(その2)から続く
三、
「死刑廃止と武装闘争は矛盾」するかしないか、というおかしな議論が見うけられる。
これは客観的には、このかん「死刑」をめぐる政治状況の焦点に位置し、攻撃を集中的にうけている東アジア反口武装戦線の獄中戦士を、死刑廃止の闘いから引き離すイデオロギーとなって権力を助けているのだが、この議論がそもそもどこからもたらされたかという事は別にして、その思想的背景について見てみよう。
「死刑廃止と武装闘争とは……」という問題設定の根本にあるのは、まず、死刑廃止運動とは、非暴力・合法の市民運動でなくてはならないという固定観念である。
次に、人民がなぜ武装して闘わねばならないのかを全く理解しない、有産階級の視点からの、「武装闘争=殺人肯定」論である。
そして更に、「死刑廃止」を個別的制度変更の運動としか見ず、体制総体の変革、人民の解放の闘いの中にそれを位置づけようとしない、視野の狭さである。
武装闘争をやるには、広汎な人民の、合法的運動の支えが必要である。その上で、武装とは、暴虐な権力にこれ以上仲間を殺されない為の、人民の側の自衛である。虐殺の危険の全くないところで「殺人をみとめるのか、否か」とおしゃべりする問題ではない。
そして人民の武装は、圧倒的に優勢ならば血を流さずに済むことは歴史が証明する通りである。
武装の問題は、ただ武器を持てばいいという問題ではなく、人間を生かすための武器をもてる思想と、それに裏付けられた政治を、広汎な人民の闘いの中で、いかに作っていくかという問題だと思う。
合法・非合法の二通りの闘いがあるのではなく、人民の闘いはあくまで一つである。
(抜粋以上)