それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

『沈黙の声』第24号(87年6月25日発行)「死刑との闘いをどのようにすすめるか」(その1)

2017-01-21 15:33:09 | 会報『沈黙の声』(その2)

 

永山則夫支援者だった武田和夫さんが永山さんから追放された後、武田和夫さんが「風人社」という死刑廃止団体を立ち上げた。その時、発行していた会報『沈黙の声』を冊子にしたもの…の第二弾。『沈黙の声』の第24号の記事を、以下に載せます。


 

『沈黙の声』第24号(87年6月25日発行)

「死刑との闘いをどのようにすすめるか」

「沈黙の声」は83年8月の発刊以来、死刑廃止の闘いは権力が現実に「死刑制度」を運用しようとしている裁判の場での、死刑囚仲間との共闘を基礎とし、そこで具体的に「死刑」を問い、「犯罪」を問う力を作っていく必要があることを訴え、また第6号84年6月)以来、その闘いの場は当面、最高裁における死刑確定判決の強行に対して集中されるべき事を主張しその闘いを担ってきた。 

このかんの状況は、まさに最高裁での、「死刑」をめぐる権力とのせめぎ合いの連続だった。そしていかなる裁判への死刑攻撃も、死刑制度全体の動向にかかわるものとして、死刑に反対する仲間の巾広い団結によって、監視、抗議、闘いが集中するようになってきたのである。 

こうした状況は、ひとりでにやってきたのではなく、直面する状況の核心を捕えた闘いが、〝引き寄せ〟たものである。

何をめざすのかという、我々の主体性と、状況がどこまできているのかを見極める洞察の客観性との接点に闘いのクサビは打ち込まれねばならない。われわれは、死刑制度が単に〝恣意的〟であり。〝時代遅れ〟であり〝不必要〟だから反対しているのではなく、それが、この殺人社会の原理―特に、天皇制国家日本の侵略史をみよ―の収約点であり、それを根底で支える最も非人間的な殺人制度であるから、これを廃絶しようとしている。

この究極の殺人制度は、殺人社会が結果する個々の殺人者を抹殺することで成り立ち、まさにそのことによって、殺人社会そのものを再生産するのだ。だからわれわれは、この殺人制度―死刑が、その存立のために必要とする対象=死刑囚を仲間として共闘する。そして、死刑囚の仲間たちと、死刑を拒否し殺人社会の原理を拒否して、人を生かし共に生きる闘いをつくっていく。それによってこそ。死刑の存立基盤そのものを廃絶できるのだ。

 このかんの闘いは、まさにそういう闘いをめざすものだったのである。そして死刑廃止の闘いが「死刑」を再生産する裁判そのものにまで向けられるようになってきているのだ。「最高裁との闘い」はその出発点であり、同時にその全体の政治的焦点となるものだ、という事なのである。

(その2)に続く



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