それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

『沈黙の声』第17号(86年3月30日発行)「死刑制度と天皇制」(3)

2017-01-20 20:29:57 | 会報『沈黙の声』(その2)

(その2)から続く

   死刑との斗いは天皇制との斗いだ

 そのような「象徴」天皇が、現行法体系の下では、刑法上は一般国民と同等のあつかいを受けている、というのは、「大逆罪」の存在した戦前と対比して、余りに不自然だ。

 法律上そうだ、という事と、実際上どうか、という事とは違うのだ。法治国家のたてまえ上、かっての「大逆罪」に代わるものとしては一般「殺人罪」しかない、ということになるが、それは現実には「殺人罪」に「大逆罪」的強権性を、可能な限り代位させねばならないことを意味する。天皇がいるために、日本ではいまだに死刑が存置されているんだ、と端的にいっても決してさしつかえないと思う。

 少なくとも、その問題をヌキにして、日本の支配権力が死刑廃止を考えるということはありえないだろうね。

 そのことは、「天皇制を倒さぬかぎり死刑はなくならない」ということではない。

 死刑の問題こそは天皇制の問題だということ、こうした天皇制支配の本質を具体的な領域で暴いていくことが、死刑との斗いにとっても、天皇制との斗いにとっても「武器」になると思う。

 そうだ。かって、一九四六年の食糧メーデーに際して時の共産党書記長徳田球一氏は「天皇よりメシだ」と言ったというが、そうではなく、メシの問題こそ天皇の問題だ、といったたて方が、天天皇制との斗いにはつねに必要なんだと思う。

 げんにそのメーデーで、一人の共産党員が、「…国体はゴジされたぞ 朕はタラフク 食つてるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」と書いたプラカードを持ち、最後の「不敬罪」に 問われている。

 一体なにゆえ民衆が飢えにひんしているのか、それをヌキにして〝メシの問題〟もない。我々もそうした、問題の根本を見ぬく、共産主義者の目をもつべきだろう。

(了) 

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。