、この地は、
もとは、祖母である、皇極天皇の「小治田宮」ではなかったのか?そこに、新たに忍壁大王の行宮が
造られたのではないのか?

「小治田宮」は、 雷丘東方遺跡、雷内畑遺跡 、そして、この雷丘などを含む宮だとされます。
東南部分に宮があったと推測されています。
そして、雷丘ちかくには、もう一つの遺跡、雷丘北方遺跡があります。この遺跡がもとの忍壁皇子の
住居ではないのかな?新たに大王に即位したときに雷丘に宮を建設したのではないのかな?
それは、傍に大官大寺がありこの寺は、もとは高市大寺と呼ばれていたからです。雷丘北方遺跡は、忍壁大王の住居、
そして北東隣りには高市皇子の住居だったのでは?
この大官大寺は、高市大寺と呼ばれていました。たしかに高市郡ではあるのですが、香久山宮(藤原宮)は、
高市皇子の宮であり、都だとするわたしには、何故に、高市大寺と呼ばれていたのかは凄く気になるところです。

ここは、元は高市皇子の住居であったのですが、香久山宮が完成し移ったので、元の住居を寺にした
のではないのだろうか?
こにに百済大寺が移されて、寺となったので高市大寺とよばれたのではないのか?そして都完成時には
大官大寺としたのでは?お寺の名や、地名の高市もまた、高市大王の名に由来するのではないのか?

ウイッキベディア・・・
出土した土器や瓦(複弁八弁蓮華文軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦)の編年から、この伽藍の建立は天武朝まで
はさかのぼらず、持統天皇の末年から文武天皇の初年頃(7世紀最末期)であったことが推定された
   *********************************
つまり、天武朝に造られていたのは、高市皇子の住居であって、寺となったのは、香久山宮が完成し移った後の、
発掘調査の通り 7世紀最末期ということだと思うのですが?
つまり、天武天皇2年(673年)に、百済寺を百済の地から高市の地に移し、高市大寺としたとあるのは
日本書紀の嘘です。

天武の二人の皇子、第一王子の高市皇子、そして第二王子はこの忍壁王子だと思うのですが?
ふたりは大王に即位していました。


                                   


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