シベリア抑留死亡者遺児の会

父親をシベリア抑留で亡くした遺児の会。墓参・埋葬地調査・遺骨収集・慰霊碑の建立・慰霊祭の情報を交換し風化防止に努める。

シベリア抑留死亡者慰霊碑10

2007-05-31 07:07:23 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑10

碑の名称 - 日本人埋葬碑、ハダブラク
所在地  - アラブヤニンスキー地区ニュータウン、ハダブラク
建立者  - 全国抑留者補償協議会 斉藤六郎氏、31番
建立年月日 - 不明
管理状況 - 1996年に松間様達の慰霊団が訪れた時は倒れていた。
収容所及び収骨状況:第24収容所第12支部、厚労省整理番号:3017(登録埋葬者481名) 遺骨未収集
説明: 最近ここからの生還者で埋葬地調査をされた方の情報が間接的に入って来たが、埋葬場所不明である。信憑性は薄いが道路などになった所とも聞いた事がある。その不明な点が多い上、上記斉藤六郎氏の碑はヘリコプターで運ばれて来て建てられたが、埋葬地とは関係がない。埋葬地は碑の北北東のシャルロバーヤガラー村である。以後この碑が有る為に遺族達はここに来て追悼式を執り行う状態の様だ。
上記熊本県の松間氏(死没者の弟さん)が1996年に訪れた時、写真の小さい方の碑「鳴呼日夜語り合いしダモイの声」を建て供養をされて来られた。
昨年ここで父上を亡くされた岩手の菊地氏が全抑協のツアーでここを訪れられた。(同時に私の父の埋葬地を廻るので、私も同行を検討したが、現地滞在時間がごく僅かな為参加を見合わせた)菊地氏はこの碑の場所までも行けず仕舞いだった。
2004年の慰霊巡拝で一緒だった下関の大元氏の父上の埋葬地でもあり、彼は同郷人であり、お互いの埋葬地が近いだけに調査の時特に気にした所だが、481名ものお遺骨はいったいどうなったのか想像が付かない。
写真提供:松間氏、監修:東京ヤゴダ会

シベリア抑留死亡者慰霊碑9

2007-05-30 06:16:26 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑9

碑の名称 - カダラ鉱山・慰霊碑
所在地  - チタ市カダラ炭鉱の北500メートル日本人墓地
建立者  - 元広島231連隊遺族及び関係者一同
建立年月日 - 2006.8.
管理状況 - 出来たばかり
収容所及び収骨状況
  墓地名    厚生省整理番号  埋葬数  2001年収集   2005年収集
カダラ第1墓地  3063       182柱     77柱      
カダラ第2墓地  3064        57      28          
カダラ第3墓地  3065       212      58         154柱
第3墓地は広島元231連隊の墓地であるが、収容所より遠く且つ丘の上であり冬期は死体の搬送困難の為収容所より近くの平地に埋葬した、よって、2004年5月21日に元同所抑留者が公明党の協力を得て、冬期の埋葬場所の再調査を要請し、早速同年9月20日より政府埋葬地調査団を派遣(抑留者4名参加)、翌2005年8月21日―9月13日遺骨収集団派遣とトントン拍子に進んだ恵まれたケースで、残りの154柱収集、2001年収骨の58柱と合せて212柱の全骨収集となった。

碑文には: 慰霊、1945年から1946年までの間 カダラ第52収容所11分所で 亡くなった戦友の霊よ安らかなれ 2006年7月 元231聯隊遺族及関係者一同 (右側にロシア文)



カダラ第3墓地の平成18年7月に改修された墓碑

写真提供及び監修:東京ヤゴダ会、大内一夫様

シベリア抑留死亡者慰霊碑8

2007-05-29 06:56:33 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑8

碑の名称 - ベルシーナ・ダランスン日本人埋葬地
所在地  - トウングコチエンスキー地区ベルシーナ・ダランスキー村
建立者  - 全国抑留者補償協議会 斉藤六郎氏 (35)
建立年月日 - 不明
管理状況 - 良好、村は維持管理に意欲的
収容所及び収骨状況 第25収容所第3支部、埋葬地は整地され現在は住宅が建って居り遺骨収集不可、未収集墓地。厚労省整理番号:3028(埋葬者96名)
(説明)私の父の収容所は「第25収容所第1支部、ベルシーナ・シャフタミンスキー」で良く似ていることから起きた悲劇だが、父上が私と同じ収容所で亡された岩手県宮古の山下氏は1991年から10年間シベリアへ遺骨収集に行かれた。その間の休日など利用してあちこち探して歩かれ、ある年ここへ行かれたが帰国後間違いが判明、ここから200キロも離れた所だと。
今年は山下氏(7年ぶり11回目)と山梨の岩間兄氏、横浜のその弟氏(各3年ぶり2回目)、私(3年ぶり3度目)共々出掛ける事と決まった。
その岩間兄弟だが、2004年の「旧ソ連慰霊巡拝」参加で知り合った。父上の除籍簿が判読出来ず(スレテンスク45収容所病院内とか読めた)、それ為死亡者名簿も収容所名も分らず巡礼団に参加された。新潟での結団式の席上で名簿に父上のお名前を初めて見付けられた。
戦友探し、収容所の場所探し、遺児仲間探し全て自分でやらなくては誰もやってくれない。
写真提供及び監修:東京ヤゴダ会

シベリア抑留死亡者慰霊碑7

2007-05-28 07:14:46 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑7

碑の名称 - ノーバヤ - 日本人埋葬地
所在地  - チタ地区ノボクルチーニンスキー村(ノーバヤ)、チタ市中心地から幹線道路を東に54キロ、道は良く100km/Hで飛ばせるので50分ぐらいで着く。
建立者  - 全国抑留者補償協議会(斉藤六郎氏) ― 30番
建立年月日 - 1991.
管理状況 - 不良、埋め込まれた銅版が傷付けられるのは何故か理解出来ない、まるで激戦地で銃弾を受けた玉痕のよう。
収容所及び収骨状況 - 第24収容所第10支部、厚生省整理番号3015(100名)収集不可と、3016(153名)、1994年37柱、1995年115柱収集、1柱未収。
説明 - 外周の木柵(2.5メートル X 2.6メートル)は村が設置した柵、その中に80cm角、38cm高さの台の上に1.2メートルのコンクリート製の碑、「日の丸・平和鎮魂・日本人埋葬地・30・全抑協会長斉藤六郎」と記した14X45cmの銅版が埋めてある。
周囲には民家が沢山建つが我々の訪問には全く関心がない。
私の追悼式をここで行って頂いたが、父の埋葬地はここから直線距離で東へ300キロ、東京から名古屋にある墓の供養を横浜で誤魔化す感じ。
東京ヤゴダ会監修

シベリア抑留死亡者慰霊碑6

2007-05-27 07:10:27 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑6 

碑の名称 - カリムスカヤ ー 慰霊
所在地  - カリムスキー地区カリムスキー駅、第1841特別野戦病院墓地
  幹線道路をチタから来て左折、地元の墓地の奥の一画。
建立者  - 東京ヤゴダ会有志
建立年月日 - 2001年9月吉日
管理状況 - 良好、ロシア人墓地、タタール人墓地が迫って来ており、数年後には取り除かれる心配がある。村長は柵を作りたいと発言した。
収容所及び収骨状況 ― 厚生省3048、176名、墓には「176柱埋葬」と記してある。1997年遺骨収集実施収骨60柱、116柱未収骨。(ロシア人墓地、タタール人墓地に侵蝕された為)
説明 - 2003年7月8日に訪れた時「友よ安らかに眠れ、平成13年9月吉日」と10センチ角、高さ2メートルの全抑協の木碑はあるが、斉藤六郎氏の碑18番見当たらず。
東京ヤゴダ会監修

勉強会

2007-05-26 10:34:45 | 今日の出来事
朝から厚木情報プラザへ出掛けてお勉強。

厚木市のマルチボランティアー(通称マルボラ)が開設以来、本日で受講者1万名となり、その記念イベントにも参加した。
その後BLOGに関する不明点を分り易く教えて頂き、途中から「あなたのBLOGは日記にあらず、ホームページへの変更を」と薦められた。
午後は別の集まり「ホームページ懇話会」に参加させて頂いた。講座ではなくHP運営に関する情報交換、大変ハイレベルで、刺激を受けた。
そして私もいよいよホームページを・・・と決心させられた。ご期待下さい。

シベリア抑留死亡者慰霊碑5

2007-05-26 06:17:16 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑5

碑の名称 - ペトロフスク・ザバイカリスキー慰霊碑
所在地  - ペトロフスク・ザブオード駅の西南方向へ8kmの小高い山。
建立者  - 東京ヤゴダ会有志
建立年月日 - 2001年9月吉日
管理状況 - 不良、管理は現地の対応に任せるのが現状。
収容所及び収骨状況 ― 第1484特別病院、厚生省整理番号3045、247名、第52収容所第8支部、厚生省整理番号3046、28名。平成7年全埋葬者全遺骨収集済。
説明 - 正面の白塗りの塊は、市で建立した碑と言われ、建立前慰霊式等はこの前で実施した。慰霊碑は平成13年に、右の樹木の下、埋葬地・収骨跡地に建立され、花崗岩の碑には「日本人279名ここに眠る」と記されている。(注:上記275柱とヒローク2柱、ジプヘーゲン2柱を含む)チタ州は日本より広いが、その最西部である。
(その他に斉藤六郎氏の22番が有る筈だが確認されていない)
写真提供・監修:東京ヤゴダ会

シベリア抑留死亡者慰霊碑4

2007-05-25 06:27:39 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑4

碑の名称 - ハハトゥイ村埋葬地 - 日本人の墓地
所在地  - ペトロフスク・ザバイカリスキー地区ハハトゥイ村、国道M-55に面して居る
建立者  - ハハトゥイ満鉄会
建立年月日 - 1995.7.7.
収容所及び収骨状況 - 第52収容所第7支部、厚生省整理番号3038、埋葬数205柱だが、埋葬地不明で未だ収骨されていない。
管理状況 - 3年毎に遺族代表が訪ロ、年間100ドルを提供、管理人の自発的行為によって今後の保存は有望
説明 - 鎮魂、埋葬者名を銘板に記載(軍人・軍属・満鉄社員・警護隊を埋葬)
20mX15mの柵で囲む。元満鉄(南満洲鉄道)関係者によって建てられた慰霊碑である。
私の父も満鉄に勤務だったが、昭和20年5月に「根こそぎ動員」で召集され、入隊は8月1日とも聞く。
写真提供・監修:東京ヤゴダ会

シベリア抑留死亡者慰霊碑3

2007-05-24 05:56:23 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑3

碑の名称 - ブカチャーチャ鎮魂碑
所在地  - チェルニシェフスキー地区ブカチャーチャ村第1炭鉱
建立者  - 陣志会
建立年月日― 1994.7.17.
管理状況 - 不良、建立当時から銘板を狙われていて、半分位剥されていた。
収容所及び収骨状況 ― 第23収容所第1支部(厚生省整理番号3001)、513柱、
  平成10年遺骨収骨済(448柱収集、未収集65柱)
説明 - 昨日に続きブカチャーチャ2箇所目の慰霊碑。ここだけの事ではないが、シベリアでは、金属となると入歯でも抜いて行かれる。日本語が読めないにしても酷い事をするものだ。
本日は手元にある、「旧ソ連抑留中死亡者の遺骨収集実施状況」を記して見る。
 
           死亡者名簿搭載者     埋葬地数      収集数
チタ州           6,843柱      60箇所     4,832柱
イルクーツク州      4,569       71        2,965 
ハバロフスク州      9,520      104        3,434 
合計           37,925      588       16,577

尚チタ州の場合、埋葬地60箇所の内、収集済が36箇所、収集不可が24箇所であり、碑の所在は16箇所あるが、今後整理し東京ヤゴダ会の監修を頂きながら、順序不同だがアップして行く。
写真提供・監修:東京ヤゴダ会

シベリア抑留死亡者慰霊碑2

2007-05-23 06:56:03 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑2

碑の名称 - ブカチャーチャ鎮魂碑
所在地  - チェルニシェフスキー地区ブカチャーチャ村第2炭鉱
建立者  - ヤゴダ会
建立年月日― 1992.6.12.
管理状況 - 良好、建立当時から銘板を打ち付けていたが剥された、修復後再び剥された為、現在は石に直接彫り込んでいる。
収容所及び収骨状況―第23収容所第2分所(厚生省整理番号3003)731名
平成4・5年遺骨収集実施、689柱収集、未収集42柱
説明 - ブカチャーチャには2つの慰霊碑がある。これは第2炭鉱墓地(通称一本松墓地)に建立した慰霊碑。
死亡者数は後日アップするが、3、000名以上収容され、千数百名死亡と発疹チフス発生もあり、死亡率は40%以上と高い所。
うち二百数十名は収容所に入った時はまだ十代だった、その殆どは満洲国陸軍軍官学校の7期生で、現在の東京ヤゴダ会役員はその中の帰還者が中心である。
写真提供・監修:東京ヤゴダ会

シベリア抑留死亡者慰霊碑1

2007-05-22 07:45:18 | シベリア抑留


チタ州民間建立慰霊碑1

国による第2次大戦戦没者の海外慰霊碑は夫々の国にひとつだけで、ロシアはハバロフスクにある。そこから2000キロ離れたチタ州の帰還者戦友会や遺族の建立した民間慰霊碑を取り上げる。私の父の所も含め何もない墓地、場所すら分らない埋葬地が多い。

碑の名称 - チタ平和慰霊祈念碑
所在地  - チタ市の中心地。チタ市第2駅北北東約2.5km、インガジンスキー地区。ペトロフスカ・ザブオードスカヤ通りとバルグシンスカヤ通りの交差点を西に約50メートル、旧墓地。
建立者  - チタ平和慰霊祈念碑建立日本委員会・全国強制抑留者各戦友会(チタ市の全面協力を得て、募金により建立された碑)
建立年月日― 1996.8.30.
管理状況 - 良好、建立後5年間は毎年1000ドルを支払い維持管理を建立業者に委託した。2002年チタ市に管理委譲し申請を受理されている。
なお、当場所は若者の集いの場所となって居り、汚れが酷く、昨2006年鉄柵で囲み夜間は入れない、神聖な公園にする計画が土地を管理する大学によって進んでいる。
収容所及び収骨状況―第24収容所第2,7,8支部(厚生省整理番号3006)2001年に収骨済、埋葬者全骨収集。
この埋葬地を含め、チタには7箇所の埋葬地がある。埋葬者総数653柱、収集445柱、未収208柱である。
その他の情報 ― この碑の前に1920年建立の、大きい「シベリア出兵の日本軍戦没者忠魂碑」がある。敷地は、50 X 60メートルの広さある。
私はここを2003年7月8日と2004年8月24日に訪れた。
デザインは東京芸大出身の尾崎正一先生の作で、不戦平和を祈念するシンボルとして大地から大空に向って炎が舞い昇る、ステンレス製のモニュメント、台座の黒御影石に「慰霊」の文字が正面に、裏面には、

さきの大戦後の抑留下に
祖国への帰還を希いながら
この大地で亡くなられた
日本人の霊を慰め
平和への想いを籠めて
この碑を建てる。       とある。

東京ヤゴダ会監修済

楽苦画飢最終回

2007-05-21 06:34:47 | シベリア抑留


シャフタマ収容所再訪

私は60才を過ぎて単身赴任がきつかった事もあったが、仕事も一段落したので定年を1年半残して退職した。健康な内に思いっきり好きなゴルフがしたいとか、父の死んだシベリアへの墓参を早く済ませたかったのが偽らざる心境だった。
先ず退職後、妻への慰労も兼ねて半月ハワイで過ごしたが、少しも楽しめない、これも父の怨念かと、帰国後色々調査を始めたが進まない。
そこでノスタルジック・ジャーニーではないが、娘を連れて私の生まれ故郷の満州旅行に出掛けた。その時ハルピンで、瀋陽への汽車の出発を待つ時間、地図を見ていて、「ここから東京へ帰るより父の眠るチタの方が近い」のだと改めて気付いた。
帰国後調査に一層力を入れた。そして素敵な方とお知り合いに成れた、そのお二人をご紹介しよう。
石川県加賀市の表谷様、父上のお遺骨をクラスノヤルスクで見付けられた方である。DNA鑑定の導入のきっかけを作られた方である。「全国郵政シベリア会」の年一度の会で来月熱海で再会するが、私に「父を探す」突破口を開いて下さった。
もうお一人は京都の亀井様、この方も父上のお遺骨が帰って来た方で、「シベリア抑留者と遺族はいま」「シベリア抑留って」(かもがわ出版)を出版され、「京都シベリア抑留死亡者遺族の会」を主幹され、小学校などへ出向きシベリア抑留の話をされたり、宝ヶ池にある、大きく立派なシベリア抑留慰霊碑の前で慰霊祭を行われている。
私はこのお二人の様に父の遺骨を探し出し、持ち帰りたいと今も頑張って居るのである。
その後「東京ヤゴダ会」の帰還兵の方や「シャフタマ戦友会」の方とお知り合いになり、その気持ちをより強くしながら今日に至った訳で、いよいよ最後の詰めである。
ここシャフタマからのご帰還された方から「ご父君の遺骨を捜し求めてのご苦労とご孝心あらためて心から敬服いたします」「親孝行の極みと存知ます、必ずや成功される事を祈るばかりです」と10名以上から励ましのお言葉を頂いた。
GOOGLE EARTH で 51°18N - 117°53E です。(完)

楽苦画飢29

2007-05-20 06:08:31 | シベリア抑留


シベリア回顧  宮城絃男

ひとすじの髪爪をさえ
祖国に還す術もなし
凍土に朽ちし戦友の泣く
声秋風によみがえる

峰峰染めて夕焼けの
果てゆくをみつ咽びたり
いつか果つべき運命なれ
必ず帰るはらからよ

空に拡がる鰯雲
頤い茫く連なりて
遠き祖国のはらからに
今日生きしこと伝えかし

ああ秋風よ我も泣く
今は標もなかるべし
訪ふ人もなく吹雪く丘
昏れゆくさまを夢みたり

(解説)
これまで掲載させて頂いた「楽苦我飢」の柴谷様の戦友宮城様は、勿論私の父の亡くなった収容所からの帰還者で、今年始め励ましのお電話を頂いた。「現地へ柴谷に一緒に行って貰え」との事だったが、それが現在具体的に訪問計画が進んでいる。この正月は肺気腫の為病院で過ごされ、その後検査入院された。先週再度お電話頂き、肺がんで自宅療養中との事。「小川を渡って、パン工場の裏、200メートルぐらい左」「30センチぐらいしか掘れなかった、狼は居ない」など等と、同行出来ない事を悔やまれる。医学は進んでいる、一日も早いご回復を心からお祈り致します。
私がいつも「シベリア抑留問題急ぐべし」と云うのはこの様な状態からである。
この詩は戦友会で詠まれたもので、柴谷様に毛筆でお書き頂き、父の仏壇の上に飾らせて頂いて居る。

楽苦画飢28

2007-05-19 07:05:21 | シベリア抑留


戦友の埋葬地探し

この夏柴谷様にご同行頂き、ここの遺児3名で出掛ける計画で準備を進めている。その為25名の帰還兵の方に最後の御願いとして「些細な情報でもご提供下さい」とお手紙を出した。毎日の様にお手紙を頂いたり、お電話が来ている。
全く新たな情報は無い。「これまで得た情報で間違いない」と再確認頂き、頑張れとの激励を頂くものが多い。
大きく逸脱する情報はないが、収容所内から埋葬地を眺める部分で、「収容所の中から見えた」が3名のみ、 それ以外は「収容所の中からは見えなかった、収容所の門を出た所から見えた」又は「門を出て坂を下った所で後ろを振り返ると見えた」とに別れ、このスケッチが書かれた柴谷様を含め、一番多い情報である。
厚生労働省から東西に250メートル、山の斜面高さ70メートルまでの範囲を10メートル間隔で描いた地図を頂いた、昨年試掘した59箇所や長峯氏の供養した場所として記入され、GPSで調べた東経・北緯もメンションしてある。

楽苦画飢27

2007-05-18 06:23:26 | シベリア抑留


舞鶴での入浴
頭からDDTをかけられ湯船に飛び込み日本に帰った実感が湧き1945年8月7日以来首までつかれる風呂であり思う存分手足を伸ばし3年3ヶ月のシベリアの垢を洗い落としスッキリとした気分になった。

(楽苦我記)
12月1日早朝「日本だ」「日本だ」の声で甲板に駆け上がると、日本の山々が手に取る様に見え既に湾内に入っているのか、船足は遅く山の上まで耕された畑が見え、松の青さが目に滲み、箱庭の風景を眺めている様であり脳裏に焼き付いた。(中略)
「長い間ご苦労様でした」と書かれた歓迎アーチを潜り日本の土を二本足で確りと踏み日本に帰った事を実感し、足取りも軽く舞鶴引き上げ者援護寮に向う、途中舞鶴婦人会の人が白い割烹着の上に婦人会の襷を掛け、道の両側に並び手を叩き出迎えて呉れた、その時は何故か目が潤んだ。
私達の導かれた所は大きな建物で土間に簀板が幾列にも長く並べられ、その上に着ている衣服を脱ぎ所持品を置き、全裸で入浴と言われ廊下を突き進み巨大な浴場に歓声を挙げて肩まで浸かった。日本人には風呂が一番で教習隊以来の垢、シベリアの垢をサッパリと洗い流し、いい気持ちで上がって来るとあちら、こちらで「無い」「無い」と叫んでいる。私の「共産党史」も無い、所持品も全部検査されて、始めに置いた位置よりずれている、誰が検査をして取り上げたかかは入浴中であり目撃者はいない。
日本での第1夜は畳敷きの大広間であり布団が敷かれている、閲覧室には全国の空爆地の地図が張り出されていた。(後略)