シベリア抑留死亡者遺児の会

父親をシベリア抑留で亡くした遺児の会。墓参・埋葬地調査・遺骨収集・慰霊碑の建立・慰霊祭の情報を交換し風化防止に努める。

今年の活動に関する反省

2006-12-31 18:04:41 | シベリア抑留
東京ヤゴダ会の月例役員会とほぼ毎月の市・地区遺族会の慰霊碑清掃・役員会などを含め40以上の行事に参加した。
シベリアへの旅行も2度誘われたが、私は父の埋葬地に長時間滞在して、調査する事に重点を置いているので、残念ながらお断りした。
6月に5日静岡・富士市での全抑協の平和祈念展、6日彦根での全国郵政シベリア会参加、7日帰路名古屋で開催中の劇団四季の「異国の丘」鑑賞と、本年前半のハイライトとしていたが発病の為実現出来なかった事は残念であった。
8月は靖国神社参拝を初めTVも取り上げるので、矢張り慰霊の月である。
10月父の居た収容所の戦友会に昨年より参加させて貰って居る。「お前は親孝行だから来い」と呼んで頂き、シベリアでの過酷な生活を生の声でお聞かせ頂いた。皆さん高齢から解散の話が出るのは大変残念な事である。
11月3日に千鳥が淵墓苑で行った東京ヤゴダ会の鎮魂慰霊祭の成功が一番嬉しい。
その間に調査・陳情・連絡等に時間を費やした。
その行事への参加で一昨年シベリア慰霊の旅にご一緒した河越さんに、前もっての打ち合わせもしないのに「あなたもご参加でしたか」と良く会った。神奈川県戦没者追悼式、海老名市文化会館で行われた辺見じゅん原作、平田満主演の「ダモイー収容所から来た遺言」など隣の席だった、全抑協の中央慰霊祭、東京ヤゴダ会の鎮魂慰霊祭にも参加頂き、彼も私と同じ様に動いているのだなーと思いながら、会う度に「近くに住んで居るので近々2人でゆっくり」と別れるが中々その機会がない。彼は私以上で去る12月26日の舞鶴で行われた、最後の引揚げ船の帰還50周年行事にも参加されたようだ。
来年はもっと充実した活動をしたいと思う。写真は悪名高き「黒パン」です。
皆様お読み頂きましてありがとう御座いました、どうぞ良いお正月をお迎え下さい。

シベリア慰霊の旅9

2006-12-30 16:00:52 | シベリア抑留
「追悼文」
このシベリアの地に眠られる、五万五千人余の日本人抑留中死亡のご英霊各位へ
先の戦争で無法の強制抑留により、厳寒の地で、過酷な労働を強いられ、飢えと戦いながら、本当にご苦労様でした。未だに祖国へ帰る事の出来ない無念さはいかばかりかと拝察申し上げます、本日ここにご英霊様の遺児団と致しまして慰霊に参り、慎んで哀悼の意を表し、心からご冥福をお祈り申し上げます。
先の敗戦から来年で六十年、人の年齢にしますと還暦ですが、その間の我国は、皆様の掛け替えのない命の犠牲により、今日の繁栄が有り、豊かな国に成りました事は、一時も忘れた事はございません。 我々遺児も亡き父を思い、清く、正しい人間に育ちました。そしてこれからも、二度とこの様な犠牲者を出さない世の中を作る為に努力致す事をここに改めてお誓い申し上げます。
お父さんへ、昨年七月、チタ州ベルシーナ・シャフタミンスキー村を訪ね、埋葬推定地で、「母は元気で米寿を迎えました」と報告し、息子と二人で「お父さんの魂だけでも日本へ連れ帰ろう」とお迎えに来て、私の長年の悲願を果たせ、安堵致しました。
帰国後母に写真や旅行記を見せて報告致しました、「そこまで良くやってくれた」と喜び労を労ってくれました。しかしその母が本年元旦に入院し看病の甲斐なく、三月六日に亡くなりました。悲しいご報告になりましたが、昨年は調査不十分にも関わらず現地を訪れ、母への報告が間に合った事が、今と成っては唯一の慰めです。
昨年、お父さんにお約束致しました、埋葬地再調査、遺骨収集、墓碑建設に関しまして、母の看病、供養の為、準備不足で今年は実現出来ず、其の為、今年はこの様な形で慰霊に参りました。一年遅れますが、これから帰国し、厚生労働省や日本遺族会にお願い致し、来年は、どうでも遺骨収集に漕ぎ着けたいと考えて居ります。
昨年はあの後六箇所の日本人抑留中死亡者の墓地を訪ねました。今回もこの様に、同じ境遇の方とご一緒にチタ・イルクーツク地区の慰霊に訪れて居ります。これからも毎年の追悼法要を捧げに参りますと共に、このシベリア強制抑留問題を風化させない為の活動を続ける事をお約束致します。
尊い御霊に対し、どうか、安らかにお眠み下さい。
平成十六年八月二十日(原文のまま)

シベリア慰霊の旅8

2006-12-29 23:34:01 | シベリア抑留
イルクーツクからチタまで1013キロ、18時間列車の旅である。前年ハバロフスクーシルカ間2080キロ36時間半を経験している、途中標高1000メートルぐらいの所を通るので2両の機関車で引っ張っていた。
発車して暫くバイカル湖畔を走る。我々は方向が逆で東へ走った訳だが、抑留者が「ダモイトウキョウ(日本に帰れる)」と騙されてシベリア鉄道に乗せられ、この琵琶湖の50倍のバイカル湖を見て、日本海と間違え喜んだ、しかし列車が西に向って進んで居ることが判り落胆の涙を流した話は有名。
前年は2人用、今回は4人用コンパートメント。夕飯は全員で食堂車へ、丁度ウラン・ウデ駅に停車、ここで乗換えるとモンゴルのウランバートルへ650キロ、北京へ2,000キロで行ける。チタへは早朝7時に到着、気温14度。


シベリア慰霊の旅7

2006-12-28 21:46:55 | シベリア抑留
ホテルに帰る前に、夕暮れの遅いロシアなので、イルクーツク市内墓地(ロデイシェボ、第32地区マラドボ村)に行く事となった。
市内の大変大きい地元の墓地の一番奥まった所の一角にあった。
墓地は2003年に来た時はきれいに整理され、墓一つ一つに日本語とロシア語で名前が記されていて、観光墓とも言われていた。(写真はその時のもの)我々が訪れた直後に遺骨収集が行われ、そのコンクリートの墓枠が無くなっていた。中心部に大きな慰霊碑があり前年は盗られて無くなっていたが、今年は「日本人墓地」とプレートが入れられていた。
しかし収骨後のあり方に大変疑問を感じる、血・肉や焼骨後の灰の染込んだ土地である。
観光墓と云われても良い、例え埋葬の場所が違っても良い、遺族は粗末にされて居ないのだと感じ取りたい。
ここは慰霊碑が有るから良いが、収骨後荒れ放題、ゴミ捨て場同然、ここで書けないような状態の所がある。広い土地である、何とかささやかな公園にでも出来ないものかと願う。

シベリア慰霊の旅6

2006-12-26 00:05:59 | シベリア抑留
気候は、夜窓を開けて寝るぐらいだが、朝方冷える、7時のTVで19度と出ていた。昼間は日本の9月下旬から10月始めの気候だろうか。
今日はイルクーツクから西へ140キロのチェレンホーブォに向った。途中15台のキャンピングカーの大軍団を追い越したが、これは北京からパリまで行くのだそうだ。ロシアの汚いトイレ問題もこれで解決すれる訳。
チェレンホーブォ市役所を訪問、日曜日にも関わらず市長さんは我々の訪問を出迎えてくれた、TVの取材もあり、先ず孤児院を訪れた。150人の孤児が居るそうだが、今夏休み、子供達に歌などで歓迎された。我々は日本から持参した衣類や文房具を贈った。
チェレンホーボの抑留者は炭坑で石炭を掘らされたとのこと。町の中心地からバスで20分ぐらいの場所、小高いところで遠くに町を見下ろせた。遺骨収集は済んでいる(601名中590柱)
墓碑は民間建立の物があり、現地の人が集まって来た、墓守をしてくれている人も来た、若者がお花を持って来て呉れ、個人追悼式を行った。
ここで長崎から参加の方の供養も行った、彼は大きい声で「お父さん、おやじー」と呼んだ、我々も貰い泣きした。しかし父上の亡くなられたのは、タンボフ州でモスクワの近く、ここはロシアの地ではあるが、距離的には日本の長崎方がうんと近い。それでも、声が聞こえてくれと祈るのみだった。

英連邦戦死者墓地

2006-12-24 21:44:25 | シベリア抑留
この墓地はサンフランシスコ平和条約に関連して締結された「日本国における英連邦戦死者墓地に関する協定」によって、1950年に日本政府から永久貸与された所謂日本の敗戦処理の一環らしい。
葬られているのは、イギリス、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、インド、パキスタンなど英連邦9カ国の1,873人とある。
広大な敷地で良く整備されていて、一つ一つの墓石に氏名・没年齢などが記され、その脇にはバラなど花が植えてある。ここを訪れた遺族は安堵するだろう。
エリザベス女王夫妻、ダイアナ妃、サッチャー首相も来日時訪れたとか。
戦争は勝たねば駄目、負けた日本のシベリアなどとは大違い。
国の為に亡くなったのに、60年経っても遺骨収集されず、墓もなく、墓参にも行けない、まるで放置国家である。二度と戦争が有ってはならないが、送り出した者の責任で何年経っても忘れずに慰霊に努めて欲しい。

シベリア慰霊の旅5

2006-12-20 23:05:47 | シベリア抑留
オルハ墓地よりイルクーツクに帰り、昼食後バイカル湖に向う、1時間で湖畔に到着、リストビヤンカの日本人墓地にお参りした。
この墓地はバイカル湖湖畔の小高い所の地元の墓地の一角にあり、とても良い場所にある。前年は進入路の板が傷み、日本墓地内に現地の墓が進入し、墓碑の文字が剥されて居たが、今年は道の板も新しくなり、「日本人墓地」の文字盤も入れられた。(写真は2003年7月9日撮影)
青森県神道青年会が本年7月9日に60年の供養をした様で、2.5メートル以上有るとても立派な無垢の碑が建立されていた。ありがとうございます。
ここは観光地で供花もあり、日本人訪問者も多いことが伺える。勿論全抑協の「安らかにお眠り下さい」の碑が建てられている。
この湖で、手を洗うと5年、足を浸けるともう5年、泳いだら25年長生きするそうだ。前年来た時、「もうここへは2度と来ないだろう」と旅行記に記したが、又来てしまった、そして又手を浸けた、10年長生きするのだろうか?
静岡から来られたYさんは靴下を脱いで冷たい水に足を入れられた、長生きしたい、父の分まで・・・

シベリア慰霊の旅4

2006-12-19 16:39:44 | シベリア抑留
6時モーニングコール、と云っても日本時間で4時だからさすがに眠い。
ハバロフスク発09:00-10:25イルクーツク到着、3時間のフライト。イルクーツクの気温は13度と機内アナウンスあり。
ガイドは金沢に2ヶ月居たとの事で、加賀市の私の知る人の家にホームステーしたことがあるとか、大きな国に来て、世間の狭さを感じた。
供花やお供え物を購入し、最初の慰霊地「オルハ墓地」に向った。
イルクーツクから幹線道路を北上し、1時間掛かった、(帰路は35分)
シベリア鉄道オルハ駅近くでバスを降り、線路を跨ぎ、約1キロ進み、左折して現地の墓地への坂道を200メートル、左折して50メートルの所に慰霊碑があった。
そこで今回最初の福井から来られた方の個人慰霊追悼を行った。
墓碑の状態は同徳台7期生有志の立派な石碑が2001年9月に建てられて居り、里見恒雄、佐藤貢と記されてあり、全抑協の「安らかにお眠り下さい」(20センチ角1.5メートル)木の碑も平成13年9月吉日に建てられていた。
里見さんが同徳台の戦友で、佐藤さんに関しては不明、福井の方の父上は、ここは鉄道建設の仕事で、ここの工事が済んだ後72キロ南に移り、そこで亡くなられた様だが、墓の場所は不明。
本年7月に東京ヤゴダ会が新潟―イルクーツクと飛んでここに来られ、その時造花があった。

シベリア慰霊の旅3

2006-12-14 21:06:18 | シベリア抑留
2004年8月20日(金)
我々遺児の慰霊団40名はロシアの裏玄関ハバロフスクに着いた。外の方の心境は知る芳もない、そこで私の昨年初めて来た時に感じた事を記したメモがあるので、それをご披露しよう。
「ハバロフスクの上空に来ると、何だか埋葬の為墓に連れて行かれるか、牢屋にでもしょっ引かれて行く思いだ、と言っても両方とも経験の無い事で、良い気分ではない。兎に角、ハワイへ行く時のホノルルの上空から下を見下ろすのとは大違いである。」
「空港で小柄な、とても美人のガイドが迎えて呉れたが、話をするのも嫌だった。市内のホテルまで『ここがオヤジを殺した国か』と怒り骨髄までである。夕飯もロシア料理など食えるかと息子と日本レストランへ行ったものである。しかし1週間後にハバロフスクに帰って来た時は、「こいつ等が悪いのではない」とトーンダウンしていた。
私の知る父上をシベリアで亡くされた境遇の同じ方で「怨念を超えて」と言われる方が居られるが、私はそこまで人間が出来ては居ない。
新潟空港からダリアビア航空(機材TU214、164席)でスケジュールより遅れたが、ロシア製の「EFES」という生ぬるい缶ビールのサービスがあり呑んで居たら、1時間43分でハバロフスク(気温は22度とのアナウンスがあり)に到着。
夕食は宿泊するインツーリストホテルの11階、去年と同じ和食「ユニハブ」で、午後9時というのに窓から日没を見ながら、本日4回目の食事、全て和食。
両替、1ルーブル=¥3.94、

遺児の忘年会

2006-12-13 22:10:34 | シベリア抑留
昨12日は本チタ州遺児の会(未だ正式に発足した訳ではないが)をこれから一緒にやって行く3人で忘年会と称し、本年の果たせなかった反省と来年に向けての結束を図った。
いや、お二人は今年定年退職されたので、その慰労会をした訳である。明年からは勤務に惑わされず父親達の埋葬地調査・遺骨収集・慰霊祭に全力を投入出来る事になる訳である。
寒い中を宮ケ瀬ダムに出掛けた。三人は神奈川県人でこのダムの恩恵に預かっている訳で一度見ておきたいと出掛けた。観光放水は毎週水曜日なので見れなかったが、紅葉と言うのか落葉樹が冬の用意に入り、色付いた山々は綺麗だった。

本日は私の長い間所属するゴルフコンペの会の総会兼忘年会だった。
今年は50周年大会と600回記念大会をやった長寿コンペである。私は肩痛で2年以上参加していないが、懐かしい仲間に会えた。
長く続いている会だけに、メンバーもかなり高齢、既に亡くなった仲間も居る、体調不良で退会した人もある、健康でなければゴルフのプレーが出来ない、健康である事が一番大事だとつくずく感じた。

シベリア慰霊の旅2

2006-12-11 21:33:29 | シベリア抑留
2004年8月20日より27日まで厚生労働省が日本遺族会に委託して行わた「旧ソ連慰霊友好親善訪問団」に参加して、前年に続き2度目のシベリア旅行に出掛けた。十分準備し、再度父の埋葬地を探しに行こうと思っていたが、母の入院、死去、その法要でそれが叶わず、父の埋葬地へは行けないが、同じ境遇の遺児とのシベリアへの慰霊の旅に参加した。
民族人形「マトリョーシカ」と言う、ロシアの最もポピュラーな民芸品で、木製のこけし人形状の中を開けると一回り小さい人形が次ぎ次に出てくる、安産を祈願するとも言われている。本来はこのようにスカーフを被った女性だが、最近はプーチンなどもある。始めに作られたのは19世紀末で8体だったそうだが、この写真は10個、中には20-30個もあるとか。すみません値段は忘れました。

遺児のシベリア慰霊の旅1

2006-12-08 19:06:43 | シベリア抑留
今回からその時の旅行記を掲載する。先ず最初にその旅行日程とコース。
8月19日 東京ー新潟ノンストップ1時間39分、新潟東急インに集合、結団式と壮行会
8月20日 午前、新潟県護国神社参拝や旅行説明会、新潟16:12-19:55ハバロフスク(1時間43分、近いものですね)、ハバロフスク、インツーリストホテル泊
8月21日 ハバロフスク09:15-10:15イルクーツク(時差の関係で3時間)イルクーツク市内から北へバスで1時間のオルハ墓地へ行き、個人慰霊祭。市内に帰り昼食後バイカル湖へ(車で1時間)そこのリストビアンカ墓地にお参りする。アンガラホテル泊
8月22日 西へ140キロのチェレンホーボ墓地で慰霊祭、孤児院へ日本から持参した衣類・文房具を持って親善訪問。帰りにイルクーツク市内日本人墓地に参拝。アンガラホテル泊
8月23日 イルクーツク発11:43、 1、013キロ、18時間チタまでシベリア鉄道の旅、車中泊
8月24日 早朝06:59チタ到着、午前中ホテルで休息、午後ノーバヤ墓地へ、個人慰霊祭の後、帰路チタ第2墓地と市内慰霊碑(日露戦争のものと東京ヤゴダ会建立のものと二つの碑がある)にお参りする。チタ市郊外のパナマシテーと言うコテージ風リゾートホテルに二泊
8月25日 西へ100キロのヤブロノワヤ墓地(今年の遺骨収集で63柱収集)そこから南へ1時間のドラビヤンナヤ墓地、2箇所で個人慰霊祭、レストランが無いので持参した弁当で昼食。
8月26日 チタ10:05-13:15ハバロフスク(2時間10分) 郊外の平和慰霊公苑(日本政府の作ったもの)に直行、3時より合同追悼式 (20日ハバロフスク到着後3班に別れ、夫々父の戦没地ないしその近くを廻り、本日ここに3班全員が集合)、夜、ホテルで領事館員も出席の懇親会。インツーリストホテル泊
8月27日 簡単な市内観光 ハバロフスク15:00-14:50新潟着、(1時間50分のフライトだが時差の悪戯で)

閑中忙有

2006-12-06 22:47:26 | シベリア抑留
退職後忙中閑有はない。しかし私は貧乏性で時間が惜しく、何をやるにも『ながら族』で、結果事後処理の能率が低下し、又時間が無い。
その中で出来る限り自然に接し、四季を感じる事は大切にして居る。
この会の立ち上げに苦慮しながら、光ファイバー工事でIT重装備と結構多忙、癒しの陶芸はありがたい、その陶芸への途中での風景を一枚どうぞ。
私は60年から8年ほど青山に住み外苑の銀杏並木は良く知る所だが、厚木(旧青山学院近く)にもこの様な所がある。

スポーツジム通い

2006-12-04 18:12:58 | シベリア抑留
WORK OUT
大阪に単身赴任の時、こんな生活を続けてはいかんと梅田のスポーツジムに入った。
若い美人のインストラクターにメニューを作って貰い、汗を流して頑張った。
61歳の時48歳だった体力年齢が、一年後40歳になり、「30台も夢ではない」などと煽てられたものである。
「さあーこれでビールが美味いぞ」と帰ろうとすると「駄目です」との事、「ビールを美味く呑む為にジムへ来ているのだ」と云うと「先ず水を一杯飲んでからにして下さい」との事。
朝食は採れとか色々心配してくれた。それから6年も経った。
一昨日新地の飲み屋さんからお歳暮が届いた。良く飲んで歩いた証である。
だからもしジムに通って居なければ、今頃アルコール中毒患者で、手が震えていたであろう。
退職後、これだけは続けようと、近所のジムに入った。昼間からサウナに入り「後輩達は今頃一生懸命働いているだろうなー」と考えながら・・・
最近肩痛の為上半身の筋トレは控えているが、
『万歩計 昼を過ぎても 未だ3桁』
の時は直ぐ行く事にしている。そしてマウスウオーク(二十日鼠がベルトコンベアーの上を歩くあれ)や水中ウオークで若さを保ち、来るべきシベリア僻地へ父の遺骨探しに備えている。


ビデオ撮影・編集その3

2006-12-03 09:20:22 | シベリア抑留
ビデオ撮影及びその編集は何とかものにしたいと思う。
それが本厚木駅前の大型スクリーンに映し出されるよう、厚木市の魅力を自然・風景・文化財・催し物等追っ駆けて見たい。
私はフィクションは嫌だ。小説は「我輩は猫である」と「太陽の季節」の2冊しか読んだ事はない。
映画も嫌いで「作り話など見ている時間はない」との考えである。TVもニュース・紀行もの・ノンフィクションのみで、その点ビデオ撮影技術上達の為にはこれでは駄目なのだろうが、短い人生、作り話に費やす時間などないとの考えである。絵画、アニメ、漫画などとんでもない、写真だ。しかしシベリアの場合は違う、カメラは持ち込めないのである、記憶に残るものの絵画しかないのである。
全てがこうで面白味のない男であるが、シベリアの抑留絵画には涙を流している。
是非ビデオの腕を磨いて、このblogでもビデオ映像を入れたいと思う。
個人的には「怨念を超えて、ロシアの風景を撮って来る」心境になれればと・・・
写真は飯山観音(長谷寺)