シベリア抑留死亡者遺児の会

父親をシベリア抑留で亡くした遺児の会。墓参・埋葬地調査・遺骨収集・慰霊碑の建立・慰霊祭の情報を交換し風化防止に努める。

シベリア慰霊巡拝(7)

2009-09-20 17:43:53 | シベリア抑留
2009年9月1日
午前中「ザバイカルホテル」で合同慰霊祭を行った。団長の追悼の辞は遺児・遺
族のこれまで63年間の気持ちを十分にご理解頂いた大変素晴らしいことばだ
った。
昼食はグルジア料理できのこ、スープ、パイなどめずらし料理で、しかも食べき
れない程沢山出た。
昼食後、中央慰霊公園を訪ねた。これは東京ヤゴダ会が建立したもので、僭越な
がら私が説明させて頂いた。ホームページの「慰霊碑1」をご覧下さい。
そこへ管理をお願いしている法律学校のナターリヤ・アレキサンドロ・シュリチ
ナ副学長が我々の訪問に気が付き出て来られ、しばらくお話をしました。綺麗に
清掃管理されている事に礼を言い、引き続き管理をよろしくとお願いすると、
「今日から学校が始まり生徒が登校して来たが綺麗に使うように伝えてあります
、勿論しっかり管理します」と約束して下さった。
9月1日は新学期の始まりで、頭に白いリボンを付けて両親に連れられた子供を
多く見かけた。
その後時間が残ったので郷土博物館(入場料外人R100,チタ州に居た動物、モン
ゴル、戦争、医学の収集展示)へ行った、そこで小学6年生が先生に引率されて
いる一団とすれ違った、「ニーハオ」と言うから、「我々は中国人ではなく日本
人だ」と言うと先生がびっくりし、興奮して生徒を集め一緒に写真を撮ると言う
国際交流ハプニングがあった。先生は今頃生徒にシベリア抑留に付いてどう教え
ているのだろうか?学校は小中高一貫性が多く、授業料無料、大学は有料の場合
もあるとか。少しホテルで休憩の後、11時過ぎにチタ駅に向い、到着が遅れ、
24:31発が02:40に出発した。ハバロフスクまで40時間の汽車旅。

シベリア慰霊巡拝(6)

2009-09-19 09:41:08 | シベリア抑留
2009年8月31日
ロシア語TVでおぼろげながら選挙の結果が分ってきた。鳩山由紀夫日露協会会長に我々の悩み、遅々として進まぬロシアに於ける遺骨収集を促進して頂きたいものである。
先ずザバイカル地方政府へ表敬訪問した。長く抑留問題に拘り多くの日本人を知っていると言う、ザイテキン氏のスピーチは日本の方が詳しい情報を持っているが、地元(埋葬地近くの)に聞いてくれとの事だった。
ランチはチタ市の北西部の新興住宅地に新しく出来たショッピングモール「マクシイー」の中の「桜」と言う日本料理店で食べた。このショッピングセンターには驚いた、ルイビトンこそないが、ブランド品がずらり、電気製品も大量に並び、外資系ファーストフード店など、誰が買うのかと心配になった。
昼間は暑く23度だった。
午後、カダラ墓地を訪れ、蚊の大群の中で追悼式を行った。最近ここの大隊長さんとお手紙の交換をしたが、やはり部隊が纏まっていたり、上官が立派な方の場合は遺骨収集にも繋がっているようだ。ここは平成14年295柱、15年28柱、17年58柱と公明党の力も借りて収集された。そして戦友会で募金を集め立派な慰霊碑を建立された。
夕飯は2年前泊った「ザバイカルホテル」のレストランで、本日で個人追悼式も終わったのでビールを呑んだ。「バルチカ」と言うブランドが人気が有る様で、度数によって⑩から①まで番号が付いて居る、値段は¥70(スーパー)-¥180(シベリア鉄道内)―¥300(ホテル)ぐらい。
その他ロシアではシャンペンが安くて美味しいが今回は呑む機会がなかった。グルジア料理を食べたがグルジアワインは遂に呑まなかったのはノンべーとしては残念。

シベリア鎮魂慰霊祭

2009-09-17 18:09:42 | シベリア抑留
11月3日は特別の日です。慰霊鎮魂の日です。
千鳥が淵墓苑へ集りましょう。
どうかご一緒にシベリア抑留犠牲者鎮魂慰霊祭を実行しませんか。
お誘い併せられましてご参加下さい。

集合    正午

式典    千鳥が淵墓苑拝礼所          12:30
 式典要領:国歌 黙祷 慰霊の言葉 読経 奉納演技
      (吟詠 謡曲 歌謡)献花 1,000円

懇親会   九段会館地下「千成」         15:00
 貸切 飲み放題 食い放題      4,000円

資料をお送り致しますので、メールにてご住所をお知らせ下さい。
返信用ハガキと会費振込の郵便振替用紙を同封致します。

             東京ヤゴダ会役員一同
 

シベリア慰霊巡拝(5)

2009-09-17 07:23:20 | シベリア抑留
8月30日、ボルジャからチタへ7時間の移動である。実質475KM走った。

8時に出発、隣町のハダブラクに寄る事となり、私にとってはそこで父上・兄上
を亡くされた方を3人知って居り、代わりに墓参出来た事は大変幸運だった。

シエルロバーヤムに着き、ガイド(観光地でもあるまいし)を拾い慰霊碑の立つ
丘へ向った。ガイド氏によると「100万トンのガレキの下にご英霊達の墓があ
る」と聞いて怒りにも似た、胸がキューンと引き締められる思いをした。

そこは松間さんから頂いた写真、慰霊碑調査団から頂いた写真、私のホームペー
ジとは食い違う点が多々あり、それは何故だか解せない。菊地さんはこれまでに
此処へ3回来られ、今年6月にも訪れられて新しいた塔婆が有った。
481名と大変多くの犠牲者を出した所、シルロバーヤムの街、かっての東清鉄
道で満州からシベリア鉄道に繋がる鉄道や幹線道路が見下ろされる丘の上で、途
中野原で摘んだ花と折鶴を供え拝んで来た。

今硫黄島で滑走路の下の遺骨収集が問題になって居る。何百トンでも掘り返せ、
広ければ膨大な人数を投入して探せ、シベリアが広いのは万人が知るところだ。

3時過ぎにノーバヤ(日本遺族会の巡拝で大元さんと私の慰霊祭をした墓地)に
着き、そこでお二人の追悼式を行ったが、実際はモルドイ(3020、ここから
300KM)で兄を亡くされた方と、ベルフナリム(3008、3009)で父上
を亡くされた方の追悼式。

ベルフナリムはこのBLOGにコメントを入れて頂いたシンンガーソングライター
のYAMATOさんが、明年伯父上の巡礼を予定されている所である。我々のバ
スは少しでも近くまでと、途中10KMほど南下した。

チタのホテルには6時に着いた。

シベリア慰霊巡拝(4)

2009-09-16 18:10:27 | シベリア抑留
2009年8月29日、今朝は快晴、+3度ぐらいとドライバー氏
9時に出発しボルジャには2時ごろ到着予定との事だったが、ショートカット路
をある時は川の中、急勾配ではないが峠越え、小休止でお供えの花を摘みながら
212KM走り、1時過ぎにボルジャ市役所に到着した。
ボルジャに付いて簡単に説明すると、満州(現在の中国東北部)のハルピンから
シベリア鉄道のチタへ鉄道が走っている(昔の東清鉄道)途中満州里は中国側、
国境を越えた所のロシアのボルジャである。日本人抑留者の拉致されたコースで
である。今回の参加者の父君はこのコースの入ソが多かった。私も最短コースな
ので始めはこのコースを調べたが未だジーゼルなので時間が掛かる。私の父の入
ソコースは、ここより西の、黒河―ブラゴエシチンスクからで、総抑留者の3分
の2がこのコースから入ソした。
中国に近く、モンゴルにも近い、ブリアート人の故郷とか町を歩く人はババロフ
スクとは違う。レストランの料理も中国の影響があった。
そこからは市役所の方の案内で、ランチの後、第1940野戦病院(戦争もしな
いのに野戦とは?)の跡地で、現在もそのまま内装を変えただけの博物館になっ
て居り見学した。第1942野戦病院で父上を亡くされた方が壁や柱を撫ぜて歩
かれていて鬼の目から涙、第1942病院の方は何処に有ったかも分らないと
の事、又日本人のものであろう「神田」と名前が記された鉄兜が展示されていた。
訪問者記帳をすることになりページを捲っていたら3年前にここに来られた、私
の遺児仲間,ベルフナリムで父上を亡くされた立川さんのサインが見付った。
それから埋葬地での慰霊祭に向ったが、大変広い場所で全く何処だか分らないと
の事、病院は駅の近くで如何してこんなに離れた場所に・・・と不思議でならない。
帰り道で日本人が作った学校を見たが完成は日本人の帰った後との事だった。

シベリア慰霊巡拝(3)

2009-09-15 10:54:27 | シベリア抑留
2009年8月28日、
バレイ墓地での慰霊祭を済ませて市役所に帰ってきたらお昼になった。
そこからはベルーハでお父上を亡くされた4人の方だけが行かれる事となった、
此処から先は狭い悪路を2時間以上掛かるので、特別の車が用意せれ団長、通訳
の6人で向われ、我々他の者はホテルに帰った。
ベルーハは過去に2度遺骨収集が行われ、来月早々に3度目の収集が行われると
の事、私はシベリア抑留帰還者の大内様が何度目かに参加されて、その埋葬地の
お話は聞いていたが、全員で行って追悼式が出来ないのは大変残念だった。
6時半に6人が帰って来られた、本当にお疲れ様でした。その報告によると大変
狭い・悪路で、車の中で空中遊泳の様だったとか、以前焼骨した場所からは車も
入れず、3-400M歩いたとの事だった。
捕虜はそこまで歩かされたのだろうかと皆で話した。

バレイのホテル「サナトリュウム・ウルグチャン」に我々3泊したが、温泉が有
るとかだったが、最初の夜はお湯も出ず、昨晩やっとシャワーを浴びたが、日本
で言う湯治場か、随分遠方からお客さんが来るとか。
前回泊ったバレイ市内の電力会社の寮よりは少し良いが食事がお粗末だった。

シベリア慰霊巡拝(2)

2009-09-14 16:49:14 | シベリア抑留
2009年8月28日、
今日はバレイ(第25収容所第5支部 163名死亡)への慰霊巡拝である。
朝大変な気温で零下3度、未だ8月なのに・・・9月始めに雪が降った事がある
とは聞いているが、近年流行の異常気象ではない、父達抑留者を悩ませた寒さの
片鱗を感じる事が出来た。
バレイには6年前に息子と来て、此処に2泊し父の埋葬地調査をした。その時の
模様は、ホームページの「慰霊碑17」で取り上げている。
http://www3.plala.or.jp/naga0607/r17.htm

ホテルから約40KM、35分でバレイ市役所に到着、副市長と面談、金鉱山の
ある町(日本の抑留者もその金山で働かされた)で市役所も立派、珍しく綺麗な
トイレが使えた。

6年前に泊まったホテルの直ぐ裏が市役所で、近くにバザールも有ったのは知ら
なかった。あの時は怖くて深夜まで外から音楽が聞こえていたが外出はしなかった。

市役所から墓地まで悪路を15分、此処を訪ねるのも2度目。前回はゴミ捨て場
で牧畜の糞が有ったので、帰国後厚生労働省へ「遺族の心情を考えてあそこは見
せない方が良い」と手紙を出したものである。しかし今回は草が伸びてその様な
事は感じなかったのは幸いであった。雑草の中で咲く花を皆でお供えする花に摘
み取った。国や気温は違えども日本の七草と同じだったので、毎日の様にバス移
動中の休憩時にこのように野花を摘み取ってお供えした。

姉妹でご参加の方の追悼式を行った、満州からの引揚げで大変ご苦労されたと聞く。


ソ連抑留中死亡者慰霊巡拝団に参加して(1)

2009-09-13 11:24:18 | シベリア抑留
政府派遣 ソ連抑留中死亡者慰霊巡拝団 平成21年度のザバイカル
地方コースに参加した。
期間は8月24日から9月4日
詳細旅程は http://www.mhlw.go.jp/za/0810/c06/c06.pdf の
別紙6をご参照下さい。

13日間に10箇所の埋葬地又は慰霊碑を訪れる慰霊巡拝の旅でした。
シベリア鉄道73時間、車中3泊、総勢15名で思い出に残る、父達へ
の慰霊の旅でした。
先ず最初に5日目の8月27日、私の父達56名の死没地ベルシーナ・
シャフトム村(通称。帰還兵の方はシャフタマと呼ばれる)を訪れた。
そこで厚生労働大臣の献花のもと、政府派遣巡拝団、総勢15名による
追悼式を行って頂けた事に対し大変感謝致して居ります。
恐らくこれが最初で最後かと思われますが、厚生労働省・国のこの様な
僻地への巡拝のご配慮・お手配に対して厚く御礼申し上げます。

この埋葬地は未だ埋葬場所が特定出来ず遺骨収集に至って居りません。
収容所の向かい側の小高い丘の中腹、樹木の生育以外64年間手付かず
の白樺林、幅300メートル、高さ50メートルの範囲内に父達は必ず
眠って居ります。
それだけに私も諦めが付かず、今回が3回目の訪問です。
今回は調査など出来ず、慰霊巡拝でしたが、村長に会え、顔つなぎが出
来て、調査続行に対しての協力を依頼出来た事で大変有意義な訪問でした。

出来たら訪問した埋葬地を写真入りでアップしたいと思います。