シベリア抑留死亡者遺児の会

父親をシベリア抑留で亡くした遺児の会。墓参・埋葬地調査・遺骨収集・慰霊碑の建立・慰霊祭の情報を交換し風化防止に努める。

年賀状

2007-01-28 10:58:18 | シベリア抑留
本年に入り、このBLOGが書けなかったのは、言い訳になるが、頂いた年賀状への対応に追われたからである。
折角お開き頂き、失望させたことに対してお詫びします。以後頑張りますので、質問、コメント、お叱り大歓迎です。
5-6年前まではシベリア関係の賀詞交換は父の死亡をご連絡頂いた父の戦友の方のみだった。それが毎年増え、今年は3分の1がシベリア抑留帰環者又は遺児仲間からである。
その中に沢山の励ましの言葉を頂いたのでご披露致します。
御父上の埋葬地が判明する事をお祈りします。(ほぼ同文が他に2通)
遺骨収集ご苦労様で頑張れ。(お父上の事で多忙だと思う、その他頑張れは多数)
健康の関係から製作に2週間かかった版画の年賀状。
遺族達の悲痛な叫びにもかかわらず中々ラチのあかない様子、本当に悔しいことです。
貴兄の初志貫徹を祈ります。
貴君は戦友会に無くてはならない人です。(父の収容所からの帰還兵戦友会)
父上の代わりに出席されている方に敬意を表します、父上幸せです。(戦友会)
戦友の遺骨を帰還させたいので方法を教えて下さい。(シベリア会)

このお訊ねに関する調査を、BLOG書きより優先したのです。私も色々活動をしていると、色々な相談を受けることがある。この方は帰還兵であり、私より先輩である、チタ州に関しては資料も揃えたがこの方はハバロフスクなので時間を要した。
このように帰還兵から「俺のいた所を調べてくれ」と云うのもある。
私が遺児仲間の事を調べていて、ある帰還兵の方に質問したら、回りまわってその質問が私のところに戻って来たこともある。

シベリア慰霊の旅(最終回)

2007-01-09 20:47:53 | シベリア抑留
2004年8月27日(金)墓参を終え無念の帰国
シベリア最後の日である。ハバロフスクはロシアの裏玄関と言うか、シベリアの中心都市で人口606,300人、新潟から1時間40分と近く、新潟 ー 福岡の距離である。
チェックアウト後、皆でホテル裏のアムール川展望台に登った(写真)。本当につかの間のと言うのか、墓参という大役を果たして安堵したメンバーの様子がお分かりだろうか、僅か1週間のお付き合いだが、境遇が同じと言う事から、長年の親友以上、真の兄弟のようになった。(と云っても私には兄弟がないが)北は青森の姉妹から南は長崎県壱岐からのご参加の方と全国ばらばらだが、心は一つ、これ以上の一期一会はない。
その後、バスで市内小観光に出た、グローリー広場は、1941-1945の第2次世界大戦で戦死した、6,000人の名前が一人一人碑に彫られている、日本人の碑はどうなっているのか? 最後に行ったレーニン広場でも矢張りメンバーの「来れてよかった、これでホッとした」感じを見受けた。そこに雅かレーニンの銅像が未だ立っているとは・・・ソビエト社会主義革命を達成した指導者で未だあちこちに銅像や通りの名前になって居るのは何故?

シベリア慰霊の旅13

2007-01-07 08:41:10 | シベリア抑留
2004年8月26日 チタから2時間10分でハバロフスクに着き、合同慰霊祭の行われるハバロフスク郊外の平和慰霊公苑に直行した。新潟から到着後3方向に分かれ夫々父の死没地へ行き個人慰霊祭を済ませた、全3コース47名がここに戻って来て「旧ソ連抑留中死亡者合同追悼式」が行われた。
平和慰霊公苑は終戦から49年後の1995年に外務省、厚生省日本政府機関、ロシア連邦、ハバロフスク市政府機関を初めシベリア抑留4団体、多数の個人の人達の尽力によって作られたとある。広さ1.5万平方メートルの公苑に慰霊碑が立ち、市の北側クラスノフローツキー地区にあり、市内中心地から車で30分ぐらい。
ハバロフスクには、この外に市内から空港に行く途中に日本人墓地があり、310名が埋葬されている。ゴルバチョフがお参りしたことがある。今回このツアーは何故行かなかったのか不明だが、私は前年訪れて居る。
夜はホテルで在ハバロフスク日本国総領事館の方も参加されての懇親会が開かれた。2003年1月零下28度の中小泉首相がお参りしたとのスピーチがあった。

シベリア慰霊の旅12

2007-01-04 09:12:24 | シベリア抑留
8月25日、晴れ、気温は日本の10月中旬と言ったところ。
ヤブロノワヤ墓地
チタ市の中心地から西へ100キロ、バスで正味1時間。山火事のあった痕跡(焦げた大木がある)があり、「広過ぎて調査出来ない」と聞き、「広過ぎるはないだろう、変なODAは止めて大規模な調査をすべきだ」と怒りを感じた。広大な土地で山の向こう遥か遠くを鉄道が走っている音が聞こえ、送電線は通っていると云うことはこの奥にまだ何かがあるのか?
墓地には碑も何もない、造花が2-3あると云う事は以前誰かが来た形跡がある。祭壇を作り参加者お2人の追悼式を行ったが、遺骨どころか死亡者リストもない。
しかし昨年ここの遺骨収集が行われ63柱収集され、8月8日に千鳥が淵墓苑へ遺骨引渡しが行われた。
供養を済ませ、そこから南東へ約1時間走って次の埋葬地のある村役場に到着、村長の案内で墓地に向う、役場から17-18分で行き止まり、2-3分歩いて墓地へ到着。
ドラビヤンナヤ墓地
ここも墓碑も何もない。地面に白い造花が20-30散らばっているのが唯一の目印、その他古い缶詰めの缶があった。ここは平成3年に日本で一番最初に遺骨収集された所で、平成8年に親族に渡された。ここで青森からご参加の姉妹の追悼式を行った。最近DNA鑑定でお遺骨が返還されているが、この時点では未だ55000人中、150人しか身元が判明していなかったと記憶する。

シベリア慰霊の旅11

2007-01-03 18:56:57 | シベリア抑留
2004年8月24日
ノーバヤ墓地で参加者中我々4人の追悼式を済ませホテルへ帰る前に、チタ第2墓地に寄った。チタ市周辺には5つの日本人墓地があるそうだが、ここは市の北側、幹線道路を入り車でゆっくり6分進む、地元の大きな墓地の中にある。
遺骨収集が済み、慰霊碑も何も無いのは寂しく、ささやかな印が欲しい。遺骨を持ち帰れば良いと言うものではないと思う、白い杭で囲った広いスペースだが地元の墓が侵入している、元もと墓枠だったコンクリートに「26」などと書かれた残骸が転がっていたが、集骨後のあり方に大変疑問を感じビデオ撮影していて涙が出た。
次にチタ市内慰霊碑へ行った。ここはチタ市の中心地。「シベリア出兵の日本軍戦死者の碑」(1920年建立)とその少し後方にヤゴダ会・同徳台7期の方達のご尽力で建てられた斬新なデザインの立派な慰霊碑がある。(写真)
慰霊碑の周辺にはビールの空き瓶など捨てられていて、清掃や管理に問題がある。ここは日本人が1000人以上亡くなった大きな墓地跡地。
ヤゴダ会会長の藤井さんは夏季チタ市にロングステーされ、週1回ここの掃除をされている。本当にご苦労様です。抑留経験者も既に年金生活者になり、今後の管理費が問題で、昨年8月11日当地を台風が襲い、慰霊碑の左後ろの松の木が折れた。
藤井さんの帰国報告によると「祈念碑を建立して10周年を迎え、その清掃と管理が懸案で長年各方面と折衝して来たが、この度西隣の法律大学と地区政府との出資で敷地3千平方メートルの周囲に鉄柵を廻らし、昼間は解放夜間は閉鎖、今後同大学が清掃と管理を担当、聖なる場所として末永く保全され清潔と尊厳を保ち得る事となった」との事である。

シベリア慰霊の旅10

2007-01-02 17:12:17 | シベリア抑留
この会は、ロシアがあまりにも広いので例えば慰霊・墓参訪問にしてもゲイトウエーがモスクワ・イルクーツク・ハバロフスク・ナホトカとあるように、一つには纏められない。
そのハバロフスクから2000キロ西、イルクーツクの1000キロ東にあるチタを説明すると、チタ州の広さは日本より広い、31地区、10市、45村から構成され、人口は130万人。
その州都チタ市は、北緯52度、東経113度、人口35万人、褐炭と水に恵まれた工業都市、古くはコサックの拠点、デカプリストたちの流刑地。
愛知県知多市とは姉妹都市の関係とか。

謹賀新年

2007-01-01 18:31:21 | シベリア抑留
年頭に当り皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
昨年6月父の居たシャフタマ収容所の2度目の埋葬地調査を厚生労働省により行っ
て頂きましたが、結果は出ませんでした。
今年も諦めず情報を収集し頑張ります。
「東京ヤゴダ会」と云う戦友会が父達抑留死亡者の為に墓参・慰霊碑建立・慰霊祭を続けて居られます。これまで行って頂いた事に感謝しつつ、これからは我々遺児で引き継ぐべく、「シベリア抑留死亡者チタ州遺児の会」を設立し、シベリア抑留問題の風化防止に努める所存です。
既に本日沢山の励ましの年賀状を頂きました、有りがとう御座います。