~ソ連邦及びモンゴル抑留死亡者名簿~抑留死亡者名簿の閲覧が出来ます | |
厚生労働省では、平成3年以降に提供された次の名簿について、日本語に翻訳し、当省及び都道府県庁に備え、 希望される皆様に閲覧いただいておりましたが、このたびホームページにも掲載し、インターネット利用により容易 に閲覧できるようにしました。 (1)「ソ連邦抑留死亡者名簿」(旧ソ連邦政府及びロシア連邦政府等より提供) (2)「モンゴル抑留死亡者名簿」(モンゴル政府より提供) なお、厚生労働省では、提供された名簿と日本側保管資料と照合調査を行い、名簿登載者の身元の特定に努め、身元が特定できた場合には関係御遺族にお知らせしております。 | |
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1 氏名50音別名簿
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閲覧方法や表記の説明などはこちらをご覧ください | |
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シャフタマ収容所(チタ州第25捕虜収容所)
通訳班の時ラーゲルの拡張があり、現場実測をさせられ、一歩75cmとして私の歩幅で測っ
て資料提出をした。以前は四角に囲まれていた。
(解説)アメリカの援助物資の車や機械が多かったようだが、日産のトラックが一台あった
ようだ。
独立行政法人平和祈念事業特別基金が毎年一冊「平和の礎」と題したシベリア強制抑留者
の苦労話が発行されて居る。平成4年3月30日に発行された、その2号に「生き埋めの刑」
と題して、逃亡者を見せしめの為に営門入り口(スケッチ左下の衛兵所)に生き埋めにした
と書かれていた。生首を・・・と生々しく書いてあった。書いた方を探し、長い手紙を書き、
些細な情報でもご提供下さいと御願いした。電話があり「何にも覚えていない」だけだった。
そこで私はこれまで探し当てたシャフタマからの帰還者に問い合わせた。「逃亡者が出たの
は事実だ、連れ戻され此処の独房で厳しく監視されて居た、此処で起きた事は全て知ってい
る立場にあったがその様な事実は無かった」と、4人の方から間違いであると証言頂いた。
政府の息の掛かった、我々の税金でこんな出鱈目を後世に語り継ぐ抑留記が発行されてい
るのである。今年も間もなくその17号が発行されると思う、(解散が決まったので最後の
発行かも知れないが)非売品だが大きい図書館では借りられる。
今回は脱線して申し訳ないが、この鳥瞰図を見るとそれを思い出し悔しさが込上げてくる。
遺児、遺族にとって本当に酷な仕打ちであり悔しい。
130キロ行軍
スレイチェンスクからシャフタマまで昼は汗と埃にまみれ、重さに耐え、(足の)豆の
つぶれに悩み、夜は寒さにふるえて・・・体力の弱い者は次々に落伍して行った。
(解説)加藤様の抑留記には2泊3日にわたる250キロの悲愴な行軍・・・とあり、
柴谷様はスレチェンスクより80キロ奥地、3日目夕刻に漸く到着した・・・とあり、
山崎英雄様は自身は病後でトラックの荷台に乗せられたが、徒歩で4日ほど歩かされた
・・・とある。1日中から4日間まで、80キロから250キロまで色々だが、その後2年
から長い方は11年間もシベリア抑留中、重労働など苦しい体験をされた訳だが、入ソ
直後で強く印象を受けられたからだろうか、「この行軍のきつさは今でも忘れられない」
と皆さんが口を揃えて仰る。
加藤様はこの時20歳、父は36歳であった。落伍者が出ているところや満州で日本人
から剥奪した物の運搬など実に繊細に描かれている。
距離に関しては厚生省資料が130キロ、私はこの道の途中のT字路の左へ「スレテンス
クまで75キロ」と看板のある所から、右へ58キロ車で走りシャフタマに着いた。
133キロが正しいだろう。
日時に付いては加藤様は9月25日と明記されている、「9月末と云うのに小雪がちら
ついていた」などこれも色々だが、厚生省資料に収容所開設は10月1日となっている。
スレシェンスクにて、
シルカ河(アムールの支流)渡河船風景、箱型船はワイヤーロープ伝いに対岸と
往復を繰り返した。
凍結すると広い道路に変わってしまう、川の交通機関である。
(解説)遠景に汽車が走っている、これはシベリア鉄道ではない。シベリア鉄道
の支線で、スレシェンスクはその終点である。ここで父達シャフタマへ送り込ま
れた1500人は捕虜輸送列車から降ろされた。
「この河は橋も無く、幅が広いので渡れないのでシャフタマへは行けない」との
情報からシャフタマの埋葬地調査が遅れたのである。私もこのルートからは行か
ず、別の道から行った。
このスケッチは帰還兵にとっては大変人気があり、江上軍医の抑留記の表紙にも
使用された。
本日より「サムライの記録」のタイトルで加藤孝様のスケッチを掲載する。
加藤孝様は山澤松二様や私の父と同じ第148師団挺進大隊で、満洲で学徒
入隊された。
柴谷様、宮城様と同様通訳をされていた。昭和22年6月に帰還され、帰国
後する事も無いので、持ち帰ったメモと記憶で書き留められた物を1990年
2月に整理され「サムライの記録」と題した抑留記を退職記念として関係者に
配布された。私は残り少ない物を一冊頂いた。
謄写版によるガリ版刷り160ページである、カットに20枚以上の挿絵を入
れられたが勿論白黒である。
私はその原画を頂いて、それをスキャナーして、このBLOGに掲載のお許しを頂
いたので、約20枚を、20回に渡って出来る限り解説をつけてアップする。
加藤様は学徒動員だから、抑留者の中でも一番若い年齢ながら、最近健康を害
され、入退院を繰り返されている。去る21日お彼岸に亡き奥様の仏参りに帰
宅された際、電話でお話した。「段々体が弱って行くのが分る」と悲しいお話
を伺った。「親父を連れて帰るまで頑張って下さい」と云ったが、後で考える
と、失礼な言い方をしたと反省しているが「シベリア抑留問題急ぐべし」と私
が度々言うのはその様な状態だからである。
本日厚木情報プラザに出掛け勉強して来た、次回よりカラーになります。
Special thanks for MULVO(Multi-Media-Volunteer) member of Atsugi-City.
Very appreciate for your help.
シベリア回顧 宮城絃男
ひとすじの髪爪をさえ
祖国に還す術もなし
凍土に朽ちし戦友の泣く
声秋風によみがえる
峰峰染めて夕焼けの
果てゆくをみつ咽びたり
いつか果つべき運命なれ
必ず帰るはらからよ
空に拡がる鰯雲
頤い茫く連なりて
遠き祖国のはらからに
今日生きしこと伝えかし
ああ秋風よ我も泣く
今は標もなかるべし
訪ふ人もなく吹雪く丘
昏れゆくさまを夢みたり
(解説)これまで掲載させて頂いた「楽苦我飢」の柴谷様の戦友宮城様は、勿論私の父の
亡くなった収容所からの帰還者で、先般励ましのお電話を頂いた、「現地へ柴谷に一緒に
行って貰え」との事だったが、この正月は病院で過ごされ、又再入院の必要があるとか、
私が「シベリア抑留問題急ぐべし」と云うのはこの様な状態からである。この詩は戦友会
で詠まれたもので、柴谷様に毛筆でお書き頂き父の仏壇の上に飾らせて頂いて居る。
楽苦画飢-20
さらばシャフタマ
シャフタマを去るに当り車上より初めて墓の全貌が眺められた。
車上では初めて黙祷、「同時にいつの日かきっと迎えに来るからな」
と誓った。
(解説)柴谷様はここから昭和22年4月にチタ市内の第2分所に
移られ、その後ナホトカへ、3年余のシベリア抑留生活の後、昭和
23年11月に帰国された。
チタやナホトカのスケッチも頂いているが、一先ず最終回と致します。
さらばシャフタマ
シャフタマを去るに当り車上より初めて墓の全貌が眺められた。
車上では初めて黙祷、「同時にいつの日かきっと迎えに来るからな」
と誓った。
(解説)柴谷様はここから昭和22年4月にチタ市内の第2分所に
移られ、その後ナホトカへ、3年余のシベリア抑留生活の後、昭和
23年11月に帰国された。
チタやナホトカのスケッチも頂いているが、一先ず最終回と致します。
楽苦画飢-19
所持品検査
物々しい警戒の元での所持品検査であり所内の半地下家屋では寝台の
板まで外し徹底的な検査をして刃物類を探し出していた。
それが終わると初めて整列した我々の所持品を拡げ検査が始まる。
(解説)所持品検査が刃物でなく、時計や万年筆等であったとも聞く、
その場に居合わせた訳でもないのに、私が解説を入れて来た事には疑
問も感じられると思うが、私の得た情報を補足として加筆して来た。
ここではその徹底的な検査を掻い潜って父の戦友山澤松二様は父が託
した「長峯」の印鑑と私の写真一葉の2点を持ち帰って頂き、我々に
お届け頂いた事実をここにご報告致したい。
所持品検査
物々しい警戒の元での所持品検査であり所内の半地下家屋では寝台の
板まで外し徹底的な検査をして刃物類を探し出していた。
それが終わると初めて整列した我々の所持品を拡げ検査が始まる。
(解説)所持品検査が刃物でなく、時計や万年筆等であったとも聞く、
その場に居合わせた訳でもないのに、私が解説を入れて来た事には疑
問も感じられると思うが、私の得た情報を補足として加筆して来た。
ここではその徹底的な検査を掻い潜って父の戦友山澤松二様は父が託
した「長峯」の印鑑と私の写真一葉の2点を持ち帰って頂き、我々に
お届け頂いた事実をここにご報告致したい。
楽苦画飢-18
第2シャフト坑内作業ーその2
此処での削岩作業は周囲が暗くて見えないから出来たもので明るくて周囲
が見えると足場はピヨピヨで丸太を木の楔で止めてその上かに板を渡して
いるだけであるので作業は出来なかったと思う。
第2シャフト坑内作業ーその2
此処での削岩作業は周囲が暗くて見えないから出来たもので明るくて周囲
が見えると足場はピヨピヨで丸太を木の楔で止めてその上かに板を渡して
いるだけであるので作業は出来なかったと思う。
RECOMMEND: タイトル「シベリア抑留スケッチ17」をクリックせず、
「スケッチ」の上をクリックして下さい、絵画が拡大されます。
これまでのものも逐次修正致します。
楽苦画飢-17
第2シャフト坑内作業ーその1
75メートル迄掘り下げるには途中水脈にぶっつかりずぶ濡れになりながらの
作業もあり凍るような冷たい水中に入った事もあった。
(解説)この苦労話は幾人の方からも色々な状況説明を頂いた。又直接お話も
伺ったが、ゴンドラの吊り上げでの事故もあり大変な作業だった様である。
87メートルだ、いや最後には100メートルもあっただろうとお聞きした。
「スケッチ」の上をクリックして下さい、絵画が拡大されます。
これまでのものも逐次修正致します。
楽苦画飢-17
第2シャフト坑内作業ーその1
75メートル迄掘り下げるには途中水脈にぶっつかりずぶ濡れになりながらの
作業もあり凍るような冷たい水中に入った事もあった。
(解説)この苦労話は幾人の方からも色々な状況説明を頂いた。又直接お話も
伺ったが、ゴンドラの吊り上げでの事故もあり大変な作業だった様である。
87メートルだ、いや最後には100メートルもあっただろうとお聞きした。
楽苦画飢-16
第2シャフト地上図
私(柴谷様)の組ではK曹長が巻き上げ機の操作をしていた。
ある程度掘り進んだ所で櫓も組まれバケットに入れられた廃石を巻き上げ機で吊り上げトロッコに積み替え谷のような所へ捨てられた。
第2シャフト地上図
私(柴谷様)の組ではK曹長が巻き上げ機の操作をしていた。
ある程度掘り進んだ所で櫓も組まれバケットに入れられた廃石を巻き上げ機で吊り上げトロッコに積み替え谷のような所へ捨てられた。
楽苦画飢-15
第2シャフト(モリブデン試掘鉱で竪抗)初期の作業現場(人員8人)
背負うリュックの中にはダイナマイトと導火線、手に持つ箱には芯管と爆発順序
を記入するノートが入っている。
現場監督はタジック系、爆破士は蒙古系。
導線の着火は煙草の火でしていた。
掘る範囲は石灰で印がつけられていた。
(解説)モリブデンとは、MOLYBDAN(独)、Mo,原子番号42、銀白色の金属元素、
輝水鉛鉱、水鉛鉱として産、質が硬いので鋼に加えて高速度鋼製造に用いる。
水鉛とある。
日本人がここへ来る前にドイツ人の捕虜が20-30人居て、砂金と採っていた
との説も有るが、チタ州はこのように錫、金、銅、タングステン、鉄鋼、褐炭、
石炭、マグネサイトなどの珍しい金属を産出する。
第2シャフト(モリブデン試掘鉱で竪抗)初期の作業現場(人員8人)
背負うリュックの中にはダイナマイトと導火線、手に持つ箱には芯管と爆発順序
を記入するノートが入っている。
現場監督はタジック系、爆破士は蒙古系。
導線の着火は煙草の火でしていた。
掘る範囲は石灰で印がつけられていた。
(解説)モリブデンとは、MOLYBDAN(独)、Mo,原子番号42、銀白色の金属元素、
輝水鉛鉱、水鉛鉱として産、質が硬いので鋼に加えて高速度鋼製造に用いる。
水鉛とある。
日本人がここへ来る前にドイツ人の捕虜が20-30人居て、砂金と採っていた
との説も有るが、チタ州はこのように錫、金、銅、タングステン、鉄鋼、褐炭、
石炭、マグネサイトなどの珍しい金属を産出する。
楽苦画飢-14
第2シャフト(試掘抗)より収容所方向を望む
第2シャフト現場事務所横より収容所方向を望むと小さく遠くに見え、
墓標はA林に遮られ見えなかった。
破砕岩が多く出ていたので未だ残っている筈である。
左斜め下に家が一軒あった。
(解説)先に書いたがここには3箇所の鉱抗があった。第2シャフトはその中間
にあった試掘抗である。昨年この収容所からの帰還者の市川様がここを訪れられ、
この場所から写真を撮られ、それを頂いたが、柴谷様の記憶によるスケッチは見
事なほど同じ描写で驚いた、破砕岩もそのまま残っているのが焦げ茶色に写って
いた。
私はこの場所は訪れていないが、左の竪抗の入り口まで行った、そこでモリブデ
ンを含む(銀色にきらりと光る)石辺を拾って帰り、父の何も入っていない位牌
の中に入れた。
遺族会等で多忙でもあったが、スケッチを何とかもう少し拡大して見ることは出
来ないか、模索してしている中に空白だ続き、アクセス数が落ちたので慌ててこ
こに14話を出すが写真やスケッチの入れ方がどうしても旨く出来ない。
第2シャフト(試掘抗)より収容所方向を望む
第2シャフト現場事務所横より収容所方向を望むと小さく遠くに見え、
墓標はA林に遮られ見えなかった。
破砕岩が多く出ていたので未だ残っている筈である。
左斜め下に家が一軒あった。
(解説)先に書いたがここには3箇所の鉱抗があった。第2シャフトはその中間
にあった試掘抗である。昨年この収容所からの帰還者の市川様がここを訪れられ、
この場所から写真を撮られ、それを頂いたが、柴谷様の記憶によるスケッチは見
事なほど同じ描写で驚いた、破砕岩もそのまま残っているのが焦げ茶色に写って
いた。
私はこの場所は訪れていないが、左の竪抗の入り口まで行った、そこでモリブデ
ンを含む(銀色にきらりと光る)石辺を拾って帰り、父の何も入っていない位牌
の中に入れた。
遺族会等で多忙でもあったが、スケッチを何とかもう少し拡大して見ることは出
来ないか、模索してしている中に空白だ続き、アクセス数が落ちたので慌ててこ
こに14話を出すが写真やスケッチの入れ方がどうしても旨く出来ない。